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2019年02月15日

第10回 「下川凹天の盟友 山口豊専の巻 その2 」

第10回 「下川凹天の盟友 山口豊専の巻 その2 」

毎度おなじみ、宮国でございます。
第10回 「下川凹天の盟友 山口豊専の巻 その2 」NHK朝の連ドラ2019年前期『なつぞら』が戦後日本のアニメーションを扱うと聞いて、楽しみにしています。『鉄腕アトム』が初放映された1963年の翌年に、手塚治虫と凹天は出会ったことが記録に残っています。その出会った場面は、はたして映像化されるのでしょうか。だいずたのしみさいが。誰が凹天役をするかねー。

なーんて、書いていますが、私はアニメ番組は殆ど見たことがありません。その頃の宮古では、民放は放映されていませんでした。1971年生まれの私は、かなりのNHKっ子なので、良くて「未来少年コナン」くらいです。宮古のケーブルテレビでは、日本と同じように安定的にアニメが放映されていたのかなぁ、と首をかしげるほど、遠いものでした。
同世代が話すアニメや子ども番組は、私にとってはいつもチンプンカンプン。たいてい、グループで盛り上がるので、私はひとり、ポツーンとなってしまいます。代わりに本や漫画は図書館や貸本屋でたっぷり読んだので、その時ばかりは生き生きしますが(笑)。

まぁ、そんなこんなで、今日は凹天のライバルであり、親友であった、山口豊専の二幕目です。この人、なかなかたいした大人物だなぁと思うことしきりです。
 こんにちは。一番座より片岡慎泰です。

 さて、前回述べた通り、山口豊専(やまぐち ほうせん)が『東京毎夕新聞』(1877年~1941年)日曜版漫畫ページに入社してから、社長賞をさらっていっていったと凹天は記しています。豊専の処女作『まんが随筆・明治ちば百話』(1970年、千葉新報社)の序言での言葉。刊行当時、凹天は78歳、豊専は79歳。

 盟友としての関係を40年近くも続けた凹天にしてみれば、ようやく処女作を出すことになった豊専に対する愛情が満ちあふれているように感じます。と同時に、「ゼニ勘定と肩書きが大嫌い」な豊専らしいエピソードのひとつと言っていいのではないでしょうか。後年、中央画壇や美術展に背を向けて、自分の信念を貫き続けた「山の爺さん」。

 近藤日出造(こんどう ひでぞう)や、横山隆一(よこやま りゅういち)、杉浦幸雄(すぎうら ゆきお)が中心となって、保険制度の導入など漫画家の生活を安定するために、1964年設立した「日本漫画家協会」に、凹天も名誉会員になったのに対して、豊専はそこにも属しませんでした。
第10回 「下川凹天の盟友 山口豊専の巻 その2 」
  ところで、この社長賞にまつわる話は、下田憲一郎(しもだ けんいちろう)という傑物の存在を忘れることができません。下田憲一郎は、大正時代から昭和時代初期に、当時の漫画界を席巻した『東京パック』(第3次)の編集者、『東京パック』(第4次)を創刊。凹天や山口豊専にとっては、『東京毎夕新聞』の社長という立場でもありました。背がすらっとして、色白で身綺麗な男性。髪はいつもクシが入っていて、オールバックに。性格は一徹なところもあり、戦争反対の意見を電車の中で大声でしゃべり、他の乗客からなぐられたというエピソードもある硬派な一面も。

 しばらく、下田憲一郎の話を続けます。憲一郎は、平鹿(ひらか)郡山内(さんない)村(現・秋田県横手市山内)の造り酒屋を業(なりわい)とする家の長男に生まれました。銘柄は横手を流れる川の名前にちなんで「旭川」。横手は、文学を育んだ土地でもあります。第1回芥川賞を『蒼氓』で受賞した石川達三(いしかわ たつぞう)の誕生地。と同時に、『青い山脈』で有名な弘前生まれの石坂洋二郎(いしざか ようじろう)が1926年から13年間教鞭(きょうべん)をとりながら、ベストセラー『青い山脈』を執筆した土地でもあります。

