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2018年11月30日

金曜特集 「サトジュンの灯台お遍路旅2」



今日は11月第5金曜日。ゲストライターさんに登場いただく、スペシャルウィークです。今回は先日、「サトジュンのお遍路灯台お遍路旅」として華々しくATALASにデビューした、灯台マニア・サトジュンさん@お遍路派のまさかの2回目!。
今回、サトジュンが語る灯台ネタは、待ちに待ってた出番が来たぜ~吾らが平安名埼灯台です。それではどーぞー!。

※     ※     ※     ※     ※

『サトジュンの灯台旅』 (平安名埼灯台@沖縄県宮古島市)

灯台ファンで、自称・お遍路派(巡礼だけでウンチク知らず)の私が、灯台マニアの視点から憧れの平安名埼灯台のご紹介を。

沖縄に縁の無かった私が、宮古島に行くきっかけとなったのは宮古島に住む友人が放った、
「池間大橋を渡ったら、美しさに感動して軽く死ねるよ」のひと言。

伊良部大橋の開通イベントに合わせての来島だったので、翌日は伊良部島へ渡る最終日のフェリーにもちゃっかり乗船出来たし、衝撃の飲み物ピンクい「げんまい」なるものをいただき、佐良浜漁港も堪能。
灯台とはあまり関係無いけれど、初めての沖縄・宮古島にかなり興奮。

初めての宮古島は時期的にも生憎の雨模様だったけど、多分灯台に着いた時には雨が上がっていたと思う。
灯台を目指し、その灯台が見えてきた瞬間が何よりも興奮を覚えるのだけれど、平安名埼灯台も見えた瞬間に心が躍り始めた。
岬に入る前手前の道から見えてくる、小さく見える白い灯台。 ドラマチックだ。

【左 1967(昭和42)年の初点のプレート】 【右 入口に掲げられている、1983(昭和53)年の改修時のプレート】

灯塔は観音埼灯台と同じく八角柱。
六角柱や八角柱は大正に建てられた灯台に多いらしいが、この灯台は昭和に建てられた。
1976(昭和42)年の初点当初は、琉球政府の管理する「東平安名埼灯台」だったが、本土復帰時に海上保安庁に引き継がれ、「平安名埼灯台」へと改名された、沖縄ならではの歴史ある灯台。
(詳しくは、「んなま to んきゃーん」第33回「灯台の碑」を参照されたい)
琉球政府の名残は、灯台に入って直ぐ右側の壁にある記念銘板(初点プレート)から察することが出来る。「東」の黒い色が消されているのだ。

平安名埼灯台の魅力は、青い海とのコントラストと、南の果てを彷彿させるダイナミックな景色。上がれば下の岩礁がよく見え、岬の入口の高台から見ても美しい岬の先に佇む灯台が最高に絵になる。よく晴れた日の限定だが、マニア的には灯台のシルエットも要チェックだろう。

【左 白レンズ(燈室中から)】【中 赤レンズ(バルコニーより)】 【右 レンズの真下】

灯台内部は他の灯台と同じく螺旋階段になっている。 古い灯台の場合はその灯台の中心に「分銅筒」と呼ばれる空洞の柱がある。
これには、かつてはレンズを回すための巻き上げ装置に繋がる重り(分銅)が入っていた。
昭和42年から点灯開始となると初めから電化されていたのか、分銅筒はなく、レンズ下の空間が広くなっている。
巻き上げ装置については、千葉の犬吠埼灯台の資料館に展示されているものがあるので機会があれば見ていただきたい。

レンズは下から覗くことになるが、見やすい位置にある。設置されているレンズは、フレネルレンズではなくサーチライト的なLU-M型。 
残波岬灯台や和歌山の友ヶ島灯台と同じ灯器で、これはこれで迫力がある。

現在の灯台はどこも光を感知するセンサーが設置されていて、陽が落ちると点灯を開始、陽が昇ると眠りにつくのだけど、宮古島は日の出が本州より遅いため、ちょっと早く起きれば20秒ごとに赤と白が交互に光る灯台と一緒に、ご来光を拝むことも出来る。
霧や湿度がある夜は、真っ直ぐに光芒が伸びているのが見えて益々カッコ良い。
もちろん夕陽で白い灯塔が染まる姿もロマンチックであることは言うまでも無い。

【左 城辺郵便局の風景印】 【中 灯台脇の三角点】 【右 城辺地区の農漁業集落排水マンホール】

また灯台から降りた後も、灯台ファンとしては色々と忙しい。 
灯台周辺の地区においては、城辺郵便局の平安名埼灯台の風景印や、灯台がデザインされたマンホール蓋などもある(Google Street View)。

この灯台で、わたし的に気になるのは、バルコニーを支えている補強なのか、バルコニーすぐ下のあたり、灯台内側の縦に長い白い物体が幾つかある。これが一体何なのか?(単なる補強か?)
それと入口の上、現初点プレート上の塗りつぶした跡。
昔の、入り口の内側にあるプレートが元々あった場所なのか?。
お遍路派なので、敢えて謎は解明しないけど。

ちなみに訪問直後、今年の初めに改修工事を行っているため、灯台からの眺望が変わっている模様。灯台内部も改装が入ると聞いたので、もしかしたらプレートの位置が変わっているかもしれない。

それでは何処かの灯台でお会いしましょう。
『参観灯台への心がまえ』
一、灯台内にトイレやエレベーターはなし。
  事前にきっちり用は済ませ、階段を登る体力を温存しておきましょう。
一、小銭で200円を用意しておくべし。
  参観灯台は寄付金で成り立っています。釣銭のいらぬよう努めましょう。
一、記念スタンプも楽しむべし。
  スタンプ蒐集家でなくとも、訪問の記念になるのでスタンプは押しましょう。
「サトジュンの灯台お遍路旅」
観音埼灯台@神奈川県横須賀市(2018年10月30日)  続きを読む


Posted by atalas at 12:00Comments(0)金曜特集 特別編

2018年11月27日

第210回 「長立井戸開掘紀念碑」



地味だ地道だ人気がないと、絶賛、低空飛行が売りの井戸にまつわる碑シリーズがまたしても続いておりますが、動じずに続けてまいりますので、なにとぞご愛顧のほどをなんとかお願いいたします。さてさて、今回ご紹介する石碑は、上野は新里の長立(たがたて)にある井戸の石碑です。
先週に引き続き地名の話から広がります。というのも、長立もまた地域名だからなのです。

上野地区の南東側を占める大字「新里」。今でこそ“しんざと”と呼んでいますが、少し前までは“あらさと”の読みが一般的だったようです。歴史の中で新しく村建てされた、「新しい里」として誕生したのが、“あらさと”です。かつては新里小学校(現在は市営新里団地)が最初に作られた集落でもあります(第15回「上野村教育発祥之地」)。
その新里小学校は1908(明治41)年に、新里の北方、現在の場所へ移転します(現在の上野小学校の校地となる住所は、新里ではなく野原)。

学校の話からスタートたので、新里の話なのですが、野原の南端域にあたる豊原にも触れておきます。上野小はこの豊原にあり、先週の千代田と同じように、野原から分字した行政集落となっています。道を挟んである上野中学校は新里に位置しており、この他にもJAおきなわ上野支所など施設が集まっており、新里北部・野馳南部の中心地を形成しています。

このうち、新里の北部域は「高田」と呼ばれる行政集落となり、高田駐在所、高田公民館、高田団地などがあります。極めつけは歌まである「高田青年団」でしょうか(第26回「高田青年団歌」)。

そんな高田の字域を南北に横断している、県道190線(新里線)の東半分(中学校側)を「長立」と呼んでいます。ようやく本日の主役である「長立」が登場しました。実は高田公民館前にある新里線のバス停は、「長立」を名乗っており、なんとなく微妙な問題を含んでいるようにも見えますが、とりあえず気付かなかったことにしておきます。

さて、この長立ですが、住所表示的な本名ではありません。
住居表示的な呼び方をすると、ちょとややこしくなるのですが、長立の小字は前花切とか、安谷原と云います。ちなみに隣の野原は豊原も、本名(小字)は花切原と云います。

賢明な読者はもうお判りと思いますが、「花切」というと新里から丘脈を隔てた東側、城辺は下里添(下区とか下南と呼ばれていたあたり)の友利線(県道201号)沿いの集落をイメージするのではないでしょうか。確かにこちらも花切で、小字では東花切、西花切という小字になります(東花切には、福里小学校の下里添分教場から、単独化した花桐尋常小学校が作られ、後の砂川小となりました)。

丘脈の上と下や、大字の境界で、同じ系統の字名を名乗っていることは、ある意味では「宮古あるある」であり、その小字を名乗れた勝者(戦ったわけではないでしょうが、花切では下里添が勝者)を除き、その他の地域は行政集落を作り、地域名や通称で呼ばれるようになり、長立や豊原と呼ばれることになります(顕著な例としては更竹。下里添の上区、長間の長南、西里添の吉田は、すべて更竹系の小字で、更竹を名乗れたのは平良の東仲宗根添が勝ち取りました 第160回「清泉(長南西更竹)」)。これはこれでうまく区別されて運用され来ているようです。

さて、ひと通り地名関連をやりきったので、次に参りましょう。
長立の集落です。戸数もさほど多くなく、集落の公民館も取り壊されて長立農村公園となっています(高田側の東青原や西青原も、すでに公民館は取り壊され、公園化されている。第176回「大昭井戸開掘紀念碑」)。こうなると当然、集落の祭祀なども神役が不足し、長立では集落の役員が代行して執り行う簡易的なものに変化しています。この界隈は小さな里がいくつも寄り集まった地域なのと、地域中心施設として上野の農協が位置していることもあり、集落に商店すらない限界集落でありながらも共同体が成立しています。

