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2019年06月25日

第238回 「んなま to んきゃーん 最終回特番~結びの一番」



ATALAS ネットワークのBlogが始まったのが、2014年8月(予告)。3次元(リアル)世界での活動(みゃーく文化センターなど)を本格化させたATALAS ネットワークの活動を補完するコンテンツとして産声をあげたATALAS Blogに、“読む” ATALASネットワークを加えようとあれこれ試行錯誤してスタートした、週2回の「よみもの」(火曜と金曜。一時、日曜版の週三回という期間もありました)のひとつとして、火曜日の恒例企画にラインナップさせてもらったのが、島の石碑を巡る旅・オトナの自由研究「んなま to んきゃーん」でした。

第1回は2014年10月21日、畏れ多くも「宮古研究乃父 慶世村恒任之碑」をとりあげました。当初は軽めにネタとして扱っていた島の石碑でしたが、巡れば巡るほどに次から次へと出現して、こんなにもあったのかと驚かされました。最近ではより地味な井戸廻りの石碑に興味を持たりして、石碑がなくても井戸探索をするなど、かなりマニアックに脱線していましたが、別の景色も見えて来たりしてそれはそれで(個人的に)面白くなっていました。
そんなこんなと毎週火曜に、時にひーひーいいながら(実際、ほとんど休載も、原稿落としも、遅延もなく)、“取って出し”状態で時間に追われながらも続けに続け、先週2019年6月18日まで足かけ5年にわたって、連載237回(今週は新規はないので、実質の最終回は先週)。300超(同一回に複数個の時があるので)の石碑を稚拙な調査とともに紹介させていただきました。寄る年波にはさすがに勝てず、ちょっとくたびれてしまったので、勝手ながらここらでひとまずおしまいとさせていただくこととあいなりました。

これまでも連載100回、200回の区切で、碑の位置をマッピングして「ん to ん」のまとめとして紹介して来ましたので、やや数は少ないですが、201回から最終回(237回)までの石碑マップを、最終回スペシャルとして公開しておきます。

【第201回~第237回まで】

折角なので、100回記念と200回記念の時のマップも、あわせて載せちゃっときます。

【第1回~第100回まで】


【第101回~第200回まで】

もひとつ、金曜特集で掲載した、
「人頭税にまつわるエトセトラ」ベスト盤~んなま to んきゃーんSP
なんてのもマップ化しているので、ついでに載せておきます。


これにて「ん to ん」は最終回となりますが、ATALAS Blogが終わるわけではありません。ATALAS Blogはまだまだ続きます。続く、ハズですので、今後ともご愛顧ご愛読のほど、よろしくお願いいたします!。
そして島にはまだまだ石碑はあったりもします。今も新たに建立されている石碑があったりします。なので、いずれまたどこかの石碑の前でお逢いしましょう!(もしかすると、2020年の冬頃。どっかでチラチラっと登壇発表をするかもしれないし、しないかもしれません・・・。年末に、井戸本が出るかもしれないし、出ないかもしれません・・・)
稚拙でニッチなマニアックなネタに、長々とおつきあいいただき、誠にありがとうござましたぁ(マリアナ海溝よりも深く大感謝)。

“つづき”は、マニアさん向けの忘備録として、需要があるかどーかは判りませんが、これまで掲載した「んなま to んきゃーん」の全タイトル一覧です(追カツヲ的感謝)。  続きを読む



2019年06月18日

第237回 「棚原井戸」



地味に地道に、オトナの自由研究としてお送りしている、“井戸にまつわる石碑”シリーズです。以前、第212回「阿旦岳」の回で添道(西仲宗根)の井戸を取り上げた後、自由研究として周辺の井戸調査を敢行し、なにげにコンプリートしておきながら、報告するのをばっしていたので、思い出したようにまとめて報告して見たいと思います。メインタイトルには添道地区の南東端に位置する、棚原集落の井戸の碑から。ではでは、ずらりと並ぶ添道の井戸ネタをどーぞー!。

数軒の住宅が建ち並ぶ一角にある掘り抜きの棚原井戸。コンクリートで低い囲いと、入口には門まで設置されており、井戸をいかに大切にしていたかがよく判る構造です。その井戸の脇、一段高くなった位置に石碑が建立されています。やや苔むしていて読みづらい点もありますが、「昭和五年旧正月六日 棚原井戸」と書かれてあるようです。また、裏面にも似たような文言が刻まれていました。こちらは「昭和五年二月建設 飲料水井戸」とあります。
昭和五年は西暦では1930年。この年の旧暦の正月(元日)は、1月の30日になりますが、石碑にしるされている1月(正月)6日は、新暦に換算すると2月の4日なので、裏面の記述にも合致していることになります。しかも、この碑は二十四節気のひとつである立春にあたりますので、日数(ぴかず)としては悪くないのではないでしょうか。

【左 棚原井戸全景】 【中 石碑の裏から】 【右 井戸口の蓋】

続きまして、前福井のご紹介です。
前福の名は以前、オリオンビアフェストの会場として利用されていた「前福運動場」で知られていますが、この井戸を確定するまで、集落の位置ついて気にすることがなく知りませんでした。位置としては運動場の東方、添道を南北に貫く街道の西側です。
この井戸は特に石碑などもなく、前福の集落南側にあるキビ畑の中にひっそりと隠れています。普段から割と草生している井戸なので道から近い割に見えづらいですが、畑の際を突撃すれば簡単にたどりつけます。北側の住宅側からもアプローチすることはできますが、家の前を通り過ぎ畑を中を抜けてゆくので、なんとなくちょっと行きづらいです。井戸そのものは掘り抜きで、周囲は低いコンクリートで囲まれていますが、草に埋もれた拝所もちゃんとあります。

【左 前福井戸全景 奥は井戸裏の家】 【右 草にまみれた前福井戸】

三か所目は東添道井です。東添道の集落の中ほど、庭とみまがう雰囲気の中に井戸はあります。井戸本体は掘り抜きですが、立派なコンクリート製の釣瓶が設えられてあり、南側柱の外側に「東添道井戸」と刻まれています。また、北側の柱には「昭和五年七月竣工」と「□□二十七周年旧五月補修」と記されてます。二行目の上ふた文字が彫が浅くて読めないのですが、村建てとかではない気がします。一応、添道地域はだいたい150年くらい前から人が住み始めたらしいので。肝心の文字が読めないのが残念ですが、井戸の蓋に宮古島市水道局の水位観測の札がかかり、記録装置が置かれていました。

【左 東添道井戸全景】 【右 釣瓶に刻まれた井戸名】


【左 隅にある拝所】 【中 水道局の水位観測の札】 【右 庭のような雰囲気の東添道井戸】
次は中添道に移動です。東添道の北側にあり、家並みが途切れないお隣さんの集落となっています。井戸は集落道の脇にあり、やや雑草にまみれていますが、こちらもコンクリートの釣瓶が目立ちます。井戸は他地域と同様に低いコンクリートで囲われており、門柱に「中添道井戸」「一九五〇年旧四月改築」と刻まれています。右側の“改築”の門柱はかなり劣化しており、剥がれかかっていたり、コンクリートの囲いも裏手の畑側は倒れ初めているので、大切な井戸ならばこのまま朽ちて崩壊する前に再改修などして欲しいものです。


【上 中添道井戸の銘入りの門柱】 【左 改修を記した門柱】 【中 畏部石と香炉】 【右 仲添道井戸全景。傾いた囲いも見えています】

位置的な順列としては中添道の北西にある阿旦岳井戸となるわけでですが、こちらはすでに紹介していますので、ここでは画像だけ。くわしくはコチラで!。

第212回「阿旦岳」

で、添道井戸群のラストを飾るのは、添道の北端(民俗方位では西)にある、西添道です。集落からはやや離れた街道筋に面しています。ちょうど阿旦岳・中添道と西添道の間あたりで、農水スタンドが脇にあるで目印となると思われます。一段低くなった井戸廻りは、他の井戸たちと比べるとやや狭く、道路拡張で用地が削られているようにも見えます。こちらの井戸も特に石碑などはありませんが、草生した中に三角の山型のイビ石があり、ひっそりと拝まれているようです。
補足情報としては、井戸の東方の崖下にはサガリバナで知られている成川川(? 久浦湾へ流れ出る水系)の源流域にあたりますので、井戸の水源は同じ地下水脈かもしれません。


