てぃーだブログ › ATALAS Blog › んなま to んきゃーん › 第85回 「五ヶ里道開鑿記念碑」

2016年05月31日

第85回 「五ヶ里道開鑿記念碑」

第85回 「五ヶ里道開鑿記念碑」
保良泉の改修記念碑に刻まれていた西原雅一(第9代村長)から始まり、初代町長の川満昭吉、初代村長の国仲寛徒と、伊良部の首長を巡ったミニシリーズの締めくくりとして、初代村長に任命された国仲寛徒が、村の発展のため取り組んだ「五ヶ里道開鑿記念碑」を取り上げてみたいと思います。
第85回 「五ヶ里道開鑿記念碑」
この碑は国仲集落にある伊良部村役場跡地に、いくつかの石碑とともに並んで建立されており、ご覧の通りとても縦に長細い石碑となっています。碑面には行書体で大きく「五ヶ里道開鑿記念碑」と書かれている上部に、篆書体?で4行2列の8文字が書かれています。

禮 御第85回 「五ヶ里道開鑿記念碑」
坐 ■
記 位
念 大

とりあえずフィーリングで読んでみましたが、「記念」とか「御禮(御禮?)」と書いてあるように読めるので、なにか祝う的なことが書かれているのだということは判るのですが、さすがにこれはお手あげです。なにとぞお助け下さい!。
【追記】どうやら判読できなかった文字は「御即位」のようです。なんでも五ヶ里道の建設事業は、大正天皇の即位の礼(御大典)の記念事業であったことが判明しました。年代考証としても1914(大正3)年起工ですから問題なさそうです(20161128)。

石碑の裏面には竣工日である「大正四年十一月十日吉日建設」とあります。最後の「設」だけがなぜか行書体より草書体に近く、「没」と読みそうになり、建設しなかったという意味の「建没」と誤読しそうになったことは秘密です(薄学が滲んでますね)。
この他にも碑の下部。台座にあたる部分に、正面を除く三面にそれぞれ関係者の名前が記されています。
北側
「村會議員 島袋賀壽 川満惠年 西平方吉 糸数松金 吉浜亀八 下地惠治 喜納朝納 友利惠良 波平惠和 前泊平八 来間龍一 仲間福吉 親泊金太郎」
東側
「工事監督 松岡宗太郎 真喜屋惠永 石工 新垣三郎」
南側
「委員 前泊金吉 長浜金三郎 上地貞治 下地康祥 松川良智 島袋賀親」
第85回 「五ヶ里道開鑿記念碑」
1908(明治41)年に沖縄県島嶼特別町村制が施行され、従来の間切(平良・砂川・下地)に変わって、平良、城辺、下地、伊良部の4ヶ村が置かれました(旧村は字に置き換え)。寛徒が初代村長を任命された新設の伊良部村は、平良間切の2ヶ村と下地間切の5ヶ村を合わせた、伊良部島と下地島が村域と定められました。
寛徒は伊良部村を建村するにあたり、村づくりの三本柱を掲げました。
一、産業の開発による平和な村つくり
二、旧来の陋習(ろうしゅう)を打破して堅実な社会生活
三、教育の充実発展で有為な人材の育成

村役場を南部五ヶ村(佐和田、長浜、国仲、仲地、伊良部)の真ん中にあたる国仲に置き、村の産業発展にと、人頭税の廃止と前後して奨励され始めた、サトウキビの増産と販路拡大に注力しますが、当時の道路事情はすこぶる悪く、人々の移動も満足にできない状態にあったそうです。
そこで南部五ヶ村を結ぶ里道(今でいう村道)を整備すことになりましたが、スタートしたばかりの貧弱な村の財政で、公共工事の発注をすることは厳しく、村直営で工事をすることとし、主要経費以外は村民の労働奉仕によって建設を行うことになります。
しかし、重機どころか馬車さえもなく、モッコを使って人力で土砂を運び、道路建設を進めたそうで、1914(大正3)年に始まった工事は、およそ二ヶ年の歳月をかけ、1915(大正5)年11月10日にようやく完成しました。
第85回 「五ヶ里道開鑿記念碑」
最後に前週も少し触れた「敬神家 国仲寛徒翁小伝」からもうひとネタ。
寛徒を偲ぶ本として1933(昭和8)年刊行されたこの本には、五ヶ里道の工事監督をした松岡宗太郎(福岡県の人らしい)も、「郷土の大損失」というタイトルで寄稿をしていることが、唯一知ることのできた目次から判りました。
かし、この本は国立国会図書館にこそ蔵書されていますが、デジタルでの公開がされていないため、簡単には読むことができず、残念ながら未読のままこれを書いています。
寛徒のことを知ることのできる、とても興味深い書籍資料なのですが、宮古島市はおろか県立の図書館、琉大図書館にも蔵書はなく、郷土の偉人につて知る機会の損失となっていることが残念でなりません。
(20160623)

