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2020年06月07日

第23回「下川凹天の撮影技師 柴田勝の巻 その11」



今回のコロナでは、特に芸術・芸能関連ニュースを見ていました。この業界で何かあるごとに、ガソリンがぶちまけられたようにネットは、炎上していました。個人的に印象的なのは「安倍首相、星野源の動画にコラボで炎上」。芸能って政治に利用されやすいですね。



同じように「芸術、文化に対する国の助成」のニュースも。数日前に発表になりましたが「コンサートや演劇などが中止や延期に追い込まれた主催者への支援策」が決まりました。今後行う公演を収録し、海外に動画を発信する場合に最大で5000万円が補助されるそうです。

アニメーションは、特に助成はないようで、一般企業と同じような支援策でした。



法人を支援する施策が多いので、漫画家・イラストレーターの個人事業主クリエイターはもっと厳しそうです。凹天は、このような人たちと近い境遇だったと思います。

凹天の時代は、風刺画家、漫画家は、当時の超売れっ子を除き、かなり貧しそうです。凹天の晩年、デパートで自分の絵が高価で取引された時、凹天自身が一番驚いたという記述があったことも思い合わされます。

それが理由か分かりませんが、漫画を芸術まで押し上げようとした痕跡も見受けられます。地位向上のために、いくつか集団を立ち上げてはつぶれを繰り返していたからです。その一方で、お金がもらえるなら、国策のために、ビラやポスターを描くことも厭いませんでした。もっとも、絵画の方は、もっとひどい状況だったようです。後の巨匠と言われる川端龍子(かわばた りゅうし)や藤田嗣治(ふじた つぐはる)、安井曽太郎(やすい そうたろう)、東郷青児(とうごう せいじ)ですら、筆一本で食べていけなくて、漫画に手を染めた時代もあったのですから。



同時に漫画は、今はハイカルチャーではないけれど、かなり文化として認められつつあるのだな、とも感じています。というか、Cool Japanにアニメは欠かせません。

凹天の場合、新聞記事のための風刺画、広告まで仕事の幅があったような気がします。でも、今は、主にエンターティメントを主戦場とする漫画家が軽い風刺を書いただけで、話題をかっさらうのですね。いや、炎上するというか。凹天らはこんな時代が来ると思っていたでしょうか?

さて、下記は、現代の風刺画とも言えるTwitterのイラストです。


その日、私はTwitterを見ていて、リアルタイムでどんどん燃えていったのを見ていました。

発端は、漫画家・浦沢直樹(うらさわ なおき)さんのポストでした。個人的には、大好きだった『20世紀少年』が描いたディストピアを超えてる、と驚愕しました。

『STOP!ひばりくん』(今思えば、先見の明があった作品だと思います)の江口寿史(えぐち ひさし)さんが記者会見の動画を投稿して、浦沢直樹さんが反応したという感じでした。

これを悪口と思うTwitter民がうわーっと書き込んだという・・・。この国って、公人を揶揄しただけで暴れるのだろうか。実はずっと見てて気付いたことなのですが、比較的若い層が多いなという印象でした。

お上は正しい、とか文句を言うなと、いう教育が行き届いているんでしょうか。道徳の授業を強化しただけはあったかもしれない。最近の道徳の教科書、カラーでしっかり出来ていて面白い読み物らしいです(小3の娘が言うには)。

「安倍さんを侮辱!」と怒っている人はわずがで「漫画家が政治問題を書くなんて」が多かったです。凹天さん、漫画家は政治を表現しちゃダメな世の中になったみたいです。政治に、口出しするのが本分だった凹天さん、草葉の陰でどんな感じでしょう、笑。



漫画がお行儀の良い文化、いや、ハイカルチャーになってきたのだなと感じたのです。「表現の自由」はどこにいったのでしょうか。

別の角度から捉えてみると、現代の大衆は政治に関わりたくないということかもしれません。大人がギャーギャーやっているドロドロした政治は自分の生活にも頭にも入れたくないってことなのかもしれないですね。