 下田源之助(しもだ げんのすけ)とヨシの6番目の長男として1888年12月11日に誕生。しかし、横手に流れる横手川は、朝日川ないし旭川と呼ばれた頃から「暴れ川」と知られ、1894年に大氾濫。その4年後には、父親が亡くなり、下田家は1896年に倒産。家屋敷はすべて安田銀行(現・みすほ銀行)に渡った後、すべて取り壊された記録が残っています。その後、横手にあった大沢鮮進堂、東江堂書店に勤めた後、1913年頃上京。

 須山計一(すやま けいいち)によれば、「日本では気骨のあるジャーナリストで、かつ漫画の熱愛者だった」。ここで、注目したいのはふたつ。横手にいた頃から、書店で雑誌や新聞を手に入れていたことが、世の中に対する、ジャーナリスティックな視点を育てていたこと。もうひとつは、漫画の大ファンであったこと。後に『東京パック』(第3次)の編集長や『東京パック』(第4次)の主宰者になり、『毎夕新聞』日曜版漫畫ページでオーガナイザーとして、凹天や豊専、小川治平(おがわ じへい)、幸内純一(こううち じゅんいち)、池辺鈞(いけべ ひとし)、前川千汎(まえかわ せんばん)、田中比佐良(たなか ひさら)、まつやまふみおこと松山文雄、小野佐世男(おの させお)、近藤日出造(こんどう ひでぞう)、東郷青児(とうごう せいじ)、坂本繁三郎(さかもと はんじろう)、宮本三郎(みやもと さぶろう)などを揃えます。『東京パック』(第3次)の編集者に江戸川亂歩(えどがわ らんぽ)、また、北澤楽天(きたざわ らくてん)など錚々(そうそう)たるメンバーを迎えて、一世を風靡(ふうび)する萌芽が、すでにこの頃から養われていたのです。

 東京で下田憲一郎は、職を転々としました。その後、妹の波田うた(はた うた)を1916年頃に東京を呼び寄せます。生活が安定したからだと推察できます。その時期で分かっていることは、高見之通(たかみ ゆきみち)の書生をやっていた可能性が高いことです。彼は、澁澤榮一(しぶさわ えいいち)と関係がありました。ということは、憲一郎が、1918年(通説)という年に『東京パック』(第3次)が再刊できた理由は、まず資金源に目途がたったからでしょう。

 さらに、下田憲一郎が『東京パック』(第3次)を再刊できた理由には、もうふたりのキーパソンがいます。ひとりは、平福百穂(ひらふく ひゃくすい)。もうひとりは、在田稠(ありた しげし)です。

【告示 / 内務省 / 第101号 / 東京パック第五卷第二十三號發賣頒布禁止】
第10回 「下川凹天の盟友 山口豊専の巻 その2 」 平福百穂は、1912年から1915年まで続いた『東京パック』(第2次)を主戦場に活躍しました。『東京パック』(第1次)を発行していた有楽社が、北澤楽天と喧嘩別れした後、この雑誌を続けようとして、寄稿者を依頼した面々に、竹下夢二(たけした ゆめじ)や小川芋銭(おがわ いもせん)の他に、平福百穂がいました。彼は、下田憲一郎と同郷で、幸徳秋水(こうとく しゅうすい)が『萬朝報』を辞めた後、1903年発刊された『平民新聞』の発起人のひとりとなります。さらに、同年『東京日日新聞』の前身である『電報新聞』の画法部記者として入社。両新聞とも1905年に廃刊。また、『手紙雑誌』にも、毎号挿画を描きます。さらに、風刺雑誌『團團珍聞(まるまるちんぶん)』にも多くの風刺画や挿絵を描きます。その他、『平旦』、『方寸』、『馬酔木(あしび)』を経て、徳富蘇峰(とくとみ そほう)が社長の『国民新聞』に1907年に入社。以後、徳富蘇峰が辞める1929年まで、『国民新聞』に写真修整や挿絵などを描き続けます。百穂は、知人友人が多く、また損得なく動く人物でした。息子の一郎は「父は文化人的人名録ができるであろうほどの交友関係をもっていた」と記しています。平福百穂は、下田憲一郎が『東京パック』を再刊しようと動いた時に、人脈などさまざまな知恵を授けたのでしょう。
 なんも大学「百穂さんのスケッチ」 仙北市編

