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2019年09月20日

第17回「下川凹天の撮影技師 柴田勝の巻 その5」

第17回「下川凹天の撮影技師 柴田勝の巻 その5」

Buon giorno !毎度おなじみ裏座から宮国です!
なぜ、イタリア語かって・・・それは私が出張でイタリアにいるからです・・・。というか、すごいよな、文明の利器。インターネット!

今、この原稿も東京の一番座の片岡さんとイタリアの宮国という、二元編集をしているのです。ありがとう、グーグルさま。原稿を書いているとポーランドにいる與那城美和さんからメッセージが飛んできました。子どもの頃は考えられなかったよな。ドラえもんくらいしか。

さて、実は、インターネットは私と同じくらいの年齢なんです。通信という枠ではなく、パケット交換ネットワークという考え方ですが、1960年代末から1970年代初めに開発されました。「ネットワークのネットワークを構築するインターネットワーキングのためのプロトコルの開発」っていうらしいです。

1982年、インターネット・プロトコル・スイート(TCP/IP)が標準化された頃は、私は、ちょうど私が十三祝をやっているような時期です。十三祝いって何?と思われる方がほとんどだと思うのですが、子どもから大人への節目として、島では親子の行事のようなものです。干支が一回りしたころになります。昔は盛大にお祝いしたようです。

私は、なぜか御嶽(うたき)に母親といました。こういう生活を積み重ねるとパリピと反対の人間が出来上がります。おっと、それた。

「インターネットサービスプロバイダ(ISP)が1995年に商業化が完了した」と言われていますが、インターネットの営利目的の利用についての制限がなくなったんですね。1990年代初頭は、私たちにとって、まだインターネットは少しむずかしいような感じだったと思います。

でも、1995年頃にはワープロからパソコンに変わった頃。なにせWindows95ですから。それが5Gが2020年の春から始まるのです。そして、AIかー、すごいなぁ。通信とともに生きている気がします。

私たちは、そんな時代の真っ只中に生きているのですが、同じような変革期を凹天たちは生きてきたのじゃないのかとも思うのです。新しく職業が生まれ、生活も激動だったのだと思います。その時は、日本がある意味広がったのかなと思いますが、今は世界に広がっているのかもしれません、

明治維新にできた富国強兵が目的の教育のなかに私たちはいますが、その教育すらもこのような技術が凌駕していくような気がします。多様性が発達しやすいようになるのかもしれせん。

私たちはなんのために学ぶか、それは凹天のように独自の創造性を伸ばすためかも。アニメーションなんて、本当に当時最先端だったのですから。

そして、今では海外にいると、アニメはまるで日本が元祖のようなコアファンがたくさんいることに驚かされます。若い外国人と話すと、必ずアニメーションの質問されたりするからです。

百年以上前に、凹天たちが芸術や飯のタネに漫画の可能性の希望に燃えていた頃、現在のようにマンガやアニメが世界の共通語になり、そのイノベーションが日本の大きな産業になると誰が予想したでしょうか。凹天らですら考えなかったと思います。

そんな嵐のような黎明期だからこそ、凹天の作品が残っていないとも言えます。ですが、少しでも解き明すことができるのは、商業活動にしようとしたベンチャー起業家やその業界のなかで超筆マメな柴田勝という人間がいたからでしょう。

今回も彼らの人間模様と私たちのある意味しつこい考察をどうぞ〜。

 こんにちは。一番座より片岡慎泰です。

 今回は、柴田勝(しばた まさる)の巻の第1回と第2回に続き、アニメNEXT_100の中間報告について考察を加えたいと思います。ただし、現段階では「仮説」というか「妄想」レベルなので、その点ご容赦ください。 

 凹天の回想録『映画評論』1934年七月號所収(映画評論社、1934年)「日本最初の漫畫映畫の思ひ出」39ページには、「漫畫映畫乃ち其頃の『凸坊の線畫帳』は日本で其前に誰もやつた話を訊かないところをみると私が一番最初だつたかもしれない」「第一回作品『芋川椋三玄關番の卷』他二本はキネマ倶樂部で封切りされました」とあります。