【上 西添道井戸 井戸口】 【左 道路側からの全景】 【右 畏部石】

以上が添道各集落に残る井戸です。これに集落の東方にある阿谷竹井と白原井を加えた8か所で、添道の井戸がコンプリートになります(たぶん)。年号の判明しているものを並べてみると・・・。 
【添道井戸群位置図】
 
棚原井  1930年旧1月竣工 
阿旦岳井 1930年 5月竣工 
東添道井 1930年 7月竣工 
中添道井 1950年旧4月改築 
 
井戸の完成は軒並み1930年でした(中添道は改築年)。昭和の初めにあたるこの頃は、各地でわりと井戸が掘られている時期なので生活改善的な、なんらかのムーブメントが全島的にあったのでしょう。それともそのあとに続く太平洋戦時に添道は、平良市街地の疎開先だったと云われていますので、集落に人口が増加することを見越していたのでしょうか?。 
これら集落から少し離れた位置にある、白原井や阿谷竹井はこれらの井戸よりも古いスタイルの降り井形式の地形の中に、掘り抜きの井戸があります(改修されたかどうかについては不明)。しかも、年代の判明している阿谷竹井の開鑿は1908年2月なので、もしかすると各集落内に開鑿されるまでは、この少し離れたふたつの井戸が添道の生活用水を得る場所だったのではないかと想像されます。

添道の南方に続く、ちょっとローカルな盛加、那底、細竹、野原越と路村(街道筋に沿って集村する村落)状に続いているこの地域についてはかなり集中的に井戸を紹介しているので、里山ドライブにおすすめです。

【関連する石碑】
第151回 「阿谷竹井の碑」
第208回 「泉水 野原後西支部井戸」
第212回 「阿旦岳」
第214回 「野原越東井戸改修の碑」
※この他、袖山東、盛加、那底、細竹などの井戸があります。

次週、遂に最・終・回・!。
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2019年06月11日

第236回 「改築記念碑(佐良浜)」



改築を記念した石碑はこれまでもたくさん紹介してきました。道路に井戸に御嶽に建物。ありとあらゆる構造物は朽ちたり傷んだりするし、利便性を求めて改変されたりします。今回紹介する石碑は御嶽の改築を記念したものです。御嶽を改築することはわりと神社化を示す率がとても高いのですが、この御獄はそうした見た目の変化だけでなく、強い人々の想いも交差した改築とちょっとばかり云えるかもしれません。

このかなり大きめの改築記念碑石碑は伊良部島は佐良浜(字では池間添・前里添)にある、大主神社の境内に建立されているものです。大主神社と書いて近年は「おおぬし」と読まれているようです(50代以下)。島の人に聞いてみると、神社の前にバス停が設置されたことなどもあり、平易な読みからこのようになったものと推察されました。元々は「うはるず」(50代以上)は、「おおぬし」の島読みの転訛だったと記憶しているので、まあ同じといえば同じかと。
もっとも、ご存知通り、佐良浜は池間島からの分村であり、池間島においては「ナナムイ(七杜~ナナモリ)」と呼ばれています(現在も呼ばれていますが、個人的にはどことなくウハルズ御嶽がある森一帯のことを示しているように感じています)。それゆえに佐良浜でも古い呼びかたとして「ナナムイ」が使われていたようなのです(70代以上)。

【左 鳥居越しの大主神社、正面】 【中 灯篭の並ぶ境内】 【右 拝殿。賽銭箱の奥は祭祀の儀礼に使われる場所】

史料によると、まだ佐良浜に大主神社がなかった頃は、池間島の祭事にあわせて海を渡ってまで参加をしていたといいます。
1840年頃、池間と前里両集落の代表が協議をして、佐良浜(池間添・佐良浜添)に分神をしたそうです。やはり海を渡るリスクを軽減することが目的だったのでしょうか。添村あつかいであった佐良浜が、正式に村建てされるのは、1908(明治41)年の特別町村制まで待たなくてはならないのですが、完全に私見にすぎませんが、この分神によって佐良浜の池間島からの独立を意味しているように、なんとなく感じました。
“公式”な村建てという意味では、池間民族三姉妹の末娘であるはずの西原は、明治になってからの琉球王府最後の村建てでありながら、1874(明治7)年に作られているので、ある意味では次女・佐良浜(池間添・前里添だから双子?)は嫁に行くのが遅れた?。

【左 広い拝殿の中。その奥にちょっと傷み始めている社殿がある】 【中 賽銭箱にも大主のロゴがあります】 【右 瓦にもちゃんと大主の印】

当初の分神した御嶽、現在の佐良浜児童館近く佐久田家の東にある洞穴付近に、カヤ葺きの小屋を建てて祀っていたようですが、1961(昭和36)年に、現在の地には大主御嶽として建立されました。その後、今回紹介している石碑とともに、1986(昭和61)年に再度改築がなされました。
簡潔にいえば分神から神社化への変遷ということになると思いますが、ここで石碑をよく見て下さい。
新しい方から遡ってみると、1985(昭和60)年8月17日の改築記念碑の建立。1961(昭和36)年10月12日の改築。この2点は前述した資料(「新版 宮古の歴史を訪ねて」宮古郷土史研究会 刊行)にも記されていますが、石碑にはそのさらにもうひとつ前にあたる、1936(昭和11)年7月21日改築というものが書かれています。しかし、この年月日についてはなにひとつ触れられていません。他の史料をひっくり返しても違う資料を読み漁ってみても、なぜだかひとつも出て来ません。なので想像にすぎませんが、時代的にちょうど戦前なので、国家神道化が推し進められている時期に合致のことから、もしかすると御獄から神社化されたタイミングがここになるのかもしれません。

【左 神社の東側、階段の上にあるウジャキニー】 【中 神社脇の小路の奥。ナッヴァニー(と見られる場所)】 【右 神社から少し北にある、県道90号の大カーブそばの平地に池間島を向いて置かれているブロック。この断崖からは池間がよく見える】

大主神社は大きな鳥居、手水舎、灯篭が立ち並び、立派な社殿、拝殿があります。記念碑は神社の正面に向かって右手にありますが、この記念碑の裏手に、小さな福木の並木と岩に囲まれた、謎の空間があります。これが何を意味するのかはまったく判りませんが、なにか儀礼的ななにかをする場所のようにも見えて来るのでとても気になります。
謎ではなく、ちゃんと拝所として定められた場所もちゃんと大主神社の周辺にはあります。
ウジャキニー(神社東側の階段の上)、ナッヴァニー(神社脇の小路、奥まった岩あたり)、ウイラニー(少し北の県道90号の大カーブ近くにある池間島を向くブロック)などは、平良市史御嶽編にも記載されています。

【ツヅスキ御嶽 大岩に妖艶に絡むガジュマルが圧倒的です。小石で参道を表現されていたり、日常的に拝まれているので、むやみに聖域には入らず、路地から眺めるのがオススメ】

また、神社前の県道を隔ててあるアダン木に覆われた場所(ちょうど大主神社のバス停がある)は、その脇の細道から接近すると、大岩とガジュマルを中心として綺麗に掃き清められた聖地になっています。ここはツヅスキ御嶽といい、祭神は夫婦神(詳細は未明)といわれており、男子禁足地なのだとか(以前、眺めていたら注意されたことがある)。いわれとして直接、大主神社とはつながりはなさそうですが、道路沿いに隣接して造られた防火水槽のせいで、道路を隔てた大主神社の方向に空間が開いており、御嶽から御獄を見る形になり、大主の“強さ”とか“大きさ”とか“格”が顕れている気がました。