 在田稠は、北澤楽天の『東京パック』(第1次)からのスタッフでした。『東京パック』(第2次)が発刊されると、楽天が小川治平、在田稠等を紹介します。そこでも精力的に仕事をこなし、東京漫畫会にも属しました。1919年から『東京パック』(第3次)が始まると、そこでも筆をとります。しかし、関東大震災(1923年)のあった数か月前に、『東京パック』(第3次)も廃刊の憂き目に。世間では『船頭小唄』が、どこかしこと流れていました。第3回で述べた通り、関東大震災を予感していたと世間で流布した流行歌です。

【「船頭小唄」 東宝映画「雨情」 舞台は利根川です】

 さて、山口豊専が登場した『東京パック』(第4次)に話は移ります。『東京パック』(第3次)の後、在田稠は北澤楽天が主催した『時事漫画』に登場します。そして、下田憲一郎が『東京パック』(第4次)を始めると、彼の頼みに応じます。須山計一(すやま けいいち)は「下田の編集のかげには、『時事新報』を去った在田がいたことを忘れてはならない。彼は漫画に関する豊富な研究家で、そのインテリ的神経は、『パック』の誌面にたえずそそがれたのである」と記しています。在田稠は第1次から第4次『東京パック』に関わった、歴史上稀なる人物なのです。

 下田憲一郎には、澁澤榮一の資金、平福百穂の人脈、在田稠という日本漫画界の生き字引という三足の鼎(かなえ)があったわけです。

【『日本プロレタリア美術史』 1967】
第10回 「下川凹天の盟友 山口豊専の巻 その2 」 ところで、『東京パック』(第4次)の発刊には、1926年に成立した日本漫畫家聯盟(漫聯)の機関雑誌『ユウモア』の発刊が大きな刺激になったようです。この雑誌の1927年1月号で、凹天は、「自序傳」の末尾に「夢の琉球島よ!可愛い/\日本漫畫家聯盟よ!」と記しています。岡本唐貴・松山文雄編著『日本プロレタリア美術史』(1972年、造形社) p.148 「第3次『東京パック』は、昭和3(1928)年に、気骨ある民主主義者、下田憲一郎によって発刊され、大体「漫連」系の漫画家がおもな執筆陣で、小野佐世男に代表されるようなエロティシズムを一方に入れ、一方には左翼の漫画家の政治、社会漫画を入れるという編集方針がとられた。こういうたてまえだったので、プロレタリア漫画にとっては、貴重な発表場所となった。それに色刷りもあり版も大きいので、力量ある漫画家にとっては、力量ある作家にとっては、またとない舞台であった。たとえば柳瀬、稲垣、大月、岡本等がかいた作品では、どこで発表された作品よりも見ごたえたっぷり。それにまた、この編集者は、各作家の特徴を生かす術を心得ていて、それにふさわしいスペースを提供していた」。一部、間違いがありますが、時代に寄り添うと同時に反時代的精神を併せもった下田憲一郎の度量かつ力量が分かります。カラー画で、帝展の池辺鈞(いけべ ひとし)、二科会の東郷青児(とうごう せいじ)、古賀春江(こが はるえ)、坂本繁三郎(さかもと はんじろう)、宮本三郎(みやもと さぶろう)などで、雑誌の表と裏を飾ります。ちなみに、漫文の方にも力を入れて、武田麟太郎(たけだ りんたろう)、林芙美子(はたし ふみこ)、平林たい子(ひらばやし たいこ)、小林多喜二(こばたし たきじ)、井上靖(いのうえ やすし)など、ざまざまな執筆陣が集まりました。

 時は、治安維持法(1925年)、昭和金融恐慌(1927年)、満州事変(1931年~1933年)、盧溝橋事件(1937年)と軍国化が進みます。下田憲一郎は『東京パック』(第4次)で何度も発禁処分もくらいますが、さすが傑物。治安維持法(1925年)下、エロマンガや、プロレタリア漫画を描いて、発禁処分を喰らえば、次の号がど-んと売れる。止めるどころか、逆に、どんどんと描けとスタッフに激励する始末。このような上司の下で、凹天や豊専は、『東京毎夕新聞』などで仕事を続けたのでした。凹天や山口豊専が、警視庁に呼び出されたという記録も残されています。