 ここから、2017年以前には、凹天のシネマ倶樂部で上映された第1作との結論を出しています。それに対し、アニメNEXT_100は、新たな記録を提示し『凸坊新畫帖、芋助猪狩の巻』が劇場公開第1作だとしました。

 しかし、果たして1917年1月公開作品は、その作品だけだったのでしょうか。

 確かに『キネマレコード』の記録では、シネマ倶樂部の2月に上映の「第二次線畫トリツク」作品が『凸坊新畫帖 明暗の失敗の巻』、3月に上映の「天活第三次の線畫トリツク」作品が『芋川椋三 玄關番の卷』とあります。この記録は、何人かのアニメ研究者の議論の中心になったところでした。

 まず、2013年バイエルン州立図書館に勤めるフレデリク・S・リッテンが、『芋川椋三玄關番の卷』が第1作目という従来の定説に、異を唱えています。リッテンは、当時の上演記録を丹念に調べて、『キネマレコード』の公開リストから『凸坊新画帖明暗の失敗』であったと結論づけています。Frederick S. Litten: Some remarks on the first Japanese animation films in 1917 (http://litten.de/fulltext/ani1917.pdf)。確かに、『キネマレコード』大正六年參月号の140ページには、「凸坊線畫帖明暗の失敗(一卷)[ト]第二次線畫トリックで椋三、猪を生取りにする可く落穴を作って反って大失敗を惹き起す。上期キネマ」との記述。もっとも、リッテンは、最初の(一卷)を「最初」と読み誤ったかと。なぜなら、その後に「第二次」とあるということは第一次を前提とした記述。「一巻」とは、当時のフィルムの単位です。日本語、そして日本で映画公開の順序を知っているなら、ここから第1次作品があったことを想定できます。
 加えてリッテンは、『芋川椋三玄關番の卷』を4月公開としていますが、上記に挙げた理由から、これも誤りです。『キネマレコード』大正六年五月特別號240ページに3月上映作品として、「「芋川椋三玄關番の巻 Mr. Imokawa’s Janitor(天活)天活第三次の線畫トリックだ。こういふ試みは嬉しい、タイトルが馬鹿に氣に入つた。巧妙である」との批評が掲載されています。

第17回「下川凹天の撮影技師 柴田勝の巻 その5」
 
 もうひとつ『キネマレコード』とともに同時代に発行された貴重な公開映画資料の双璧とも言える『活動之世界』の「毎月封切フイルム一覧」では、このちょうどこの時期は「内地映畫」に「外国映畫」というカテゴリーしかありませんでした。「内地映畫」には、舊派と新派、「外国映畫」には、實寫と教育寫眞、▲喜劇、▲線畫と影繪、▲人情劇、▲社會悲劇、▲正劇、▲連續寫眞です。われらが凹天の作品は、そこから外れていたためと考えられます。当時の外国映画の隆盛ぶりが分かろうというものです。日本商業アニメーションの別枠が設けられたのが、『活動之世界』大正六年九月號163ページに線畫悲劇を冒頭にもってきた時でした。その作品は幸内純一(こううち じゅんいち)の現在では『なまくら刀』の名前で知られている『塙凹内名刀之巻』です。この作品は、評判が良く、『活動之世界』の同号に載った評は、現時点では、日本商業アニメ―ション最初というのが定説です。
 「日本で線畫の出來る様になつたのは愉快である、殊に小林商會の『ためし斬』は出色の出來榮えで、天活日活のものに比して、一段の手際である、殊に題材の見付け方面白い、日本の線畫は成るべく日本の題材で行きたい『試し斬』といふ純日本式題材を捉えて來て、之を滑稽化した所に、凸坊式面白味が溢れて居る(略)」。

