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2020年09月23日

第24回「下川凹天の最初の妻 磯部たま子の巻その1」

第24回「下川凹天の最初の妻 磯部たま子の巻その1」

お久しぶりです。宮国です。

さて、昨今、世界中でコロナが猛威をふるっていますね。凹天が生きた時代もスペイン風邪が流行。100年余り前、1918年(大正7年)のことでした。1892年5月2日が凹天の誕生日なので、数え年では27歳です。凹天が、『東京パック』の編集の仕事も舞い込み、ようやく一人前の漫画家として認められた頃でもあります。

第24回「下川凹天の最初の妻 磯部たま子の巻その1」
ジャパンアーカイブから転載

その前後には、『大阪朝日新聞』や『東京日日新聞』(現・『毎日新聞』)に漫画の寄稿も始まり、『勞力新聞』の専属となったのですから、仕事だけに着目すれば、ノッている時期でもあります。しかし、その後『天然色活動寫眞株式會社』、『二六新聞』(『二六新報』とも)、『讀賣新聞』、『中央新聞』、『東京毎夕新聞』を転々とします。

社会情勢の激変で、会社が潰れたり、凹天自身の病気の問題があったようです。もっとも、『新愛知新聞』(現・中日新聞)、『國民新聞』(現・東京新聞)の嘱託など、発表の場所は広がるばかりでした。また、ですが、当の本人は、ずっと貧乏だったと書き記しているので、生活自体は大変だったのでしょう。病気でお金がかかったのかもしれません。

第24回「下川凹天の最初の妻 磯部たま子の巻その1」
『風刺画研究』第一号から転載

それでも凹天には発表の場があり、入退院をしながら、スペイン風邪が猛威を振るった1916年に結婚し、関東大震災の時も日本赤十字病院に入院しています。今回は、凹天の気持ちを類推したいので、当時と現在を対比しながら話をすすめたいと思います。

現在、世界人口はで77億 6576万人(今日の日付2020年9月2日現在)なので、その当時の世界の人口は今に比べて15%でした。それも少し驚きましたが、さらに驚いたのは、スペイン風邪で全人類の半数もの人びとがスペイン風邪に感染したという事実です。

日本では当時の人口5500万人に対し39万人が死亡。それからまもなくして起きたのが1923年の関東大震災ですからダブルパンチだったのでしょう。心がささくれ立つか、奮起するか、個人によって大きく生き方は変わったのかもしれません。
第24回「下川凹天の最初の妻 磯部たま子の巻その1」
wikiから転載

ちなみに関東大震災では10万人の犠牲者でした。スペイン風邪のほうが4倍近い死者数ではありますが、その数年でたくさんの命が奪われたことは紛れもない事実です。東京に住んでいる凹天のまわりでも亡くなる人はいたに違いありません。作品を見直してみないと分かりませんが、社会の底辺に苦しむ人びとに温かい目をもって、漫画に描いててきた凹天ですから、きっと書き残しているでしょう。

ここから私の自由研究になりますが、日本は災害と感染病のセットは記録上悲惨すぎて、ついキーボードを打つ手が止まってしまいます。でも、ここから学ぶことはたくさんある気がします。

ちなみに宮古に関しては、自分の文章で恐縮ですが、離島経済新聞社の電子版に書いています。宮古諸島に学ぶ、島の守りかた。1919年の池間島ロックダウンを振り返る(前編)【特別寄稿|コロナ時代を生きる】
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日本は地震などの災害と感染病が前後にきて、壊滅的になったことが歴史上も明らか。1854年に安政東海地震、安政南海地震、次の年には安政江戸地震がきて、1860年にはコレラが大流行します。

第24回「下川凹天の最初の妻 磯部たま子の巻その1」
wikiから転載

その頃、安政の大獄、幕末と時代は突き進んで行きました。日本は四季があり、それぞれの季節や、その移り変わりが美しい国ですが、その季節の変わり目の天候の激しさは、まるで「地球は生き物」と体現しているような気さえします。

それは、温暖化とともにますます激しさを増しているようです。そして、その激しさに突き動かされる人間たちがあらゆる社会の構成を変えていくように思います。今回のコロナ禍でも人間のあり方がかなり変わるのではないでしょうか。

さて、凹天は、27歳でこのスペイン風邪の猛威に見舞われます。スペイン風邪、関東大震災、昭和金融恐慌、戦争に向かって行く様子がうかがえます。凹天の人生も、仕事も、プライベートも、激しく浮き沈みます。この時代に、仕事をすること、結婚すること、アニメを始めることは、彼自身に大きな意味があったのだと思います。

凹天の新婚生活は、自著の出版を初めとした仕事の拡大、スペイン風邪、関東大震災にともなう社会環境とともにあったことだけは確かです。


 こんにちは。新型コロナが猛威を振っていますが、いかがお過ごしでしょうか。一番座という言葉にすっかり馴染んでしまった片岡慎泰です。

 でも宮古には行くこともかないません。黒門町(くろもんちょう)の古田さんはお元気でしょうか。仲宗根先生や長濱先生、宮國教育長、下地会長、大城会長、松谷さん、仲間明典(なかま あきのり)さん、村下さんと、お世話になった方々が思い出されます。「雅歌小屋(がかごや)」や「南楽(なんらく)」で、音楽を聞きつつ泡盛飲みたい。ピーブーさん、相変わらずダンディーかな。木村真三(きむら しんぞう)と前浜ビーチで盛り上がりたいなと、妄想が止まりません。

