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2017年12月29日

【金曜特集】 ATALASネットワークからのお知らせ 「凹天の謎(仮)」 【PR】



2017年最後の金曜日は、ATALASネットワークからのお知らせです。
2018年のATALSネットワークがお届けする、最初の目玉です!
これまで噂先行で進んで来た、下川凹天のファンブックが遂に完成するのです。
それでは大岡山の宮国さ~ん!、PRをど~んっとお願いしま~す!



現在、絶賛編集中!

何が? と、お思いでしょう。
題して、「凹天の謎」という本です!

そうなんです。
わたしたち、宮古愛が昂じて(いや、凹天愛か!)、凹天の本を作ろうということになりました。

だって、今年2017年は、下川凹天が日本で初めてアニメを作ってから百年でしたから!。

えぇ、何を言っているかわかりませんね。
そうなんです。
誰も知らない下川凹天。
とてもすごい人なのに。

そういう思いが、わたしたち(勝手に凹天本委員会。略してK H I )を衝き動かしました。

現在、絶賛、編集中です!。
作りながら、新しい事実がどんどん掘り起こされて、もう驚くばかりです(笑)。

この胸のときめきをアナタにも伝えたい。
えぇ、無理やりですが・・・(笑)。

愛の告白さながら、2018年2月14日(木)には、お手元にお届けできるかと思います。
ぜひぜひ、どうぞよろしくお願い申し上げます。

Coming Soooooooooooooooooooooon!
題名 『凹天の謎(仮)』
編著 TEAM ATALAS
予価 1,000 円(税別)

凹天HP (鋭意製作中)
https://hekoten.localinfo.jp/


金曜特集 特別編  「あなたは凹天を知っているか?」  


Posted by atalas at 12:00Comments(0)金曜特集 特別編

2017年12月26日

第166回 「多良間村立多良間自練」



地味にだらだらと続いて来た井戸にまつわる石碑シリーズから転移する形でスタートした、12月のミニ企画である多良間島の石碑シリーズも、今回でいったんファイナルとなります。まだまだ多良間には石碑があるので、ネタが集まったら、PART2でも企画してみたいと思っています(といいつつ、多良間には興味深い穴≒カーが多いので、知る人ぞ知る個人企画の穴に潜る方もやりたかったりもする…)。
基。多良間シリーズのラストはすでに(お約束の)出落ちモノ。タイトルからもお判りのように、「多良間村立多良間自練」という銘板です(たぶん)。

多良間に自練があったの?という驚嘆が聞こえてきそうですが、ええ、あったんですよ。
まずはGoogleの空中写真をご覧ください。ほら、先週の「報恩之碑」の近くの緑地の中に、教習コースの紋様が浮き出ているのが見えます。

1986(昭和61)年撮影された自練が写っている一番古い多良間の空中写真はではこんな感じ(さらにこの10年前の1977年は建設前なのでこんな感じ)。

【左 GoogleMapより】
【右 国土地理院空中写真 1986(OK861X-C12-3)より】


しかし、2017年8月に現地を訪れたところ、コースの路盤は剥がされ、空き地はなにやら資材の置き場のようになっていました(一応、かつての外周らしきところを勝手に走行してみました)。
いずれ、この空中写真からも教習コースは姿を消すことでしょう。

さて、この多良間自練ですが、エポックメイキングなネタの割には情報が極端に少なく、記事の構成がかなり辛いのですが、石碑の裏にわずかな手がかりからまずはご紹介。
自動車練習所の概要
建設期間  昭和54年度~昭和55年度
工事費   2千万円(村単独事業)
開始年月日 昭和56年4月1日
石碑に記されている情報を元に、村史を紐解いてみると、自動車免許を取得するには多良間から宮古など島外に出向き、かなりの日数にわたって滞在し、学科や実技を学習して試験に受からねばならず、多良間島民にとっては時間と費用が大きな負担になっており、無免許運転をする者も少なからずいたことから、1981(昭和56)年に村立自動車学校が設置され、負担が軽減されて免許の取得が出来るようになったということが判りました。
年代的に考えると、復帰(1972年)から10年近く経過し、日本の交通法規へと戻った「ナナサンマル」(1978年)からも数年。平たく云えば過渡期と云えそうですが、いわゆる“本土並み”のグレーゾーンで逃れられるギリギリのタイミングのような気がします。

ところで「自練」という略語ですが、これは沖縄特有(に近い)の云い回しで、今は自動車教習所のことを呼びます(宮古口見聞録" その6)。
自動車教習所であるならば、略称は「自校」とか「車校」とか、もっと単純に「教習所」などと呼ぶ方がしっくりきますが、本来、自練とは自動車教習所ではなく、「自動車練習所」の略称になるので間違いなどではないのですです。
自動車教習所は資格を持った技能検定員と教習指導員が、運転に必要な知識と技能を習得させる場所ですが、復帰前後の沖縄では資格を持った人材がなく、練習コースで練習して、いわゆる公安委員会で試験を受けて、自動車免許を取得するというスタイルだったので、自動車練習場なのだそうです。尚、現在の県内の教習所はおおむね公認教習所なので、技能試験が免除されています。

ちなみにこうした事例は多良間島の他にも、伊良部島でもあったようです(当時はまだ伊良部大橋がかかっていないので)。
「まるよしよもやま話」によると、「教習を受けに来る人は自家用車で通っていたそうです」っと、しれっと凄いことが書いてありました。ま、確かにローカルな離島では、時に車検切れの車やナンバープレートのついてない車が、普通に走っていたりすることがあったりしますけどね。
伊良部島佐良浜界隈の空中写真を確認してみると、サバウツガーの手前にある「さぱおき園地」がかつての練習所だったようです。

【左 GoogleMapより 現在は園地となっており面影はまったくない】
【中 国土地理院空中写真 1994年撮影 平成に入ってもコースは存在するも、コース脇の建物がお墓に変貌】
【右 国土地理院空中写真 1977年撮影 多良間よりも少し早くナナサンマル前には開設されていた模様】