 「当時の大衆社会では、不安な世情から逃避するためにエロ、グロ、ナンセンス漫画を歓迎していた。私もまたその中身を隠して、エロティックをオプラードに裸の女をよく描いた。そのため新聞が発売禁止にもなった。
 学芸部長に附添われ所轄の象潟警察に出頭し、脂を搾られた上に始末書をとられた。当時の建前としては、風紀取締り係長の訓戒だったが、そのときの私の漫画は、シルクハットを冠った豚のように肥った男のベッドで札束を数えている女の裸像の絵だった。
 毎夕日曜漫画の創設者で、楽天門下の大先輩である下川凹天先生に、あとでその話をしたら『いいンだいいンだ、それでいいンじゃよ、漫画で発禁になると、次の週は売上げが倍増すると、社長は喜ぶんだよ』と反って激励された。下川先生にも経験があったのだ」。
 楽天門下の若手リーダーだった松下井知夫(まつした  いちお)は、『東京毎夕新聞』時代の思い出として、上記のように書き残しています。

【高島真著 『追跡「東京パック」 下田憲一郎と風刺漫画の時代』(無名舎 2001)
第10回 「下川凹天の盟友 山口豊専の巻 その2 」 残念ながら、下田憲一郎は、1943年、カニを食べて中毒になり死去。当時の憲一郎の近所にあった三村医院の夫人の話では「下田さんがカニの中毒になられたときは、主人が呼ばれて行きました。戻って聞いた話ですと、下田さんはすでに体じゅうがムラサキ色になっていました。重態だったのでしょうね。うんうん唸っておられたそうです。いまなら点滴を打つでしょうが、ブドウ糖とかリンゲルとかの注射や心臓をみるとかで、主人も懸命になっていたと思います。手おくれの下田の旦那さんは、間もなく亡くなられました」。

 話は、山口豊専に戻ります。豊専が『東京パック』(第4次)で漫画を描いたのは、1930年の3コマの『歳末五十銭ナンセンス』1作のみ。後年描いた漫画漫文とは違うタッチ。『東京毎夕新聞』を初め、さまざまな新聞に豊専の漫画、漫文、俳句、随筆などが記録に残っています。エロ・グロ・ナンセンス全盛期には、そこで求められる注文に、きちんと応じていたようです。豊専の懐(ふところ)の深さを感じます。

 関東大震災(1923年)の後、移り住んだ1925年、南葛飾郡小松町下平井(現在の江戸川区平井)に立派な家を新築しました。ここで、日本画を研究する慧星会(すいせいかい)を主宰します。他方、新聞社や紙屋から次々と注文が相次ぎ、漫画漫文、俳句にも没頭します。山口豊専が一番脂の乗り切った壮年期は、平井時代だとも言われます。後の豊専独特の画風と俳味も、この時期に培(つちか)われたと考えられます。

 ◆平井時代の豊専の俳句
 虫鳴くや 何処まで深き 草の闇
 一日の 旅一尺の たにしかな
 このまままの 倖せつつけ 年の暮
 
 「兩國驛からぶらり下總中山で下車して千䈎の松澤病院から有名な競馬場邊をぶらつき京成電車で市川傎間へ下車したはよいが、これは迷惑千万、手兒奈橋上、モガの太公望が頑張つて眼ざわりだ、手兒奈が生きてたら泣く程な御面相だが、そこは尖端ばやりの女性の一徳、景二・釣二・モガ六の比率で窺ふべく歩は佇まる、が桃の名所の市川でも桃色の戀を語る程なモガでもなし」。

 この漫文と『豊専漫歩』(かまがや民報、1983年)の文と比べてみます。この本は、『かまがや民報』や一部『千葉日報』で連載されたものをまとめた豊専最後の作品です。春夏秋冬に分かれていますので、それぞれ一作品ずつ。
第10回 「下川凹天の盟友 山口豊専の巻 その2 」
【「豊専漫歩」 1983】