その後、再調査から「国仲寛徒翁小伝」が宮古島市立図書館北分館に所蔵されていることが判り、早速借りてみることにしました(県立図書館にも1933年版と1993年版が所蔵されていまずか、禁帯となってすました)。
北分館に所蔵されていた本は1933(昭和8)年刊行のオリジナルではなく、「国仲寛徒頌徳碑」のレブリカが建立された1993(平成3)年に、遺族の所有していた本のコピーを、複製資料として再刊行したものでした。
気になっていた梅田少将と寛徒の関係はやはり、梅田が軍の徴募招集で青年会などと関わりがあり、寛徒とそのあたりでつながり、公私ともに交流をしていたようです。一方の松岡監督は暑中見舞いや年賀状を交わす関係を築いていたようで、寛徒の訃報を知った松岡は子息に宛てた年賀(日付が元旦)の返信が寄稿として掲載されていました。

しかし、なによりも一番驚いたのは、この(元)本の著者である、山下邦雄についてでした。
奥付を眺めてみると、まず目についたのが「昭和八年五月二十日印刷 昭和八年五月27日發行 (非売品)」と売り物でなかった点でした。
そして「鹿児島懸安楽 竹雅翁傳記刊行會」「編著者 郡山市國語研究社 山下邦雄 郡山柳内一一八」「印刷人 岩代印刷所 平松司朗」と、鹿児島の地名と、福島県郡山市の文字が踊っています(薩摩郡山ではないのは柳内が福島に現存することと、印刷所の名前が旧国名から)。そしてどこにも沖縄が絡んでいない不思議。ますます気になります。

答えを先に云ってしまうと、山下邦雄とは内地風に氏名変更した、寛徒の長男・寛栗のこと(旧制の志布志中学に勤務。この時、別籍したとある。現在は志布志高校で、この高校の住所が志布志市安楽となっている)。
なんとも興味深いネタがいっぱいの寛徒の年表が、この本には記されておりいて分析と妄想が追いつかないほどです。
ちなみに、海軍入りした次男の寛長についても、当時の聯合艦隊旗艦・長門などに乗船していたことなどが書かれているのですが、あくまでも寛徒メインの年表なので、寛栗の郡山についてなどの記述などはなく、謎はまだまだ残っているのです(郡山での調査が必要かな?誰か謎解きをしてきてくれないかしら)。

【参考資料】
伊良部村史(1978年刊行)
宮古新報記事「みやこの歴史と文化人物散歩(5)国仲寛徒」(1997年)
敬神家国仲寛徒翁小伝 山下邦雄編著(目次一覧)

【20160623追記修正】
【20161128追記修正】




同じカテゴリー(んなま to んきゃーん)の記事

この記事へのコメント
はじめまして。貴ブログ、興味深く拝読致しました。
つきましては、参考資料・宮古新報記事(1997)の掲載月日を教えて頂けないでしょうか。
(ところで、『國仲寛徒翁小傳』は沖縄県内で閲覧可能の筈ですが。)
まずは お願いまで。
Posted by さぬき at 2016年06月23日 09:19
さぬきさま。
コメントありがとうこざいました。

宮古新報の記事掲載月日は、1997年7月13日付となります。
全20回のシリーズで仲宗根將二先生が執筆されています。

ご指摘の通り、県立図書館には蔵書があることが判明しました(ただし禁帯)。
また、市立図書館には貸出の出来る蔵書があることが判り、掲載後すぐに借りてきました。
それを受け、加筆修正を行いました。

大変失礼いたしました。
Posted by atalasatalas at 2016年06月23日 16:12
モリヤダイスケ 様

さっそくに ご回答を頂きまして、有難うございました。
「柳内」を調べられたのですね。著者は当時、福島県内の旧制中学校の教諭をされておりました。(詳細は松谷 様へ お訊ねください。)
北分館(旧・県立宮古分館)所蔵本の原本を お持ちの ご遺族の方が いらしたんですね。機会が ございましたら、その経緯を お教えください。
まずは お礼申し上げます。
Posted by さぬき at 2016年06月23日 18:05
さぬき様
コメントありがとうございます。
返信が遅くなりました。

北分館の所蔵本は当時の伊良部町が作ったものなので、そのあたりをあたれば判りそうですが、「くまかま」の掲示板の過去を遡ると、この話が出来ますので、そのあたりをチェックしてみてはどうでしょうか?。
Posted by atalasatalas at 2016年07月12日 12:45
上の画像に書かれている文字を入力して下さい
 
<ご注意>
書き込まれた内容は公開され、ブログの持ち主だけが削除できます。