第24回「下川凹天の最初の妻 磯部たま子の巻その1」

 今回からは、凹天の最初の妻であるたま子について書いてみたいと思います。戦後に凹天が残した記録で、たま子自身の言葉は、現在判明している限り、これだけです。

 「私はマンガ家の処へ嫁に来たのです。日本画になるなら別れます」。

 漫画と日本画になんの関係があるのだろうかと思う向きもいるかと。しかし、第一世代の漫画家の素養は、まずは、日本画や南画だったのです。それは、浮世絵や錦絵の伝統からでしょうか。確かに、日本漫画史では、最初に浮世絵や錦絵が扱われることが多いのです。それは、現在の漫画隆盛の時代には想像もつきませんが、伝統なきものが、箔をつけたいために、どこかにルーツを求める気持ちに似ているかもしれません。

 「当時の大家連の描いていた漫画とは、毛筆で描いた日本画、南画的な絵で、描かれる内容は、政治的な現象や社会的な現象の絵解きのようなものであった」。

第24回「下川凹天の最初の妻 磯部たま子の巻その1」『近藤日出造の世界』

 当時の凹天の周囲には、日本画、南画だけではなく、後にいわゆる巨匠、そして名門と言われる人物が目白押し。まずは、初期漫画史を彩った東京美術学校(現・東京藝術大学)出身で同級生であった岡本一平(おかもと いっぺい)、池辺釣(いけべ ひとし)、藤田嗣治(ふじた つぐはる)、望月桂(もちづき かつら)。そして、文展や院展、二科会などに入賞したり、当時珍しかった美術学校で腕を磨いた人物ばかりでした。少しだけ挙げると、坂本繁二郎(さかもと はんじろう)、川端竜子(かわばた りゅうし)、平岡権八郎(ひらおか ごんぱちろう)、益田太郎冠者(ますだ たろうかじゃ)、尾崎秀麿(おざき ひでまろ)などなど。

 こうした人物に囲まれて凹天は、どう思っていたのでしょうか。芸能は、才能や腕があればいいとはいえ、当時は大学もさほどない時代。漫画家の地位も、今とは比べ物にならないほど低かったのです。

 元々、熊本縣出身だった父親の貞文(さだふみ)が、新里(しんざと)尋常小學校(現・新里小学校)の校長であったということは、折にふれて、自分が島の子とどこか違っていたことは、うすうす自覚できたかと。

第24回「下川凹天の最初の妻 磯部たま子の巻その1」
当時の新里尋常小學校のあった跡地

 しかし、父親を年端もいかない時に亡くし、人頭税(にんとうぜい)廃止で荒々しい雰囲気が宮古であったであろう最中、母方の実家があった鹿児島の松原尋常小學校(松原小学校)に。そこで、幼い弟の清利と清重も亡くなります。寄る辺のない孤独感に包まれたこともあったでしょう。

第24回「下川凹天の最初の妻 磯部たま子の巻その1」
凹天が通った松原尋常小學校のあった天文館公園に残る石碑

第24回「下川凹天の最初の妻 磯部たま子の巻その1」現在の松原小学校

 そして、まだよく判断もつかないうちに、親戚間で話し合いでもあったのか東京へ。そして、その後の東京生活が、宮古での「楽園」から追放されたことに直面させられたであろうこと。そして、逆立ちしても勝負することすらできない人びとに偶然であろうと出会った時、打ちのめされるような絶望感をもったのかもしれません。結局、われらが凹天は、麹町尋常小學校をビリから2番目で卒業します。凹天の頃、尋常小學校は3年か4年制。運命に翻弄(ほんろう)され、3度も転校。よく知られているように、麹町小学校は、昭和時代まで、エリート集団の母校でした。
第24回「下川凹天の最初の妻 磯部たま子の巻その1」川崎市市民ミュージアム所蔵

 こうした環境の激変が、宮古島が「楽園」であったという追憶へと、凹天をどれだけかきたてたことでしょうか。私が、凹天が残した言葉で一番好きなのは「夢の琉球島よ!」です。

 そういった凹天の実人生を踏まえると、たま子の言葉は、どれだけ励みになったか、容易に想像がつこうというものです。現在の調査では、唯一残されたたま子の言葉。そして、この言葉だけは記録に残そうという凹天の気持ち、そこには、魂を揺さぶられるような背景があったことが伝わってきます。

 ところで、このようなたま子の発言は、どこから来たのかという疑問が湧きます。 ここでは、まず、ふたりが、自由結婚だったらしいということです。1954年1月28日付『讀賣新聞』夕刊3ページには次のように記されています。戦後最初に、凹天が仏画の個展を開いた時の記事です。「男やもめの凹天」とは、凹天最大のヒット作品である『男ヤモメの巖さん』からきています。

 「”男やもめの凹天”にはじつは自由恋愛した恋女房があった」。 
 
 当時、自由恋愛や自由結婚は、到底ありえない時代でした。これは戦後の話になりますが、私の恩師のひとりである井上先生は、奥さまとの恋人時代、ご両親に紹介するため、実家に連れて行ったところ、父親の井上靖(いのうえ やすし)から「お前は自由結婚をするのか!」と烈火のごとく怒られたそうです。

 ましてや大正時代。この時代は、庶民や女性の社会進出が目立って始まったとはいえ、それがニュースになるということは、それだけ日本において新しい現象だったといえます。それほど、家や親の意向が、結婚という制度には、大きく働いていたのです。有名なところでは、平塚らいてう(へいつか らいちょう)の話が有名です。

 次に、兄であった磯部甲陽堂(いそべこうようどう)を創設した磯部辰次郎(いそべ たつじろう)の影響が大きかったと考えられます。第24回「下川凹天の最初の妻 磯部たま子の巻その1」
磯部辰次郎の写真『東京書籍商組合史及組合員概歴』所収 国会図書館アーカイブより

