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2018年05月29日

第4話 「島酒と望郷」


第3話 「路傍の燈り」

前回の掲載から約4ヶ月が経ち、私は今、八丈島に暮らしています。。。

‥えぇっ!?

という感じですが、土地との縁って、不思議とそういうものなんだな、と。
トントン拍子といいますか。。
ありがたいことです。

内地の東京から、ここ八丈町へ引っ越して来ました。
まぁ、ここも東京都なので、例えばゆうパックは都内料金です。
車は品川ナンバーです。
でも、昔は伊豆の管轄だったので、ここは富士箱根伊豆国立公園です。
複雑ですね。

島にフリージアが咲き、島中にいい香りが漂う頃、小さな八丈島空港に降り立ちました。

めずらしく、いい天気が続きました。
引っ越しの片付けはとても大変でした。
船便だった冷蔵庫は、10日以上も来ませんでした。
大きなスーパーでも、夜8時には閉まってしまいます。
夜の闇は濃く、星はいつも瞬いています。

今日は、島のお酒について。
八丈島は焼酎です。酒造所が、6つほどあります。
「島酒の碑」というのが護神山にあります。
町の真ん中にある小さな山の入口で、綺麗に玉石垣が積まれているところです。
山自体が信仰なのか、鳥居の向こうを登っても、特に何もありません。
火口の跡があって、それは教えられなければ気づかないほど、植物が生い茂っています。

さて、島酒の碑。
昔、八丈島では日本酒が飲まれていたのですが、しかし飢饉のときなどには、米は貴重なので、お酒が作れなくなるわけです。

八丈島は江戸時代、流人を受け入れて来た土地です。
大島、三宅島、八丈島、
と、罪が重い順番に遠くなるようです。

しかし、当時の流人は、知識や技術を運んでくるという役割をして、政治犯で流罪になった大名、豊臣秀吉の養子である宇喜多秀家は大変有名です。
秀家の流罪は八丈にとってはひとつの文化だったと思います。
また、近藤重蔵の息子、近藤富蔵は、八丈に暮らしながら、室町からの八丈の歴史を文字に起こし「八丈實記」を書き上げます。

そのように、流人が八丈島にもたらした技術や文化、知識は数多く、流人もいろいろで、島民にとってどのように受け止められていたのかは、興味深いところです。

さて、話はお酒に戻りますが、
酒が作れない、酒が飲めない、というのは、過酷な自然環境で労働し、生きる人間にとって、とても辛いものだと思います。

そこで、芋から酒を作る方法を、薩摩藩から流されて来た、丹宗庄右衛門が島民に伝授したわけです。
島では、穀類で酒を作ると飢饉を招くと、禁酒令が敷かれていましたから、島民の喜びようは、想像に難くありません。

ところで、私は島に移り住んでやっと10日が過ぎようという頃。
友人のお宅に呼んでもらい、釣った魚の刺身と煮付け、それから、島酒を水割りでいただきました。

そのときに、予想だにしていなかったことがおきました。
なんて言うか、まぁわかりやすい言葉でいえば、ホームシックです。


その水割りは、沖縄・宮古島の水割りと、奇跡のように似た味と香りがした。
水のようにするすると。狩俣の酒のように。

如何して。

理由は、説明できませんし、検証しようとも思いません。

心象、かも、しれないから。

人生の歴史が一巡り、何年振りかに飲んだ、島酒が体にぐっと沁みました。

恋しかったなぁ。。。宮古島が。

遠くまで来ちゃったなぁ、と言う。
距離的というよりも、時間的望郷の思いです。

島の焼酎、とても美味です。
いろいろ好き好きですが、やっぱり古酒はおいしいですね。
琥珀色の、まろやかな口あたりの、けれども、魅惑の香りの島酒、ぜひどこかでご賞味ください。

島の三原山側は至るところ、滝だらけですが、
八丈富士側の島の神社に湧き水があり、そこの水を汲んで、コーヒーを淹れると美味しいと聞きました。

今回はこのへんで。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

【島旅日記~八丈島と、フラクタルの魔法】
第1話 「宮古の暮らし、八丈の暮らし」
第2話 「海までの距離感」
第3話 「路傍の燈り」  続きを読む



2018年05月25日

Vol.25 「島バナナ」



梅雨入り宣言をしてから、雨が少ししか降っていない宮古島。
一昨日は久し振りにまとまった雨が降った。農作物も木々や花々もうれしそうだ。農作物は、水道水での散水と、雨水とでは成長が全然違うと聞いた事がある。雨水の栄養分は相当なものらしい。

さて、うちの周りはほとんどが農家。庭にいろいろな植物が植えられている。
バンチキロー(グアバ)の木や、まんじゅうぎー(パパイヤの木)、島バナナの木などなど。

今回はその中で島バナナのお話。
島バナナは、内地で売られているバナナとは少し違う。
見た目はモンキーバナナのような小ささだ。

先日、近所の家の庭に島バナナが生っているのを見て、今年もこの季節がやってきたと嬉しくなった。うちにも友人から分けてもらった島バナナの木があり、実が生っていないか見たが、三尺バナナ(島バナナとは違う種類。実が大きい)だけが花をつけていた。

島バナナといえば、思い出すことがある。今から30年以上前、東京に住んでいた頃、父が上京してきたので職場の近くで会うことに。
父は私が学生時代に使っていた籐の大きなバックの中に、島バナナをたくさん入れてやってきた。
オゴエ!宮古を離れ、島バナナが恋しかろうと持ってきたらしい。驚くやらうれしいやら。
そして、黄色くなりかけていたバナナを職場の人たちにも食べてもらおうと分けたのだが、私ほどのテンションの高さは見えなかった。当たり前か(笑)。

島バナナは、実の角が取れ、丸々となってきたら青いまま収穫する。
立てたり、ぶら下げたり。
あるいは房ごとに分けて置き、追熟をさせる。
黄色くなったら食べごろだ。
皮はとても薄く、酸味と甘みがあり小さい中にもしっかりと味を主張している。
一回実がなると木は枯れ、その脇から新芽が出てくる。この小さいバナナの木もまたかわいいがま。

島バナナは葉も美しい。緑色の大きな葉は、大皿の代わりにしたり、食べ物を蒸すのに使ったりするが鑑賞するにも上等。

島バナナは、10月頃まで実を付ける。そろそろ市場などでも出始めるころだ。
今年も豊作でありますように。
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Posted by atalas at 12:00Comments(0)宮古島四季折々

