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2019年05月31日

log20 「変わりゆく宮古、変わらぬ心」



皆さまこんにちは!
前回では、交通弱者の叫びをお届けしましたが、無事に沖縄県の運転免許センターからお墨付きをいただき、車の運転を再開することが出来ました。
これでスコールのような雨も、うだるような暑さも 怖くありません。

しかし、最近の宮古島は交通量が増え、事故が多発しているので、これまで以上に運転は気をつけなければ、と肝に命じてハンドルを握っています。

交通量が増えた要因としては、増加の一途をたどる観光客のレンタカー、島のそこかしこで行われているさまざまな工事関係の車両、そしてこの春、大勢の移住者が来島したことなどが考えられます。年度始めの市役所では、転入手続きをする大勢の人たちでごった返していたそうです。

楽しみな要素も不安な材料もてんこ盛りの宮古島。
これからどこがどう変貌していくのか、まだまだ目が離せません。ここ数年で宮古島の日常もずいぶん様変わりしました。
数年前まではどの飲食店も予約無しですんなり入れ、満席で並ぶことなんて、行事が重なった、たまの和風亭とジョイフルくらいしかありませんでした。それが今では観光客に押し出されるようなかたちで、昼食ジプシーになる地元の方も多いのではないでしょうか。

果たして、この小さな三角島は、右肩上がりで急増する島民や、うなぎのぼりで増えている観光客の胃袋を支えていくことは出来るのでしょうか?。

島で生産されるもの以外は、ほぼ船便頼みの離島です。
そしてその船便の運行は天候に大きく左右されます。台風時はスーパーの食料品の陳列棚はスッカラカンが定番の光景になりました。これからはますます食料争奪戦が激しくなるでしょう。

そんなことを考えていて、ふと浮かんだのが宮古の子守唄「ばんがむり」の歌詞です。

大芋(ウプンム)やちかばりやあす°だまな
小芋(イミンム)やちか 一個(ピス°トウスウズ)だまな

(大きな芋だったら分けて食べましょう。小さい芋なら1個ずつ食べましょうね)

大(ウプ)だくやちか 一手(ピス°とて)だまな
小(イミ)だくやちか 一匹(ピス°トウカラ)だまな

(大きなタコだったら足を1本ずつ、小さなタコなら1匹ずつ食べましょうね)

現在100歳近いのオバア達に聞いた話だと、昔のお母さんは畑仕事などで忙しいので、近所の「ねえや」が赤ちゃんの子守していたそうです。
ここの子守唄は、そのおんぶしている幼子に姉やが唄った歌詞です。

【ばんがむり(子守唄) 曲はこんな感じ・・・YouTube(友利栄次 『生り島ばが想い』より)】


最近は全国区のニュースでも宮古島バブルを取り上げられることも多く、経済的な豊かさと引き換えに自然や大事な何かがすり減っていくように感じていた私ですが、この唄をふと思い出し、宮古の人達は、貧しい暮らしの中でも少ないものを分かち合う豊かな精神性を持ち合わせていたのだなぁ、と胸のすく思いでした。
景色は変わっても人の心はそう簡単に変わらないものだと信じたいです。

さてさて、前置きが長くなりましたが、令和初となる「宮古口見聞録"(みゃーつふつけんぶんlog)」、スタートです!。

昨年の入院中のことです。
ある朝脳梗塞になり、救急搬送され、最初はICU、その後は個室、さらに元気になって4人部屋に移りました。
4人部屋では窓側だったので、廊下に出るときは同室のオバアのベッドの前を通ることになります。その度によく、お見舞いでもらったバナナやお菓子をくれようとするので「せっかくだから○○さんが食べたら?」と言っても「バタゴーゴー」「自分には硬くて噛めんよ」とオバア。

【ばたごーごー】
お腹いっぱい。
「ばた」はお腹。「はら」が語源ではなく、ハラワタの「ワタ」が語源。

「ばた」つながりでもう少し。

【ばたふさり】
腹が立つ。
「ふさり」は「腐る」はらわたが煮えくりかえる。
本当に!イライラ怒ってばかりだと身体に毒ですね。

【うぷばた】
大きいお腹。
「うぷ」は「大きい」。
ちなみに、そのときのお菓子は雷おこしでした。確かに雷おこしはくぱーくぱですね。

【バタ~佐良浜漁協にあるカツオ解体パズル。アギヤー漁のジオラマや古い漁具等を展示。平日昼間のみ見学可。無料】

【くぱーくぱ】
硬い。
対義語は、「やぱーやぱ」。柔らかい。
そういえば「やぱーやぱサンド」という焼き菓子が島の洋菓子屋さんにありますね。
このように病院の中でもオバア達はバカムヌにあれこれ食べさせてあげようと親切なのでありました。

【ばかむぬ】
若者。
決して「馬鹿者」ではありません(笑)。
「ばかーばか」は、「若い」です。
40代後半の私でも、一般病棟の中ではかなりの「バカムヌ」でした。

入院仲間だったオバアも、やがて退院の日を迎えます。まだ病室に居残る私に「アンタもきっとすぐに退院よ。退院したらオバアの家に遊びに来なさいねー」と、どこまでも優しいのです。
「オバアの家は××小学校の東だから。来たら分かるさ」と個人情報も全開です。

けれど、方向オンチの私としては「どこどこの東側」と言われても皆目見当がつきません。
ところが、宮古の年配の方々はどこにいても方角が判ると言うから驚きです。
さらに普段行かないところにいても、東西南北が判ると言うのです。不思議!そして羨ましい!。

年末。私もめでたく退院となりました。

迎えに来てくれた夫と、病院の1階で会計待ちをしていると、職場(リハビリ施設)の利用者さんと久しぶりにバッタリ遭遇。
「どうしてずっと見えないか?」と聞かれ、脳梗塞で入院していた旨を話したら「これアンタが使いなさいねー」とご自分の杖を差し出してくれたのです!
「ありがとうございます!気持ちだけでジョウブンですよー。足は元気。グシャンは使わないでも歩けるんです」と、有り難くお気持ちだけいただきました。

【じょうぶん】
充分。
日常で頻繁に登場する言葉です。

【グシャン】
杖。
これの語源は何でしょうね~?。

宮古はたくさんの良いところがあるけれど、一番の魅力は人じゃないかと思います。
風景は変わっても大切なものは変わらないことを祈ります。

ではまた。
あとからね~!。  続きを読む



2019年05月28日

第234回 「伊良部マングローブ協会記念碑」



今回ご紹介する石碑は自然系。伊良部の入江を彩るマングローブにまつわる石碑です。ほぼ出落ちで終わりそうな今回のネタなので、オチがないままどこまで引っ張れるかにかかっています。ともあれ、とにかく、とりあえず、見切り発車のスタートです。

どうですか?。なんかもう見た目の感じからしてやる気がない雰囲気です。メインであるはずの縦書きで書かれた「記念碑」の大きさと、石碑全体とのバランスとか。その下に横書きで書かれた「伊良部マングローブ協会」のプレートのやっつけ感とか。なんかもうイロイロと怪しいです。
その上、石碑にまとわりついているのは樹は、マングローブではなく、ガジュマルという展開だったります。尚、この石碑を撮影するために、鎌でもしゃっと繁茂していた前面の雑草を伐採しましたので、撮影前はもっと残念な感じでした。というよりも、そこに石碑があることすら判らない状態でした。

プレートには2000年11月建立とあり、どうやらこの時、マングローブの植樹を行ったようです(正確な情報がはっきりしませんでした)。そしてこの石碑があるのは伊良部島と下地島の間にある入江の海沿いに南北をつなぐ道路と、長浜の字道(基幹集落道。後述します)が交差する、(入江の)海の上なのです。正確には道路を通すため、もとももとある小さな陸地をいくつも繋ぎ合わせ、埋め立てたりして作られているので、ちゃんとそこに地面はあるので海の上は誇張ですが、道路以外の周辺はほぼほぼ入江の海に囲まれているです。
そんな海には大きな干満があり、伊良部島から湧く湧水(と小さな川)が流れ込む汽水域が形作られています。そうした環境にマッチした場所に、植樹されたものを含み、マングローブが茂っているのですが、この地のマングローブは宮古島の川満や島尻ほど、注目がされていません(他にも嘉手苅の入江湾にもマングローブはあります)。
もっとも宮古島自体にマングローブが生育する環境が少なく、県全体でもマングローブ林の面積の割合は1パーセント(約3ヘクタール)しかありません(最大は西表島で県全体の80パーセントを占めている)。資料(やや古く、2015年にまとめられたものなのに、中の数値は合併前の町村名なので、さらに古そう)を見ると、1パーセントしかない宮古島のマングローブ林の詳細に、前述した川満や島尻はあっても、伊良部(字としては佐和田・長浜、仲地が中心)については数値的にも登ってこないほど割合が少ない(植生のある箇所としてはカウントされている)ようです。