風流 「風流を愛することは、ゆとりから出るらしく、明治の人はせこせこしなかった。夜くらいうちに入谷の朝顔、四ヵ目の牡丹、梅安寺のもみじ、亀戸の萩寺、藤、梅、向島の桜、百花園と、一瓢を携え、杖を引くと用語に残っている。虫を聞き、月を見る。花を見る。そして短冊に一句ものとして万象を味わう。今はかかる御人も名所も、否それだけでない。人情の機微にふれることもなく、なんとも味けない」。

空想の山河 「陽春の光りをガラス戸に受けて、今寝たり起きたりボンヤリと外を眺めている。目に映る風物は皆新しく青さが生えている。その眺めから丘を伝い山を伝い越えて、遠くの山々、上州路のなつかしの部落、山里、さては湯煙る温泉の町へとひと走りに連想が続いていく。蹴とばして歩いた道の石ころの音まで聞こえてくるようだ。あの岩山の赤い花はつつじであろうか。青い空、みどりの山々は起伏をつらねてどこまでも美しい。そうした匂わんばかりの初夏の山河を」、じっと眼を閉じて黙想連想を楽しんでいる。身も足も利かない残念さと、くやしさが今、ゲンコツのように握るだけである。もう一度、道の石ころを蹴とばしてあの道をあるきたい、あのせせらぎをこの道にたたき込んでみたい。セキレイの清楚な姿態、あの岩と水の淵に飛んで来ては忙しくえさを漁っているだろう。また私は目をつぶる」。

舟朽ちる 「ここにある空と海ーじっと見ていると、気の遠くなるほどの静けさと無聊の声がする。流れていく刻々という時と連れ立って今、昨日と明日への間に現存している。そして果てしない姿であろう。船を難破さして底へ沈めても人命を飲み込んでも、この海は語らない。そばに朽ち果てた漁舟が砂をかぶって半ば埋もれている。木肌も白く風化して無言なら、海も無言で刻々の時の中に現存している。けれども、この船、進水した時は旗も立てたろう。祝いの席で、皆の者の幸もかけたことだろう。赤銅色に鍛えた肉塊が、浪と飛沫に苦闘しつつ戦いぬいた汗や歓声があったはずだろう。尊い生命を預けて、この舟と共に生きていたはずの人達。今いるのかいないのか、すでにこの舟と屍を共にしているとしたら・・・と見入る私も暗然たらざるを得ないのである」。

ガス灯 「街の商店の店先にはというのが取り付けてあった。夕方から明け方まで火がともっていて東京の街並みをなしていた。このガス灯の火を受け持つ商売があった。朝、火の消えたランプのホヤ掃除と、石油注ぎをしてひと回り走ってくる。夕方はそれに一軒一軒火をつけて走り回るのが仕事であってただただ走り回る無味な仕事だが、しんしんも夜も更けて寝静まる東京の街をみると、俺のつけた火が点々と幾百となく連るを見ると、また明日へと走り回る力が湧くといった」。

 著作権の関係で漫画の部分をお見せできないのが残念ですが、齢(よわい)94になる古老が書きためた見事な漫画漫文ではないでしょうか。文章は、エロ・グロ・ナンセンス全盛期とは違い、あくまでも枯淡。漫画の方は、どこまでもやわらかく、南画を思わせる墨汁で書かれています。しかし、各流派で分けられますが、南画のように険峻な輪郭線や淡い色でぼかしたりだけでなく、さまざまな技法が使い分けられています。背景を白く、前景だけを強調したり、線のみで描いたり。「俗」なテーマも「雅」なテーマも極上の芸術品を楽しみ味わった気がします。

 話を戻しますが、当時、習い覚えた大小の太鼓打ちは、素人名人の定評が。一方、自転車競走選手としても、関東一円にその名を轟かせたと言います。朝早く東京を立ち、筑波山麓でレースに参加し、ほとんど上位を独占し、多くの賞品を後ろに乗せて、その日のうちに、悠々と自転車で、平井に帰るほどの健脚の持ち主でした。しかし、レースでカーブを曲がり切れず、周囲のロープに接触。骨が見えるほどの怪我をして、レースは断念。