 夏川清丸著『出版社の横顔』(出版同盟出版社、1940年)132~133ページには次のように紹介されています。

 「磯部さんは山梨縣の人、明治十三年出生で今年六十二歳であります。同縣出身には雄山閣の長坂さん(五十六歳)、歐文社の赤尾さん(三十五歳)等がありますが、磯部さんは其の先輩であります。このお二人とは嚮ふ所を異にし、主として特價品畑に活躍し、斯界の長老として重きをなして居られるのであります。
 大體の業歴を申しますと、明治三十二年に上京、日本橋の古本屋で三年程修業の後、同三十五年同區蛎殻町に甲陽堂を創立されました。初めは古本と貸本業を營み、次いで現地に移り出版專業となられました。目標は通俗書の出版で、岡本一平、奥野他見男、堀内神泉、松崎天民等の著書を次/\と出版されました。岡本一平の處女作『探訪畫趣』もたしか同店の出版だつたと思ひます。また奥野他見男も後に有名になつた作家ですが、同店から初期の物を出版してゐます。まだあります。それは太田亮の『姓氏家系大辞典』です。之は相當の大出版ですが、多くの犠牲を忍び、營利を度外視して完成されました。かやうに自分が儲けるよりは、無名の作家、學者を世の中へ紹介する上に大きな貢献があつたのであります。
 其他鳥居龍藏の『有史以前の日本』、大野雲外の『古代日本遺物遺蹟の研究』等、硬軟併せて良書を多數世に送つてゐます。かゝる本屋こそ本當に新體制の趣旨にかなつた良出版書肆と申すべきだと思つてます」。
第24回「下川凹天の最初の妻 磯部たま子の巻その1」

 磯部甲陽堂の名は、自分の姓にプラスして、出身地にちなんだ甲陽を付けたことが分かります。「甲陽」とは、歴史ファンなら周知だと思いますが、山梨県の戦国武将武田氏の事績(じせき)を記した『甲陽軍艦』が由来です。

 この出版社は、『出版人の横顔』にあるようにいわゆる良書も出していますが、経営の柱は、端歌(はうた)、都々逸(どどいつ)、長唄(ながうた)、能、義太夫などの芸能関係でした。
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 川崎市市民ミュージアムには、下川たま子画の凹天デッサン『これは下川先生』という作品が収蔵されていました。日付は1922年5月15日。川崎市市民ミュージアムの収蔵作品の状況が、詳(つまび)らかになっていないので、残念ながら作品をお見せすることはできません。ただ、ここで強調しておきたいのは、たま子が、長唄や都々逸などの芸能に囲まれて育ち、絵心もあった女性ということです。 

 磯部辰次郎とたま子が、われらが凹天と知り合うきっかけは、まず『出版社の横顔』の記述から、岡本一平の紹介だと考えます。磯部甲陽堂は、岡本一平ばかりでなく、池辺釣、近藤浩一路(こんどう こういちろ)、前川千汎(まえかわ せんぱん)、宮尾しげを(みやお しげお)など多くの漫画家の著作も出版していました。中には、初の漫画家親睦団体である「東京漫畫會」の作品も。

 磯部甲陽堂は、漫画家とも深い親交があったのです。磯部辰次郎が、出版物から判断して、漫画家に特別な思いをもっていたこととがうかがえます。ということは、磯部たま子も、多くの漫画家とも知己だったことは確実です。第24回「下川凹天の最初の妻 磯部たま子の巻その1」

 そして、『出版社の横顔』にあるように、磯部辰次郎が、無名の新人を世に送り出そうという気概あふれた人物で、それが下川凹天の処女作『ポンチ肖像』の出版につながったかと。
第24回「下川凹天の最初の妻 磯部たま子の巻その1」


 ところで、岡本一平が関係しているのではないかと述べたのには、以下の理由があります。『ポンチ肖像』の序文を書いたのが岡本一平と幸内純一(こううち じゅんいち)。そして、この本が売れなかったため、一平は、当時の漫画界の重鎮と「凹天畫會」を開催しているからです。1918年11月9日付『讀賣新聞』朝刊9ページです。

 「一平、重一郎、樂天、百穂の四氏発起人となり、下川凹天氏のポンチ肖像畫會を催す申込は麹町區飯田橋六ノ二十二、下川凹天氏の由」。

 さて、日本漫畫家聯盟の機關紙『ユウモア』一月号(圖畫教育研究會雑誌部、1927年)には、凹天の結婚の時の思い出が、掲載されています。

 「私の藝術上に或は境遇上に大影響を及ぼした遺傳性の私の病氣は十七才から始つて大阪朝日在社頃からいよ/\本物に成つて來た。下宿で半死半生の間に書かれたものでありす。すでに此時は樂天先生の漫畫から轉じて獨乙の『ジンプリチシムス』の漫畫家ハイネを崇拝する様になつて居た時でありました。社會部長長谷川如是閑氏の忠告に東京戀しの念から大正四年大阪を辭し東京へ歸り最後の『東京パツク』誌編輯に當り、在田稠氏、山田みのる氏等と寝食を共にした効なく『東京パツク』は遂に廃刊となり、それから勞力新聞と云ふのに一ケ年近く働く事になりました。其頃東京漫畫會が組織され第二回の漫畫祭から出席することになつた。最年長が樂天氏百穂氏、最少年者が廿四才の私でした。廿五才で『ポンチ肖像』を出版し、それが縁で同年製本家の妹と結婚した。それが私の今の妻です」。
第24回「下川凹天の最初の妻 磯部たま子の巻その1」川崎市市民ミュージアム所蔵 http://seimeisi.web.fc2.com/sigesi/sigesi.htmlより転載(2020年8月11日閲覧)

 結婚当初から『東京毎夕新聞』勤務時代までは、とても睦まじい仲であったようです。『映画評論』一九三四年七月號所収「日本最初の漫畫映畫の思ひ出」(映画評論社、1934年)は、アニメ制作の時期が、たま子の新婚生活と同じ時期であったことに触れています。この資料は、われらが凹天が日本初のアニメーターである根拠とされてきました。もっとも、記述を詳細に調べると、いくつか検討すべき点もありますが、新婚時代を凹天自身が振り返っている数少ない記述という意味では、大変貴重なのです。