【左 石碑の北側の海に茂るマングローブ。奥は平成の森公園】 【右 石碑南の入江の海に茂るマングローブ】

【資料】 マングローブ植栽指針(沖縄県)
※pdfの2は地域の割合などが書かれています。
※7・8・9番は参考資料として、マングローブをはじめとした水辺の植物図鑑になっており、個別に写真入りで判り易く書かれています(植物図鑑は、宮古にはない種名もあるので勉強になりました)。


まあそれはともかく。今でこそマングローブが茂る入江になっていますが、昔の様子を見てみると、マングローブなんてモノはほとんどなく、まったく今とは違う顔をした海が広がっていました。
このあたりの入江の海は、南の伊良部・仲地あたりに比べると、伊良部島と下地島の距離がかなり離れています。古くは下地島は牧(牧場)であったとも云われていますが、1637年の人頭税施行の頃には、伊良部島の人たちにとっての貴重な耕作地となっていたようで(少なくとも1771年の明和大津波では橋が壊れた)、伊良部島の集落から下地島の畑へと、耕作のために通う道が、字ごとに入江の海を渡る道が作られていました。
佐和田は村番所(現在の佐和田児童館)から五箇里道(第85回「五ヶ里道開鑿記念碑」)の延長線のように佐和田の浜の近くを通って、砂洲に作られたなかよね橋から漢那橋の「佐和田矼道」を経て下地島に渡っていました。こちらは連載200回突破記念特番「海に消えた道(1)佐和田矼道」)で稚拙ながら現地調査レポートを書いています。

【元・いんた橋の位置にあるボックスカルバート】

一方、長浜の字道は佐和田のように砂洲もなく、入江の地形は複雑にいりくんでいたことから、大きく迂回したルートながらも、橋を架けて海を渡っていました。村番所(現在の長浜公民館)からコヤガー(1686年に掘られた古井戸)を結んでいました。ルート上にはふたつの橋が架けられており、伊良部島側が「いんた橋」、下地島側が「たいこ橋」と呼ばれていました。たいこ橋は現在、車も通れる近代化された橋として残されていますが、いんた橋の方は、周辺を海中道路化されたため、ボックスカルバートに置き換えられしまい、道と一体化されてしまったことから橋の名は遂に失われてしまいました。
そして、このふたつの橋が結ぶ真ん中にあったのが、今回紹介しているマングローブ記念碑が建立されている場所であり、当時は入江の海で最大の島でした(島の名前は確認できませんでした)。現在は佐和田側で埋めたてられており伊良部島と陸続きになっています。

【1997年9月に竣工した、現在のたいこ橋。親柱にはリアルなサシバのモニュメントが設置されています】

埋め立てられている場所は北側の佐和田の浜に近い入江で、現在は平成の森公園となっている場所です。ここはかつて伊良部島の特産であった塩を生産る塩田がありました(1860年代から)。製塩は幾度かの中断をはさみつつも、本土復帰するまで行われ宮古で使われる塩の大半をになっていたそうです(復帰した当時の日本は、塩が専売制だったために廃業せざるを得なかった)。

【左 遠浅の浜にひろがる塩田】 【右 塩を炊く窯が並んでいた】

【左 戦時中の製塩風景(天日濃縮した塩水を炊いている)】 【右 戦後の佐和田前浜の地籍図。地目には塩田と書かれている】

日々、潮の満ち引きで姿を変化させる入江は、時代の波によっても様変わりを続ける存在となっています。最後はそんな入江の移り変わりを集めた空中写真で見比べて、小さな発見を楽しんでみて下さい。

【1962年 ふたつの橋に挟まれた島。いんた橋の部分に、干満で潮が流れる深みがあるのが判る】

【1970年 8年後。けれどあまり大きな変化は見られない。塩田はこの写真の上の方(写ってはいない)】

【1978年 下地島空港の開港一年前。入江沿いの道路の建設が始まっています】

【1986年 伊良部島と下地島のそれぞれに、入江沿いの道路が開通。新・国仲橋も完成。平成の森公園が造成中】

【1994年 平成の森が完成。17エンドに向けて海中道路の新道が開通している】

【上記の写真をすべて使って、GIFアニメにしてみました】

【資料】
鹿児島&沖縄マングローブ探検!  続きを読む



2019年05月24日

Vol.34 「鳥たちの楽園」



梅雨入りした宮古だが、青空が広がり、若夏真っ盛りだ。一週間前には、ナビガース(クマゼミ)の鳴き声を今季初めて聞いた。
私の住んでいる所は、松林、サトウキビ畑、野菜畑などに囲まれた長閑な田舎にある。
朝から鳥のさえずりが聞こえ、留鳥や渡り鳥など、いろいろな種類の鳥たちを見かける。
スズメ、イソヒヨドリ、ンーバトゥ(鳩)、カラス、セッカ、メジロ、ウグイス、シロハラクイナ、ツバメ、サシバ、シラサギなどなど、他に名前も知らない鳥たちもたくさん見かける。松林の中からはリュウキュウコノハズクとおぼしき鳴き声も聞こえ、このあたりは、住人よりも鳥の数が多いと思われる。

【イソヒヨドリ(メス)】

今、鳥たちは恋の季節のようだ。
昨日は、イソヒヨドリのオスが尾羽を高く上げ、メスを覗き込むように一生懸命アピールをしていた。微笑ましい光景だ。

シロハラクイナは、クワックワックワッと大きな声で鳴き求愛活動真っ只中。
3、4年前、鳩の求愛場面に遭遇した事がある(鳩は、年に何度か求愛活動をするらしい)。
ある日、実家の裏の倉庫の前に2羽の鳩がいた。どうしたんだろうと見ていると、1羽の鳩が胸を大きく膨らませ、もう1羽の鳩をゆっくり追いかけている。それも首を縦に振りながら。まるで、お願いします、お願いしますと頭を下げているよう。おー、告白中かぁ。頑張ってーと見ているとメスはツーンとすまして相手にしてない様子。メスは強い(笑)。
それでもオスは一所懸命追いかける。どこの世界でも恋の成就は簡単にはいかないらしい。

【左 シロハラクイナ】 【右 求愛中のハト】

子どもの頃も鳥は周りにたくさんいたはずだが、気にかけることはなかった。今見渡せばいろいろな景色に出合う。
トラクターが畑を耕しているとどこからともなくアマサギがやってきて、掘り起こされた土の中にいる虫たちを狙って付いてまわる。
田舎では、見慣れた風景だ。トラクターの主も慣れたもので追い払うことはしない。

【セッカ】
宮古には、渡り鳥もたくさんやってくる。
宮古は渡り鳥にとって貴重なエイドステーションだと野鳥の会の人が話していた。
日本には550種類の鳥がいるそうだか、宮古で300種類確認されているとの事。サシバを始め、毎年沢山の鳥たちが羽を休めに舞い降りる。

そんな鳥たちを見るにつけ、宮古が鳥たちにとって楽園である事を嬉しく思う。ただ、土地改良や開発による野山などの減少。海への土の流出は鳥たちに影響がないだろうかとシワ(心配)だ。毎年秋に飛来するサシバの数も減少している。

人の営みも鳥の営みも自然があってこそ。あたらす(大切な)ばんたがみやーく(私たちの宮古)。考えていかなくてはと思う。  続きを読む


Posted by atalas at 12:00Comments(0)宮古島四季折々

2019年05月21日

第233回 「南仲原清水井戸記念碑」



地味で地道でニッチでマニアな井戸にまつわる石碑シリーズが、もぞもぞっと今日も今日とてはじまりました。本日ご紹介するのは、大字は城辺の友利でありながら、福里学区という変わった地理要因を持つ、仲原集落にある井戸にまつわる石碑です。
仲原集落と云って思い浮かぶのは、仲原鍾乳洞と建設中の地下ダムでしょうか。あとはそうですね、キビ畑が延々と広がっているのどかな里山でしょうか。

こちらが今回紹介する石碑です。広くはない仲原集落ですが、南西側(民俗方位的には南)に家々が集う集落道の隅に井戸があります。井戸にはコンクリートの釣瓶が架かっており、蓋もされていたようですが、井戸の清掃(繁茂していた草木を刈り取った)で、中から生えている木を切ったためか、井戸口から斜めにず落ちていました。

石碑はそんな井戸の脇に建立されています。
昭和六辛未年九月七日設立
記念碑
南仲原清水井戸
とコンクリート製の碑に刻まれています。
昭和6年に開鑿されようで、十干十二支の「辛未(かのとひつじ)」が付記されています。尚、西暦では1931年になりますので、今年で88年目といったとこでしょうか。