多良間島に話を戻しますが、今でも島には信号機がひとつしかありません。
1985(昭和60)年8月1日に集落と普天間港(当時の貨客船発着の港)を結ぶ道路、クースユマタに信号機が設置されました(当時、ここが多良間で一番交通量の多かった場所という話)。
もっとも、現在の空中写真を覗き込んで見ても、なかなか路上に車の姿を確認することが出来ないくらい、島の交通量は少ないです。そんなのんびりとして、のどかなところが多良間のいいところなんですよね~

※多良間島や伊良部島(他の島でも)での「自練」体験談やエピソードなどありましたら、ぜひお聞かせください!。  続きを読む



2017年12月22日

Vol.22 「冬なのだ」



ここ数日、雨や曇りの日が多く最高気温は20度を下回り寒い。
内地から比べたら笑われそうだが、海からの北風が強く体感気温はもっと低く感じる。
宮古も冬なのだ。

畑では、葉タバコの苗を植えるためのマルチ張りが進められている。その横で北風に吹かれるススキ。キビの穂も出て、キビの収穫時期を知らせている。
そんな寒い日があったかと思えば、風もなく穏やかに晴れると太陽のぬくもりが温かい。
締めきった車の中は暑くなりクーラーをという時もある。

先日、東京の知り合いから紅葉の写真が送られてきたので今の宮古だよと写真を送った。すると、「さすが、宮古。冬でも木々は緑色。東京の木々と全然違う」と言われた。確かに冬とは思えない青々しさだ。宮古にも落葉する木はあるが、ほんの少しだ。

そんな中、与那覇湾には冬の渡り鳥「クロツラヘラサギ」が飛来している。
その名のごとく、黒い面をしていて、口はヘラのよう。体は真っ白で数羽の群れを時々見かける。

日本野鳥の会のホームページによると、クロツラヘラサギは、東アジアだけに生息し世界的絶滅危惧種だそう。
「全長約75センチ、体重1,500グラム~2,200グラムのコウノトリ目トキ科の野鳥、干潟などでヘラ状のくちばしを左右に振りながら採食する」とある。
確かに与那覇湾は干潟。クロツラヘラサギにはもってこいの場所のようだ(与那覇湾は2012年にラムサール条約の登録湿地となった)。
クロツラヘラサギは沖縄や台湾などで越冬し、九州を経由して繁殖地の朝鮮半島に向かうとのこと。その距離なんと1,400キロ。そんな長旅をして宮古まで来ているとは。サシバもそうだけれど、その体力、能力には驚くばかりだ。

与那覇湾にはクロツラヘラサギの他にもたくさんの鳥が飛来する。
この日は、小さな鳥の集団もいた。名前は知らないが、あまり見かけない鳥だった。与那覇湾は、春にはアオサ採りをする人の姿が見えたり、夏には、サニツ浜カーニバルが行われたりと賑やかだ。冬はほとんど人の姿を見ないが、鳥たちが賑やかな姿を見せている。


※今月から「宮古島四季折々」の掲載日が第四週金曜日に変更となりました。今後ともよろしくお願いいたします。  続きを読む


Posted by atalas at 12:00Comments(0)宮古島四季折々

2017年12月19日

第165回 「報恩之碑」



島の石碑を巡る旅、多良間島シリーズの3回目です。先週の高田海岸の異国船ファン・ポッセ号の遭難の地に続いてご紹介するのは、ファン・ポッセから2年後の1857年に南部藩宮古(巌手縣)の善宝丸が、多良間島に漂着した事件にまつわる石碑「報恩之碑」です。こちらの石碑は多良間島の南端にある多良間漁港の東側、高穴海岸に面した「宮古の森」の中に建立されています。

石碑がある「宮古の森」の“宮古”とは、いわずもがな岩手県宮古市の宮古のことです。気候がまるで違うので、ここの森に岩手の植生が植わっている訳ではありませんが、そのように名付けられています。そして善宝丸が流れ着いたといわれている高穴海岸の側に石碑が建立されています。
安政六年(西暦一八五九)一月南部宮古の帆船善宝丸。江戸交易の帰途、暴風雨に遭う。水夫七名七十余日生死の間をさまよいこの地に漂着。救いを求む。多良間島民よく奔走してこれを庇護し、もって全員恙なく帰郷するを得たり、以来百十余年宮古市民深くこれを謝し胸に刻む。ここに語り継ぐべき有縁を記し友愛を込めて一碑を建て、永久に記念するものなり
昭和五十一年十一月吉日
岩手県宮古市長 菊地良三
以上が、報恩之碑に記されている全文になります。
ややざっくりとした情報で構成されていますので、ネタ的にもう少し掘っておこうとあれこれ調べてみると、石碑は昭和51(1976)年に建立されていますが、逸話自体は昭和49(1974)年に岩手県宮古市の郷土史研究家の手で、長根寺の古文書の中からエピソードが発見されたことが発端となっているようです。

※多良間村が石碑のそばに建てた、報恩之碑の案内板には安政五年と書かれている(誤記)。

各資料から引き出した情報を基に、善宝丸事件の全貌を再構成してみました。

安政六(1859)年8月末、福川屋栄作(船主)持舟船の商船・善宝丸にて、藤原善兵衛(下町善兵衛、小野寺善兵衛という表記もありますが、明治になるまで苗字を名乗るとはなかったので住んでいる土地の名前などを付けて呼んでいると考えられる)船長(船頭)以下7名(以下6名の記述があるが、記録によると善兵衛、与十郎、伊勢松、多助、福治郎、亀吉、勘兵衛の7名である)は、岩手県宮古市を出帆しました。

同年9月28日に江戸に着き、所要を終えて神奈川県浦賀港を11月10日に出港し、千葉県銚子沖までは順調な航海であった。ところが翌11日は南西の大風に変わり、激しい時化に見舞われてやむなく帆柱を切り捨て(荒海の中で転覆する恐れを軽減するため、帆柱を自ら切断することはこの時代における遭難時のライフハック)、船体の破損により浸水箇所を応急処置をしながら、波まかせ風まかせに彷徨い続けました。一行は妙見様(みょうけんさま≒妙見菩薩。北辰≒北極星または北斗七星の神格化したもの。除災招福のご利益がある)に心願を立て、朝晩に御題目(真言≒オン ソチリシュタ ソワカ)を皆で唱え祈ったといいます。

