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2018年12月25日

第214回 「野原越東井戸改修の碑」



えー、どうでもいいことではありますが、今日は平成最後のクリスマスです(単に平成最後と云ってみたかっただけ)。クリスマスだからと云って世間に媚びたりしません。いつも通りに粛々と淡々と、いつもの「ん to ん」でございます。そして相も変わらず地味で地道な井戸にまつわる石碑シリーズです。
今回のタイトルは珍しく、意匠を汲んでのオリジナルとなってます。理由は単に、石碑に刻まれている文言が、それっぽいタイトルにしづらかったからです。そして単純に、第208回「泉水 野原後西支部井戸」の続き、続編だからです。なのでまずは第208回を読んでいただいてから、こちらに進まれた方が導入としてはよいかと。

ええと。先に謝っておきます。
今回の石碑はご覧の通り、時々ある自立してない系です。そしてこれで内容は、ほぼほぼおしまいです。
この細く小さな石碑には「大正十二年三月修」と刻まれています。折れた根元に近い部分にあたる、最後の文字が「修」なので、たぶん「改修」いや、「修繕」ということであろうと推察しました。
井戸の場所は城辺線を利用する島の人たちが、漠然と思い浮かべる野原越。いわゆる中休み交差点のあたり。交差点から東に少し奥へ入った集落の中です。先の208回をおさらいすると、野原越集落は東西(民俗方位)に長く、このあたりは東(地図的にはどちらかと云えば南北に長く、ここは南に位置する)に位置するので、東支部(1班)の井戸ということになります。とはいえ、西支部のように石碑として明記されてはいませんので、その点は残念です。

肝心の井戸本体の方ですが、これまでこの井戸の前はいくどとなく通っている道の脇にあったのに、まったく気づきませんでした。どうやらタイミングが悪く、いつも草木が繁茂していて気付く事がなかったようです。たまたま突発で井戸の所在調査をした時は、井戸願いでも行われたあとだったようで、綺麗にまわりの草木が刈り取られ、掘り抜き井戸がその姿を現していました。
その井戸の口を覆い、分厚い蓋になっている岩には、がっちりガジュマルが3本くらいしがみついていました。おそらく井戸まわりの伐採とともに、根の部分を除いて幹や枝は限界まで切り取られているのですが、禍々しいほどに岩の蓋に喰らいついたまま生き残っています。さすがカジュマルです。溢れんばかりのすさまじい生命力を見せつけてくれます。

そんな井戸の奥に拝所が作られ、折れた石碑と香炉が安置されています。線香やガラス製の杯(おそらく酒を注ぐ)が供えられるのはよく見る光景なのですが、紙銭(カビジン)らしきものが供えられているのは珍しい気がします。勝手な憶測ですが、香炉の脇に古びた賽銭がたくさん積まれているで、この井戸に拝むと商売繁盛(お金からのインスピレーション)につながったとかなとかというよな逸話がもしかしたらあるのかもしれません。

さて、こうなると残る2班。中支部の井戸も気になるとこなのですが、あたりはつけていますが、残念ながらまだ調査を完了していません(碑があれば取り上げられますが、なかった場合はどこかでこそっと報告します)。
この野原越近郊には、こうした未調査の井戸がまだあります。そんなひとつが盛加井(公園のある盛加越ではない)てす。
資料によると先の大戦で軍が既存の井戸を改修したらしいとのこと。こちらもあたりはつけているものの、未だ調査は完了していません。

【左 袖山東井戸。畑の中にあるので、シーズンによってはキビに埋もれている】 【右 宮古島防禦配備図より。井印が袖山東井戸と目される。隣りにある20H×2と、ロに・の印は砲台のことで、現在の袖山浄水場に位置する】

尚、この近くにある袖山東井戸は、キビ畑の中にある井戸で、軍の作井隊によって掘られたものではないかと睨んでいます。というのも、水源の乏しい宮古に軍を展開するにあたり、井戸掘りの専門部隊である野戦作井隊を投入しており、師団直轄(野原岳中心)の工兵隊隷下に、野戦作井第十六中隊。東地区(主に城辺方面、60旅団隷下)に、野戦作井第九中隊。南地区(主に下地・上野方面。歩兵第三聯隊隷下)に、野戦作井第八中隊が配置されています。
しかし、野戦作井隊は直接の戦闘部隊でもなく、工兵としても砲台や飛行場のように判りやすいものを構築している訳ではない上に、部隊編成や主な生息地といった部隊に関する資料がなく、どれだけ井戸を掘ったのかすらもはっきり判っていません。しかし、この袖山東井戸の周辺には集落がないのにも関わらず、立派な掘り抜き井戸があります。また、米軍の空中写真によると、部隊が生息しているとみられる痕跡もあり、作井隊の掘った井戸なのではないかと見られています。謎の野戦作井隊についても、いつかその全貌を解明してみたいものです。  続きを読む



2018年12月21日

第8回 「下川凹天の弟子 森比呂志の巻 その6」



毎度、おなじみ宮国です。
下川凹天の弟子である森比呂志(もり ひろし)の回は、ようやく今回で最終回となります。戦中から森比呂志が亡くなる1999年までを、ざっくりとまとめてみました。初老の凹天と駆け出しの漫画青年である森比呂志が、それぞれの戦後を駆け抜けた様子が分かります。
その間、宮古も随分と変わりました。
戦後、日本の兵隊のほとんどは日本本土へ復員してゆきました。当時、宮古に駐留していた兵数はこんな感じです。
「宮古島には納見敏朗中将を長とする先島集団傘下に第28師団(兵員約16,000名)のほか、多賀哲四郎少将が率いる独立混成第59旅団(兵員3,360名)と安藤忠一郎少将指揮下の独立混成第60旅団(兵員3,320名)、第32軍直轄部隊(兵員6,700名)、それに村上重二大佐が率いる海軍部隊(兵員1,714名)の計約27,000名が守備に任じていた」大田昌秀編著『写真記録 これが沖縄戦だ』(琉球新報社 1977年 P.230-233)
宮古島全体を要塞化させることで、本土決戦までの時間稼ぎという側面があったようです。

【南静園の職員住宅の壁。機銃掃射の跡が今も残っています】

私が直接聞いたのは、西辺のおばあちゃんの話です。
歩いて野原(のばる)まで行って、穴ほったり、飛行場を作ったよ、ということでした。たぶん、陣地壕、ピンフ嶺野戦重火器砲壕(編注1)のことだと思います。壕は琉球石灰岩を掘り抜いた奥行き50メートル程の壕で、連合軍の上陸が予想される白川浜(高野漁港のある浜)へ、南方の与那浜崎砲台とともに挟撃するために構築された砲台です。
編注1:現在、戦跡の呼称は、『パナタガー嶺の海軍砲台・トーチカ』と改められました。

ちなみに、20年ほど前に、記者としての取材している時、あるおばぁがその時の様子を話してくれました。途中でおじぃが家に帰ってきて「戦争の話はやめろ!」と怒鳴ったので詳しく聞くことができませんでした。島では、このような不文律があって、このトピックについてはなかなか直接聞く機会は少なかったように思います(編注2)
編注2:現在、宮古島市教育委員会では、平成29年度から3か年計画で、「宮古島市内戦争遺跡文武調査」を行っており、平成29年に城辺・上野地区、平成30年度に下地・伊良部地区、平成31年度に平良地区の調査を行っています。