碑の裏面には上段に「発起者」として池田正一、上里敏雄、比嘉真津の3名が、下段には「寄付者」として7名の名前が刻まれています。ただし、発起者と寄付者はダブっており、発起者以外に、友利當(?)、池田金、比嘉加真、佐和田蒲戸金の4名が加わります。カネ、カマ、カマドガネと、女性名っぽい名前が並んでいるように見えます。やはり井戸の水汲みは“女子供の仕事”という流れが、見て取れるかもしれません。この集落内の井戸が開鑿されるまでは、もしかすると遠くの湧水などに水を汲みに行っていたりするなら、この井戸によって労力と時間の大幅な短縮が成されたことになるので、タイムイズマネーだったかもしれません。

それはとともかく、碑の前には井戸掃除をした結果(成果?)かもしれませんが、いくつもの湯飲みと、酒(泡盛のカップ)、そして石の香炉のようなものに平香が供えてありました。
改めて写真を見ていて気付いたのですが、碑の左下。タイヤとの間にある割れた石(コンクリート?)にも、なにかが書いてあるように見えました。真実は不明です。もし、現地を訪れた方がいたらチェックしてみて下さい。

【左 北仲原井戸? 蓋のされた低い井戸口】 【右 拝所のような、香炉のような石】

南仲原と付くからには、北もあるのだろうと、少し集落内を徘徊(MAP)。するとそれほど遠くない道端に、井戸を発見した。特に石碑などもありませんが、板状の石(コンクリート)で井戸口に蓋をして、周辺をちょっと花壇化させてあるあたり、なんかそれっぽい。さらに隅に井戸の神様を拝みそうな石の拝所らしきものもあった。ただ、“北”をなのるにはかなり“南”に近いのと、人様のお宅の玄関先にあるので、本当にこれが“北”仲原井かどうかは定かではありません。
なんとも中途半端な結末ですが、確認しきれない物件は、それなりに多いのでこのくらいで勘弁してもらいたいです。もっとも、正解を知っているというのであれば、是々非々でご教示願いたいです。

そうそう、前述で述べた通り、仲原は大字は友利でありながら、ギリギリ標高100メートルに届かない保茶根の嶺(保茶根の根は嶺のネかも?)で本村と隔てられており、学区も砂川学区ではなく、距離的にも近い西側の福里学区(福里の集落は明治になってつくられている 第228回「當福里還暦記念碑」)に含まれています。友利から離れている理由について定かではありませんが、古くは“保良親道”(当時の国道、街道で平良から下地を経て保良に続く古道)が友利から保茶根を越えて仲原へと通じていたので、もしかすると今よりも比較的近い関係だったかもしれません。現在の国道(390号線)は仲原を通らずに、集落の北側を福里に向っています。また、集落の南方、海沿いを通る県道235号(保良上地線)も、仲原は通っていません。現在、保良親道は廃道となっており、保茶根の嶺の緑に完全に埋もれており、保良親道の時代のような、友利との結びつきは薄くなっているのかもしれません(実際は遠回りになったとはいえ、車なら問題になる距離ではありません)。

この東保茶根の嶺には、戦時中“友利砲台”と呼ばれた砲台が設置されており、今もその痕跡の一部が山中に残っているのですが、この砲台を建設した部隊は仲原公民館(旧)に駐屯し、マエノアブ(仲原鍾乳洞の北西180メートルほどにある鍾乳洞)を砲台建設用の資材置き場にしていたのだそうです。仲原集落から石畳の道を登って東保茶根の砲台建設に従事したという情報もあり、なにもない山に石畳みが忽然と現れるはずなく、おそらくこの石畳こそが、保良親道の痕跡なのではないかと考えられます。この頃すでに集落北の底原側を通る国道は開通しており、徒歩道・牛馬道規格であった親道はほぼ使われていないと見られる(戦後の空中写真でも、薄っすらと親道らしきものは確認できるが、現在は不明)。
この保良親道は友利側は圃場整備で痕跡は薄くなったものの、類似したルートがたどれます。仲原側は保良方面(皆粉地・七又方面)に向け、車道として整備されており、東保茶根の山中だけが失われているので、機会と時間と体力が許すのなら、オブローダーの師匠よろしく、廃道ルートを攻めてみたいと考えています(鎌鉈探検隊募集してます)  続きを読む


2019年05月17日

第13回「下川凹天の撮影技師 柴田勝の巻 その1」



まずは、毎度おなじみ。裏座から宮国でございます。宮古ももう梅雨の時期ですね。

この時期の宮古といえば「湿気」。6〜8月の平均湿度は、83%だそうです。数字にされると、衝撃が走ります。



島にいる頃、私は、特段不具合は感じなかったのですが、それは子どもだったからかもしれません。あと、太陽光線が半端ないので、それどころじゃなかったとも言えます。

島の子どもたちのアイラインをしたような縁取りのある目元や眉毛を見ていると、湿度&太陽光線対策として発達したのだろうな、と思うのです。それは、どこか物悲しく懐かしい横顔に私の目には写ります。



先日、生前の凹天を知るふたりに会いました。写真は、その帰りに行った喫茶店です。このことは、いずれここでもご紹介しようとは思います。

実は、私が心に残った言葉があります。おしゃべりの間だったので、はっきりとした文言はおぼえていませんが、要するに凹天が「ちょっと怖かった」そうです。「いかつい」というか「濃い」というような文脈でした。

当時のエリートは、ツルッとした美青年(宮古でいうところの好男子、笑)のイメージがあったのでしょうが、凹天はそう見えなかったってことなのでしょう。芥川龍之介(あくたがわ りゅうのすけ)、太宰治(おざわ おさむ)、中原中也(なかはら ちゅうや)、萩原朔太郎(おぎわら さくたろう)とか、かなりツルッとしたイケメンな気がします。

凹天を血脈で考えると、親は鹿児島と熊本なので、そんなに濃いこともないような気がしますが、東京のパリッとしたエリート層に投げ込まれると、褐色の肌に彫りの深い顔は土着的に見えたのかもしれません。

最初の妻、たま子との結婚の新聞記事も「美女と野獣」ばりのことを書かれていた記憶があります。新聞記事にまでなるってことは一応有名人というか芸能人に近く、エグザイル並みの野生感があったのでしょうか。私には、野生の男というと、それがいくら作りものであったとしても、エグザイルくらいしか思い浮かびません・・・。貧困ですいません。

あ!同時代だと、大杉栄(おおすぎ さかえ)がそれにあたる野生派イケメンだったのかもしれません。凹天はイケメンじゃなかったですが・・・。



 こんにちは。一番座より片岡慎泰です。

 今回は、凹天が日本で初めてのアニメーターとなった時期、アニメーション映画制作を支えたとされる撮影技師の柴田勝(しばた まさる)を取り上げます。

 1897年、大森家の5人兄弟の3男として、東京府北豊島郡日暮里村(現・東京都荒川区日暮里)で誕生した柴田勝。子どもの頃から、淺草六区に通って、映画ばかりを観ている少年でした。当時の映画は大人5銭、子ども3銭。10銭もっていくと映画を2本観て、お汁粉を食べて、観音様にお賽銭を1銭あげたと回想しています。子どもの頃よく通ったのは、吉澤商店、エム・パテー商店、横田商會、福寶堂の映画でした。好きだったのは、吉澤商店系で、日本初の常設館である淺草電氣館。後の1912年、この4社はトラストで、日本活動フイルム株式會社を経て、元号が大正となった同年に日本活動冩眞株式會社、つまり日活と改称します。

 田中純一郎著『日本映畫史 第一巻』(齋藤書店、1948年)によると、元々、電氣館は、電気仕掛けの器具やエックス光線の実験を見せて、電気の知識を普及する傍ら、見世物料として、料金を取る見世物小屋でした。それが、経営不振になり、1903年、活動寫眞の常設館の日本第1号となったのです。
  当時は、見物人は腰掛もない土間に立たされて、下駄ばきで、人の肩越しに映画を観ていたとのこと。遊山気分で豪奢な芝居見物とは大違いでした。田中純一郎は、各地にできた常設館に、歌舞伎を始めとする芝居役者連が、下駄ばきで見学される活動寫眞に出るのは、舞台役者の名折れだと述べたということも記しています。