2018年05月22日

第186回 「記念碑(地盛嶺)」



今回ご紹介する石碑は記念碑です。一応、タイトルは出来る限り碑銘に準じるのですが、ストレートに「記念碑」とだけ書かれている碑は意外と多く、「〇〇〇記念碑」と“なんの““なにを”記念しているかまで書かれているのは、最近のものしかありません(もう少し時間を遡ると、完成記念、改築記念と、“なにを”だけは判るスタイルとなるので、ゆっくりと進化はしている模様)。
そんな「記念碑」。今回は西地盛は地盛嶺の地に建つ、ズムインミ御獄。別名「地盛嶺護国神社」の祭祀小屋新築を記念した碑です。

【訪れる時間帯とか季節のいたずらなのか、ここはかなりの確率でレンズフレアが出現とします。今回の新撮でも豪勢にでてしまいました】

こちらの碑が建立されているのは、西地盛の集落の北東にある小高い丘の上。Googleのマップなどでは「地盛嶺護国神社」としてポイントされています。御獄が神社化されていることはよくありますが、護国神社となっている例は他に聞いたことがなく、地盛くらいしかないかもしれません。
尚、御嶽の名はズムインミ御獄ですが、これは地盛≒ズムイ 嶺≒ンミと宮古読みをしているにすぎません。島ことばといっても、元来はこのように漢字で書けるものを音で表記しているだけなので、漢字で書いてもらえば難解な「みゃーく」の島ことばも怖くないのですが、元になる言葉が判らず(知らずに)、新たに漢字をあてていたり、読み替えをしたりするので、それこそ謎解きパズルになっていますので、語源を探るのが困難になります(ズムインミも厳密にはタ行始まりなので、ヅムインミと書くべきしょうが、下地が旧仮名づかいのシモヂでない昨今、とりあえずはありということで)。

ズムインミ御獄(神社)は、地盛集落から鏡原集落方面へ向かう道すがらにあり、隣には地盛農村集会場(集落公民館)があります。道に面して建っている鳥居を潜り、木立の中を緩く登る参道を登りきった右手に、この碑が建っています
碑は祭祀小屋を新築した際に建立されたもので、記念碑の表に「1970年12月13日新築」と記されています。
表には他に、設立期成会会長、同副会長、区長そして施工者の名が刻まれています。尚、裏面は発起人4名と役員4名の名前が明記されていますが、期成会会長は区長でも発起人でもないので、土地の名士とかの名誉職なのでしょうか?。

コンクリート製の祭祀小屋は参道の右手奥にあります。内部は清掃が行き届いており、集落で大切にされていることがよく判ります(室内には竹箒一本しかなかったけど)。よく見ると庇の下には電気設備の痕跡があり、以前は通電されていたようです。
そして小屋を抜けた先に広場があり、祠とイビが鎮座しています。ここはちょうど小高い丘、地盛嶺のもっとも高い場所にあたるようです。
祠の中には香炉はあるものの、イビらしいきものが見当たりません。そのかわり祠の柱(脇)に、祭神の名が記されています。

「ビキタラ(髭垂れ世の主?)」と、「ユータラ(農業と豊穣の神)」。ここまではなんとか読み取れて、平良市史御嶽編でも裏取りをすることが出来たですが、このふたつの神様の名前の下に。なにかもうひとつ書かれているのですが、文字が摩耗しているので読みきれません。「カヨオンマス」?読めそうな文字列を拾ってみても、意味にならないのでよく判りません。
この他にも祠の左右に、遥拝されていると思われる、脇神の名前が記された石(コンクリ)が右に2つ、左に3つ並んでいます。しかし、こちらもかなりの難読。
一番右の石から。欠けた文字列を推定してすると読み解くことが出来ました。こちらにはれ水に関する神様、「ミズヌヌス(水の主)」と「リュウグウ(りゅうぐう)」がまとめて書かれていました。
右からふたつめの石。こちらもふたつ神様の名前が記されています。「ミルクガミ(弥勒神)」は辛うじて判読できましたが、もうひとつは「ウママベヨースマツ」?なんだかよく判りません。けれど、記事にするので改めて書いていたら、午(南の意)の方の神の意味ではないかとはたと気づきました。最初の四文字は「ウママベ」ではなく「ウ(ン)マヌパ」。確かに「マ」と「ヌ」、「べ」と「パ」なら誤読しそうだ。でも、やっぱりその後に続く言葉はさっぱり判りません。
続いて、祠を挟んですぐ左側にある石には、「ティンヌマツ(天の神)」「ナーリマツ(天界と橋渡しをする神)」とあります。こちらは平良市史の御嶽編によると脇神と記載されているので、当たっていると思われます。
左のふたつめ。こちらの神様ははっきりと読むことが出来ました。「ヤマトガミ(大和神)」でした。
一番左側の石。これがもっとも難読で、辛うじて頭の「ニヌパ」だけはなんとか解読出来た気がします。「ニヌパ」は「子の方」の意味なので、北の方の神ということになります(前述のウマヌパと対をなしている)。
嗚呼、もっともっと語彙力をつけないと。こうした難読欠損文字を補完して読み解くのは楽しいけど、とっても難しいです。


さて、最後になりますが、御獄の神社化に伴って「地盛嶺護国神社」となった理由を自分なりに考えて出してみました。
この地盛集落は、現在でも宮古空港のそばにあることはご存知のことと思います。宮古空港は戦時中に、海軍飛行場として建設され、島内でも野原の陸軍中飛行場と並ぶ軍事拠点となっていました。そんな飛行場のそばにある微高地の地盛嶺は、おそらくは飛行場守備の拠点のひとつとして利用されていたと考えられます。
資料にも場所こそ定かではありませんが、地盛には探照灯があったとされていますし、連合軍の作成した地図には、地盛界隈に「DP」というマーキングを付けています。これは恐らく「デポ(depot)」。つまり、兵站があると連合軍は考えていのだと推察されます。
そうしたことから、この地盛嶺の界隈は、きっと多くの犠牲が出たのかもしれません。そうしたことから、地盛嶺には「護国」の文字が付記されているのかもしれません。


【地盛の石碑】
第154回 「地モリ井戸新設由来」  続きを読む



2018年05月18日

第2回 「“なみを”と墓~凹天の生前にすでに準備されていた!?~」



裏座からこんにちは。
宮国でございます。
日本で初めてアニメーションを作った男、下川凹天の物語。
『Ecce Heco.』の第2話でございます。


“なみを”といえば、凹天の二番目の妻。
その菅原なみをが主導したと思われる、凹天のお墓の顛末に今回は迫ってみました。

私たち凹天チームは、何度か凹天のお墓参りへ行きました。
宮古島生まれの私は、凹天のお墓を目の前にしても、正直、どうしていいかわかりませんでした。

だって、宮古とはまるで違う、違いすぎる。
宮古出身の私にとって、お墓は門中墓。
東京の墓地は、まるでテレビや漫画の世界のようでした。
同じ精神性が育つとは思えないほどです。

