てぃーだブログ › ATALAS Blog › 2015年08月

【PR】

  

Posted by TI-DA at

2015年08月28日

その4 原生酵母の島酒づくり



云うまでもないことだけれど、泡盛は米(多くはタイ米)と水でできている。作り方はシンプルで、蒸し米に黒麹菌を散布し十分に繁殖させて米麹をつくる。そこへ水と酵母を加えると発酵しアルコールができる。それを蒸留したものが泡盛だ。
泡盛を泡盛たらしめる存在が黒麹菌。『泡盛の文化誌』(荻尾俊章/ボーダーインク社)によると、泡盛工場からはかつて多くの種類の黒麹菌が見つかったが、戦後は種麹店が販売する2種のみになったとある。

黒麹菌は米を糖化させ、でんぷんをブドウ糖に変える。そのブドウ糖を食べてアルコールをつくるのが酵母の役目だ。酵母も黒麹と同様、そもそもは自然界にある菌類だが、昭和54年に『泡盛1号』が開発され、さらに平成元年に1号を改良した『泡盛101号』が世に出ると、そのあまりの能力の高さと使い勝手のよさに、以後ほとんどの酒造所がこの酵母を使うようになったという。

研究を重ねた結果、新しいものが開発されることはもちろん悪い事ではなく、泡盛はこういった研究者たちの努力の結果、生産性は飛躍的に向上し、品質も安定した。そんな中、あるきっかけで見つかった宮古由来の原生酵母で泡盛をつくるという挑戦が、多良川酒造で始まっている。

まさかバイオエタノール用の酵母に
こんな能力があるなんてね
正直びっくりしたし、半信半疑だった


そういうのは、宮古島で平成16年から開始されたバイオエタノール実験事業に取り組んでいたオクシマさんだ。サトウキビから分蜜糖をとった後に残される糖蜜でエタノールを生成するのだが、宮古の糖蜜は発酵しにくく、バイオエタノール先進国のブラジルやインドで使われれている酵母では役に立たない。そこで、新たに島の原生酵母を見つけるのが急務だったという。

日本酒類研究所の専門家たちの力を借り、島中で酵母探しが始まった。葉っぱを採集し、土を掘り、石をひろってはポリ袋へいれ、島のあらゆるカケラを空気とともに研究所へ送る。
研究所では、そのひとつひとつを試験管の中で培養し、有望な酵母を見つけ出すという気の遠くなる作業だ。

挫折を繰り返しながらも地道な調査が続けられること実に3年。ついに条件を十分にクリアする酵母が宮古製糖工場内から発見され、宮古島で見つかった17番目の酵母という意味で、『MY17』と名付けられた。
それだけでも画期的なことだったが、MY17にはおまけがついていた。

「この酵母は4VGの値が非常に高い」
酒類研究所からもたらされたMY17のもうひとつの能力だった。

泡盛は熟成させるほど、香りが高くうまみが増す。長い年月をかけじっくりと寝かせた古酒には、ほのかなバニラ香と甘みがある。この変化をもたらすのが4VGで、MY17には泡盛101号の4倍以上の力があるという。単純な計算でいえば、3年ほどの熟成で12年ものの香りとうまみが期待できるかもしれないのだ。

それは偶然ではなく必然だと思ったね
因縁の巡り合せだと
その酵母はうるかの神様みたいなものなんだよ


オクシマさんは、多良川酒造にMY17を持ち込んだ。もちろん、それで泡盛をつくってもらうためである。オクシマさんの話を聞いたスナカワ会長に異存はなかった。

多良川酒造創業以前、寒露の時期になると、スナカワさんの家では、決まって汁酒と呼ばれるサトウキビの酒をつくっていた。サトウキビの根っこの部分を切って、しばらく放置すると、自然に発酵して酒になった。汁酒はうるかの御嶽に供え、地域一族の健康と繁栄を祈るのが習わしだったという。そして当時スナカワさんの家があった場所が、まさに酵母が見つかった製糖工場なのである。
「酒づくりは神の領域で、サトウキビや粟が、なぜだか酒に変わるのは神様の仕業だった」スナカワさんはいう。

