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2021年05月26日

第26回「下川凹天の最初の妻 磯部たま子の巻その3」



今日は凹天の命日です。宮国さんが、ヤマト形式のお墓を初めて拝んだのは、凹天の墓でした。トップバッターは、作家の姜信子(きょう のぶこ)さんです。



実に不思議な縁でした。


姜 信子


振り返ってみれば、宮国優子さんと知り合ったのはほんの3年ほど前、なのに、もうずっと前からの知り合いのようで、短い間に本当に忘れがたいいろいろな出来事が彼女との間にはあったのです。私は彼女のことを「隊長」と呼んでいました。その懐の深さと、人懐っこさと、人と人をつないで生まれる新しい可能性を面白がる心と、そうやって人をつないでいった責任をきっちりとる面倒見の良さゆえの呼び名です。(しょっぱなから、私、褒めまくりですね。いやいやいや姜さん、それは言い過ぎ、アハハハハ、と手をぶんぶん振りながら笑う隊長の顔が見えるようだ)


初めて会ったのは2018年7月7日。神奈川大学で催された公開研究会「宮古・八重山の御嶽と神社―近代沖縄の地域社会と祭祀再編」でのこと。私は石垣島から講師としていらした大田静男(おおた しずお)さんに会うために、隊長は同じく宮古島から講師としていらした下地和宏(しもじ かずひろ)さんに会うために、大学の教室へとやってきた。研究会終了後の懇親会で彼女が宮古島出身ということを知りました。そのとき宮古島がらみで厄介な案件を抱えていた私は思わず彼女に相談したのです。


「実は、宮古島で“神ダーリ”になって苦しんでいる人がいるんですけど、私がたまたま八重山に縁があるというだけで相談を受けてしまって……。彼女の話を聞いてやってもらえませんか」


尋常でないことを初対面の人にいきなり話したわけなんですが、すぐさま答えが返ってきた。

 「いいですよー、私の携帯に電話するように言ってください」

 ここからいろんなことが始まったんです。


隊長の根拠地「Tandy ga tandhi」が大岡山だったこともまことに奇遇、私はかつて大岡山に住んでいて、日々うろうろしていた界隈が、まさに Tandy ga tandhi のある辺りでした。


そんなこんなで二人で、おおおおおお!というようなことになっていたわけです。


まもなく、隊長からお誘いがありました。紹介したい人がいるから、大岡山に来ませんかと。(当時私は八王子に住んでいました。ちなみに今は奈良です)。


もちろん行きましたよ。宮古島で何かが弾けて草木の声(つまりカミの存在)への感性が鋭くなったという女性(呼び名を「聞き耳ずきん」ということにしておきます)がそこにいました。そして、その出会いから「野生会議」なる集団が生まれた。


「神ダーリ」とか「聞き耳ずきん」とか言っていると、なにか誤解を招くかもしれませんね。わかりやすく言い直します。私たちは、私ならば在日韓国人という旧植民地の民の立場から、隊長や聞き耳ずきんは島の世界観から、この近代世界を問い直そう、近代を突き抜けて生きていくための場を開こう、という点で思いを同じくしていたのです。


そのためのささやかな試みを共にしていこうではないかと、まずは Tandy ga tandhi でそれぞれが自分なりのアプローチで語り合うささやかな「場」を開きました。


さらに、一つの大きな試みとして、野生会議@水俣と称して、それぞれの場所で近代を乗り越える模索や試みをしている者たちが集って、共に語らい、共に飲んで食べて、共に歌い遊び、近代的な人のつながりとはまた別のつながり方、別の生き方闘い方を模索してゆく「場」を、水俣・久木野の愛林館で開いたのが2019年9月のこと。二泊三日の泊まり込み合宿でした。


このとき、隊長は厨房の総指揮者として30名もの参加者の食事の支度を仕切りました。ほとんど初対面の参加者たちが共に料理をすることになった厨房での采配ぶりは、それは見事なものでした。これはいまだに参加者の間で伝説となっています。同時に参加者の集うさまざまな空間や時間の片隅で、隊長は常に全体の動きを俯瞰して見ていました。


「いま水俣でやっていることを次は宮古島につなげるために、プログラムの組み立て、人の動きを冷静に見ては考えている」。


そう隊長は言っていたのです。


来年2020年は宮古島に集まれ!


