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2017年05月30日

第137回 「鏡原小学校山北分校跡地」



今回ご紹介するのは、かつて小学校があったことを標す石碑です。鏡原小学校の山北分校と聞いても、なかなかピンとこないのではないでしょうか。大字の住所でいうと東仲宗根添。現在の通称では宮原地区ということになります。山北の名は宮原地区でも北(海寄り)の増原あたりに、「山北」を名乗るバス停があります(比嘉行 長北山北線 上り1本、下り2本/日)。

山北分校は1948(昭和23)年に鏡原小学校の分教所として設置されました。藁葺きの教室がふたつというつつましい学校(分教所)に、三学年(2・3年生は複式)のみながら、93名の児童が在籍していました(担任教師は2名、分教所なので校長は不在)。
1951(昭和26)年に校舎は瓦葺きとなり、校庭なども整備されて次第に学校らしくなってゆきます。
1956(昭和31)年に現在の場所に新校舎を建設して移転。翌1957(昭和32)年には宮原小学校として念願の独立校となり、山北分校は廃止されました。設置から10年足らずとわずかな期間ですが、分校があったことを記録する石碑が、宮原小学校創設35周年となる1992(平成4)年に、石碑は小学校向かいの園地の隅に建立されました。

しかし、後身となる宮原小学校も少子化の波を受け、2015年3月をもっ58年の歴史に幕を閉じてしまった(鏡原小学校に統合)。それから学校から子供の声は消え、今や校内は雑草が生い茂っている(一部の建物は倉庫などとして暫定活用されいる)。
そんなちょっと淋しい廃れゆく校内の様子を少し紹介しておきます。

【画像】2015年3月廃校となった宮原小の全景。前庭は雑草に覆われています。

【左】理想の宮原っ子を、あいうえお式の標語で記した石碑。
【右】深く雑草に埋もれている、創立50周年を記念する石碑。

【左】もうタイトルも読むことが出来ないほど埋もれた、創立25周年の石碑。
【右】学校壁面にある校章と時計。2年の時を経てもまだ色あせていません。

【左】謎の鳥キャラがオープンカーに乗る交通安全の誓いの言葉。
【右】かつては庭園だったのでしょうか。奥には飼育小屋もありました。

【左】まさかのトマソン、“純粋階段”。校章と時計の裏側にありました。
【右】蛙と牛がバスケをする体育館の壁画。集落を象徴する生き物?。

【左】校門の門柱に書かれたあいさつ文。時の止まった小学校に明日はありません。
【右】併設されていた宮原幼稚園。こちらも小学校と同じタイミングで廃園になりました。

まだ、取り壊すなどといった具体的な計画はまったく出ていませんが、いずれ廃校となったこれらの施設はきっとつぶされてしまうのでしょうか。
勝手な思いを勝手に語るならば、スポーツアイランドを掲げて各種スポーツの大学や社会人、クラブチームなどの宮古島キャンプを受け入れているので、改修して合宿施設とかにしたら、学校だったことも活用が出来るし、なにかと費用のかかる合宿も環境のいい場所で低予算で出来るとなれば、候補地として選ばれることが増えるのではないでしょうか。また、人が来れば地域活性にもつながって、結びつきが出来たら面白いことにも発展しそうな予感もします。
スポーツではなく文系の合宿地というのも面白いかもしれませんね。市の公文書館を兼ねて、図書館とは路線の異なる市史編纂資料などを閲覧できるような保存状態にして、宮古の歴史文化の研究の拠点とする構想なんてどうでしょうか。宿泊も出来てゼミ合宿などに活用できる教室とかあれば、文系研究者(とその卵たち)が、宮古について研究しだしてくれるかもしれません(そういう人材を増やせれば、文化に広がりが生まれそう)。逆に先生を招聘して島の子供たちの進学や学業アップのための予備校的集中合宿講座なんてものありかもしれません。
学校って教育委員会の管轄だから、その気になれば出来そうかも。。。っと、妄想が過ぎましたが、それだけ魅力的なのかもしれません。学校という場所が。。。

【資料】
宮古協栄バス/長北山北線 路線図 ※比嘉入口は経由しません。
宮原小の誇り、永遠に/閉校式行う 宮古毎日新聞 2015年3月29日  続きを読む



2017年05月26日

その10 「島の地図、塗り替えてます!? 光さんの綾道(あやんつ)」



宮古島市教育委員会から先月リリースされた冊子【宮古島市neo歴史文化ロード綾道 伊良部島コース】が評判になっている。綾道は文化財の紹介を中心に、地域の歴史や文化をわかりやすく読み解いたガイドブックで、友利・砂川(ともり・うるか)コース、平良(ひらら)北コース、下地・来間(しもじ・くりま)コース、宮国・新里(みやぐに・しんざと)コース、戦跡遺跡編に次いで、今回が6冊目の発刊となる。イラストを描いているのは山田光さん。ユーモラスでどこか人懐こい彼女の作風は、宮古島の空気感を見事にとらえ、ページを開けば、もう、森の匂いが立ち上り、人々の掛け声やら波の音やらが飛び出してきそうなのだ。

文化財を紹介する本はすでにあるのだけど、専門用語が多すぎて難しい。もっと子どもから大人まで、宮古に初めて来る人にもわかるようなものにしよう、と担当職員と意見が一致。例えば砂川のウイピャ-ムトゥの斎場。そこでは「ナーパイ」という祭祀が行われる。じゃ、ナーパイって何?津波?その津波っていつあったの?とかね。そういう背景も掘り下げて説明しないと面白くないし意味がない。

自然や探検が大好きな光さんの視点は、机上の調べものに終わらない。必要とあらば、いや、なくとも、滅多に人が入らないアブ(洞穴)に潜入し、崖を下り、入り江を歩き、海に潜る。少年のような身体能力をフルに発揮し、〝現場検証″を重ねてイラストにする。