 ここから『芋川椋三玄關番の卷』は、『活動之世界』記録上第3作目で3月に公開された作品ということが分かります。この記録を当然アニメ研究者は知っていたはずで、何冊かの著作でも述べられていますが、この記録に関し、議論がこれまで起きなかったのか、門外漢の私としては、不思議で仕方がありません。凹天やその遺品に関し、なにか問題やタブーでもあったのでしょうか。柳田國男(やなぎだ くにお)の遺した資料が、成城大学と筑波大学で奪いあった裏にある暗躍を思い起こせさせます。また、宮澤賢治の私生活が、遺族である宮澤清六が亡くなるまで、秘匿(ひとく)されていたことも加えてもいいかと。今後アニメ研究史が進めば、日本の商業アニメーション映画公開時の人間模様をふくめ、われらが凹天に関する貴重なエピソードが明らかになることを期待したいところです。

 では、なぜ今回「仮説」を述べるのか。それは、シネマ倶樂部の後に、上映された有樂座の館としての興業のやり方を考えると、そういった疑問が湧くからです。有樂座は、イベントをよく行っていました。


第17回「下川凹天の撮影技師 柴田勝の巻 その5」
https://www.cinematoday.jp/news/N0065085
*残念ながら2015年に閉館。当時の写真をwikiより転載

 
 例えば、1909年1月4日付『讀賣新聞』には「歌劇大會」が1月9日に晝夜二回開演との広告。1909年1月13日付『讀賣新聞』には、1月15日、16日、17日に「子供デー」、同年3月1日付『讀賣新聞』には、「第1回少年談話大會」が3月6日7日開かれるとの広告。その後も、「活動写真寫眞大會」、「子供日」や「東西名人會」、「女流名人會」などが開催されます。

 そしてここで、特記しておきたいのは、凹天が日本初のアニメーターとしての栄誉を担った前年の有樂座に開催された「凸坊會」。

 1909年7月13付『東京朝日新聞』の広告では、「お馴染みの凸坊畫帖にアルコール先生即ちチヤツプリン滑稽喜劇數番を加えて是を楠井茶風鈴外數名が面白可笑しく説明しますから坊ちやん嬢様は勿論大人にも老人にも捧腹絶倒の愉快極まる喜劇大會で御座います」。

 1909年7月14日付『讀賣新聞』の記事をここで引用しておきます。「藪入の十五日から向ふ五日間有樂座に催さろう、凸坊大會と云うは例の凸坊畫帖や喜劇のみを合せて十五フ井ルム頗る付に振つた試みである、凸坊畫帖の方は評する迄もない處、喜劇では『戦の夢』や『夜通し轉宅』や『ホルムより強し』が 面白い夏の夜(毎日午後六時半会場)を腹の皮よるのも一與であらうとす〻めするが、唯少年少女達にこの面白い試みが飽ずに見通せればい〻がと夫のみが心配である(レ)」。

 当時、藪入りは、1月15日と7月15日。ここでは、後者です。津堅信之著『日本初のアニメーション作家 北山清太郎』(臨川書店、2007年)によれば、この「凸坊會」が、北山清太郎(きたやま せいたろう)を刺激。翌年日本アニメーターの創始者のひとりのきっかけになったことを付言しておきます。

 さて、いまここで問題にしている有樂座恒例のイベントといえるアニメーション映画大会は、1917年1月10日付『東京朝日新聞』の広告によれば、1月15日と16日。 「天活特別披露」という見出しで、有樂座で「天活凸坊大會」が開催されます。

 残念ながら、ここで上映作品すべてが精査されたわけでなく、現段階では分かっていません。そこで、先述のような推測が成り立つわけです。シネマ倶樂部では、凹天の作品が現段階の記録によれば1作品だとしても、有樂座では、「『芋川椋三 玄關番の卷』他二本」のうち、複数公開されたとの可能性が否定できないことだけは記しておきたいと考えます。