お墓に水をかけたり、タワシで洗ったりなど、慣れないヤマトの作法に「ドラマかよ」と心のなかでツッコんでいました。46歳になっても初めての体験って意外とあるものですね…。

現代の宮古では、墓掃除をする日取りは決まっていますし、地元に帰省したからといって、おいそれと墓参りなどはしません。

一見、昔からの風習のように思われていますが、実は岡本恵昭著『宮古島の信仰と祭祀』(第一書房、2011年)の中に、「近代化の流れの中で、合理化された祭祀」と書かれているので、島での墓参りは比較的新しい習慣のようです。
また、「葬式で歩いた道を通って墓参りをする。通常、墓地は清掃することはなく、近づくことさえない」(同書)というほど、禁忌な事項が多かったようです。

宮古の墓参りはジュウルクニツ(旧十六日祭:後生の正月)と呼ばれ、一年に一度の本気で供養する「一球入魂」型。
重箱に島のごちそうを詰め、親族あげて墓前で盛大なピクニックを行うのです(編注:ジュウルクニツ。先島地方の風習で、本島地方ではあまり行われない。本島では代わりに清明祭(シーミー)として、旧暦の3月頃に、同じようにお墓の前で一族が集い重箱をつつく)。

嗚呼、寄り道をしてしまいました。

さてさて、下川一族の墓ですが、今やどこにあるか分かりません。
というか、下川家の伝統とまるで違う世界を生きた凹天は、親戚とも疎遠になってしまったのではないでしょうか。

東京に下川家の墓はなくとも、凹天のお墓は現存しています。
そこには二番目の妻“なみを”がキーパーソンになっているのです。
 一番座へようこそ。
 ちょっとオトーリが恋しくなっている、片岡慎泰です。

 下川凹天が亡くなった当時は、まだまだ土葬の多い時代でした。
特に茨城県は土葬が最後まで残った地域のひとつです。厳密にいえば、現在も法律的に土葬はまだ禁じられていませんが、ちょっとした手続きが必要。しかも、それで、許可されるかどうかは、自治体の判断によるようです。

 ところが、凹天の亡骸の運ばれた場所は、茨城県とはほど遠い東京都で、そこで火葬されました。
 どうやら、凹天のふたり目の妻“なみを”の意向に添ったようです。

【長應寺~ちょうおうじ~品川区小山1丁目4番地】

 なんと“なみを”は、1963年に亡くなった後に(編注:凹天が亡くなったのは1973年5月26日)、凹天のお葬式の準備やお墓まで用意していたのです。しかもこの墓の名前には、向かって左に下川、菅原(編注:“なみを”の旧姓)とあり、その下に両家之墓とあります。家紋もそれぞれ仲良く隣り合って彫られています。もちろん、俗名も、戒名もあります。

 しかし、こうした墓の作りが当時にあって普通にあったとは思えません。文献をあたるとふたりは「結婚」をしていたとあるのですが、これは婚姻届が公にされるまでは、謎というしか。このようなところからも、下川凹天が漫画家であることを隠していた、“なみを”の気持ちを察することができます。

 ここでは、“なみを”の実家である菅原家を掘り起こす必要性があることを指摘するに留めます。
 地名から判断して、船橋市のかつての中心だったかもしれない、船橋市印内1番地(JR西船橋の駅前付近)にふたりが住んでいたこと、“なみを”が野田醤油(現・kikkoman)の社長となった茂木房五郎の妹と縫製学校の同級生だったこと、家紋が菅原家の代表紋のひとつ「丸に梅鉢」であることが手掛かりになるかと。

 しかも興味深いことに、当時の新聞記事によると、凹天の通夜は世田谷区の家で行われたとあるのですが、その家は“なみを”の兄、菅原の家。また、長應寺で告別式が行われた時も、喪主は“なみを”の兄とあります。

 この時、凹天の高弟のひとり森比呂志(もり ひろし)は「麻布の寺で納骨式が行われた」と書いており、参列者がお墓を訪ねた記録が残されています。
これは長應寺のことだと思われますが、東京の地理を知る人は、ちょいと遠いとお気づきでしょう。

 しかし、川崎出身で、その頃は平塚に住んでいた森比呂志の感覚からすると、麻布方面のイメージがあったのかもしれません。
今なら、湘南・川崎方面からだと、目黒線不動前(編注:長應寺の最寄駅)から、メトロ南北線の麻布十番まで電車で一本ですから、麻布と書いてあっもおかしくないのかもしれません。まして、平塚から長應寺は直線距離で約50キロも離れているのですから(編注:東京府麻布区は、1878~1947年まで存在した)。
先述の森比呂志はこうも記しています。

 「先生の墓なぞあるのかしら」

 彼は凹天の奔放な性格を知っており、また石材店の息子というふたつの要素があいまって、自然と出てきた実感のともなった言葉だったと考えられます。森比呂志は、”なみを”の献身だった姿を思い出し、涙があふれてしかたなかったそうです。

 その時に居合わせたのは、森比呂志、もうひとりの高弟である石川信介(いしかわ しんすけ)。それに横木健二(よこぎ けんじ)、御法川富夫(みのりがわ とみお)の凹天一門。そして、友人代表として宮尾しげを。
そして雨が降ってきました。
宮尾しげをは、傘をさしながら「凹に墓などあるのかねェ」と、独り言を述べたことも記録に残されています。
雨が降らずに悩み続けた宮古島生まれの下川凹天が、最後に雨を降らせたのもなにかの巡りあわせでしょうか。

 かくして、石川信介に「宮古に帰りたい」と語っていた下川凹天終焉の地は、現在では高層ビル群の中にある墓地の一画となったのでした。

 一番座からは、以上です。
再び、裏座から宮国です!