もしかすると、太古の昔からその地に漂っていたかもしれない原生酵母。スナカワさんがこどもの頃、サトウキビを汁酒に変えていたかもしれない原生酵母。その因縁の酵母で仕込んだという泡盛は、古酒3年の年季があけ、ほんの少しだけ市場に出されたという。長々と書いたが、残念なことに、わたしはまだ飲めていない。  続きを読む



2015年08月25日

第45回 「白川田上水道顕彰碑(仮)」



期せずして続いている水関連のシリーズ(本当はそんな予定ではなかった)。今回は宮古島市上水道の要ともいえる、白川田水源地にある上水道顕彰碑(仮)です。正確には句碑なのですが、未熟ゆえに難しくて読むことが出来ないため、(仮)とさせていただきました。お粗末ですみません。

碑が建立されている場所、大野山林の裏手(海側)。一周道路脇の森の中にあります。厳密にはそこは森ではなく、崖下にある白川田水源地の施設へ続く残置道路(一周道路完成前の道)部分にあたります。碑の隣りには海側を向いた御嶽もあり、周辺の濃い緑の雰囲気とあいまって、なかなか趣のある場所となっています。

碑文には『白川田(すさかだ)~』で始まる句(賛歌)が刻まれているのですが、達筆な草書が自分には読むことが出来ず、ここでご紹介することが出来ません。
どなたか得意な方、ぜひご教示願えませんでしょうか?。なにとぞご協力をよろしくお願いいたします(左の画像をクリックすると拡大します)。

川のない宮古において最大の湧水量を誇るといわれている、白川田湧水の水を貴重な水源として活用する整備事業が、1953(昭和28)年の旧平良市「三大事業」(電気・水道・港湾の近代化)によって行われました。
碑の裏面にはそのことを顕彰する内容が記されているのですが、ここにまたひとつの大きなつながりが記されていました。

宮古島上水道創設者石原雅太郎氏の業績を絵家に顕彰するため賛歌を捧げここに碑を建立する
一九六六年七月一日 
                宮古島上水道組合 管理者 真栄城徳松
とても短い文面ではありますが、この「んなま to んきゃーん」で過去に紹介したふたりの政治家が登場していました。

石原雅太郎(くわしくはコチラ「第29回 石原雅太郎氏像」)。
平良町長を4期、平良市長を2期も務め、初の名誉平良市民の称号も贈られている戦前から戦後にかけて活躍した政治家で、平良三大事業を推進した人物でもあります。

真栄松徳松(くわしくはコチラ「第30回 眞栄城徳松氏の像」)。
宮古毎日新聞社を創業した実業家にして、第七代・第八代の平良市長を務めた政治家でもあり、池間大橋を建設し、宮古工業高校を創設し、熱帯植物園を造成した人物でもあります。

このおふたりが生まれたのは明治(年代としては30年くらい違う)。どことなくまだおおらかだったと思われる大正・昭和(戦前)を過ごし、戦中、戦後の荒々しい激動の時代に強い気概を見せて突き進んで魅せる。なんというかその呼吸とか息遣いとかが、“面白い匂い”のする人たちだったのではないだろうかと、表層に漂う歴史(経歴)を散見して、シナプスが誇大妄想させるのでした。

最後はこの石碑を眺めてて気づいた小ネタです。

碑の周囲をコンクリート製の低い柱と鎖で四角く囲っているのですが、奥にあるガジュマルの樹が、完全に柱を咥えこんで融合個体となっていました。
碑の建立から50年近く時間が経過しているものと思われますが、見事な造形に仕上がっています。

【資料 pdf】
「宮古島の上下水道」 宮古島市上下水道部
※水道事業の歴史から施設の系統図、地下水についてや料金の変遷まで、島の上下水道について余すことなく紹介されていて、思いのほか面白い読み物にもなっていたので、あわせてご紹介させていただきました。