地元の人は地元のことを意外に知らないし、こんなこと調べてどうするの?って目でみるけれど、カタチになると、一番喜ぶのはやっぱり地元の人。こんなこと知らんかったよ。あんたは宮古の人より知ってるさいがって言われてます(笑)

光さんは城辺の農家の嫁として、2006年に愛知県からやってきた。ふたりの出会いは名古屋のとある沖縄料理店の開店準備の現場。光さんが看板を描いていたとき、内装職人にいきなり「もしかして山田さんって言います?」と聞かれ、のけぞったそうだ。

実は、妹が宮古の農園でバイトしたことがあって、たまたまそこは親戚の農園で一緒に働いていたと。妹と私はそっくりだから、これは話に聞いていた姉に違いないと思ったらしい(笑)

この広い世の中で、たまたま妹がバイト先で出会った宮古の青年と、たまたま姉が看板を描いた店での出会い。これを運命と呼ばずして何とする。持っていきようによってはロマンチックな一大ラブストーリーなのだが、光さんを通すと、なぜだか大爆笑の物語に。

内地から嫁に来てくれたとすごく歓迎された。でも、酔った勢いで「ナイチャーは好きになれない」と言われることもある。でも、それは今までの歴史を考えれば、当然のことだよね。

実は光さん、かなり個性的な家庭に生まれて育った。両親は社会問題に並々ならぬ関心を寄せ、子どもたちには学校より勉強会や養護学校などへの訪問、支援するNGOの活動を優先させたという。家族の会話には日常的に「沖縄」という言葉が飛び交い、幼い頃から沖縄の人たちと関わることも多かった。沖縄へ向けるまなざしは、いつも真摯なものにならざるを得なかった。そして、結婚は、その沖縄の「中の人」になることを意味してもいた。

憧れから来たわけじゃないから、いわゆる期待していたのと違ったという思いはない。内地では「自分はこう思う」と率直に言ってたけど、島に来てからは控えている。狭い島では「言い逃げ、ケンカ別れ」は極力しない方がいい。ほぼすべての人がつながっている、もしくはそのうちつながるので、関係を悪くしてしまうといろいろとうまくいかない。そういうことが数年経ってわかってきた。最初はそのあたりがよくわからず、場を重くしたことも。なので、内地での経験はひとまず横に置いてある感じ。

山田家では、みなが思うことを言い合った。茶の間がディベートの場と化した。ここでもそれをしたら「まあ大変なことになりましたよ」と光さんは笑う。そう。彼女はどんな局面も豪快に笑い飛ばし、楽しんでしまう才能の持ち主だ。それは、たぶん持って生まれた性格に加え、神戸の震災以来、取り組んできたという災害支援活動から得た生きる知恵だ。

災害があれば、泊まり込みでどこへでも出かけた。炊き出しだって200人、300人単位だから、こっちの集まりで数十人分はぜんぜん余裕。被災地にはいろんな人がいて、トラブルも日常茶飯事だし、どんな場面にも対応できないといけない。だから大抵のことは負担にもならない。すべてが面白いと思えるよね。

絵を描くこと、旅をすること、災害支援、そして沖縄。向き合ってきたテーマのすべてが、島に暮らし、島を調べて描くことに集約されると光さんはいう。被災地で感じることは地域のつながりの大切さだ。部落の集会や行事に参加し、人と人がつながること。そして綾道の制作を通し、地元のいろいろを掘り起こすこと。新しい発見にみんなで「へぇ〜!」と言い合うこと。そんな毎日が「スゲー楽しい」のだと。

しばらく前から、集落の要所に光さんの描く綾道マップが案内板として設置されている。光さんのイラストが島の景色の一部となる。なんて素敵な仕事なのだろう。考えただけでスゲー楽しいじゃないか。

※     ※     ※     ※     ※

【あとがき】
山田光はカッコいいのです。三線も弾きこなし、オートバイを乗り回し、なんなら船でも飛行機でも操縦しそうな感じ、といったら伝わるでしょうか。そして絵がうまい。当たり前か。山田光という圧倒的な個性のルーツは、やはり個性的な家庭環境にあるのだと、話を聞いて納得しました。
そして「綾道」ですが、伊良部島編に続く今年度は、「平良南・久松コース」が計画されています。また、以降の計画は「城辺」、「上野」、「池間・狩俣・大神」(いずれも仮称)と予定されています。
きくちえつこ 

※「綾道」の入手方法については、発行元の宮古島市教育委員会文化財課(城辺庁舎)までお問い合わせください。
宮古島市neo歴史文化ロード宮古島市教育委員会公認アプリ
  



2017年05月23日

第136回 「谷川健一歌碑」



今回お届けするのは、民俗学者として名高い、谷川健一の歌碑です。歌人としての評価は定かではありませんが、歌集も四冊ほど出版されているようですが、調べた限りでは谷川健一の歌碑はこれひとつしか探すことは出来ませんでした(そもそも歌碑以外の碑も存在はしていないようです)。

まずは歌碑にある歌を紹介しておきましょう。
    みんなみの 離りの島の 眞白砂に
               わがまじる日は 燃えよ 花礁も
なんても1969年から民族調査で宮古島を訪れていて、1994年には「宮古島の神と森を考える会」を発足させています。
そんな縁から宮古を詠った歌も多いそうで、石碑に記された歌以外にも、


