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2022年01月02日

第28回「下川凹天の最初の妻 磯部たま子の巻その5」

第28回「下川凹天の最初の妻 磯部たま子の巻その5」

  今日は宮国さんの誕生日です。今回のトップバッターは、小中学校の後輩である本村佳世(もとむら かよ)さんです。


繋いでもらった宮古との縁


本村 佳世


高校生の頃、ボーダーインク社のいわゆる「沖縄本」にハマっていた。そこでの話や文化が独特で面白く、勉強そっちのけでのめりこんで読んでいた。でも、「沖縄本」とはいえ、どうしても沖縄本島の話題が中心になってしまう。自分の出身である宮古とは言葉も文化も違っているので、寂しさも感じることもあった。せっかく、ばんたがみゃーく(われらの宮古)にも、面白い人も文化もあるのに。だから、宮古の人もこういう本を出したらいいのに、といつも思っていた。


社会人になって2年目の夏、宮古に帰省した時のこと。ブックボックス(現・TSUTAYA)に寄った私の目に飛び込んできたのは『読めば宮古』というタイトルの本。迷わず購入した。そうそう、これ!これさいが!私の欲しかった本。あがい、たんでぃがーたんでぃ(感謝!)。


ページを急ぐようにめくっては、心当たりのある言動に笑い転げた。それから何度も読んで、そのたびに大笑い。この本を編集した「さいが族酋長」宮国優子さんに、会ってみたい。そして、『読めば宮古』を書い方々にも。当時の私にはしかし、自分から連絡をしてみる勇気はなかった。


数年後、ある SNS を始めたばかりの私のもとに、一通のメッセージが届いた。


「宮国優子と申します、怪しいものではありません」


と始まる、そのメッセージを見た時の衝撃は、忘れない。宮古の方言のことについて書いていた私の日記の文章を読んで、気に入ってくださったとのことだった。あっがいたんでぃ!あこがれの人からメッセージをいただくなんて、人生でそうそうない。狂喜乱舞した。


数ヵ月後、優子さんから会いましょうと、まさかの連絡があった。2005年12月18日、自由が丘のスタバで待ち合わせ。初対面とは思えないほど、話が盛り上がった。東京でこんなにひたすら平良ふつを話すことがあるとは思ってもみなかった。当時の手帳を見ると、5時間以上。ここは本当に東京かと思うくらい、次から次へと話題が続く。あんた〇〇、知ってる?同郷の名前が次々と挙がる。私はそのとき、宮古出身なのに宮古らしいものも何も身につけていないこと。そして、せめて祖母が毎日話していた方言だけは、引き継ぎたいんです――。と、そんな話をした。


それから、優子さんからお誘いがくるように。宮古の人の集まり、宮古に関するイベント、講座…たくさん縁を繋いでいただいた。周りに同郷の人もなく、疎遠になっていく一方だった「宮古」を、先輩の優子さんが引き戻してくれたのだった。それだけでも、ご恩は尽きない。


なかでも2010年は忘れられない年だ。宮古のあたらすっふぁ(大切な子ども)たちが、故郷の言葉や文化を受け継ぎ生かしていける人材になれるような機会や拠点づくりをしたい。そんな思いで、優子さんを中心として「一般社団法人 ATALAS ネットワーク」を設立した。そこに立ち会えたことは、本当に光栄なことだと今でも思う。


優子さんと最初で最後の共同原稿がある。イベントレポート「『宇宙とヒトをつなぐもの』スペシャルレポート PART1PART2PART3」は、ATALAS ネットワークの設立直前に書いたものだ。ATALAS の設立のための書類や企画のやり取りをしている最中、「一緒に取材に行って記事を書こう!」と誘ってくれたのだ。今読むと、口語調の文体に慣れていない私のせいで、ハチャメチャ感がすごいが、取材も記事執筆も、貴重な体験で、今でも私の宝物になっている。


ATALAS としてのチーム活動は、優子さんが旗振り役となって何年も続いた。宮古の高校3年生に向けての冊子『島を旅立つ君たちへ』の制作も、その活動から生まれた。高校を卒業すると、その多くが進学・就職のために宮古から離れて行ってしまう。そのとき、故郷のことを少しでもよく知って、誇りに思っていてほしい。どんなときでも故郷が、心のよりどころとなりますように。