 「『凸坊の線畫帳』!私には何ともいへない思ひ出です私の新婚生活はこの漫畫映畫制作と共に始められたからです」。

 一番座からは以上です。


一番座にあるように、凹天の結婚は映画アニメーション制作とともに始まったと言っても過言ではありません。この対比として思い浮かぶのは、同時代人のアナキスト大杉栄(おおすぎ さかえ)。

凹天がたま子と結婚した年の大正5年11月8日、葉山の日陰茶屋で、大杉栄は、当時才媛として知られた『東京日日新聞』の神近市子(かみちか いちこ)に刺されました。 今、流行のオープンマリッジですが、大杉はその頃の思想的な文化人のなかでも飛び抜けて自由だったと思います。

その雰囲気に包まれて、凹天は生活していたのでしょう。どのような時代だったのか気になって、今回、神近市子の本を数冊購入しました。結論から言うと、どの本もとても面白かったです。晩年に『日本経済新聞』連載の「私の履歴書」も書籍化されていて、まとめて読むにはおすすめです。

一番興味深かったのは、70際の時に書かれた『私の半生記』(昭和31年、近代生活社)です。最初の書き出しが「不器量な上に、手のつけられないあばれ者だった」にはじまり、「裸の男はなんと汚らわしいものだろう!」で終わる本なので、推して知るべし。めちゃくちゃ、エッジの効いた人。ファンキーすぎて、大ファンになってしまいました。

さて、大杉栄を刺した有名な「日陰茶屋事件」は、彼女が28歳。いわゆる三番目の女性でした。未亡人と同棲していたにもかかわらず、33歳の堀保子(ほり やすこ)を内縁の妻としました。堀保子が焼身自殺をすると脅して求婚したようです。困ったひとだ・・・。

保子は同棲している未亡人と別れさせたという記述があります。保子も『家庭雑誌』編集をするような新しい女性、そして運動家でした。そのうえに、『東京日日新聞』に記者として勤める神近を恋人に。その当時は、新聞社に女性記者が一人という時期だったようですから、かなりの切れ者だったのでしょう。その前の彼女の経歴は、津田塾大学で学んでいるときに平塚らいてうたちと『青鞜』に参加したり文学活動をしていました。

その後、いわゆる「赤さわぎ」で、津田梅子(つだ うめこ)から教師としてしばらく青森に行くように言われ、青森の女学校で働き始めます。自著でも「東京から追放された」と書いていおり「青森でも暴露された」と書いてあるので、その頃、女性の権利を表現することはかなり異端だったのでしょう。『東京日日新聞』は、神近がやめさせられて数年後から凹天も寄稿していたので、凹天も名前くらいは当然知っていたと思います。

この事件の時は、神近が『東京日日新聞』をやめさせられ、翻訳者として働いていた時期です。21歳の伊藤野枝(いとう のえ)が大杉の4人目の愛人となり、大杉は神近の働いた金を伊藤野枝との家賃などに使っていたそうです。

保子も神近も生活費を吸い取られて、貧乏になっていたようです。愛人を働かせて、別の愛人と放蕩するって、そりゃ刺すかも・・・。ちなみに彼女は自分の本には大杉栄を刺した刺し傷を「かすり傷」と書いています。

まぁ、自叙伝を読んでみると、神近は絶対に許しそうにない性格だと、思いました。その事件の夜、「金か!」と大杉は、神近に怒ったようです。ですがその怒りの発端は「大杉の理論は破綻しているって、○○さん(共通の運動仲間)が言ってた」という言葉だったようです。え、そこ?、ちっちゃくない?と読んでいる本に突っ込みをいれてしまいました。

きっと神近は「こんな男を尊敬していたのか」と愕然としたのだろうな。その時に、大杉は「お前はもう他人だ!」と言ったと、そういえば、瀬戸内晴美(せとうち はるみ)の小説 『美は乱調にあり』にも描かれています。

大杉は、その時、かばんから紙幣を取り出して投げつけたようですが、親や親戚、友人から責められ、職も失い、社会的に抹殺された状態の保子の気持ちを考えると、ほんと忍びないです。友人だったら全力で止めてあげたい。

神近は翌朝自首するのですが、大杉自身は命に別状はなかったようです。実際に、大杉も警察に突き出す気はなかったようですが、まぁ、どういうわけか、当時の世の中のせいか、裁判になります。懲役4年が言い渡され、控訴して2年の服役で終わります。世論は神近に同情的だったそうです。私は、彼女を素敵な人物だなと思ったのは、同書でのこの言葉を読んだときでした。

「ただそのときに、私は感情の非常にひろい起伏を経験した。そういう意味ではこの不幸な事件もプラスであった。(中略)自分の感情に澄んだ、嫌いなものは嫌い、好きなものは好き、そして好きなものだけしか自分は求めなかったという意味では、非常に純潔でもあったと考える」

その後、神近は優秀な作家、評論家、翻訳家、ジャーナリストと仕事をこなし、国会議員という道を進みます。市川房枝(いちかわ ふさえ)さんといっしょに行動したことなど、自著には細かに書かれていました。調べきってはいませんが、彼女が出版した本も結構な量でした。ちなみに、これは沖縄に関わる人には知らせておきたいことがあります。彼女は自著のなかで数回、沖縄のことを書いています。

「秋には沖縄の婦人たちが見えました。この人たちは終戦近い頃、絶大な犠牲を払わされ、終戦後もアメリカ軍の基地設営はいよいよ本格的なものになり、母国の日本から完全に断ち切られ、日本内部に何がおこなわれて何が起こっているか全くのツンボ桟敷におかれている人々でした」
第24回「下川凹天の最初の妻 磯部たま子の巻その1」
沖縄公文書館より 1961年 キャラウェイ高等弁務官夫人が池間婦人会へミシンを寄贈

一番の核は運動家、今の言葉でいうとアクティビストだったのでしょう。

「第二次世界大戦が終わったとき、私は日本が民主主義になったことを、人一倍うれしいと思った。私は社会主義を思想として心にもち、その眼によって社会の様相をながめ、婦人解放を考えていたのだった」。

田舎のこじらせ文学少女の感じかもしれませんが、優秀さ、明晰さは群を抜いていたように思います。もっと本を購入したいと思い、いろいろ見ていると、一番高い『神近市子著作集 (第1巻)』は、3万円ほどの値段でした!