【追記 2015/09/01】
NJ大のTakahashiさんが、お知り合いの歴史学者・伊藤陽寿さんにお願いして読んでくださいました!。

「讃歌
白川田のつきせぬ水に
咲きほこる
名残し讃ゑむ
諸々ともに」

※「徒き」が崩し字になって、平仮名の「つき」になるとのこと。
と、書かれていいるようです。
Takahashiさん。伊藤陽寿さん。ご協力ありがとうございました。  続きを読む



2015年08月21日

『続・ロベルトソン号の秘密』 第四話



まずは個人的な宣伝で恐縮ですが、来る8月24日(月)の19時より、与那国町祖納の複合型公共施設にて開催される、与那国町教育委員会主催の文化講演会にて、「与那国・もう一つの交易拠点:ハンブルク市立民族学博物館所蔵資料を手がかりに」という題目で、与那国島とドイツのハンブルクとの関係についてのお話をさせていただくことになりました。20世紀初頭に与那国で集められた50点以上の生活用品が、ハンブルク市立民族学博物館に眠っており、これらについてのお話をする予定です。もしこの時期に八重山方面にお出かけの方がいらっしゃいましたら、お立ち寄りいただけたら幸いです(チラシはこちら)。

さて、今回は、ロベルトソン号の船長エドゥアルト・ヘルンスハイム(Eduard Hernsheim, 1847-1917)に関する研究の最新の状況をお伝えしたいと思います。また今回から数回に分けて、宮古島沖で遭難するまでのヘルンスハイムの生い立ちについて、詳しく紹介していきます。

先を越されてしまい、やや悔しい反面、同じテーマを共有する研究者が見つかって嬉しいのですが、ヘルンスハイムについてはこの数年間に研究が飛躍的に進みました。(オーストリアではなく)オーストラリアに在住のドイツ人研究者、ヤーコプ・アンダーハント(Jakob And
erhandt)先生という方が、エドゥアルト・ヘルンスハイムに関する史上初の本格的な実証研究を進め、3冊の著書にまとめられたためです。私はまだアンダーハント先生とは面識がないのですが、彼と面識のある琉大の先生から、よかったら紹介しますよ、と仰っていただいているので、早いうちにぜひ一度、お会いして情報交換ができたらと思っています。この先生、ヘルンスハイムに関する膨大な文献を読み込んで、彼の生涯を可能な限り克明に明らかにして下さったうえ、解読が困難な手書きの資料やヘルンスハイム自身の日記などもタイプ打ちして著書に掲載して下さったので、これらを今後、私の研究に活用させていただこうと思います。

そもそもドイツの歴史学の業界では、ドイツの植民地についての研究はあまり活発には行われて来なかったのですが、今世紀に入ったころからようやく、このテーマに目を向ける研究者が増えてきました。その過程で、「南洋植民地」と言われる太平洋島嶼部の旧ドイツ植民地についても、興味を持つ研究者が現れるようになる、ヘルンスハイムの名前も、業界関係者の間では「沖縄で遭難した後に太平洋で活躍(暗躍?)したドイツ人ビジネスマン」として徐々に「市民権」を得てきています。そしてついに、まさにヘルンスハイムそのものを対象とした画期的な研究が現れたということで、今後は、ロベルトソン号に関する新たな知見をドイツ側の研究成果から得られるものと期待されます。

アンダーハント先生の3冊の大著を読み進めるにはかなり時間がかかりそうですが、今回はとりあえず、ヘルンスハイムの前半生について、ヤーコプ・アンダーハント著『エドゥアルト・ヘルンスハイム・南洋・多額の金』(Jakob Anderhandt: Eduard Hernsheim, die Südsee und viel Geld, Monsenstein Und Vannerdat, Münster, 2012)をもとに紹介します。

エドゥアルトが生まれたのは、ドイツ中西部のマインツ(Mainz)という街です。活版印刷術を発明したことで有名なグーテンベルク(Johannes Gutenberg, 1400年前後~1468)が生まれた街として知られ、金融の街として有名なフランクフルト(Frankfurt)から西へ約20キロの場所にあります。父はルートヴィヒ・ヘルンスハイム(Ludwig Hernsheim)で、彼は両親(エドゥアルトの祖父母)の出身地であるアルツァイ(Alzey, マインツの南約20キロの小さな村)からこの地に出て来て弁護士を営んでいました。母はゾフィー(Sophie)で旧姓はメンデス(Mendes)、オランダの商家の娘だったそうで、二人は1842年に結婚しています。