私は出産・育児のために『島を旅立つ君たちへ』の最初の発行(2015年)をもってしばらく活動から離れていた。育児がもう少し落ち着いたらまた、と思っているうちに、優子さんは旅立ってしまった。


ATALAS の活動のために、一緒に書類と奮闘して、一緒に調べ事をして、一緒に原稿を書いて…それは、私の「宮古にかかわることをしたい」という思いが、かなった日々だった。優子さんに感謝の念しかない。


いつだったか、私の夢は、祖母たちがそうしていたように、歳を取ったら毎日おばぁ仲間で集まって、方言でおしゃべりして過ごすことだと話したら、「私も!いつか宮古に帰ったらさー、店でも開いて、そこで一日中誰かとしゃべっていたーい!」と返してくれた優子さん。私も、「そしたら私、その店にむぬゆん(おしゃべり)しに行きますよ」と。それから何度となく同じような話をした。訃報を聞いたとき、真っ先にそのことを思い出した。あがえー、優子さん、もう、かなわないさいが…。


夢といえば、優子さんが一度だけ夢に出てきた。


昨年3月の終わり。夢の中で、優子さんと私は、コンテナみたいな広さの真っ白な部屋にいた。優子さんの背後には、白枠の窓。窓越しの向こうも白。曇りの日だったのかもしれない。内部の壁は薄く白い塗料。床には薄黒く木目の透けて見えるアンティーク調の木材が敷き詰められていた。私はその一角の、やはり同じ木目の机にノートパソコンを置いて仕事をしていた。優子さんはその対角の壁際にある、ゆったりとした背もたれの椅子に腰かけ、膝の上にいつもの MacBook をのせて、いつものように仕事をしているようだった。優子さんからそのとき、声を掛けられたのだ。「ねぇ、プリンター貸して」。優子さんの右側には、丸いテーブルがあって、白いプリンターが置かれていた。どうぞー、と私は応えたと思うが、夢はそこまでしか覚えていない。


優子さんがプリンターで出力したかったのは何だろう。私は何か、手伝えることがあるのだろうか、今も気になっている。


宮国優子さん。私とは正反対の、大きな視点をもてる人だった。私の手をいつもぐいぐいと引っ張ってくれた。そのちょっと強引なところが、宮古らしさ、そのもの。たんでぃがーたんでぃ、優子さん。


私はこれからも、優子さんに繋いでもらった宮古との縁を大事にしていきます。


 あけましておめでとうございます。片岡慎泰です。本村さんなので、「一番座」から登場です。やはりこの決まり文句がしっくり。


 今回は、まず、われらが凹天の自筆年譜の一部を紹介します。凹天が日本最初のアニメーション制作開始が、たま子との新婚時代であった可能性がきわめて高いことについて、この巻では岡本一平(おかもと いっぺい)の『夜泣寺の夜話』で検討しました。


第28回「下川凹天の最初の妻 磯部たま子の巻その5」

川崎市市民ミュージアム所蔵


  この自筆年譜については、伊藤逸平(いとう いっぺい)や大城冝武(おおしろ よしたけ)が、紹介していますが、残念ながら不完全です。また、凹天の実人生を精査すると、謎は深まるばかりです。しかし、ここでは「大正五年」、とりわけ「大正六年」と手書きした後、「大正七年」と書き直したことに注目してください。


 「大正六年」、つまり1917年は、凹天が日本最初のアニメーターになった年です。例えば『凸凹人間』(新作社、1925年)には、次のような記述があります。


活動漫畫フイルム

『凸凹人間』


  『凸凹人間』のこの記述を信頼すれば、天活(天然活動寫眞株式會社)との契約そのものは、1917年1月なのかもしれません。しかし、すでにリッテンとの一連のやり取りや、岡本一平(おかもと いっぺい)の『夜泣寺の夜話』などで根拠を示しましたとおり、それ以前、すでにアニメーション制作の話がもちこまれていました。


  繰り返しになりますが、われらが凹天は、たま子との自由恋愛時代、すでにアニメーション制作を始めていたのです。それも、たま子への激しい愛ゆえか、失明状態に追い込まれるほどに。しかし、結婚してほどなく、たま子は心身を崩してしまいました。