ちなみに『大杉栄自叙伝』というのもあるらしく、思想家や運動家の人たちは、日本の戦間期には死と隣り合わせに生きていただけあって、自分のことを書いておきたい気持ちが強かったのかもしれません。そして、当時の文化人は意外と日記を書いていることがわかりました。それを考えると、凹天も自筆年譜を書いていたということは、いつか自叙伝をそのつもりがあったのかなと思います。そして、今回いろいろな自叙伝を読んでいたら、自分も書きたくなってきました。

【主な登場人物の簡単な略歴】

岡本一平(おかもと いっぺい)1886年~1948年
漫画家、作詞家。妻は小説家の岡本かの子。岡本太郎の父親。東京美術学校(現・東京藝術大学)西洋画科に進学。北海道函館市生まれ。卒業後、帝国劇場で舞台芸術の仕事に携わった後、夏目漱石の強い推薦で、1912年に朝日新聞社に入社。漫画記者となり、「漫画漫文」という独自のスタイルを確立し、大正時代にヒットメーカーになる。明治の樂天、大正の一平と称される。東京漫畫會から、漫畫奉公會まで、多くの団体で凹天と関係する。凹天の処女作『ポンチ肖像』の序文を書く。『一平全集』(全15巻・先進社)など大ベストセラーを世に送り出す。口ぐせは、50円もらったら、80円の仕事をしろ。かの子の死後、すぐにお手伝いの八重子と結婚。4子を授かる。漫画家養成の私塾「一平塾」を主宰し、後進を育てた。戦中は、書生のひとり(実は元妻かの子の愛人)の伝手で、岐阜県美濃太田市に疎開。疎開中は、地元民と「漫俳」を作り、慕われる。当時の加茂郡古井町下古井で入浴中、脳溢血で死去。急死のため、葬儀には太郎などの他、漫画家では、宮尾しげお、横山隆一、横井福次郎、和田義三、小野佐世男しか集まれなかった。

池辺鈞(いけべ ひとし)1886年~1969年
漫画家、洋画家。東京市本所區(現・東京都墨田区)生まれ。旧姓は山下。岡本一平の義弟、岡本太郎の叔父にあたり、俳優の池部良は実子。白馬会展に感動し画家を志す。東京美術学校(現・東京藝術大学)卒。翌1911年『朝鮮京城日報社入社、1914年、徳富蘇峰の『國民新聞』に入社し、政治や社会分野などの漫画を担当。東京漫畫會、日本漫畫会会員。1916年、漫画誌『トバエ』が創刊され参加。1917年『漫画』創刊参加。漫画界の第一人者として活躍した。漫画分野の活躍と前後して、油絵分野では、1921年の帝展出品作『大道芸人』より帝展出品を開始、1928年、第9回帝展『少女球戯図』が帝展特選。1938年一水会会員。日展評議員。受賞多数。心不全のため、東京都八王子市の永生病院で死去。<

藤田嗣治(ふじた つぐはる)1886年~1968年
画家、彫刻家、漫画家。東京市牛込區新小川町(現・新宿区新小川町)生まれ。元々は、旧田中藩の士族出身の家柄で、父の嗣章(つぐあきら)は、大學東校(現・東京大学医学部)で医学を学んだ後、軍医として台湾や朝鮮などの外地衛生行政に携り、森鷗外の後任として最高位の陸軍軍医総監にまで昇進した。4人兄弟の末っ子。父の転勤に伴い7歳から11歳まで熊本市で過ごした。1905年、森鴎外の薦めもあって東京美術学校(現・東京藝術大学)西洋画科に入学。鴇田登美子と1912年に結婚するも、渡仏により破綻。1913年、パリのモンパルナスに居を構えた。当時のモンパルナス界隈は町外れの新興地に過ぎず、家賃の安さで芸術家、特に画家が多く暮らしていた。小山内薫の従兄弟にあたる。藤田は、隣の部屋に住んでいて後に「親友」と呼んだアメデオ・モディリアーニやシャイム・スーティンらと知り合う。フランスでは「ツグジ」と呼ばれた。1925年にはフランスからレジオン・ドヌール勲章、ベルギーからレオポルド勲章受賞。1933年帰国。藤田が、子どもができないので、医者に相談したところ、その医者から夜の営みはと聞かれ、3回と答えた。それが、一ヶ月、ノン、一週間、ノン、一日と分かると、医者はツユが薄くてできませんと診断。1949年に日本からフランスへ。その後もいくつもの作品を残している。そのような中で再会を果たしたパブロ・ピカソとの交友は晩年まで続いた。1955年にフランス国籍を取得(その後、日本国籍を抹消)。1957年、フランス政府からレジオン・ドヌール勲章シュバリエ章を贈られた。チューリヒの病院で、ガンのため、死去。

