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2022年05月26日

第29回「下川凹天の最初の妻 磯部たま子の巻その6」

第29回「下川凹天の最初の妻 磯部たま子の巻その6」



今日は凹天の命日です。このひまわりは、宮国さんが、花屋で選びました。宮国さんは、次のようなことを書いています。


note | 当たり前ってなんだろう。コロナ禍になって思うこと #トーンポリシング Vol.1 (2020年5月1日)

この後、不動前駅で大雨が降りました。それは、われらが凹天の喜びだったのか、お怒りだったのか、宮国さんに聞いてみたいところです。凹天と宮国さんは、どんなことを天国で語らっているのでしょうか。


第29回「下川凹天の最初の妻 磯部たま子の巻その6」


今回の前半は、文学紹介者の頭木弘樹(かしらぎ ひろき)さんです。



宮国さんの食べることとしゃべること


頭木弘樹


宮古島に移住した時、私は誰も知り合いがいませんでした。


海に囲まれた島の中で、まったく誰も私のことを知らない。それはある意味、面白くもありましたが、やはり心細くもありました。


最初に知り合ったのは、立川市出身で宮古在住のモリヤダイスケさんだったと思います。そして、モリヤさんが宮国優子さんを紹介してくださいました。


それからは、宮国さんが、いろいろな人に引き会わせてくださるだけでなく、それどころか、、あれこれと、まるで肉親のように親身に力になってくださいました。


これが宮国さんの流儀だと知ったのは、かなり後のことです。


宮国さんは東京にご家族との生活拠点がありました。当時も今もですが、私も国指定の難病のため、東京の病院に通ったり、東京で仕事をしたりしています。そこで、東京の自由が丘などでお会いすることもありました。


そこで知ったことですが、東京でも、宮古のようなコミュニティを作っておられていたのです。東京在住の宮古・沖縄出身者の集まりかと思ったら、そうではありません。


驚いたことに、東京の人たちが宮国さんの影響ですっかり沖縄の人のようになっていたのです。


大岡山の「Tandy ga tandhi (タンディ・ガ・タンディ)」というお店では、お客さんが店員のようにあれこれ働いていました。まさに宮国さんならではの世界です。このお店では、私もトークイベントをさせていただき、今となってはいい思い出です。感謝の念しかありません。


宮国さんと私は、実は難病仲間でもありました。病気は違うのですが、ふたりとも、国指定の難病です。


ただ、宮国さんとお会いした時には大変お元気になっておられ、仕事、お酒、煙草、夜更かしなどなど、驚きの連続でした。ただ、過去にはいろいろご苦労されたそうで、ご自身の夢をあきらめたこともおありだったとか。


以下で引用するのは、私の『絶望読書』という本の一節ですが、ここに出てくる「難病の知人」というのは、実は宮国さんです。宮国さんご自身の許可を得て、このエピソードを本に書かせてもらいました。


私のためにお見舞いに来てくれた人の服は、外のにおいがしました。この「外のにおい」が、正直、闘病の身には、とても辛かったのです。ずいぶん後になって、この話を、病気は違いますが、やはり難病の知人にしたところ、その人が言いました。


「私のために病院に走って駆けつけてくれた友人の頬が紅潮していて、激しくうらやましく思い、そんな自分を恥じました」。


この言葉には、本当に感動しました。この人は人間のそういう気持ちを心底から分かっていると。心の友だと思いました。


また、これはお互いに相手が難病と知る前のことですが、宮国さんとふたりで食事をした時に、たくさんの料理をテーブルに並べてくれました。


私は大腸の病気なので、食べられるものに制限があります。宮古の料理については、当時はまだよく分からず、どの料理を食べても大丈夫なのか、どれが危ないのか、区別がつきませんでした。ですから、ほとんど手をつけませんでした。お酒も飲めません。


こうなると、宮古では大変に気まずいことになります。もちろん東京でもこういうことが何度かありましたが、そのたびに、仕事がなくなったりしたものです。もてなすために出した料理に、相手がろくに手をつけないでいるというのは、やはり不愉快と思われても仕方ないでしょう。


ところが、宮国さんは、まったくいやな顔をしませんでした。こういう食事の時にありがちなのですが、「食べなよ」とか「どうして食べないの?」などと言うこともなく、ただひとりでどんどん食べて飲んで、楽しそうに話をしてくれるのです。


こんな人は初めてでした!