【左 神社裏の海蝕洞】 【中 鳥居の奥へ(途中、ウジャキニーがある)】 【右 断崖からの眺め。崖の影が切れていることが海蝕洞のあるあたり・・・】

そうした拝所や御嶽につながるもののとみられる場所が、この大主神社の裏手(海側)にあります。大主神社は琉球石灰岩の崖の上に建てられて降りれ、その海側には大きな海蝕洞があるのです。空中写真や地形図でも、ぱっくり天に向いて口が開いているのが判るほど大きく、この穴へ神社側から降りるのは、アルティメット級のかなりの上級者向け(てか入るのはNGっぽい)になりますが、干潮時に海側からアプロ―チすることができると、海から通じている横穴を見ることが出来ます。
そこまでがんばらずとも、大主神社の鳥居の先の丘を登って、崖上の海際へと出てみてください。あまり知られていませんが、ここからは青い海と珊瑚のリーフが眼下に広がり、宮古島の北部から池間島にかけての一大パノラマを楽しむことが出来ます。
そうそう。このさいだから忘備録的に加筆しておくと、2019年1月に催された写真展「よみがえる宮古島の祭祀写真展(上井幸子写真集 太古の系譜)」のポスターに使われた大主神社の境内(下段)の様子は、圧巻のひと言なのですが、この写真には鳥居脇に建立されている今回紹介している石碑(1985年建立)がまだありません。代わりに現在の手水舎があるあたりに、見たこともない石碑が建立されています。ちなみに、背後の伊良部離島振興センター(2013年解体)は、1978(昭和53)年の完成です。話がそれましたが、この写真は1979年に撮影されているので、この謎の石碑は1961(昭和36)年の時の改築を記念した碑なのかもしれません(写真集にはもうひとつ池間添の漁港付近で行われている祭祀の背後に映り込んでいる石碑があり、こちらは島の人からの聞き取りから消失したことを確認しました~碑の内容は不明)。

取材を終えた帰り道、境内の木陰から一匹の猫がこちらを眺めていました。もしかしたらこれが噂の猫神様かもしれません。だって、賽銭箱の前のコンクリートに、かつてこの大主神社に降臨したと伝えられる、伝説の猫神様のありがたい聖なる肉球痕があるのですもの!。  続きを読む



2019年06月04日

第235回 「溜池改造記念碑(山中)」



唐突ですが、今回は一度としてオチが落ちていない「謎の石碑-未解明ファイル-」シリーズです。これまでPart1で4回、Part2で6回、単発も1回と続いており、気づけば通算12回目となります。この未解明ファイルシリーズは、どうやっても掘り切れない謎の怪しい石碑ネタを、皆々様の叡智をもって解明してゆきたいという、誠に他力本願な企画です(タレコミをいただいたことは一度もありませんが)。

えー、石碑といいつつ、今回紹介する“物件”は、石碑然としていません。なぜなら、“そいつ”は低地にある畑の土留めの一部と一体化しているからです。場所は平良下里の山中になります。詳しく書くと、県道195号野原越七原線から県道200号川満山中線が分岐するとこですって、ここまで書いて、石碑とは一切関係ないのですが、このふたつの県道が、なんと今はもう県道ではなくなっていたという事実に気付いてしまったのです。何をいっているのか判らない?。ええ、それはもう己の目を疑いました。三度見くらいしました。一部のwebマップでは、まだ県道表示になっていますが、地理院の地形図ではすでに格下げされていました。

なんでも、2017(平成29)年の沖縄県告示229号によって、県道194鏡原増原線(76号城辺線の那底から旧宮原小前を経て、一周道路の83号線を結ぶ県道)を含め、県道195号野原越七原線(76号城辺線の中休み交差点から坂を登って王国会館を経て、栄寿園・青潮園、ぽぷり、石庭を通り、空港入口のレンタカー屋の190号上野線に合流する県道)と、県道200号川満山中線(国道390号の黄色点滅信号の川満ウプカー前から、県道190号上野線山中交差点を横切って、荷川取牧場を経て、前述の195号へ接続する県道)の3路線が、県道の扱いを廃止されてしまったのです。いやあ、驚きです(すでに路傍のヘキサはなくなっていました)。

【通称“ヘキサ(Hexa)”と呼ばれる、消された六角形の県道番号表記】

ついつい地図・道路マニアとして、ちょっと取り乱してしまいました。改めまして石碑があるのは、荷川取牧場とぽぶりの通りがT字になったところから、中休み方面に進んだカーブの内側にある畑の中です。
普通の石碑なら碑の裏面や側面になにかしら情報のようなものがあるのですが、土手として埋め込まれているので、それを確認したり手がかりになりそうなネタが得られないのです。だからといって、この低地の畑が溜池だったのかという、どうも古い写真をチェックしてみるとそうではないようなのです。

【左 石碑の埋め込まれている畑。左が現道、右が旧道】 【右 旧道沿いにある旧公民館の井戸】

ちなみにこの山中の集落を通る旧195号と、川満へ向かう200号の交点あたりは、この畑を貫くように新しい道を造成しており、古い写真でも畑だったことが判りました。
尚、当時の旧道はというと、川満からの旧200号が今の195号を突っ切って集落の中に直進し、一軒目を右に曲がって、件の畑の脇をかすめたのち、クランク状にカーブして、195線の中休み方面の道路へと出ます(B&Bカトルの近く)。
ちなみにこの出口の所は、現在、更地になっていて、淋しげに古いトイレがぽつんと残っています。この敷地が旧・山中公民館でした(現在は東外れのみやこ学園そばに移転しています)。この旧・山中公民館の旧道沿いには、蘇鉄がやたらと茂った井戸も確認できました。井戸の裏手の山には山中御嶽も位置しており、文字通り、山中集落の中心といえる場所のようです。

1973年に山中集落を調査された、“M大学”の“T松”氏ら(諸般の事情から出自を明らかにできませんが、イニシャルトークでも判る人には判る仕様です)による集落の資料(地図)と、現在の集落を見比べてみると、道路や田畑が改修されているものの、家屋の移転がほとんどありません。また、御獄と井戸の位置が残されており、これを現在の資料ととともに読み解いてみました。マップには該当位置を落としていますが、御嶽、井戸ともに現地が確認できているのは一部のみです。
アプローチの比較的よかった195号線沿いにある井戸を見つけることが出来ました。本来なら井戸のまつわる石碑シリーズで取り上げるべきでしょうが、せっかくなのでここで紹介しちゃいます。

【昭和6年に竣工した、井戸開鑿記念碑のある】

道路脇の下、約1メートルほどのところにある掘り抜き井戸で、現在はコンクリートの蓋がされています(隙間から覗いた中に水はあるようですが、かなり深いです)。そのすぐそばに「井戸開鑿記念碑」と書かれた小さな石碑が建っています。裏面に「昭和五年十二月三日出水、昭和六年一月吉日竣工」と記録されており、1930(昭和5)年と90年近く前の井戸であることも判りました。
外には、「ため池」と記された場所(旧公民館の北東)も確認できましたが、現在は畑になっており、痕跡や石碑とのつながりを見出せることは出来ませんでした。
諦め悪くあれこれと眺めていたら、もう少し古い1945年当時の米軍撮影の空中写真によると、195号線の中休み寄り、現在の宮古土地改良区のそばに、円形の池のようなものが写っており、その後の県道の開通によって消失していますが、これは溜池なのではないかと見ています。しかし、特に裏付けるものもなく、ましてこれが溜池だったとしても、今回取り上げている溜池改造の碑に繋がるネタもないため、コトの真相は不明なのです。

解決はしないので、最後はオマケで濁します。
もうずいぶんとに確認している物件ですが、旧道の入口(県道195号と200号が接するところ)にある、ちょっと怪しい廃屋。この壁面に薄っすらと残っているペンキ文字。こちら機器を駆使して画像を読むと、どうやら「共栄相互銀行」と書かれていまして、昭和29年から39年頃に存在した宮古島の銀行です。共栄相互銀行はの八重山相互銀行と合併。南陽相互銀行と合併。最終的に、現在の沖縄銀行へと合流します。沖縄銀行の系譜からすると傍流ではありますが、いくつもの合併して大きくなった沖縄銀行の中でも共栄相互銀行は、もっとも古く設立された宮古協栄無尽を源流としています(昭和24年2月1日認可)。ちょっと面白いですねぇ~けど、この場所に共栄相互銀行があったのかどうかは定かではありません。
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2019年05月28日

第234回 「伊良部マングローブ協会記念碑」



今回ご紹介する石碑は自然系。伊良部の入江を彩るマングローブにまつわる石碑です。ほぼ出落ちで終わりそうな今回のネタなので、オチがないままどこまで引っ張れるかにかかっています。ともあれ、とにかく、とりあえず、見切り発車のスタートです。

