てぃーだブログ › ATALAS Blog › んなま to んきゃーん › 第208回 「泉水 野原後西支部井戸」

2018年11月13日

第208回 「泉水 野原後西支部井戸」

第208回 「泉水 野原後西支部井戸」

すみません。やっぱり戻って来ちゃいました。石碑と云えば井戸、井戸と云えば石碑というくらい、このふたつは切っても切れないほど、仲がいいのでやはりここ帰結する気がします。しかし、本当に地味で地道で、たいした広がりもドラマもありません。その上、少ない資料から推論だけで身体を張って現場をあたっても成果がなかったり、たまたま通りすがって偶然の産物的に発見をしても資料が一切出てこないないようなところもあって、なかなかネタにするにも苦しかったりしますが、考察を重ねると薄っすらと沁みてくるように、ぼんやりと何かか見えてくるのが楽しくてつい。。。
第208回 「泉水 野原後西支部井戸」
今回ご紹介するものも、そんなたまたま系です。
まずは位置関係から説明すると、袖山浄水場の裏手(東側)から共和産業、野原越公民館、新里工業を経て、城辺線の農業研究センター北側に抜ける、知る人ぞ知る78号線の裏街道沿いで見つけた石碑です。
場所はこの裏街道と那底から宮原に抜ける県道が交わる、北野原越のバス停(尚、城辺線には中野原越というバス停もある)から裏街道を南に少し下った、集落と呼べるほどには人家が密集してはいない小集落のあたり。住所っぽく表現するのならば、平良字西里野原越といったところでしょうか。もっとも、西里と名がつく集落は漲水港(現平良港)を起点にして(宮古の民俗方位的に)東西に細長く広がっているので(番地が若いほど海寄りとなるので、このあたりではとうとう4桁に及び、1700番台)、えっ、こんなとこも?っとなるかと思いますが、近代の字制度になる前は、城辺の西里添もある意味、西里村の一部(相付というか、付属というか、西里村の人たちの耕作地)でしたから、まだ、近い方かもしれませんね。

もっとも、近年耳に入って来る野原越という地名は、城辺線の中休交差点あたりを思い浮かべるのではないでしょうか。しかし、野原越の集落範囲から見るとこのあたりはむしろ野原越の南端であり、先の裏街道に沿って散村集落が広がっていると云えます。バス停を見ても「北野原越」「中野原越」「野原越」(地理的には南野原越といえる)と、見事に三か所に点在しています(バスマップ)。

琉球大学沖縄文化研究所が編纂した「宮古諸島 学術調査研究報告(地理・民俗編 1964年)」によると、はっきりと添村とは呼ばれていないものの、集落の成り立ちはどうやら名子集落の形成に近いようで、「野原越村落はA家は洲鎌出身で6代。B家は久松から4代。戸数23戸のうちそのほとんどがA家の分家をなしている」とあり、今から100年~200年ほど昔に原野を開墾して拓かれた村のひとつと数えられるようです。そして「とくに一様に水の各得な極度腐心したことがあきらかである」と結ばれていました。
第208回 「泉水 野原後西支部井戸」
ええと、やっとここで井戸の出番になりました。今回取り上げた石碑はそんな野原越の西支部(民俗方位的だと西だが、地図のイメージでは北になる)の井戸のそばに建つ石碑。短く「泉水」とタイトリングされた石碑には、昭和九年旧七月嵩日?と刻まれています。最後の日付にあたる数字が、旧漢字的に馴染みのある「壱弐参肆伍陸漆捌玖拾」などに合致しせず、山冠に高いの嵩としか読めず、ちょっとギブアップです。
しかし、井戸は中々な立派でしっかりした作り。石碑の脇に拝所もあり、かなり深い掘り抜き井戸のようです。この碑か掘削の年次を示しているとしたら、戦前に島内各集落で盛んに掘られた集落の共同井戸のひとつと思われます。

実はこの裏街道はよく走るのですが、井戸に気付いたのは最近でした。なぜ判らなかったかと云うと、井戸の前にプレハブ小屋がずっとあり、井戸があることが見えなかったからなのです(画像にもコンクリートのたたきにプレハブのアンカー金具が見えているので、いかに井戸の近くにあったかが判るのではないでしょうか)。※プレハブのあった頃のストリートビュー