14日になってようやく嵐もおさまり凪になるも、現在位置も方角すら判らず、なすすべもなく海原を漂流するしかありませんでした。
船に積んであった水も25日目には尽きてしまうも、神仏へ祈願のおかげか尽きかけると雨が降り、天水を集めてしのぐこと三度。水は不自由なく使うことが出来ました。食料は浦賀を出る時に積んだ、5斗入り3俵の米(1斗は10升)と、商売用に積んであったサツマイモ250俵を食べて日々をしのいでいた(末期は魚も釣っていたとの記述もある)。

12月20日頃、故郷ならば土用の丑の頃のような暖気を感じる海に、日本から遠く唐のあたりを漂流しているのではないかと予想。12月23日午後2時頃、高い山の島が見えるも日本らしからぬことから落胆(高い山の島は台湾であろうか?)。食料がとぼしくなりなりはじめた(そのままだと3月には食べ尽す勘定だった)1月23日四ツ時(10時か22時)頃から東南の風が強まり、やがて夜七ツ時(24日午前4時頃)からは激しい風雨の大嵐となり、海原に浮かんだ木の葉のように波に翻弄されます。
彼らは必死に船にしがみつき、一心に妙見様を念じ続けているうちに、24日の深夜、どこともわからない島の岩礁へ善宝丸は乗りあげて大破します。実に75日目(1859年1月24日に漂着。76日と云う記述も見られるが、これは夜が明けたからということか?)ぶりの陸地でした。一行は夜が明けるのを待って島へと上陸します。それが多良間島の高穴海岸だったのでした。

善兵衛ら一行は多良間の島の人びとから手厚いもてなしをなされます。食料や衣装の提供を受け、体力の回復をはかり、53日間にわたって多良間島に滞在しました。
3月17日、島の船(貢進船などではない模様)でまず、宮古島へ(出立時間は不明ですが、同日の午後2時に着いたとあるので、宮古島までは数時間の航海らしい)。宮古島からは特別に仕立てた船(こちらは貢進船っぽい気がします)で、3月26日に宮古を発ち、29日に伊平屋島へいったん着き(風の影響であったようです)、その後、那覇へと入り琉球王府で漂流の経緯などを報告(聴取?)し、三ヶ月半ほど滞在(3月30日~6月16日)。薩摩(鹿児島)~豊前小倉(福岡県北九州市)~大阪~江戸を経て、1年余年(10月8日)ぶりに岩手県宮古市へと全員が帰郷を果たします。

この善宝丸が縁となって宮古郡多良間村と岩手県宮古市は姉妹都市を結び、現在ではさまざまな交流事業を通して繋がりを持っています。報恩之碑の建立時は、姉妹都市の締結前ですが、遥々、宮古市の市長ら一行が多良間島を訪れており、この直後に結ばれていることを思うと、この時のトップ会談で決まったのかもしれません。

そして時は流れ、ここからは手前味噌の自分のターンとなります。
2015年2月。ちょうど伊良部大橋が開通してすぐのこと。所要(伊良部大橋開通感謝の集い)で橋渡ってを伊良部の公民館(旧伊良部町中央公民館)へ。ここのロビーには島民が持ち寄ったものなのか、古い民具や鳥や動物の剥製などが古びたショーケースに飾られているのですが、その一番隅っこに劣化して日に焼けて黄ばんだ綴りがあることに気づいて、硝子越しに表紙の文面を読み驚かされました(ついでに何故の多良間関連の書物が伊良部にあるのかという疑問符も生れた。尚、正確にはもう少し前にこの綴りは見つけていましたが、書面の記憶が不鮮明だった)。
「奥州人(岩手県宮古市) 多良間島漂流記(写) 宮古市花坂蔵之助氏」
と、そこには書かれていました(直後は達筆で完全には読み切れなかった)。

そこで岩手県宮古市の知人(姉妹都市が縁で宮古島のトライアスロンに参加し、その後、宮古島に住んでいたこともある方)に、この話を投げかけると、早速、調べてくれました。
花坂蔵之助(はなさか・くらのすけ)氏はどうやら地元の郷土史の大家のようで、長根寺の古文書を調査した際に善宝丸の記述を発見した人物でもあるようです。宮古市の図書館での調査の結果は、また、興味深いもので善宝丸の記録は3つ残っているということでした。

(1)「宮古通り漂流人一件」 (県立図書館蔵)
船頭・水夫たちが帰郷後、南部藩の御徒目付に申し述べた調書のようなもの。

(2)「多良間島漂流控(仮称)」 (宮古市・長根寺蔵)
船頭の善兵衛が帰郷後に漂流の始終を書いて、長根寺に納めたもの。表紙が失われ「多良間島私共御取扱いな付」ての書き出しで末尾も欠落しているため、資料名は仮称となっている。

(3)「宮古通之者七人琉球江漂流一件」 (県立図書館蔵)
最初の「宮古通り漂流人一件」と内容は変わらない。

漂流“記”(写)と、タイトルが少し変わっていますが、二番目の「多良間島漂流控(仮称)」がどうやら、伊良部で見つけた綴りの元であると思われます。

そして花坂蔵之助氏の手によるものとしては、「多良間島漂流控 現代語訳(琉球新報 1976年11月25日~12月1日計5回掲載)というものがあり、当時の連載をを読むに、臨場感のある漂流記(の報告)で、多良間、宮古をはじめとした当時の琉球の様子をかなり仔細に報告しています。この伊良部にある綴りの内容は、おそらく新聞連載された「多良間島漂流控」の読み下しではないかと思われます。
「多良間村史第二巻資料編1巻王国時代の記録」に原典と花坂蔵之助氏の手による読み下し文が掲載されています(過去の琉球新報今月末で閉館するを図書館北分館で見て来たけれど、未だマイクロ化とかもされていないので、綴じ代に喰われて読めない部分もあったので、村史をあたることをお勧めします)。