 そのうち、長男の喜久治が1940年、陸軍に召集。幸い、2年後に召集解除。翌1943年豊専の母としが死去。すでに父房吉は1922年に亡くなっていました。しかし、1944年、喜久治が石橋君子と節分の日に結婚し、師走には孫の晴男が誕生。山口家は喜びに包まれます。宮古では、今でも残っている、まるで生まれ変わりのような話です。
第10回 「下川凹天の盟友 山口豊専の巻 その2 」
「宮古伝承の旅」 「生まれ変わり」の伝承話「海に咲く花」朗読

 しかし、1945年の東京大空襲で、山口豊専の家や自作の絵画など一切が廃塵(はいじん)に。この空襲は、同年にあったドイツのドレスデン大空襲と並べて、一般市民を無差別殺戮した悪しき例として、今でも語り継がれています。幸いにも、山口豊専の家族は無事でした。当日、山口家は、空襲警報が解除されて、家族一同やれやれと焼きイモを食べようとする時に、突然空襲に遭ったとのこと。夜から焼夷弾が雨あられと降り注ぎ、ただ生きのびるだけで精一杯だったという記録があります。当然ともいえますが、下田憲一郎が亡くなった時のカルテも、東京大空襲で焼失しています。

 そこで、住処を探しているときに、妻の縁戚の招きもあって、当時の松戸市五香六美(ごこうむつみ)字柳澤へ。柳澤という田んぼのほとり、南斜面の崖下に、横穴を掘り、これを防空壕として、入口に九尺五寸の掘っ建て小屋を作って、仮の住居にしたのです。(下総台地の入植地名:関東農政局北総中央農業水利事業所)

 山口豊専の終の住処は、ここになりました。

 1984年、93歳の豊専は、地域に根づいた盆踊りの歌まで作詞しています。


 一番座からは以上です。
裏座の宮国です。

豊専の世界はとても豊かです。「盆おどり」や「お正月」、「節分」など音と切り離せないテーマには響きが、「里山」や「松」などの静けさが必要なテーマには静粛さが、うまく表現されています。

山口豊専の生まれ故郷である千葉県白石市は、実はとても風流なところだなぁという印象があります。古くから民衆俳人がいた土地柄だったそうです。民衆俳人とは、繁栄した土地からやって来た高名な俳人をアマチュア俳人がもてなせるほどの力量があったのです。下田憲一郎と山口豊専は、土地は違いますが、こうした文学的素養が満ち溢れた風土に生まれ育ったのです。

 水鳥や 鹿島詣では 楽な旅 川原子 萁玉(きぎょく)

この句が載っている『利根川図誌』全六巻。千葉県白石市からほど近い現在の北相馬郡利根町の医師である赤松宗旦(あかまつ そうたん)の編著です。自序が1855年にありますが、成立年代は不明です。ここで、宮古ファンからぐっとくるのは、同地で一時生活した柳田國男が、岩波文庫の校訂に関わり、古書などの本文を、諸本と比べ合わせて正している点です。1858年成立ではないかと推測するなど、疑問を呈しています。

「縁は異なるもの味なもの」とことわざにありますが、こうして、凹天や豊専と後につながりをもつとは、当人たちも想像だにしなかったことでしょう。
-つづく-


【主な登場人物の簡単な略歴】

山口豊専(やまぐち ほうせん)1891年~1987年
漫画家、日本画家。千葉県印旛郡白井(しろい)村(現在の千葉県白井市)に生まれる。詳しくは、第9回「凹天の盟友 山口豊専の巻その1」