水俣ではそんな呼びかけもしていたのです。残念なことに、コロナ禍で揺れつづけた2020年にそれが実現されることはありませんでしたが……


短い間ですが、隊長とは、爆走するようにして愉快痛快な試みの時間を共にしました。その間、私は、隊長がほとんどまともに寝ない人だということに気づきました。仕事をしながら、誰かと語らいながら、何かを企みながら、そのうちソファで寝落ちするようにして寝る。自分の時間を惜しまずに人のために使うから、同時に生きていくために精一杯仕事もするから、精一杯に親もしているから、島のことを考え、島の未来をわがことのように考えつづけていたから、本当に寝てなんかいられなかったのでしょう。思えば、野生会議水俣合宿でも、彼女は会場となった愛林館のソファで寝ていました。いや、ほとんど寝ていなかったのではないか。


聞けば、私と彼女が親しくなるきっかけとなった「神ダーリ」の女性とも、一度の電話に二時間は費やすような徹底した向き合い方をしていたのでした。私とも一度話しはじめたら半端なところで話はやめない。最後に隊長と会った時には、大岡山 Tandy ga tandhi のすぐそばの珈琲館で5時間ほども話し込んだのでした。誰とでも、必要とあらば、そのような向き合い方をしていたのでしょう。身を削って、命を削って、誠実に人と向き合い、状況と向き合い……。


生き急いでいる。そんなふうにも見えました。でもきっと彼女にとってはそれが一番自分らしい生き方だったのでしょう。そうせざるを得なかったのでしょう。


隊長、あなたは本当に見事に生きたよ。しばらくゆっくり眠って、またこの世に戻っておいで。世界はあなたを待っているから。私はあなたと一緒に試みたことを、この世でしっかりつないでいきましょう。あなたが戻ってきたときに、あなたが種をまいた「場」があちこちに花ひらいているように。もっと生きやすい世界になっているように。


隊長、今はとにかくゆっくり眠ってくださいな。


おやすみ、優子隊長。



 お久しぶりです。片岡慎泰です。とうとう「一番座」という決まり文句が使えなくなってしまいました。


 当時、庶民には決して許されなかったであろう、ふたりの「自由結婚」がかない、新婚時代は幸せだったようです。しかし、われらが凹天とたま子の蜜月は、「長くは」と表現していいのか分かりませんが、続きませんでした。
 まず、貧乏生活です。当時、間借りが普通だった時代に、凹天は愛妻のため、無理をして家を購入したのでしょうか。


 「此間約七年間は私にとつて一生忘るゝ事の出來ない苦悶苦闘時代でありました。中にも牛込山吹町の一間の家(間借りに非ず)時代は私に何を教へたか、夫婦二人が食つて行けない。新聞社からは首になる。雑誌からは一度で斷られる泥棒!泥棒したくても體が動かない」。


 そして、長男矩夫の早逝です。これがたま子の心にどれだけ負担になったことでしょうか。凹天は、次のように記しています。


 「子供が生れたが、遺傳が又感染して感染して病死する迄醫者に掛りづめ、南京虫のために死を早める。子供が死んだ時前川千帆君が來られ『凹天の涙を生れて始めて見た』と誰やらに話したことがあつた」。





 前川千帆(まえかわ せんぱん)は、幸内純一(こううち じゅんいち)と一緒に日本初期のアニメーション映画を製作した記録があることから、改めて考察する必要がある人物です。


 現代は子どもを生まないとは「けしからん」という発言で、ネットで炎上する時代。しかし、当時は、子ども、しかも最初が男の子ということは、家族親戚一同大きな喜びに包まれていたことでしょう。


 凹天の病気が伝染して、たま子は、身体が弱くなったのでしょうか。それとも、元々、身体が弱かったのかもしれません。そして、その後の妊娠と出産。そして、待望の息子の死。凹天自身も「遺傳性」の病気で、貧血で何度も倒れています。この病名について、現段階の調査では分かりませんが、凹天の持病だったらしく、それがたま子に移り、夫婦とも何度も貧血で倒れ、疲れ果てていたようです。


 「此間約七年間は私にとつて一生忘るゝ事の出來ない苦悶苦闘時代でありました。中にも牛込山吹町の一間の家(間借りに非ず)時代は私に何を教へたか、夫婦二人が食つて行けない。新聞社からは首になる。雑誌からは一度で斷られる泥棒!泥棒したくても體が動かない、妻が或工場の女工に務めたが一週間で腦貧血を起し二人倒れる」。


 そこに日本初のアニメーター職業病としての失明。前回記しましたが、実際のところは分かりません。しかし、目に異変が起きたのは確かです。これが原因で、赤十字病院(現・日本赤十字社医療センター)に入院します。