どんなに感動したかしれません。世の中の人がみんなこうだったら、どんなにいいかと思いました。このことも、『食べることと出すこと』という本に書きました。名前は出していませんが、それも宮国さんのことです。


宮国さんは、ご自身も難病だっただけに、「人にはどんな事情があるか分からない」と、きっと思っておられたのでしょう。


この人は、本当に信頼できる人だなあと思いました。人の気持ちに、ここまで寄り添える人は、それまでお会いしたこともありませんでしたし、今後もいないかもしれません。


宮国さんで、もうひとつ、とても印象深いことがあります。お会いすると、いつも時間を長いこと割いてくださいました。でも実は、宮国さんの話を何時間も聞いていても、何を言わんとしておられるのか、さっぱり分からなかったのです。


例えば、頼み事があるという理由で呼ばれた時も、お別れした後で、結局何を頼まれたのか分からないので、困りました。


最初は、失礼ながら、要領を得ないしゃべり方をする人なのかなと思っていました。しかし、それだったら、聞くだけで、つまらない気分で終わるはずですが、そんなことはまったくありません。最初から終わりまで、とても面白いのです。


これはいったいどういうわけなのだろう。


そのうち、気づきました。宮国さんは「理路整然としなくてもおしゃべりができる人」なんだなと。


理路整然としゃべると、実は多くのことが抜け落ちてしまいます。理路整然という網にうまく乗っかることだけをしゃべっているだけで、他のもやもやした思いというのは、切り捨てられてしまうものです。


ちょうど、絵を見て感動した時、その感動を理路整然となんて語れません。誰かを好きになった時、その理由を理路整然と語れるはずもありません。理路整然と語るというのは、箸でつまめるものだけをつまんでいるわけです。スープのような、箸でつまめないものは、切り捨てられてしまいます。


宮国さんのしゃべりには、そういうスープがたっぷり入っていたんです。理路整然としていたら抜け落ちてしまっていたはずのものが、すべてふくまれていたのですから、おいしいに決まっています。だから、何時間お話をうかがっていても面白かったわけです。


これは衝撃でした。かつて私は、理路整然としゃべれるほうがいいんだと思い込んでいました。でも、自分が難病になって、そういう時の気持ちは、とても理路整然と語れないことに気づいたのです。自分は現在、文学紹介者を生業としていますが、難病と向き合い、それをどう語るかということから、文学に近づいていったのだと思います。


そのお手本を示してくれたのが、まさに宮国さんでした。


以来、マネしようとしていたのですが、なかなか難しく、いまだに課題です。でも、本を書く時には、理路整然としすぎないよう、いつも気をつけています。


宮国さんの語り口こそが、現在私が目指しているものなのです。


このことも、実は NHK ラジオの「絶望名言ミニ」という番組で、話したことがあります。


宮国さんと出会い、宮国さんとの会話に驚いたことが血肉となり、その経験が基となり、私は書いたり、しゃべったりしてきたんだなあと、改めて思います。


その宮国さんが、もういらっしゃらないというのは、とても信じられません。また、ふいに声がかかって、呼び出されるような気がします。


これからも、そういう気持ちのままでいたいと思っています。宮国さんを見ていると、いつまでもパワフルに、大勢の人たちに囲まれて、長生きされるとしか思えませんでしたから。


東京にいる時は、宮国さんは宮古島にいると思い、宮古島にいる時は、宮国さんは東京にいると思い、これからもずっと、生き生きとした宮国さんの存在を感じつづけていようと思っています。



こんにちは。片岡慎泰です。


たま子との運命の出会い、そして一緒に過ごした時代、われらが凹天がどのような活動をしていたか、現段階で分かる範囲ですが、簡単にまとめてみようかと。新聞政治部で区分しますと、以下の時代に分けられます。ただし、あくまで自筆年譜に基づいていますので、今後、新資料がどこかで発見されればいいのですが。