1972年までは米国統治下なので、沖縄県在住者は、日本への渡航にもいちいちパスポートならぬ日本渡航証明書がいる時代でした。私の母は戦中生まれなのですが、20代は沖縄本島で学び働いていたのでアメリカ文化どっぷりだったようです。子どもの私に「あいすわーらー」と言って、冷たい水を飲ませてくれたものです。

島には、ずっと戦前の日本と新しいアメリカが同居してたのだと思います。
勿論、通底しているのは島の風土ですが。戦前の遺物のように、私たちは小学生の時、旭日旗に似た旗を振って「校歌遊戯」(編注3)をしました。中学生になると、アメリカ的に布地はヤードで買っていました。
編注3:島の小学校では欠かすことの出来ない、校歌に合わせて旗を手に全校生徒が踊るという宮古独自の文化(新聞記事動画サンプル)。

18歳で島を出てアメリカにわたった私には、戦前日本よりアメリカのフランクさの方が近しいです。日本で同調圧力を強いられると、どうしようもなく窮屈。ですので、日本社会的な「暗黙の了解」が私だけに伝わっていないことも多く、それをカルチャーギャップという言葉でくくっていいのかどうかは、日々悩ましいです。

さてさて、話を戻しましょう。
人も、漫画の世界も、時代背景が大きく左右したのだと思います。
師である凹天はふたつの戦争を生き抜き、弟子の森比呂志はひとつの戦争から昭和の民主主義へ向かいました。漫画界の様相も大きく変わっていきます。森比呂志は、幼くして亡くなった凹天の息子と同じ年頃でした。ふたりは親子ほどの年齢差で、長きにわたって師弟関係が結ばれていました。

1914年、第一次世界大戦の時。凹天、22歳。もちろん、森比呂志はまだ生まれていません。ですが、森比呂志が22歳の時に奇しくも太平洋戦争が始まっています。
森比呂志にとって凹天は、戦争をくぐり抜けながら漫画を描くことをやめなかった、漫画においては不屈の先輩でもありました。

凹天は85歳で亡くなり、森比呂志は80歳で亡くなります。
当時の男性の平均寿命は、凹天が亡くなった1973年が70.70歳、森比呂志が亡くなった1999年は77.10歳ですから、ふたりとも長生きしたほうだと言えます。
一転、遠く離れた沖縄はどうだったのでしょうか?ご存知の通り、戦後から1972年まで米国の占領下となります。

もちろん、凹天は宮古島に戻ることもなく、日本復帰した翌年の1973年に亡くなったのでした。凹天の葬式にかけつけた森比呂志は、50代半ば。終戦当時のベテラン漫画家凹天と同じ年頃でした。
凹天は戦争一色の仕事がなくなり再スタート。
森比呂志も同じ年の頃に凹天という師を亡くして、こちらもまた再スタートだったのかもしれません。

 こんにちは。一番座の片岡慎泰です。

 凹天が妻なみをと宮城県に疎開していた頃、森比呂志は、「日本漫畫報公曾」(1943年~1945年)の仕事に追われたまま、川崎に留まり続けました。日本漫畫報公曾は、国策でできただけのことはあり、戦地への慰問、徴兵される兵士の似顔絵描き、戦局の広告物は、きちんと国からお金が出たため、それなりに暮らせたことが大きな要因だったのではないでしょうか。

 森比呂志が、慰問に出かけたことは前回述べました。その他、森比呂志にとって大きな出来事は、時期が前後しますが、1943年夏に川崎一の小美屋デパート(現・川崎DICE)で「大東亜戦争完遂漫画展」を開催したことです。

 画題のテーマは森比呂志がすべて受けもちました。すでに、町内会が協力し、金属回収金属回収が寺の鐘まで、戦争協力で供出されていました。それをいっそう盛り上げるために、母親の鍋釜や、子どもは磁石で道に落ちている古釘を拾おうと、アイディアを出して、面白く市民に訴えようとしたのです。しかしあのご時勢、漫画の展示品はなかなか集まりません。そこで、北澤楽天(きたざわ らくてん)と岡本一平(おかもと いっぺい)の自宅にうかがい、漫画を出してくれるようお願いに上がったわけです。すると、ふたりは快く展示品を出してくれます。それどころか、大御所の北澤楽天並びに稀代のヒーロー岡本一平という御本尊そのものがふたりとも登場。展示会は大盛況でした。

【川崎区小美屋デパート前の様子(1954年1月1日)】
 しかし、戦局は悪くなるばかり。川崎遊郭の横丁にあった家は、重要施設や交通機関への延焼を防ぐために、建物強制疎開で取り壊されます。ちなみに、岡本一平の妻、かの子の実家も建物強制疎開で、破壊の憂き目に。そこで、森比呂志は、多摩川を超えて東京側にあった空き家を借ります。しかし、1945年、そこもアメリカ軍の爆撃で、あっという間に焼けてしまいます。燃え盛る火の中を家族を抱えて森比呂志は、多摩川の河川敷に逃げます。いくつか焼け残りの家屋のあてがあったのですが、すべて徒労に終わりました。川崎も、他の工業地帯と同様、一面の焼け野原。森比呂志一家は、東横線の妙蓮寺にあった、妻の兄の家に。現段階の調査では分かりませんが、ここで森比呂志は戦争の終わりを知ったようです。

 話は飛びますが、沖縄県は、6月23日を戦争の終わりとして「慰霊の日」と定め、今でも祝日になっています。アメリカ軍との組織的戦闘が終結した日になります。しかし、宮古を始めとする先島諸島の組織的戦闘が日本本土と同じ8月15日。その日まで島外からの補給路もなく、島人も兵士も栄養失調で餓死、マラリアで病死、と追い詰められました。亡くなった人数は、今もはっきりとわかっていません。

 森比呂志は、終戦直後の9月に、川崎から平塚に移りました。というのも、当時、湘南地方の平塚、そして茅ヶ崎は、結核の療養地でした。平塚には、1926年に杏雲堂医院の結核サナトリウムがありました。また、茅ヶ崎には、「東洋一」といわれた南湖院という結核サナトリウムという施設がありました。現在でも、杏雲堂医院は杏雲堂病院として、千代田区駿河台で経営を続けています。また、南湖院のあった場所は、南湖院記念太陽の郷庭園として、一般にも開放されており、その旧第一病室が登録無形文化財として、公開されています。

【左 現在の杏雲堂医院(千代田区神田駿河台)】 【右 国指定登録有形文化財「旧南湖院第一病舎」(茅ヶ崎市)】

 結核が、当時伝染病として、衛生学的に大きな対策が取られていたことは、この連載の第1回で述べました。その病院の周辺には、転地療養する一戸建ての家が無数にありました。そこに、ある人の紹介で、森比呂志は、家を買ったのです。森比呂志によれば、「東京へ出ていくのに2時間もかかる田舎なので、当座を過ごすつもりだった」とのこと。なお、森比呂志やその家族が結核だったという記述は特に見当たりません。