「狩俣の尾根に連なる大森(うぷむい)に 神の気配のひそけき月夜」
「月光(つきかげ)よ草装う神の降りてくる 時刻(とき)をしらせよ森の島に」

などがあるそうです(碑の解説板より)。

書き忘れていましたが、こちらの石碑が建立されているのは宮古島の神と森を考える会の事務局長をされている、陶芸家・佐渡山安公の太陽が窯の入口(カフェとぅんからやー)に建立されています。
建てられたのは2003年12月6日。谷川健一歌碑建立実行委員会と宮古島の神と森を考える会が建てたようです。

あまりにも有名な方なので、四の五の書くのははばかられる気もしますが、一応、簡単に略歴をまとめてみました。

1921(大正10)年7月28日、熊本県水俣生まれ。熊本中学(現県立熊本高)を卒業後、旧制浪速高等学校(のちの大阪大学)を経て、東京帝国大学文学部卒業(専攻フランス文学)へ進む。その後、平凡社の編集者として活躍。日本初の本格的グラフィックマガジン「太陽」初代編集長を務めた(1963年創刊、2000年12月号で休刊)。

民俗事象と文献資料を独自に分析した精力的な執筆活動を始め、柳田國男が提唱した「日本民俗学」が学術化専門化して、派閥組織が進んだことか、柳田國男や折口信夫らの学問を批判し、学会とは距離をとって独自の活動を続けた。

1981(昭和56)年に谷川健一を初代所長として、川崎市に日本地名研究所を発足させ、町村合併などに伴った安易な地名変更に対して警鐘を鳴らした。1994年に「宮古島の神と森を考える会」を発足(初代会長)。2013年8月24日、92歳没。

最後に個人的に所蔵している数少ない谷川健一の著作、「海の群星(むりぶし)」。1988年にテレビドラマ化され、NHKで放映されました。出演は緒形健、石田ゆり子、荒井紀人ほか。いわゆる「糸満売り」の物語です。いやぁ、石田ゆり子がとても若いです。ナイスキュートです(たぶん19歳くらい)。
NHKアーカイブスに全編があるようです。「ドラマスペシャル 海の群星」
※お試し的に3分ほどの映像を見ることが出来ます。映像的にはショタ好きが歓喜しそうな、ふんどし小僧が堪能できます(笑)
もうひとつ。こちらはYoutubeにUPされていた映像(粗い)。エンディング部分が5分ほどあるようです(コチラ)
「むりぶし」とはプレアデス星団、スバル(昴)のこと。「むすぶし」「むるぶす」などとも呼びます。


【関連HP】
日本地名研究所
宮古島の神と森を考える会  続きを読む



2017年05月19日

金曜特集 「青い海の向こうがわ~ギリシャと宮古~」



初めまして。今回ご縁あって、こちらに寄稿させていただくことになりました、北上イレーネと申します。よろしくお願いします。
普段はギリシャについてブログを書いていて、特に古代ギリシャの神話や伝承について色々調べています。

そんな私が、慶世村恒任という宮古の方が書いた『宮古史伝』という本を、たまたま読む機会がありました。この本には、宮古島の歴史や伝承がまとめられているのですが、いくつかのお話を読んでいくにつれ、ギリシャの話と似ているなと思うものが出てきて、とても興味を惹かれました。

そういうことで今回は、宮古島に伝わる伝承と、古代ギリシャの人たちの神話との間にある、なにやら似ている共通点について、お話をしたいと思います。「へーそうなんだ」くらいの軽い気持ちで読んでいただけると嬉しいです。

それでは、具体的にどんな話が似ているのか、例をあげてご紹介してみますね。

『宮古史伝』に出ていた、「子方母天太(ねのはうまてだ)」にまつわる伝承によりますと・・・。
昔、1人の若い貧しい女性が、意地の悪い主人に仕えて苦しめられていました。ある夜、主人を逃れて小さな森の中で寝ると、夜中頃に雷のようなすごい音がして大変驚きました。夜が明けてみると、1羽の赤い鳥が天上から飛んできてそばに止まったそうです。するとその日から、獲物が驚くほどたくさん取れるようになりました。そして幾日か過ぎて、彼女は12個の卵を産みました。この卵を野原に埋めておくと、しばらくしたら、12人の子供達が生まれ、彼女を「お母さん」と呼んですがりついてきました。彼女は小屋を建てて子供達を育て、必要なものは天から神霊が下されたので大変豊かに暮らし、やがて子供達は神々となったとのことです。そして、その母である女性は天に昇り、「子方母天太(ねのはうまてだ)」として祀られるようになりました。
※この話の全文は、慶世村恒任『新版 宮古史伝』冨山房インターナショナル、2008年、P11〜12をご覧ください。

なんという不思議な話でしょう!。
天から赤い鳥が飛んできて、女性が卵を産んで子供達を育てるなんて!。

いったん、このお話のポイントを整理してみましょう。
このお話では、「天上から」赤い鳥がやってくるのですが、これはおそらく、天の神が姿を変えて、女性の元にやってきたのでしょう。
そして、女性が卵を産んだということは、天の神の化身である鳥との間に、子供をもうけたのですね。神が鳥の姿だったので、子供も当然卵で生まれます。
この鳥が天の神の化身だった証拠に、生まれた子供達には天の神霊からの手厚いサポートが提供され、成長したあかつきには、子供達は神様となっています。

さて、これを読んで、宮古島の伝承ってシュールだな、あるいは宮古島の人たちって想像力が豊かだな、と思った人たちもいるかもしれません。

ところが!。
これとよく似たお話が、ギリシャにも残されているのです。

ギリシャのスパルタの王様テュンダレオスの妻レダは大変美しい女性でした。神ゼウスがレダを愛してしまい、白鳥の姿となって、彼女の元を訪れました。そして、レダはゼウスとの間に卵を産み、絶世の美女ヘレネとポリュデウケス、そしてカストルとクリュタイメストラという男女2人ずつ、計4人の母となったということです。
【ギュスターヴ・モロー『レダ』(1865-1875)パリ・ギュスターヴ・モロー美術館所蔵(Public domain)】