エドゥアルトは、姉のロゼッテ(Rosette)とユリア(Julia)、兄のフランツ(Franz Hersnhe
im, 1845, 1909)に続く4人目の子として、1847年5月22日にマインツのシュタットハウス通り(Stadthausstraße)の自宅で生まれました。残念なことに、母ゾフィーは、エドゥアルトの出産がもとで亡くなっています。そのため父ルートヴィヒの妹ヨハンナ(Johanna)がマインツに来て、育児を引き受けました。父のルートヴィヒは、朝早くに家を出て仕事に向かい、夜はたびたびカジノに出かけて帰宅が遅くなるなど、家にいないことが多く、子育てには熱心ではなかったようです。

成長したエドゥアルトは、マインツからほど近い(南東に20キロ離れた)ダルムシュタット(D
armstadt)の工業専門学校で化学を学ぶようになります。兄のフランツが高校で落第を繰り返した末、大学に進学せず実業界に進んでいたことから、父ルートヴィヒはエドゥアルトが法曹の道を歩むことを望んでいたため、(将来法律家になる可能性を残すため、大学進学に必要な)ラテン語とギリシア語を学ぶことを進学の条件として課しました。

しかし1863年、ヘルンスハイムにとって人生の転機が訪れます。父のルートヴィヒが、手術の失敗により死亡してしまったのです。経済的な事情で勉学を続けることができなくなったエドゥアルト、その後いかにして宮古島に漂着するに至るのか、続きはまた来月。

参考文献
Jakob Anderhandt: Eduard Hernsheim, die Südsee und viel Geld, Band 1, Monsenstein Und Vannerdat, Münster, 2012.

<ドイツの地名と位置関係を判りやすくするための地図を用意しました。クリックで大きくなります>  続きを読む



2015年08月18日

第44回 「水辺のユニバーサル・デザイン大賞2005」



先週に引き続き「水」ネタです。
平良港の西端に位置する通称・トゥリバー。公式名は「宮古島コースタルリゾートヒララ・トゥリバー地区」というとても長い名称の埋め立て地で、マリーナやふたつの人工ビーチ(エレガンスビーチとアクティブビーチ)と都市型公園、そしてリゾートホテル予定地で構成されている、国土交通省と宮古島市が事業主体となって整備を推進しているリゾート開発地区になります。
しかし、未だリゾートホテルは建設されず、空き地のまま二転三転の紆余曲折で迷走をしているトゥリバーですが、入口にかかる美南海(みなみ)橋のたもとに、ひっそりとたたずむ碑あがあります。それが今回紹介する「水辺のユニバーサル・デザイン大賞2005」の碑です。

この「水辺のユニバーサル・デザイン大賞」というのは、特定非営利活動法人ユニバーサル社会工学研究会が主催し、特別協力に日本デザイン機構、協賛に交通エコロジー・モビリテイ財団、後援には、国土交通省港湾局都市環境デザイン会議、(財)港湾空間高度化環境研究センターなど、デザイン関連の団体の名前が並んでいる親水景観の自薦コンペです(2003年時の応募要綱pdf)。

2005年にトゥリバーが大賞に選ばれた理由は、既存の海岸を残して埋立地との間に水路を作って環境に配慮し、ビーチやマリーナなどを整備したこが高く評価されたからということらしいです(ただし、この頃すでにホテル用地に関する問題は紛糾しており、現在も建設の再々延期など物議を醸し、未だに完成を見ていません)。