井戸は公民館跡である公園から東に少し行った木立の中にあります。水道設備が整った現在は井戸は使われておらず、掘り抜きの井戸はコンクリートの分厚い蓋が閉められています。その井戸の後方に「開掘紀念碑」があります。

石碑の正面は「長立井戸 開掘紀念碑」と碑文が記され、残る3面に井戸にまつわる情報が刻まれていました。
右側面には起工と竣工の年月日があります。「起工 昭和四年旧八月二日 竣工 昭和七年旧三月廿日 丙辰ノ日」とありました。この井戸、掘削してから実に2年半以上もかかって完成しています。大正から昭和にかけて掘られた東青原の「大昭井戸」の掘削期間は400日(1年ちょっと)ですから、ずいぶんと時間がかかっています。
左側面には発掘人として3名の名前が、裏面には発起人として20名の名前が刻まれており、長立の井戸はこの3名によって掘られたようです。2年半もお疲れ様でした。
ここに刻まれた名前の一覧を眺めて、ちょっと気になったのは、狩俣姓、宮良姓、小録姓が多いこと。狩俣はまだ、宮古島北部域のイメージですが、宮良は石垣、小録は本島(那覇)にそれぞれ多い姓なので、かつて移住してきた系統が根付いている地域なのかもしれません(村建てまでは調べ切れませんでした)。

実はもうひとつこの長立には気になる井戸があります。場所は中学校の裏手で、長立の里御獄との間。
畑の中にコンクリートで仕切られた、怪しい岩がぽつんとあります。近づいてよくよく眺めてみると、岩で蓋をした掘り抜きの井戸でした。しかも、ほぼ畑の土に埋まった井戸のフチに、何かが書かれていることに気付いて、素手で可能な限り土を取り除いてみたら、辛うじて「水」と「昭」の文字が読み取れました。この井戸の開鑿日でしょうか、これは移植コテを持って、再訪せねばならない気がしていますが、未だ実現していません(宿題)。
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2018年11月23日

Vol.31 「ノビル」



ここのところ、暖かな日が続いている。
そんな中、サトウキビは、ばらん(穂)を咲かせ始めた。冬は確実に近くまできているようだ。

先月、小さな かふつ(家の敷地内の畑)に、ミニトマトや春菊、ネギの苗を少しばかり植えた。
暖かいせいか成長が早く、ミニトマトには実が生り始めた。
そのそばでは、ノビルがツンツンと細い葉を伸ばしている。ノビルは春のイメージだが、宮古では11月~12月ごろ出始める。

4年半前、東京から宮古に帰ってきた。
実家の近くに住み、周りをよくウォーキングした。ある日、キビ畑でノビルを見つけた。長いこと見たことも食したこともないノビル。あまりの懐かしさに近くの牛小屋にいたお兄さんにもらっていいか聞き、畑に入り採った。

帰る道すがら50年以上前の幼稚園の頃が蘇ってきた。
幼稚園は、家から1キロくらい離れた公民館。幼馴染みのT子と一緒に歩いて通った(当時、親の送り迎えはなかった。遠くても子どもだけで通ったのだよ)。幼稚園までの道のりは、季節ごとにいろいろな楽しみがあった。
特に帰りは、♪いーとーまきまき、いーとーまきまき と二人で歌い、野イチゴ、バンチキロー、桑の実、サトウキビ(運搬しているトラックから落ちたのを見つけた時の喜びと言ったら。笑)など採って食べながら、のんびり帰った。

そして、この時季はノビルだ。当時もキビ畑の中や傍に多く見られた。見つけるとかけより、たくさん採って帰るのだった(今思うと、なんとも渋い幼稚園児二人)。母も喜び、油みそにしたり、卵焼きに入れたり、みそ汁に入れたりした。香りがなんともいい。

子どもの頃は、いろいろな木や木の実、野草などがとても身近にあった。今また同じものに合うと、とてもうれしくなる。
幼い頃の自然とのふれあいは、大人になっても心を満たしてくれるものだとつくづく感じる。

これからしばらく、ノビルの味と香りを楽しむとしよう。  続きを読む


Posted by atalas at 12:00Comments(0)宮古島四季折々

2018年11月20日

第209回 「積間井鑿工紀念碑」



先に断っておきます。今回のタイトルはちょっと怪しいです。基本的に石碑の表面に記載されている文字をタイトルにあてているのですが、ぶっちゃけ、今回の石碑は劣化が激しくてそれがハッキリと判らないのです。そこで石碑の建立されている井戸の呼称と、最終的な類推からの判読を元に今回のタイトルを命名してみました。石碑の文字が綺麗に読むことの出来る時代の写真とか、出来たらいいのですけれど、ちょっとローカルすぎて見つけきれませんでした。もしも、そんな写真。スナップでもなんでもいいので、持っている方がいたら、ぜひとも見せてほしいものです。
あ、そうそう云い忘れていましたが、今回も毎度おなじみ、地味で地道な井戸の石碑シリーズとなっています。ついてこれる方だけついて来てくださいね。

さてさて。まずは石碑の場所ですが、地名地番的な表記をすると、大字上野字野原小字積間原となります。自治会(行政集落)としては千代田となり、その千代田部落集会場の一角にあります(野原から千代田が分字したのは明治の頃、1893年でした)。
集会場のそばで豪快に茂っている木々やクワズイモの中に井戸があり、石碑はその脇に建てられていますが、集会場の広場部分を嵩上げしたのか、土地改良されたからなのか、井戸は一段低い枠の中にあり、石碑もその枠と同居するような形で佇んでいます。

井戸の名は史料によると積間井(ツンマーガー)と呼ばれているようですが、この井戸のある場所は上野は野原(千代田)の積間原なのです。これが実は少しばかりややここしいことになっています。というのも、千代田の西は下地。ついでに書いておくと北は平良と旧市町村境に面しているのです。
この積間原の西には県道190号が走っており、西ツンマー、東ツンマーというバス停すらあるのですが、こちらの積間(ツンマー)は県道の西側に広がる、旧下地町の川満に属している積間(東積間、西積間がある)のこと。もちろん、地域にはちゃんと立派な積間御獄もあるのですが、なんと上野の積間原にもツンマー御獄があったりします。上野は下地から分村(1948年)したからじゃないの?とおっしゃる方もいると思われるので、言及しておくと、東積間、西積間は大字川満であり、積間原は大字野原なので、そもそもの所属する大字からして異なるので、分村では片づけられないのです。ただ、まあ、推測でいえば野原の方は、積間の“原”なので、積間集落の耕作地だったかもしれないという可能性はあります(真偽は不明)。

【左 千代田部落集会場 狭いながらも機能的な作りになっています。井戸は建物左手にあります】 【旧千代田カントリー。現在は自衛隊施設の工事中です。正面のあたりが、ちょうど船底アブがあったあたりと見られます】

ややこしさついで付け加えておくと、川満の積間には高千穂公民館(西積間)というのがあります。この高千穂は野原の千代田同様に、地域呼称(行政集落)として名づけられた比較的新い地名です。川満の東側の地域に位置する、マクソコ(幕底)、カツラ嶺(風嶺≒カザンミ)、西積間、東積間、ツンフグ界隈を呼びます。この地域は下地地内でありながらも、与那覇湾沿いを通る下地線(国道390号)に面していないため、公共交通としては下地のバスではなく、上野バス(県道190号は宮国線や新里線のルートにあたる)の恩恵を受けているのだそうです(現在はどちらも宮古協栄バスに合併してしまている)。

千代田は東京都千代田区に匹敵するくらいの集落になりたいから、高千穂は天孫降臨の神々しいイメージを拝借してと、なかなかに話の大きいネーミングをするあたりは、宮古の人っぽい感じがしてとても面白いです。こうしたことを踏まえると、この地域は比較的新しく集落なのだろうというところに帰結しますが、それでも明治時代なので100年以上は経過していることになります。

そろそろ井戸廻りに話を戻しましょう。
まずは井戸ですが、千代田集落にある「積間井」であることは、史料からもはっきりしているのですが、古びたボロボロの碑面は、書いてある文字を判読することが不能です。ただ、文字のある部分は上を屋根型に切り込み、一段凹んだ飾りで囲んだ中に書かれておりも意匠をこらしていることが判ります。そこに残った文字(のようなもの)に、「積間」などの字へ繋がるような雰囲気がまるでなく、ちょっと途方に暮れそうになっていたら、石碑の側面にひらがなで「つんま~」っと薄っすらと刻まれていることに気づきました。ただ、残念ながら嵩上げの枠に隠れてしまい、すべての文字を確認することは出来ませんでしたが、ひとつ謎を解くことが出来ました。
また、「つみま~」と書かれていた逆の側面には、「大正十二年六月●鑿」(●は文字がないかもしれないが読めない)と、どうやら井戸を掘った時の情報が書かれていました。

【野原集落内にある、「鑿工紀念碑」と書かれた、「申の井」と思われる、第46回で紹介した井戸】

ここでハタと閃きました。ひらがなの井戸名、開鑿年(しかも大正年間)、そして正面の屋根型の切り込み。この組み合わせをどこかで見た気がすると。答えはすぐ近くの野原にありました。それは何度か紆余曲折を経て正解に近づいた、第46回の「鑿工紀念碑(野原)」の井戸の碑です。
こちらは大正14年の開鑿で、多少の差異はありますが、雰囲気がよく似ています。積間井のボロボロの碑面に残る、「井」の字に引っ張られていましたが、「工」の字の剥がれたものと見ると、野原の石碑と同じようにと「鑿工紀念碑」と読めてくる気がしました。もしかすると積間井の碑を参考にして、野原の井戸の碑は建てられたのかもしれません。