毎日、お墓参りができるなんて、私にとってはピンときません。
多分、宮古の感覚からいくと御獄(うたき)みたいな存在ではないでしょうか。
御獄は、集落のそばのひとり静かに祈る場所。
死者とつながる場所。
そこには、男女もなければ、家の縛りもない。
死んだら、丸裸であの世に戻るだけなのですから。
そんな御獄メンタルな私なので、下川家と菅原家が両名並んだ墓石に違和感はもちませんでした。

昭和を生き抜いたふたりの結論は、というか、二番目の妻・菅原なみをが主導であったかもしれませんが、しっかりとふたりの思いが墓石に刻まれているようです。

時代背景を考えると、両名の名前を残すことが、菅原家に対する「一緒にお墓に入るための方便」だったかもしれないし、菅原なみをの「孤立無援の凹天への愛情や同情」だったのかもしれません。お決まりの夫婦愛とはちょっと違うように思えます。

謎は深まるばかり。凹天よ、だいずめんどくさいさいが、あんたって人は。

次回は、晩年までを見つめた弟子たちの物語がはじまります。
凹天自身や作品だけが凹天を語るのみにあらず!乞うご期待!


【2018/06/04 一部改訂】
【2019/10/09 現在】  


Posted by atalas at 12:00Comments(0)Ecce HECO.(エッケヘコ)

2018年05月15日

第185回 「豊見氏親墓碑」



先週の比屋地御獄案内碑の回で登場した、鱶(サメ)退治の為政者(親方職)である豊見氏の石碑へと繋げてみました。もっとも連綿とというにはお粗末で、ご託を並べてズルズルと引っ張って来た感ではありますが、まあ、漲水界隈三部作から始まった石碑探報繋がりシリーズ。もう少しだけお付き合いください。

というわけで、今回ご紹介する石碑は「豊見氏親墓碑」です。
先に申し上げておきますと、こちらの石碑はお墓ではありません。ただの墓碑にすぎません。けれど、まあ、御多分に漏れず信仰の対象として御獄~拝所となっています(碑のお隣にある)。
いや、ちょっと待って!。先週、比屋地御獄を紹介した時。赤良伴金とともに、豊見氏親方も祭神として祀られているって話を書いばかりなのですけど。さすがにこの距離で遥拝ってのは、いくら面倒くさがり屋な島人だとしても、ちょっと考えにくい気もします。じゃあ、この拝所には何が祀られて、何を拝んでいるの訳になります。と、啖呵を切ってはみたものの、こちらの拝所についての資料がなく、詳細についても不明ですが、恐らく豊見氏の末裔の一族が祖先を拝んでいるものと考えられます。端的に云うと、骨のないお墓として。最初に墓じゃないと書いておきながら、あっさりと手のひら返しをしてしまいました。それというのも、この拝所。清掃が行き届いており、供物も絶えることがく、訪れている頻度が高いことが判ります。そしてなによりも隣にある石碑がそれを物語っています。

謎を解き、理解を深めるために、碑に記されている「豊見氏親墓碑由来」を紹介しておきましょう。
 昔(1450年頃)、伊良部と平良の渡海に大鱶が出現し、舟を覆えしては人命を害し、平良との往来も途絶え島民は困っていました。
 その時、伊良部の主長であった豊見氏親は一身を捨てて島民を苦しみから救おうと決心。先祖伝来の刀を抜き、小舟に乗り沖へと漕ぎ出した。しばらくすると大鱶が現れ氏親を舟ごと呑み込んだ。氏親は腹の中にあって刀で腹中をさんざんにに割き破り、ついに大鱶を退治した。氏親は大鱶の腹を割って出ると、この下の比屋地の浜で気力も尽き息絶えてしまった。島民は氏親をこの地に手厚く葬り、同時に比屋地御獄に航海の神として奉りました。
 伊良部島民を安心させたということで、のちに王府より伊安氏を賜り、子孫代々受け継がれています。大鱶を退治した刀は今も氏親の末裔である下地家に保管され町指定文化財となっています。
「伊安氏系図家譜正統」より

平成13年12月吉日
伊安氏一族同門
代表者下地方詮
伝承から大胆に察すると、碑にも記されている通り、大鱶と激闘を演じた氏親は、平良との間に広がる海を望む「この地」に葬られたと考えられます。比屋地御嶽の祭神として祀られはしたけれど、墓そのものは比屋地の御獄ではなく、この碑の後方、つまり牧山の展望台付近までの間にある、藪の中に実は存在していると妄想していました。
なぜかって、よくよく見てみると碑のすぐ後ろにマーニが伸びていることからの想像です。このマーニ(クロツグ)は古墓の目印として植えられていることが多い植物なので、マーニの植生があるところに古墓があり(あった)と読み取れるからなのです。

ネットでこの碑について調べていたら、想像が真実だったことを裏付ける、なかなか興味深い記事を発見しました。
2001年に碑が建立された時の記事で、代表者にして伊安氏直系18代目の下地方詮氏がこのように語っていました。「墓が雑木林の中の分かりにくい場所にあり、一族の墓参りに支障をきたしていることから、墓の代わりの分かりやすい参拝所にしようと建立した」と。ただの直観が、当っていたことにちょっと鼻が伸びました。

豊見氏親の墓碑建立/伊良部町牧山公園(2001年12月26日 宮古毎日新聞) ※画像データが欠損

では、墓はどこにあるのでしょうか。ちょっと、いや。かなり気になるところですが、この界隈、トラバーチンの採掘でがっつりと佐良浜断層涯が削り取られているのです(空中写真を見ると不自然に直線がある)。もしかするとこのあたりも関係しているのかもしれませんが、個人的にひとつ、墓っぽいよなぁ~という場所が、ここから牧山の展望台へ向かう遊歩道の途中にあるのです。
それはガジュマルの老木が絡みついた、崩れかけた大岩の塊りです。雰囲気だけはかなりあります。そして伊安氏の墓所とも噂される(字)伊良部のスサビミャーカは、いわゆる巨石墓の系譜を持つ文化(久松を中心に来間や下地、伊良部など宮古の西部域に多い墓の作り)が息づいています。その大岩が巨石墓(ミャーカ)だとは云わないけれど、もしかして、そんな浪漫があったらちょっと楽しいなっと。けれど、参詣が難しいと直系の子孫が語っているので、もっともっと藪深い森の中に本当の墓はあるのだと思います。