 それでも、われらが凹天の趣味が、映画と旅行という記録を考え合わせると、ひょっとすると、時には、一緒に出かけたこともあったかもしれません。もっとも、当時の夫婦の状況や、時代背景を考えると、妄想に近いのですが。



帝國探偵社『大衆人事錄』第十四版(昭和17年)
帝國探偵社『大衆人事錄』第十四版(昭和17年)


 なお、日本で二番目のアニメーター職業病は、近藤日出造(こんどう ひでぞう)です。この記録が、映画アニメーション史において、これまで、丹念に調査されていなかったのも不思議で仕方ありません。


 近藤日出造は、新聞の広告で、東浦漫畫映畫制作所が、「青年漫畫家」を募集しているのを見つけます。漫畫映畫とは、アニメーション映画のことです。世の中は、昭和恐慌の影響がまだ残っていて、大変な時期でした。近藤日出造は、消化器系の病気と軽い肋膜炎のため一旦帰郷し、再上京した直後でした。


 一平塾出身というのが、就職の大きな決め手になりました。月給は、住み込み、食事付きで5円。とりあえず、寝食が確保されて、近藤日出造は、一安心。一平塾同期で、一番仲の良かった矢崎茂司(やざき しげし)を誘って、入社します。


 東浦漫畫映畫制作所は、名前はそれらしく聞こえますが、実は、髪結いの亭主の道楽でした。


 「こうして矢崎と巣鴨に通いながら、髪結いの二階では、『長屋の花見』を完成させた日出造は、第二作『動物のオリンピック』に取りかかった。上野の動物園に行って、白熊を熊に見立て、鷺を烏と見立てて原画を書きまくっているうち、毎朝起きると、眼が真っ赤に充血していて、とめどもなく涙が出るようになった。洗面器に眼をひたして冷やし、一時的な糊塗とした」。


 「暗い所はまだいいが、太陽の直射の下では眼もあけていられないこの眼病は、結膜炎と診断された」。


 「曇りガラスを通すとはいうものの、三十センチ下から二百触光の電球の強烈な光をうけて、絵を描き続けたための眼病である」。


 この記述から分かるように、近藤日出造は、われらが凹天とまったく同じ「切り抜き法」で、目を痛めました。



切り抜き法


 この記録が、日本アニメーション映画史上重要なのは、横山隆一(よこやま りゅういち)のアニメーション映画作品の謎に、現段階でひとつのヒントがふくまれているかもしれないからです。


 それは、1942年3月15日に封切りされた『フクちゃんの奇襲』。映画には横山隆一のクレジットがあります。しかし、この映画の発表当時、横山隆一は、ジャワ(現・インドネシア)に従軍中でした。そこから、実際には参加していないなど、いくつかの類推が成り立ちます。このブログでは、アニメーション映画製作の経験があった近藤日出造が加わったという可能性があることを記しておきます。


 この映画の撮影者は、政岡憲三(まさおか けんぞう)ですが、彼の研究書で最も詳しい萩原由加里(はぎわら ゆかり)の『政岡憲三とその時代』には、残念ですが、この映画に関して、さほど記述はありません。



萩原由加里『政岡憲三とその時代』


 近藤日出造は、国策協力の漫画雑誌に手腕を発揮したおかげで、1943年に「大佐待遇」として、4月末から3ヵ月ほど往復飛行機で従軍しただけで済みました。


 そろそろ、二番座に鎮座することもある歳かと思いつつ、擱筆(かくひつ)します。



 後半は、『島を旅立つ君たちへ』など、宮国さんと多くの仕事で関わった野口晶子(のぐち あきこ)さんです。


『島を旅立つ君たちへ』

永遠のオリーブ少女に捧ぐ


野口 晶子


優子さんと一緒にいると、ミラクルで不思議なことがよく起こった。


東京でもそうでしたが、一緒に宮古島に行った時はミラクル率が半端なく、それはそれは楽しい日々でした。


優子さんと一緒に宮古島を訪れた理由は、島の高校生に贈る冊子『島を旅立つ君たちへ』の取材のため。この『島を旅立つ君たちへ』(以下『島旅』と略します)は、優子さんを語る上で避けられません。


この『島旅』で、私はデザインを担当させてもらいました。優子さんからお話をいただいた時、私のような東京のデザイナーではなく、宮古のデザイナーの方が良いのでは?とためらうと、

「宮古の高校生は都会の仕事を見たことがない。都会では色々な仕事があり、その仕事を高校生に見せてあげたい。だから東京のデザイナーに意味がある」。


この言葉を聞いて、優子さんの高校生への深い愛情を感じ、同時に迷いがなくなりました。『島旅』はそのタイトルどおり、高校を卒業すると、そのほとんどが「島を旅立つ」ことになる高校三年生への想いが詰まった一冊に仕上がりました。