どうですか?。なんかもう見た目の感じからしてやる気がない雰囲気です。メインであるはずの縦書きで書かれた「記念碑」の大きさと、石碑全体とのバランスとか。その下に横書きで書かれた「伊良部マングローブ協会」のプレートのやっつけ感とか。なんかもうイロイロと怪しいです。
その上、石碑にまとわりついているのは樹は、マングローブではなく、ガジュマルという展開だったります。尚、この石碑を撮影するために、鎌でもしゃっと繁茂していた前面の雑草を伐採しましたので、撮影前はもっと残念な感じでした。というよりも、そこに石碑があることすら判らない状態でした。

プレートには2000年11月建立とあり、どうやらこの時、マングローブの植樹を行ったようです(正確な情報がはっきりしませんでした)。そしてこの石碑があるのは伊良部島と下地島の間にある入江の海沿いに南北をつなぐ道路と、長浜の字道(基幹集落道。後述します)が交差する、(入江の)海の上なのです。正確には道路を通すため、もとももとある小さな陸地をいくつも繋ぎ合わせ、埋め立てたりして作られているので、ちゃんとそこに地面はあるので海の上は誇張ですが、道路以外の周辺はほぼほぼ入江の海に囲まれているです。
そんな海には大きな干満があり、伊良部島から湧く湧水(と小さな川)が流れ込む汽水域が形作られています。そうした環境にマッチした場所に、植樹されたものを含み、マングローブが茂っているのですが、この地のマングローブは宮古島の川満や島尻ほど、注目がされていません(他にも嘉手苅の入江湾にもマングローブはあります)。
もっとも宮古島自体にマングローブが生育する環境が少なく、県全体でもマングローブ林の面積の割合は1パーセント(約3ヘクタール)しかありません(最大は西表島で県全体の80パーセントを占めている)。資料(やや古く、2015年にまとめられたものなのに、中の数値は合併前の町村名なので、さらに古そう)を見ると、1パーセントしかない宮古島のマングローブ林の詳細に、前述した川満や島尻はあっても、伊良部(字としては佐和田・長浜、仲地が中心)については数値的にも登ってこないほど割合が少ない(植生のある箇所としてはカウントされている)ようです。

【左 石碑の北側の海に茂るマングローブ。奥は平成の森公園】 【右 石碑南の入江の海に茂るマングローブ】

【資料】 マングローブ植栽指針(沖縄県)
※pdfの2は地域の割合などが書かれています。
※7・8・9番は参考資料として、マングローブをはじめとした水辺の植物図鑑になっており、個別に写真入りで判り易く書かれています(植物図鑑は、宮古にはない種名もあるので勉強になりました)。


まあそれはともかく。今でこそマングローブが茂る入江になっていますが、昔の様子を見てみると、マングローブなんてモノはほとんどなく、まったく今とは違う顔をした海が広がっていました。
このあたりの入江の海は、南の伊良部・仲地あたりに比べると、伊良部島と下地島の距離がかなり離れています。古くは下地島は牧(牧場)であったとも云われていますが、1637年の人頭税施行の頃には、伊良部島の人たちにとっての貴重な耕作地となっていたようで(少なくとも1771年の明和大津波では橋が壊れた)、伊良部島の集落から下地島の畑へと、耕作のために通う道が、字ごとに入江の海を渡る道が作られていました。
佐和田は村番所(現在の佐和田児童館)から五箇里道(第85回「五ヶ里道開鑿記念碑」)の延長線のように佐和田の浜の近くを通って、砂洲に作られたなかよね橋から漢那橋の「佐和田矼道」を経て下地島に渡っていました。こちらは連載200回突破記念特番「海に消えた道(1)佐和田矼道」)で稚拙ながら現地調査レポートを書いています。

【元・いんた橋の位置にあるボックスカルバート】

一方、長浜の字道は佐和田のように砂洲もなく、入江の地形は複雑にいりくんでいたことから、大きく迂回したルートながらも、橋を架けて海を渡っていました。村番所(現在の長浜公民館)からコヤガー(1686年に掘られた古井戸)を結んでいました。ルート上にはふたつの橋が架けられており、伊良部島側が「いんた橋」、下地島側が「たいこ橋」と呼ばれていました。たいこ橋は現在、車も通れる近代化された橋として残されていますが、いんた橋の方は、周辺を海中道路化されたため、ボックスカルバートに置き換えられしまい、道と一体化されてしまったことから橋の名は遂に失われてしまいました。
そして、このふたつの橋が結ぶ真ん中にあったのが、今回紹介しているマングローブ記念碑が建立されている場所であり、当時は入江の海で最大の島でした(島の名前は確認できませんでした)。現在は佐和田側で埋めたてられており伊良部島と陸続きになっています。

【1997年9月に竣工した、現在のたいこ橋。親柱にはリアルなサシバのモニュメントが設置されています】

埋め立てられている場所は北側の佐和田の浜に近い入江で、現在は平成の森公園となっている場所です。ここはかつて伊良部島の特産であった塩を生産る塩田がありました(1860年代から)。製塩は幾度かの中断をはさみつつも、本土復帰するまで行われ宮古で使われる塩の大半をになっていたそうです(復帰した当時の日本は、塩が専売制だったために廃業せざるを得なかった)。

【左 遠浅の浜にひろがる塩田】 【右 塩を炊く窯が並んでいた】

【左 戦時中の製塩風景(天日濃縮した塩水を炊いている)】 【右 戦後の佐和田前浜の地籍図。地目には塩田と書かれている】

日々、潮の満ち引きで姿を変化させる入江は、時代の波によっても様変わりを続ける存在となっています。最後はそんな入江の移り変わりを集めた空中写真で見比べて、小さな発見を楽しんでみて下さい。

【1962年 ふたつの橋に挟まれた島。いんた橋の部分に、干満で潮が流れる深みがあるのが判る】

【1970年 8年後。けれどあまり大きな変化は見られない。塩田はこの写真の上の方(写ってはいない)】

【1978年 下地島空港の開港一年前。入江沿いの道路の建設が始まっています】

【1986年 伊良部島と下地島のそれぞれに、入江沿いの道路が開通。新・国仲橋も完成。平成の森公園が造成中】

【1994年 平成の森が完成。17エンドに向けて海中道路の新道が開通している】

【上記の写真をすべて使って、GIFアニメにしてみました】

【資料】
鹿児島&沖縄マングローブ探検!  続きを読む


2019年05月21日

第233回 「南仲原清水井戸記念碑」



地味で地道でニッチでマニアな井戸にまつわる石碑シリーズが、もぞもぞっと今日も今日とてはじまりました。本日ご紹介するのは、大字は城辺の友利でありながら、福里学区という変わった地理要因を持つ、仲原集落にある井戸にまつわる石碑です。
仲原集落と云って思い浮かぶのは、仲原鍾乳洞と建設中の地下ダムでしょうか。あとはそうですね、キビ畑が延々と広がっているのどかな里山でしょうか。

こちらが今回紹介する石碑です。広くはない仲原集落ですが、南西側(民俗方位的には南)に家々が集う集落道の隅に井戸があります。井戸にはコンクリートの釣瓶が架かっており、蓋もされていたようですが、井戸の清掃(繁茂していた草木を刈り取った)で、中から生えている木を切ったためか、井戸口から斜めにず落ちていました。

石碑はそんな井戸の脇に建立されています。
昭和六辛未年九月七日設立
記念碑
南仲原清水井戸
とコンクリート製の碑に刻まれています。
昭和6年に開鑿されようで、十干十二支の「辛未(かのとひつじ)」が付記されています。尚、西暦では1931年になりますので、今年で88年目といったとこでしょうか。

碑の裏面には上段に「発起者」として池田正一、上里敏雄、比嘉真津の3名が、下段には「寄付者」として7名の名前が刻まれています。ただし、発起者と寄付者はダブっており、発起者以外に、友利當(?)、池田金、比嘉加真、佐和田蒲戸金の4名が加わります。カネ、カマ、カマドガネと、女性名っぽい名前が並んでいるように見えます。やはり井戸の水汲みは“女子供の仕事”という流れが、見て取れるかもしれません。この集落内の井戸が開鑿されるまでは、もしかすると遠くの湧水などに水を汲みに行っていたりするなら、この井戸によって労力と時間の大幅な短縮が成されたことになるので、タイムイズマネーだったかもしれません。