どうです?。
これも不思議なお話ですね。
人間の女性が卵を産むなんてナンセンス!。と思う方もいるかもしれませんが、このお話の舞台となったスパルタ市では、レダが産んだという卵まで神殿の中で大切にしていたそうですよ。
*スパルタ:古代ギリシャの都市国家。厳しい軍事教育で有名で「スパルタ教育」の由来となった。

さて、このギリシャのお話を読むと、先に紹介した宮古島の「子方母天太(ねのはうまてだ)」のお話との共通するポイントがはっきりしますね。
まずは、天の神が鳥に姿を変えて人間の女性の元へやってきたこと。
そして、その女性が鳥に姿を変えた神との間に卵を産み、そこから子供達が生まれたこと。
この二点は明らかに似通っていて、遠く離れた宮古島とギリシャとで語り伝えられていたとは信じられないほどですね。

ですが、宮古島の伝承では、卵から生まれた子供たちは12人で、みんな神様たちになっていますので、この点は注意が必要です。
ギリシャの神話では、生まれた子供たちは4人で、しかもギリシャでは一応、片親だけが神様の場合は神様ではなくて「半神」という扱いになり、ちゃんと寿命があって、死ぬことになっています。神様は不老不死なんですけどね。

実はこのレダの子供達についての伝承は入り組んでいて、4人の子供達のうち、ヘレネとポリュデウケスの2人はゼウスの子供で、残りの2人はレダの夫であるテュンダレオス王の子供だ、とも伝えられています。そうなると、半分は「半神」でも、残り2人はただの人間になっちゃいますね。

そうすると、ギリシャの場合では、卵から生まれた子供達は神様ではなかった、ということになってしまうのですが、でもまたそこもギリシャの神話の面白いところ。別の伝承もあるんです。

実はポリュデウケスとカストルという息子達は、「ディオスクロイ」(ゼウスの息子達)と呼ばれて、多くの英雄伝説を残し、しかも航海の神様として祀られていた地域もあったんです。
嵐の中で船乗りを救う「聖エルモの火」のお話を聞いたことはありませんか?これは古代では、この「ディオスクロイ」のことだったんです。海洋国家のギリシャで、ピンチの時に船乗りの前に現れる不思議な火は、彼らにとって大切な神様だったのではないでしょうか。
【聖エルモの火(Public domain)】

それでは、残る2人の娘達、ヘレネとクリュタイメストラはどうだったかというと、実は絶世の美女ヘレネも、のちに天に上げられた、という伝承があります。このヘレネをめぐっては、男たちは「トロイア戦争」という10年に及ぶ大戦争に巻き込まれて、たくさんの犠牲者を出したのに、なんだか不公平な気もしますよね。
*トロイア戦争:古代ギリシャの神話上の大戦争。美女ヘレネがトロイアへ連れ去られ、これを取り返すためにギリシャはトロイアを攻め、激しい戦いの末に勝利する。この戦いで奸計「トロイの木馬」が使用された。

そしてクリュタイメストラの方は、残念ながら天に上げられたという伝承はありません。それでも、愛人と共謀して夫であるアガメムノン王を殺してしまった、という大胆不敵な彼女の伝承には、恐ろしい魔女や女神の怒りといった神話が反映されているようで面白いところです。

いずれにしても、ギリシャでも、ゼウスの血を引いて卵から生まれたような子供達が、普通の人間と同じ、とは考えられていなかったというのは間違いなさそうです。どちらかというと人間の範疇を超えた存在だったのですよね。

ですから、やはりふたつの伝承の間の共通点というのは無視できないものなのではないでしょうか。
それでは最後に、なぜ宮古島と古代ギリシャという、時代も場所も遠く離れたところで、同じような伝承が語り伝えられていたのでしょうか?

これについては、ふたつの考え方があります。

まずひとつは伝播説。古代ギリシャで語り伝えられていた神話が、じわじわと遠くの地域まで伝わっていって、ついには宮古島まで到達した、という考え方。
歴史のロマンを感じさせる考え方です。でも、ギリシャの神話が宮古島に伝わった、なんて、一体どうやって立証するの?という、永遠にその証拠が出てこないものでもあります。だからやっぱり、ロマンなんですよねえ。

あるいは、人類というのはみんな似たような思考回路を持っているのだから、その想像して語り伝えた神話というのもみんなどこか似通っているのだ、という考え方もあります。深層心理や集合無意識のような、フロイトやユングの心理学に興味のある方なら、こちらの考え方を支持したくなるでしょう。

どちらの考え方をするにしても、宮古島と古代ギリシャという、遠く隔たれたふたつの地域で、同じような伝承が伝わっているというのは面白いことですよね!ぜひ想像力を豊かにして、このふたつの伝承を楽しんでみてください!。

それでは、長くなってきたので、この辺で失礼します。
お付き合いいただいてありがとうございました。

【ギリシャの紹介】
国名 ギリシャ共和国(MAP)
首都 アテネ
人口はおよそ1080万人。
地中海(エーゲ海とイオニア海)に面した東南ヨーロッパに位置する海運と観光の国。
オリンピック発祥の地としても知られている。
ギリシャ政府観光局
ギリシャ共和国(wikipedia)  続きを読む


Posted by atalas at 12:00Comments(0)金曜特集 特別編

2017年05月16日

第135回 「下地恵雨仝メガ頌徳碑」



沖縄は5月13日に平年より4日遅れて梅雨入りもし、15日には45回目の復帰の日を迎えました。意味ありげに枕詞を並べていますが、今回ご紹介する石碑には特に関係はございません。それ以前に、もうタイトルからしてなんぞや?っといった雰囲気をわずかに醸し出しているのではないでしょうか。ある意味では出落ちだったりもしますが、とにもかくにも見つけてしまったので、思わず取り上げてしまったという。脊髄反射的なネタとなっています。