望月桂(もちづき かつら)1887年~1975年
画家、アナキスト、デザイナー、漫画家。長野縣東筑摩郡中川手村塔ノ原(現・安曇野市)に代々庄屋を務めた望月団治の長男として生まれた。旧制松本中学(現・長野県松本深志高等学校)に通うが、卒業前に上京して彫刻家の書生になった。その後、高村光雲と藤島武二に師事し、高村の子息高村光太郎は学友。1906年、東京美術学校(現・東京藝術大学)入学。1910年に選科修了後、旧制野沢中学(現・長野県野沢北高等学校)で美術教師になるが、6年で退職。東京で細々と印刷所を経営。1915年、印刷所を閉鎖して、神田区猿楽町に氷水屋「へちま」を開業。和田久太など、アナキストの青年と知遇を得る。またこの年に、ふく子と結婚。息子は明美(あすよし)。名付け親は、和田。しかし賃料に困って台東区谷中に移転し、「へちま」を一膳飯屋に模様替え。客には若き芸術家、文筆家、辻潤などの民衆運動家が集ったことで有名になったが、多くは貧乏学生で、ツケを踏み倒されることが多くて経営はうまくいかず、結局は店をたたむことになった。1917年に平民美術協会を設立。平民美術宣言をして、商業主義に反対し、「芸術は売り物ではない」と民衆美術運動を展開。1919年12月から1921年頃まで、大杉栄らと美術団体・黒耀会を主宰。黒耀会展として4回の展覧会を開催し、これは民衆美術展の先駆と評価されている。また社会主義プロレタリア芸術運動に共鳴したが、大杉栄との共著に『漫文漫画(1922年)』がある。読売新聞社社長になった正力松太郎の紹介で、1928年、同社に入社。アナキストで名をはせた望月桂から、犀川凡太郎の筆名で漫画を描くよう薦められる。しかし、凹天の『讀賣サンデー漫畫』が1930年に始まり、同社に居づらくなり、1933年フリーに。新愛知等四社連盟で議会漫画を描いたほか、平凡社でも百科辞典の挿絵などを執筆した。戦時下の1938年から1939年までは小野佐世男らと爆笑社で漫画雑誌『バクショー』を主宰。藤田嗣治は、「ハックショかにも携わった。急性気管支そりゃ面白れえや」と真っ先に参加。同級生の池辺鈞の名もある。1945年に疎開のために帰郷して、故郷の信州で農民運動、社会漫画などをも描いた。1946年、東筑摩農民組合連合会で組合長となった。1955年から松本松南高等学校の美術講師になる。松本ことぶき療養所にて、死去。

坂本繁二郎(さかもと はんじろう)1882年~1969年
洋画家。福岡縣久留米市生まれ。同年に同地で生まれた青木繁とは、親友であると同時にライバル関係になった。子どもの頃から絵が上手く「神童」と言われたが、長兄が第三高等学校(現・京都大学)に進学したため、地元で画作に打ち込む。1900年に母校の久留米尋常小學校代用教員となる。1902年上京。北澤樂天主宰の『東京パック』の裏表紙に挿絵を描くなどもした。1912年に文展に描いた『うすれ日』は、夏目漱石が評価したことで知られる。1921年に渡仏。1924年に久留米に戻った後は、終生地元で暮した。代表作は、『水より上る馬』、『放牧三馬』。戦後は洋画界の梅原龍三郎、安井會太郎と並ぶ画伯と呼ばれた。1956年文化勲章受章。自宅で、老衰のため、死去。

川端龍子(かわばた りゅうし) 1885年~1966年
日本画家、俳人。和歌山縣和歌山市生まれ、10歳で家族とともに上京。白馬会、太平洋画会で学ぶ。読売新聞社の『明治三十年画史』の一般募集で入選し、画家のスタート。1913年に渡米し、西洋画を学ぶが、ボストン美術館にて鎌倉期の絵巻の名作「平治物語絵巻」を見て感動したことがきっかけとなり、帰国後、日本画に転向した。大作主義で、大画面の豪放な屏風画を得意とした。数寄屋橋で、投身自殺を図ったところ、北澤樂天に助けられる。凹天とは、『樂天パック』、『東京パック』などで、関わる。お金に困った凹天とたま子に、仕事を紹介した。また、貞明皇后の命で制作を依頼された平福百穂の遺作を完成する仕事も行った。平福百穂とは水魚の交わり。なお貞明皇后は宮古島南静園を訪れ、その時詠んだ和歌が石碑として残されている。大正から昭和戦前の日本画壇において、所属団体を脱退するなど異色の存在。大田区にある龍子記念館では、アトリエと旧宅庭園も公開されている。1959年文化勲章受章。自宅で、老衰のため、死去。

下川貞文(しもかわ さだふみ)1858年~1898年
教員、警察官。肥後國生まれ。幼名は清。1876年、熊本師範学校卒。1881年、巡査として沖縄島に赴任。1882年、首里西小(現・琉球大学教育学部附属小学校)で勤める。月給10円。1884年、那覇から平良小の訓導として宮古島に渡る。貞文は、1888年、「平良校ト当校詰兼務ヲ嘱託」の命を受け、1892年まで、西辺小の訓導として兼任する。同年、幼くして亡くなった兄ふたりに続き、凹天が生まれる。妻はモトで鹿児島県人。同年から死去するまで、上野小訓導も兼任する。その間の1894年には上野小初代校長に兼任として就任もしている。当時の教え子に国仲寛徒、盛島明長、立津春方がいた。なお、教え子が中心となって、死後に石碑が建てられ、祭典が開催された。明治34年9月11日付『琉球新報』によると、「故下川貞文氏の墓碑 故下川貞文氏は熊本県の産にして同県の師範学校を卒業し明治十三年の頃本件に来り初め六ヶ月間は首里に於いて巡査を奉職し次の二ヶ年は同西小學校教員に奉職し十六年至り宮古の小學校轉し爾来同島の子弟を薫陶すること十五ヶ年の久しき孜々怠らざること一日の如く子弟は勿論父兄も大に信用されたりしが去る三十一年十二月不幸にして長逝せり嘗ての氏の薫陶を受けたる立津春方、富盛寛卓友人臼井勝之助、執行生駒の諸氏墓碑を建設し氏生前の功績を永く同島に伝へんと欲し廣く全島の有志に謀りたる處賛成者多く四十餘圓の寄附金立どころにあつまりたれは早速牌を鹿児島に注文し、先月廿日に至り建設一切の工事を竣りたるに依り同日盛大なる祭典を執行したる由なるが當日は炎天に拘はらす参列者頗る多く真宗の僧侶白井氏の讀經あり發起者及ひ有志の祭文演説等あり同島に於て未曾有の祭典なりしと云ふ」。