 さて、第二次世界大戦後、日本における漫画界は、他の業界と同じようにカオスとかいうしかない状況でした。

 終戦直後は、漫画家という職業は、他のほとんどと同じく、生活が苦しかったようです。
 次から次へと漫画家のグループが生まれ、雑誌も出されますが、2~3号で廃刊の憂き目に。いわゆる出版の自由化にともない大衆向け風俗物を主とした「カストリ雑誌」と同じ状況だったようです。代表的なグループは、「新漫畫派集団」から名を変えた「漫画集団」、森比呂志が属した「漫画自由人」、「漫画ペンクラブ」が挙げられます。

 「新漫畫派集団」から「新」と「派」の字をとったのは、漫画家が大同団結して「日本漫畫報公曾」を作って、お互い親しくなっていたので、北澤楽天や岡本一平など漫画家の第一世代を迎えるよりも、新漫畫派集団を一度解体して、若き漫画家集団として、平等にスタートしようといういことだったと横山隆一が回顧しています。戦後民主主義の息吹を感じさせる象徴的な出来事のひとつではないでしょうか。

 しかし、すぐに状況は漫画家にとって好転します。
 劇的に変わったことは、共産党の公然活動と昭和天皇を自由に表現できるようになったこと。漫画の世界も、戦前ひどく弾圧されたプロレタリア漫画家の嵐が吹き荒れます。こうしたイデオロギッシュな動きは、おびただしい出版物を生み出しました。まつやまふみお著『赤白黒 -風刺漫画の四十四年』(造形社、1969年)によると、「漫画、童画、装幀、さし絵、絵本、ポスター、カット等、こまごまとした印刷絵画の注文が殺到して、徹夜をすることがしばしばであった」と記しています。

 森比呂志は、プロレタリア漫画家と主義主張は異なれど、一緒に活動していた時期もあっただけに、漫画家という職業が、比較的すぐに仕事にありつける状況にあったことは想像に難くありません。家族を抱えた森比呂志にとって、それはきわめて重要なことだったでしょう。
 
 1950年3月15日付『読売新聞』には、「漫画界展望」と題された特集が組まれました。
 政治漫画の分野では、近藤日出造(こんどう ひでぞう)、清水昆(しみず こん)が、大新聞をバックに活躍しました。また、ひょっこり終戦直後に疎開先から帰っていた、われらが凹天の名も。

【近藤日出造の著作や編集した本の数々】

 家庭漫画も流行ました。
 代表的な漫画家は、『サザエさん』の長谷川町子(はせがわ まちこ)、杉浦幸雄(すぎうら ゆきお)、秋好馨(あきよし かおる)など。
こども漫画の分野では、岡本一平がこのジャンルを開き、そのスタイルを学んだ宮尾しげを(みやお しげお)、戦前から一世を風靡(ふうび)した『のらくろ』の田河水泡(たがわ すいほう)など。
 しかし、漫画のジャンルでは、社会風俗漫画が一番読者の心をとらえました。
ここを押さえていたのは、近藤日出造、横山隆一(よこやま りゅういち)、清水昆、杉浦幸雄(すぎうら ゆきお)などが属した「漫画集団」でした。

 忘れてならないのは、この時代に「赤本」(名称の起源は明治期に縁日で売られた本で、1891年にバイオリンが入ってからは、添田亞蝉坊(そえだ あせんぼう)など演歌師が売り上げに一役買う)と呼ばれた少年向け描き下ろし漫画が、手塚治虫(てづか おさむ)の『新寳島』(育英出版、1947年)をきっかけに、一大ブームになります。森比呂志は、このジャンルにもチャレンジし、『少年猿飛佐助』(世界社、1948年)などの作品が残っています。

 「当座を過ごす」つもりだった平塚市での暮らしが、森比呂志の終の棲家となったのには、戸川貞雄(とがわ さだお)の存在が大きかったようです。かつて文学少年だった森比呂志は、平塚市に移ると、すぐに戸川貞雄に会いに出かけます。戸川貞雄は、戦前のベストセラー作家でした。たびたび戸川貞雄の家を訪ねるうちに、世話好きで人徳のすぐれた人となりに感銘して、森比呂志は私淑(ししゅく)するようになります。

 戸川貞雄が、1955年、家族の反対を押し切って平塚市の市長選挙に出た時には、地方の市長選の応援演説にしては、あまりに豪華な顔ぶれが集まります。戸川貞雄がもっていた戦前の人脈が生きていたのでした。政界からは河野一郎(こうの いちろう)、河野謙三(こうの けんぞう)、三木武夫(みき たけお)、文化芸能界からは、江戸川亂歩(えどがわ らんぽ)、林房雄(はやし ふさお)、霧島昇(きりしま のぼる)、山岡荘八(やまおか そうはち)、野添ひとみ(のぞえ ひとみ)、八代目林家正蔵(はやしや しょうぞう)、木村義雄(きむら よしお)、五代目寶井馬琴(たからい ばきん)、田辺一鶴(たなべ いっかく)など。

【宮崎県高鍋町の広報誌から生まれた『泰平一家』

 森比呂志も応援演説会に登壇するはめに。しかも「ラジオ東京テレビ(現・TBSテレビ)」ニュースキャスターで有名な田英夫(でん ひでお)の次。まだ、テレビが普及していなかったためか、田英夫の時に「会場はざわつかなかった。私が出ると爆笑が起る。それは人気や讃仰(さんごう)ではない。私はトンチンカンなことを言うし、地元の者だから聴衆は気安くなって、ああ今度は彼奴か、と気を弛んでの近親感からであった」と森比呂志は記しています。森比呂志は、漫画という職業ともに自分の居場所を平塚市に見つけたことが、ここからもうかがえます。

 森比呂志は、さまざまなつてを頼って漫画や漫画漫文を描き続けました。その代表例としては、高鍋町の町内誌や、『豫防時報』、『経営コンサルト』などが挙げられます。

 漫画家の世代交代も起こり、1964年には漫画家の生活を安定させようと、近藤日出三や横山隆一、杉浦幸雄が中心となって、「漫画集団」が「日本漫画家協会」と発展解消されます。戦後民主主義の申し子ともいえるこの協会には、理事長職はあっても、会長を置きませんでした。事務局は、小島功(こじま いさお)の家。森比呂志は名誉会員という立場。われらが凹天も名誉会員でした。

比呂志のいた平塚市と凹天のいた野田市は遠く、時に同じ雑誌に漫画を描くことはあっても、直に対面するような交流はあまりできなくなっていたようです。凹天は当時、野田市で「野田まんがクラブ」を主宰。「彗星会」の時の番頭格、山口豊専(やまぐち ほうせん)や弟子の石川進介(いしかわ しんすけ)とともに、もろ・ただし(もろ ただし)など後進の指導にあたっていました。

【野田まんがクラブ新年会(1965年) 野田市郷土博物館・市民会館 資料データベースより】

それでも第1回で述べたように、1973年に凹天が亡くなると、葬儀に駆けつけます。
森比呂志が亡くなったのは、1999年1月10日。
激動の時代を生き切ったひとりの漫画家としては、大往生といっていいのではないでしょうか。
再び、裏座から宮国です。

さて、戦後の宮古はどうだったのでしょうか?。
『宮古島市史 第一巻 通史編 みやこの歴史』(宮古島市史編さん委員会、2012)のp.375には、面白い描写があります。