手塚治虫(てづか おさむ)1928年~1989年
漫画家、アニメーター、アニメーション監督。現在の大阪府豊中市生まれ。本名は治。大阪帝国大学医学部卒。5歳の時に、現在の兵庫県宝塚市に移住。小林十三(こばやし いちぞう)が作った行楽施設の中心に宝塚少年歌劇団(現・宝塚歌劇団)があった。この歌劇団と周りの人工的な風景は、治虫の作品に大きな影響を与えたといわれる。1946年『小国民新聞』に『マアチャンの日記帳』でプロデビュー。1947年に『新寶島』が、当時異例の大ヒット。赤本ブームを起こす。本格的SF漫画を手がけ、戦後漫画のトップランナーである横井福次郎の影響を受ける。映画的構成とスピーディーな物語展開をもつ『新寶島』は、戦後ストーリー漫画の原点として考えられている。代表作に『鉄腕アトム』、『火の鳥』など。仕事への異常なまでの取り組み、そして後進の育成にも努め、それは今なおトキワ荘伝説として語られる。1963年、日本で初めてテレビで放映された漫画『鉄腕アトム』の翌年には、当時凹天の住む野田市の住処に訪ねたことが記録に残っている。元々、手塚治虫は、凹天の似顔絵のうまさを認めていた。漫画界、アニメ界に大きな足跡を残す。1989年胃がんのため亡くなる。受賞多数。しかし、昭和天皇崩御のため、国民栄誉賞受賞はもらえなかった。

近藤日出造(こんどう ひでぞう)1908年~1979年
漫画家。現在の千曲市稲荷山に生まれる。本名は秀蔵。生家は、衣料品・雑貨商を営み、6人兄弟の次男。洋服の空き箱に熱した火鉢をあてて焦がし、絵を描いていたところ、父親から絵を投稿するよう勧められる。『朝日新聞』に入賞し3円をもらう。そこで、上京し、東京美術学校を目指すも、中学校を出ていないため受験資格がないことが判明。後年の負けず嫌いの性格はこの頃から養われた。叔父の親戚に宮尾しげをがおり、「一平塾」に入る。ここで、後の同志となる、横山隆一や杉浦幸雄と出会う。あごがでかいことが、トレードマーク。『東京パック』(第四次)でプロデビュー。1932年「新漫畫派集團」の決起人メンバーのひとり。その後、さまざまな団体の創設に関わる。政治風刺漫画の名手。戦後の二科展漫画部創設時には、横山隆一、清水昆と共に選出される。戦後は、対談のホストとしてテレビなどでも名が知られる。1964年には、「日本漫画家協会」初代理事長に。1974年には、漫画家として初めて、横山隆一とともに紫綬褒章を受章。1979年、肺炎のため、江古田病院で亡くなる。

横山隆一(よこやま りゅういち)1909年~2001年
漫画家。高知県高知市に生まれ。実家は生糸問屋。相場の変動で横山一家は没落する。背が低いことが、一生のコンプレックスだった。隆一は、東京美術学校(現・東京藝術大学)を目指したが失敗し、川端龍子学校で学ぶ。同郷で高村光雲の弟子である本山白雲から漫画家になるよう勧められ、漫画家の道に。1932年、近藤日出造や杉浦幸雄などと共に「新漫畫派集團」の決起人メンバーのひとりとなる。ナンセンス漫画の名手。1936年から『東京朝日新聞』で連載し始めた『江戸っ子鍵ちゃん』の脇役だった「フクちゃん」が人気が出て、「フクちゃん」が主役に。弟の横山泰三も漫画家として知られる。受賞多数。1974年には、漫画家として初めて、近藤日出造とともに紫綬褒章を受章。脳梗塞のため鎌倉市で亡くなる。

杉浦幸雄(すぎうら ゆきお)1911年~2004年
漫画家。現在の東京都文京区に生まれる。旧制郁文館中学校出身。杉浦一族は、芸能一家であった。父親の友人であった緒方竹虎のつてで、「一平塾」に入る。ユーモアと独特の色気をたたえたエロマンガで知られる。1932年、近藤日出造や横山隆一などとともに、自宅に集まり、「新漫畫派集團」の決起人メンバーのひとりとなる。集団名に「派」を入れたのは、杉浦幸雄が「印象派」、「未来派」などを真似て、強く押したため。漫画では横山隆一、近藤日出造の後塵を拝していたが、ようやく1938年『主婦の友』から出した『銃後のハナ子さん』の大ヒットで、有名になる。戦後もエロマンガを描き続け、1976年「日本漫画家協会」第二代理事長に。1980年、紫綬褒章受章。肺炎のため亡くなる。