第28回「下川凹天の最初の妻 磯部たま子の巻その5」第28回「下川凹天の最初の妻 磯部たま子の巻その5」
第28回「下川凹天の最初の妻 磯部たま子の巻その5」第28回「下川凹天の最初の妻 磯部たま子の巻その5」

(画像提供Y様)


 すでに異変の兆候が最初の写真からうかがえる向きもあるかと。④の写真のたま子は、もはや目もうつろです。


  この時代は、凹天にとってよほど思い出深かったのでしょう。すでに資料をいくつか紹介しました。このブログでは、当時、天下に知られた「奇人」凹天が結婚していたという新聞記事を紹介します。この記事を凹天は、一生もち続けました。この資料の出典は不明とされていますが、私は記事の内容や他の調査から『新愛知新聞』(現・『中日新聞』)と推定しています。オミクロン株の状況を見極めながら、今後その検証を続けていきます。


  この写真のたま子は、病もかなり進行し、精神に変調を明らかにきたしていることがうかがえます。


第28回「下川凹天の最初の妻 磯部たま子の巻その5」

(画像提供Y様)


 ただここで再確認しておきたい大切なことは、凹天制作のアニメーションがシネマ倶樂部で公開された時期が、1917年初頭だということです。


  自筆年譜を書いたのは、私の推測では、凹天が喜寿を迎えた1970年です。当時、この歳は、かなりの老齢と言っていいでしょう。そこで、単に記憶を誤ったのか。あるいは、凹天自身が、アニメーション制作開始時を1916年、あるいは1917年と思ってほしくなかったことが分かります。


  記憶違いに関しては、山口旦訓(やまぐち かつのり)は、凹天が亡くなる前年の1972年12月に実際に凹天に会っているのですが、「まるで仙人のようだった」という言葉を残しています。


 意図的ならば、前回述べた二番目の妻の存在かもしれません。しかし、たま子との記録を凹天がずっと身から離さなかったことから、あり得ません。意図的とすれば、天活との契約問題でしょうか。これも調査していきます。


  一番座からは以上です。


  後半は、タンディ常連のひとり渋谷篤(しぶや あつし)さんです。


宮国さん、島旅、島酒


渋谷 篤


ライフワーク、というほど突き詰めているわけではないけれど、ぼくは島旅をずっと続けている。数えてはいないけれど、延べ200島くらい行っただろうか。


いまぼくは仕事の関係で上海に住んでいて、機会があれば中国の島にも行く。一昨年10月には、1日1便の船に乗って小さなシャン(嵊)山に渡った。 上海の沖合にある島だ。


当日の夕方、ぼくは夕食のさなかに突然呼び出しを受け、宿の主人の案内で警察署に連行された。不法滞在を疑われたようだ。取調室を兼ねた部屋の隅っこに置いてある、ちょっと傾いたベンチで、延々と待った。目の前には旅行会社にあるような低めのカウンターがある。その向こうには、ひとりの青年がいた。ルービックキューブと、ケータイのゲームを黙々とやっている。


部屋の中には我々だけ。 ルービックキューブを回す時だけ、「カチャカチャ」という音が部屋に響く。そんな時間がいつまで続くのだろうか。


と、30分ほど経った時だったか。突然、青年の前の電話が鳴る


「……、はい、日本人ですね。目の前に座っています。えーと、パスポートですね。パスポートの全ページをスキャンすればいいのですね」。


ぼくは、受話器を置いたのを確かめるとパスポートを差し出す。


「ちゃんと居留許可証がここに貼ってある。問題ないはずだ。確認して欲しい」。


青年はパスポートを黙って受け取り、ページごとにスキャンし始めた。


窓の外はもう暗い。町外れの山の上にある警察署の控え室は、ほとんど音がしない。白い壁に囲まれた薄暗い無機質な部屋だった。車の走行音が聞こえる時だけ、少しほっとする。が、すぐに静かになる。パスポートを取り上げられたので、ぼくの持ち物は、あと、宿の鍵だけ。


ふと、宮国さんを思い出した。


* * *


2016年の春。


ぼくが主宰している「島旅メーリングリスト」と称するグループがある。島旅が流行る前からの濃いメンバーが多く入っている。そんな濃いメンバーのひとりから、「島旅君」のことを聞いた。『島を旅立つ君たちへ』。宮古島の4つの高校の、卒業生に配られるリーフレット。略して「島旅君」。