この多良間村史。善宝丸関連についてはかなり充実しており、先の「多良間島漂流控」の他、「宮古通り漂流人一件」も掲載されている(読み下しはなし)。そして注目なのはこの善宝丸の事件は、琉球側の記録も充実していることが、村史によって知ることが出来ました。
「球陽(附巻四、尚泰十二年)」、「宮古島在番記」にも記録があるが、東京大学法学部に所蔵されている「琉球評定所記録」の中の一冊に、「奥州人七人宮古島へ漂着難破那覇へ送来候付界抱日記」というものも掲載されている。この史料は多良間に漂着した善宝丸一行の聞き取りと、宮古島在番や王府役人の対応と、それに伴う経費などが事細かに記録されている(かなり至れり尽くせりで、高待遇を受けているのが判ります)。

いつものように石碑の話を書き出してから、善宝丸の逸話はとてつもない大物であることに気づき、あわててあれこれと史料を読み漁ったものの、細かなところまではたどりつけませんでしたが、非常に興味深いネタなのでもう少し個人的に掘っておこうと思います。
嗚呼、スラスラとはわないまでも、漢文が滞りなく読めるくらいちゃんと勉強しておけばよかった(理系)。

【参考資料】
多良間の友を迎える歌
「多良間村史第二巻資料編1巻王国時代の記録」 (1986年)
「平良市史 第三巻 資料編1前近代」 (1981年)
「琉球新報 多良間島漂流控 現代語訳」 (1976年11月25日~12月1日掲載)  続きを読む


2017年12月15日

第伍號 「最大瞬間風速85.3メートル」



台風コラが記録的な台風として今でも語られるのには、現在でも破られていない最大瞬間風速の記録、85.3m/sを観測したことが挙げられます。当時、実際台風に遭った方々は「もっと強い風が吹いていた。あれは風速計が壊れて、観測できなかったからだ」なんてお話されます。

【写真:平良市制25周年・祖国復帰記念誌より 1972年】
ただし、話を聞くと出てくるのは、風の強さよりも「暴風雨の長さだった」とのこと。
約3日間に渡って閉じ込められ、とにかく早く過ぎ去って欲しいと願うばかり、とのことでした。

前回の最後に紹介した「恐怖の38時間-第二宮古島台風の記録-」、およそ1年後の1967年8月に発行されたこの本のページをめくると、行政主席や宮古地方庁長の挨拶に始まり、子どもから大人からまで、様々な人々の手による生々しい体験記が集められています。台風コラの被害に対し本土からの支援に対する、報告書としての性格もあるようです。

この本、宮古連合区教育委員会という聞きなれない組織が発行しています。本土復帰前の沖縄で、教育委員会は現在のような市町村や県の一組織ではなく、法人格を持つ独立した組織でした。この宮古連合教育区は、各市町村に相当する範囲ごとに設置された教育区を地域ごとに束ねる、連合教育区の一つでした。教育行政の組織が台風の記録をまとめる不思議な気がしますが、背景として、本土からの支援の背景には当時の盛んだった復帰運動があり、その担い手として教育関係者の存在が大きかったからではないかと考えられます。

話が脱線しましたが、この本で最も興味深いのが実際観測に当たった宮古島気象台職員の手記です。
台風が近づく9月3日から臨時勤務体制に入り、4日朝には家族を鉄筋コンクリートの家へ避難させ、「カンヅメにされ」ながら気象台に迫り来る台風を観測し続けていました。筆者は、1959年の台風サラ(宮古島台風)の後に備えられた、気象レーダーの観測を担当していました。記録的な最大瞬間風速を観測したのは、5日午前6時30分。
その時を筆者は「6時30分の観測を終った直後、回転しているアンテナが一時、停止し、急に逆回転をはじめたので、スイッチを切り、アンテナを風に流す。(中略)これで今まで情報を提供しつづけた、レーダー観測は終り、レーダー室は静まりかえった」他にも手記には生々しい話が記されています。
閉めた雨戸がきしみ、ガラス戸の隙間から滝の様に水が流れる中、建物の補強を続けながらの観測。そのような暴風の中でも外に出て観測を続ける観測員。ついに食料が尽き断水で水も飲めない中で「これで宮古島の農作物と木造家屋は全滅だ」と感じながら、あきらめで為すすべもなく椅子でぐったりしている様子が描かれています。

【写真:第二宮古島台風コラ被害状況 1966年9月7日撮影 沖縄県公文書館所蔵】

さて、このような被害をもたらした台風の最中、台湾から来た「東方大サーカス」の面々は、どのようにこの台風をやり過ごしていたのでしょうか。トラやライオンたちはどうなったのでしょう。
次回は、台風通過直後にサーカス団を助けたとある家族の証言をもとに、話を進めたいと思います。



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2017年12月12日

第164回 「オランダ船遭難の地」



先週の「青木酒造跡」から跡はじまった多良間島シリーズの2回目です。先週、記事末にしれっと「次回の多良間の石碑は有名な船のアレです(たぶん)」っと、予告をしていたので、きっと賢明なる石碑好きな読者の方は「ああ、多良間で有名な船の石碑と云えば、南部藩宮古の善宝丸のことやね~♪」っと、想像していたのではないでしようか。でも、それは残念ながらハズレです。今回取り上げるのは善宝丸より2年早く、1857年に多良間島で起こった外国船の遭難のお話です。

島の集落の西方(丸い多良間島の中心から16方位的に見ると北西の位置)、高田海岸と呼ばれるローカルビーチに、“それ”はあります。ええ、大見栄切った割には、最近ちょっと乱発気味のしている出落ちでごさいます。こちらの「村指定 史跡 オランダ船遭難の地」の碑は厳密な石碑ではなく、史跡を案内するコンクリート製の標柱です。なので石碑と呼ぶのははばかられるはずなのですが、この海風にさられて傷みに傷んだ風格ある標柱は、ある意味では標柱そのものすら史跡としての意味を持ち始めているような気がしたので取り上げることにしてみました(壮大な言い訳ですよ。ええ)。