在沖千代田郷友会「記念誌」(1988年)に書かれている昭和11年頃の積間井は、松林の端にあったようで、道を挟んだ旧・千代田カントリーのあたりは船底アブという自然洞穴があり、大雨の時などは雨水が流れ込んでいたようです(ゴルフ場になったあともアブの跡のような窪地が地形図から見て取れます)。

積間原のもう少し南方のナベアマ原(ナベ山)には、第162回で紹介した「鍋阿間井戸」がありますが、さらにその先となる、千代田ハイツ(新興住宅地)の一角に、階段を20段も降りるような降り井が、かつてはあったと郷友会の「記念誌」に紹介されていました。現在、その場所は道路拡張や耕地整理などで降り井は埋め立てられ、痕跡のみが残されているようなのです。しかも、その痕跡というのが、繁茂した草木によってその深さも定かでない窪地であり、柵もなにもないまま道路の角に開いた、怪しい謎の空間を作っているのです。今のところこの井戸の現在の姿を確認することは出来ていませんが、いつの日か明らかにしてみたいと思います(実は記念誌にも井戸の名前がなく判っていません)。

【左 千代田ハイツの一角にあった降り井の痕跡。今もそれなりの深さがあります】 【千代田部落集会場の前にある、ガジュマルに咥えこまれてしまった石碑】

最後にもうひとつ、オマケ。千代田部落集会場の入口にガジュマルが一本あります。
その木の根元近くに「建設記念碑」「昭和六十年十月」と掘り込まれた石碑があるのですが、ガジュマルが石碑をしっかりと咥えこんでしまい、定期的に幹を削って碑が見えるよう、“開鑿”しているらしいのですが、この碑はいったいなにが建設されたことを記念しているのでしょうか。おそらくは集会場だと思われますが、残念ながら記念誌にも特筆はされておらず定かではありません。  続きを読む


2018年11月16日

第7回 「下川凹天の弟子 森比呂志の巻 その5」



平成も終わりだというのに、明治、大正、昭和にハマっています。宮国です。
今回は、昭和初期の漫画物語に移ります。

凹天や、新しい世代にとって、1926年8月月の「日本漫畫家聯盟」や1932年5月の「新漫畫派集団」が発足したことは、自分たちの漫画を世の中に広めるうえで、大きな前進だったのだと思います。宮古では、1927年2月に慶世村恒任(きよむら・こうにん)が宮古初の歴史書といわれる『宮古史傳(宮古史伝)』を世に出した時期でした。

凹天の高弟のひとり、森比呂志(もり ひろし)の記述を中心に追いながら、漫画家たちの人間関係やグループでの活動を見ていきます。自由闊達な「日本漫畫家聯盟」(1926年)から、戦争加担への「日本漫畫報公會」(1943年)までのほぼ15年間。この時期は、「MANGA」と呼ばれ、今や世界共通語になっている「漫画」が、日本で独自の変化を遂げていく萌芽を感じさせます。 

さて、まずは宮古出身の私としては、慶世村恒任の出た『宮古史傳(宮古史伝)』1927年に焦点を当ててみたいと思います。その年は、昭和金融恐慌に翻弄されていました。第一次世界大戦中の好景気から、一転して1920年の戦後不況、1923年の関東大震災のダメージが抜けきれないままでした。震災手形が膨大な不良債権化していたためともいわれています。

それでも、世の中は、モガ・モボやマルクスボーイが闊歩し、わりと自由でした。勿論、その後に比べればの話ですが・・・。「円本」と呼ばれる一冊1円の全巻予約制、月一冊配本の『現代日本文学全集』が始まった頃でもありました。これが空前の大ブーム。また、奇しくも芥川龍之介(あくたがわ りゅうのすけ)が何度も自殺未遂を繰り返した末、最期に睡眠薬自殺をした年でもありました。

ところで、この年に生まれた人たちは、どうだったのでしょう。実は、戦後日本のオピニオンリーダーのような人たちでした。例えば、『苦海浄土(くがいじょうど)』の石牟礼道子(いしむれ みちこ)、「ねむの木」で有名な宮城まり子(みやぎ まりこ)、セゾングループの堤清二(つつみ せいじ)、国連難民高等弁務官を務めた緒方貞子(おがた さだこ)、時代小説の藤沢周平(ふじさわ しゅうへい)という面々です。少し古いけど、1971年の昭和生まれの私には馴染み深い名前ばかりです。

そして、上海では蒋介石(しょう かいせき)が反共クーデター(四・一二事件)を起こした年。他方で、初の女性博士として保井コノに(やすい この)理学博士号が与えられるという記念すべき年でもありました。
他にも、日本ビクターが設立され、寛永寺の除夜の鐘が、初めてラジオ中継放送されました。混乱といえども、新しい幕開けのような年でもあったのです。
 こんにちは、一番座より片岡慎泰です。

 森比呂志が、北澤楽天(きたざわ らくてん)のクロッキー教室や、凹天の「彗星会(すいせいかい)」で腕を磨き始めたのには、徴兵検査で丙種不合格になったことも影響したとも考えられます。それは子どもの頃に中耳炎になり、軽い難聴になったためでした。

 この頃、岡本一平(おかもと いっぺい)が音頭をとり、凹天や麻生豊(あそう ゆたか)、宍戸左行(ししど さこう)、在田稠(ありた しげし)、柳瀬正夢(やなせ まさむ)を発起人として、「日本漫畫家聯盟」が発足(1926年)。すぐに、森比呂志はここに所属。師匠の凹天は、組織部委員長を務めました。組織部委員には、小野佐世男(おの させお)、教育部委員長には、柳瀬正夢(やなせ まさむ)。教育部委員には、須山計一(すやま けいいち)。また、村山和義(むらやま ともよし 1901年~1977年)、まつやまふみおこと松山文雄(まつやま ふみお)など多士済々のメンバーが集まりました。凹天は、1927年1月号『ユウモア』で「夢の宮古島よ! 可愛い/\日本漫畫家聯盟よ!」と記しています。

銀座松屋
 翌年、日本漫畫家聯盟にとって最初の催しが、開かれました。催しはふたつ。ひとつは、銀座の松屋で漫画の展覧会。もうひとつは、讀賣講堂での演劇。長谷川如是閑(はせがわ にょぜかん)の劇作『馬鹿殿評定』(1925年)。ここで、我らが凹天も登場。紙をもってセリフを読み上げるだけでしたが・・・。

 日本漫畫家聯盟は、いくつか催しをしますが、プロレタリア漫画に流れる漫画家が増え、すぐに、ほとんど組織としての活動停止。最終的には「日本漫畫奉公會」(1942年) の成立とともに自然消滅。

 もうひとつ、忘れてならないのは「一平塾」の存在です。これは、宮尾しげを(みやお しげお)が一平の弟子第1号となり、『東京毎夕新聞』に『団子串助漫遊記』などを連載し、人気が出た頃から始まります。宮尾しげをが脚光を浴びてくると、自然と一平の周りに人が集まり始め、一時は60名を超えた親睦団体でした。一平塾は成立期も消滅期もはっきりしないのですが、清水勲、湯本豪著『漫画と小説のはざまで 現代漫画の父・岡本一平』(文藝春秋、1994年)によると、1928年成立。

 親睦団体とはいえ、ここには、後に漫画界の重鎮となる近藤日出造(こんどう ひでぞう)、横山隆一(よこやま りゅういち)、杉浦幸雄(すぎうら ゆきお)、清水昆(しみず こん)などがいました。

 近藤日出造は、教育県といわれる長野県出身ならではの非常に実直な性格で、岡本一平の信頼を得て、『一平全集』(先進社、1929年~1930年)全15巻の刊行を任されるほどでした。そこで、一平の手法を学び、漫画の腕を磨きます。似顔絵の名手といわれ、戦後は、政治風刺漫画の第一人者に。戦後の1964年に「日本漫画家協会」が発足すると、初代理事長を務めます。横山隆一は、ナンセンス漫画の名手といわれ、早くから頭角を現し、「フクちゃん」というキャラクターを生み出します。杉浦幸雄は、東京美術学校の出身。いわゆる「江戸っ子」の典型のような人物でした。周りから鼻持ちならない奴と思われ、数々の衝突を起こしますが、後に反省。幸雄は、ユーモアかつエロマンガの申し子でした。森比呂志によれば、女を描かせたら、小野佐世男(おの させお)と双璧だとのこと。

【「近藤日出造の世界」(峯島正行 1984年)と、「杉浦幸雄のまんが本交遊録」(1978年)】

 さて、話は前後しますが、時代は新しい波を迎えることになります。
 1932年、当時ほぼ無名とはいえ、新進気鋭の新しい漫画家集団が誕生しました。名前は「新漫畫派集団」。

 結成時は、杉浦幸雄著『杉浦幸雄のまんが交遊録』(社団法人家の光、1977年)によれば、1932年5月末、峯島正行著『近藤日出造の世界』(青蛙房、1984年)によれば6月下旬とのこと。杉浦幸雄の家があった本郷菊坂で、近藤日出造や横山隆一などが集合。団体を芸術団体、商業団体、親睦団体にするか、そして団体名を何にするかで大激論。そして、この時、凹天の弟子だった黒沢はじめ(くろさわ はじめ)が、表の顔は商業団体、裏の顔は芸術団体ということで、場を収めます。後に、森比呂志と並び凹天の高弟だった石川進介(いしかわ しんすけ)も加わりました。