「島旅君」をぜひ入手したい、そう伝えると、大岡山に行けという。大岡山には、「Tandy ga tandhi(タンディ・ガ・タンディ)」という宮古島の拠点があると。 ちなみに、彼は今、宮古島に住んでいる。


大岡山は一時期通いつめた場所だ。大岡山に住む島旅作家、河田真智子(かわだ まちこ)さんに会うためだった。活動の中心は季刊で全4ページ一色刷の同人誌だった。30年間以上(1978~2008)続けた「ぐるーぷ・あいらんだあ」。


ぼくはそこに挟み込むコピー製版 B5 両面刷りの「あいらんだあ折込付録」の編集と、ホームページ作成を担当していた。数ヶ月に一度、河田真智子さんのご自宅にお邪魔して、結局お酒を呑みながらいろいろな島の話をして、帰宅。10年くらいそんなことを続けた気がする。


宮国さんの拠点は、まさにその通い慣れた道の途中にあったのだ。


しばらくご無沙汰していた河田さんの家に顔を出し、そこで時間調整してから河田さんと一緒に「タンディ・ガ・タンディ」を訪れた。


事務所と聞いていたのに、そこはバーのような空間で、カウンターの向こうに宮国さんがいた。ショーチューを舐めながら延々と話をした。「島旅君」を知った経緯。仲間を募って多良間水納島に泊まりに行ったこと。「島旅メーリングリスト」の仲間の話題。「ぐるーぷあいらんだあ」の河田さんとの関わり。


それから、そこに呑みにいくようになった。


カウンターの向こうの宮国さんは、いたり、いなかったり。いないときでもその場所でひとりショーチューを呑んでいると、宮国さんが現れたりした。現れなければ、そのまま帰ることもあった。


落ち着く空間だった。本棚があって、本棚の横にはソファーもあった。たいてい夜の9時か10時くらいにふらりと寄って、11時過ぎに帰った。時計の針はいつもあっという間に進んだ。注意していないと最終電車の時間を逃してしまう。


そんなときは新橋に出て、そこから千葉方面の深夜バスに乗り換えて帰った。


* * *


シャン(嵊)山の警察署では、時間が恐ろしいくらいゆっくりと流れていた。


このまま拘束されてわけもわからず過ごす、誰とも連絡が取れない、そんなことが実際に起こり得る国だ。車の走行音にほっとすることもあるが、実のところ、ちょっとした物音にびくっともする。10分ぐらい待っただろうか。男の前の電話が突然、また鳴った。


「……あ、そうですか。居留許可証があればいいのですね。では、帰しますね」。


電話を切った男は、ぶすっとした表情でパスポートを投げるようにぼくに渡すと、「帰れ」と、一言。


薄暗い警察署の部屋から出てみると、そこには実直な宿の親父が待っていた。ずっと外で待ってくれていたらしい。


「問題なかったか」。


「問題なかった。ありがとう。ほんとうにありがとう」。


「それはよかった」。


外国人を見たことのない宿直の新米警察官と知っていたのだろう。ルービックキューブをあれだけ回していたのに、一面も揃えられないのか謎だった。そう伝えたかったが、中国語の能力が足りず、言えなかった。


中国で仕事をする外国人は、一旦、3ヶ月など期限付きビザ(パスポートに添付される)で中国に入国。それから、地方政府に居留許可証の発給を申請する。めでたく居留許可証が出れば、今度はパスポートに新たに貼られる居留許可証がビザの代わりになり、それまで有効だったビザには「失効○○年○月○日」という大きな印鑑が押される。


そういうわけで、ぼくのパスポートには、2年前に失効したビザと、居留許可証が貼ってある。ルービックキューブを一面も揃えられない新米警察官は、「居留許可証」を見たことがなかったのだろう。


まあしかし、こんな外国人の来ないような離島に来たぼくは、間違いなく文字通り異邦人なのだ。ふだんの常識にないものを島にもち込めば、その解決に時間がかかるのは当然だ。島は海に囲まれている。何でも受け入れられるほど広くない。だから、島の社会は、普通の人には排他的に見えるくらいで良いと思う。