『宮古ルネッサンス -郷土回帰- 
「宮古ルネッサンスの意味は、宮古住民が過去の中央集権的国家主義体制から開放され、自己意識や地域志向意識の高揚に後押しされて各分野の可能性に自由に挑戦したことを指している。戦争が終わって1940年代の後半は琉球の地位を含め将来像は不透明であったが、物的不自由の中にも人びとは比較的のびのびしていた。その典型を宮古における新聞発刊状況で見ることができる」』


お腹はすいているけど、新しい島の息吹を感じていたのでしょう。外からの視線も増えていきます。本土復帰の翌年、岡本太郎が著した『沖縄文化論―忘れられた日本 』(中公文庫、1972年)という本があります。賛否両論ですが、毎日出版文化賞受賞した名著には、p.46に以下のように書かれています。

『ここには大地にへばりついたようなものしかない。 首里の王朝を中心とする士族の文化は、厳重な階級制によってまもられ、庶民化されなかった。 沖縄本島でさえ。 まして遠く荒波に隔てられ、単に搾取の対象にすぎなかった離島では、百姓や庶民の文化はほとんど発生のままの素朴な段階にとどまっていた。こういう文化の底辺のような感動は見失われやすいが、重要な問題を含んでいる』

こういう「離島への眼差し」をもつ意見も出始めた。
そして、より深く琉球弧の心性を岡本太郎なりに言語化している(同書p.149)。

『すでに私はこの沖縄論のはじめに、その素肌の美しさ、さらさらとした凝滞なく流れる悠久の時間について言った。また、原始宗教の項ではたとえようのない清浄感を報告した。このような生活感情を土台とした文化は、逆にひどく無邪気である。悔いとか恨みとの、しめっぽい影はない。素朴のようだが、鋭くたくましい。切実な生命力を端的に伝えている。物に対する執念、物として永らえようなんて考えはない。考えようがなかったのだ。サバサバした人生観である。人々は久しく、厳しい搾取と貧困にたえながら、明朗さをもちつづけた。こだわらない。だが、投げやりでない。呆れるほど勤勉に、せっせと働く。根こそぎされたらまた作りはじめる』

そこから、谷川健一がさらに宮古を深掘りします。1983年出版の『常世論―日本人の魂のゆくえ』(平凡社選書、1989年)のp.122にはこう書かれています。

『「ニスマ・シラス」(神の住むところ)「ミャーク」(現世)と「パイヌスマ」(死霊の住む所)と三つの世界の関係について、宮古の出身の元永清の説がある』

と。宮古の精神性まで踏み込んでいる。同書には、たくさんのフィールドワークの跡があり、さまざまな交流をへて本書が生み出されたことを物語っている。谷川さんが各地の歴史が掘り起こしながら、今と昔を行ったり来たりして、最終的には宮古という迷路にはまり込んだ気がしてなりません。

最期まで宮古にこだわった谷川さんを偲んで、不定期ではありますが、大岡山で読書会をしています。ご興味のある方は、コチラまでぜひご連絡ください。
-つづく- 
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Posted by atalas at 12:00Comments(0)Ecce HECO.(エッケヘコ)

2018年12月18日

第213回 「開鑿紀念碑(大嶺)」



毎度おなじみ、島の石碑を巡る旅「んなま to んきゃーん」でございます。相も変わらず地味に地道な井戸にまつわる石碑シリーズを続けています。最近はホントにマニアック過ぎるので、誰もついて来れない系などとも云われています。でも、そこはそれ。オトナの自由研究ですから、ずいずいずいっと続けちゃいます。
ということで、今回は上野地区は宮国の大嶺にある井戸の脇に建つ「開鑿紀念碑」です。のっけからぶっちゃけますと、井戸の正式な名称が判りません。俗称としては「東の井戸(アガズヌカー)」などと呼ばれているようで、新里の東青原との字境に近い、小丘陵の端に位置しています(最近、地名の説明が長い)。
大字でいう宮国には中心となる宮国の他に、上野支所(ヤーバル・側嶺)に近い北の名嘉山(テマカ)、下地の嘉手苅(入江)に近い西の山根、新里に近い東の素原(ソバリ)といった集落があります。大嶺の位置はちょうど宮国と高田(新里の北部。上野小中学校付近)との間、名嘉山と素原に挟まれた周辺ので国道390号線沿いに位置してます。
大嶺の集落は、さらにオホミネ(大嶺)、イリオホミネ(西大嶺)、アガリオホミ子(東大嶺)などの里に細分化されています。東の井戸(アガズヌカー)は井戸名に方位が使われていますが、所在はなぜか大嶺にあります。と、いうのもこのオオミネに対してイリもアガリも西側に位置しているからです(方位的にはイリが北、アガリが南に位置している)。そんな不思議な位置関係もあいまって、井戸は大嶺全体から見ると東端にあるのです。

井戸の周辺にはあまり人家はなく、北東側(新里東青原方面)は一段低くなった小さな丘の片隅にあります。井戸は浅い窪地に掘られており、降り井を掘り抜き型に改修したのような雰囲気があります(正確なところは不明)。それゆえに使うもののなくなった現在は、窪地ごと緑の木々に周辺は覆われ、さらに戦後になって井戸の前にお墓が建てられたことて、そこに井戸があることなど、外界からはまったく察知することが出来ない、なんとも虐げられた環境にあります。

そもそもが開鑿(かいさく)記念なので、改築ではなく井戸が掘られて完成したことを記念して建てられていますので(“鑿”はノミのこと)、井戸の完成は「昭和四年五月十五日建設」と碑の側面に記されています。西暦に直すと1929年ですから、今から90年近く前のことになります。
また、発起者が9名、寄付者が45名(金額は異なる)とともに開鑿者1名の名前が碑の側面と背面に刻まれており、今の集落の戸数とは異なりり、相当数の住人が居たことが判ります。
昭和初期は島の各地、井戸が掘られた時代でもあるのですが、この界隈(宮国新里)は割と早い時期に開鑿された井戸が多いので、大嶺もその時流に乗って掘られたように感じます(井戸内を覗くと、かすかに水面が見て取れ、なかなかに深い事も判った)。

そういえば第146回「水道落成記念碑(宮国)」で、1956年に宮国の簡易水道の落成を記念して建てられた石碑に、大嶺の集落会長の名があったことを思い出しました(尚、1958年に上野村営に移管され、さらに1965年に宮古島上水道組合が発足する)。いわゆる“隣り村”なので簡易水道の恩恵を受けていたとしても不思議ではありませんが、「東の井戸」から見ればこちらの水源は遥かに南方の地にある井戸(しかも宮国の崖下)。ひとつ所にまとまっている宮国とは異なり、大嶺の集落はいくつかにばらけた、核の小さな散村であり、東の井戸の出資者の数を考えると、大嶺の全戸に給水をするのはかなり大変なことだったのではないだろうかと。それを思うと、簡易水道が敷設道された頃でも、もしかすると東の井戸は使われていたかもしれません。

【左 東の井戸の内部。フラッシュに煌く小さな点が水面】 【右 井戸を囲う窪地の斜面。ガレ場のように石がゴロゴロしている】

今回、大嶺集落に関する資料が少なく、井戸に至ってはまったく資料がないままに進めましたが、人々の記憶から忘却されそうな立地と、90年の時を経ても未だ“読める”碑が残っているうちに、紹介しておきたかったという点だけで構成をしましたが、最後にひとつ。