しかも、関わった全ての人への贈りもののような一冊に。


もうひとつ強く印象に残っているのが、ダッフルコートの話。優子さんら私たち世代が女子高生だった80年代、『オリーブ』という雑誌がありました。ファッションだけでなく、80年代カルチャーなども紹介する最先端の雑誌で、愛読する少女たちは「オリーブ少女」と呼ばれるほど社会現象的な雑誌でした。


優子さんもそのひとりで、雑誌に映る流行のダッフルコートが欲しくて仕方がなかったそうです。もちろん当時はパソコンや、ましてはネット通販などないわけで、流行りのダッフルコートを手に入れるのは容易ではありません。


驚くのはなんと、『オリーブ』の写真から想像でダッフルコートをこしらえてしまったそう!この辺りは記憶が定かでないのですが、優子さんのお母さまが仕立てたと言っていた気がします。


宮古島で初めてダッフルコートを着たのは優子さんだったのです。

「島の人は、なければ想像して作るしかないから。島にある材料で工夫して」。


そう言って笑っていたけれど、そうか、宮古で起こる数々のミラクル現象の根源は、この想像と工夫「ブリコラージュ」にあるのかもとハッとしました。


ブリコラージュとはフランス語で「周りにあるものを集めて自分で作る」、ないし「そこで作られたもの」、時には「器用貧乏」の意味もあります。でも、宮古におけるブリコラージュは、そんな感じでは説明できません。実際、そのもの以上のクオリティを超えたものが、宮古では多く存在します。


宮古上布などはその代表格でしょう。


宮古での不思議に思えた偶然は、単なる偶然ではなく、実は宮古の人たちの想像と工夫から生まれた必然的な現象だったのです。想像と工夫で実物を超えるというミラクル。


宮古島生まれのオリーブ少女は、その強烈な個性と深い愛情で、台風のようにみんなを巻き込んで、行く先々でミラクルを巻き起こしました。


その一緒に過ごした全て。


ミラクルな時間は私の宝物です。


優子さん!『島旅』に携わらせてくれてありがとう!



【主な登場人物の簡単な略歴】


磯部たま子(いそべ たまこ)1893年~1935年失踪
凹天の最初の妻。詳しくは、第24回「下川凹天の最初の妻 磯部たま子の巻 その1」


宮国優子(みやぐに ゆうこ)1971年~2020年
ライター、映像制作者、勝手に松田聖子研究者、オープンスペース「Tandy ga tandhi」の主宰者、下川凹天研究者。沖縄県平良市(現・宮古島市)生まれ。童名(わらびなー)は、カニメガ。最初になりたかった職業は、吟遊詩人。宮古高校卒業後、アメリカに渡り、ワシントン州エドモンズカレッジに入学。「ムダ」という理由で、中退。ジャパンアクションクラブ(現・JAPAN ACTION ENTERPRISE)映像制作部、『宮古毎日新聞』嘱託記者、トレンディ・ドラマ全盛時の北川悦吏子脚本家事務所、(株)オフィスバンズに勤務。難病で退職。その療養中に編著したのが『読めば宮古』(ボーダーインク、2002年)。「宮古では、『ハリー・ポッター』より売れた」と笑っていた。その後、『思えば宮古』(ボーダーインク、2004年)と続く。『読めば宮古』で、第7回平良好児賞受賞。その時のエピソードとして、「宮国優子たるもの、甘んじてそんな賞を受けるとはなにごとか」と仲宗根將二氏に叱られた。生涯のヒーローは、笹森儀助。GoGetters、最後はイースマイルに勤務。その他、フリーランスとして、映像制作やライターなど、さまざまな分野に携わる。ディレクターとして『大使の国から』など紀行番組、開隆堂のビデオ教材など教育関係の電子書籍、映像など制作物多数あり。2010年、友人と一緒に、一般社団法人 ATALAS ネットワーク設立。『島を旅立つ君たちへ』を編著。本人によれば、「これで宮古がやっと世界とつながった」とのこと。女性の意識行動研究所研究員、法政大学沖縄文化研究所国内研究員、沖縄大学地域研究所研究員などを歴任。2014年、法政大学沖縄文化研究所宮古研究会発足時の責任者だった。好きな顔のタイプは、藤井聡太。口ぐせは、「私の人生にイチミリの後悔もない」。プロレスファンならご存じの、ミスター高橋のハードボイルド小説出版に向けて動くなど、多方面に活動していた。くも膜下出血のため、東京都内で死去。