そんなことを宮国さんと話したことがある。宮国さんも賛同してくれた。


島人と、異邦人。ちょっとしたことでも分かり合うには時間が要る。ルービックキューブ然り、「居留許可証」然り。


* * *


メッセンジャーで、宮国さんは何度も、中国に行きたいと言っていた。来るとすればテーマは何?と聞いたら、「民族、文学、暮らし、手仕事」とのことだった。


「なにも考えず、目的もなく、ふつうに生活してみたい」。


「それは分かる」。


「観光は苦手」。


「ぼくも人混み疲れる。町をただ歩くのが好き」。


ぼくが、中国で興味がある対象は、宮国さんと同じで暮らしに直結したものだ。市場の喧噪、売っている野菜、におい、においのもとである発酵食品、そして酒。


コロナでどこにも行けない時期は、中国の野菜、麹、酵母などを調達し、さまざまな発酵食品を作った。味噌や納豆、ザーサイ、発酵ピクルス、ジンジャービール。中国は野菜が豊富で、規格化されていないから面白い。宮国さんも面白がってくれた。納豆を作る人は自分以外では初めて見た、と言っていた。


中国でコロナも落ち着いてきた去年の初め、中国の伝統酒、白酒(パイチュウ)の産地を旅した。貴州から四川省にかけて、中国の山間にある寒村には、国酒と言われる茅台(マオタイ、町の名前)や、一番人気のある五粮液(ウリャンイエ、五種類の穀物から作る)の工場がある。


迂闊なことに、この旅に出るまで、ぼくは白酒の作り方を知らなかった。ワインを蒸留したらブランデーになり、清酒を蒸留したら米焼酎になるのと同じように、白酒は普通に醸造酒を蒸留して造るものだと思っていた。


行ってみると、工場は、醸造所と蒸留所に分かれていた。しかし、醸造所の工場を覗かせてもらうと、広大な倉庫のようなスペース一面に、2メートル四方くらい、高さが1メートルくらいの土山が数え切れないくらい並んでいた。その土山から香しい発酵臭が漂い、歩いているだけで酔っ払いそうだ。


土山

土山



聞けば、この土山それぞれの中に、麹と穀物が埋めてあり、それが徐々に発酵するのだという。ここは中国最大の河川、長江の中流域。水がないわけではないけれど、きれいな水が豊富に手に入るわけではない。そこで水を使わない世にも珍しい醸造法が考え出された。堆肥を作る方法と同じだ。土で蓋をして密封しておくと、ゆっくり固体発酵が進んでアルコールが生成する。


ある程度発酵したら掘り返して、蒸し器に乗せる。蒸し器で上がってきた蒸気を集めれば、一回でアルコール度数が60度を超すものが取れる。これが白酒のブレンド原料になるのだそうだ。


固体発酵は効率が悪く、発酵し終えるためには、何度も繰り返す必要がある。だから、蒸し終わった原料はまた土に埋めて、二次発酵させる。それを繰り返すと穀物の中心部分まで発酵が進み、うまみが増えてくる。さらに繰り返すとだんだん雑味が多くなっていく。全部で9回繰り返すのだそうで、工場では一次、二次、三次……、と、9種類の白酒が試飲できるようになっていた。


真ん中の四次、五次あたりが最もうまい。うまい白酒は高級品で、一番高いものは工場直販でも一瓶500ml、日本円で2万円もの値段がする。専門のブレンダーがいて、味が一定になるようブレンドするのだそうだ。ブレンドするものによって値段が大きく異なる。


同じ工場の酒でも、地元の人が飲む酒は一瓶300円くらい。最初と最後のを多く入れるのだろう。無駄がない、とても合理的な方法だ。ビジネスモデルとしても天才的ではないか。金持ちに高額で買ってもらった残りの白酒が、庶民の酔いを支えているわけだ。


さんざん試飲をしたうえ、夜もたくさん呑んでしまい、完全にふにゃふにゃになって帰ってきた。


でも、宮国さんへのみやげ話ができたと思った。宮古島の泡盛である。


この固体発酵の技術が考え出されたのは、それほど昔ではなく、歴史は600年ほどらしい。さらに山奥の雲南省が起源だという。酒造業としてシステム化されてからはせいぜい400年程度だそうだ。そしてその技術は、琉球王朝を任命する冊封使(さつふうし)や貿易を介して、琉球にもたらされたはずである。


