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2014年12月30日

第11回 「ドイツ商船乗組員救助者 顕彰碑」

遂に「ドイツ商船ロベルトソン号遭難に始まる博愛記念碑の物語」は延長戦に入りました。前回、調査不足が露呈したための延長戦なのでが、今回紹介するのは「うえのドイツ文化村」の中にある碑なのですから、ちょっとぱかりお粗末な結果で大変申し訳ありませんでした。
第8回で紹介した「独逸商船遭難の地-公爵近衛文麿-」から、ほんの少しだけマルクスブルク城に寄ったところにあるレリーフです。

レリーフのモチーフは難破したロベルトソン号に向け、荒れた海をサバニを漕いで救助に向かう三人の島人を描いています。
その碑文には
ドイツ商船乗組員救助者 顕彰碑

 明治六年(一八七三年)ドイツ商船R・Jロベルトソン号は、中国の福州からオーストラリアのアデレード向け出航したが航行中、台風に遭い無念にも乗員二人が大波の犠牲となり、その上、マストと二隻のボートも流失し、僅かにマスト一本とボート一隻を残すのみとなった。
 木の葉のように嵐の大海原をさまよう中、七月十一日、宮国の浦穴川の東沖一〇町余りの大干瀬に坐礁したのである。嵐の中の海面は潮たぎり、怒濤逆巻く波の音は物すごく言語に絶し、哀れにも乗組員の生命は絶対絶命である。
 この有様を発見した宮国の住民はクリ舟をこぎ出して救助に向かったが、波高く船に近づくことは容易ではなく一旦島に引きかえして来た。そして、一晩中かがり火をたいて船上の乗組員たちを激励して勇気づけた。
 「人事をつくして天命を待つ」住民の意気天に通じたのか、さしもの嵐も七月十二日にはようやくおさまってきたのである。
 民衆の白熱的応援によって宮国の勇士等がクリ舟をこぎ出して、ようやくドイツの遭難船に近づき見事乗組員全員の救助に成功したのである。救助された乗組員は三十四日間にわたり手厚く看護して無事本国へ帰国させた。
 荒れ狂う激浪の中、身の危険も省みず小さなクリ舟をこぎ出して異国民の生命を救助した勇敢な上野村出身の勇士は、砂川蒲戸、垣花真津、宮国坊である。彼等の決死の行動、博愛の心は我々に脈々として受け継がれており、今日、村づくりの理念として大きな役割を果たしている。
 こうした彼等三名の歴史的偉業を末永くたたえ、今後精神文化遺産として広く正しく後世に伝えると共に村づくりの糧としていくことを念じてここに顕彰を建立するものである。

平成八年七月 建立
沖縄県上野村
納入 (有)沖縄ブロンズ

※読みやすくするため一部、句点を加筆しました

と、記されている。第9回の「佐良浜漁師顕彰碑」の記述とは趣きが少々異なり、宮国出身の三名が救助にあたっているように書かれている。どうやら、さまざまな文献や研究資料(史料)によれば、海に慣れている佐良浜漁師と地元に詳しい宮国の人が、混成チーム(二隻で)で救助にあたったということらしいそうです。
そしてこの宮国の三名は漁師とかではなく、遠見役。つまり海の見張り番であったようで、想像するに最初にロベルトソン号を発見した人たちなのではないだろうかと妄想します。

後の60周年や100周年の際には、この救助にたずさわった人々の末裔らが表彰されていたりもするのですが、どういう訳だか、佐良浜と宮国でそれぞれ別々に博愛の物語が語られ、本来の歴史の姿が歪められて現代に伝わっているのであります。
その点ではやや残念な気もしますが、偽史はこうして常に生まれ続けているものなので、逆に云い換えると、こうした過去視から歴史ドラマを再構築して、その謎解きを楽しんでいるのかもしれません。
タイムマシンが完成するまでには「ドイツ商船ロベルトソン号遭難に始まる博愛記念碑の物語」の真実にたどり着き、「Q.E.D.」と云ってみたいものです。  続きを読む