石碑に埋め込まれたプレートをよくよく見てみると、受賞者は「宮古島市役所」殿と、「内閣府沖縄総合事務局平良港湾事務所」殿になってます。
トゥリバーの事業主体は国土交通省と宮古島市で、賞の後援には国土交通省港湾局都市環境デザイン会議。そして受賞者は宮古島市と沖縄の港湾担当部署である、内閣府沖縄総合事務局平良港湾事務所という、ちょっと突っ込みをいれたくなるような関係性がする気もありますが、ここではこれ以上の詮索はやめておきます。
余談ですが、平良港湾事務所のHPでは「水辺のユニバーサル・デザイン」と同じ年に、なぜかトゥリバー地区が「土木学会環境賞」を受賞したことだけが記録されています。

ところで、「水辺のユニバーサル・デザイン大賞」というのは他にどのようなところが受賞しているのか、ちょっと主催を調べてみるとホームページは閉鎖されており、団体についての詳しい情報もほとんど検索できませんでした。
また、他の受賞者に関してもあまりヒットせず、2009年以降は開催されていないのか、本賞を受賞しているところを見つけることはできませんでした(主催団体の住所をストリートビューで覗いて見ても看板は出ているようですが、なんとなく気配が感じられません/201504更新)。

トゥリバーが埋め立てられた後も既存の海岸線には、豊かな自然環境と戦跡(トゥリバー秘匿壕)が残されました。また、ここはかつて人頭税廃止に尽力した中村十作が、廃止運動を完遂させたのちに、来島の本来の目的だった真珠養殖を手掛けていた地でもあり、宮古の歴史に関係の深い場所となっています。そして現在においてもトゥリバーは、日々、市民に広く親しまれています(下の地図で埋立地に突き出している岬はスキ崎)。  続きを読む


2015年08月14日

#003 雪塩



猛暑日が続く8月の東京から、「東京 de 宮古」第3回をお届けします。

宮古島の暑さと、東京の暑さって全然違いますよね!。
東京でも最近は普通に35度超えの日もあり、アスファルトの照り返しとひと混みと、ビルの室外機から吹きだす熱風で本当に息苦しいです。
一方、島に行って海風に吹かれて気持ちいいなぁ~なんて、いい気になって小1時間も散歩をしたら、もう次の日には日焼けを通り越して火傷をしています。
島では体感温度よりも、紫外線の強さをあなどってはいけませんよ。

そんな熱い(暑い)真夏の熱中症対策にかかせないのは、たっぷりの水分だけではありません。

それはなんといっても、『塩』です!

宮古の塩といえば、言わずと知れた「雪塩」でしょう!。
ということで、新・宮古島名物(?)ともいえる雪塩に注目してみました。

雪塩は宮古島の企業「パラダイスプラン」が開発した塩で、隆起珊瑚礁でできた宮古島の特徴と、独自の製塩方法を活かして製造されています。

琉球石灰岩による天然の濾過フィルターで不純物が除かれ、さらにサンゴのカルシウムを含む地下海水が雪塩の原料です。
また、普通の塩は製造過程でニガリを取り除きますが、雪塩はニガリ成分も逃さず、ミネラル含有数世界一の自然塩として、2000年にはギネスブックに認定されました。
このように島の自然と独自の製法によって開発された、粉雪のような珍しいパウダー状の塩が「雪塩」です(あまりにもキメが細か過ぎるため、使いやすい顆粒タイプもあります)。

宮古島の北端、狩俣の西の浜に面したところに雪塩の製塩所はあり、無料で工場の見学(雪塩ミュージアム)ができます。また、隣接した直販ショップでは雪塩を使った商品が買えることから、最近では観光名所のようになっています(雪塩ソフトは絶品)。

宮古島は河川がほとんどなく、島に降った雨水は琉球石灰岩の大地に浸み込み、そのまま海へ流れ出てしまうので、昔から水を確保することが大変だったといいます。
なので、湧き水や地下水は島の生活には欠かせない資源です。
今では、世界初の大規模地下ダムも作られ、農業用水として利水されています。
また、2004年には宮古農林高校(現在の宮古総合実業高校)が「水のノーベル賞」と呼ばれるストックホルム青少年水大賞を受賞するなど、むしろ「水」の宮古島なのです。

最近、東京のあちこちのお店で、雪塩を使用した商品に出会います。
スイーツ、ドリンク、パン・・・。
こうした企業コラボの雪塩を使用した商品は、宮古島では展開するお店が島にないため、逆に手に入らないモノばかりだったりします。