この史跡は1857年にオランダ商船「ファン・ボッセ号(Van Bosse)」が、多良間島の高田海岸沖で座礁、沈没があったことを記しています。時代としては大航海時代(15世紀から17世紀後半頃)が過ぎ、やがて近代が始まろうとしている時代です。大航海時代といえばスペインとポルトガルが覇権を競い合っていましたが、ポルトガルがスペインに併合されるという結末で前半戦が終了。続いてイギリスの助力でスペインに支配されていたオランダが独立を果たして後半戦が開幕。急速に国力をつけたオランダが大航海時代に名乗りをあげ、その勢力を瞬く間に拡大してゆきます。
オランダは落ち目のスペイン(ポルトガル)を駆逐する勢いで、アジアにもその版図(植民地)を広げ、やがて徳川幕府の日本にも触手を伸ばしてきます。一説によると江戸時代の鎖国(1639年~1853年までの215年間)は、このオランダの巧みな外交戦略によって幕府が選択させられた施策だとも云われています。日本が鎖国の期間にあってもオランダ船は限定的ながらも貿易が優遇されており、逆説的にみれば対日貿易をオランダがほぼ独占していたとも考えられます。

話を多良間のオランダ商船に戻します。ファン・ボッセ号は1854年にドイツで建造された、665トンの3本の大きな帆(three master barque)を持った船で、ロッテルダムのボッケトレーディング社(Bonke&Co Trading)によって、上海からシンガポールへと向かっていたのだそうです。
1857年に嵐にあい、多良間島の高田海岸のリーフで座礁、沈没したと云われています。乗組員は27名は全員が救助され、島にしばらく滞在したのち、オランダ領東インド(おおむね現在のインドネシア)のバタヴィア(インドネシアの首都、ジャカルタの植民地時代の名称)へ帰っていったということですが、日本側の詳細な史料はあまり見つけられず、やや内容が限定的です(調査不足は幕を待たない)。
ファン・ボッセ号が多良間で沈没した時期は、列強の圧力に根負けして日本は鎖国を解き(1853年)、大変革が始まろうとする時期でもあり、薩摩の支配下に堕ちていた琉球王府にも多くの外国船が来港しており、当然、それに伴って海難事故も増えています(先の善宝丸など、和船の事故も当然あった)。

そこで多良間島(水納島)に漂着した、外国船を2冊の本から急いでさらってみました。

 1691年 唐人7人漂着●
 1940年 福建省泉川府の者21人漂着●
 1756年 異国船乗組員3人漂着○
 1786年 唐船1隻、乗組員25人漂着(水納島)○ ※但し、見聞録ではフヂ岩と誤記
 1814年 嘉慶19年 朝鮮人5人漂着○
 1843年 オランダ船1隻漂着
 1856年 異国船一隻漂着、乗組員26人○
 1857年 オランダ船漂着、乗組員27人●

  無印 宮古島庶民史(稲村賢敷 1957年初刊行 1972年版)
  ●印 沖縄宮古の歴史見聞録 普久村寛仁(1990年)
  ○印 庶民史と見聞録のどちらにも掲載されている

ふたつの資料書籍を見比べてみると、どちらも史料のベースは宮古在番記を元にしているようなのですが、1756年から1856年までは一件を除き、同じものが記録されているに、1756年以前は見聞録の方が、記録が充実している上、庶民史は当該のファン・ボッセ号のことには一切言及されていないという、なんとも興味深い結果となりました。ちなみにファン・ボッセ号の記録は琉球王国が編集した「球陽」(1745)に記載されているということなので、稲村賢敷は見逃してしまったのでしょうか?。

ちなみに、宮古でよく知られている異国船漂着の話とは、前後に時期がずれ、八重干瀬に座礁したイギリス探検船プロビデンス号は1797年、博愛で名高い宮国のドイツ商船ロベルトソン号は1873年です。

そして近年、注目されている水中遺跡の調査が、2015年に九州国立博物館が水中ロボットで、2016年には九州国立博物館とオランダ水中文化遺産局の共同で、高田海岸のフォン・ボッセ号の難破海域で海中・海上調査が実施されました。
この調査以前(県立博物館には1984年の表採が保存されている。学芸員コラム)から、該当海域ではフォン・ボッセ号の積荷と思われる中国製の陶器などが多数発見されており、同船の錨「オランダカナグ」(長さ2.72メートル、重量推定6~700キロ)も島に保存されています。
ちょっと面白かったのは、島では外国製のボトル程度の認識だったものが、オランダ側のトピックスではルーカス・ボルス・ジンのボトル」が見つかっていたことに注目をしていました。調べてみると、1575年にオランダのアムステルダムのルーカス・ボルスによって創業された、酒類製造メーカーで、現在も「ボルス(BOLS)」名でカクテル用のリキュールを製造しているというものでした(日本ではアサヒが業務提携)。
さすが、ヨーロッパの老舗メーカー。連綿と続くことで歴史に乗っかって、出自の証明にもなって来るところなどはとても面白いです(ま、余談ですが、世界最古の企業は日本にあるんですけどね)。ともあれ、さらなる調査でフォン・ボッセ号とその背景などが解明されてくれると楽しいので、続報に期待したいと思います。

さて。今回は難破船のネタを変化球でお届けしてしましたので、次回の多良間シリーズ3回目は、善宝丸をお届けします。お楽しみに~!