 柴田勝は、映画好きが昂じて、1916年、天活(天然色活動寫眞株式會社)の撮影技師になりました。すぐに枝正義郎(えだまさ よしろう)の助手になる幸運に恵まれます。

 ところで、まず初めに、ここ数年、凹天が再注目を浴びる理由となったきっかけとなった出来事とともに、今回はそこでの記述に関し、封切日の検証をしてみようと考えます。

 一昨年の2017年、日本の映画アニメーション誕生100周年ということで、渡辺泰(わたなべ やすし)をリーダーとするアニメNEXT_100というプロジェクトが組まれ、われらが凹天の劇場公開された初作品について、新説が出されました。


http://anime100.jp/series.html



 アニメNEXT_100では封切日が特定できないとありますが、絞り込むことは可能です。1916年12月29日付『東京朝日新聞』には、シネマ倶樂部の広告として、新春興行は1月3日からとあります。

 秋田孝宏著『『コマ』から『フィルム』へ マンガとマンガ映画』(NTT出版、2005年)には「日本で最初に輸入されたアニメーション映画は、1914年イギリスアームスロング社の作品」。上演は淺草帝國館。その時初めて「凸坊新画帖」という名が付けられ、その後大正から昭和初期にかけて、アニメーション映画は「凸坊新画帖(帳)」と呼ばれたとあります。

 また、田中純一郎著『日本映画発達史II 無声からトーキーへ』(中公文庫、1976年)によれば、当時アニメーション映画を意味する言葉には「線画」、コマ落としで撮影するので「トリック(特殊技術)」、その他「線画喜劇」、「カートンコメディ」もありました。

 この広告(先述の1916年12月29日付『東京朝日新聞』のシネマ倶樂部の広告)には、その言葉が見当たりません。

 しかし、翌日の1916年12月30日付『東京朝日新聞』には、「春の與業物案内」に、シ子マ倶樂部のところで、予告として『プロデア姉妹篇 黒團長』、『活劇 毒彈』とならび『女装のチヤツプリン』、そして『凸坊』が登場しています。

 そして、1917年1月3日付『東京朝日新聞』には、シネマ倶樂部のところで「天活直営館として開会せり」とあります。すなわち、この日が、商業的日本アニメーション映画の記念すべき公開初日である可能性大なのです。1916年から1917年当時、凹天も天活に勤めていました。
 その後、1917年1月6日付『東京朝日新聞』には、シネマ倶樂部におけるメディアに向けた上映記録が載っています。これは、その日から始まるシネマ倶樂部の新春興業第2弾に向けてのものでした。

 「天活會社シ子マ倶樂部に上演する金剛星の試演を看たがホンのまだ六十番の内の第一二篇五巻だけの口切だが大物としての價値は十分に現れてゐた殊に題材に取入れたジプシイ種族の風俗がちよい/\出て來るのにも興味がある。鉄假面五番も水滸伝的で一寸面白い添物には例のチヤプリンとデコ坊があつた」。

 津堅信之著『日本アニメーションの力 85年の歴史を貫く2つの軸』(NTT出版、2004年)では、当時日本アニメーションの第1作と考えられていた凹天の『芋川椋三 玄關番の卷』について、試作品だったかもしれないとの仮説を提示していますが、その根拠が示されていません。勝手な憶測ではありますが、「試演」という言葉に反応したように読むことができます。試演とは、さしずめ現在の試写会といったところでしょうか。

 この時代あたりから、映画界は、「試写会」の重要性に気づき始めます。当時は、ラジオもテレビ、ましてやインターネットもない頃です。もっとも、試写会が全盛になるのは、かなり後のことになります。時代は戦後になりますが、種村季弘(たねむら すえひろ)が、映画評論事情を振り返って、こう語っています。

 「昔は映画にしても演劇にしても、試写、試演に批評家が来ると、帰りに金一封をヒュッと渡した(笑)。新聞社でもらう原稿料の十倍くらいくれたんだね。ぼくらの頃はさすがにそれはなかったけど。でもそれは書式が決まってて、『その通りに書きなさい』ってことなのね。官庁の文章みたいになってて、それに署名するための欄が空いてるだけで、それに、いまどきなら十万円なら十万円って札束が乗っかってるのが御用批評家の世界なんですよ」。

 シネマ倶樂部の後、『凸坊』が有樂座で上映された記録が残っています。シネマ倶樂部も有樂座も、当時は天活の直営館でした。1917年1月13日付『讀賣新聞』によると、有樂座は1月10日から始まったとあります。仮に、先ほど述べた1月3日に上映されていなくとも、現段階では判明しませんが、少なくとも「試演」のあった6日以前には、シネマ倶樂部で上映されていたのです。

 先に引用した1917年1月6日付『東京朝日新聞』にある「例のチヤプリンとデコ坊があつた」という記述と合わせて、とりあえず、このブログでは、われらが凹天作のアニメーション映画初上映は、1月3日から5日に絞られることをここで記しておきます。

 柴田勝に話を戻します。凹天と出会った後、柴田勝は「異例のバッテキ」で念願の映画監督になります。第1作は横須賀相模新聞社の観桜会でした。その後も枝正義郎の助手を続けながら、映画監督として作品を作ります。しかし、翌1918年に、神田錦輝館、現像工場が全焼。天活をライバル視していた小林商會も同年に倒産。小林商會が引き抜いた幸内純一(こういち じゅんいち)が制作した『塙凹内名刀之巻刀(なまくら刀)』は、2007年に偶然発見され、日本アニメーション映画創成期の貴重な資料になっています。

 また、柴田勝はメモ魔だったこともあって、映画界創成期などのことについて、大量に日記やメモ、文章を残してあるのは特記すべき点でしょう。凹天とのことを織り交ぜつつ、インタビューに答えた文章も残っています。現像、撮影から「劇に移ったのはいつ?」とインタビュアーに聞かれて、1984年こう回想しています。

 「やっぱり六年ですね。最初は実写とか、漫画、下川凹天という、亡くなりましたけど、これが最初に白墨で黒板へかくんですよ。それをそのまんま写すんですからね。直光線ですよ。だから晴れたときに回しはじめると、曇ったら駄目なんですよ。レンズの絞りを変えることは出来ませんから。一定の絞りでやらないと、絵が大きくなったり小さくなったりしますからね。だから曇るとやめて、ちょうど前に錦輝館という映画館がありましたので、そこへ映画を見に行くんですよ。それで晴れたなと思うとまた帰ってきて・・・・・・。そういうような、一本撮るのに随分時間がかかった。それで、こんなのではしょうがないというので、今度は紙に書きまして台の上にカメラを乗せ、ライトを両脇につけて、手で回しました。これはライトでしたから一定していますから早かったですね」。

 この大正六年、すなわち柴田勝による1917年の回顧には、いろいろな資料を突き合わせて考える必要があるのですが、次回以降ということで。

 一番座からは以上です。
再び、裏座から宮国です。

宮古はその頃どうだったかというと、立津春方(たてつ しゅんぽう)と盛島明長(もりしま めいちょう)の時代だったのではないでしょうか。

1917年は、医師であった盛島明長が県会議員に。後には副議長、議長を歴任。その2年前の1915年は、慶世村恒任(きよむら こうにん)の『宮古朝日新聞』と、垣花恒栄(かきはな こうえい)の『宮古公論』という新聞が初めて発行されました。

1920年の宮古初の衆議院議員選挙で、新聞は大きな役割を果たします。立津春方サイドは『宮古新報』と、盛島明長サイドは『宮古時報』でした。

2010年9月19日付『宮古毎日新聞』の創刊55周年記念特集の「 宮古の新聞の興亡を回顧する」で、仲宗根將二(なかそね まさじ)がこう書いています。

「歴史家の稲村賢敷は、後年、『新聞といえば個人の私行をあばくものとして敬遠されたものであった』と記している」(『宮古島庶民史』三一書房、1957年)

マスメディアの発露が政治とからみ、近代化とともに本格的に人々の生活が複雑になっていったように思えます。

また、現在とリンクしているのは、宮古馬について。
1917年は、種牡馬を除く3歳以上の牡馬の去勢を定めた馬匹去勢法が施行。度重なる陳情で、その5年後にあたる1922年に適用区域から外されたので、宮古では8,597頭のうち99%が在来馬として残ったそうです。

沖縄本島は、半数以上が改良馬となったのに比べると、陳情のかいがあったのでしょう。

その詳しい理由は、今は知るよしもありませんが、外部からの働きかけが激しくなり、宮古の人にとっては激動の時代の幕開けだったのでしょう。それは、もちろん、日本も同じだっただろうとは思うのです。

東京では、紙メディアから、映像メディアに移っていく時代に、宮古は紙メディアがようやく始まりました。紙、音、映像、どちらも一方向というのが共通点です。ですが、現在は、SNSを含め双方向になっています。テクノロジーの発達を見ると、さらに加速化してくのでしょう。

この100年を振り返ると、メディアにおいては、加速度的な世紀。そして、それは続くのでしょう。だからこそ立ち止まり、こうして先人たちのエッセンスに目も耳も傾けたいと思うのです。