最後に、おそらく誰もが気になっているであろう「豊見氏親」の読み方について、まとめておきたいと思います。
通常、紹介記事などでも「豊見氏親」と書いて、「うずぬしゅう」と読まれているのですが、よくよく考えてみると、かなりおかしいことに気づきます。
まず、読みの最後の部分。「しゅう」ですが、これは「主」、「あるじ」の意味です。さすがに「親」と書いて、「しゅう」と読むには難がありますが、この「親」も上位の人物を表す敬称なので、完全な間違いとは云えないかと思われます。ましてやこの豊見氏親は、「親方」職をつとめていたとされているので、もしかするとそのあたりが混ざってしまったのかもしれません。
次に「うず」ですが、こちらは一族一門一家を表す「氏(うじ)」が転訛した読みとなります。つまり、「うずぬしゅう」とは、「氏の主(親)」ということが判ります。
つまり、「豊見氏親」と書いて「うずぬしゅう」と読むには、後ろ半分しか表音していないことになり、かなりいい加減な状態であったことが露呈しました。その一方で、碑文に「氏親」と記されていたのは、「うずぬしゅう」として読みは正しく、流石は末裔なのだと感心せざるを得ませんでした。
これによって苗字は「豊見」さんであることが確定しましたが、宮古には「豊見親(とぅゆみゃ)」と呼ぶ首長職があり、字面的にとても判りづらいことになってしまいました(後世的には?)。慶世村恒任の「宮古史伝」によると、「豊(とよ)」「見(む)」「氏(うじ)」「親(おや)」とルビがふられており、一応、そこはかとなく区別はつけられていたようです。
のちに一族は、「一世豊見氏親方」を始祖とした家譜を持ち、「伊」良部島民を「安」心させたという伝承から、「伊安氏」の名を拝命します。読みは「いあん」で、名乗り頭は「方」となっています。
もしかして、字面的に豊見氏と豊見親が混同しやすいからという理由で、改名させられていたりしたら、なかなか面白いのですが、まあ、そんな「小説より奇なり」みたいなことはないでしょうけど・・・。

【参考資料】
宮古島市史資料2「宮古の系図家譜」(pdf)

【関連石碑】
第118回 「復帰記念事業の碑」  続きを読む


2018年05月11日

32冊目 「沖縄の水中文化遺産―青い海に沈んだ歴史のカケラ」



お久しぶりです。
金曜第3週に「続ロベルトソン号の秘密」を担当していましたツジです。
「続ロベ」の一時掲載休止からはや一年近くになり、新しいネタの仕込みをしているところなのですが、なかなか再開できずすみません。この間にも、新しい事実が色々と見つかっていますので、早くお伝えできるよう頑張りたいと思います。

さて、今日はピンチヒッターとして、島の本棚に登壇させていただきます。
紹介するのは、『沖縄の水中文化遺産―青い海に沈んだ歴史のカケラ』。片岡千亜妃・宮城弘樹・渡辺美季の3人の先生方からなる「南西諸島水中文化遺産研究会」により、ボーダーインクから2014年に発行された本です。この本では、宮古島における1873年のロベルトソン号遭難事件が別の文脈で取り上げられて、その意味でも非常に面白いです。とは言えここで扱われている水中文化「遺産」の舞台と言うのは、海底「遺跡」のような大掛かりなものではなく、沖縄の近海に無数に存在する、交易船の沈没現場のこと。沈没船に残された積み荷や船体のかけらなどを手がかりすれば、新たな史実が見つかる可能性があるのではないか、あるいはこれまでとは違った角度から史実を見つめ直すことができるのではないか、という斬新な研究方法が提起されています。

考察の出発点になっているのは、沖縄本島北部、国頭村宜名真にある「オランダ墓」(=西洋人の墓)。この墓にまつわる郷土資料、沈没現場からの出土品、それにイギリスの記録などを突き合わせた結果、このお墓には、1872年に宜名真沖で起きたイギリス商船の遭難で亡くなった乗組員たちが埋葬されていたことが判明します[40-45ページ]。さらに、商船の名前が「ベナレス号」であること、乗組員18人のうち5人が生存して保護され、救助を求める彼らの書簡に応じてイギリス「カーリュー号」が琉球に派遣されたことなど、遭難をめぐる一連の史実が明らかになっていきます[46-63ページ]。
そして宮古との関連で興味深いのが、ここから先の展開です。ベナレス号の生存者は、彼らを引き取りにやって来たカーリュー号によって中国に送り届けられたのですが(1873年1月)、その後、同じ年の11月に、カーリュー号は琉球王への謝礼のために再度琉球を訪問しています。この時、カーリュー号の艦長ブレナンは、琉球王府の役人から、数か月前に宮古島に「ジャーマン国」の船が漂着した、との情報を伝えられたと言うのです[69-70ページ]。この漂着船こそ、エドゥアルト・ヘルンスハイムを船長とするドイツ商船ロベルトソン号なのですが、この時点では琉球王府もブレナンも、この船がどういう船なのかも、また生存者がどういう状況にあるのかもわかりません。そこでブレナンは、ベナレス号の生存者を中国へ送り届ける帰途、宮古島に立ち寄り、生存者がいれば一緒に乗せて行くことを請け合ったと言うのです。

実際にカーリュー号は、1873年の11月に宮古島に立ち寄っています(この史実は、稲村賢敷『宮古島旧記並詩歌集解』に収められた「宮古島在番記」にも記録があります:同書249ページ)。しかし(皆さんもご存じのように)、ドイツ人一行は既に8月に、官船を与えられて宮古を出航し、台湾に向かっています。ブレナンらも、このことを島の役人から聞き出して、島にもう外国人が残っていないことを知ると、同行した琉球側の役人2人を下船させ、11月15日の晩に宮古を出発、19日に上海に到着しています。

カーリュー号はこのように、まず遭難船の捜索のために琉球を訪れ、さらに乗組員救助のお礼のために首里を再訪したのですが、その船が、これまた漂着船であるロベルトソン号の乗組員捜索のために宮古に来ていた、という経緯が本書によって確認されたことは、宮古の研究にも非常に大きな意味を持っています。今後の研究においては、ドイツ語の資料だけでなく、他の欧米の国の漂着事例や記録なども参考にしていくことで、ロベルトソン号遭難にまつわる新しい史実が見つかる可能性があります。また本書でも提起されているように、遭難現場の水中を調査すれば、もしかするとロベルトソン号の遺物が見つかるかもしれませんし、宮古近海に、他にも交易船が沈没していた事実が明らかになるかもしれません。そんなわけで、陸上に残る文書だけでなく、海の底に眠る資料にも目を向けて下さいね、というのが、この本の全体から伝わって来る熱いメッセージだと思いました。興味を持たれた方は、ぜひ一読いただくことをお勧めします。

[書籍データ]
沖縄の水中文化遺産―青い海に沈んだ歴史のカケラ
編 集 南西諸島水中文化遺産研究会
発 行 ボーダーインク
発行日 2014年11月1日
ISBN 978-4-89982-264-6

[ツジトモキ コラム]
「続ロベルトソン号の秘密」

[んなま to んきゃーん~みゃーく沈没船・難破船セレクト]
第17回 「伊良部丸遭難の地 慰霊碑」
第67回 「プロヴィデンス号来航200年記念碑」
第164回 「オランダ船遭難の地」
第165回 「報恩之碑」  