それはとともかく、碑の前には井戸掃除をした結果(成果?)かもしれませんが、いくつもの湯飲みと、酒(泡盛のカップ)、そして石の香炉のようなものに平香が供えてありました。
改めて写真を見ていて気付いたのですが、碑の左下。タイヤとの間にある割れた石(コンクリート?)にも、なにかが書いてあるように見えました。真実は不明です。もし、現地を訪れた方がいたらチェックしてみて下さい。

【左 北仲原井戸? 蓋のされた低い井戸口】 【右 拝所のような、香炉のような石】

南仲原と付くからには、北もあるのだろうと、少し集落内を徘徊(MAP)。するとそれほど遠くない道端に、井戸を発見した。特に石碑などもありませんが、板状の石(コンクリート)で井戸口に蓋をして、周辺をちょっと花壇化させてあるあたり、なんかそれっぽい。さらに隅に井戸の神様を拝みそうな石の拝所らしきものもあった。ただ、“北”をなのるにはかなり“南”に近いのと、人様のお宅の玄関先にあるので、本当にこれが“北”仲原井かどうかは定かではありません。
なんとも中途半端な結末ですが、確認しきれない物件は、それなりに多いのでこのくらいで勘弁してもらいたいです。もっとも、正解を知っているというのであれば、是々非々でご教示願いたいです。

そうそう、前述で述べた通り、仲原は大字は友利でありながら、ギリギリ標高100メートルに届かない保茶根の嶺(保茶根の根は嶺のネかも?)で本村と隔てられており、学区も砂川学区ではなく、距離的にも近い西側の福里学区(福里の集落は明治になってつくられている 第228回「當福里還暦記念碑」)に含まれています。友利から離れている理由について定かではありませんが、古くは“保良親道”(当時の国道、街道で平良から下地を経て保良に続く古道)が友利から保茶根を越えて仲原へと通じていたので、もしかすると今よりも比較的近い関係だったかもしれません。現在の国道(390号線)は仲原を通らずに、集落の北側を福里に向っています。また、集落の南方、海沿いを通る県道235号(保良上地線)も、仲原は通っていません。現在、保良親道は廃道となっており、保茶根の嶺の緑に完全に埋もれており、保良親道の時代のような、友利との結びつきは薄くなっているのかもしれません(実際は遠回りになったとはいえ、車なら問題になる距離ではありません)。

この東保茶根の嶺には、戦時中“友利砲台”と呼ばれた砲台が設置されており、今もその痕跡の一部が山中に残っているのですが、この砲台を建設した部隊は仲原公民館(旧)に駐屯し、マエノアブ(仲原鍾乳洞の北西180メートルほどにある鍾乳洞)を砲台建設用の資材置き場にしていたのだそうです。仲原集落から石畳の道を登って東保茶根の砲台建設に従事したという情報もあり、なにもない山に石畳みが忽然と現れるはずなく、おそらくこの石畳こそが、保良親道の痕跡なのではないかと考えられます。この頃すでに集落北の底原側を通る国道は開通しており、徒歩道・牛馬道規格であった親道はほぼ使われていないと見られる(戦後の空中写真でも、薄っすらと親道らしきものは確認できるが、現在は不明)。
この保良親道は友利側は圃場整備で痕跡は薄くなったものの、類似したルートがたどれます。仲原側は保良方面(皆粉地・七又方面)に向け、車道として整備されており、東保茶根の山中だけが失われているので、機会と時間と体力が許すのなら、オブローダーの師匠よろしく、廃道ルートを攻めてみたいと考えています(鎌鉈探検隊募集してます)  続きを読む


2019年05月14日

第232回 「南棚根井戸」



えー、いつもようにひっそりと、しれっと井戸にまつわる石碑シリーズはじめます。もうネタが尽きるんじゃない?っとお嘆きの貴兄もいらっしゃると思いますが、井戸系に限っては時折、ポロっと井戸を発見した時に唐突に現れるので、思い出したようにこそっと続きます。本線である石碑も実はまだ、いくつかまだ大物とゆーか、有名な物件が残っていたりしますので、網羅するためにはそれもやらねば。
さてさて、今回紹介する石碑は、ぶっちゃけ公式名称すらありません(判明してない)。なのでタイトリングは仮称です。けど、まあ石碑とセットで紹介するので、気づかないふりして楽しんでいただけたら嬉しいです。

ということで、南棚根(ハイタナ子)井戸の碑です。こちらは大字でいうと、下地地区の洲鎌。その南端に位置する棚根地区になります。平たく云うと入江湾西岸地区なので、おおざっぱには入江(大字は嘉手苅)と呼んでしまうのかも(なにしろ入江に棚根港があるくらいですから)
えー、棚根集落は特に観光要素もない地味な存在なので、県道235号線保良上地線(海宝館からインギャー、入江、下地競技場、下地保健センター)を通過こそすれ、停まることなどほとんどないようなところ。
以前、渾身の棚根のネタを書いたことがありましたが、集落については触れることがありませんでした。

第190回 「バスのりば(棚根)」

こちらのネタでもなんとなく醸し出していますが、道路の改修によって集落のあり様が少し変わってしまった感のする時間の流れが見て取れます。今回の石碑のある南棚根の井戸は、公民館(洲鎌区コミュニティーセンター/棚根地区農村公園)に西方、点在する住宅群と畑の途中にあります。

よく見かける掘り抜き井戸ではありますが、井戸口の径が通常のものより少し小さいのがここの井戸の特徴と云えます。井戸廻りはコンクリートで固められたタタキで区画されており、転落防止にグレーチングが無造作に乗せられています。
そんな井戸の中から使用感のある鋼製のパイプが伸びています。どうやら畑の散水用にポンプで井戸から水を汲みあげて使っているようです。形は変われど現在も使われている井戸はなかなかお目にかかれないで、ちょっと嬉しいですね。
さて、肝心の石碑ですが井戸の脇にこっそり建立されており、パッと見には気づきません。

小さな石碑には「大正十四年之旧六月十日改築」と刻まれているようです(之がちょっと怪しいけれど)。
大正14年は西暦でいうと1925年、乙丑(きのとうし)の年でした。もう少しで100年になろうかという現役の井戸です。
改築前の姿が判らないのですが、井戸用地としてタタキで仕切られていることを考えると、近隣集落の水場と考えてよさそうです(小字のハイタナネとしては北西に寄っていることと、北側のニスタナ子に井戸をまだ見つけられていないのでやや地理的な配置に偏りがあるのだが…)。

この界隈、海もそれなりに近いのですが、井戸も意外と多いので、周辺で目についたものを備忘録的に少し紹介しておきましょう。
まずひとつめは県道の南側、数軒だけ離れて建つ一角で、外崎(フカザキ)御嶽への入口にある井戸です。余談ですが、外崎御嶽までは舗装もされており、車で入れます(簡易駐車場あり)。そこから林の中を少し歩くと、入江湾の湾口西岸の外崎へと出ます。見晴らしもよく、なかなか気持ちのいい穴場の岬です(実は近くに陣地壕やら銃眼もあったりします。戦時中の資料だと砲台もあった要所だったようです)。
基。井戸ですが、特に名前は不明です。人家の向かいの畑の中にあるので、個人井戸かもしれませんが、軍の要所(井戸の近くに蘇鉄はある)だった外崎の近傍なので、違った意味でのいわくもあったかもしれませんが、それを語る人がおらず、詳細は未明のまま。
ただ、綺麗にキビが刈り取られた季節にこの井戸を見ると、井戸脇に茂った一本の木とともに、なかなか絵になる里山の風景が拝めるのでした。