2014年12月23日

第10回 「博愛」@宮古島市役所上野庁舎

ドイツ商船ロベルトソン号遭難に始まる博愛記念碑の物語も佳境の5回目となりました。第一回の講座(2014年9月7日開催)を開催するにあたり、関連する碑-いしぶみ-たちを改めて現地調査してみると、思った以上にたくさんあることが判りました。島の人々がなんらかの形で、その時の記憶を記録として遺そうとしていることがよく判ります。
石碑は書物などの紙や電子記録媒体(BDやCDなど)に比べ、物理的に超長期間の記録をすることが可能です。ただ、石だけに細密な記録はなかなかできなませんが、日常的に石碑を目にすることで人々の記憶から風化することを防ぎ、語り継ぐという効果が実はとても高いのではないかと、愚推するに到りました。
けれど、今回紹介する石碑はこれまでのものとは、かなり趣きが異なり、ある意味では謎のモノリスと呼んでもよいかもしれません。

場所は宮古島市役所上野庁舎(旧・上野村役場)の外れ、日本最南端の国道390号線に面した駐車場の植え込みに存在してます。国道側からみるとこのように丸い球を上部に戴いた黒御影石に「博愛」と縦書きされたシンプルな碑になっています。この碑には特に碑文の説明や建立の記録などは特に書かれていません。
なにより衝撃的なのは、駐車場側から見た碑の構造にありました。なんと碑の下に香炉が置かれた拝所だったのです。拝所の名前やいわれについては現在まで判っていませんが、1873(明治)6年のロベルトソン号遭難に始まり、さまざまな情勢に翻弄されてきた「博愛」という言葉が、遂に拝まれる存在となって神格化がなされたようです。
詳細が未明なままなので解説としてはジョークを含んでいますが、博愛が拝まれる対象になるということには大変驚かされました。この異色の碑について情報をお持ちの方は、ぜひご教示ください。

第一回みゃーく市民文化センター講座のワークショップにて、「博愛」関連の碑について紹介させていただきました。
漲水(西里183-4)にあるホンモノの「ドイツ皇帝博愛記念碑」はもちろんのこと。
第2回 「ドイツ皇帝博愛記念碑 レプリカ」
第7回 「博愛-公爵近衛文麿書-」
第8回 「独逸商船遭難の地-公爵近衛文麿-」
第9回 「独逸商船遭難救助 佐良浜漁師顕彰碑」
そして今回の上野庁舎の「博愛」拝所と、全部で6カ所あるとご報告させていただいたのですが、この「んなま to んきゃーん」を書くにあたって再々調査をしたところ、まだ関連の碑が存在していることが判明しましたので、ワークショップの報告内容を訂正するとともに、こちらで紹介したいと思います。
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2014年12月16日

第9回 「独逸商船遭難救助 佐良浜漁師顕彰碑」

ドイツ商船ロベルトソン号遭難に始まる博愛記念碑の物語も、今回で4回目となりますがもう少し続きます。今しばらくお付き合いいただけたら幸いです。
さて、今回は宮古島から海を渡った伊良部島は佐良浜にある、「独逸商船遭難救助 佐良浜漁師顕彰碑」です。
碑は間もなく伊良部大橋の開通によって廃止となる佐良浜港の近くあります。建立は比較的新しく2005年ですが、ロベルトソン号の救助を実際に行った佐良浜の海人を顕彰するものです。

脇に建つ副碑には、1873年(明治6年)当時、ロベルトソン号の救出にあたった8名の海人の名前と、その後、60余年経過した1936(昭和11)年の記念碑建立60周年祭で贈られた感謝状の全文が記されています。さらに60余年後に、この碑が建立時された際には曾孫にあたる方が除幕式に参列しているという、なんとも壮大な年代記になっています。

感謝状

右ハ明治六年七月宮國穴川沖合ニ於テ独逸船ロベルトソン號難破坐礁セルニ際シ宮古島政廳(政庁)蔵元ノ命ニ依リ急遽宮國海岸ニ到リ風波狂フ中ヲ傳馬船二隻ヲ以テ遭難者ト荷物ヲ下シ又歸國(帰国)ニ際シテハ水先案内者トシテ池間島沖合迄見送リタリ独逸皇帝感謝記念碑建立六十周年記念式ヲ興行セラルゝニ當リ感謝ノ意ヲ表ス

   昭和十一年十一月十四日
   沖縄縣宮古郡教育部會長 明知延佳

漁師名
佐久本 宗太郎
濱川 孫太郎
仲間 善足
嵩原 松
伊佐 亀太郎
川満 福吉
仲間 善
仲間 梅吉
※判りづらい旧字体にカッコ書きで新字体を補足しました。