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2018年05月08日

第184回 「比屋地御獄案内碑」



先週は平良で有名な金殿である「船立堂」の石碑を紹介しました。聡明な読者貴兄におきましては、なんとなく思わせぶりなフレーズを仕込んでおきましたので、今回はきっとここが紹介されるとお気づきになっていたのではないでしょうか。けれど、同時にここに石碑なんてあったっけ?とも思われていたのではないでしょうか?。ええ、あるんです。この比屋地御獄の入口にひっそりと石碑はあるのです。といっても、正確には伊良部村が建立した、御獄の由緒を書き記したコンクリート製の案内板なのですが、これがまたなかなかに年代物なのです。

ということで、比屋地御獄の案内碑ですが、まずこの御獄の読みから。
比屋地。苗字や地名なら「ひやぢ」でしょうが、島の読み方では「ピャーズ」となります。しかし、これは南区の伊良部側の読み方。北区の佐良浜では「コンマウキャー」と呼ばれています。こちらは牧(下牧/地名)のコン(フン≒郡/集落の意)マウキャー(前/南にある)御獄という意味なのだてそうです。同じひとつの島で異なる呼び方があるというのは、やはり基礎となる人たちの出自が異なることを示しているように感じます。特に、佐良浜地区は池間民族の系譜であり、伊良部地区は久貝を初めとする宮古のみならず、八重山や沖永良部など異邦の土地から渡って来た人たちと云われています。

碑に記されいる比屋地御獄の由来をまず、紹介しておきます。
この社に祭られている神は、赤良伴金と言う男神で五穀豊穣の神、島守の神と伝えられ、久米島から渡来してきたと言う説が有力である。
その頃、西暦1650年頃、宮古の処々に内乱が起り、野崎村(現在の久松)の人々が難を逃れて下牧に在る積上の地に漂着し集落を形成した。この時代に赤良兄弟が現れ、農作物の普及や農耕の技術指導を施し、島民の生活を救ったと言われている。その後、兄は(後のおもと岳の神)八重山に渡ったが、弟の伴金はこの地に残り、人々から島主に推され、豊に島を治めたので、彼の亡き後、五穀豊穣の神としてこの社に祭られた。
又、こり時代の集落が村落の発祥と云われ、島守の神として、以後、村一円の拝殿として島びとが参拝している。

施工 伊良部村役場 村長 譜久村善
奉納 (名)寿工業 代表 仲宗根太郎
         役員 下地恵 普天間■
工事担当 渡久山武夫
建立年月日 昭和四十九年三月十一日
■は土に埋まっていて読めない
祭神は赤良伴金(あからともがね)。一説には兄が“金殿”つまり鍛冶屋であって、その弟(十干十二支で、兄を“~え”、弟を“~と”と読む)なので、お伴のトモ(祭祀でもツカサなどの手伝いをする人をトモと呼ばれることがある)から、トモガネと呼ばれたとも云われています。
この兄弟は1650年代の人物とされ、久米島から渡ってきています。船立堂の逸話は神代の出来事とされていますが、「(9人)兄弟」、「久米島(を往還)」、「鍛冶屋(黒金と巻物)」という3つもキーワードが合致するのは、あまりにも偶然過ぎる気がします。
この兄弟の他にも北側(沖縄本島方面、大和の島々)からやって来た人たちの伝承は、伊良部には多くあります(1744年の話になりますが、秋田県能代の船が、宮城沖の金華山から、現在の下地島空港にあたるナガビタまで漂流した話もあるので、昔から似たような事例はいくらでもあったのではないでしょうか。大和神屋御獄/佐良浜横岳)。

【左】 冷厳な空気に包まれた木立の中にある比屋地御嶽。
【右】 マキブー≒積上の浜。遠く対岸には野崎の山並みが見えている。


そして平良の野崎村から積上(大和ブー大岩の北方に小字名があり、そこにはマキブーといわれる小さな浜がある。正面には野崎の山並みが見える)に上陸して、出耕作の畑屋(パリヤー/パリバンヤー)を経て定住してゆきます(浜の上方には、マキガーと呼ばれる降り井も残っている)。

実はこの比屋地御獄には、もうひとり祭神がいます。フカ(鮫)退治をした豊見(とぅゆん)氏です。施政者として領民の安全を守るため、ひとり鮫と戦った英雄として祀られています。名前が宮古ではよく耳にする、役職(首長)の豊見親(とぅゆみゃ)に似ているためとても紛らわしく、誤記も散見されるのですが、比屋地御嶽の入口の鳥居には「豊見親比屋地御嶽」と書かれており、字面のままイメージすると「比屋地豊見親」という人物がいたかのような誤解をしそうな気もします。神格化されたこの豊見氏が、豊見親であった記録はないようです。ただ、一世豊見氏親方を始祖とする家譜を持つ、伊安(いやす)氏を名乗る家系があります。

話が少しそれますが、この豊見氏が鮫退治に行くか行くまいかの二択を思案した伝承が伝わる、フタツガーという井戸が渡口の浜の東詰近くにあります(戦いを決意した後に、比屋地御嶽で必勝を祈願し、小舟で海に漕ぎ出して鮫と闘います)。また、後の伊安氏は伊良部に居していたといわれ(宝刀を所有する家譜的な末裔も伊良部在住)、一説ではスサビミャーカは伊安氏の墓であるとも云われています(真偽は不明)。
こうした事情を妄想して考えると、野崎から海を渡って積上に上陸し、比屋地(牧山)を経て伊良部へと移っている感じがなんとなく見えてきます。さらに、霊石のある伊良部元島や、フナハガー(久貝を元にした言葉で、後に村立てされる国仲の語源とも云われている)なども含めて夢想すると、はっきりとはしないけれど、どことなくつながりや流れが、史実と伝承と現地に痕跡として残っていて、ついつい悠久の浪漫が湧き出てくるので妄想が止まらなくなります。

【上】 カボチャ畑の中にひっそりとある、フタツガー。

【参考資料】
「綾道-伊良部島編-」 (宮古島市教育委員会 2017)
「伊良部村史」 (伊良部村役場 1978)

【関連石碑】
第109回 「清美 一九六三年三月四日」
第112回 「字佐和田村落生誕五百五十年記念之碑」
第113回 「字伊良部・仲地 村落生誕七〇〇年記念之碑」
第118回 「復帰記念事業の碑」
第150回 スペシャル企画「霊石」
第183回 「船立堂」  続きを読む