【① 外崎御嶽入口の井戸】

続いては県道沿いを与那覇方面へ少し行くと、右の道路脇に、枝ぶりのとても素敵なガジュマルが一本茂った四つ辻があります。このガジュマルの道向かいの畑の中に、掘り抜きの井戸があります。非常に残念なことに、石碑ではなく、井戸本体に「昭和八年 上地徳正 八月廿六日」と一筆書きこまれているのです。おそらく井戸の所有者と開鑿日なのだと思います。このように本体に情報が刻まれた井戸は、与那覇(本村)で見かけたことがあります。もしかしたらこのあたりの流儀なのかもしれません(もしくは一時のブーム)。考察できるくらい名入りの井戸が見つけられたらそれはそれでまた面白いのですが、もし情報がありましたらお寄せください。
ちなみに、この井戸の界隈は、与那覇皆愛(来間大橋のたもとの集落)の人々が、戦時中に陸軍西飛行場を建設するため、先祖代々住んでいた土地や畑を二束三文で買い取り接収され、代替えの居住地として移動してきた地域といわれています(戦後は国有地を借りて小作していたが、近年は買い戻した人も少ながらずいるようです)。ただ、年代的に西飛行場は1944(昭和19)年5月の着工なので、紹介した井戸の開鑿とは時期がずれるので、移住して来た時に掘られた井戸ではないようです。

【② 上地徳正の井戸】

さらに与那覇側へ県道を進み、市営第2棚根団地を過ぎた、与那覇との字境近くの蓋をされたコンクリート製の井戸がひとつあります。井戸のすぐ隣に水道メーターがあり、以前は建物があったと記憶しているので、これはおそらく個人宅の井戸と思われます。
この井戸の先(西)にある、四つ辻を境に、東側がこれまで紹介してきた南棚根(ハイタナ子)、北側は小字が変わってカ子ッサ(かねっさ)。そして西側は字与那覇の最東端にあたるカ子チャ原(カネチャバル)になります。

【左 ③ 水道メーターのある井戸】 【右 ④ スラブヤーに挟まれた畑の井戸】

ちょっと字名などが複雑になりそうなので、与那覇のカ子チャ原についてはまたの機会として、同じ洲鎌のカ子ッサへと曲がることにしましょう(北)。曲がってすぐ、スラブヤーの家と家に挟まれた畑の奥に井戸が見えます。雰囲気からして、かつてこの畑には家があって、その家主が使っていた個人井戸ではないかと思われます。

【⑤ カ子ッサの井戸】

最後に紹介する井戸は、もう少し先に進んだ畑の際に残っている古びた井戸です。掘り抜きタイプの井戸なのですが、井戸口は立ちあがったフチがなく、石を巡らせてかたどっているだけという簡素な作りですが、畑の中にありながら井戸の周辺はコンクリートのタタキが作られ、切石で転落防止用に蓋がされています。
こうした井戸の作りの古さから、カ子ッサの集落井戸と考えられます。しかし、現在、小字のカ子ッサには3戸しか人家はありません。廃れて久しい状況ですが、井戸を水を大切にする島の人たちの想いによって、辛うじて保たれている井戸と云えますので、いつまでも大切にして欲しいものです。

【赤い井戸マークが今回の南棚根井戸です】

【参考】
第61回 「人頭税廃止運動ゆかりの地 パチャガ崎」  続きを読む


2019年05月07日

第231回 「Pledge」



新元号「令和」になってから最初の「んなま to んきゃーん」です。なに変わったのかと聞かれても、特になにも変わることのない、いつもの“オトナの自由研究”を地味に地道に突き進むだけでございます。今回紹介する石碑は、平良保険センターと働く女性の家ゆいみなぁの間の道を突当りまで進んだ、その奥にあるテニスコートの入口の影にある石碑です。えっ、そんなところに石碑があるの?ってくらい、自分にとっても意外な場所にあった石碑を見つけたので、紹介してみることにしました(たぶん、テニスをしに来ている人たちも石碑があることすら気にも留めていないと思うくらい地味)。

鏡面のように反射する黒御影に、「Pledge」と筆記体で書かれた文字と、なにやら「JAPAN」の文字が入ったエンブレムが刻まれた、こちらの石碑が今回の主役です。
まずはGoogle先生に「Pledge」ってなに?って聞いてみると、「誓約する」と答えてくれました。ふむ、なるほど。エンブレムの下に書かれた解説を読み進めると、その理由も判って来ました。

こちらのエンブレムは国際青年会議(JCI)のトレードマークの上部に、日本青年会議所(Junior Chamber International Japan)を意味したJAPANのリボンを勝手に足してあるもののようです(日本青年会議所でも使ってないエンブレムだけどいいのかしら?)。

石碑建立の趣旨は、宮古と津山の青年会議所が姉妹縁組を締結して、30周年を迎えたことを記念して作られたものでした。姉妹遠組は1965年の締結で、1994年で30周年を迎えているので、2019年では54年目になります(もしかして、50周年の記念碑もどこかにあるのでしょうか?)。
ここまで「津山」を軽くスルーしてきましたが、津山とは岡山県津山市のこと。かつては美作国の国府が置かれていた、中国山地に囲まれた津山盆地に広がる県下第三の都市。多少詳しい人なら、宮古島市の姉妹都市が結ばれている市でもあります。津山市との姉妹都市の縁組は、旧平良市時代の1965(昭和40)年に締結されていますので、宮古島市となっても続いていることになります。

津山市のHPには2015(平成27)年に、宮古島市との交流50周年を記念した交流事業が紹介されています。

「宮古島市との交流50周年 ~きっと、つながっている」

宮古島市のHPではこうした取り組みの紹介はなく、検索してやっと過去の広報(2014年7月号)に掲載された見開きの特集で、簡潔に50周年が紹介されているにすぎません(私見も含んでいますが、人頭税廃止の立役者・中村十作についても似たようなことがいえるのですが、どうも宮古島は相手側に立ってリスペクトする戦術がことごとく苦手のようで、関連リンク的な紹介がほとんどなされていません)。記憶をたどってみると、確かに50周年を記念した津山の物産イベントのようなものも行われていましたが、いまひとつ盛り上がることなく過ぎ去った気がていします。

この両市の縁組はそもそも1963(昭和38)年に、平良第一小学校の砂川恵保校長が津山市に研修で派遣され、津山南小学校と姉妹校縁組が結ばれたことに起因しています。校長同士が意気投合し、姉妹校になり、交流が発展して姉妹都市という出来好きのような美しい流れの中に、今回紹介しているJCの縁組も姉妹都市縁組にあわせて締結されたと紹介されてます。
   【津山市と宮古島市との友好交流都市縁組50周年記念「交流の振り返り」】

ちなみに、津山市のHPにある『津山市と宮古島市との友好交流都市縁組50周年記念「交流の振り返り」』と題されたYouTube動画にも紹介されているのですが、平一小の砂川校長が津山を訪れる以前か、宮古と津山の関わりがあったエピソードがちらりと紹介されています。
1956年に津山市にある、美作大学(短期)に平良の女子学生が入学していたそうで、とうも草の根レベルの交流があったようなのです。
しかもこの先には、小耳にはさんだ史実に載らない話で、ご本人からの裏取りもちゃんと出来てないので、書くことが出来ないのですが、妄想を最大にブーストさせると、このきっかけのきっかけを生んだ宮古からの女学生が、もしかして繋がるんじゃないかと。いつかもう一度、美作・津山の話をきちんと聞いてみたいものです(自分の妄想が作った幻影だったら恥ずかしすぎるけど、この薄っすらちりばめたキーワードだけで、ピンっときた人かいたらこそっと聞いてみて欲しい)。

ここまでの流れ。
実は、過去の石碑紹介で使ったネタの焼き直し感が否めなかったりもします。
第30回「眞栄城徳松氏の像」
第51回「平良市役所」
気になった方、未読の方は、こちらもぜひ、お読みいただけたら幸いです。


えー、この場所には実はもう一枚、石碑があるのでそちらもさらっと紹介しておきましょう。
なにも姉妹縁組は津山だけではないのです。それがこちら。

「友情 奉仕 修練」の3つのスローガンを書き添えた、民雄国際青年商會との姐妹縁組(こちらは姉ではなく姐)の締結30周年を記念して建立されたもののようです。というのも、3つのスローガンの下に、字色が抜けてしまい薄っすらとしか読めませんが、おそらく「創立30周年記念 (社)宮古青年会議所」と刻まれています。