そもそもメディア(media)という言葉の語源は、ラテン語のmedium(メディウム)から派生した言葉です。中間にあるもの、間に取り入って媒介するものという意味があります。

なので「媒体」「仲介者」「霊媒」が意味になります。「霊媒」とは、あの世とこの世の「神の声を媒介する人」という意味のようです。人類の歴史を考えると、その意味が続いた期間のほうが長かったにちがいありません。多分、カンカカリャーやユタはメディアそのものです。そして、それは双方向。

時代がぐるっとまわって、メディアの古い形に会うために、宮古島に人が押し寄せる。なんだか面白い現象だな、と感じています。

さて、私たちは、先人たちの声のひとつひとつをこうしてとりあげます。こうして現代のウェブ「メディア」にのせておくことは、どんな意味があるかわかりませんが、それは、記録であり、未来への贈り物にはちがいありません。


【主な登場人物の簡単な略歴】

大杉栄(おおすぎ さかえ)1885年~1923年
社会運動家、作家、翻訳家。愛媛県那珂郡丸亀(現・香川県丸亀市)生まれ。東京外国語学校(現・東京外国語大学)卒。学生時代に、堺利彦、幸徳秋水を知る。エスペラント語学校を開く。1906年、電車焼き討ち事件に連座して、初めての逮捕。1908年、屋上演説事件で、再び逮捕。1910年の大逆事件の際には、幸徳秋水との関係を刑務所で探られるが、この時は、検挙を免れる。1914年頃、ダーウィンの『種の起源』を翻訳、出版する。社会主義からアナキズムの立場を徐々に鮮明にしていく。1916年、伊藤野絵との恋愛も始まり、翌年、長女の魔子誕生。1920年、コミンテルンから呼ばれ、中華民国の上海で開かれた社会主義者の集会に参加。1921年1月、コミンテルンからの資金でアナ・ボル(アナキスト・ボルシェヴィキ)共同の機関紙としての『労働運動』(第2次)を刊行。しかし、2月に腸チフスを悪化させ入院。12月にはアナキストだけで『労働運動』(第3次)を復刊させる。1923年、上海からフランス船籍の船に乗車し、中華民国経由で中国人に偽装してフランスに向かった。アジアでのアナキストの連合も意図し、上海、フランスで中国のアナキストらと会談を重ねる。2月13日にマルセイユ着、大会がたびたび延期されフランスから国境を越えるのも困難になる中、大杉はパリ近郊のサン・ドニのメーデーで演説を行い、警察に逮捕され、ラ・サンテ監獄に送られる。日本の大杉栄と判明、裁判後に強制退去となる。在フランス日本領事館の手配でマルセイユから箱根丸にて日本へ。同年、滞仏中から滞在記が発表され、後に『日本脱出記』としてまとめられる。また、かつて豊多摩刑務所収監中に日本で初翻訳した『ファーブル昆虫記』が『昆虫記』の名で出版。東京に落ち着き、8月末にアナキストの連合を意図して集まりを開くが、進展を図る前に関東大震災に遭遇。9月16日、柏木の自宅近くから伊藤野枝らとともに憲兵に連行され、殺害される。

枝正義郎(えだまさ よしろう)1888年~1944年
映画監督、撮影技師。広島県佐伯郡玖島村(現・廿日市市玖島)生まれ。1908年、日本で最初に映画の興行に着手したといわれる吉澤商店に入り、目黒行人坂撮影所で千葉吉蔵に師事、シゴキ抜かれ現像と撮影技術を学ぶ。その後、天活(天然色活動寫眞株式會社)に入り、撮影技師、監督となる。ここでは澤村四郎五郎、市川莚十郎の旧劇映画を撮影。天活の技術部長となった枝正は、安易に量産されるようになった映画界の風潮を嫌い、また国産でも外国映画に負けない良質な映画を製作しようと様々な技術開発を進める。1917年に撮った連続活劇『西遊記』は、長尺の2000~3000フィートの作品で、四郎五郎の孫悟空が雲に乗って飛ぶところを移動撮影でとらえたりする工夫がこらされ、枝正の創意が示されていた。カメラ技巧には早くから一見識を持ち、枝正の撮影した作品は、他社作品に比べ遥かに場面転換が多く、他にも大写し、絞りこみなどを各作品に多用、また現場焼付も流麗に仕上げられ、トリックの名手として世に知られた。またこの頃、当時おもちゃ工場で働いていた円谷英二と偶然、飛鳥山の花見の席で出会う。日本映画の底上げをしようと考えていた枝正にとって現行のスタッフでは物足らず、日本ではまだ珍しい飛行機の知識を持ち、玩具で新しいアイデアですぐに成功する円谷は、枝正にとって魅力があった。1918年、天活日暮里で旧劇撮影の傍ら、製作・脚本・演出・撮影もすべて枝正の手によって行われた監督第1作『哀の曲』を撮る。この映画は、海外にも通用するような作品を目指して製作された意欲的な恋愛劇として注目された。1921年、撮影技術研究のためアメリカに渡るが、帰国すると天活は国活に買収されていた。技師長となった枝正は、ここでも幻想的な時代劇『幽魂の焚く炎』を撮り野心作と高い評価を得た。1923年、関東大震災で国活も崩壊。翌年松竹下加茂に移り、これ以降は監督に専念。1927年、阪妻プロへ移り、ダイナミックな演出で阪妻の代表作となった『坂本竜馬』などを発表。翌年東亜キネマに監督部長として迎えられるが退社して独立。1934年、得意のトリック撮影を生かして自主制作を続けた。以降は大都映画技術部総務、大映多摩川撮影所庶務課長を歴任。結核のため死去。

渡辺泰(わたなべ やすし)1934年~2020年
アニメーション研究者。大阪市生まれ。高校1年生の時、学校の団体鑑賞でロードショーのディズニー長編アニメーション『白雪姫』を見て感動。以来、世界のアニメーションの歴史研究を開始。高校卒業後、毎日新聞大阪本社で36年間、新聞制作に従事。山口旦訓、プラネット映画資料図書館、フィルムコレクターの杉本五郎の協力を得て、『日本アニメーション映画史』(有文社、1977年)を上梓。ついで89年『劇場アニメ70年史』(共著、アニメージュ編集部編、徳間書店)を出版。以降、非常勤で大学アニメーション学部の「アニメーション概論」で世界のアニメーションの歴史を教える。98年3月から竹内オサム氏編集の『ビランジ』で「戦後劇場アニメ公開史」連載。また2010年3月より文生書院刊の「『キネマ旬報』昭和前期 復刻版」の総目次集に「日本で上映された外国アニメの歴史」連載。2014年、第18回文化庁メディア芸術祭功労章受章。特にディズニーを中心としたアニメーションの歴史を研究課題とする。2017年に、山口旦訓に絶縁の手紙を送る。近親者のみで葬儀が執り行われる。喪主は、長男の渡辺聡。

種村季弘(たねむら すえひろ)1933年~2004年
独文学者、評論家。東京市豊島区池袋に生まれ。東京都立北園高等学校を経て、東京大学文学部卒。財団法人言語文化研究所附属東京日本語学校(現・学校法人長沼スクール東京日本語学校)に就職。1958年、光文社に入社。『女性自身』編集部を経て、書籍部で単行本の編集にあたり、手塚治虫、田宮虎彦、結城昌治、梶山季之たちを担当。1960年、光文社を退社し、フリーとなる。1964年、駒澤大学専任講師。1965年、グスタフ・ルネ・ホッケ『迷宮としての世界』を矢川澄子と共訳、三島由紀夫から絶賛推薦され出版した。1968年、東京都立大学助教授となる。1968年に初の単行本である評論集『怪物のユートピア』を刊行。1969年の『ナンセンス詩人の肖像』では、ルイス・キャロル、エドワード・リア、モルゲンシュテルン、ハンス・アルプらの生涯と作品を紹介。ザッヘル=マゾッホなど多くのドイツ語圏の作家を翻訳、紹介した。澁澤龍彦や唐十郎らと共に1960年代 - 1970年代の、アングラ文化を代表する存在となる。1971年、都立大学を退職。西ドイツ滞在を経て、1981年、國學院大學教授。受賞多数。2001年、國學院大學を退職。胃癌のため、静岡県内の病院で死去。