まず、整理しておきたいのは石碑のタイトルです。
ひと言で書き表すなら、下地恵雨さんとその妻、メガさんを顕彰(頌徳-しょうとく-簡単に云うと顕彰の古い云い方)する石碑です。
今じゃ、「仝」(どう)なんて省略を意味する踊り字はあまり使いませんからね。せいぜいが佐々木さんの「々」や、いすゞ自動車の「ゝ(濁点は、ゞ)」あたりくらいではないでしよぅか。他にも「〵」「〃」「〱」「冂(中に点が入る)」などなど(一部、機種依存文字なので上手く表現出来ない場合があります)なんかもありますが、もう古文書的なモノの中くらいでしかお目にかかることもありません。

古い日本語はなにかと難しい言い回しや、強くて硬そうな熟語、はたまた印字したら潰れてしまいそうな画数の多い漢字なんかが、ふんだんに使われている一方で、こうした踊り字が省力化のために使われているあたり、世界一複雑な言語だと改めて実感させられます。しかも島の言葉にいたっては、ルーツにその古語が息づいていて、より難解さを複雑にしているところに、口語文の音から新たに勝手に漢字を当てはめて造語したりもしているので、それはもう並のパズル以上に謎解きが必要になったりします。けれど、それに気づけた閃きの楽しさはアハ体験にも勝るのですけどね。

っと。のっけから余談にふけってしまいましたが、こちらの石碑があるのは下地地区の与那覇。集落からはやや離れた畑の中にあります。石碑のすぐ西側には恐らく宮古でもっとも古いと考えられる、1771年の乾隆三十六年大波の死者を弔った石碑の建つ与那覇前山が位置しています。
この石碑を知った(気付いた)のは、たまたま国土地理院の地形図でその前山を眺めていたら、畑の中に石碑マークがぽつんと落ちていたことが発端でした。「こんなところに石碑?。はっ、そんなの知らないし、聞いたこともないけど~」っと云うのがきっかけでした。歴史ある前山の津波の石碑はマークすら落されていないのに、正体不明の謎の石碑が国土地理院の地図に記されているのですから、興味を引かないわけがない。ということで、早速、現地へ飛んでみました(島の面白いトコは、こうして気になった文献から現地をすぐチェックできるという身近な点だったりもします)。

一面のサトウキビが広がる与那覇集落の外れ。ちょうど刈り取られて次のキビ植えの準備が済んだ畑の中に石碑はありました。石碑は恐らく集落の方向を向いていると考えられ、道路側は石碑の背面になっていました(錆びたハウスの骨組みとかも置いてあったけど)。
その背面に書かれていたものは、石碑のいわれや人物のプロフィールなどではなく、建立者の名前がずらりと並んでいるだけでした。ぶっちゃけ、まったくといっていいほど石碑の情報が判りませんでした(帰宅後、ネットで名前を片っ端から検索するも、成果は得られず)。
ここまでで判明したことは、下地恵雨さんが1943年に、下地メガさんが1923年に亡くなっていること。それと1975年3月に石碑が建立されていることだけでした。

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けれど、ここではたと気づきました。そして納得をします。この下地夫妻が成し遂げたことを。それはずらりと並んだ建立者の配置にありました。下地恵雨・メガを頂点に、次段に10名、下段に19名もの名前が記されています。
そうなのです。一族ゆかりの人々の名前がずらりと刻まれていました。建立されたのが1975年ですから、恐らく現在はこの下に2~3段目の世代がいるのではないでしょうか。いったい総勢は何名になっているやら。さすが家族の絆の強い沖縄ならではといった石碑を知ることが出来ました。つまり、この下地恵雨・メガ夫妻が成し遂げたことは、下地家(下地家は他にもたくさんあるので)に繁栄をもたらした祖であるということなのではないでしょうか。
そういう結論になったかって、それは石碑の隣りにお墓があったからです。きっと下地家の本家筋はこの墓を今も使っていると思われます。つまるところ、このお墓の中には下地恵雨・メガのおふたりも眠っていることでしょう。
※石碑関係者の方、いらっしゃいましたら是非、建立の経緯など聞かせていただけたら嬉しいです。


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2017年05月12日

20冊目 「読めば宮古」



6年もの?!婚活の末40歳でやっとこさと結ばれたのは、沖縄から南西に300キロ離れた島、宮古島出身の心優しき男だった。
出会って、2回のデートで瞬く間に結婚が決まってしまった。
「宮古島ってどこ?」
場所をネットの地図で調べたくらいで、式を挙げるため宮古島を訪れた。
夫の家族や親族ともその時初めて会うという、電撃婚だったのだ。飛行機に乗り、上から眺めた富士山の美しさに感動しながらフライトを楽しみ、宮古島の地に降り立った。初めての宮古島は太陽のまぶしさ、空の広さと青さ、そして、なんといっても海の美しさに圧倒された。
家族親族と「初めまして!」を繰り返し、花嫁という役割をなんとか終え、島を去る直前、弟となった人に渡されたのが、この本「読めば宮古」だった。