【「モガ・オン・パレード 小野佐世男とその時代」(2012年)】
 小野佐世男を入れる動きもありましたが、最年少とはいえ、「日本漫畫家聯盟」の会員だったので「小野を新漫画派集団に誘いたがったが、敷居が高かった。小野も、ぼくら新しいマンガ家たちの動きに惹(ひ)かれていたようだったが」と後に横山隆一が回顧(かいこ)しています。小野佐世男は、東京美術学校在学中から『東京パック』(第四次)に風刺漫画が載り、マンガ会に麒麟児(きりんじ)現る、と騒がれたほどの逸材でした。その後も、宇野千代(うの ちよ)が創刊した『スタイル』(1936年)の常連寄稿家となり、女性風俗を描き、東郷青児(とうごう せいじ)や北原武夫(きたはら たけお)などと親交。この関係は、その後、陸軍に徴用されてからも、続きます。

 同年には、北澤楽天門下生が集まり「三光漫畫スタヂオ」も結成されています。メンバーに、松下井知夫(まつした いちお)、西塔子朗(さいとう しろう)、小川哲男(おがわ てつお)、井崎一夫(いざき かずお)、根本進(ねもと すすむ)、志村つね平(しむら つねへい)、大野鯛三(おおの たいぞう)など。

 これには、時代背景も合わせて考える必要があります。ひとつは、当時の漫画が、芸術か、生業(なりわい)のためか。東京美術学校出身や東京美術学校を目指した者も多かっただけに、これは表現者にとって大問題。もうひとつは、漫画が個人で描くというより、楽天や岡本一平など、すでに有名になった漫画家の下に集まったグループで、新聞社や雑誌社から仕事を請け負う仕事だったためです。

 そこで、漫画で食えるためには、集団を作って、新聞社か雑誌社に所属するしかなかったのです。しかし、そこは、楽天や一平を中心とした「日本漫畫會」、そして凹天や豊を中心とした「日本漫畫家聯盟」など、すでに大御所が押さえていました。そうでなければ、漫画を新聞か雑誌に投稿するか「持ち込み」しかなかったのです。若手の「持ち込み」の辛さは、かの手塚治虫(てづか おさむ)も記録に残しています。このあたりは、良くも悪くも、現在の「日本記者クラブ」を思わせます。 

 新漫畫派集団が結成された翌年、森比呂志は、麻生豊と近藤日出造に銀座の富士アイスに呼ばれます。そこには新漫畫派集団に入っていない、これまた当時無名だった新進気鋭の漫画家たちが。そこで、ふたりから、新漫畫派集団に負けないよう、プロとしてスタートすることを進められます。凹天や宍戸左行も後押しするからとのお墨付き。

 森比呂志たちは「新鋭マンガグループ」という名の団体を作ります。創設期のメンバーは、村山しげる(むらやま しげる)、秋好馨(あきよし かおる)、杉征夫(すぎ まさお)、森熊猛(もりくま たけし)、南義郎(みなみ よしろう)、秋玲二(あき れいじ)、小泉四郎ないし紫郎(こいずみ しろう)など。

 すぐに、森比呂志は頭角を現し、また人脈もあって1935年に創刊した文藝春秋社『オール讀物號』漫画賞を受賞。

 新鋭マンガグループは、当時の銀座八丁目にあった九州ビルの三階に事務所をもちます。森比呂志は川崎から通勤。しかし、約2年でビルは焼失し、服部時計店の近くにある並木ビルに移動。そこで森比呂志は、喫茶店のマダムと恋に浸ったりします。

 その後、森比呂志は、森永キャラメルの内箱に昆虫漫画を描くことに。岡本一平が監修で、昆虫学者の石井悌(いしい てい)と佐々木邦(ささき くに)が顧問でした。メンバーには、近藤日出造、清水昆、横山隆一、杉浦幸雄、秋好馨など。

 グループに分かれたとはいえ、若手漫画家の離散集合が繰り返され、また当時、岡本一平の力が絶大だったことがうかがえます。 

 森比呂志は、昆虫漫画を描いた仲間たちと飲みに行き、最後に清水昆とふたりになったところで、遊郭へ。比呂志の方が美人の芸妓(げいぎ)にあたったと思ったら、淋病をもらうはめに。ちょうどその直前に、ピアニストと一夜の契りを結んだばかりでした。そこのことをピアニストに打ち明けらずにいると、相手から「貞操だけ頂いたら、あとは寄りつかないなんて絶交だわ」。すでに、森比呂志は、親にピアニストとの仲は打ち明けていたらしく、父親は当時の国分寺に新居まで建てていたと記しています。比呂志にとって公私とも暗い時代だったようです。「恋や仕事どころでない。三年苦しんだ」。そして、女性遍歴にもピリオドを打つことに。軍事色はますます色濃くなり、はやっていたのは岡本一平作詩の「とんとんとんからりと隣組」。

【とんとんとんからりんと隣組】

 1940年に、秋田本庄の綿屋出身で、身寄りが亡くなり東京に出てきた千恵子と結婚。それは、奇しくも森比呂志の師匠であった凹天が、二度目の妻なみをと一緒に暮らし始めたのと同時期でした。比呂志の妻千恵子は、初夜に森比呂志を「指も細く、女の人のような手」といいます。これには、石工職人だった森比呂志もびっくり。確かに、森比呂志は白魚のような手の持ち主だったようです。と同時に、当時の田舎暮らしの辛さが伝わってきます。実際に、自宅の防空壕掘りとかはすべて、千恵子が行っていました。

 翌1941年には、娘のやす子誕生。しかし、同年12月8日に、妻の千恵子が脳溢血で倒れ帰らぬ人に。森比呂志は「朝のラジオは真珠湾攻撃のニュースを流していた。号外が鈴の音もけたたましく日米開戦の報を叫びながら巷を走っていた。人々は、とうとうくるものがきた、と緊張した。そうして私の家にも衝撃的なことが起こったのである。妻が他界したのだ」と記しています。

 軍国主義は漫画界にも強い影響を及ぼしました。大衆とともに時流を享受していた時代は、あっという間に過ぎ去ります。画材も自由に手に入らない状況に危機感をもった「三光スタヂオ」代表の松下井知夫と西塔子朗、「新鋭マンガグループ」の南義郎と杉征夫が、1940年に銀座三丁目のオリエントで「新漫畫派集団」に乗り込む算段をします。彼らの不安は、軍部にとって大衆宣伝の道具としての漫画は強力で、そうすると一番目立つ「新漫畫派集団」一本に統制されてしまうのではないか。ひいては自分たちだけでなく新進の「漫畫突撃隊」、「国防漫畫隊」まで、排除されてしまうのではという危惧でした。その後、「新漫畫派集団」の事務所に入ります。すると、「集団側から近藤、杉浦の両君が気軽に話の聞き役になり、あとの連中は皆机に向って熱心に仕事をしている事務所内のムードが、私たちには不安な印象だったことが今でも思い出される」と松井井知夫は述懐しています。

 こうして誕生したのが「新漫畫家協會」。これが戦後の1964年に設立された「日本漫画家協会」の母体となるのです。

 1943年には「日本漫畫報公曾」が結成。会長は北澤楽天。顧問に岡本一平。副会長は田中比佐良(たなか ひさら)。理事長に麻生豊(あそう ゆたか)。凹天もその一員。プロの漫画家になったのが遅かった森比呂志にとって、それは突如として明治大正期の漫画家が続々とリターンしてきたような気がしたのではないでしょうか。実際、凹天や北山清太郎(きたやま せいたろう)と並び、日本の商業アニメーターの草分けである幸内純一(こううち じゅんいち)とも、初めて出会います。森比呂志は、幸内純一と大阪周辺にあった貝塚市の大日本紡績(現・ユニチカ)工場に慰問。一緒に軍事徴用された人びとの似顔絵を描きながら、森比呂志は幸内純一の作品を横目でみて、「その素描性、芸術性に、息をのんだ」「私の筆を持つ手はわなわなとふるえた」。

【なまくら刀[デジタル復元・最長版][白黒ポジ染色版] 幸内純一(1917年) 日本アニメーション映画クラシックス】  ※clickすると動画が再生されます

 他方で、「日本漫畫報公會」の長老支配に反発したグループは、近藤日出造を中心として、「大東亜漫畫研究所」や「報道漫畫研究會」を作ります。

 そのような戦時下の1944年6月、森比呂志は美容誌の仕事で銀座の並木通りに出かけますそこで出会った美容師の美代子と再婚。結婚式当日に、森比呂志は軍事教練があり、身体はキズだらけ。徴兵令で不合格になった民間人にも、軍事訓練をさせる非常事態の時代でした。帰宅した時には、すでに花嫁の輿入れが始まっていました。森比呂志は、すぐに国民服に着替えたものの、身体はへとへとで目はくぼんだまま。仕出し屋の弁当も貧しいもの。それでも、娘のやす子は「お嫁ちゃんがくるのよ」とはしゃいでいました。

 以上、一番座より、片岡がお届けしました。
漫画家たちがこうして巻き込まれていくなかで、我らが凹天は「ただひたすらに生きのびた」ともいえるでしょう。時代の寵児だった凹天が、国家にすり寄っていった様子がうかがえます。漫画を描きながら飯を食うためには、ほかに方法がなかったようです。