政治への失望かもしれないし、社会変革や政治参加すら考えないってことだから、自分の一票の脆弱さを考えると投票率はさがるわけですね・・・。これって、こんな時代の一端をになったわたしたち、大人の責任だとも思います。ほんと。

 こんにちは。一番座から片岡慎泰です。

 今回は、柴田勝(しばた まさる)の巻の最後になってしまいました。この状況下では。

 柴田勝の戦後の足取りを追うために、手がかりを3点挙げておきます。というのも、柴田勝の戦後については、現在の状況下では、文献の入手や、その調査ができないからです。

 ひとつは、柴田勝のご遺族を訪問することです。国家図書館にある柴田勝の私家版は、当の本人所蔵のものが寄贈されたということが、判明しています。その時期は、生前か没後か分かりません。

 ただ、最後に住んでいた住所が、小冊子の最後に手書きで記されています。世田谷区五本木でした。ここを訪問できれば、手がかりがつかめるかもしれません。

 ふたつめは、『映画史研究』の編集責任者である佐藤忠男(さとう ただお)に手紙などでお尋ねするか、直接お会いすることです。現在の住所は不明ですが、発行所は世田谷区松原であることが、この雑誌に記されています。文化功労者に2019年に選出。勤務先だった日本映画大学に問い合わせることもありかと。




 最後は、このブログの第14回「下川凹天の撮影技師 柴田勝の巻 その2」で書きました。そこを再掲しておきます。「1986年3月29日付『讀賣新聞』には、それを支えた久米利一という人物の特集が組まれていることも、ここで記しておきます。印刷機用ゴムローラー製造会社に勤務しつつ、自宅兼印刷所で『文芸雑魚(ぶんげいざこ)』という小冊子を発行し続けました。ここから、柴田勝、そして初期の無声映画に関わった人びとに関する私家版が続々と出版されたのです。その成果を認められ、1985年には、第6回山路ふみ子文化財団特別賞を雑誌編集者として受賞」。 


 1986年3月29日付『讀賣新聞』の記事をここで紹介しておきます。

 「最新号が発行されたのは、昨年十月。以来、五か月間休刊に追い込まれている。胃カイヨウで、胃の摘出手術を受けて入院して入院していたのである。会社勤めをしながら、原稿を集め、記事を書き、レイアウトを決め、活字を拾って印刷するのは至難の技。睡眠時間四、五時と眠る時間を削ってやってきたその無理がたたったのだろうか。
 『食事が満足にノドを通らないものですから会社も休んでいる状態で、復刊のメドはたっていません。もうだめかと思ったこともありましたが、山路さんの賞をいただいて、もう一度やろうという気力がわいてきました』と、久米さんは声に力をこめていった」。

 久米利一の読み方は不明。手がかりは、『文芸雑魚』の所蔵館である国会図書館か、公益財団法人日本近代文学館にあるかもしれません。あるいは、公益財団法人山路ふみ子文化財団にある可能性もあります。日本近代文学館と山路ふみ子文化財団に、勤務先から問い合わせていただいたのですが、不明とのことでした。


 上記に挙げた『讀賣新聞』によれば、当時の住所は、足立区保木間町です。ここを訪問できればいいのですが。

 一番座からは、夏にはコロナウィルスが一息つくか、その後、収束することを祈りつつ、擱筆(かくひつ)します。


裏座再びです。コロナでなかなか調査が進みませんが、それはそれとして、日々流れていくニュースがあるので、芸術芸能を取り巻くもの記録をしておきたいと思います。

前段で、漫画やアニメの今の状況を書きましたが、エンターテイメントという意味で、古くからある演劇やクリエイター界隈と比べてみると、もうちょっと背景が分かるような気がします。