こちらの姉妹縁組の相手は、民雄国際青年商會(民雄JC)。いったいとどこのなにか?。石碑には中華民国とあるので地域が台湾であることはすぐに判りましたが、民雄とは聞いたことがない地名だったので、調べてみるとどうやら嘉義縣にある民雄郷であることが判りました。地理的には嘉義市(台湾西部、台中市と台南市の間)の北8キロほどにある隣り町のようです。【MAP】
宮古と民雄が姉妹締結をしたいきさつについては、調べても特に出てきませんでした。台湾と宮古のつながりとしたら、台北に近い基隆市が、2007(平成19)年に宮古島市と姉妹都市を締結していますが、民雄郷や嘉義縣とのつながりは思いつきませんでした。

さて、ここからは年号の計算と謎解きです。
石碑に記載されている年数は1991年。そして判明している数字は30周年。これが締結された年号だとするなら、2019年の今年でさえ、まだ28年しか経過していません。
そこでJCの記事をあさって見ると、なんとこのゴールデンウイークの直前(4月25~27日)に、宮古JCは台湾へと渡っていたようなのです。

姉妹締結30周年を祝う/宮古、台湾民雄JCが式典(宮古毎日新聞 2019年5月3日)

記事によると、「姉妹締結30周年を祝う」とあり、「宮古JCと民雄國際青年商會は1989年に姉妹青年会議所となった」と書かれていました。
なんかおかしい。石碑は30周年のものではないのたろうか…。

次に、民雄国際青年商會(民雄JC)のFaceBookを眺めてみると、2017年に民雄JC創設35周年の式典を開催しています。そこから逆算すると民雄JCが誕生したのは1982年であることになり、創設まもない頃に宮古JCと姉妹縁組をしたことになります。

民雄國際青年商會35週年慶
※ちゃんと宮古JC側にも記録がありました。

さらに詰めてゆくと、宮古JCとの姉妹締結はJCの本部資料(シスターJC締結一覧 2014年12月4日現在)でも、1989年9月12日と確認できることから、姉妹締結の30周年はやはり2019年で間違いなさそうです。
では、石碑の建立日と目される「1991年」と、薄くてうまく読めない「30周年」とはいったなんなのでしょうか?。

数字と格闘し、あちこち検索して、ようやっとその答えを見つけました。
「創立30周年記念 (社)宮古青年会議所」とは、まさに文字通りにそのままだったのです。勝手に碑面に書かれていた民雄JCとの姉妹縁組に単純に引っ張られていただけだったのでした。
そう、真実は宮古JCの創立が1962年だっという、なんともお粗末なオチだったのです(厳密には1年ずれてるけど)。
おそらく、宮古JCの創立30周年の記念式典に参加した、民雄JCがこの石碑を記念に贈ったのではないかと推測します。

最後に、本来のオチとして用意しておいた、この石碑の設置場所ですが、その場所こそが宮古青年会議所の建物がある場所だったんてすね。この時までちっとも知りませんでした。

ああ、もう。やれやれだぜ~!。  続きを読む


2019年04月23日

第230回 「腰原青年館」



先週の「新豊の井戸」の石碑を語りながら、なんとも妙な着地点になったことから、今回はその関連として「腰原青年館」の碑を取りあげたいと思います。とはいえ、今回の紹介するブツは本来、石碑ではありません。現状の形態は記念の碑のようにしつらえられていますので、石碑として扱ってみることにしました。

こちらの碑は平良下里の腰原コミュニティセンターの入口脇にあります。実のところ何度かここのコミセンは訪れているのですが、最近までまったくこれの存在に気づいていませんでした。腰原コミュニティーセンターは2011年6月の完成ですから、誠にお恥ずかし話です。

新聞の記事によると、
腰原コミュニティセンターは、国の戦後処理の一環として位置付けられた「旧日本軍飛行場用地補償事業」で建設。戦時中、腰原集落の土地一部が日本軍に強制接収されたことから、その補償として総事業費1億6000万円でコミュニティセンター、御嶽、井戸が整備された。
と、あります。
この時、整備された井戸は、コミセンからもう少し南に下った、降り井戸(ウリガー)の腰原井戸や、豊井戸を整備しています。
偶然ですが、当時、腰原の井戸を見に行っており、その時に撮影した様子がこちら。

【左 2011年5月撮影の腰原の井戸】 【右 2011年4月撮影の冨名腰の井戸(シーサー給油所裏)】

【右 中ヌ御獄。共和マンション裏の細道にあります】
この時、コミセンのことにも気づいていれば良かったのですがね・・・。
代わりといってはなんですが、同時期に隣の字の冨名腰も同様の降り井戸を整備していまして、当時の井戸を撮影していたので、こちらもしれっと紹介しておきます。
今はどちらも一定の時期を除き、ほぼ常にもしゃもしゃと茂っていますので、ここまでまるっとマルガリータなのはなかなかないかと思われます。

また、整備した御嶽については、特に言及されていませんが、恐らく集落の中央にありも祭祀でも一番重要な役割を担っていた、中ヌ御獄とみられます。現地は今、こんな感じです。
この立派なガジュマル(根しか写ってないけど)がもし折れていなかったら、どれだけ素敵なことだったことでしょう。残念でなりません。

と、ひとりごちていたら、なんと落成祝いの記事が出て来てしまった。
そちらによると、整備したのは中ヌ御嶽ではなく、下里家具(元・宮古製糖平良事務所)の裏にあるトゥーミ御嶽への道路を整備したとありました(確かに今はアスファルトの道路が作られている)。
 腰原公民館落成祝う─旧軍飛行場用地補償が完了(宮古新報 2011年6月11日)

現在、コミセンが建っている場所には、1950年12月26日に竣工した「腰原公民館」がありました。それが今回の碑の元です。コミセンの建設が決定したことから、2008年には休眠状態だった自治会組織が20年ぶりに活動が再開。また、旧・腰原公民館の取り壊しを前に、お別れ会を開いたという逸話も泣かせます。
宮古島にある公民館の中でも古い建物の一つ。 鉄筋はレールなどを使用し、 材料のバラスは住民が負担したという。 役員らは古くなった公民館を見ながら利用した当時を懐かしそうに振り返った
戦後、モノのない時代なので、鉄筋の代替えというイメージは判る話なのですが、レールというところがどうしても引っかかります。
大正期に導入され戦前、戦中あたりまで沖縄製糖下地工場に向かって、島内各地からキビを運搬するトロッコ用のレールが50キロ近く張り巡らされていました。戦争中にこのレールは資材や壕掘りの工具として使われました。また、戦後はトラックの普及が始まることから、島の鉄路は人知れず消えてしまったので、その廃材ではないかと思われるのですが、このタイミングでどの程度まで線路が残っていたのかという点も気になります。尚、レールと云っても今どきの電車が走るようなゴツイいものではなく、無動力(人力または馬曳き)でナローサイズのトロッコ用なので、細く短い簡易的なレールでした。

【沖縄製糖工場のそばに辛うじて残されていたレールと、レールを使ったフェンスの支柱】

記事中でも、しれっと「腰原公民館」と云い切ってしまっていますが、碑をよーくみると、「腰原青年館」と書かれています。かすれ過ぎているのではっきりと見えませんが、ローマ字の読みは「KOSIHARA SEINENKAN」と書いてあるようです。
よく耳にする“こしばる”ではなく、“こしはら”と呼んでいたのでしようか?。島ことば読みなら“くすばる”ではないかとも思うのですが、こちらもまた謎として気になります。どなたか詳しい方ご教示下さい。

上手くまとまらないので、最後は強引に数撃って当たれ方式で〆てみたいと思います。
こうした旧公民館、青年館は今やほどんど残っていません。軒並み建て替えられているか、取り壊されてしまっています。そんな希少な建物をいくつかご紹介しておきます。まずは、下里添の花切にある下南公民館の道向かいに、ほぼ廃墟ですが当時の面影が残る「青年会場」がひっそりと残っています(軍の駐屯歴があることから、おそらく島で唯一の戦前に建てられた公民館系の施設と考えられます。貴重な文化遺産として保存保護して欲しい)。
決して大きくな建物でありませんが、スラブヤーで飾り屋根がついたちょっと洒落た雰囲気が漂う、地盛の旧公民館。民間に払い下げられたのか、公民館の面影を残したまま扉や窓などがリニューアルされ、今も使われていたりします(屋根にしっかりとと痕跡が残っている)。