ですが、特別なことではなかったことが、同時代の漫画家たちの動向からわかります。あの大御所の北澤楽天や岡本一平も戦争協力的なことをする立場だったからです。だからこそ、その頃の漫画家たちの石碑はまとめられて建てられているのでしょう。ありがたいことに、その場所を今の私たちは、訪ねることができます。川崎市中原区にある川崎市民ミュージアムそばの常樂寺、別名「まんが寺」です。楽天と一平の絵入りの石碑が一番大きく建てられています。

【 川崎市中原区にある、まんが寺こと常樂寺の境内にある、「楽天と一平」の石碑】 

常樂寺は、もともと戦争のための塹壕掘りなど、兵隊や民間徴用の人々がいました。その人々の似顔絵を描くために「日本漫畫報公曾」の面々が集まったのでした。そのためまんが寺と呼ばれるようになったのです。
(編集注:常樂寺の資料によると、戦後の1967年におこなわれた本堂の解体修復工事の際、当時、漫画好きだった土岐秀宥住職と交流の深かった漫画家たちが自分の描いた作品を持参したそうです。400人を超える漫画家から2000点以上の作品が集り、これに喜んだ住職が「まんが寺」という愛称を付けたとも解説されています)

さて、この頃の宮古はどうだったのでしょう。冒頭でふれた慶世村恒任(きよむら・こうにん)が、「宮古の人は、人のやる事は皆嫌いなんだ!」と『宮古史傳(宮古史伝)』に書き著した時代でした(1927年)。そして1931年に、沖縄県立宮古中学校に公民と英語の教師として赴任するも、宮中に絵画ブーム(任期中に美術教科も兼任する)を巻き起こした篠原鳳作が東京帝國大學法学部卒を卒業した頃(1929年)でもあります。
(編集注:1928年に沖縄県立第二中学校分校として設置。翌年、沖縄県立第二中学校宮古分校となる。いずれも当時は男子校であった。第94回「沖縄県立宮古高等女学校・宮古女子高等学校跡地之碑」第105回「鍛錬‐慶徳健 揮毫碑‐」)

1929年は、あのウリミバエが宮古に上陸し猛威をふるいました。島民は戦後も苦しめられ、やっと根絶できたのは1987年のことでした。宮古はまだ昭和のうちでしたが、八重山では、平成が5年も過ぎた1993年まで根絶できないほどの厄介さでした。
(編集注:ウリミバエは瓜類につく実蝿のこと。ミカンコミバエとともに、世界的な悪名の高い害虫。農産物に被害が及ぶだけでなく、島外への出荷が出来な無くなることから、ミバエの発生は死活問題となり、根絶駆除へ尽力します)

東京のモボ・モガから、島は遠く離れていましたが、数年のうちに宮古にも文化の風が吹いたのです。篠原鳳作のような秀才らが教職として宮古を訪れ、さまざまな化学変化を島に起しました。
篠原鳳作が島で過ごした日々はわずか3年半でしたが、島を去ったその3年後(1934年)、「しんしんと肺碧きまで海のたび」と、島につながる広大な海原を行く船旅の様子を無季俳句に詠み、今もカママ嶺公園に石碑が建てられています(1972年建立)。
それも郷里、鹿児島の長崎鼻に向いているのです。

【カママ嶺公園(平良)にある篠原鳳作の句碑。すぐそばには鳳作の句碑建立に尽力した平良雅景の句碑も】

さて、当時は本土の人が宮古にどれくらいいたのでしょうか?。はっきりとした数字は残っていませんが、教員、警官のような公務員が主だったようです。もちろん観光客ではなく「寄留商人」と呼ばれる島で新たに商売する人たちがいました。彼らも島外から文化を伝えた立役者かもしれません。

しかし、島に新たな文化が花開いたのもつかの間、どんどんと日本の世相を反映したように、島も戦争に向かっていきます。中村十作らが尽力し、1903年に廃止された人頭税から30年後、教員として島を訪れた篠原鳳作は、1936年に30歳で夭折するため、こんな島の姿を見ることはありませんでした。

1941年に太平洋戦争が始まると、本土から3万人の兵隊が駐留します。当時の島の人口の半分にあたる数でした。そして1943年には、旧七原集落が海軍飛行場(現在の宮古空港)の建設のために、軍に強制接収されます(七原の霊石)。

島の人はどのような心持ちで、本土の人を眺めていたのでしょうか?私事になりますが、1887年生まれのピーツキ(ハジチ:トライバルタトゥ)を入れた曾祖母は本土の人のことを「やまとぅ(大和)」と呼んでいました。昨今の多少、侮蔑的な「ないちゃー」ではありませんでした。
(編集注:「南島針突(ハジチ)紀行」には、宮国の祖母のハジチ(宮古ではピーツキ)が取材され収録されています)

【動画 南島残照 女たちの針突(ハジチ)~沖縄・宮古諸島のイレズミ~

この時代、曾祖母はいわゆる中年の域です。今の私といくつも変わりません。曾祖母から4代目の私は、ピーツキもないのですが、未だ目に焼き付いています。

私が島に住んでいる時は、本土の人はいっしょくたに見えていました。ですが、島を出てからはひとりひとりを見るようになりました。実は、本土の人にもローカリズムが非常に強くあります。東京といえども、世田谷には世田谷のローカルルールがあり、銀座には銀座、八王子には八王子、と意外と細かく別れています。しばらく話すと、どれも標準語ではないことがわかるようになりました。

当時の宮古の人は、日本人を十把一絡げに考えてたのでしょうか?。私は、そうは思えません。宮古島には戦後一年たってから、ようやく復員船が入港します。兵隊たちはやっと本土へ帰ることができたのです。それまで戦後の焼け野原のなかで、兵隊も一般市民もなくともに島で生きていたようです。島の人は、彼らひとりひとりの「ひととなり」を見極めていたにちがいありません。

上州人だとか、奥州人だとか、日本全国から集められ南の島にやって来た兵隊たち。当たり前ですが、誰もがそれぞれの故郷を持ち、家族がいたはずです。兵隊という肩書を外したやまとぅーの兵隊たちと宮古の人は、改めて人間らしいやり取りがはじまったのかもしれません。などなど、その頃に思いをはせて、ひとり夢想しています。そして、なぜか脳内には佐渡おけさが鳴り響いています。三味線と囃子がちょっと寂しげな。

なんと高千穂(下地字川満)名物の踊りは「佐渡おけさ」。佐渡の人が伝えた正真正銘の佐渡おけさのようです。こうして物事の伝播に必ず人が介し、なぜか宮古という辺縁に残り続けているのは感慨深いという言葉しかありません。
-つづく- 
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Posted by atalas at 12:00Comments(0)Ecce HECO.(エッケヘコ)

2018年11月13日

第208回 「泉水 野原後西支部井戸」



すみません。やっぱり戻って来ちゃいました。石碑と云えば井戸、井戸と云えば石碑というくらい、このふたつは切っても切れないほど、仲がいいのでやはりここ帰結する気がします。しかし、本当に地味で地道で、たいした広がりもドラマもありません。その上、少ない資料から推論だけで身体を張って現場をあたっても成果がなかったり、たまたま通りすがって偶然の産物的に発見をしても資料が一切出てこないないようなところもあって、なかなかネタにするにも苦しかったりしますが、考察を重ねると薄っすらと沁みてくるように、ぼんやりと何かか見えてくるのが楽しくてつい。。。

今回ご紹介するものも、そんなたまたま系です。
まずは位置関係から説明すると、袖山浄水場の裏手(東側)から共和産業、野原越公民館、新里工業を経て、城辺線の農業研究センター北側に抜ける、知る人ぞ知る78号線の裏街道沿いで見つけた石碑です。
場所はこの裏街道と那底から宮原に抜ける県道が交わる、北野原越のバス停(尚、城辺線には中野原越というバス停もある)から裏街道を南に少し下った、集落と呼べるほどには人家が密集してはいない小集落のあたり。住所っぽく表現するのならば、平良字西里野原越といったところでしょうか。もっとも、西里と名がつく集落は漲水港(現平良港)を起点にして(宮古の民俗方位的に)東西に細長く広がっているので(番地が若いほど海寄りとなるので、このあたりではとうとう4桁に及び、1700番台)、えっ、こんなとこも?っとなるかと思いますが、近代の字制度になる前は、城辺の西里添もある意味、西里村の一部(相付というか、付属というか、西里村の人たちの耕作地)でしたから、まだ、近い方かもしれませんね。

もっとも、近年耳に入って来る野原越という地名は、城辺線の中休交差点あたりを思い浮かべるのではないでしょうか。しかし、野原越の集落範囲から見るとこのあたりはむしろ野原越の南端であり、先の裏街道に沿って散村集落が広がっていると云えます。バス停を見ても「北野原越」「中野原越」「野原越」(地理的には南野原越といえる)と、見事に三か所に点在しています(バスマップ)。

琉球大学沖縄文化研究所が編纂した「宮古諸島 学術調査研究報告(地理・民俗編 1964年)」によると、はっきりと添村とは呼ばれていないものの、集落の成り立ちはどうやら名子集落の形成に近いようで、「野原越村落はA家は洲鎌出身で6代。B家は久松から4代。戸数23戸のうちそのほとんどがA家の分家をなしている」とあり、今から100年~200年ほど昔に原野を開墾して拓かれた村のひとつと数えられるようです。そして「とくに一様に水の各得な極度腐心したことがあきらかである」と結ばれていました。