平田オリザ(ひらた おりざ)、西田敏行(にしだ としゆき)、糸井重里(いとい しげさと)・・・この業界も同じく炎上しておりましたね。


平田オリザさんの炎上した言葉です。

「製造業の場合は、景気が回復してきたら増産してたくさん作ってたくさん売ればいいですよね。でも私たちはそうはいかないんです。客席には数が限られてますから。製造業の場合は、景気が良くなったらたくさんものを作って売ればある程度損失は回復できる」。

製造業の何を知っているねん的に(なぜか大阪弁)ツッコまれてましたが、その後の上から目線がバレて、なかなか厳しい方向に。国の文化政策にも関わっていた平田オリザさん、そういうのも関係してたのかしら。結構、彼の著作好きだったんだけどなぁ。

さらにまずかったのが、ご自分の主宰する劇団のHPで、反発するツイートを「悪意」と決めてかかって「一次資料、原典にあたっていない単なる嫌がらせ」とまで表明してしまったこと。あがい、のーぬぴーぬどぅかびゅー(えぇ、あなたなんのおならをかいだの、が直接的な訳ですが、どうしてトチ狂っちゃったの?)。

「製造業より演劇業が大変」って言う必要はあったのだろうか。その後も様々な人とやりとりしたが火に油でした。

「ある学術領域での知見や通説を披瀝してただけでバッシングを受けるというのは、天皇機関説事件の例を引くまでもなく、相当に危険な兆候であると感じます。」と書いていました。

「天皇機関説」を持ち出す、その言葉のチョイスにも驚きました。素直に謝ることは難しいのでしょうか。単に他業界への配慮がなかっただけですし。しかし、製造業従事者で演劇が好きだった人はどんな気持ちだろう。

うーむ、平田オリザの「伝える力」を使った演劇は、下々の民に与えてくれるものだったのかもしれないなぁ。この人、たまに天皇を例えに使うのですが、私はいつもピンときていなかったです。

糸井重里さんもTwitterで「責めるな。じぶんのことをしろ。」で燃えてました。みんな、ナチュラルに上から目線でした。表現者はそういうところがないといけないのかもしれないとすら思いました。

どーでもいい話かもしれませんが、個人的には、平田オリザさんが57歳で、糸井重里さんが71歳、西田敏行さんが72歳。みんな、戦後生まれなんですね。年齢も年齢だし、肩書もあるので周りの人がいさめてくれなかったんだろうか。

ふと、戦前生まれの曽野綾子(そね あやこ)さんのことを思い出しました。ちょっと似ているのですよね。職業と差別という関係性もそうですが、無意識の特権意識、差別意識が。

2015年に『産経新聞』のコラムで「老人の介護のために移民の労働力は必要だけど、そばに住まないでね」というようなことを書いて、海外でレイシスト?と炎上していました。アパルトヘイトだって「住み分け」して生活圏を共有しなかったと書いたからです。

そのコラムに対して、南アフリカ共和国のモハウ・ペコ駐日大使が「アパルトヘイトを容認し、賛美している」と抗議されたいました。日本は、人によっては、今もこういうベースで物事が語られているんだろうな、と思う。

自分たちだけが人間らしく住む自由はあって、移民には制限する。多分、彼らの文化を尊重するわけもない。「専門知識も難しい日本語も必要ない」と曽根綾子さんのコラムには書いてあったが、移民はまるで同じ社会は生きる必要がないと言う書きっぷりでした。

今回の三人のアプローチの仕方は、曽野綾子さんと同じく「特権意識、既得権益的な考え」が通底しているとも思えるのです。

英国やフランスなどのヨーロッパ各国では、多民族国家として「皆がどのようにいっしょに生きていくか」を絶えず模索して、国内法を整備しています

外国の私たちでもなんとなく分かるように、移民関連の映画はコメディからドキュメンタリーまで数多く観ることができます。私も好きな作品はたくさんあります。移民の世代は何代にもわたっていることもあり、今や基本的に「差別的なことはアウト」は暗黙の了解なのだと思う。だから、曽野綾子さんは海外からバッシングを受けたのだと思います。もちろん、曽野綾子さんは、調べた範囲では、公的謝罪はしなかった。