仄聞したところでは、ドイツ商船遭難事件当時は人頭税の施行期で、租税は畑で出来る農作物が中心(上布も元となる苧麻も植物である)で畑仕事に忙しく、海に出てまで漁を行う人はほとんどなく(行ったとしてもリーフ程度だったらしい)、佐良浜の漁師は稀有な存在であったらしい。また、彼らは泊りがけで漁に出ることもあったようで、停泊地に簡易な小屋を作って寝泊りしていたという。
恐らく事件当時は、折からの台風を避けて宮国近郊に避難していた所を、操船技術を乞われて救出に従事したということのようで、永らく現場となった宮国の人々が船を漕ぎ出して救助したと語られていた点が改められたエピソードでもある。

余談として、佐良浜の海人たちに感謝状を贈っている沖縄縣宮古郡教育部會長の明知延佳は、この60周年式典でドイツから赤十字名誉章(勲章)を、稲垣國三郎(1886-1967 愛知県出身の教育者)とともに受賞している。
ちなみに、ここのところレギュラーで登場している下地玄信もまた、育英会の記述によると鉄十字章をドイツから賜っているようなのです。
この時代、勲章はステータスとしてはとてもポピュラーだったようですね。
尚、この明知延佳(1922年生まれの広島県出身)なる人物については、まだあまりよく判っていません。どうやら地方行政に長けていたようで、後にエリート官僚として台湾の宜蘭市役所の地方理事官(1942~4年)を務めているようです。もしも、なにか情報をご存知ならばぜひご教示ください。  続きを読む



2014年12月09日

第8回 「独逸商船遭難の地-公爵近衛文麿書-」

前回に引き続き、ドイツ商船ロベルトソン号遭難に始まる博愛記念碑の物語(その3)で、公爵・近衛文麿が揮毫したふたつ目の碑、「独逸商船遭難の地碑」(史跡指定)です。
こちらの碑はドイツ商船ロベルトソン号が座礁、遭難したンナト浜沖のリーフに面して建設されたテーマパーク「うえのドイツ文化村」(1996年オープン)の中に建立されています。ロベルトソン号の座礁現場をもう少し正確に記すと、ドイツ村に隣接した博愛漁港(水中展望船シースカイ博愛のりば)の沖合いのリーフエッジにある、赤い航路標識の近くなのだそうです。

碑の横にある旧・上野村による解説板には、下記のように説明されていました。
「ドイツ商船遭難之地碑」
上野村指定文化財(史跡)
昭和54年3月9日指定

 1873(明治)6年7月2日、中国の福州を出航したドイツ商船R.J.ロベルトソン号がオーストラリア向け航行中、洋上で台風にあい、同年7月11日、この碑のおよそ1km沖にあるウプピシ(大きな干瀬のこと)に座礁して遭難した。
 宮国の人々は台風で荒れ狂う激波の中、翌7月12日、危険をおかして乗組員8人全員を救助し、37日間にわたり親切ていねいに手厚くもてなし、帰国させた。
 このことは、いち早くドイツの新聞に取り上げられ、ドイツ政府は宮国の人々の純情に感激し、皇帝ウイルヘルム1世は1876(明治9)年、軍艦を派遣して平良市西里(親腰)に博愛記念碑を建てた。
 この美談は、昭和12年の文部省発行教科書“尋常小学修身書巻4”に「博愛」という題で載せられ全国の小学校で教材となった。
 このドイツ商船遭難の地碑は、宮国の人々の美しい心と勇気ある行動をいつまでも讃えるために、ロベルトソン号遭難から63年目の1936(昭和11)年に近衛文麿公の筆により刻まれた。

当時の解説についてはいくつか気になる点もありますが、この碑は前回同様、第2回で紹介した下地玄信(1894-1984)が深く関係しています。
この碑が建立されたのは下地玄信が尽力した1936(昭和11)年の博愛記念碑60周年記念のイベントでした。碑の背面に記されれている言葉によると、「独逸皇帝感謝碑六十周年記念式典」と呼ばれていたもののようで、駐日独逸大使代理の京都日独文化研究所主事フリードリヒ・トラウツ博士(1877-1952)夫妻を招き、この石碑の階段で関係者と一緒に並んでいる式典の様子が、宮古最古の映像史料として残されています(2014.9.7開催の第一回みゃーく市民文化センター講座にて、宮古島市史偏差室のご厚意により、特別に上映させていただきました)。