幸内純一(こううち じゅんいち)1886年~1970年
漫画家、アニメーション監督。岡山県生まれ。凹天、北山清太郎とならぶ「日本初のアニメーション作家」のひとり。岡山県での足跡は不明。両親と弟、姪と上京する。父の名は、幸内久太郎。荒畑寒村によれば、父の職業はかざり職人の親方。元々、熱心な仏教徒だったが、片山潜と知り合い、社会主義者となる。日本社会党の評議員にも選ばれている。最初は画家を目指しており、水彩画家の三宅克己(みやけ かつみ)、次いで太平洋画会の研究所で学ぶ。そこで、紹介で漫画雑誌『東京パック』(第一次)の同人北澤楽天の門下生として政治漫画を描くようになる。1912年、大杉栄と荒畑寒村が共同発行した思想文芸誌『近代思想』の巻頭挿絵を描く。凹天の処女作『ポンチ肖像』に岡本一平とともに序言を書いている。1917年、小林商會からアニメーション『塙凹内名刀之巻(なまくら刀)』を前川千帆と製作。これは、現存する最古の作品である。続いて、同年には『茶目坊 空気銃の巻』、『塙凹内 かっぱまつり』の2作品を発表するが、小林商會の経営難でアニメーション製作を断念。しかし、『活動之世界』に載った『塙凹内名刀之巻(なまくら刀)』についての評論は、これも本格的なアニメ評として日本最古とされる。1918年に小林商会が経営難で映画製作を断念。1918年、『東京毎夕新聞』に入社し、漫画家に戻る。その後、1923年に「スミカズ映画創作社」を設立すると、『人気の焦点に立てる後藤新平』(1924年スミカズ映画創作社)を皮切りに『ちょん切れ蛇』など10作品を発表。その時の弟子に、大藤信郎がいる。二足のわらじの時代をへて、最終的には政治漫画家として多数の作品を残した。凹天と最後に会ったのは、記録上では、前川千帆の葬式後、直会の時だった。老衰のため、自宅で死去。

立津春方(たてつ しゅんぽう)1870年~1943年
政治家、教育者、ジャーナリスト。砂川間切西里村(現・宮古島市西里)生まれ。立津姓は、多良間島の名族である平良土原氏の長男系統に由来する。宮古出身で、初めて断髪をしたことで知られる。1893年、沖縄県立師範学校卒。その後、宮古教育界に大きな足跡を残す。その時期の石原雅太郎、盛島明長との争いは、宮古における教育界だけに留まらず、新聞界、果ては政界にいたるまで大きな影響を及ぼした。1920年、宮古初の公選選挙で当選し、第8代平良村長となる。

盛島明長(もりしま めいちょう)1880年~1941年
政治家、医師、教育者、ジャーナリスト。宮古郡下地村(現在の宮古島市)生まれ。宮古への愛はすさまじく、「宮古王」と呼ばれた。詳しくは、「 んなま to んきゃーん 」第5回「盛島明長像」及び「 んなま to んきゃーん 」第21回「盛島明長生誕之地」。

慶世村恒任(きよむら こうにん)1891年~1929年
郷土史家。砂川間切下里村大原(現・宮古島市下里)生まれ。代用教員をつとめるかたわら研究し、1927年、宮古初めての通史といわれる『宮古史傳』を刊行した。詳しくは、「 んなま to んきゃーん 」第1回「宮古研究乃父 慶世村恒任之碑」。

仲宗根將二(なかそね まさじ)1935年~
郷土史家。沖繩縣平良市西里(現・沖縄県宮古島市西里)生まれ。1944年鹿児島縣姶良郡加治木町(現・鹿児島県姶良市加治木町)に疎開。鶴丸高校を経て、1956年宮古島に帰郷。宮古毎日新聞、日刊沖縄新聞、宮古教育委員会で、市史編纂や文化保護事業に従事。他方で、平良市役所税務課にも勤務。他にも宮古の所属機関多数。前宮古島市史編さん委員会会長。『宮古風土記』(ひるぎ社、1988年)他、著作、論文多数。宮古の生き字引と呼ばれる。『軌跡』(2016年)で、東恩納寛惇賞受賞。現在も精力的に、宮古の歴史や文化財に関する研究や発表を行っている。
【2020/09/09現在】  


Posted by atalas at 18:13Comments(0)Ecce HECO.(エッケヘコ)

2019年05月14日

第232回 「南棚根井戸」



えー、いつもようにひっそりと、しれっと井戸にまつわる石碑シリーズはじめます。もうネタが尽きるんじゃない?っとお嘆きの貴兄もいらっしゃると思いますが、井戸系に限っては時折、ポロっと井戸を発見した時に唐突に現れるので、思い出したようにこそっと続きます。本線である石碑も実はまだ、いくつかまだ大物とゆーか、有名な物件が残っていたりしますので、網羅するためにはそれもやらねば。
さてさて、今回紹介する石碑は、ぶっちゃけ公式名称すらありません(判明してない)。なのでタイトリングは仮称です。けど、まあ石碑とセットで紹介するので、気づかないふりして楽しんでいただけたら嬉しいです。

ということで、南棚根(ハイタナ子)井戸の碑です。こちらは大字でいうと、下地地区の洲鎌。その南端に位置する棚根地区になります。平たく云うと入江湾西岸地区なので、おおざっぱには入江(大字は嘉手苅)と呼んでしまうのかも(なにしろ入江に棚根港があるくらいですから)
えー、棚根集落は特に観光要素もない地味な存在なので、県道235号線保良上地線(海宝館からインギャー、入江、下地競技場、下地保健センター)を通過こそすれ、停まることなどほとんどないようなところ。
以前、渾身の棚根のネタを書いたことがありましたが、集落については触れることがありませんでした。

第190回 「バスのりば(棚根)」

こちらのネタでもなんとなく醸し出していますが、道路の改修によって集落のあり様が少し変わってしまった感のする時間の流れが見て取れます。今回の石碑のある南棚根の井戸は、公民館(洲鎌区コミュニティーセンター/棚根地区農村公園)に西方、点在する住宅群と畑の途中にあります。

よく見かける掘り抜き井戸ではありますが、井戸口の径が通常のものより少し小さいのがここの井戸の特徴と云えます。井戸廻りはコンクリートで固められたタタキで区画されており、転落防止にグレーチングが無造作に乗せられています。
そんな井戸の中から使用感のある鋼製のパイプが伸びています。どうやら畑の散水用にポンプで井戸から水を汲みあげて使っているようです。形は変われど現在も使われている井戸はなかなかお目にかかれないで、ちょっと嬉しいですね。
さて、肝心の石碑ですが井戸の脇にこっそり建立されており、パッと見には気づきません。

小さな石碑には「大正十四年之旧六月十日改築」と刻まれているようです(之がちょっと怪しいけれど)。
大正14年は西暦でいうと1925年、乙丑(きのとうし)の年でした。もう少しで100年になろうかという現役の井戸です。
改築前の姿が判らないのですが、井戸用地としてタタキで仕切られていることを考えると、近隣集落の水場と考えてよさそうです(小字のハイタナネとしては北西に寄っていることと、北側のニスタナ子に井戸をまだ見つけられていないのでやや地理的な配置に偏りがあるのだが…)。

この界隈、海もそれなりに近いのですが、井戸も意外と多いので、周辺で目についたものを備忘録的に少し紹介しておきましょう。
まずひとつめは県道の南側、数軒だけ離れて建つ一角で、外崎(フカザキ)御嶽への入口にある井戸です。余談ですが、外崎御嶽までは舗装もされており、車で入れます(簡易駐車場あり)。そこから林の中を少し歩くと、入江湾の湾口西岸の外崎へと出ます。見晴らしもよく、なかなか気持ちのいい穴場の岬です(実は近くに陣地壕やら銃眼もあったりします。戦時中の資料だと砲台もあった要所だったようです)。
基。井戸ですが、特に名前は不明です。人家の向かいの畑の中にあるので、個人井戸かもしれませんが、軍の要所(井戸の近くに蘇鉄はある)だった外崎の近傍なので、違った意味でのいわくもあったかもしれませんが、それを語る人がおらず、詳細は未明のまま。
ただ、綺麗にキビが刈り取られた季節にこの井戸を見ると、井戸脇に茂った一本の木とともに、なかなか絵になる里山の風景が拝めるのでした。

【① 外崎御嶽入口の井戸】

続いては県道沿いを与那覇方面へ少し行くと、右の道路脇に、枝ぶりのとても素敵なガジュマルが一本茂った四つ辻があります。このガジュマルの道向かいの畑の中に、掘り抜きの井戸があります。非常に残念なことに、石碑ではなく、井戸本体に「昭和八年 上地徳正 八月廿六日」と一筆書きこまれているのです。おそらく井戸の所有者と開鑿日なのだと思います。このように本体に情報が刻まれた井戸は、与那覇(本村)で見かけたことがあります。もしかしたらこのあたりの流儀なのかもしれません(もしくは一時のブーム)。考察できるくらい名入りの井戸が見つけられたらそれはそれでまた面白いのですが、もし情報がありましたらお寄せください。
ちなみに、この井戸の界隈は、与那覇皆愛(来間大橋のたもとの集落)の人々が、戦時中に陸軍西飛行場を建設するため、先祖代々住んでいた土地や畑を二束三文で買い取り接収され、代替えの居住地として移動してきた地域といわれています(戦後は国有地を借りて小作していたが、近年は買い戻した人も少ながらずいるようです)。ただ、年代的に西飛行場は1944(昭和19)年5月の着工なので、紹介した井戸の開鑿とは時期がずれるので、移住して来た時に掘られた井戸ではないようです。