この井戸が位置する小丘陵一帯地形は、琉球石灰岩の露頭を中心に形成されているようで、丘陵からは南東方向の眺望が開けています。また、丘陵内側にクレバスのような地裂があり、バダや鍾乳穴が見られます(ただし、現在は車や農業系のゴミが大量に捨てられている)。丘陵東側の路頭部にはトーチカのような監視壕(銃眼のような除き窓のある小さな壕)があります。これは「宮古島市内戦争遺跡分布調査報告書(1)」(2017年)によると、この陣地には歩兵第3聯隊戦第1大隊第7中隊1小隊と第2機関銃中隊1小隊が配置されていたようです(戦中の防禦配備の資料が残っているのも凄い)。
この陣地は宮古島の南部海岸に上陸した敵上陸部隊を、島の中枢である野原岳の司令部に近づけさせないための前衛陣地だったと考えられます。後方に位置する“宮古富士”と呼ばれた上野公民館の山は、第2大隊の本部が配置されており、厚い防禦線を構築していた様子が判ります。
このトーチカ監視壕以外にも、周辺には一人壕(蛸壺)のような窪地が散見される他、クレバスや鍾乳穴は兵隊が隠れるのにも都合がよい地形です。これに加えてすぐそばに東の井戸があるので兵隊が生息するには、もってこいの場所だったのではないかと考えられるので、確実にここには部隊の痕跡がもっとあるに違いないと夢想するのでした。


【周辺石碑】
第158回 「井戸鑿堀記念碑(ハイテマカ)」
第176回 「大昭井戸開掘紀念碑」
第210回 「長立井戸開掘紀念碑」  続きを読む



2018年12月14日

37冊目 「トロイメライ」



またまた登場しました!。お久しぶりです!。
半年に一度あらわれる、阿倍ナナメでございます。
ちょうど1年前。池上永一の『テンペスト』をご紹介させていただきました。相も変わらず、この阿部ナナメ。琉球王国の世界に惹かれておりまして、今回も池上永一の作品をチョイス。
『トロイメライ』をご紹介させていただきます。
こちら、一見、『テンペスト』とは関連のなさそうなタイトルなのですが、実は池上永一が描く琉球サーガ(散文物語)三部作と呼ばれるうちのひとつでして、舞台は『テンペスト』と同じ頃。なので多少はテンペストとリンクしたりしてます。

ここで少し、物語の舞台となった時代のおさらい。
ペリーの黒船来航、新撰組の設置、大政奉還、琉球処分といわゆる幕末のあたりです。
『テンペスト』では、首里城王宮の華やかな色鮮やかな世界が描かれておりましたが、『トロイメライ』では、城下の庶民たちの生活が描かれてます。

門中墓を盗まれた!。借金を踏み倒された!。親に売られた!。人を騙した!。門中墓には入れてやらない!。守礼之邦と呼ばれる琉球が守礼どころではない騒ぎです。

庶民の大騒ぎに申口方(もうしくちかた・財務以外を取り締まる役所)の平等所(ひらじょ・裁判所と警察の役割)が出てきたり、冊封使が絡み政務の長である三司官の属する評定所がでてきたり、薩摩や中国の間でドタバタしている王宮もてんやわんやです。

その頃の琉球は貧乏で厳しい生活のはずなのに、たくましい限りに楽しんでる。
おおらかに。
生も死も全てを包み、悲しみも喜びも受け入れて、たくましく。
なんて、しなやかなんだ。
役人のワガママを聞いてくれる料亭があって、役人がくすねてきたピーナッツと古酒で王だけが味わうことのできる高級料理のジーマミドーフを作る。役人だけで食すのではなく、誘い合って分けあって食べる。食通役人は心が広い(笑)。
生活苦で子どもを奉公に出す親。生きていくのに奉公と言う名の身売りをする子どもたち。理解しているものの、辛い未来。それでも前を向いて歩いていく。
人を恨まず環境のせいにせず、ただ前を向く。前を向かせるために振る舞われるフーチバージューシー。
野辺送りでは、サーターアンダギー、カマボコ、餅、三枚肉、昆布巻き、卵焼きが備えられて死者からのお裾分けだと、みんなで食べる。

どんなときでも分けあって。
あぁ。
沖縄だ。正しく、沖縄だ。

『テンペスト』では、「アララガマ」だと表現したけど、『トロイメライ』はなんだろ・・・。
「かなしゃがま」、かな。
人は愛しい。偉くなくても、お金がなくても、間違っても、正しくても。
まぁ、何が正しくて間違ってるかなんて、わからないけど。愛しい生を生きている。
生きるって、しなやかでないとな~っと漫然と思う。
根が張ってないと、しなやかになんて生れない。しなやかだから折れずに、踏ん張れる。
あれ?、「かなしゃがま」は、しなやか?ワケわからなくなってきた(笑)。

創作なんだけど、絶対あっただろうなという世界に虜にされてます。
やっぱり琉球王国が好きだ。
近いうちに、もうひとつも読破してやるぞとは心の内に・・・。

〔書籍データ〕
トロイメライ
著者 池上永一
発行 角川書店
発行日 2013年10月25日
ISBN 978-4-04-101039-6

◆阿部ナナメ紹介作品
 15冊目 「てぃんぬに 天の根 島に生きて」
 21冊目 「ぼくの沖縄〈復帰後〉史」
 27冊目 「テンペスト」
 33冊目 「カフーを待ちわびて」

◆池上永一作品の紹介
 27冊目 「テンペスト」
 28冊目 「ヒストリア」  


Posted by atalas at 12:00Comments(0)島の本棚

2018年12月11日

第212回 「阿旦岳」



えー、今週もはじまりました「んなま to んきゃーん」。毎度おなじみ、地味で地道な井戸にまつわる石碑シリーズでございます(結局、井戸じゃない回は先週一回だけで、ちっとも久しぶり感はない)。今回ご紹介するのは「阿旦岳」。読みは、「あだんだき」(岳は慣習的にに宮古読みでは、たけと発音しているので)。植物のアダンと同じ音。漢字では「阿檀」と書くので、どことなく難しい「檀」の字を簡略化して「旦」にしたような気もします(漢字の部首にも旦に似ている、且が使われているから?)。ということは、もしかすると、ここはアダンの茂る山だったのかもしれませんね。

さて、こちらの出落ち画像でお気づきと思いますが、今回、正確には今回は石碑ではなく、コンクリート製の釣瓶の支柱です。なんとな~く石碑っぽいからその辺は別にいいですよね(ねじ込む強引さ)。
こちらの井戸があるのは大字は西仲宗根。南北(民俗方位では東西)に長い、添道(そえどう)地区の中ほどにある、阿旦岳という集落です(そんな集落があるのは今回初めて知った)。添道は字面にもヒントがありますが、当時の西仲宗根村の添村でした。字域が東仲宗根ほど大きくなかったので、添村の分割の際(1908年の特別町村制こと、島嶼町村制によって平良村が生まれ、旧慣の村が字に置き換えられた際に、添村が独立した字に改められた。平良の東仲宗根添。城辺の西里添、下里添。伊良部の池間添、前里添が該当する)、西仲宗根は変更されなかったようなのです(おそらく字のすぐ裏手に西辺の西原が迫っていたので土地を広げられなかった模様。尚、この西辺はニス≒北の辺≒方のことで、平良五箇字の外、西原(ニスハラ)以北、狩俣までの平良北部地区全域をかつては表していた。現在の西辺は、西原、大浦、福山≒西原の東部の3集落を示します)。