また、碑の背面には
独逸皇帝感謝碑六十周年記念式典の際建立之
     昭和十一年十一月十四日
     主催  宮古郡教育部会
     賛助  大阪在住縣人有志

と、建立時の状況が記されています。他にも碑の側面の端には、この碑を作成した大阪市住吉区の新谷石材店の名前も記されており、当時の関係性が朧げながら読み取ることが出来ます(この頃、下地玄信は大阪で公認会計士を柱に活躍していた)。

この碑をよく見ると碑のところどころが欠けているのが見受けられます。なんでもこれは機銃掃射の跡だそうで、あまり知られていない戦争の遺構でもあるそうです。  続きを読む


2014年12月02日

第7回 「博愛-公爵近衛文麿書-」

ドイツ商船ロベルトソン号遭難に始まる博愛記念碑の物語は、さまざまなヒストリーを紡ぎ続けながら現代まで繋がっています。そんな博愛関連の碑シリーズ第2弾です。

カママ嶺公園の宮古総合実業高校側の麓。うっそうと茂った林の中に建つ大きな石碑です。
近年、新宮古病院の建設に伴う公園駐車場入口の変更工事によって道路の線形が改良され、バン工房アダナス(みやこ学園アダナス分場。ここは旧・博愛スーパーだった)側からも石碑が見えるようになりました。

石碑の裏に書かれている碑文。

碑文

 この「博愛」の碑銘は、近衛文麿公爵の書である。
 明治6年6月17日(旧暦)に宮古島の南方沖合いで台風に遭遇したドイツ商船、エル・ロベルトソン号の遭難者8人を救助し献身的な介護のうえ、無事、ドイツに帰国させた。
 この宮古の人々の崇高な博愛精神に近衛公が感激し、博愛の書を記され、宮古出身の下地玄信にくだされたのを同氏から宮古へ寄贈されたものである。
 この栄誉を記念するとともに、この行為が博愛の象徴のひとつとして、後世に伝えられることを願い、この碑を建立するものである。

 記、建立費用の大半は、「育英の父」と称される下地玄信先生から寄せられたものである。

昭和59年5月吉日
博愛記念碑建立期成会


近年の研究成果から、遭難者救助の真相や船長のドイツ未帰国譚、「博愛」の時局ごとの変遷など、これまで知られていた歴史の真相が紐解かれ、非常に興味深い事象となっています。

碑文の中にも紹介されている下地玄信(1894-1984)は、以前、第2回で紹介した博愛記念碑のレプリカや、ドイツ村の遭難の地の碑にも関係してくる人物なのですが、奇しくもこの碑が建立されたのと同じ頃の1984(昭和59)年5月23日に亡くなっています。

また仄聞したところでは、近衛文麿が揮毫した「博愛」の文字は、1936(昭和11年)の博愛記念碑60周年で建立された、ドイツ村にある遭難の地の碑(こちらも文麿揮毫とある)とともに記されたもので、永らく書(掛け軸か?)のまま保管されているばずだったが、石碑建立の際に紛失が発覚し、やむを得ず書を撮影してあった写真から起したらしいとのこと…。
ちなみに、近衛文麿は3度も内閣総理大臣になっているが、第一次内閣は1937年組閣なので、この書を書いた頃はまだ総理ではなかったであろうと推測されます。

近衛文麿 
1891(明治24)年-1945(昭和20)年 政治家・公爵。東京生まれ。
五摂家の筆頭の家柄で、1937年に45歳7ヶ月という伊藤博文に次ぐ若さで、内閣総理大臣となり第一次近衛内閣を組閣するも、盧溝橋事件に始まる日中戦争の和平交渉に失敗。1940年の第二次近衛内閣では、新体制運動が陸軍に利用され大政翼賛会が成立。また日独伊三国同盟を締結して「南進」政策を取る。1941年7月に対米調整するため総辞職し、第三次近衛内閣を組閣したが、東條英機の対米主戦論に破れて総辞職した。終戦後の1945(昭和20)年12月。A級戦犯として極東国際軍事裁判で裁かれることになるが、巣鴨拘置所に出頭命令に応じず青酸カリを服毒して自殺。没年54歳2ヶ月は歴代総理大臣でもっとも若く、死因が自殺なのも唯一である。  続きを読む