 ここで、柴田勝の実人生に戻ります。1919年には天活も倒産。柴田勝は、国活(國際活映株式會社)に入ります。柴田勝は国活で撮影技師として働きながら、時間があると淺草六区に日参。

 観たのは、映画は当然ですが、歌舞伎、新派、オペラ、寄席、琵琶など。1920年、田村宇一郎(たむら ういちろう)監督作品『松本訓導』では、淺草大勝館での興行成績が良かったので撮影スタッフは表彰状を貰います。

 「松本訓導劇撮影ニ際シ格別尽力シ成績良好ニ付特ニ慰労トシテ金五円給食シ之ヲ表彰ス、大正九年四月十二日 国際活映株式会社取締役会長岡田文次」。

 ここで、柴田勝に大阪行きの話がもちこまれます。大きな要因は、国活の極度の営業不振。それは、当然、撮影についても緊縮ということになります。柴田勝は、国活の将来に不安をもち始めていました。

 そこに、1920年にできた帝キネ(帝國キネマ演藝株式會社)で仕事をしないかという話が舞い込みます。江戸っ子気質の柴田は、大阪行きを悩みます。すでに、これも同年設立された東京の松竹(松竹キネマ合名會社)入社の話が進んでいたことも大きな要因です。

 吾妻橋際の伊豆熊という鰻屋で、天活、国活などで監督をした田村宇一郎からこう切り出されます。

 「私が駒形劇場の事務をしている頃、大森君のお父さんには種々と援助を受けたのでその恩返しといっては何んだが現在の国活に大森君を置くのは気の毒だ。そこで将来性のある帝キネという新天地へ行って思い切り働いてください」。

 「翌日は田村氏が家へ来て母に私の大阪行きについて話をされた。そこで決心して二十八日夜、田村氏と一緒に太田専務の家に行くと『私は国活の重役という立場上、正式に大森君帝キネへ行ってくれとは言えないが是非たのむ』といわれた。先輩や同僚に対して内密で大阪に行くのは厭だったがたってと言われるので承知した。


第17回「下川凹天の撮影技師 柴田勝の巻 その5」
伊豆熊の現在 伊豆栄 HPより
 大阪行き当日の日記。「いよいよ今日は大阪行の日だが雨があんまり烈しく降るので二の足になったが思い切って断行することにした。九時半頃工場に行く。諸氏に会って別れをつげる。女の助手が入社していた。これが国活の別れと思うと何んとなく悲しい。一時頃帰宅。酒を少し呑む。夕方湯に行き、靴、帽子、ネクタイを買う。夜渋谷から兄が来た。七時半に家を出て東京駅へ行く。母も後から人力車で来た。田村氏が見送りに来てくれた。八時二十分発の鳥羽行に乗る。汽笛一声故郷をあとに」。

 この年の年末には私生活にも変化が起きます。それは結婚。相手の女性の姓は柴田。大森勝が柴田勝と名乗ったのは、妻方の姓をいつの頃からか選んだということが分かります。そのいつというのは、現段階の調査ではなんとも。大阪は誘惑の多いところという周りの勧めもあり、お見合いで柴田という女性に好意はもっていたものの、もう少し仕事本意と考えていた柴田勝ですが、ここで結婚を決めました。でも映画人として、結婚式の日も柴田勝は仕事をしていました。

 1921年は、いろんな作品を撮影技師として、順調に撮り続けました。大阪、京都、奈良で印象が強かったのは、十日夷で芸妓を乗せた宝恵駕籠(ほえかご)、落語で情景を想像していた初天神、奈良の三笠焼き、東大寺二月堂のお水取り、大阪堀江遊郭の此花踊(このはなおどり)、京都祇園の都踊り、大阪南地の芦辺踊り、京都先斗町(ぽんとちょう)の鴨川踊り、京都南座の顔見世でした。