2018年05月04日

log12 「オトーリにまつわるエトセトラ」



ゴールデンウイーク真っ只中、皆さまリア充していますか?。
私は息子の部活の行事が無事終わりホッとしています。
と言うのも、宮古の小学校の各運動部では、毎年春から夏にかけて先島親善大会(名称は異なる場合があります)が行われていて、お迎えする側はお出迎えからお見送りまでおもてなし三昧の日々になるのです。
これは子供たちの部活動だけではなく、大人のスポーツ団体でも恒例の行事となっているようです。

【先島】
さきしま。先島諸島。全国の天気予報ではいつも日本地図に映らない、八重山諸島(石垣市、竹富町、与那国町)と宮古諸島(宮古島市、多良間村)を合わせた地域の呼称。

このふたつの島々では毎年交互に開催される親善大会は、勝ち負けよりも親睦を深めるのが一番の目的だったりします。そのため、夜の部の親睦会は昼の試合よりさらに盛り上がります。
そして団体によってはこの親睦会、飲食店ではなく、公民館などを借りて開催するので、料理もお母さん達の手作りなのです。さすがお祝い慣れしているお母さん方!手分けして段取りよく数十人から百名近い人数のご馳走をこしらえていきます。

お父さん方は会場作り、プログラム作り、そして会が始まればオトーリも欠かせません。
さて、今回はこのオトーリに焦点を当て、ドゥカッティ(自分勝手)な考察を交えて紐解いてみたいと思います。

【オトーリ】
宮古では言わずと知れたお酒の飲み方。ちなみに、ここ宮古では「酒」は日本酒ではなく泡盛を指します。
ザックリと説明をば。

まず泡盛と水と氷のオトーリセットを用意して予め泡盛3:水7くらいに割ったものをピッチャーもしくは一升瓶に作っておく。
グラスは小さめがベターですが、野外や公民館などではプラコップでジョウブンです。

【ジョウブン】
充分。大丈夫。

①宴会の席で1人が親になり、立って口上を述べグラスに入れた酒を飲み干す。
この口上の間は、ちゃんと聞いていないといけません。おしゃべりでもしようものなら本気で叱られます。

②親は飲み干したグラスに酒を注ぎ、隣の人に渡す。
このとき、時計回りだと「豊年まわり」、反対に左回りだと「大漁まわり」ですが、皆さんそんなに気にせず回しているようです。
それにしても小さな島でも地域によって基幹産業が異なり、回す方向も違うのですね。
そう言えば宮古の夏まつりで行われる大綱引きでも、西軍が勝てば大漁、東軍が勝てば五穀豊穣とされていますが、大漁と五穀豊穣は両立出来ないものなのでしょうか?。

③酒を渡された人は飲み干してコップ親に返す。
このとき自分が飲み干せる量にしてもらいましょう。少しでいいときは、注がれる前に「ぴっちゃがま(ぴーちゃがま)」と伝えます。また、「この量でストップ!」というときには、「とーとーとー!」と言いましょう。

【ぴっちゃがま(ぴーちゃがま)】
少しだけ。私が宮古に来て最初に覚えた宮古口かも。
「ぴっちゃ」は「いぴっちゃ」。少しの意味。「がま」は沖縄本島の「小(ぐぁー)」と同じで、小さくて可愛いものや少ないものを表す。「~だけ」の意も。
例:「少ーしがま席を詰めてくださいね。」

【トートートー】
「トー」は「終わり」の意味。
飲み物を注いでもらってるときに「トートートー!」と言うと「もうジョウブン」の意味。

④親はさらに隣へ隣へ移動し、②③を繰り返す。
みんなに回し終えたら最後の人が親に注ぎ、それを親が飲み、シメの口上を述べ、「次は〇〇さんに繋ぎます」と次の親を指名し、指名された人はつべこべ言わず親になり①から④を繰り返す。

人数が多いときは親が2人になることもありますが、2チームに分かれるわけではありません。同じ参加者の中を、席が離れた2人が同時進行で始めていきます。が、進むペースが違うと、早いほうがもう1人に追いついてしまい、飲まされる側は立て続けに親2人が来て連続で飲むハメになったりする、なんてこともあります。
私が初めて宮古に来て地元の方とオトーリしたときは、このエンドレスな飲み方の最中、いつ帰っていいのか分からず困りました。内地のように終電があれば帰るキッカケになるのですが、電車の無い宮古だと無限に続いていくのです。
中にはトイレに行くフリをして、いつの間にか帰る方もいて、「黙って帰ったんだ!」と驚きましたが、実はあれは場をしらけさせないためでもあるんですね。
ま、そうでもしないと「帰るならあと1回まわしてから帰れ」となり、ややこしいからでもありますが。

もちろん、運転して帰る人や飲まない人はやらなくて大丈夫です。親が回って来たら自分のソフトドリンクでニッコリ乾杯して過ぎ去ってもらいます。
しかし、家族単位で参加する宴会では男性と女性は離れて座ることが多く、男性陣のみで回すことがほとんどなので、女性はあまり参加しません。
一方、女性陣(奥さん達)は少しでも早く帰れるようにジワジワ片付けていきます。

宮古保健所が付き合い酒を断る目的で平成17年度から「オトーリカード」なるものを発行していますが、実際に使っている人を私はまだ見たことがありません。今年度からは「美ぎ酒飲みカード(かぎさきのみカード)」と何故か名称が変わりました。

昔はどうか分かりませんが、最近はオトーリを無理強いする方もほとんどいないのであまりカードの必要性を感じませんが、発行は無料で宮古島市民・多良間村民なら誰でも交付可能だそうです。私も今回のコラムを書くに当たり、カードを作りに行ってきました。

日頃の摂取量をチェックシートに記入したり、1日の適正飲酒量の説明等を受けるとめでたくカード発行となります。
宮古島保健所の健康推進班のアパラギシェーネン(本当にイケメン!)が 対応してくれましたよ!皆様も是非!。

さて宮古独特の飲み方、このオトーリはもともとは神事の儀式から始まったという説や、昔は貴重だった酒を皆に平等に行き渡るようにしたという説がありますが、何よりその場にいる人全員とコミュニケーションが取れることが最大のメリットではないでしょうか。
今宵も宮古のあちこちでオトーリが繰り広げられていることでしょう。お帰りの際は「サバぬにゃーん」とならぬよう、くれぐれも履き物を間違えないようお気をつけくださいね。