ええと、やっとここで井戸の出番になりました。今回取り上げた石碑はそんな野原越の西支部(民俗方位的だと西だが、地図のイメージでは北になる)の井戸のそばに建つ石碑。短く「泉水」とタイトリングされた石碑には、昭和九年旧七月嵩日?と刻まれています。最後の日付にあたる数字が、旧漢字的に馴染みのある「壱弐参肆伍陸漆捌玖拾」などに合致しせず、山冠に高いの嵩としか読めず、ちょっとギブアップです。
しかし、井戸は中々な立派でしっかりした作り。石碑の脇に拝所もあり、かなり深い掘り抜き井戸のようです。この碑か掘削の年次を示しているとしたら、戦前に島内各集落で盛んに掘られた集落の共同井戸のひとつと思われます。

実はこの裏街道はよく走るのですが、井戸に気付いたのは最近でした。なぜ判らなかったかと云うと、井戸の前にプレハブ小屋がずっとあり、井戸があることが見えなかったからなのです(画像にもコンクリートのたたきにプレハブのアンカー金具が見えているので、いかに井戸の近くにあったかが判るのではないでしょうか)。※プレハブのあった頃のストリートビュー

それはともかく、井戸の名前。盛んに「野原越」と書いて来ましたが、この井戸は「野原後」と漢字が異なります。そもそも野原はご存知上野の野原岳の野原。この野原の後ろ(北側)の集落なので「ぐす」というそうです。それを考えると本来なら「野原後」が正しそうですが、今の世の中だと、簡単に越せるようになった野原の山を越えたところということなのかもしれません(似たような語源としては比嘉の高腰は“たかうす”で、高越と表記していた時代もあったようです)。
さて、ここで気になるって来るのは野原後の言葉に続く、西支部です。東西に細長い野原越であり、バス停さえも北や中とつけています。資料をあさってみると、この井戸は「野原越し3班の井戸」と記され、他に1班と2班の井戸があることが判りました。しかし、現在までにこのふたつ(おそらく中と南)の井戸を発見するまでには至っていません。頑張って捜索してみようと思いますが、もしも正解を知っている方がいましたら、ぜひぜひ、こそっと教えてください(懇願)。

その代わりと云ってはなんですが、この界隈で見つけた井戸類を、せっかくなのでちょっとだけご紹介しておきたいと思います(石碑がないので、ここで取り上げられないって素直に云えばいいのに)。


【上】民家脇にある那底の井戸 【左】ちょっと変な形をした石の香炉 【右】井戸の隣の畑にある、石垣の立派なユーヌカン御獄

まずはこの井戸より裏街道を北へ。北野原越のバス停も越え、川口海事事務所の西の方。地域的には那底集落のようです。那底もまた、ラーメンてぃだ(隣りに那底の壕もある)の交差点名にされていることから、地域の中心が判りづらいエリアです(おおむね、交差点から細竹集落への道と、宮原への県道に挟まれた区域)。この集落にある共同井戸がひっそりとたたずんでいます。こちらもなかなか深めの掘り抜き井戸で、ちょっと独特な形の拝所(香炉)があります。この井戸の隣の畑の奥には、うっそうと茂り石垣に囲まれたユーヌカン御獄があります。


【上 ニイヤマツメガウヤンマ御獄全景。右手のクワズイモの群落が沼跡】 【左 梯梧のそばにあるニイヤマツメガウヤンマ御獄の祠】 【右 思った以上に近い野原岳】

次は西支部から裏街道を南へ。新里工業の工場を過ぎたあたり、もう野原岳も間近に見える距離です。梯梧と蘇鉄がちょこんと生えていている道路脇の森に、ニイヤマツメガウヤンマ御獄という小さながあります。この御獄の隣に窪地があり、クワズイモが密集しています。ここはかつて沼だったそうで、その昔、金志川豊見親と別の豊見親が戦い、金志川が負け、この御獄には金志川も祀ってあると云われています(平良市史御嶽編)。
金志川とバトって勝った人物とは、仲宗根豊見親の長男・仲屋金盛のことではないだろうか(一応、家督を継いで、豊見親にはなっている)。彼は金志川豊見親の高い功績と評判を妬み、野原岳の酒宴に呼びつけてだまし討ちにした事件を起します。これによって宮古の歴史を大きく変革させるきっかけを作ることになるのですが、それは「宮古史伝」あたりを紐解いて欲しいところ。
その「宮古史伝」にこの事件のことも、「野原岳嵩越(のばりだけたきぐす)の変」として記されており、ここでは「後方なる数十丈の断崖から刀を啣(くわ)えて真っ逆さまに落ちて悲壮の死を遂げた」とあります。先にも書きましたが、この御獄は野原岳の裏手の崖からも、そう遠くなく仮にまた金志川が満身創痍でも生きていて、どうにか逃れようとしていたのであれば、たどり着いていたかもしれない場所といえます(尚、野原岳の裏手は竹後原~タキグスバル~という字が野原にあります)。
西暦で云うと、この事件は1500年前半の頃の話ですが、そんな伝承が今に伝わり、そして御獄として、沼跡として(今は水が貯まるほどでないが、窪地は湿っぽい)、その現場が普通に見れるという宮古島、やはり掘れば掘るほどに面白過ぎると思いませんか?。  続きを読む


2018年11月11日

第13話 「おじぎ草と落花生」



前回の文章から2週間。
スマホの写真を開いてみると、まったく写真を撮ってない。

すごく正直なところを書くと、写真を撮りたくなるような、真新しい景色に出会っていないんです・・・。
八丈島。
紅葉しないし、はっきり言って景色の変化に乏しいです、今。

そんな中で、ちょっと面白い植物にハマっている。

おじぎ草、という植物を知っていますか。
指先でちょこっと触れると、まるでお辞儀するみたいに、すーーっと茎や葉を下向きに折る。
ブラジル原産で、寒い冬は枯れてしまうらしい。
うちにある鉢植えは、まだ青々として、夜に閉じた葉は、また朝には自分で開いている。
八丈島ではハウスで発芽・生育させているようで、先日手に入れた2鉢を、大事にしている。

実は一度、水やりを忘れて葉がほとんど散ってしまった。
丸坊主に近くなった枝だけのおじぎ草に、水をたっぷり与えて屋外の日光に当てたら、気づけばまた鮮やかな緑色の、かわいい葉が生え揃っていた。
とても強い植物だ。

沖縄では自生しているらしい。
気温が低いと、枯れるらしいので、八丈ではいつまで元気かな、と気になっている。
1鉢はベランダに、もう1鉢は室内の窓辺に置いてみている。

おじぎ草と一緒に、落花生もいただき、すすめられた通りに塩茹でして食べた。
ものすごーーーーーく、美味しかった。
塩茹でする食べ方は、沖縄も同じ。
豆のふっくらとした甘みが感じられて、落花生は茹でに限る!と個人的に強く思う。

カツオ、マグロも安価で美味しいのがスーパーに並ぶ。
半身を買ってきて、皮を取って、いいところは刺身にする。
ブツになったところは漬けにする。
自宅で食べる分だから、適当だけれども、自分で下ろした刺身はなぜか美味しい。

切り口も、鮮度がいい方が美味しいのかな。
それとも、季節のせいなのかな。

味覚の秋も深まったと思いきや、このところの八丈島は、蚊が再び発生中。
雨が降り、妙に蒸す日が2、3日続いて、蚊に刺された。
すごくかゆい。しつこい。
シブトいやつらなんじゃないかと思う。

風が強い。
海から潮が運ばれて、車のフロントガラスが汚く曇っている。

かと思うと、風のない、布団干し日和の、最高に秋らしい太陽の日もある。
ぽかぽかと暖かく、まだニットを着る気候ではないなぁ。
昼間は汗ばむ気温の日もある。

かと思えば、これは暖房ほしいな・・・と、室内でじっとしているととても冷える日もある。
でもまだ、基本的には暖かく、シャツの上に、薄手のジャケット一枚あれば、朝夕の気温差もまだ大丈夫。

けれど、雨だけは内地の東京より断然多いな、と感じる。

晴れていても、スコールというか、まぁ。小雨、霧雨、スコールが突発的に発生するので、洗濯物はいつでも心配だし、2、3日前には、土砂降りだった。
雲が低く降りてきて、島をすっぽりと包み、飛行機が条件付きになってしまった。
そんな不安定な、混沌とした季節。

立冬を過ぎました。

次に更新される2週間後の日曜日は、私は宮古島にいます。
マティダ市民劇場で行われる「危機的な状況にある言語・方言サミット(宮古島大会)」に参加する予定です。

と、いうわけで、次は方言サミット直前のレポートということになりそうです。

冬が近づいてきました。
体調に気をつけてみなさま元気にお過ごしください。  続きを読む


2018年11月09日

1本目 「ホテル・ハイビスカス」



東西東西(とざいとーざい)~!。
本日、皆々さま方にご高覧いただきまするは、オキナワ・宮古に関するさまざまな本をご紹介しております、ATALAS Blog 金曜特集名物「島の本棚」に、新たに登場いたしまする別館「シネマ de ミャーク」でございます。
筆を振るうライターは、沖縄好きにして映画愛好家としても名高い、久保喜広(くぼよしひろ)氏でござます。やあやあやあ!。さすれば「シネマ de ミャーク」、開幕でございます。遠からん者は音にも聞け、近くば寄って目にも見よ!。