【参考資料】
沖縄県立博物館・美術館 学芸員コラム
考古部門収蔵庫の逸品-オランダ商船ファン・ボッセ号の積荷-
※写真6のヨーロッパ陶器(『AMSTERDAM』と刻印)は、BOLSの昔のボトル。

オランダの船舶に関する研究
(Dutch research on shipwreck Van Bosse about to begin)


「日本の戦争の歴史」1600年中盤 ③オランダの台頭/江戸幕府、鎖国政策へ

【新聞記事】
多良間島の蘭船遺物伝承調査、カナグ保存展示へ 2016年10月22日
海中、海上調査を体験/多良間小中 2016年11月17日
水中遺跡を事前調査/多良間村 2016年8月26日

【追加資料】
調査報告 オランダ商船 ファン・ボッセ号
九州国立博物館研究員 佐々木蘭貞(広報たらま2017年11月号)

【20171214 改訂】  続きを読む


2017年12月08日

27冊目 「テンペスト」



基本的に歴史なんて明治維新の高杉晋作くらいしか興味はありません。司馬遼太郎も特に読んでもいません。徳川将軍15代も言えません。でも琉球王国に惹かれる阿部ナナメです。

今回、何年かぶりに『テンペスト』を読み直したので紹介させていただきます。
『テンペスト』は石垣島出身の池上永一さんが2007年1月から2008年6月にかけて発表した時代小説です。舞台化、テレビドラマ化、映画化されるなど人気のあった小説なので、みなさん読んだことあるか名前だけは知ってる方が多いと思いますが、最近のマイブームが琉球王国なので個人的意見を加えつつ紹介したいと思います。

物語は歴史でいうとペリーの黒船来航、新撰組設置、大政奉還、琉球処分と、いわゆる幕末のあたりが舞台です。琉球にとっての運命の子が誕生するところから始まり、運命の子を通して、当時の琉球の文化と歴史が生き生きと書かれていきます。あぁもうフィクションだなんて、信じられない。半分本当で半分創作ってステキです。妄想に拍車がかかります。

その当時、琉球王国では本場中国の科挙(かきょ)よりも難しいと言われた科試(こうし)がありました。科試のいくつかの段階を経て最終的に受かると王宮で働くことができるのですが、最終合格するには600倍の倍率を戦うとかなんとか。士族であることが受験資格だったようですが、なかなか受からず科試浪人がいたようです。科挙試験内容は教養、知識はもちろん道徳的な内容や外国語。そんな科試を13歳で突破するのが運命の子。突破のみならず、ガンガン出世するのです。最終的には表十五人衆と呼ばれる官僚(今でいう大臣)にまで上り詰めます。

琉球の歴史がリアルに書かれているからこそ、興味深い内容に出会いました。物語の中では薩摩からの支配を受けつつ中国の冊封体制の中。貿易での利益は薩摩へ取り上げられ、中国へのもてなしでお金もなく、江戸上りでさらに貧乏まっしぐらの琉球は、宮古と八重山に人頭税を取り入れていました。
そう。悪名高い人頭税がここで出てきました。え?貧乏じゃなかったら人頭税もなかったのかー。と言うことは、遡って豊臣秀吉の朝鮮征伐とか徳川家康が幕府を開くとかそのあたりには、琉球はどうだったの?。いや、『テンペスト』の舞台である時代の終わりの琉球処分の辺りは?。いやいやなんだか、ひたすらに侵略されてばかりじゃないですか。国として名乗るために王国として存在するために、冊封体制を取ったものの結構な辛い時代ですよね。宮古と八重山だけでなく琉球が辛い時代であったにも関わらず、琉球文化が花開くのもこの時代。学問に教育、芸能に伝統工芸や文学。中国や朝鮮、交易先の東南アジア、そして日本からの影響を受けて琉球としての文化になっていく。
強い。強いなぁ。アララガマですよ。まさしく。

運命の子は順風満帆に生きてきたわけではなく、やはり運命の子らしく波瀾万丈の人生を送ります。何度も心が折れそうになります。そのたびに立ちあがる。
ステキです。
もうこれ以上書くと、ネタバレをおこしそうです。

半分本当で半分創作と書きましたが、あたしの知る琉球の歴史に被るので、歴史的流れは本当だと信じてこう書きました。登場人物にそれらしい人はいないので、半分本当で半分創作だと個人的に信じています。
日本史もたぶん面白いとは思いますが、『テンペスト』を入り口に地元、琉球史も楽しんでみてはいかがですか。
あたしは未だ見たことのない映像の『テンペスト』を見てみたいなぁと思います。
GACKTがドはまりな役だったらしいので…。

〔書籍データ〕
テンペスト(文庫版)
著者 池上永一
発行 角川書店
発行日
 春雷 2010年8月25日
 夏雲 2010年9月25日
 秋雨 2010年10月25日
 冬虹 2010年11月25日
ISBN
 春雷 ISBN 978-4-04-364711-8
 夏雲 ISBN 978-4-04-364712-5
 秋雨 ISBN 978-4-04-364713-2
 冬虹 ISBN 978-4-04-364714-9


【阿部ナナメ@島の本棚】
15冊目 「てぃんぬに 天の根 島に生きて」(2016年12月09日)
21冊目 「ぼくの沖縄〈復帰後〉史」(2017年06月09日)  


Posted by atalas at 12:00Comments(0)島の本棚

2017年12月05日

第163回 「青木酒造跡」



えー、ここのところひたすらに続けて来た「井戸にまつわる石碑シリーズ」も、今回で一応のファイナルと致します。別にネタがなくなった訳ではないのですが、あまりにもシリーズが地味すぎるので、さすがにちょっとだけ軌道修正。といっても石碑紹介が地道に続くことは変わらないのですがね。
さて、“とりあえず”の井戸にまつわる石碑シリーズのファイナルは、実は新シリーズの幕開けも兼ねていたりします。なぜなら、「ん to ん」史上初の多良間島編だからです。多良間の皆さん、大変お待たせいたしました。連載163回目にしてやっと登場です。ホント、遅くなって済みません。

で、多良間島の石碑シリーズの一発目ですが、いきなり知る人ぞ知るの石碑である、井戸にまつわる石碑の「青木酒造跡」の碑です。こちらは多良間島の元・酒造所で使われていた井戸の脇に建立されています。