 一番座からは以上です。



裏座から宮国です。今回は、日本アニメーションの発露ともいうべき頃を詳しく掘っていきました。

冒頭にも書きましたが、残念ながら、凹天の作品は現存していません。世知辛い世の中だと、結局モノがあってなんぼ!的なところがありますが、現存しないからといって、凹天ら創世記のメンバーの努力がなくなるわけではないと考えます。

私の世代でアニメと言えば手塚治虫ですが、手塚治虫ですら先輩方がいて、老年になった凹天と対面することがあったようです。その薫陶を受け、さらに漫画やアニメーションが花開いたともいえます。

柴田勝のような、私生活まできちんと記録してあった方がいると、その当時の働き方や結婚というようなことにおいての時代性が急に生々しく感じます。

人が暮らし、働き、旅をし、出会い、別れ・・・今の私たちとあまり変わらないのだなぁと思います。ただ時代が違ったのだろう、と思うのです。

凹天らは、ジャーナリストであり、芸術家であり、イノベーターであり、漫画家だったのです。後年に、肩書を「漫画家」とひとくくりにしているのは、他ならぬ私達自身かもしれません。

そして、関東大震災や戦争やさまざまなアップダウンを乗り越えた世代が見たものを、こうして想像&妄想ですが、追体験できる現代に生まれてよかったとまで思います。

話は変わりますが、この文章を読んでいるみなさんはよくご存知かと思いますが、宮古島は空前の観光ブームです。今までかつてないほど、100万人規模で島に人が押し寄せています。

人が集まるところには、政治もさらに動き、大きな枠組みでフューチャーされることも増えたように思います。

ですが、こういったある意味カオスのなかにいる今こそ、私たちは先人たちの言葉を慮り、今現在住んでいる島の人たちの言葉を記録しておかねばならないと思うのです。特にご高齢の方の記録を聞き書きでも、テープレコーダーでも、カメラでも、iPhoneでもなんでもいいから誰でもできる範囲で残しておくことができる方はしてほしいと切に願います。

今は役に立たないかもしれない。でも、振り返る材料があるということは、なにか有事があったとき、個人だけでなく地域の意思決定に大きな役割を担うと考えます。決して無駄にはならない。

時代の権力者の残す歴史が歴史だった時代は、終わろうとしています。私たちひとりひとりが大事だと思うものを後世に伝えていくことができる時代になったのでしょう。

宮古の歴史書は、1891年生まれの慶世村恒任(きよむら こうにん)が表した『宮古史伝』(南島史蹟保存會、1927年)と言われていますが、よくよく読むとそれまでの蓄積を慶世村恒任が時代の風を受けながら書き著したものだということがよく分かります。

伝える努力をした人がひとりいたということは、そのまわりには数十名の人間が確実にいたはずです。そして、実は本にならなくとも、宮古の精神のようなアーキタイプを暮らしのなかにあらゆる方面で残していったに違いないのです。

現代の文化芸術は、高尚なような扱いですが、私はその土地が持つ借り物でない精神構造こそが文化芸術の源泉だと思います。

凹天は、幼い頃しか宮古島にはいませんが、何か「あららがま」のような見えないものの一端を宮古の自然から受け取っていたのではないか、と私は考えています。それはかけらのようなものかもしれませんが、現代の私たちはそのかけらを記録することができるという稀有な時代に生きているのだとも思うのです。

このような先人たちがいたからこそ、今の私たちの暮らしがあると考えれば、現代の困難すらも多くの智慧と思いやりで解決できるような気がしています。宮古島の人たちが昔からやってきたような「生き抜く智慧」は、今宮古で生きているひとりひとりの人の身体や脳内に確実に伝播していると思うのです。