いわゆるインギャーマリンガーデン(友利)に端を発し、ウイピャームトゥの山(多良川)、安谷原(上野風車)、野原岳(大嶽城跡)、袖山(浄水場)と続き、二重越(競技場体育館)クリーンセンター(楚野里山)、あけぼの学園(県道83号線)を経て、砂山ビーチまでの続く、宮古島の背骨とも呼べる根幹の丘脈の東側にあります(添道は二重越し~あけぼの学園あたりの東側)。そういう意味では村建てされたころは、アダンが茂った山だっだったのかもしれません(そういえば、この丘脈の上野の風車がある安谷原は、「あだんばる」と読むっけ)。

添道は北から、西添道、阿旦岳、中添道、東添道、棚原、前福の6つの集落があります。いずれも添村、名子の集落になりますから、各地域から人が移ってきて作られていのす。年代のはっきりしているもっとも古いのが中添道の集落で、慶応年間(1865~68年頃)に、下地から移ってきた根間姓の人がいたと云われています。阿旦岳はこの中添道のすぐ北隣で、詳細は不明ながらも130年前頃(2000年の史料を元にしているので、130+18年だと、1852年で、中添道より古くなってしまう)に、下里の神屋(市場通り、中央通り、ガイセン通りで囲まれた三角形のエリア)の立津家(首里系統)から、名子として遣わされた下地出身の人物が、島尻の人を妻に娶って添道に居住するようになったそうです。

この立津家には戦後、戸籍簿から採取して書かれた系図があり、信頼度つにいては不明だそうですが、それによると

姚孫氏系図 傍系
中山首里府姚姚氏知念親雲上元明六代志慶真
筑登之親雲上元義在番筆者在勤之時出産
之子元矩三代元盛二男父元盈ハ来間生レ
母免嘉ハ狩俣生レナリ、幼キ頃元義三
代元勇家に奉公ス 元勇年十九ニ死去ス
タメニ二人ヲ夫婦トナシ元勇跡目トナス
元盈長男元珍ハ父ノ跡ツギ二男武佐ハ添道
ニ下リテ一家ヲ建ツ。


と、初代立津ムサ(武佐)を祖として、調査した2000年まで五代続いているようです。
記憶や伝承だけでなく、こうした史料もあわせ見てゆくと、たかが井戸ひとつを紐解くだけなのに、ついつい興味が深くなって脱線してしまいます。なので、少し振り戻しましょう。

阿旦岳井戸ですが釣瓶の支柱に刻まれた開鑿は、「昭和庚年五月」とあり、庚年の部分にふりがなのように「五年」とあります。昭和五年は西暦で1930年。干支は庚午(かのえうま)なので、「庚年」は合致しています。
干支(十干十二支)は「庚午」のように、二文字書かないとちょっと判りづらい(十二支と木・火・土・金・水の五行、陰陽のえ≒兄、と≒弟の二種類を組みあわせて60種類ある。尚、陰陽≒兄弟が裏表になるで、120にはならない。60歳の還暦はこの60種類がひと廻りして、赤子に還るので、赤い衣装を纏う)ので、もしかしたら、書き終えてから脱字に気づいて書き足したのかもしれません(あくまでも想像です)。
また、井戸の深さは23尋。ひと尋は両手を左右に広げた時の左右の指先までの長さなので、1.5メートルと仮定しても、水面まで34.5メートルもあることになりますから、これはなかなかに深い井戸です。

今回、特に注目したのは井戸を中心として、コンクリートで設えられた水回りです。これがなかなか気になる作りになっています。まず、道側の入口。小さいながらも門柱のような意匠を凝らしており、水に対する敬意が感じられます。そして四角く方形に区切られた井戸の右奥には香炉のある拝所があり、火をつけていない平香(水の神様は火を嫌うので線香は焚かない)の残骸と、錆びたお賽銭があります。
入口の右手に短い壁がわずかに途切れている場所があり、壁の外に長方形の水槽のような作りの囲いが低い壁と一体化して作られています。敷地的には隣家の庭先のような感じもしますが、構造的に井戸の付属物と思われ、枠の中は低い仕切りも設えられています。
ここに水を溜めて使う洗い場なのでしょうか、それとも使役する牛馬(荷車を曳かす)に呑ます為の水飲み場でしょうか。すでに上水道が整い井戸は蓋がされて水利役としては引退していますが、生活の場として使われていたこうした設備がしっかりと残っているので、詳細を聞き取って記録保存したいものです(どなたか正解を教えてください)。なんかこういうのを世界遺産ならぬ、世間遺産、生活遺産として認定しておきたいです。

最後にもうひとネタ。実はこの阿旦岳の井戸のすぐ近くに、もうひとつ同じ名前の井戸があるのです。しかも、それ、もうすでに紹介しているのでした。
第151回「阿谷竹井の碑」
読みとしては「あだんだきがー」となると思われ、近接して漢字こそ違えど、同じ名前の井戸があるというのは、少なくともこの場所の名前には間違いなく「アダン」という語感の言葉が存在し、それを元に漢字があてられているということが判ります。
このアダンという語は、他の地域にもいくつか存在するので、個人的には植物の阿檀ではなく、なにかもっと別の意味(地形とか)のある言葉なのではないかと推論を巡らします。
それにしても、井戸の謎ひとつ解くのに、歴史学、地理学、民俗学に加え、言語学まで習得しないといけないとか、もう無理~!

【史料】
「宮古研究 第8号 平良市周辺における名子集落について」(親泊宗二 宮古郷土史研究会 2000)
「宮古島水道誌」(宮古島上水道組合 1967年)
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2018年12月09日

日曜特集 「リトケイ シマナイト2018」レポート



ATALAS Blog 日曜版です。
今週は12月第2週ですので、いつもなら扇授沙綾(せんじゅさあや)さんのゆるやか島ライフコラム「島旅日記~八丈島と、フラクタルの魔法」の掲載日(通常は第2・第4日曜に更新)ですが、先月末の宮古島で開催れた「方言サミット」に八丈島から出席されるなど、精力的な大移動をされており、楽しみにしている「方言サミット」のレポートは諸般の事情から、来週(第3日曜)に繰り越しさせていただくことになりました。
変わって、別のイベントレポートが東京サイドから飛び込んできました。こちらもなかなか興味深いイベントです(行けるものなら行ってみたかった)。
と、いうことでATALAS Blog 日曜版 「日曜特集」の登場となりました(トップバナーは、金曜特集の看板を借りて手を入れました)。では、どーぞー!