  • 大坂朝日新聞(1913年~1915年)
  • 大毎新聞、大朝新聞、東日新聞、やまと新聞嘱託(1916年)
  • 東京讀賣新聞(1919年)
  • 中央新聞(1921年~1923年)
  • 東京毎夕新聞(1926年~1930年)
  • 東京讀賣新聞(1930年~1937年)
  • 国民新聞(1939年)

自由恋愛時代から新婚にかけての時代については、すでにこの巻で述べました。ここで、特筆すべきは、われらが凹天が、1917年天活(天然色活動寫眞株式會社)と契約して日本初のアニメーターになったことです。その決定的な資料が、岡本一平の『泣虫寺の夜話』であることも紹介しました。


そして、凹天は、二度目の東京讀賣新聞時代に最大のヒット作を飛ばしています。もちろん『男ヤモメの巖(がん)さん』ですが、ここでぜひ宮古の方にお知らせしたいのは、この作品で宮古島を登場させています。


第29回「下川凹天の最初の妻 磯部たま子の巻その6」

1933年7月7日付『讀賣新聞』

また漫画の設定は宮古島の名前ではありませんが、そこには宮古の風俗が描かれています。

第29回「下川凹天の最初の妻 磯部たま子の巻その6」
第29回「下川凹天の最初の妻 磯部たま子の巻その6」
第29回「下川凹天の最初の妻 磯部たま子の巻その6」
第29回「下川凹天の最初の妻 磯部たま子の巻その6」

1933年7月11日付『讀賣新聞』

すでに紹介した葬送で登場する泣き男が登場しています。凹天が、宮古で経験した最大の出来事は、父である貞文の死だったのでしょう。7歳までしかいなかった宮古島ですが、凹天はずっと島のことを忘れなかったのです。


残念ながらしかし、病床のたま子はもはやこのことを知ることもできなかったでしょう。このブログでは、われらが凹天とたま子との生活を伝える記事を載せておきます。この出典は、まだ分かっていません。

第29回「下川凹天の最初の妻 磯部たま子の巻その6」
(画像提供Y様)


【主な登場人物の簡単な略歴】


磯部たま子(いそべ たまこ)1893年~1940年失踪
凹天の最初の妻。
詳しくは、第24回「下川凹天の最初の妻 磯部たま子の巻 その1」


宮国優子(みやぐに ゆうこ)1971年~2020年
ライター、映像制作者、勝手に松田聖子研究者、オープンスペース「Tandy ga tandhi」の主宰者、下川凹天研究者。沖縄県平良市(現・宮古島市)生まれ。童名(わらびなー)は、カニメガ。最初になりたかった職業は、吟遊詩人。宮古高校卒業後、アメリカに渡り、ワシントン州エドモンズカレッジに入学。「ムダ」という理由で、中退。ジャパンアクションクラブ(現・JAPAN ACTION ENTERPRISE)映像制作部、『宮古毎日新聞』嘱託記者、トレンディ・ドラマ全盛時の北川悦吏子脚本家事務所、(株)オフィスバンズに勤務。難病で退職。その療養中に編著したのが『読めば宮古』(ボーダーインク、2002年)。「宮古では、『ハリー・ポッター』より売れた」と笑っていた。その後、『思えば宮古』(ボーダーインク、2004年)と続く。『読めば宮古』で、第7回平良好児賞受賞。その時のエピソードとして、「宮国優子たるもの、甘んじてそんな賞を受けるとはなにごとか」と仲宗根將二氏に叱られた。生涯のヒーローは、笹森儀助。GoGetters、最後はイースマイルに勤務。その他、フリーランスとして、映像制作やライターなど、さまざまな分野に携わる。ディレクターとして『大使の国から』など紀行番組、開隆堂のビデオ教材など教育関係の電子書籍、映像など制作物多数あり。2010年、友人と一緒に、一般社団法人 ATALAS ネットワーク設立。『島を旅立つ君たちへ』を編著。本人によれば、「これで宮古がやっと世界とつながった」とのこと。女性の意識行動研究所研究員、法政大学沖縄文化研究所国内研究員、沖縄大学地域研究所研究員などを歴任。2014年、法政大学沖縄文化研究所宮古研究会発足時の責任者だった。好きな顔のタイプは、藤井聡太。口ぐせは、「私の人生にイチミリの後悔もない」。プロレスファンならご存じの、ミスター高橋のハードボイルド小説出版に向けて動くなど、多方面に活動していた。くも膜下出血のため、東京都内で死去。