前川千汎(まえかわ せんばん)1889年~1960年
版画家、漫画家。京都市生まれ。本名は重三郎。父親の石田清七が4歳の時に、亡くなると、母方の前川姓を名乗る。関西美術院『讀賣新聞』で浅井忠、鹿子木孟郎に洋画を学ぶ。その後、上京して東京パック社に勤め、1918年には新聞社に入り、漫画を専門に描き、次第に漫画家として認められる。凹天とは、東京漫畫会時代から、多くの漫画雑誌などで関わる。そのかたわら、木版画を製作、1919年には第1回日本創作版画協会展に「病める猫」を出品している。その画風は飄逸な持ち味で、生活的な風景画など個性的なものであった。川崎市市民ミュージアムでは、2017年の常設展で、凹天、幸内純一とともにポスターに似顔絵が載った。日展や帝展にも作品を出品しており、「日本版画協会」創立時の会員で、同協会の相談役も務めた。1960年、幽門狭窄の手術を行った後、心臓衰弱により死去。なお、葬式での直会の席が、凹天と幸内純一の最後の出会いだった。


近藤日出造(こんどう ひでぞう)1908年~1979年
漫画家。現在の千曲市稲荷山に生まれる。本名は秀蔵。生家は、衣料品・雑貨商を営み、6人兄弟の次男。洋服の空き箱に熱した火鉢をあてて焦がし、絵を描いていたところ、父親から絵を投稿するよう勧められる。『朝日新聞』に入賞し3円をもらう。そこで、上京し、東京美術学校を目指すも、中学校を出ていないため受験資格がないことが判明。後年の負けず嫌いの性格はこの頃から養われた。叔父の親戚に宮尾しげをがおり、「一平塾」に入る。ここで、後の同志となる、横山隆一や杉浦幸雄と出会う。あごがでかいことが、トレードマーク。『東京パック』(第四次)でプロデビュー。1932年「新漫畫派集團」の決起人メンバーのひとり。その後、さまざまな団体の創設に関わる。政治風刺漫画の名手。戦後の二科展漫画部創設時には、横山隆一、清水昆と一緒に選出される。戦後は、対談のホストとしてテレビなどでも名が知られる。1964年には、「日本漫画家協会」初代理事長に。1974年には、漫画家として初めて、横山隆一とともに紫綬褒章を受章。1979年、肺炎のため、江古田病院で亡くなる。


横山隆一(よこやま りゅういち)1909年~2001年
漫画家。高知県高知市に生まれ。実家は生糸問屋。相場の変動で横山一家は没落する。背が低いことが、一生のコンプレックスだった。隆一は、東京美術学校(現・東京藝術大学)を目指したが失敗し、川端龍子学校で学ぶ。同郷で高村光雲の弟子である本山白雲から漫画家になるよう勧められ、漫画家の道に。凹天の弟子である黒沢はじめは投書仲間で、一緒に漫画論を戦わせながら、漫画の腕を磨いた。1932年、近藤日出造や杉浦幸雄などとともに「新漫畫派集団」の決起人メンバーのひとりとなる。あだ名は、きたない話ばかりするので「ウン隆」。同期の漫画家からも一目置かれた、戦前から戦後にかけて、ナンセンス漫画のトップランナー。妹の英子が、近藤日出造の最初の妻。その縁もあり、疎開先は長野県更埴市(現。篠ノ井市)。1936年から『東京朝日新聞』で連載し始めた『江戸っ子鍵ちゃん』の脇役だった「フクちゃん」が人気が出て、「フクちゃん」が主役に。近藤日出造、杉浦幸雄とともに、さまざまな団体や雑誌の創刊に関わる。弟の横山泰三も漫画家として知られる。受賞多数。また、アニメーションの分野でも、1955年に『おんぶおばけ』を制作するなど、さまざまな功績がある。その試写会には、大仏次郎、小林秀雄、三島由紀夫、高峰秀子が訪れるなど、交流関係の広さでも知られた。珍品のコレクターとしても有名。1974年には、漫画家として初めて、近藤日出造とともに紫綬褒章を受章。アニメーションの分野では、ブルーリボン賞や毎日映画コンクール将を受賞。脳梗塞のため鎌倉市で亡くなる。遺品の数々、そして交流範囲の広さは、現在、横山隆一まんが記念館で見ることができる。



【2023/03/21 現在】  


Posted by atalas at 10:00Comments(0)Ecce HECO.(エッケヘコ)