※     ※     ※

日曜特集 「リトケイ シマナイト2018」レポート

こんにちは。宮国優子です。

先日、離島専門メディア『離島経済新聞(リトケイ)』、『季刊 ritokei』を発行する離島経済新聞社の8周年を記念イベントでプレゼンをしました。
リトケイ読者・サポーター・島ファン・島々の方が一堂に会して・・・ってことは、思い切り人がいっぱいいる!!と恐怖しましたが、自分たちの活動の根幹の部分を話す機会も少ないので、喋ってまいりました。

会場は、千代田区紀尾井町にあるヤフー株式会社 オープンコラボレーションスペース「LODGE」などという、超おしゃれなスポット(言い方がすでに古い、笑)で行われました。

で。
いろいろ考えた結果、何故か映像を作ってしまいました。
 ※動画はおよそ1分ほど。【音量注意】

そして、プレゼンですが、こんな感じでした。実は頭が真っ白になって覚えていません。石碑やロベルトソン号の話もした気がします。

一枚目、これは、あくまで今までの私を中心にした流れを説明しました。みなさん、見入ってくれたようで、眼差しが熱かったです。何を自分がしてきたか、まとめるいい機会になりました。そして、どのような人が関わっているかなどなど、説明をしました・・・いや、した気がする、笑。

そして観光客数のお話をしました。すごくない、宮古!こんな伸び率ってあるかいな。「島を旅立つ君たちへ」の活動を始めた時、私は非常に危機感を感じていました。それは「読めば宮古」の時もそうでした。
なんだろう。なんかしなきゃ!なのです。動けば、人とつながり、相談しながらここまで進んできたかんじです。勿論、私は旗振りなだけで、いろんな人の助力を借りながら、ひとつずつ、進んできた感じです。

ここも書いてあるとおりです。私は、自分が「つなぐひと」でありたいと願っています。ですが、どぅすでもあり、うむくとぅむぬのときもあります。実は、誰もがそうなのではないかと思います。時と場合によって、人は役割を変えるのです。

これって、めちゃくちゃ島的だと思うんですよ。

岡本太郎も著書「沖縄文化論」でいっていたさいが。

「民衆はどんなに苦しくとも、その本質において明朗であり、透明なのだ」

最近、マイブームです、笑。透明って言葉が、私はなんだかぴったりくるなぁと思っているのです。透明なことは、何色にもそまらない。ただの透明。それこそが、島の本質で、生活感情とも結びつくような気がしています。

長々となりましたが、そんなこんなでベラベラ喋ってきました・・・。つい最近のことなのに思い出せない自分が怖い。いや、だいずどうぐりー(恥ずかしい)かったのですよ、そうなんです!ってわけで、透明になりたい島人、宮国優子でした!

そして、宮古の後輩の平良英之くん(合同会社東京都沖縄区)が、意志をひきついで、次のステップに踏み出しました!
東京都沖縄区~島を旅立つ君たちへ~


「リトケイファン感謝祭 シマナイト2018 ~」
リトケイファン感謝祭 シマナイト2018 「島の未来づくりパーティー」
http://ritokei.com/ritokeiinfo/12972
(2018年11月15日に開催)

『離島経済新聞社』 / 有人離島専門フリーペーパー『季刊 ritokei』
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Posted by atalas at 12:00Comments(0)金曜特集 特別編

2018年12月07日

2本目 「人魚に会える日」



島の本棚別館 「シネマ de ミャーク」第2回目にご紹介するのは、仲村颯悟(なかむらりゅうご)監督作品「人魚に会える日」

一昨年の暮れ、アメリカ留学中だった息子から1枚の写真がラインで送られてきた。
「お父さん、この人知ってる?」我が息子といっしょに写っていたのは仲村颯悟監督! たまたま留学中だった仲村監督が、お互いの友人を介して知り合ったという。並々ならぬご縁を感じた。

というのも、10年ほど前の夏休み、例年のように宮古島で夏を過ごしていた我が家族が、ちょっと来間島へ行って帰る時に来間大橋を猛ダッシュで走る子供たちに遭遇。「何やってるんだろうね?」と話していたのだが、それが「島の時間(2009年作品)」の撮影現場だったのだ。まだ「ヤギの冒険」で一躍有名になる前の話である。

そう、仲村颯悟監督と言えば、13歳の時に撮った「やぎの冒険」が各国の国際映画祭でも上映され話題になった天才少年監督なのだ。その仲村颯悟監督が満を持して、実に5年ぶりに撮ったのが、この「人魚に会える日。」だ。

まず映画としての間口は広い。キャストに「琉神マブヤー」「ハルサーエイカー」「ゆがふぅふぅ」などでおなじみの知念臣悟、山城智二、仲座健太、津波信一、アイモコ、そして川満しぇんしぇー、Coccoまで、まさに沖縄オールスターズとも言うべきラインナップが勢ぞろい。出だしこそ、このメンバーの軽快なトークで始まるが、内容は決して軽くない。

基地移設に揺れる架空の町「辺野座」。ジュゴンを見つけに辺野座を訪れ行方不明になった少年。その少年を探しに辺野座に来た少女ユメは謎の女性(Cocco)に出会う。また「基地の島、沖縄」という特集記事の取材で辺野座を訪れた知念臣悟、山城智二、仲座健太の3人は「ヌチクイムン」と書かれた謎のファイルを見つける。それはこの地に代々伝わる生贄の儀式についてのファイルだった!

仲村監督はダーク・ファンタジーに包みながら、基地問題について真正面から問いかける。
「基地について真剣に考えたことある?」
そして視点の違う意見をストレートに投げかける。
「海を壊して新しい基地を作るくらいなら、今のままでいい」
「大学にヘリが落ちた。基地が近くにあるから、こうなっているんだよ」
「こうやって飛行機の音聞いて、戦争を経験したおばあも怖がってると思うわけ」
「基地があることに反対なのか、移設することに反対なのか、意味わからんわけ。しかも、ほぼナイチャーだし」

どっちが正しいの?

「わからん」

そして「ヌチクイムン」に纏わるダークファンタジー部分も奥が深い。
「自然を壊すなら何かを生贄に捧げなければならない」
「ジュゴンは神の使い」
「誰かが苦しまなきゃ、犠牲にならなきゃいけないんだ」
「もう、なってるでしょ。この島が生贄に」

エヴァンゲリヲンで「死海文書」やら「人類補完計画」などが気になった人はきっとハマる。回収されずに散りばめられた謎の数々は、見終わった後に「ねえ、あれってどう思う?」と友だちと話したくなること請け合いだ。

いつもは楽しい川満しぇんしぇーが不気味。「もう放っておいてくださいね。もう疲れたんです」という台詞が意味深で怖い。
小ネタ的には、あるカットに「パニパニシネマ」の前身「シネマパニック宮古島」のロゴの入ったタオルが出てたり、ヤーズミ(ヤモリ)の声がさりげなく入っているのが良い。たったこれだけで沖縄の空気がリアルになる。これは監督があえてSEで入れたそうだ。

私は渋谷で行われたこの作品の初日舞台挨拶を取材させてもらったのだが、その日のゲストが今は亡き樹木希林さん。この映画の封切当時の2015年、樹木希林さんがお住まいになっていた東京の恵比寿の地所が、実は琉球王朝最後の末裔の屋敷跡だったのだそうだ。希林さんは沖縄との不思議なご縁を感じるとおっしゃっていた。

基地問題をダークファンタジーという形で、エンタメとしても見れるようにした上で、多様な考えを偏見を入れずに並列し、まず「考える」ことの重要性を突きつけてくる。笑いと気持ち悪さの融合とか、デヴィッド・リンチみたいなこと、普通若干20歳でできません。