井上靖(いのうえ やすし)1907年~1991年小説家。
小説家。北海道上川郡旭川町(現・旭川市)に軍医・井上隼雄と八重の長男として生まれる。井上家は静岡県伊豆湯ヶ島(現在の伊豆市)で代々続く医家である。父・隼雄は現在の伊豆市門野原の旧家出身であり井上家の婿である。1908年、父が韓国に従軍したので母の郷里である静岡県伊豆湯ヶ島(現・伊豆市湯ケ島)へ戻る。1912年、両親と離れ湯ヶ島で戸籍上の祖母かのに育てられる。1927年、石川県金沢市の第四高等学校(現・金沢大学)理科に入学。1930年、 第四高等学校理科を卒業。井上泰のペンネームで北陸四県の詩人が拠った誌雑誌『日本海詩人』に投稿、詩作活動に入る。九州帝國大学法文学部英文科へ入学。1932年、九州帝國大学(現・九州大学)中退。京都帝國大学文学部哲学科へ入学。入試がないのがその理由だった。美学を学ぶ。1935年、京都帝國大学教授・足立文太郎の娘ふみと結婚。1936年、京都帝大卒業。『サンデー毎日』の懸賞小説で入選し、それが縁で毎日新聞大阪本社へ入社。学芸部に配属。日中戦争のため召集を受け出征するが、翌年には病気のため除隊され、学芸部へ復帰。出征当時、馬への態度を軍部批判と解釈する本もあるが、ご子息からすれば、単に動物嫌いだったとのこと。1950年に『闘牛』で第22回芥川賞を受賞。翌年、毎日新聞社を退社。以後、創作の執筆と取材講演のため、世界各地へ旅行が続く。小説の映画・ドラマ・舞台化の動きも絶えない。歴史作品を中心に各国語に翻訳され、日本ペンクラブ会長時代には、しばしばノーベル文学賞の候補に。1976年文化勲章受章。他受賞多数。1982年以降、世界平和アピール七人委員会の委員を務める。急性肺炎のため、東京都中央区の国立がんセンターで死去。

磯部辰次郎(いそべ たつじろう)1880年~1944年
出版家。当時の山梨縣甲府市鍛冶町出身。1899年に上京。日本橋區通旅籠町(現・中央区日本橋大伝馬町)の古本屋である一心堂で3年ほど修業する。1902年4月1日、同區蛎殻町1丁目3番地にて、古本と貸本業を営む磯部甲陽堂を設立。次いで、1906年6月に、出版業と販売業専門になる。翌年4月から、端唄、都々逸など通俗書の出版を目指して、出版業一本になる。また、岡本一平や凹天などの処女作を出版するなど、多くの漫画家関係の書籍出版も行う。その他、太田亮著『姓氏家系大辞典』全六巻などの良書も、採算を度外視して手がけた。妹に最初の凹天の妻となったたま子がいる。したがって、凹天の義兄にあたる。妻はまつ子。息子は磯部辰郎。最後の住所は、日本橋區鉄炮町本町4丁目2番地。8月29日に死亡。

近藤浩一郎(こんどう こういちろう)1884年~1962年
水墨画家、漫画家。山梨縣南巨摩郡睦合村(現・南部町)に生まれ。本名は、近藤浩。近藤家は江戸時代に南部宿の本陣を務めた。父の療養のため、幼少時には、当時の静岡県庵原郡岩渕村で過ごし、1902年韮山中学(現・韮山高校)を卒業後、上京する。文芸誌への投稿や俳句など文芸活動に熱中し、1904年には画家を志して洋画家の和田英作の白馬会研究所に所属。同年、東京美術学校西洋画科入学。同級生の影響で水墨画を始める。卒業後は白馬会や文展への出展を行い入選。藤田嗣治らと水墨画や漫画の展覧会を主催している。この頃には結婚もしていたため、1915年、読売新聞社に入社して漫画記者となり、政治漫画や挿絵を担当する。漫画記者としては美術学校時代の同級生の岡本一平と双璧と評され、「一平・浩一路時代」を築く。凹天とは東京漫畫會で同志。大正前期の美術界では珊瑚会を中心に新南画が流行していたが、近藤も1919年に日本美術院第6回展で初入選を果たし、翌年の第七回以降でも入選し、日本画へ転向。1921年には日本美術院(院展)に入会。1922年に洋行。この旅は、漫画家が洋行した嚆矢とされる。1931年、個展開催のため、茨木杉風とともにフランスのパリへ渡る。パリでは小松清の助力を得て個展を開催し、小松を通じて美術批評家であるアンドレ・マルローと親交を結ぶ。アンドレ・マルローの『人間の条件』に登場する蒲画伯は、浩一路がモデル。脳溢血のため、慈恵医大病院で死去。