※各商品の詳細は続きをご覧ください。

他にも東京には、パラダイスプランが運営する塩の専門店「塩屋(まーすやー)」が、麻布十番店東京ソラマチ店にあるので、今度行ってみようと思っています。
ちなみに、宮古方言では食塩は「マース・マーソ」といいます。
マースは「真塩」という意味で、干満する海潮は「ソー(潮)」、海水は「オコソ・オホソ(大潮)」と言うそうです。
こちらではすべて「しお」とひと言で済ませてしまいますが、ちゃんと区別されているんですね。さすが「水」と「塩」と「海」の島です。
そしな宮古島の大切な海の恵みをいただきながら、東京の暑い夏を過ごしています。

「雪塩」ホームページ http://www.yukisio.com/  続きを読む


Posted by atalas at 12:00Comments(0)東京 de 宮古

2015年08月11日

第43回 「海底水道竣工記念」



今回紹介する石碑-いしぶみ-は宮古島上水道組合が建立した、宮古島池間島間の海底送水管の竣工記念碑です。こちらの碑は狩俣の集落名の由来とも云われている、“さすまた”の地形(西平安名崎と池間大橋の両サイドに伸びたふたつの岬)の真ん中にある西の浜にあります。

碑文には『一九七二年七月 宮古島上水道組合』と付記されており、この組織は現在の宮古島市上下水道部の源流となります。
その歴史を紐解いてみると、1943(昭和18)年に大日本帝国海軍が旧平良町内にある白明井(スサカガー/地図)のウリガーを水源とした簡易上水道を敷設し、地域ごとの小規模な私設水源に変わり本格的な地域水道が始まりす。また、戦後はアメリカ軍がこれを改良して利用したそうです。

1953(昭和28)年、旧平良市の電気・水道・港湾を近代化整備する「三大事業」の一環で、白川田水源から袖山浄水場を経て平良市街地へ供給する本格的な上水道が作られます。旧城辺町でも1954(昭和29)年から簡易水道の建設が始められ、1977(昭和52)年までに島内のほぼ全域で上水道が利用できるようになります。
上水道設備の普及に伴って島内の上水道を統合運用する必要性が高まり、1964(昭和39)年5月に米軍政府が宮古島用水管理局を設立しましたが、住民の反対にあって廃止(高等弁務官布令によるトップダウンの押し付けを嫌った)され、これに代わるものとして翌1965(昭和40)年7月1日に宮古島上水道組合が設立されます。
1972(昭和47)年5月本土復帰に伴い宮古島上水道企業団と改組。また、2005(平成17)年10月には5市町村合併によって宮古島市が誕生し、宮古島水道局に変更され、その後、2010(平成22)年より宮古島市の行政改革によって水道局と下水道課を統合し、現在の宮古島市上下水道部となります。

上水道のおさらいをしたついでに、宮古島から各離島への送水管についても記録しておきたいと思います。

伊良部の上水道は独自水源なので宮古からの送水はありませんが、農業用水は伊良部大橋の完成により、宮古から橋を通って伊良部に送られています。
敷設距離が圧倒的に大きい大神島が、意外と宮古から遠いことがよく判ります。また、同じような規模と思われている池間島と来間島ですが、格段の差があることもよく判ります(両大橋の完成は90年代)。

それにしてもこの資料の施工年度は、池間島への送水管は1971(昭和46)年度となっています。ところが、島の歴史・出来事をまとめた年表での池間島への海底送水管の工事完成は、1973(昭和48)年8月に竣工と記されています。肝心の石碑に刻まれた日付は1972(昭和47)年7月。これはどういうことなのでしょう。。。
なんとなくですが、伊良部大橋の開通と完成で揉めたことと同じなのでしょうか?(完成は構造物としての竣工。開通は道路としての開業の違い)。昔からちょっと詰めが甘いところが、宮古人のウイークポイントでありチャームポイントなので、そこが愛すべきポイントなのですけれど、やばりちょっと悩ましい・・・。  続きを読む