私は東京在住ですが、宮古との付き合いはかなり長く、初めて宮古に来たのは30年以上前。まだ来間大橋もない頃でした。それ以降ほぼ毎夏訪れ、ここ5年は夏は宮古で働きながら暮らしているという、宮古はまさに第二の故郷という宮古大好き人間です。よろしくお願いします。

さて、沖縄に関連する素敵な映画をご紹介していく「シネマ de ミャーク」。第1回は私の心の映画でもある「ホテル・ハイビスカス」をご紹介したいと思います。

この映画ができたのは2002年。この頃の私は、ただ「きれいな海」が好きで「沖縄」が好きと言っていた、よくいる観光客。そんな私に、沖縄の全てをまるっと教えてくれたのがこの映画でした。

まず、ものすごいインパクトで見るものを圧倒するのが、主人公の女の子「美恵子」。まるで「沖縄」そのものを体現しているかのような天真爛漫でパワーに満ち溢れたキャラクターに心を鷲掴みにされます。その美恵子が子分の男子を引き連れて、キジムナーを探す旅に出るところから物語は始まります。

いじめっ子に叫んだ「死なす!」って言葉は、当時全くうちなーぐちを知らなかった私にはインパクト絶大だったのを覚えています。内地なら「ぶっとばす」とか「ぶっ殺す」とか言うところでしょうが「死なす」とは言いません。言葉がちょっと違うだけで妙に新鮮で、この小学生が言う「死なす!」というセリフが印象的だったのをよく覚えています。この美恵子役の子役 蔵下穂波の天然の魅力がでーじすごい!

また、この「ホテル・ハイビスカス」に暮らす一家のインターナショナルさが、沖縄のチャンプルーさを表していてすごい。長男は黒人とのハーフ、長女は白人とのハーフ、末っ子の美恵子だけが今のお父さんの実の子で、お母さんは同じでも全員お父さんが違うというバラエティに富んだ家族構成。そしてそれを問題として捉えるのではなく、全てを許し、全てを受け止め、家族として仲良く暮らしている。そう、この家族こそが「沖縄」なのです。

捨てた息子に一目でも会いたいと手紙を寄こす米兵。自分を捨てた父を許せない長男ケンジと、声をかけながら米兵の父が並走するシーンで、その間にあるフェンスが沖縄の抱える問題を表しているのは秀逸。そして、その息子「ケンジにいにい」を演じているのが、今のEXILEのネスミスだったりするからビックリです!

「家族」を通して沖縄の「今」を描く一方で、キジムナーを探して旅に出たり、沖縄の「スピリチュアル」な部分も紹介してくれます。特に、ラストのエピソードで描かれる沖縄の「お盆」というのも、内地で暮らす人間には本当に新鮮。家族全員でご先祖様をお迎えするウンケーから、ウチカビを焚いてお送りするウークイまで、内地のそれとは本気度が全然違う。最初、小学生の美恵子は「お盆」のことを信じられずにウンケーの席で暴れてしまい家出をしてしまいます。

ご先祖さまとの出会い、マブイ落ち、トイレの神、マブイ込め。沖縄に住む人たちが大切にする神と先祖を敬う心に、美恵子の冒険を通して楽しく触れることができます。そして、ウークイで素直な心で手を合わせることができるようになった美恵子の姿に、本当に爽やかに胸を打たれます。

沖縄の映画ならではの、ゆる~い「間」。内地のようにキチンと作ったら、この独特の空気感は出ないでしょう。

照屋政雄、平良とみ、登川誠仁、沖縄の重鎮総出演! 理屈を超えた最高傑作! 私の「心の映画」です。

【ホテルハイビスカス ロケ地

【作品データ】
「ホテル・ハイビスカス」
公開 2002年
監督 中江裕司
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Posted by atalas at 12:00Comments(0)シネマ de ミャーク

2018年11月06日

第207回 「海岸保全区域 沖縄県」



前回、佐良浜の「急傾斜地崩壊防止事業竣工記念碑」に続き、伊良部島で地形ネタです。今回は南区の伊良部側。場所は佐和田の浜の西端です。云うまでもなくこれは本来、石碑ではなくただの区域を示す標柱に過ぎません。けれど、なかなかに威風堂々とした作りで、石碑感がどことなく高いので、仲間に入れてみました。まあ、以前にも「琉球政府標柱」(第193回)と題して、琉球政府モノを総ざらえしたこともありますし、行政機関ですらない「バスのりば(棚根)」(第190回)というネタもあったくらいなので、「ん to ん」なら問題なんてなにもないですよね~!。

と、いうことで万難を排して「海岸保全区域」の標柱です(ちゃんと、一番下に両矢印⇔が刻まれている)。
裏面、というか海に面した碑面には、「昭和四八年十月二五日指定」と日付が書かれています。おそらく裏表の感覚でゆくと、この碑から汀線までが保全の対象となる区域ということになるのでしょうか?。とはいえ、ここは干満の差が大きな佐和田の浜ですから、どこまでが陸となるのかちょっと懐疑的です。
軽く調べてみると、海岸線は満潮時の水涯線を基準とするようなので、“ちいさめ”の評価といったとこでしょうか。ここでちょっとおさらい。汀線(ていせん)と水涯線(すいがいせん)について。
どちらも陸と海(水)の境目を描く線なので、ほぼ同義語といってさしつかえないと思うのですが、汀線は干潮汀線とか満潮汀線というちょっと技術的な呼びかた(それぞれ低い時と高い時の水際のラインを示す)があるのと、どちらかと云うと“波打ち際”の古風な文学的な表現というような感じ。一方、水涯線は満潮時の水位での境を示すと定義れさているのでので、厳密を期すならばこちらの表記が良いと思われます。

さてさて、情報が少ないので、件の日付からネタを探ってみたいと思います。
さっそくGoogleで検索してみると、沖縄県が昭和48年10月25日に「告示第343号」を出している事が判りました。昭和48年は1973年なので、復帰の翌年です。まさに日本の法律(ここでは海岸法)が、沖縄を呑み込んでゆく最中と云えるかもしれません。

沖縄県 告示第343号 昭和48年10月25日

この告示第343号は海岸法に基づいて海岸保全区域を指定するもので、保全する区域が地番単位で細かく指定されています。
この時に指定された区域は、伊良部村佐和田白鳥原925の1番地から、伊良部村字佐和田前方原1726の4番地まで。海岸線の総距離は3,708メートル(平均幅員は200メートル)となっています。
【離れ小島に上陸した時の様子】
大字の佐和田はなんとなく判っても、小字となると途端に馴染みが薄いので、簡単に位置のイメージを説明しておくと、白鳥原は白鳥崎と佐和田漁港の中間あたりの沖合いに、小さな離れ小島のあるあたりの南方。前方原が海沿いに顔を出すのは、下地島へ渡るなかよね橋あたりで、その間の海沿いには西方原と前原と呼ばれる小字もあります。西方原は黒浜御獄、前原は佐和田の浜といえば、もう少しイメージできるでしょうか。
尚、伊良部の町制は1982(昭和57)年4月1日でしたので、当時はまだ伊良部村です。

ちなみに告示第343号では、一度に12か所が指定されており、佐和田の浜以外にも宮古諸島では、平良の狩俣、島尻、島尻南(真那津~大浦)、松原の4か所が指定を受けています。リストには他にも、石垣市(2か所)、竹富町(2か所)、今帰仁村、伊是名村、宜野座村、具志川村が指定されているのですが、具志川村(現在は合併して久米島町)の保全区域がひとつの指定なのに、基点1から基点32を結んだ区域として、基点の位置が事細かく書き込まれた告示内容となっており、資料を目にした際にちょっと目を引きました。

どんなに頑張ってみても、正直、今回はペラッペラな物件なので、これにてネタは終了してしまうのですが、それではあまりにも淋しいので、ちょっとだけ余談。

この碑のある佐和田の浜の西端は、小さな岩場が連なり、それが砂を絡め取って黒浜御獄へと続く弓形の浜を作っていますが、浜の内側(陸地側)は低い海岸砂丘があり、近年はその手前まで開発され、ホテルが建設されるなど、少しづつ様相が変わりつつあります。かつてはこの砂丘の内側あたりから、平成の森公園あたりにかけては遠浅の入江が広がっており、かなり古い時代から製塩を行っていました(連載200回突破記念の特番「海に消えた道(1) 佐和田矼道」を参照)。現在は埋め立てが進んでしまったので、その頃の様子は見る影もありませんが、それでも地形をよーく見ると、満潮でも沈まない陸地と、遠浅の入江の痕跡がこのあたりでは見ることができます。
家々がちまちまっと並んでいるあたりは岬状に伸びてた陸地で、そこが沈まない場所であることが見てとれます。それを追いかけて観察すると、集落のかなり奥の方まで入江が複雑に入り込んでいたことが判ります。それこそ小さな発見ではありますが、町歩きをしながら、往時を偲ぶ痕跡探しをニヤニヤしながら楽しむことが出来るのです。
【当時の揚げ浜式塩田の様子】

また、前出の浜の西にある岩場の沖には、満潮でも沈まない細長い岩があります。この岩は広い浜に点在する岩々とは少し出自が異なり、岩場の延長部にあたるので、岩盤が露頭している場所になります。この岩のことを島のことばで「グンカンジー」と呼ぶそうです。ジーとは岩を表すので、漢字にすると「軍艦岩」ということになります。確かによくよく眺めてみるとそんな風にも見えてきます。
グンカンジー以外にももたくさんの岩がこの佐和田の浜にはありますが、ほとんどが津波岩(石)で、かつて繰り返し襲ってきた津波で運ばれたものだといわれています。これらの岩々にはすべて名前があるといわれていますが、見る角度によって形が結構変化するので、いくつか名前を聞きましたがどれがどれなのか、ハッキリしませんでした。さらにはこの浜の岩は、夜空の星座と同じだとのたまう人もいたりして、虚実が入り乱れてとっても怪しいのですが、見た目で勝手に名前をつけたくなる、楽しさのある奇岩群であることは間違いありません。