前川千汎(まえかわ せんぱん)1889年~1960年
版画家、漫画家。京都市で生まれ。本名は重三郎。父親の石田清七が4歳の時に亡くなると、母方の前川姓を名乗る。関西美術院『讀賣新聞』で浅井忠、鹿子木孟郎に洋画を学ぶ。その後、上京して東京パック社に勤め、1918年に新聞社に。そこで、漫画を専門に描き、次第に漫画家として認められる。凹天とは、『樂天パック』や東京漫畫會からの同志。その傍ら、木版画を製作、1919年には第1回日本創作版画協会展に「病める猫」を出品している。その画風は飄逸な持ち味を持ち、生活的な風景画など個性的なものであった。凹天が主宰した『讀賣サンデー漫畫』で『あわてものの熊さん』を描き、これが漫画における代表作となる。川崎市市民ミュージアムでは、2017年の常設展で、凹天、幸内純一、北山清太郎とともにポスターに、日本映画アニメーションの創設者として似顔絵が載った。日展や帝展にも作品を出品しており、「日本版画協会」創立時の会員で、同協会の相談役も務めた。1960年、幽門狭窄の手術を行った後、心臓衰弱により死去。

宮尾 しげを(みやお しげお)1902年~1982年
漫画家、江戸風俗研究家。東京出身。本名は重男。生家は鼈甲細工(べっこうざいく)を生業(なりわい)とする。岡本一平の最初の弟子。1922年、『漫畫太郎』でデビュー。『朝日新聞』に連載した『団子串助漫遊記』がヒットし、それをきっかけに「一平塾」ができる。岡本一平の葬儀に、一番弟子として参列。後年は、江戸風俗研究をしながら、漫画の歴史を研究する。その代表作に『日本の戯画』がある。戦前の「こども漫画」というジャンルの代表的漫画家。凹天の葬式に参列。その時に居合わせたのは、森比呂志、もうひとりの高弟である石川信介(いしかわ しんすけ)。それに横木健二(よこぎ けんじ)、御法川富夫(みのりがわ とみお)の凹天一門。そして、長老格として宮尾しげを。森比呂志の記録によれば、雨の中、宮尾しは、傘をさしながら「凹に墓などあるのかねェ」と述べた。心不全のため、自宅で死去。

幸内純一(こううち じゅんいち)1886年~1970年
漫画家、アニメーション監督。岡山県生まれ。凹天、北山清太郎とならぶ「日本初のアニメーション作家」のひとり。岡山県での足跡は不明。両親と弟、姪と上京する。父の名は、幸内久太郎。荒畑寒村によれば、父の職業はかざり職人の親方。元々、熱心な仏教徒だったが、片山潜と知り合い、社会主義者となる。日本社会党の評議員にも選ばれている。最初は画家を目指しており、水彩画家の三宅克己(みやけ かつみ)、次いで太平洋画会の研究所で学ぶ。そこで、紹介で漫画雑誌『東京パック』(第一次)の同人北澤楽天の門下生として政治漫画を描くようになる。1912年、大杉栄と荒畑寒村が共同発行した思想文芸誌『近代思想』の巻頭挿絵を描く。凹天の処女作『ポンチ肖像』に岡本一平とともに序言を書いている。1917年、小林商會からアニメーション『塙凹内名刀之巻(なまくら刀)』を前川千帆と製作。これは、現存する最古の作品である。続いて、同年には『茶目坊 空気銃の巻』、『塙凹内 かっぱまつり』の2作品を発表するが、小林商會の経営難でアニメーション製作を断念。しかし、『活動之世界』に載った『塙凹内名刀之巻(なまくら刀)』についての評論は、これも本格的なアニメ評として日本最古とされる。1918年に小林商会が経営難で映画製作を断念。1918年、『東京毎夕新聞』に入社し、漫画家に戻る。その後、1923年に「スミカズ映画創作社」を設立すると、『人気の焦点に立てる後藤新平』(1924年スミカズ映画創作社)を皮切りに『ちょん切れ蛇』など10作品を発表。その時の弟子に、大藤信郎がいる。二足のわらじの時代をへて、最終的には政治漫画家として多数の作品を残した。凹天と最後に会ったのは、記録上では、前川千帆の葬式後、直会の時だった。老衰のため、自宅で死去。

神近市子(かみちか いちこ)1888年〜1981年
ジャーナリスト、婦人運動家、作家、翻訳家、評論家。長崎県北松浦郡佐々村(現在の佐々町)で5人兄弟の末っ子として生まれる。漢方医の父を4歳の時に亡くし、医者になりたてだった兄を亡くし、母親と姉妹だけで経済的に苦境に立たされた。「小学校4年で学校を下って、遠縁の《女学者》の主婦のいるところにあずけられることになった」(私の半生/近代生活者・原文ママ)。その後、現在の活水中学校・高等学校で学ぶ。『少女世界』へ投稿していた文学少女だった。明治初期に開港都市で設立されたミッションスクールの一つで、関西より西の西日本では最古。津田女子英学塾卒。在学中に青鞜社に参加し、平塚らいてう、伊藤野枝などと面識がある。卒業後、青森県立女学校で教師をつとめるが、青鞜のメンバーであったことが暴露し、東京に戻らされる。神田女子学校で教職、フレンド女学校校長のセクレタリー、東京日日新聞(現毎日新聞)の記者となった。1916年、金銭援助をしていた愛人の大杉栄が、新しい愛人の伊藤野枝と生活費を無心するようになっていた。神奈川県三浦郡葉山村(現在の葉山町)の日蔭茶屋で大杉を刺傷、殺人未遂で有罪となり一審で懲役4年を宣告されたが、控訴により2年に減刑されて同年服役した。(日蔭茶屋事件)与謝野晶子は事件後、手のひらを返したように挨拶をする彼女を無視しつづけた。
出獄後、鈴木厚と結婚し3人の子供をもうけた。鈴木とは1935年に『婦人文藝』誌を創刊したが、後に離婚した。森鴎外、大隈重信など作家や画家、思想家、政治家たちなど交友範囲が深く広かった。

【2021/11/26 現在】



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