この石碑を知るきっかけとなったのは、たまたまみかけた平成28年4月の「広報 たらま」でした。『「青木酒造所跡地」を村へ贈与』という記事を読み、まず、多良間に酒造所が存在していたことに驚いたのでした。そして記事に添えられていた写真を見て、これは是非モノで現地を現物を見に行かなくてはと、心のノートに太字で書き込むのでした。
さすがにお隣の島とはいえ、ちょっと石碑ひとつ見に行ってくるわ~っというほど気軽に多良間へは行けないので、虎視眈々とその機会をうかがっていました。半ば忘れかけていた1年くらい経過した夏、ひょんなことから多良間行の仕事が舞い込み、ふたつ返事でOKしてひさしぶりの多良間島へと向かったのでした。

多良間での仕事を滞りなく済ませ、帰りの飛行機までの寸暇を惜しんで、「青木酒造跡」の探索開始です。事前におおよその位置は見当をつけていたので、石碑ハンターの嗅覚をもってすれば造作もなく、あっという間に見つけ出してみせました(ちょっと盛ってます)。
字・塩川の東方に広がる畑の中の交差点にあり、小さな園地のように整地された場所に井戸と石碑が佇んでいました。周囲はすべて圃場整備されて畑に変わっており、酒造所の面影などはまったくなく、当時を様子を知ることが出来そうなものは、かつて使われていた井戸だけでした。

記事によると
 去る1月、青木省吾氏(埼玉県在)『青木雅英氏の孫』により、多良間村で活用してほしいと「青木酒造所跡地」の畑を村へ贈与された。畑(37平方メートル)井戸と畑(1188平方メートル)の2筆(字塩川阿嘉利原)を贈与。
 青木氏は「村の皆様の力で、是非とも多良間の教育・観光のためにご活用いただければ幸い。島の発展に微力ながら寄与できれば」と話した
 村では井戸を文化財として保存し、畑は児童生徒たちの農場体験学習の場として活用したいと贈与を受けた。有難うございました。
「広報 たらま」平成28年4月号より

跡地を贈与した青木雅英の孫にあたる省吾は埼玉県在住とあり、すでに島を出ている(孫なので島外生まれ?)血脈の方のようですが、そもそもが多良間島で内地風の青木姓ですから、おそらくこの青木雅英なる人物は、島にやって来た寄留商人だったのではないかと考えます。
そこでもう少し村史などを調べてみると、1913(大正2)年に平良村から分村独立した、多良間村の第5代村長(1925-1929)仲本朝恒の時代に、助役として青木雅英の名前がありました(任期は未明)。
また、1928(昭和2)年の村議会議員12人の中にも名前を連ねています。そして極め付けとして、1929(昭和4)年に第6代(-1933)の村長に就任していることが判明しました。
村長時代の出来事を年表から追いかけてみると、就任の前年である1928(昭和3)年には、「村長派と反村長派による騒擾事件おこる」という項目があり、なにやらとてもキナ臭い感じのする政争が繰り広げられていたようです(騒擾≒騒乱)。

さらに、就任した1929(昭和4)年から任期中の出来事を年表から拾ってみました。

 1929年 青年団による御大典記念造林
 1930年 風速63メートルの大暴風雨に襲われる
 1931年 馬車が導入される。溜池構築工事完成。
 1932年 コンクリート桟橋が建造され、村有船矯正丸、商人組合の親和丸が就航す。

1929年の御大典記念の造林の場所は定かでありませんが、事業自体はこの時期に盛んに行われた昭和の天皇即位を記念の事業した、御大典の公共工事が行われたものです(例としては後の県立を経て市図書館の北分館となる、宮古簡易図書館設置など)。また、公共事業以外にも全国のあちこちに記念碑の類も建立もされました(新城の御大典紀念碑)。この事象は戦前の帝国主義的時代背景が色濃く表れていると思います。
1932年のコンクリート桟橋は普天間地区に今も現存する、最も古い埠頭(使われていない)のことだと思われます。また、商人組合というのは語感からみて寄留商人のような雰囲気が漂います。
仮説として寄留商人の台頭によって誕生した村長だとしたら(しかも、青木村政では助役に森山浩、収入役は豊島正夫と要職は内地姓で固められていた)、村益や公共性をなんかを詠いつつも、それとなく商人組合に便宜を図っていても不思議ではない気もします。

【左】 3本の普天間港の桟橋。赤丸が初代コンクリート桟橋(GoogleMapより)
【右】 最古の桟橋を真ん中の二代目桟橋から撮影。二代目もかなり老朽化している。


そしていよいよ酒造が開始されます。

1962(昭和7)年 「アガリバルにて酒造業はじまる」

これだけなら島に足りなかった事業を興して開始しただけのような思えますが(もっとも、公職にあって事業はアウトでしょうけど)、「自家用の密造酒を取り締まる」と年表には続けられており、確かにお酒の密造はアウトですから、合法的かつ確実に商品が売れる仕組みをルールをたてに構築し、必需品の独占を目論んでいるような気さえしてきます。
よりうがった見方をすれば、寄留商人の力を使って離島の離島である多良間島に、自分たちの都合のいい王国を作ろうとしていたのかもしれないと、根拠のない誇大妄想がついつい捗ってしまいます。

石碑には
この碑は青木雅英が昭和九年より同十九年まで此の地にて酒造所を営んだことを記念して建立す
昭和五十四年八月吉日建之
とあります。

雅英は1933(昭和8)年には村長職を退きますが、昭和15年の村議会議員には再び名を連ねており、影響力を誇示していたのではないでしようか。そして戦中戦後にはついては特段の記録はありませんでしたが、多くの寄留商人たちは戦前に内地へ引き上げていまる中、昭和19年まで酒造所を稼働させていたと石碑に刻まれていることを思うと、戦局が悪化してやむなく閉鎖したのでしょうか。実際、19451月9日に多良間への初空襲では、死傷者が多数出て郵便局が全焼する被害を出しています。この日を境に、空襲は激しくなり学校は休校になり、ソテツ食が増えたそうです(つまりは流通が途絶えた)。
ちなみに数は少なかったようですが、多良間にも軍は展開していたようで、軍医として終戦まで多良間に赴いていた宮国泰誠(後に宮古博愛病院を開業。また、歌人として歌会で詠まれた人物)は、平良の町が空襲にあった夜に、赤々と燃え盛っているの様子が空に映って見えたと語っていたそうです。