【謎めいた廃施設はまるでプールのよう】

そんな軍艦岩のそばに、謎の廃施設があります。低いコンクリートの枠に囲まれ、おそらくフェンスの支柱と思われる無数の柱で取り囲まれたプールのような構造物です。
干潮時は中の水位が海面よりも高くなるので、ちょろちょろと閘門から海水がこぼれています。コンクリートの枠の高さを考えると、中の水深はおよそ1メートルくらいでしょうか、どうやらなにかの生け簀(栽培魚施設)だったらしいのですが、今となっては見る影もありません。しかしながら、サイズと云い深さといい、プール遊びするにはもってこいの廃墟ではないでしょうか!。
【グンカンジーへ続く岩の道】
渡口の浜に比べ佐和田の浜は遠浅なので干満が大きく、干潮時に海を楽しむにはちょっと汀線が遠く、水深もかなり浅くなるので、ちゃぷちゃぶするには向いていません。一方、外洋に面しており見た目より波のうねりが強い渡口の浜では、時に足をすくわれるような波の勢いがあり、小さなお子さんなどには不向きだったりもします。
だから、この廃施設をリビルド(支柱を取っ払って、中の砂を全部じゃなくちょっと浚渫する)して、安心して海遊びの出来るプールにしたら、めっちゃ気軽に遊べる人気のスポットに生まれ変わる可能性を秘めているのではないかと、強く妄想してしました。この廃施設はどこが管理してる(してた)のかなぁ~。なんでもお金かけて新設しなくても、知恵を廻せば面白いことは色々出来そうですよね(保全区域であっても、すでに構築されているから、開発の許可とか区域の指定解除はされているのではないかな~)。誰か、作ってみて~!。  続きを読む


2018年11月02日

log18 「みちのく宮古と南国宮古」


こんにちは!
宮古も朝晩だいぶ涼しくなりました。そして小学校は秋の遠足シーズンを迎え、我が家の次男も遠足の日を心待ちにしています。
先日学校から持ち帰ってきた遠足についてのお便りの余白には、次男の手書きで当日の持ち物が書かれていました。「お弁当・水とう」などと並んで、「プーカーボール」と書かれていて思わず笑ってしまいました。

【プーカーボール】
柔らかいボール。内地ではカラーボールやゴムボールと呼ばれている当たっても痛くないボール。「プーカー」は「柔らかい」の他、「風船」の意味もあるようです。

また、FMみやこのパーソナリティで、宮古島の「劇団かなやらび」のミャークフツ翻訳もされている與那覇淳さんに話を伺ったところ、
『ぷーかー』は穴が空いている状態。ボールの場合、釘などで穴を空けられたために空気がすっかり抜けている状態。『ぷーかーボール』は最近使われ始めた言葉だと思われる。『ぷーかー』は単独で使わず『穴ぷーかー』や『穴ぷーき』というように『穴』という言葉とセットで使われる。
とのこと。
なるほど!。靴下や服に穴が空いたのを、「ぴーきた」と言うのは「穴プーキ」が変化したんですねー。
柔らかいボールを「アフボール」とも言うことがあるようですが、こちらは「空気が少なくなっているが完全に抜けきっているわけではない。握ると容易に凹む状態のこと」だそうです。
宮古の蒸しパン、「アフ」の名前が由来でしょうね。

【左:宮古島産アフ 右:岩手県産ガンヅキ】

【アフ】
黒糖、小麦粉、牛乳、卵、はちみつ、重曹、酢などが材料の蒸しパンで、表面にゴマが乗っている宮古の郷土菓子。スーパーや「まっちゃ」などでも(直角)三角形に切ったものが、いくつかパックに入れられて売られている。
これと驚くほどソックリなのが、私の両親の出身地である岩手県の蒸しパン、「がんづき(雁月)」。
なんと見た目だけでなく材料まで一緒!。ただ少し違うのは「がんづき」のほうはゴマに加え、クルミがトッピングされていることが多いということくらい(岩手は和グルミの産地。法事などで出るクルミ豆腐はめちゃくちゃ美味しい!)。
ちなみに、「がんづき」の名の由来ですが、諸説ある中で有力と思われるのは、丸型で蒸した形を月に、表面に散らした黒ゴマを雁に見立てたという説です。

それにしても、東北の岩手から遠く離れた沖縄の離島宮古とで、材料も見た目も一緒のお菓子がそれぞれの土地の伝統郷土菓子とは、いったいどういうことなのでしょう。
それに黒糖は沖縄が主な産地であることを考えると、何故岩手で?とますます謎は深まるばかり。
他にも黒糖を使った岩手のお菓子は無かったかなと過去の記憶を辿ると、ありました!その名は「耳かりんとう」です。かりんとうと言っても長さ10センチほどもある平べったい楕円形で、小麦の白っぽい部分と黒糖味の黒っぽいところが渦巻き模様になって耳のように見えることから「耳かりんとう」と呼ばれています。

黒糖の産地でもないのに黒糖を使った郷土菓子がふたつもある不思議。調べていくうちに岩手県宮古市と沖縄県宮古郡多良間村とは姉妹市村(姉妹都市ではないんですね)を締結していることが判りました。
安政6(1859)年に岩手宮古市の商船善宝丸(ぜんぽうまる)が76日間の漂流の末に、多良間島(宮古島から西へ約67キロ)に漂着し、島民の手厚い看護を受け乗組員全員が無事帰還したという史実が昭和49年に発見されたとのこと。
これをキッカケに交流が始まり、平成8年2月6日には姉妹市村締結の調印に至ったということです(岩手県宮古市HP参照)

船員たちが多良間村に滞在している間に島民からアフの作り方を教わってたりして。
そして岩手に帰還する際にはお土産で多良間の黒糖をたくさんもらって持ち帰ってたりして、と私の妄想は膨らみます。
みちのく宮古と南国宮古の関係がますます気になります。
どなたかご存知の方がいたら教えてください。
(そういえば2005年の市町村合併のときには「宮古市」と名乗ろとしたが岩手県宮古市から待ったがかかり、住民アンケートで「宮古島市」に決まった経緯がありましたね)

【まっちゃ】
お店。町家(まちや)が由来と思われる。
宮古の狩俣集落にある狩俣マッチャーズは、宮古口の「まっちゃ」と、元々共同売店だったので英語の複数形の「ズ」を合わせた店名だそうです。

【狩俣マッチャーズ】
狩俣集落の人々が共同出資した共同売店「狩俣購買組合」としてスタート。昔はこのような共同売店が宮古のあちこちにあったそうです。
地元の野菜、お弁当、パン、飲み物をはじめ、日用品から文房具、釣り具から野菜の種まで何でもある商店。副店長の新里さんにお話を伺ったところ、昨年70周年だったので多分今年で71年目とのこと。「狩俣購買組合」から「株式会社 狩俣マッチャーズ」になってからは丸9年経つそう。

私は平日の11時過ぎにお邪魔したのですが、ひっきりなしにお客さんが行き交っていました。
お会計の際、地元の人が本棚みたいなところから、おもむろに取り出しレジカウンターに放り投げるように置いたB6サイズほどのノートは「通帳(かよいちょう)」というもので、これがあればいわゆる「ツケ」が出来るんだそうです。月末にまとめて払うのかと思ったら特に決まりはなく、次に来たときに払ったりするんだそう。
開店当時は集落の誰もが収入が不安定だったため、現金が無いと買えない「店」だと困るので、このやり方になったということです。
今どき珍しいしやってみたいと思っても、この「通帳」誰でも作れるものではないそうです。規定は無いが、代々狩俣に居る世帯が対象とのこと。そりゃそうですよね。信用ありきのシステムなのです。
入口すぐのレジ近くの棚にズラリと並んだ通帳は、200世帯分はありそうです。
子どものおつかいでもツケがきくと聞き、うちの子だったらアイスや菓子パンをツケで買いまくりそうだなぁと想像し怖くなりました。

コンビニやスーパーで「防犯カメラ作動中」の張り紙が当たり前の現代、現金を持たなくても信用を担保に買い物が可能な狩俣マッチャーズは、稀有な存在と言えるでしょう。
いつまでも通帳があり続けますように!

ではまた来月。
あとからねー!
※     ※     ※     ※     ※

【編集メモ】
『善宝丸』
ATALAS Blog火曜日掲載の島の石を巡る旅「んなま to んきゃーん」でも、南部宮古の善宝丸の話をディープに取り上げています。
第165回 「報恩之碑」
岩手県宮古市と多良間村の交流はいまも続けられています。

『狩俣マッチャーズ』 http://karimata-co.com/
ローカルなお店としては驚きの年商1億越えのマッチャーズ。県内初の共同売店の株式会社化をした稀有な存在ですが、もともとは集落の人たちの出資によって運営されていた共同売店なので、お店の経営が黒字なら組合員に配当(キャッシュパッ)がありました。また、お通帳はある意味で、ポイントカードとキャッシュレスを紙で具現化しており、現代の最先端技術などなくても同じようなことが出来てしまう素晴らしさがあります。
狩俣購買組合が株式会社に!/共同売店ファンクラブ(2009年12月1日)
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