「読めば宮古」は宮古島出身者や宮古島在住者による実録宮古島記録集だ。
そのあり方は島の人が集まってするオトーリとかむぬぱなす(おしゃべり)そのもの、それをSNSの投稿のように次から次へと掲載している。
島の歴史や風習、ほっと泣けるエピソードから大爆笑ネタ、そして、とてもまじめな島の課題まで宮古島にまつわる話の数々が微に入り細に入るまでこれでもか!と言わんばかりに掲載されている。
全てが体験した当事者による語りなので、ひとつひとつのお話がとても生き生きぴちぴちしている。
その在り方が人々を引き付けるのか、刊行してから15年以上たった今でも版を重ねる、大大ベスト・ロングベストセラーなのだ。そして、私がこの本をプレゼントされたように、宮古島に縁を持った人はこの本をプレゼントされているようだ。
自分たちの島を知って愛して欲しいという、島の人たちの思いだろう。
そうそう、この本で証言した人たちも宮古島のことを愛している人たちばかりだ。
「読めば宮古」は宮古島愛の連鎖が起こる、魔法の本なのかもしれない。
<しづく>


〔書籍データ〕
読めば 宮古!―あららがまパラダイズ読本
著者 /さいが族 編
発行/ボーダインク
発売日 /2002年4月
ISBN /4-89982-022-4  続きを読む


Posted by atalas at 12:00Comments(0)島の本棚

2017年05月09日

第134回 「(長間神社)改築記念碑」



先週の予告の通り、長間自治会公民館の道向かいお話です。出落ち感で云ってしまうと、公民館前にあるのは長間神社です。しかも、そこの改築記念碑です。

今でこそ鳥居が設えられ長間神社と呼称していますが、本来は長間御嶽と呼ばれる場所です。御嶽と鳥居は本来、なにも関係がないのですが、明治維新から琉球処分以降の「皇民化政策」による神道施設化の結果、世情が変化した現在でも設置されたままになっています(詳しくはwikibediaを参照下さい。御嶽の中には神社風の本殿を作り~神社の異称が標準化している御嶽もありますが、知る限り宮古神社を除いて鳥居があっても神社ではなく御嶽なのです)。

まずは改築の碑から探って行きたいと思います。
道路に面した鳥居に脇に立派な台座とともに建立された改築念碑の裏目には、
   西暦一八一四年
村建 皇紀二四七四年甲戌年八月
   一九五二年壬辰旧三月十五日建之
と、諸年号が記録されています。
年号がいくつか出て来ますが、石碑が建立された年は西暦1952年。元号に直すと昭和27年になります。時代背景的には戦後復興が進んで来た頃ではないかと思われます。全島的に振り返ってみても、このあたりの時代に建替えたり改築したりしている場所や物が数多く見受けられます。勝手な推測にすぎませんが、パラダイムシフトが起きたことよって、自我の確立というかアイデンティティの再建が興った時期と、様々な要因が重なった結果なのではないかと愚考しました。

この改築ではどこを修繕したのかまではっきりしませんが、質素な作りながら威風堂々とした雰囲気の鳥居も、そこから奥へと真っ直ぐに延びる参道も、本殿の手前に左右で対になって鎮座しているひと組の灯篭も、大きくはないけれど御嶽林とそれに連なる松林に囲まれた神明造り風の本殿も、すべてがコンクリートによって作られています。
コンクリート≒アメリカ文化的なイメージも勝手に加味しているかもしれませんが、背景には複雑なものが色々と絡み合っているチャンプルー感(ある意味ではカオス感)が、逆説的にいかにも島らしさの魅力になっている気がします。

余談ですがこの鳥居。磁方位では北西を向いています。日本の神社の多くが南を向いていることを考えると、御嶽であって神社ではないことが見えて来る気がします。尚、鳥居(というより御嶽の入口という意味に変化している気がします)は民俗方位では申の方角(西)を向いていました(民俗方位での東西南北は寅申午子になり、東西が本来の卯酉とはひとつ南向きにずれています)。御嶽の基本的な作りを考えると、午の方(南)から入り、拝所(イビ≒御神体ではないが、いわゆる拝む対象物のあるところ)は寅(東)を向く(入口から参道にあたる部分が右へカーブしている)作りになっているので、もしかしたら公民館との間の道は(およそ45度東に傾く民俗方位では)南北になるので、道路拡幅前はここに参道があったかもしれない。などと誇大妄想を勝手に膨らませておきます。
尚、南から東に抜けるという思想は神社のエネルギーの通り道(南から北)と同じ考え方のようですが、沖縄の緯度が南にあるから傾きが変化しいるのかもしれません。

話が大きく膨らんでしまいましたが、もうとひつ書かれている年号にも触れておきたいと思います。碑面通りを読むと西暦1814年皇紀2474年(神武天皇の即位を紀元とした日本独自の元号で、戦前戦中まで西暦に変えてよく使われていた。ちなみに2017年は皇紀2677年にあたります)に村建されたと記されています。大和の元号では文化11年。江戸時代でした。
ところが「雍正旧記」や「球陽」によると、かつてこの地域を支配していたの飛鳥(とびとり)は、支配域の拡大に狙っていた伊佐良村から逆襲にあい、弓の名手・宇慶目曽礼の矢を受けて落命します。長間の地にあった城は滅び、城下の人々も離散してしまいますが、西暦1725年に旧城の隣りに大神島から72名を移住させて、新たに長間村を村建したとされてます。しかしこれでは石碑の年号とは合致しません。
もう少し時代を追って紐解いてみると、なんでもこの長間の地は水利と土壌があまり良くなかったようで、村人から喜屋慶地方(語感からキャーギ≒西城中そばの長間郵便局界隈と思われる)への移転が申し出がなされ、1813~4年頃、村の移転が了承されたといいます。ところが、この間にも長間には各地域から多数の移住が行われており、どうやら旧村が立ち退き、新村が作られたのがこの時期なのではないかと考えられます。
長間そのそもののエリアが広いこともありますが、開拓余地が多かったのか、かなりの流入移動が複雑に行われていたようで、1723年頃には池間民族も長間に流入しているようです(平良市史第九巻資料編7御嶽編)。