【② 上地徳正の井戸】

さらに与那覇側へ県道を進み、市営第2棚根団地を過ぎた、与那覇との字境近くの蓋をされたコンクリート製の井戸がひとつあります。井戸のすぐ隣に水道メーターがあり、以前は建物があったと記憶しているので、これはおそらく個人宅の井戸と思われます。
この井戸の先(西)にある、四つ辻を境に、東側がこれまで紹介してきた南棚根(ハイタナ子)、北側は小字が変わってカ子ッサ(かねっさ)。そして西側は字与那覇の最東端にあたるカ子チャ原(カネチャバル)になります。

【左 ③ 水道メーターのある井戸】 【右 ④ スラブヤーに挟まれた畑の井戸】

ちょっと字名などが複雑になりそうなので、与那覇のカ子チャ原についてはまたの機会として、同じ洲鎌のカ子ッサへと曲がることにしましょう(北)。曲がってすぐ、スラブヤーの家と家に挟まれた畑の奥に井戸が見えます。雰囲気からして、かつてこの畑には家があって、その家主が使っていた個人井戸ではないかと思われます。

【⑤ カ子ッサの井戸】

最後に紹介する井戸は、もう少し先に進んだ畑の際に残っている古びた井戸です。掘り抜きタイプの井戸なのですが、井戸口は立ちあがったフチがなく、石を巡らせてかたどっているだけという簡素な作りですが、畑の中にありながら井戸の周辺はコンクリートのタタキが作られ、切石で転落防止用に蓋がされています。
こうした井戸の作りの古さから、カ子ッサの集落井戸と考えられます。しかし、現在、小字のカ子ッサには3戸しか人家はありません。廃れて久しい状況ですが、井戸を水を大切にする島の人たちの想いによって、辛うじて保たれている井戸と云えますので、いつまでも大切にして欲しいものです。

【赤い井戸マークが今回の南棚根井戸です】

【参考】
第61回 「人頭税廃止運動ゆかりの地 パチャガ崎」  続きを読む


2019年05月10日

6本目 「空母いぶき」



10連休、皆さまはどうお過ごしになったでしょう?。どこに行っても混んでいる連休、私は宮古島のアイランダーアーティスト・下地暁さんの東京レコ発ライブを皮切りに、映画5本とライブ2本とエンタメ三昧でした。

さて、今回の「シネマ de ミャーク」は、映画化が決まってからずーっと心待ちにしていた大作を取り上げます。その名は「空母いぶき」。
東京国際フォーラムで行われた完成披露試写会で、一足お先に鑑賞してきましたよ~!。上映前の舞台挨拶には主演の西島秀俊、佐々木蔵之介をはじめ総勢20名以上のキャスト、スタッフが登壇。こんなに豪華な舞台挨拶は見たことない!。


ご存知の方もいるでしょうが、本作はかわぐちかいじ氏のマンガが原作。連載開始当初から注目していたその訳は、その設定があまりにリアルで身近だったから。なにせ、原作のマンガでは、尖閣と多良間と与那国が電光石火で中国に占領され、私が毎夏通っている宮古島が、レーダー基地をミサイルで攻撃され、宮古空港と下地島空港が爆撃により滑走路を破壊され、本土との空路を絶たれるという、絶体絶命の状態で空母いぶきの戦いが始まるからなのです!。

ですから、その「空母いぶき」を映画化するとマンガの帯に書いてあったのを見て、「これを映画化できるのか? どういう風に映画化するんだ?」と楽しみでもあり、不安でもありました。

映画化の一報が入り、公開日が決定する中、島の友人に「空母いぶきの撮影進んでるみたいだけど、宮古島でロケやってる?」って聞いても、全くその様子はない。どうなっているのかと思っていたら…。


映画には与那国、宮古は全く出てきません。占領されるのは波留間群島の初島という架空の島となり、さらに言えば攻撃してくる敵国も中国から東亜連邦(?)なる全く架空の国に変わっています。

諸般の事情とか言うのでしょうか?、何かの忖度があったのでしょうか?。

もちろん中国を名指ししたまま映画化したら、中国が過剰に反応して反日感情を刺激しかねないのはわかります。

また原作で攻撃を受けた宮古島でも、現在自衛隊基地の建設が進み、賛成派と反対派に分かれて対立が生まれているのはご存知の通り。「基地があるから攻撃される」のか、「基地があるから抑止力になる」のか等の議論をさらに刺激することを避けるためなのでしょうか?。

映画版では、いぶきをはじめとする第五護衛艦隊の戦闘だけにフォーカスする形での映画化となりました。


防衛出動を決定するまでに右往左往する総理と政府の姿は「シン・ゴジラ」のそれに重なります。ですが相手はゴジラではなくて生身の人間であり他国の軍隊。ミサイルを当てればもちろん死ぬのです。

他国の人が見たらどう思うでしょう?。専守防衛を御旗に掲げた自衛隊は、明らかに攻撃を受けていても、敵の被害まで最少限度に収めるよう政府に要求されながら戦います。両手両足を縛られたままのような息苦しい、カタルシスのない戦いが続きます。

かわぐちかいじの作品には必ず、何を考えているのか真意を測りかねる、一見右寄りに見える鉄の意志を持ったリーダーと、そのリーダーのよき相棒でありながら反戦思考のライバルが必ず登場します。本作の秋津(西島秀俊)と新波(佐々木蔵之介)です。

新波が言う。「自衛隊は発足以来1人の戦死者も出していない」

秋津が返す。「誇るべきは自衛隊員に戦死者がいないことではなく、ひとりの一般人も戦争で死者を出していないことだ」

新波が言う。「我々は戦争をする能力は持っているが、絶対戦争はしない」

秋津が返す。「戦わねば守れない平和もある」

答えの出ないこの問答が本作のテーマでしょう。

ただ、実名を架空の名前に変えただけでなく、占領された初島なる島の様子・島民の姿は全く描かれていません。原作にはあった先島諸島での有事のリアルな可能性をぼかしただけではなく、侵略された島の被害を全く描かないのは如何なものでしょう?。この難しい作品を映画化するために、企画の福井晴敏(「機動戦士ガンダムUC」他)がバッサリ切ったものでしょうが、明らかに逃げすぎではないでしょうか?。

それだけではありません。敵国が中国だからこそ、先島諸島の戦闘だけならアメリカが日米安保を発動しないという可能性に基づいていた原作の微妙な読みも吹っ飛ばしてしまいました。

映画は「空母いぶき」の戦闘だけしか描いていません。この映画を見て関心を持たれた方はぜひ原作のマンガを読んでいただきたい。

私が取材した完成披露試写会の舞台挨拶で、監督の若松節朗さんは「未来の命に平和な世界を残す」と、藤竜也さんは「戦争だけはあかん!」と、吉田栄作さんは「戦争がなかった平成という時代に想いを馳せる」と、この作品への思いを語っていました。

確かに東シナ海をめぐる紛争の可能性は日増しに高くなっているし、実際に近い将来、自衛隊は「護衛艦いずも」を空母化する予定です。マンガが現実になってしまうようです。さらに政府は憲法改正を目指し、この先、日本という国はどこへ向かうのでしょうか?。

この映画を見て一番恐ろしかったのは侵略される島民の視点が全くないこと。◯◯島が占領されたというのに、政府は島民を気にかける様子もなく、最初から最後まで自衛隊の戦闘と自衛隊員の生死しか話に上らないのです。

島の名前を変えたからといっても、南方諸島が侵略を受ける設定に変わりはないのですが、本来自国民であるべき島民の安否を気遣う様子が総理に全くないのは映画と言ってもそら恐ろしい。

自衛隊の全面協力で、実際の戦力によるリアルな戦闘は迫力満点!。ミリタリーファンは大興奮でしょうし、見る者によって右寄りにも左寄りにも取れる作品ではあります。ただ原作ファンの筆者としては中途半端な映画化としか思えずたいへん残念。原作のマンガは次巻13巻で完結とのこと。そちらもこれだけ広げた風呂敷をどのように終わらせるのか、楽しみに待つことにしましょう。