実は、日本に「表現、言論の自由」が育っていない、論じられていない理由はこういった「無意識の差別感覚」にどっぷり浸かってるからなのかな、と思うのです。
批判にさらされた時、「悪意」と決めつけ、真実を真っ向から見ないし、耳も貸さない。

浦沢直樹さんのイラストを論じないこと、見ないふりをすること、批判をただの悪口ととらえること。失くすものは大きいと感じます。

戦前は「表現の自由」を強圧し、戦況に向かっていきました。凹天や漫画家たちが戦意高揚のチラシを描いている時、どんな気持ちだったのでしょう。あれから75 年たっていますが、日本ではこの類いの議論をする素地は少なかったのかもしれません。

ですので、一部の表現者という名誉職の人たちに、一般人が素朴にツッコミができるTwitterは、なかなか悪くないとも思うのです。今回の木村花さんの事件で、さらに健全化するのを願っています。

さて、凹天と仲間たちは戦後どのようになったか、なのですが、芸大出身のエリートたちの多くが戦後芸術の道に入っていたりします。それも、ある種の逃避だったのかもしれません。

凹天は、選んだのか選ばなかったのかわかりませんが、多分選べなかったんだと思います。エリートでも特権階級の出身でもないので、ひたすら漫画でご飯が食べていくしかなかったのでしょう。2番目の妻が働きづめに働いて凹天を支えたという記録もありました。

それからは、柴田勝とは、まったく違った人生を凹天は歩んでいったのでした。

昭和初期には、監督を務めるなどした柴田勝も、次第に戦後は名前を忘れ去られていきます。検閲をかいくぐって苦心をした時代を思い返すこともあったのかもしれない。94歳で、急性肺炎のため死去し。筆まめだったことから、私たちにたくさんのことを教えてくれたました。感謝!

【主な登場人物の簡単な略歴】

柴田勝(しばた まさる)1897年~1991年
撮影技師、映画監督。詳しくは、第13回「下川凹天の撮影技師 柴田勝の巻 その1」

浦沢 直樹(うらさわ なおき)1960年〜
漫画家。東京都府中市出身。手塚治虫文化賞大賞を2度受賞している唯一の漫画家。代表作に「20世紀少年」「YAWARA!」 「MASTERキートン」「 MONSTER」。

佐藤忠男(さとう ただお)1930年~
新潟県新潟市出身。予科練出身。新潟在住のまま、国鉄へ勤務。国鉄の職員のまま、鉄道教習所を1949年に卒業。新潟市立工業高等学校(現・新潟市立高志高等学校)卒業。処女作『日本の映画』(三一書房、1956年)でキネマ旬報賞を受賞。1957年に『映画評論』の編集部員になるよう誘われ、上京。『映画評論』、『思想の科学』の編集にかかわりながら、評論活動を行う。1973年から、妻の佐藤久子と共同で個人雑誌『映画史研究』を編集・発行。日本映画学校校長(1996年~2011年)、日本映画大学学長(2011年~2017年)などを歴任。第7回川喜多賞を、妻の佐藤久子とともに受賞。その他、紫綬褒章(1996年)など受賞多数。

久米利一(鋭意調査中)1937年~鋭意調査中
会社員、出版者、編集者。不詳。1985年、第4回山路ふみ子文化財団から、映画特別賞を受賞。

平田オリザ 平田 オリザ(ひらた おりざ)1962年〜
劇作家、演出家、劇団「青年団」主宰、こまばアゴラ劇場支配人。

曽野 綾子(その あやこ)1931年〜
作家。聖心女子大学文学部英文科卒業。2003年に文化功労者。  


Posted by atalas at 00:43Comments(0)Ecce HECO.(エッケヘコ)