未見の方はぜひ、天才仲村颯悟からのメッセージを見てみてほしい。

【作品データ】
「人魚に会える日」
公開 2015年
監督、仲村颯悟
https://www.ningyoniaeruhi.com/

※現在仲村監督は、学校での「平和教育」を目的とした上映会に限り、本作を無償で貸し出してくださるそうです。中学校・高校の先生方には「考える」きっかけとしてオススメいたします。


【シネマ de ミャーク】
1本目 「ホテル・ハイビスカス」(2018年11月09日)  続きを読む


Posted by atalas at 12:00Comments(0)シネマ de ミャーク

2018年12月04日

第211回 「久知名大按司御嶽」



たまには井戸由来の石碑もやっておかねば(それで人気爆誕などとは思ってないが、呆れられない程度にという意味で)、ということで久知名大按司御嶽(くじなおおあじうたき)の石碑です(もう完全に付け焼刃なのがモロばれですね)。碑銘にはそれだけしか描かれてはいませんが、御獄を近代風に改修したことを記念して建立されたものだと思われます。
なぜなら石碑から90度ずれた位置に、御獄の祠がちゃんとある(灯篭まである)からです(石碑が御獄ではないといいたい)。それなのに石碑の台座には、錆びたお賽銭がいくつか…。どうやらこちらの石碑を拝んだ人がいるようなのです(それにしても、のっけから注釈のカッコが多いなぁ…)。

この碑が建立されている御獄は、久松の県道192号平良久松港線(宮古島市役所前の交差点を起点して、久松漁港までの県道で、その大半は伊良部大橋へ続く、県道252号平良下地島空港線が重複しています。市場通りの項目を参照)沿い、少し集落に入った変則的な四辻の角にあります。このあたりは県道がちょうど松原と久貝の字境になっていおい、御獄は松原に所在してます。

【左 御獄全景。県道側を除き、石垣で囲われています】 【右 こちらは2009年に撮影した久知名御獄。お隣のカフツ(庭)にはバナナてはなく、芭蕉が植わっていたと記憶。理由は成っていた実が三角形でだったから・・・】

御獄に祀られている久知名按司は野崎の村の窮地を救った人物として知られています。
伝承によると、14世紀の中頃、勇猛な与那覇原軍(後の与那覇勢頭の一族)が、武力によって宮古島の覇権を手中しようと、各地の村を襲っていました。まるで暴風のような与那覇原軍の猛威が、野崎の界隈にも迫ってきました。野崎に南方(川満との間あたり)にあったミヌズマ(美野島)の集落は、敵対したことからわずか一夜にして与那覇原軍に滅ぼされてしまいます(近年の圃場整備による開発で、大規模な集落跡の遺跡が発見された)。
野崎村に迫る与那覇原軍に対して、久知名按司は知略をもって対応にあたります。偵察にやって来た使者を手厚く接待して懐柔し、さまざまな海産物を与那覇原軍の将、佐多大人に付け届け、「この村の裕福は、ききしに勝るものであり、また村人の知恵やはかりごとにたけた者が多いから、野崎村を攻めるのは容易ではない」と報告させ、与那覇原軍の武力侵攻を回避します(平良市史御獄編)。
こうして村を救った事から、野崎村では久知名按司が英雄神として崇められ、その叡智を授かろうと学問の神としても祀られるようになったといわれています。

【「宮古の史跡・文化財」(宮国定徳 1975年)より。大きな変化はありませんが、すでに県道側はブロック塀になっています】

さてさて、この「久知名大按司御嶽」の碑ですが、建立は「昭和八年六月建立 久松両字」と、裏面に刻まれています。石碑には改修の「か」の字もありませんが、この頃の島は急速に近代化が進んでおり、各地で御獄が改修されています。また、時代的にもこの昭和初期は、国家神道体制の強化などから有名御獄の神格化、神社化がなされているので、御獄改修の記念碑と見て間違いないでしょう。
ただの改修の記念碑を気にするのには、ちょっと理由があります。各地の御獄と同様に、昭和初期に改修された大きな御獄には、神道化の影響から鳥居が建立されているのです(一説には、良いものだとして進んで寄進したとも)。ところが、この久知名御獄は集落でも重要な御獄であるにもかかわらず、御獄の整備だけで鳥居の建立まではされなかったようなのです。もっとも、そのおかげで町の中にありながら、どこか古い雰囲気の御獄の名残を留めている気がします。

【夫婦福木 の県道192号平良久松港線ぞいにあります 地図

しかし、1962(昭和37)年の米軍撮影の空中写真を見ると、県道はまだ今のような整備がされておらず、変則的な四つ辻の部分もどことなく広場のような雰囲気をかもしています。想像たくましくすると、久知名御獄前広場のような感じだったのかもしれません。
現在の県道192号平良久松港線は、1953(昭和28)年に琉球政府道に指定され、1972(昭和47)年の本土復帰とともに沖縄県道となっていますが、1977(昭和52)年の空中写真では道路幅が拡幅され、道路線形も修繕され、現在の道路の状態に改修されています(道路改修の正確な年月は調べ切れませんでした)。オマケとして、白黒ですが1981(昭和56)年の空中写真のリンクもつけておきます。県道の終点である久松漁港が、ほとんど埋め立てされておらず、当時の漁港がとても美しいです。現在の地図と見比べると、集落から海が遠くなったことがよく判ります(松原には陸に取り込まれて古い防波堤を見ることが出来ます 地図)。。
幸い、久知名御獄の前は土地に余裕があったようで、御獄の前に三角形の残地が作られています。しかししかし。よくよく観察してみると、御獄の県道側だけは、石積みてはなくブロックに置き換えられています。しかも敷地の幅に対して、祠がやや県道寄りに位置しているように見えます。ということは、わずかですが御獄の敷地も道路に取られたのかもしれません(じゃあこの三角形の残地はなに?)。
なんか「鳥居があったけど拡張でなくなったのかもしれない疑惑」がちょっと浮上してきちゃいましたけど、航空写真などから、どことなくここが広場的な辻であったようなイメージは感じられ、里の大切な御獄感を得た気がしました。


【上左 ウプザー御獄の入口は路地】 【上右 奥へ進むと、ウプザー御獄があります】 【下左 大きく茂るガジュマルの下がトガムヤー御獄】 【下中 トガムヤー御獄の入口はもっと細い裏路地】 【下右 ガジュマルの根元にある拝所】

最後にもうひとネタ。
この道路拡幅の際、道路の南側(松原側)も道路用地として取られ、歩道が設置され、等間隔に街路樹が植えられています。ところが、久知名御獄から漁港に向けて歩道を行くと、一本だけ街路樹とは異なる福木が歩道に生えています。
この福木のすぐ脇の敷地にも、実はもう一本、同じようなサイズの福木があるのです。地元ではこの2本の福木を「夫婦福木」と呼んでいるとか(公称ではない模様)。拡幅の時に切らずにこうして残しているあたり、公共工事もたまには洒落たことをやってくれます。
尚、この福木の筋を奥へと分け入ってゆくと、宮古に芋を持ち帰ったウプザガーラを祀ったウプザー御獄への入口があり、その道向かいには、その妻を祀ったトガムヤー御獄もあります。なんかご利益ありそうですね(テキトー)。

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