思い切りそれましたが、凹天を調べれば調べるほど、なぜか「今を生き抜くこと」や「後世に伝えなければならないこと」にフォーカスしていくように思います。

余計な諍いを起こしている暇は人生にないのだと、思わざるを得ません。そう思えば、どこへ行っても(たとえイタリアでも)自分が宮古人だと逆に強く感じてしまうのです。人生には旅が必要だと言われるのは、こうして身体を違う文化の中に置くことによって、相対的に自分の身体や脳内にあるものがあぶり出されるからかもしれません。

では、また今度!チャオ!またあとからや〜。
【2023/04/15 現在】


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この記事へのコメント
Hello,
I'd like to comment that a) Mr Kataoka should have read my research note from 2013 more carefully - or, even better, should have read my book from 2017 on early Japanese animation (see http://litten.de/abstrtoc/abstr6.htm). I certainly did not confuse 「一巻」with「最初」. b) 『活動之世界』 nowhere gives any information that might help in deducing when 『芋川椋三玄關番の卷』 was released. That is one of the reasons why the report by Mr Watanabe Yasushi and others confirms my statements regarding this film (see http://anime100.jp/series.html). c) The quotations from Asahi Shimbun and Yomiuri Shimbun that are claimed to date from 13th and 14th July 1909 actually are from 1916. These texts have been used in my above-mentioned book, which also gives the most accurate information on Shimokawa's role in Japanese animation history.
Mit freundlichen Gruessen
F.S. Litten
Posted by F.S. Litten at 2019年09月26日 02:17
Lieber Kataoka-san,
凸凹人間 war und ist mir leider nicht zugaenglich.
Aber unter diesen Umstaenden ist es ohnehin besser, die Diskussion zu beenden.
Beste Gruesse
F. Litten
Posted by F.S. Litten at 2019年12月28日 18:27
グスコープドリの物語にでてくるクーボー大博士は最高の教師なのに謙遜をして自己犠牲になったイーハトーブ火山局のエンジニアへ
花は咲くをうたっていた。そしてこうしめくくるのである「私はなにをのこしただろう。」と。
Posted by サステナブル金型屋 at 2021年09月12日 13:03
申し訳ありませんが、
私の知っている『グスコーブドリの伝記』とは違うようです。
とは言っても、子ども時代の記憶ですので、
確かなことは申せませんが。

またリッテンさんのコメントを引用しているのも、
当方にはまったく理解できません。

宮沢賢治の『春と修羅』にある「業の花びら」のように、
さまざまな遺稿に基づいて、ここにお書きになっていらっしゃるのでしょうか。当方、新型コロナもあり、現在のところ、全集や校訂にあたることができません。

あるいはなにか、二次創作物があるのでしょうか。

どういう経緯で、また、どのような根拠に基づいて、
サステナブル金型屋さんがお書きになっているのか、
さらに、この回の凹天ブログとなんの関連があるのか、
ご教授いただければ幸甚です。
Posted by 片岡慎泰 at 2021年09月14日 04:20
続投失礼します。

仮に、リッテンさんの正しい指摘 c) の訂正を
早くしろということでしたら申し訳ありません。

昨日から授業が始まり、また教材作成に追われておりまして、しばらく訂正できません。ご容赦ください。

なお、「ニュートーキョー本店」は、
私が昭和女子大学勤務時代に、
音楽業界では有名な松平先生と飲食した思い出の場所です。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E5%B9%B3%E9%A0%BC%E6%9A%81

松平先生は、元々「八木」という姓でしたが、
幕末に功績を認められて「松平」という姓を賜ったのです。

凹天つながりで言えば、松平先生に、
ここがかつて有楽座があった場所と教えていただきました。

私は宮国優子さんにこのことを伝えていなかったのですが、
宮国さんは、仕事中にもかかわらず、ミラノから、
かつて有楽座があったこの場所を特定したのです。

「すごいね」とタンディで話すと、「いやいやいや」なんて、
照れていました。

ティーダ・ブログなので、敢えてこのエピソードも、
ご紹介します。
Posted by 片岡慎泰 at 2021年09月14日 05:58
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