かなり荒っぽく、そしてざっくりまとめるとこんな感じになりました。けれど、うっすらと長間集落の雰囲気が見えて来た気もしました(先週の公民館で団結を歌い続けるのは、複雑な複数の根をもつゆえ、結束を重視する流れがあるのかもとかいってみる。だからこその“長間一番”なのかも)。

そうそう。忘れていた訳ではないのですが、最後にこの長間御嶽(神社)に祀られている神様についてを書いておきます。ここの祭神は集落の創建にも関わったいわれている、友利の主(トゥムズノシュウ)が祀られているそうです。
友利の主とは、友利首里大屋子・忠導氏おやけ屋の大主という方。博学で和漢の学に精通していた人物で、「宮古島記事仕次」の原作者なのだそうです(宮古島記事仕次そのものは在番筆者・明有文長良によって、1748年に謹撰された)。

この界隈はおそらくこの友利氏の支配とはいわずとも、影響力があったのではないかと勝手に妄想します(かつては南隣の比嘉までは平良間切だった)。というのも、2000年代に城辺町教育委員会が発行した「城辺町の文化財マップ」とうプレミアな(文字通りのお宝)地図に、「友利一族発祥之地」(1964)という石碑が、福北(福里の最北端の北海岸に近く、長間・比嘉から見たら地続き感のある土地)にあると記されており、もしやこの友利の流れは砂川(うるか)間切ではない友利姓の始祖は友利の主なのではないかという特大誇大妄想(キガロマニアックス)を得て、長間自治会公民館建設記念碑→長間神社改築年碑(友利の主)→友利一族発祥之地の石碑という華麗な連係プレーで、ハットトリックを目指して調査を行って来ましたが、現況も変化しており石碑も50年以上前のもののようで、残念ながら今日までに友利一族発祥之地の石碑を発見することがかなわず、このプランはひとまずはお蔵入りとなってしまいした。
全国の友利一族のみなさん。ぜひ、この碑についてご存知の方がいらっしゃいましたら、些細なことでもかまいませんので情報をお寄せください(史料もとても少ないのです)。
と、いうことで、次週の予告はありません。。。。ごめんさない。

【参考資料】
十二支と方位  続きを読む


2017年05月05日

Vol.15 「赤い実の宝石」



一番ガース(日本で一番小さなセミ「イワサキクサゼミ」)がジージーと鳴き、汗ばむ陽気となってきた。天気の良い日は、若葉が一段と鮮やかで目を楽しませてくれる。
【モモタマナ】

宮古に帰ってきて丸3年。毎年この時季になると楽しみに探し回るものがある。車を走らせながら、ウォーキングをしながら、探す。あすが(しかし)、目を凝らして探すもなかなか見つからない。それが4年目にしてやっとがまお目にかかることができた。

それは野生の「いちご」(和名「ナワシロイチゴ」)の赤い実。3月ごろ、ウォーキングをしながらいちごの木と花を見つけた。それは道路脇の歩道に繁茂していた。今年はもしかしたらもしかするかもと感じた。これまでも別の場所で花を見つけたことはあったが実が付かず花の部分が枯れてしまっているか、生っていても粒がひとつか、ふたつだった。やらびぱだ(子どもの頃)、あんなにたくさん実をつけていたいちごはどうしてしまったのか、残念でしかたがなかった。

そして、きょう(5月3日)である。3月に見つけた場所に行ってみた。遠くから赤いのが見える。生っている!近づいていくと、そこかしこに。一粒口に入れてみる。柔らかくて甘酸っぱーい。口の中に黒い芯のようなものが残るのも懐かしい。

やらびぱだ(子どもの頃)この時季は、いちご摘みに夢中になった。家に帰ってからも鞄を投げ出し、松林の西の畑に走ったっけ。

集落にある松林西の畑。なぜかある期間(4~5年だったか)、その西側の畑一面にいちごが生った。少しうねりのある畑で、見渡す限りいちごの葉っぱと赤い実が広がっていた。幼馴染のT子と私は、うれしくてたまらなかった。こんなことがあるだろうか。夢じゃなかろうかと思いつつ、口に入れるのと持ってきたアルマイトの弁当箱に入れるのに夢中になった。T子と会うとよくこの時の話になる。彼女の中にもやはり色鮮やかに残っているらしい。

東京にいる頃、5月に帰省することはほとんどなかった。いちごと長いこと対面していなかったからか、いちごへの想いは募るばかりだったのだ(笑)。

宮古に住むようになったら、毎年楽しめると思っていた。でも、どういう訳か花は咲くも実がならない。実がなっても一粒、ふた粒・・・。そして、きょうである。
子どもの頃見たような粒ぞろいではないが、よくぞ実ってくれたと、感涙ものであった。

小さい頃、おじいが草刈りに行った帰りに、いちごを花束のようにして持って帰ってきたことがあった。今回、自分でも作ってみた。おじいにもらったような量ではないが、かわいいがま。家に持ち帰って玄関に飾った。

いつーか、畑一面をいちごでいっぱいにしたいと思っている。  続きを読む


Posted by atalas at 12:00Comments(0)宮古島四季折々

2017年05月02日

第133回 「長間自治会公民館建設記念碑」



今回の石碑は2016年10月に、改築されて新しくなったことを記念した、石碑としても新しい記念碑です。
改築されたのは「長間自治会公民館」で、堂々と長間を名乗っていますが、こちらの建物は位置づけとしては長中の字公民館ということになります。というのも、長間は長北(ながきた)、長中(ながちゅう)、長南(ながなん)と、大きく分けて三区(なぜか音読みと訓読みが混ざっている不思議)に分かれており、長北と長南にもそれぞれの字公民館があるからです(しかも、この長間自治会公民館の前にあるバス停は、しっかり長中公民館となっています)。