2015年08月07日

第3節 「旧盆行事」



毎年夏が近づくと、そこかしこで必ずと言っていいほど交わされる会話があります。

「今年のお盆はいつからか?」

これ、沖縄県外のほとんどの地域の人が聞くと、驚かれるのではないでしょうか。

旧暦でお盆の行事を行うため、新暦では毎年異なる日になるのです。新暦の8月初旬に当たる年もあれば、9月に入ってしまうことも。なので毎年、日めくり暦や手帳などをぱらぱらとめくりながら、旧暦七月十三日が今年は新暦のいつに当たるのかを確認します。

今年も旧盆の時期が近づいてきましたので、今回は、うちのお盆のことを思い出しながら書いてみようと思います。宮古のなかでも家庭や地域によって違いがあると思いますので、あくまでも一例としてお読みくださいね。

さて、その旧盆の最初の行事は、旧暦七月七日の「七夕(たなばた)」です。
現在では七夕といえば、願い事を書いた短冊を笹の葉につるして、織姫と彦星が年に一度出会う夜空を見上げる、というイメージが強いのですが、旧暦の七夕は「お墓掃除の日」なのです(お墓も内地のような墓石タイプではなく、家形をした小屋サイズのコンクリート製のものや、崖地を利用した掘り込み式のものなど、比較的お墓は大きい)。
先祖のお墓をみんなで掃除し、お盆の案内をしに行くのです。墓の掃除、といっても、強い日差しとスコールのおかげで、墓場の植物たちはあり得ないぐらいの強靱な生命力でもってコンクリートを突き破って根を張り、墓の境目もわからなくなるぐらい植木は伸び放題、雑草もびっしりと生い茂っています。まずはその雑草を刈りとり植木を整えて墓の姿をあらわにし、きれいに掃除をすること。そのあとで墓前にお酒とお菓子を供えて線香(沖縄の線香は6本分が横に繋がった平香というタイプ)を立てて、手を合わせるのです。汗びっしょりの半日作業ですが、みんなでわいわい作業をするのでなんだか楽しい思い出です。

旧盆本番は、旧七月十三日の「ンカイ(迎え)」の日から始まります。
一週間前に掃除したお墓で線香を上げ、それを持ち帰って家の仏壇に立てることで、先祖を迎えたことになります。仏壇にはご馳走や果物などが供えられ、灯籠がついて華やかになります。

旧七月十四日は「ナカビ」=中日です。
この日は仏壇のある親戚・知人の家にシューコー(焼香)しに行きます。また、仏壇のある家はご馳走を用意して訪問者をもてなします。うちに来たお客さんとお話しするのが楽しかったように覚えています。

そして旧七月十五日、「ウフイ(送り)」の日です(うちでは「ウクイ」といっていました)。
夜、家族親戚で集まってご馳走を囲んだあと、先祖を送り出すための行事が始まります。
まずは「ウチカビ(打ち紙)」。「あの世のお金」といわれる、「カビジン(紙銭)」を仏壇の前で燃やします。このあたりは大陸文化からの影響だなぁ、と思うのですが、紙銭といっても、中華圏のような派手な色彩の紙ではなく、黄色っぽい紙に円い(小銭状の)押し型がたくさんならんでいるものです。

それを、仏壇の前で金ダライ(カニバーキ)の中で火をたき、少しずつ燃やしていくのです。子どもの頃の私は、父や祖母がその作業を行う隣で、炎をじっと見るのが大好きでした。
ウチカビが終わると、その燃えかすをまとめたものと線香を持って家のおもてに出ます。
そして道路の脇にそれを置き、皆で手をあわせて、これからまた一年、見守ってください、また来年お越しください、と祈るのです。無縁仏用に、小さなお菓子も添えます。これでおしまい。

子どもの頃は毎年、盆の行事のある数日は、日常と少し異なる心持ちで、なんともわくわくしていました。大人になると準備も当日も片付けもあって大変なのですが、ね。
今年(2015年)は8月26日から28日までが旧盆期間。七夕(旧七月七日)は新暦8月20日となっています。