【サバぬにゃーん】
宮古の久松出身の下地イサムさんの歌のタイトル。
「サバ」→サンダル。島ぞうり。
「ぬ」→の
「にゃーん」→無い
つまり「サンダルが無ーい」
ちなみに宮古では一人一足以上は所有していると思われる島サバ(島ぞうり)は島と付くが、沖縄産ではなくmade in Indonesiaです。軽くて履きやすくて上等!。


ではまた来月。
あとからねー!  続きを読む


2018年05月01日

第183回 「船立堂」



金殿とは鍛冶屋の神。火を使って金属を加工する鍛冶屋は、島の民のために農具を作り、直すモノとして農耕の神と崇められ、さらに解釈は拡大して繁栄の神であると、先週の「迎御嶽大明神」でさらっと解説しましたが、改めて平良市史御嶽編を読み直してみると、この迎御嶽の祭神はカンドゥヌス(金殿の主)のほかに、ティンヌマツとティンヌカマドの夫婦神が祀られているようでした。そういえば近所に凄い有名な金殿がいるじゃないかと思い出し、おあつらえ向きに碑もあるし、これはもう流れに乗って、それを紹介してみるしかありませんね。

ということで。船立堂です。
綾道‐平良北編‐でも紹介されている御嶽なので、知っている方も多いと思われます。場所は西仲宗根の住宅街の中にあります。細かいネタを入れておくと、道を挟んで字が異なる字境に位置していまして、道の“西側”の字は、東仲宗根になります。はい、そうです。西に東仲宗根、東に西仲宗根があるという、方角と字名が逆転している場所なのです。ただ、これは世界標準の図北ベースでのこと。島の“北”は図北から東に45度ほど傾いているため、そんな矛盾は生じないという、民俗方位のマジックが実はあります。

【左】フクギに守られた船立堂入口。この左側が西にある東仲宗根。
【右】船立堂の裏手に広がる公園。住宅街中とは思えないちょっと贅沢な空間。


役に立たない豆知識はともあれ、フクギに囲われた船立堂は、自然を残しつつ都市型の公園に組み込まれ、わずかに残った御嶽林を従えてコンクリート製の祠があります。
船立堂には鳥居こそありませんが、石畳の参道に小型の登楼(左側の登楼は長いこと壊れたままだったのですが、木材で形状の復元してありました)が据えられています。清掃も行き届いており、地域の人たちに敬われていることが見てとれます。
祠の中には謎の文様の石・・・コンクリートが鎮座していました。なんだろうかと注意深く観察してみると、屋根の部分の拝み瓦(切妻屋根の棟の側面に位置する飾り瓦。破風や寄棟などの鬼瓦的な部分)の右側が、ガジュマルに侵蝕されてひとつありません。どうやらそれを拾って、まるでご神体のように祠に納めてありました。

【左】船立堂の正面。右の登楼が赤っぽいのは、木で補修それているため。屋根の右角にも注目!
【右】祠の中の謎の石(コンクリート)。知らずに見たら、なんとなくそれっぽさがあります。


さてさて、肝心の石碑ですが、祠の右手に建立されています。碑の表には中央に大きく「船立堂」と刻まれ、それを挟むように祭祀の「農具神兄カネドノ」「妹シラクニヤスツカサ」の名が左右に記されています。このカネドノとシラクニヤスは兄妹神として祀られています。

この兄妹は久米島按司の子で、兄が娶った妻が邪険放埒な女で、妹のことが邪魔になり、按司に讒言(ざんげん)を吹き込み、それを信じた按司は妹を船に乗せて放逐します。それを知った兄は泳いで妹の乗る船に追いつき、そのままふたりは流されます。
翌朝、船は宮古島の漲水の浜に漂着し、ふたりは船立の地に移り住み、里人の水くみや薪運びなどを手伝って暮らします。やがて妹は、住屋里かねこ世の主と夫婦になり、9人の男子をもうけます。
成人した子供たちは祖父である久米島按司に逢いたいと思い、母を伴って久米島へと渡り按司と対面します。按司はかつての罪を悔いて親子の愛を尽くし、黒金(くろがね)や巻物を贈られ、宮古島へと帰ります。
兄はこの黒金から巻物を基に鍛冶屋を起こし、ヘラや鎌などの農具を作り農業が発達させ、島を豊穣の世にします。
人々はこれは兄妹のお陰だとして、ふたりの死後、船立の地に納め遺骨を納め御嶽を建て、神として崇めました。

大きく端折ってますが、ざっとこんな感じの物語です。鍛冶屋として活躍した兄はカネドノ≒金殿として祀られるのは判りますが、妹はツカサと呼ばれていますが、9人の息子を産んだことしか活躍は記さていません。また、9人の息子たちの消息も判りません。けど、何気に兄弟(妹)と久米島、そして鍛冶屋(カネドノ)のキーワードは、なんとなくセットでエピソードとなっているようです。
いけないいけない。ええと、忘れるとこでした。この兄妹のエピソードは、石碑の裏面に漢字とカタカナでびっしりと書き込まれています。かなり読みづらいので、内容については船立堂の入口に建てられている案内板に「御嶽由来記」(1705)を要約したものがあるので、そちらをチェックして見て下さい。
けれど、もし現地で“読む”のなら、石碑の脇にある御嶽林との境界を作っている壁面でしょう。それは壁としての実用的用途のほかに、「船立堂建築寄付者氏名」を記す情報が刻まれているからです。
建立は1961年の戦後にして復帰前です。もちろん、金額は「弗」(ドル)仕立て。そして個人名に交じって、場所柄なのか「平良市役所職員一同」「平良市會議員」「北小学校幼稚園」など、公共の団体名が見受けられます。
ちなみに一番目は60ドルを寄付している「宮古製糖会社」でした。二番目の高江洌良知は、石碑の寄付者でもあることから、ある意味では一番の功労者と云えます。このほかにも1969年に第9代平良市長となる平良重信を初めとした著名人や、会社や商店の名前があり、当時の社会性も透けて見えて来て面白いです。ちなみに石碑の建立年月日は1961年4月1日なのに対し、壁の寄付者名壁(板)は4月5日と微妙なずれがあります。

最後に戯言をひとつ。冒頭のリードを書いていて、ついつい厨二力が発現して妄想が暴走してしまったのですが・・・。なんかそう、英霊ではないけど、こうした島の御嶽の神をサーバントとして召喚して、聖杯を巡ってバトルするんじゃなくて、神通力(もちろんキャラごとにパラメーター)を駆使して、島を繁栄させて歴史を築いてプロデュースしてゆく系のソーシャルゲームを開発するというのはダメだろうか。タイトルは・・・「F@te/Sim Island m@ster」(混ぜるなキケン)。  続きを読む