それはともかく、井戸の名前。盛んに「野原越」と書いて来ましたが、この井戸は「野原後」と漢字が異なります。そもそも野原はご存知上野の野原岳の野原。この野原の後ろ(北側)の集落なので「ぐす」というそうです。それを考えると本来なら「野原後」が正しそうですが、今の世の中だと、簡単に越せるようになった野原の山を越えたところということなのかもしれません(似たような語源としては比嘉の高腰は“たかうす”で、高越と表記していた時代もあったようです)。
さて、ここで気になるって来るのは野原後の言葉に続く、西支部です。東西に細長い野原越であり、バス停さえも北や中とつけています。資料をあさってみると、この井戸は「野原越し3班の井戸」と記され、他に1班と2班の井戸があることが判りました。しかし、現在までにこのふたつ(おそらく中と南)の井戸を発見するまでには至っていません。頑張って捜索してみようと思いますが、もしも正解を知っている方がいましたら、ぜひぜひ、こそっと教えてください(懇願)。

その代わりと云ってはなんですが、この界隈で見つけた井戸類を、せっかくなのでちょっとだけご紹介しておきたいと思います(石碑がないので、ここで取り上げられないって素直に云えばいいのに)。
第208回 「泉水 野原後西支部井戸」
第208回 「泉水 野原後西支部井戸」第208回 「泉水 野原後西支部井戸」
【上】民家脇にある那底の井戸 【左】ちょっと変な形をした石の香炉 【右】井戸の隣の畑にある、石垣の立派なユーヌカン御獄

まずはこの井戸より裏街道を北へ。北野原越のバス停も越え、川口海事事務所の西の方。地域的には那底集落のようです。那底もまた、ラーメンてぃだ(隣りに那底の壕もある)の交差点名にされていることから、地域の中心が判りづらいエリアです(おおむね、交差点から細竹集落への道と、宮原への県道に挟まれた区域)。この集落にある共同井戸がひっそりとたたずんでいます。こちらもなかなか深めの掘り抜き井戸で、ちょっと独特な形の拝所(香炉)があります。この井戸の隣の畑の奥には、うっそうと茂り石垣に囲まれたユーヌカン御獄があります。
第208回 「泉水 野原後西支部井戸」
第208回 「泉水 野原後西支部井戸」第208回 「泉水 野原後西支部井戸」
【上 ニイヤマツメガウヤンマ御獄全景。右手のクワズイモの群落が沼跡】 【左 梯梧のそばにあるニイヤマツメガウヤンマ御獄の祠】 【右 思った以上に近い野原岳】

次は西支部から裏街道を南へ。新里工業の工場を過ぎたあたり、もう野原岳も間近に見える距離です。梯梧と蘇鉄がちょこんと生えていている道路脇の森に、ニイヤマツメガウヤンマ御獄という小さながあります。この御獄の隣に窪地があり、クワズイモが密集しています。ここはかつて沼だったそうで、その昔、金志川豊見親と別の豊見親が戦い、金志川が負け、この御獄には金志川も祀ってあると云われています(平良市史御嶽編)。
金志川とバトって勝った人物とは、仲宗根豊見親の長男・仲屋金盛のことではないだろうか(一応、家督を継いで、豊見親にはなっている)。彼は金志川豊見親の高い功績と評判を妬み、野原岳の酒宴に呼びつけてだまし討ちにした事件を起します。これによって宮古の歴史を大きく変革させるきっかけを作ることになるのですが、それは「宮古史伝」あたりを紐解いて欲しいところ。
その「宮古史伝」にこの事件のことも、「野原岳嵩越(のばりだけたきぐす)の変」として記されており、ここでは「後方なる数十丈の断崖から刀を啣(くわ)えて真っ逆さまに落ちて悲壮の死を遂げた」とあります。先にも書きましたが、この御獄は野原岳の裏手の崖からも、そう遠くなく仮にまた金志川が満身創痍でも生きていて、どうにか逃れようとしていたのであれば、たどり着いていたかもしれない場所といえます(尚、野原岳の裏手は竹後原~タキグスバル~という字が野原にあります)。
西暦で云うと、この事件は1500年前半の頃の話ですが、そんな伝承が今に伝わり、そして御獄として、沼跡として(今は水が貯まるほどでないが、窪地は湿っぽい)、その現場が普通に見れるという宮古島、やはり掘れば掘るほどに面白過ぎると思いませんか?。




同じカテゴリー(んなま to んきゃーん)の記事

上の画像に書かれている文字を入力して下さい
 
<ご注意>
書き込まれた内容は公開され、ブログの持ち主だけが削除できます。