ほぼ集落の中心に位置した公民館で、新聞記事にもあるように、1969年に建設された旧公民館の裏手の広場だったところに新しい公民館は建設されました。
すでに古い公民館は取り壊され、跡形もありませんが、梯梧が囲むその敷地は駐車場として活用されています。かつて訪れた時の公民館は古いものの清掃が行き届いた小奇麗な雰囲気がありました。
また、広場の片隅にはコンクリート製の滑り台もあったのですが、遊具で遊ぶものの姿がなくなってしまったからなのか、老朽化と改築を理由に撤去されてしまったようです(跡地はグランドゴルフ場として再整備され、遊ぶものの年齢が変化したことを静かに物語っていました)。

自治会の活動拠点へ/長間公民館落成式典・祝賀会 (2016年10月30日 宮古毎日新聞)

新しい公民館の脇に建つ、建設記念碑の裏面には旧公民館の様子と、字を題材とした歌の歌詞が3つほど書かれていましたので紹介しておきます。 ※一部、読み仮名をカッコ書きにしました。
長間中区青年団歌
一、東雲(しののめ)清く昇る日の 勢い見せて日に月に
  栄ゆく長間の中区こそ 我等健児の住処(すみか)なれ

二、中天高くそびえ立つ 鎮守森の老松は
  理想の高きを示すなり 磨け智の玉、徳の玉

三、無尽の富を蔵したる 東シナ海西にあり
  安逸遊蕩(あんいつゆうとう)諫(いさ)めつつ 鍛えし吾人の四肢の金

四、艱難辛苦(かんなんしんく)も何のその 
  質実剛健(しつじつごうけん)旨として
  我等の若き力にて いざや起さん我が中区

五、行く手は遥かたてよとも 竜巻怒濤(たつまきどとう)は起こるとも
  不屈不撓でいざ進め
  我等長中青年団 我等長中青年団
まずは、長中の青年団歌です。
以前、上野の高田青年団歌を紹介したことがありましたが、若い血潮が漲(みなぎ)っている感がとても出ていますね。
尚、四番「安逸遊蕩」は「なにもせずぶらぶらと遊び呆ける」という意味のようです。イマドキの厨ニ力(ちゅうにちから)ならば、「安逸遊蕩」と書いて「ニート」とかルビをふりそうです。
千歳秋
一、千歳秋の水清く 鍛え上げたるこの体
  示さん時は、今日の日ぞ
  来たれ諸人いざ来たれ
  見事に破って我見せん

二、我ら鍛えし選手らは 百に、二百に、千五百
  巾に高跳びマラソンも
  八百リレー四百も
  雄大無双の我が選手
  中区の光り輝かせ

三、朝日に閃(ひらめ)く優勝旗 我等[我ら]選手の物なるぞ
  勝利に笑む喜びは
  優勝の太鼓、音高く
  打てや打て打て我が選手
  中区の光輝かせ 中区の光輝かせ
続いては、郡民体育大会的なものへ出場する、選手だちを鼓舞する応援歌のような歌です。
ですが、ちょっと困ったことにこの歌詞のタイトルの「千歳秋」が読めません(学がないのが露呈している)。
「ちとせあき?」なのか、「せんざいしゅう?」なのか。それとも「ちさいしゅう?」「せんとしあき?」。意味検索からの推測では、「千歳」と「秋」を合体させた造語で、長い秋のような意味なのではないか(千歳~“ちとせ”も“せんざい”も、長い年月という意味なので)思われますが、漢詩の一部とか、格言といった正しいネタ元があるのではないかとふんでいます。どなたか正解を教えてくださいませ(検索しても検索汚染されているので艦こればかりが出て来ます)
※三番の最初の「我等」はこの歌の前後を考えると「我ら」とひらがな書きのミスだろうと推察します。
眠れる獅子
一、丈に立ちたる選手
  眠れる獅子の立つごとく
  燃える一声物凄や
  ああ秋天を揺るがして

二、見よ剣述[剣術?]其の獅子は
  敵を強きと退かず
  弱気敵とて侮らず
  勝利は鳴る鳴る肉躍る

三、右手にかざす優勝旗
  手に手に握る鍬(くわ)と箆(へら)
  人のあんたる鐘になり
  舞えや歌えやこの誇り
三作目はこれまでよりも一層、雄々しい感じの歌詞であると感じます。ちょっと面白いと思ったのは三番の歌詞で、優勝旗を右手でかざしつつも、鍬と箆を手に取ってしまいます。なんか一歩間違えたら共産圏っぽいイメージも湧いてきそうです。
※二番の「剣述」は「剣術」の誤字ではないかと推察しました。

果たしてこの歌は誰が作詞したものなのでしょうか。メロディはどんなものだったのでしょうか。字の公民館は地域の中心地であり、こうした小さな歴史がいっばい詰まっているので、ついつい通りかかったりすると何か面白いものはないだろうかと眺めてしまいます。

そんな長中公民館の片隅にあるのがこちら…。

おそらく米軍が投下していった、250キロ爆弾(米国はポンドヤード法なので、正確には500ポンド爆弾≒約225キロ)ではないかと思われます(使用例が多く、大きさ的にもほぼ合致する点からの推測)。
これ。確かにホンモノではありますが、安心してください。
どういうわけか、すでに中は空洞になっていてなにも入っていません。

最後に軽くネタを披露させていただきましたが、次週もふたたび長中であると予告しておきます。
来週は公民館の向かいにあるものをフューチャーしてみたいと思います。
それではお楽しみに~!

【関連石碑】
第26回 「高田青年団歌」
第76回 「新宮古建設の歌」

【関連記事】
「島AP×島AP 長間中集落」 (あんちーかんちー 2008年)
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