琉球王朝の記録にも、中国から伝来したとの記載(『琉球国由来記』)があるし、新井白石(あらい はくせき)の『南島誌』には、醸造方法として「封醸」という言葉が使われている。液体発酵では密封しないはずだから、これは明らかに固体発酵を示していると考えられる。


考えてみれば沖縄も長江流域と同様、醸造に使える水は豊富ではない。隆起サンゴ礁の島々は特に、水を得るのが難しい。しかし、白酒の方法であれば、蒸すときに使う水は海水で十分だ。さらに海水を沸かした後に、その濃縮液から塩を作ることだってできる。


宮古でも、初期この固体発酵技術で泡盛が作られていたはずだ。きっと、薩摩から入ってきた液体発酵の技術と併用するようになり、最終的には淘汰されたのかもしれない。


昔の醸造技術で、昔の泡盛の味がどんなだったのかを試すのも楽しそうだ。会社勤めを終えた後、どこかの酒造所と、なにかできないかなあ、なんて漠然と考えたりもした。


そんなことで久しぶりに宮国さんと連絡を取ろうとして、Facebook の履歴をさかのぼり、はじめて訃報を知った。


普段、中国で生活していると、VPN を介さないと Facebook も Yahoo 検索も使えない。だから、気づかなかったのだ。いや、気づけよ、という話に違いない。


つくづくぼくは迂闊だと思う。


なんでも自分でやってみる、その場に身を置いてみる。それが一番楽しい。そんな道をぼくは、宮国さんを追いかけて歩いているつもりだった。しかし、宮国さんは、いつの間にか前にいなかった。親と一緒に歩いているはずが、いつの間にか見失って迷子になってしまった子供のようだ。


まあしかし、宮国さんのことだから、ふらりと下界に降りてくることもあるだろう。


きっと会う人が多くてなかなかぼくのところまでは来てくれないかもしれない。でも、上海にも行きたいと言っていたから意外と早く来てくれるかもしれない。きっとぼくが酔っぱらっているすきに、いつの間にかそばにいる。そして、いろいろな話をしているのに、翌日ぼくは、忘れてしまっているのかな、と思う。


いや、ぼくは上海の住まいでも毎日酒は欠かさないから、もうすでに何回か来てくれているかもしれない。


そういえば、「タンディ・ガ・タンディ」に行って話をするときも、いつも酔っぱらってから訪問するのが常だった。


冥福を祈ります。


こちらでまだまだゆっくりしてから「タンディ・ガ・タンディ」に行く予定です。もう来てくれたのかもしれないけど、そして、大岡山かどこにいるのか分からないけど、のんびり待っていてくださいね。



【主な登場人物の簡単な略歴】


磯部たま子(いそべ たまこ)1893年~1940年失踪
凹天の最初の妻。
詳しくは、第24回「下川凹天の最初の妻 磯部たま子の巻 その1」


宮国優子(みやぐに ゆうこ)1971年~2020年
ライター、映像制作者、勝手に松田聖子研究者、オープンスペース「Tandy ga tandhi」の主宰者、下川凹天研究者。沖縄県平良市(現・宮古島市)生まれ。童名(わらびなー)は、カニメガ。最初になりたかった職業は、吟遊詩人。宮古高校卒業後、アメリカに渡り、ワシントン州エドモンズカレッジに入学。「ムダ」という理由で、中退。ジャパンアクションクラブ(現・JAPAN ACTION ENTERPRISE)映像制作部、『宮古毎日新聞』嘱託記者、トレンディ・ドラマ全盛時の北川悦吏子脚本家事務所、(株)オフィスバンズに勤務。難病で退職。その療養中に編著したのが『読めば宮古』(ボーダーインク、2002年)。「宮古では、『ハリー・ポッター』より売れた」と笑っていた。その後、『思えば宮古』(ボーダーインク、2004年)と続く。『読めば宮古』で、第7回平良好児賞受賞。その時のエピソードとして、「宮国優子たるもの、甘んじてそんな賞を受けるとはなにごとか」と仲宗根將二氏に叱られた。生涯のヒーローは、笹森儀助。GoGetters、最後はイースマイルに勤務。その他、フリーランスとして、映像制作やライターなど、さまざまな分野に携わる。ディレクターとして『大使の国から』など紀行番組、開隆堂のビデオ教材など教育関係の電子書籍、映像など制作物多数あり。2010年、友人と一緒に、一般社団法人 ATALAS ネットワーク設立。『島を旅立つ君たちへ』を編著。本人によれば、「これで宮古がやっと世界とつながった」とのこと。女性の意識行動研究所研究員、法政大学沖縄文化研究所国内研究員、沖縄大学地域研究所研究員などを歴任。2014年、法政大学沖縄文化研究所宮古研究会発足時の責任者だった。好きな顔のタイプは、藤井聡太。口ぐせは、「私の人生にイチミリの後悔もない」。プロレスファンならご存じの、ミスター高橋のハードボイルド小説出版に向けて動くなど、多方面に活動していた。くも膜下出血のため、東京都内で死去。