【作品データ】
「空母いぶき」
公開 2019年5月24日(全国公開予定)
監督 若松節朗(「ホワイト・アウト」「沈まぬ太陽」「柘榴坂の仇討」など)
原作 かわぐちかいじ(「沈黙の艦隊」「ジパング」など)
出演 西島秀俊、佐々木龍之介、本田翼、玉木宏、戸次重幸、市原隼人、堂珍嘉邦、中井貴一、村上淳、吉田栄作、工藤俊介、斉藤由貴、藤竜也、佐藤浩市、他

【原作データ】
「空母いぶき」
作 者 かわぐちかいじ
出版社 ビッグコミック(小学館)
既刊12巻(2019年4月26日現在) 試し読み   続きを読む


Posted by atalas at 12:00Comments(0)シネマ de ミャーク

2019年05月07日

第231回 「Pledge」



新元号「令和」になってから最初の「んなま to んきゃーん」です。なに変わったのかと聞かれても、特になにも変わることのない、いつもの“オトナの自由研究”を地味に地道に突き進むだけでございます。今回紹介する石碑は、平良保険センターと働く女性の家ゆいみなぁの間の道を突当りまで進んだ、その奥にあるテニスコートの入口の影にある石碑です。えっ、そんなところに石碑があるの?ってくらい、自分にとっても意外な場所にあった石碑を見つけたので、紹介してみることにしました(たぶん、テニスをしに来ている人たちも石碑があることすら気にも留めていないと思うくらい地味)。

鏡面のように反射する黒御影に、「Pledge」と筆記体で書かれた文字と、なにやら「JAPAN」の文字が入ったエンブレムが刻まれた、こちらの石碑が今回の主役です。
まずはGoogle先生に「Pledge」ってなに?って聞いてみると、「誓約する」と答えてくれました。ふむ、なるほど。エンブレムの下に書かれた解説を読み進めると、その理由も判って来ました。

こちらのエンブレムは国際青年会議(JCI)のトレードマークの上部に、日本青年会議所(Junior Chamber International Japan)を意味したJAPANのリボンを勝手に足してあるもののようです(日本青年会議所でも使ってないエンブレムだけどいいのかしら?)。

石碑建立の趣旨は、宮古と津山の青年会議所が姉妹縁組を締結して、30周年を迎えたことを記念して作られたものでした。姉妹遠組は1965年の締結で、1994年で30周年を迎えているので、2019年では54年目になります(もしかして、50周年の記念碑もどこかにあるのでしょうか?)。
ここまで「津山」を軽くスルーしてきましたが、津山とは岡山県津山市のこと。かつては美作国の国府が置かれていた、中国山地に囲まれた津山盆地に広がる県下第三の都市。多少詳しい人なら、宮古島市の姉妹都市が結ばれている市でもあります。津山市との姉妹都市の縁組は、旧平良市時代の1965(昭和40)年に締結されていますので、宮古島市となっても続いていることになります。

津山市のHPには2015(平成27)年に、宮古島市との交流50周年を記念した交流事業が紹介されています。

「宮古島市との交流50周年 ~きっと、つながっている」

宮古島市のHPではこうした取り組みの紹介はなく、検索してやっと過去の広報(2014年7月号)に掲載された見開きの特集で、簡潔に50周年が紹介されているにすぎません(私見も含んでいますが、人頭税廃止の立役者・中村十作についても似たようなことがいえるのですが、どうも宮古島は相手側に立ってリスペクトする戦術がことごとく苦手のようで、関連リンク的な紹介がほとんどなされていません)。記憶をたどってみると、確かに50周年を記念した津山の物産イベントのようなものも行われていましたが、いまひとつ盛り上がることなく過ぎ去った気がていします。

この両市の縁組はそもそも1963(昭和38)年に、平良第一小学校の砂川恵保校長が津山市に研修で派遣され、津山南小学校と姉妹校縁組が結ばれたことに起因しています。校長同士が意気投合し、姉妹校になり、交流が発展して姉妹都市という出来好きのような美しい流れの中に、今回紹介しているJCの縁組も姉妹都市縁組にあわせて締結されたと紹介されてます。
   【津山市と宮古島市との友好交流都市縁組50周年記念「交流の振り返り」】

ちなみに、津山市のHPにある『津山市と宮古島市との友好交流都市縁組50周年記念「交流の振り返り」』と題されたYouTube動画にも紹介されているのですが、平一小の砂川校長が津山を訪れる以前か、宮古と津山の関わりがあったエピソードがちらりと紹介されています。
1956年に津山市にある、美作大学(短期)に平良の女子学生が入学していたそうで、とうも草の根レベルの交流があったようなのです。
しかもこの先には、小耳にはさんだ史実に載らない話で、ご本人からの裏取りもちゃんと出来てないので、書くことが出来ないのですが、妄想を最大にブーストさせると、このきっかけのきっかけを生んだ宮古からの女学生が、もしかして繋がるんじゃないかと。いつかもう一度、美作・津山の話をきちんと聞いてみたいものです(自分の妄想が作った幻影だったら恥ずかしすぎるけど、この薄っすらちりばめたキーワードだけで、ピンっときた人かいたらこそっと聞いてみて欲しい)。

ここまでの流れ。
実は、過去の石碑紹介で使ったネタの焼き直し感が否めなかったりもします。
第30回「眞栄城徳松氏の像」
第51回「平良市役所」
気になった方、未読の方は、こちらもぜひ、お読みいただけたら幸いです。


えー、この場所には実はもう一枚、石碑があるのでそちらもさらっと紹介しておきましょう。
なにも姉妹縁組は津山だけではないのです。それがこちら。

「友情 奉仕 修練」の3つのスローガンを書き添えた、民雄国際青年商會との姐妹縁組(こちらは姉ではなく姐)の締結30周年を記念して建立されたもののようです。というのも、3つのスローガンの下に、字色が抜けてしまい薄っすらとしか読めませんが、おそらく「創立30周年記念 (社)宮古青年会議所」と刻まれています。

こちらの姉妹縁組の相手は、民雄国際青年商會(民雄JC)。いったいとどこのなにか?。石碑には中華民国とあるので地域が台湾であることはすぐに判りましたが、民雄とは聞いたことがない地名だったので、調べてみるとどうやら嘉義縣にある民雄郷であることが判りました。地理的には嘉義市(台湾西部、台中市と台南市の間)の北8キロほどにある隣り町のようです。【MAP】
宮古と民雄が姉妹締結をしたいきさつについては、調べても特に出てきませんでした。台湾と宮古のつながりとしたら、台北に近い基隆市が、2007(平成19)年に宮古島市と姉妹都市を締結していますが、民雄郷や嘉義縣とのつながりは思いつきませんでした。

さて、ここからは年号の計算と謎解きです。
石碑に記載されている年数は1991年。そして判明している数字は30周年。これが締結された年号だとするなら、2019年の今年でさえ、まだ28年しか経過していません。
そこでJCの記事をあさって見ると、なんとこのゴールデンウイークの直前(4月25~27日)に、宮古JCは台湾へと渡っていたようなのです。

姉妹締結30周年を祝う/宮古、台湾民雄JCが式典(宮古毎日新聞 2019年5月3日)

記事によると、「姉妹締結30周年を祝う」とあり、「宮古JCと民雄國際青年商會は1989年に姉妹青年会議所となった」と書かれていました。
なんかおかしい。石碑は30周年のものではないのたろうか…。

次に、民雄国際青年商會(民雄JC)のFaceBookを眺めてみると、2017年に民雄JC創設35周年の式典を開催しています。そこから逆算すると民雄JCが誕生したのは1982年であることになり、創設まもない頃に宮古JCと姉妹縁組をしたことになります。

民雄國際青年商會35週年慶
※ちゃんと宮古JC側にも記録がありました。

さらに詰めてゆくと、宮古JCとの姉妹締結はJCの本部資料(シスターJC締結一覧 2014年12月4日現在)でも、1989年9月12日と確認できることから、姉妹締結の30周年はやはり2019年で間違いなさそうです。
では、石碑の建立日と目される「1991年」と、薄くてうまく読めない「30周年」とはいったなんなのでしょうか?。

数字と格闘し、あちこち検索して、ようやっとその答えを見つけました。
「創立30周年記念 (社)宮古青年会議所」とは、まさに文字通りにそのままだったのです。勝手に碑面に書かれていた民雄JCとの姉妹縁組に単純に引っ張られていただけだったのでした。
そう、真実は宮古JCの創立が1962年だっという、なんともお粗末なオチだったのです(厳密には1年ずれてるけど)。
おそらく、宮古JCの創立30周年の記念式典に参加した、民雄JCがこの石碑を記念に贈ったのではないかと推測します。

最後に、本来のオチとして用意しておいた、この石碑の設置場所ですが、その場所こそが宮古青年会議所の建物がある場所だったんてすね。この時までちっとも知りませんでした。

ああ、もう。やれやれだぜ~!。  続きを読む