【左 戦前の公民館施設とみられる、下南の青年館】 【右 地盛の旧公民館の建物に残る痕跡】

また、戦後作りの“腰原公民館”のようなローマ字表記が残ったスタイルは、伊良部仲地の旧仲地公民館が現役としては唯一ではないでしょうか。もっとも、現在は公民館としての役目は終え、拝所として利用されています。

【もう、フォントが格好良すぎる仲地公民館】

あと、古そうなのは、払い下げ済みになっている上野野原にある、元ナベヤマ公民館や、宮国の旧大嶺公民館などが思い起こされました。新里の長立や東青原、上野の側嶺などは、公民館そのものが取り壊され、自治会活動が低下しているので、新たな公民館が作られないというスタイルも出てきており、古い公民館(旧施設)情報などもあればぜひぜひ教えてください。

【参考資料】
集落(スマ)を歩く】 腰原    (宮古新報 2012年)

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2019年04月16日

第229回 「新豊の井戸」



また、性懲りもなく井戸にまつわる石碑シリーズです。一応、形としては第225回「紀念・七原井」の続き、ではありませんが、枝編になります。流れとしては、第150回スペシャル企画「霊石」の七原の霊石にもつながっていますが、タイトルは仮称になります、というのも今回紹介する石碑のタイトルが読めないからです。まあ、ともあれまずがーと石碑を見てやってください。

上部が完全に引っ剥がれてしまってないのです。
辛うじて読めるのは、下の数文字だけ。それも左側はたぶん、「~十九戸」かな?、上の方の「十」も怪しいので、確実なのは「九戸」まで。これは井戸を開鑿した時の集落の戸数(出資した?)とみられます。次に右側。こちらの一番下の文字が「成」なのは、すぐに判明しました。その上の文字が難解でしたが、ハタとこはふた文字あると気づきました。「成」の上には「完」と「年」なのではないかと。つまり、「~年」で改行して、「完成」と刻まれているのではないでしようか。いかがでしょうか?、皆さんの見解は?。

ともあれ、「~年 完成」「~九戸」としても、肝心の部分が剥がれ落ちていて、まったく読めないのには変わりはなく、非常に口惜しくあります。
実はこの石碑は、非常に珍しい三角柱なのです。デザイン上この形をしていたものは、砂川(うるか)のナナサンマルの石碑(第41回「730記念之塔 砂川学区交通安全協会支部」)くらいしか見たことがないと記憶しています。尚、余談になりますがこの宮古のナナサンマルの石碑には大きな謎があり、「ナナサンマルを追え!」と題して金曜特集にしたこともあります。

他の二面のうち、ひとつはまったくの空白ですが、もう一面には「責任者 松原常保 宮■■祥」と、恐らく当時の新豊(にいとよ)集落のトップとみられる人物の名前が刻まれています。
しかし、この新豊の集落。前述の七原集落が海軍飛行場建設により集落まるごと土地を接収され、現在の鏡原中の南側へと移転して新たな七原集落を建てることになります。一部の人々は親類縁者を頼るなどして近隣各地に移住し、七原の人々はあえなく離散することになります。そんな一部の人たちが新天地として、新豊へ移転したといわれています(飛行場は1943年6月に完成)。
云い忘れていましたがこの新豊の集落は、現在の空港入口の七原集落(字下里)から、南に約800メートルほど離れた、字松原の畑の中にあります。といっても、現在、新豊の集落はライトマザーという宿が一軒だけあるにすぎない、事実上の廃集落となっています。

1945年に米軍の撮影した新豊の集落の様子を見ると、30軒ほど家々が軒をつられねており、決して大きくはありませんが、それなりに集落としてのスタイルを保っていたようです。尚、集落は平良村(当時)の南端に位置し、500メートルも南に行くと、下地村川満の高千穂地区、カツラ嶺(カザンミ)の集落があります(こちらは今も現存しています)。

【左 1945年米軍撮影 逆さへの字の山の部分が新豊集落。集落奥に丸く井戸も見えています】 【右 1963年米軍撮影 逆への字の傾きが縦になってます。中央やや左の森に隣接した十字路。戸数がかなり減っています】

そんな新豊の集落の話をここまで書いてきて、ふと、新たな気づきがありました。しかも、かなり重大な。。。
海軍飛行場(現在の宮古空港)に土地を接収移転された地域は、飛行場の南側(上野側)ばかりでなく、北側(平良川)にもありました。たとえば腰原や冨名腰です。七原ほどではないにしろ、後に補償問題にも出て来るので接収はあったようです。他にも越地(くいず)という集落もこの時、消失しています(ファミマ宮古鏡原店の裏手に「越地市」という一瞬だけ営業していた店舗の看板が、その地名の名残ともいえます)。

確かに第148回「豊井戸」で取り上げた腰原の集落ネタでも、空港に隣接したエリアというのがよく判ります(腰原の南部)。もしも、この豊井戸のある腰原豊地区(?)の一部が接収されいて、空港の南側に新しい集落と作ったと考えると、「新豊」という集落名がなんかすんなり繋がる気がするのです。しかも、豊井戸のある集落から、新豊へは海軍飛行場の滑走路の西端をかすめて、新豊集落を通り抜け、高千穂のカツラ嶺へと一本道が繋がっています(現在は滑走路が延伸されているので、道は一部しか残っていない)。

七原集落の移転についての苦労話や、戦後の補償問題などの資料はあるので、いくつかをそれとなくチェックしたのですが、細かな接収と移転先について記事を取りこぼしているようで、完全には裏が取り切れていませんでした。自分でこね回しているうちに、だんだんとこちらの説が真説かもしれないと、書きながら気づいてしまいました。
字史とかあれば振り返れそうなものなのですが、すべての集落に字史があるわけではないので、こうした細かいネタにはなかなか短時間で当たれず、時にこんなことが起きます。えー、この件に関しては、個人的にもちょっと宿題にして、ひとまず用意しておいたネタを処方して、逃げるようにして〆てゆきたいと思います。

井戸のネタなので、水っぽいネタです。新豊の井戸の少し南に、古いセメント瓦の畜舎があります(元は住居兼。空中写真にもある)。ここに2メーター四方のコンクリート製の天水タンクがありまして、その壁面にこんなことが書いてあります(今は一部の壁面を壊して、小型農機を収納する小屋かわりに改造されている)。

「使って清らか、飲んで健康 一九五四年九月弐七日 建設」

1953年から地域的な簡易上水道が積極的に整備されはじめ、1965年に宮古島上水道組合が誕生して、本格的な上水道の敷設がはじまるまでは、人々の生活には井戸やこうした天水タンクが重要な役割を占めていたことが、なんとなく伝わってきます。特に1960~70年代は大旱魃と島を、直撃する猛烈な台風が発生しています(子年の大旱魃卯年の大旱魃宮古島台風)。

もうひとつ。こちらはもう少し深い趣味系。
この新豊の集落(跡)から西に400メートルほどのところに、雑木林に覆われた浅めの陥没ドリーネがあります。周辺の一部は造林されており、見た目にはよく判りませんがここに、トゥニガーアブという洞窟がひっそりと隠れています。
ドリーネの北向きの壁面に開口した洞口からS字状に続く洞穴で、全長48.5メートルとそこそこの大物洞穴(入口には不法投棄か多い)。洞内への土砂の堆積があることから、雨などの流れ込みも多いとみられます。また、鍾乳石の発達も特にないので、物好きじゃなきゃ行くようなとこでない上に、洞奥には6メートルほとの縦穴もあるので、徒手空拳で最深部まで潜ることはできませんが、なかなか楽しいプチ・ケービングが出来ます。



【資料(再掲)】
「集落(スマ)を歩く」 七原(上) 七原(中) 七原(下) (宮古新報2012年)
 とある宮古の巡検雑記 スタパ版08 2014年01月03日

※現在の「新豊の井戸」は畑の中に隠れており、サトウキビが刈り取られた時期にしか見ることは出来ません。  続きを読む