フレデリック・S・リッテン1964年~
図書館司書、中国学研究者、日本創生期アニメーション映画研究者。カナダ・ケベック州モントリオールに生まれ、ドイツで育つ。ミュンヘン大学卒。1988年中国学で修士号、1991年に科学史で、博士号取得。ミュンヘン大学やアウクスブルク大学で、研究員や非常勤講師。2006年からバイエルン州立図書館に勤務。新聞や雑誌に、近・現代史について寄稿をする。日本のアニメやマンガなどについての論文や著作もある。代表作は『Animated Film in Japan until 1919. Western Animation and the Beginnings of Anime』。
詳しくは、第22回「下川凹天の撮影技師 柴田勝の巻 その10」


岡本一平(おかもと いっぺい)1886年~1948年
漫画家、作詞家。妻は小説家の岡本かの子。岡本太郎の父親。東京美術学校(現・東京藝術大学)西洋画科に進学。北海道函館市生まれ。卒業後、帝国劇場で舞台芸術の仕事に携わった後、夏目漱石の強い推薦で、1912年に朝日新聞社に入社。漫画記者となり、「漫画漫文」という独自のスタイルを確立し、大正時代にヒットメーカーになる。明治の樂天、大正の一平と称される。東京漫畫會から、漫畫奉公會まで、多くの団体で凹天と関係する。凹天の処女作『ポンチ肖像』の序文を書く。『一平全集』(全15巻・先進社)など大ベストセラーを世に送り出す。口ぐせは、50円もらったら、80円の仕事をしろ。かの子の死後、すぐにお手伝いの八重子と結婚。4子を授かる。漫画家養成の私塾「一平塾」を主宰し、後進を育てた。戦中は、書生のひとり(実は元妻かの子の愛人)の伝手で、岐阜県美濃太田市に疎開。疎開中は、地元民と「漫俳」を作り、慕われる。当時の加茂郡古井町下古井で入浴中、脳溢血で死去。急死のため、葬儀には太郎などの他、漫画家では、宮尾しげお、横山隆一、横井福次郎、和田義三、小野佐世男しか集まれなかった。


山口旦訓(やまぐち かつのり)1940年~
ジャーナリスト、日本初期アニメーション映画研究者。宝くじ研究者。東京府麻布區霞町22番(現・東京都港区)生まれ。福井県へ疎開の後、1950年に東京に戻る。
詳しくは、第10回 「下川凹天の盟友 山口豊専の巻 その2 」第25回「下川凹天の最初の妻 磯部たま子の巻その2」


河田真智子(かわだ まちこ)1953年~
島旅作家、写真家。東京生まれ。成蹊大学卒。マリンスポーツ関係の会社を勤務した後、1978年、ぐるーぷ・あいらんだー設立。機関誌『あいらんだあ』を通じて、島の魅力を伝え続けている。長女に夏帆。1991年より、マザー・アンド・マザー主宰。奄美群島振興開発委員、鹿児島県100人委員。『島旅の楽しみ方 作戦開始さあ島へ行くのだ』、『『島旅』の楽しみ方』、『生きる喜び 河田真智子写真集』、『ひとりひとりが宝もの』など著作多数。


【2023/03/21 現在】



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