岡本一平(おかもと いっぺい)1886年~1948年
漫画家、作詞家。妻は小説家の岡本かの子。岡本太郎の父親。東京美術学校(現・東京藝術大学)西洋画科に進学。北海道函館市生まれ。卒業後、帝国劇場で舞台芸術の仕事に携わった後、夏目漱石の強い推薦で、1912年に朝日新聞社に入社。漫画記者となり、「漫画漫文」という独自のスタイルを確立し、大正時代にヒットメーカーになる。明治の樂天、大正の一平と称される。東京漫畫會から、漫畫奉公會まで、多くの団体で凹天と関係する。凹天の処女作『ポンチ肖像』の序文を書く。『一平全集』(全15巻・先進社)など大ベストセラーを世に送り出す。口ぐせは、50円もらったら、80円の仕事をしろ。かの子の死後、すぐにお手伝いの八重子と結婚。4子を授かる。漫画家養成の私塾「一平塾」を主宰し、後進を育てた。戦中は、書生のひとり(実は元妻かの子の愛人)の伝手で、岐阜県美濃太田市に疎開。疎開中は、地元民と「漫俳」を作り、慕われる。当時の加茂郡古井町下古井で入浴中、脳溢血で死去。急死のため、葬儀には太郎などの他、漫画家では、宮尾しげお、横山隆一、横井福次郎、和田義三、小野佐世男しか集まれなかった。


下川貞文(しもかわ さだふみ)1858年~1898年
肥後國生まれ。幼名は清。1876年、熊本師範学校卒。1881年、巡査として沖縄本島に赴任。1882年、首里西小(現・琉球大学教育学部附属小学校)で勤める。月給10円。1884年、那覇から平良小の訓導として宮古島に渡る。貞文は、1888年、「平良校ト当校詰兼務ヲ嘱託」の命を受け、1892年まで、西辺小の訓導として兼任する。同年、早逝した兄ふたりに続き、凹天が生まれる。妻はモトで鹿児島県人。同年から逝去するまで、上野小訓導も兼任する。その間の1894年には上野小初代校長に兼任として就任もしている。当時の教え子に国仲寛徒、盛島明長、立津春方がいた。なお、教え子が中心となって、死後に石碑が建てられ、祭典が開催された。明治34年9月11日付『琉球新報』によると、「故下川貞文氏の墓碑 故下川貞文氏は熊本県の産にして同県の師範学校を卒業し明治十三年の頃本件に来り初め六ヶ月間は首里に於いて巡査を奉職し次の二ヶ年は同西小学校の教員に奉職し十六年至り宮古の小学校に轉し爾来同島の子弟を薫陶すること十五ヶ年の久しき孜々怠らざること一日の如く子弟は勿論父兄も大に信用されたりしが去る三十一年十二月不幸にして長逝せり嘗ての氏の薫陶を受けたる立津春方、富盛寛卓友人臼井勝之助、執行生駒の諸氏墓碑を建設し氏生前の功績を永く同島に伝へんと欲し廣く全島の有志に謀りたる處賛成者多く四十餘圓の寄附金立どころにあつまりたれは早速牌を鹿児島に注文し、先月廿日に至り建設一切の工事を竣りたるに依り同日盛大なる祭典を執行したる由なるが當日は炎天に拘はらす参列者頗る多く真宗の僧侶白井氏の讀經あり發起者及ひ有志の祭文演説等あり同島に於て未曾有の祭典なりしと云ふ」。


頭木弘樹(かしらぎ ひろき)
文学紹介者。二十歳で難病になり、十三年間の闘病生活を送る。そのときにカフカの言葉が救いとなった経験から『絶望名人カフカの人生論』(新潮文庫)を出版。他の著書に『食べることと出すこと』(医学書院)、『落語を聴いてみたけど面白くなかった人へ』(ちくま文庫)、『ミステリー・カット版 カラマーゾフの兄弟』(春秋社)、アンソロジー『ひきこもり図書館』(毎日新聞出版)など。NHK「ラジオ深夜便」の『絶望名言』のコーナーに出演中。





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