今年も旧盆期間には帰省できそうもありませんが、ウフイ(送り)日には、遠くからふるさとの方を向いて手を合わせたいと思います。

<画像提供:砂川家・本村家> 
  続きを読む


Posted by atalas at 12:00Comments(0)みやこのこよみ

2015年08月04日

第42回 「勇犬クロ之碑」



今回ご紹介する石碑は、大浦集落の西方、大浦湾を望む高台にある農村公園の片隅に建立されている「勇犬クロ之碑」という、おそらくはほとんどの人が知る由もない小さな物語を持った碑です。
自分自身もこの碑はたまたま大浦を訪れた際に、なんか石碑があるなぁ~っと思いつつも時間の都合で内容を確認をしないまま通過してしまい、いずれ再訪しようと心のメモに書き留めておいたところ、その後すぐに住宅地図を手に取る機会があり、偶然にもこの石碑の名を知って慟哭。いったい「勇犬クロ」ってなんだ?という「キニナル」モードへ一気にギアが入ってしまい、取るものもとりあえず現地を確認しに行ってしまったという、手前味噌などうでもいい物語などもありますが、それはともかくとして、いったいこれはなにの碑かと云いますと。。。

平成7年より9年迄続いたイノシシの被害はあらゆめる対策も功成さず生産意欲を失う程増大した。
5月9日市当局の依頼によって八重山猟友会長大嵩さん8名の隊員猟犬出動、自治会も動員、駆除大作戦、猟犬クロが猪に襲われ殉死悪戦苦闘翌10日止どめの銃声、70K巨体を確認し、萬々歳の完成で終決。1周期にあたり殉死したクロの慰霊碑を建立、仲間議員、上里、古波蔵氏を始め2年間に亘り駆除にかかわり下された関係各位に感謝の意を表し猟友会員と猟犬を記名し永く功を讃える
        会長 大嵩 孝成
           東川平眞吉
           宮良 清光
           糸満 善和
           新里 貞雄
           橋間 輝義
           嘉手苅 守
           敷名 安正
        猟犬 ボス
           キン
           クロ
平成十年五月十日 大浦自治会
以上、原文のまま引用しましたが、後世まで残り語り継がれるであろう碑文にしては、ちょっと気持ちが先走りすぎていて、かなりぐだくだな内容(1周期は一周忌の誤記?などなど)になっていますが、三年もの長きに渡って集落の畑を荒らしまくった巨漢のイノシシを、2日間にわたる攻防の末、猟犬クロが殉死する犠牲と引き換えに仕留めたという物語です。

時に宮古島ではイノシシが害獣として駆除されることがありますが、現在、島に野生のイノシシは生息していません(ただし古い遺跡などからは大量にイノシシの骨が出土しています)。ペットや家畜として島に持ちこまれた個体が逃げ出して野生化。農作物に被害を出して駆除されるという事例が、2年に1回くらいおきています。このクロの逸話もそんな害獣駆除に絡んだ話なのです。

当時の新聞によると八重山猟友会の協力を得て、駆除作戦は1997年5月9日から始まった。イノシシが隠れているとみられるフズ嶺(大浦の山)へと分け入るも、初日は残念ながらめぼしい成果をあげることはできなかった。だがししかし、一緒に山へ分け入った猟犬のクロだけがその日、山から戻ってはこなかった。
翌10日も朝から山へ向かう。午前9時20分に銃声2発が響くも仕留めた報告はなく、その後、猟犬たちの鳴き声が特定の位置で続き、やがて10時10分に銃声が1発。続くトドメの一発が轟き、ついにイノシシを仕留めることに成功した。
一方、クロ(オス3歳)は山中でイノシシにやられ、遺体となって発見されたという。
駆除されたイノシシのサイズは、体長130センチ、体重70キロのオスで5~6人がかりで山から下ろしほど大きかったとのこと。尚、このイノシシは集まったみんなで鍋料理にして味わったという。

殉死したクロを悼むとともに猟友会への感謝を込め、翌年1998年5月に、勇犬クロの碑が建立されたこともニュースになっていました。  続きを読む