これにて井戸にまつわる石碑シリーズのファイナル(暫定)と致しまして、新シリーズ多良間島の石碑ミニシリーズの開幕とさせていただきます。次回の多良間の石碑は有名な船のアレです(たぶん)。  続きを読む


2017年12月01日

log07 「還暦~いつまでもブーリャ」



「待ちに待ってた、出番が来たぜ!」ということで、今月から遂に遂に新連載とあいなりますは、よしえねぇねぇこと、川上良絵さんの「宮古口見聞録"~みゃーくふつけんぶんlog」です。これまで金曜特集に代打以来、人気高騰もあいまって不定期に掲載を重ね、代打史上最多の6度の登場を果たし、いよいよ今月から抱腹絶倒の「「宮古口見聞録"」が毎月第一金曜日に楽しめるようになります。
それではよしえねぇねぇからの少し早いクリスマスプレゼントをお楽しみください!。

 ※これまで第一金曜に連載していた松谷初美さんの「宮古島四季折々」は、第四金曜日にお引越しとなりました。
 ※「宮古口見聞録"」は新連載ですが、これまでの6回分も回数にカウントし、7回目からスタートとします。


※     ※     ※     ※     ※


みなさんこんにちは!
今日から12月。ああ、今年こそ家の整理整頓を頑張ろうと年頭に誓ったのにもう師走。せめて今から大掃除を少しずつでもやっていこう。っと、毎年毎年、そう思っている私、川上良絵です。

さて、宮古島では11月3日文化の日あたりから、同窓会シーズンを迎えます。中でも盛大に行われるのが還暦を迎えた方たちの同窓会です。
中学校の“ブーリャ”で行われ、11月~2月頃にかけて開催されることが多く、同窓会のために島内だけでなく、沖縄本島や内地からも大勢の“ブーリャ”が集まって来ます。

【宮古毎日新聞 2017年11月5日、11月7日、11月26日の各号に掲載れている同窓会の記事】

【ブーリャ】
同級生。同期生。
はるばる海を越えて帰省した旧友を歓迎するのは、“ブーリャ”ばかりではありません。
宮古空港を出てすぐの交差点などには、同窓会の日時が書かれた横断幕が掲げられ帰省組を出迎えてくれます。

この同窓会横断幕、いったいいつ頃から始まったのでしょうか?
看板製作でお馴染みの近代PRさんにお話を伺ったところ、「10年経つか経たないくらいかなぁ」との返答。
SNSや無料通信アプリが全盛のこのご時世、ごく限られたメンバーに向けた連絡&歓迎の意を横断幕で伝えるってすごい!
帰省組もさそがしテンションが上がることでしょう。

【還暦同窓会】
そしてこの還暦同窓会、なんと2日間に渡り繰り広げられます。
パターンとしては1日目の午前中、母校の中学校に集合、そして寄付金の贈呈&記念撮影。それは翌日の地元紙にもカラーでバッチリ掲載されます。
というのも、みなさんこの日のために還暦カラーの赤で作ったお揃いのポロシャツやジャンパーで臨むのだそうです。クラスTは学生だけのものではないのですねー。

【クラスT・チームT】
宮古ではクラスや部活のメンバーで、お揃いのオリジナルTシャツを作るのが盛んです。
子どもだけでなく親も同色・同デザインで揃えることが多いです。ただし、子どもが丸襟なのに対して、大人は少し金額はアップしますが、ポロシャツにするのが最近は多いように感じます。
熱いメッセージがプリントされたチームT。団結力の強い宮古、沖縄らしい文化ではないでしょうか?

さて、寄付金贈呈の後は、体育館でバレーボールを楽しむのが定番です。
それが終わったら、解散。
一旦、家に帰って赤いチームTを脱ぎ、夕方からはオシャレしてホテルの会場に再集合して会食です。
もちろん恩師も招いて行われます。
ここでは記念撮影をします。学年全体、クラスごと、さらには集落別と、なんと3パターンも撮るそうです!

さらに驚いたのは2次会の手配です。1次会とほぼ同じ人数が参加するので出欠は特に取らないのだとか。2次会はカラオケが多いけどダンスホールを借り切って踊ることもあるそうです。

【ダンスホール】
私はまだ一度も足を踏み入れたことの無い空間。現在60才前後の方にとってはカラオケと同じくらいポピュラーなスポットのようです。
ちなみにミラーボールもちゃんとあるそうです。

さてさて、ここで飲み過ぎてはいけません。
2日目は朝から観光バスツアーです。
もちろん、宮古在住の人も一緒に宮古島観光です。
バスにはアルコールを持ち込むツワモノが、必ず何人かいるようですが車酔いなどしないのでしょか?
一行はじっくり夕方まで観光し、2日間の還暦同窓会は終了となります。

ところがところが、、後日、立派な還暦記念アルバムが作られると聞いて、またまたビックリ!
実はプロのカメラマンが丸2日間同行するのも珍しくなく、自分たちは楽しむことに専念するんだそうです。
昔は中学卒業後進学せずにすぐ就職する人も多かったので、45年ぶりに逢う人もたくさんいるのだとか。
海を隔てた旧友との再会だからこそ、より濃密な時間を過ごしたいと思うのかもしれませんね。

【いつ帰る?】
島外から帰省してきた人に対して島の人が尋ねます。
決して「早く帰れ!」という意味ではなく、限られた滞在日数を有効に使いたい、できるだけ会って話をしたい、と思うがゆえに出る言葉だと想像します。
これも離島だからこその会話なのではないでしょうか?
旅人にも容赦なく?この言葉は使われますが、それはきっと、あなたのことを気に入ったから聞いているのであって、傷付くことはありませんよ。

ではまた!
あとからね~!


【金曜特集 バックナンバー】
その1 2017年03月24日
その2 2017年03月31日
その3 2017年04月28日
その4 2017年06月30日
その5 2017年07月28日
その6 2017年08月25日  続きを読む