石川達三(いしかわ たつぞう)1905年~1985年
小説家。現在の秋田県横手市生まれ。各地を転々とした後、早稲田大学中退。ブラジルに渡り、その経験に基づいて書いた『蒼氓』(1932年)で、1935年第1回芥川賞受賞。戦後の1946年には、衆議院選挙に立候補するも落選。社会派作家と知られ、代表作に『人間の壁』(1959年)、『金環蝕』(1966年)がある。胃潰瘍から肺炎を併発し、東京共済病院で死去。

石坂洋二郎(いしざか ようじろう)1900年~1986年
小説家。青森県弘前市生まれ。慶応義塾大学卒。1925年弘前高等女学校(現・弘前中央高等学校)勤務。1929年から1938年まで横手中学校(現・横手高等学校)勤務。代表作に『若い人』(1933年~1937年)、『青い山脈』(1947年)、『陽の当たる坂道』(1956年~1957年)がある。『青い山脈』は、原節子の主演で映画化されて一大ブームを巻き起こす。主題歌も大ヒットとなった。老衰のため伊東市の自宅で死去。

須山計一(すやま けいいち)1905年~1975年
漫画家、洋画家、漫画史家、社会運動家。現在の長野県伊那市生まれ。東京美術学校(現・東京藝術大学)出身。『無産者新聞』に『アジ太プロ吉』などを連載。宇野圭と名乗った時期もあった。1933年、治安維持法違反で検挙される。1938年、一水会に油絵を出展。戦後は、漫画史研究の第一人者とされ、『漫画100年』(1956年、鱒書房)、『日本漫画100年 西洋ポンチからSFまで』(1968年、芳賀書店)など一連の漫画史研究は、同時代人の知己も多いだけに、漫画研究者の貴重な資料となっている。世田谷区奥沢で、脳溢血のため、死去。

小川治平(おがわ じへい)1887年~1925年
漫画家。現在の比企郡川島町生まれ。『楽天パック』、『東京パック』(第1次)に多く漫画を描く。画風は、デッサンがしっかりし、フレッシュ。その後、楽天の勧めで『東京パック』(第2次)にも、在田稠などとともにスタッフとして残る。楽天が最も期待した漫画家。1910年頃、楽天門下に入る。『やまと新聞』に10年ほど勤続。1931年から『時事新報』で風刺漫画で異彩を放つ。北澤楽天が『婦人画報』で、再び熱意をもって漫画を描こうとするも、弟子の治平は死去。楽天はこの出来事にショックを受けて、漫画界の本道から去った。

幸内純一(こううち じゅんいち)1886年~1970年
漫画家。アニメーション演出家。岡山県生まれ。凹天、北山清太郎とならぶ「日本初のアニメーション作家」のひとり。最初は画家を目指しており、太平洋画会の研究所で学ぶ。そこで、水彩画家の三宅克己から学び、紹介で漫画雑誌『東京パック』(第一次)の同人となり、北澤楽天の門下生として政治漫画を描くようになる。アニメーション『塙凹内名刀之巻(なまくら刀)』を製作。二足のわらじの時代を経て、最終的には政治漫画家として多数の作品を残した。

前川千汎(まえかわ せんばん)1889年~1960年
版画家、漫画家。京都市で生まれ。本名は重三郎。父親の石田清七が4歳の時に、亡くなると、母方の前川姓を名乗る。関西美術院『讀賣新聞』で浅井忠、鹿子木孟郎に洋画を学ぶ。その後、上京して東京パック社に勤め、1918年には新聞社に入り、漫画を専門に描き、次第に漫画家として認められる。その傍ら、木版画を製作、1919年には第1回日本創作版画協会展に「病める猫」を出品している。その画風は飄逸な持ち味を持ち、生活的な風景画など個性的なものであった。川崎市市民ミュージアムでは、1917年の常設展で、凹天、幸内純一とともにポスターに、似顔絵が載った。日展や帝展にも作品を出品しており、「日本版画協会」創立時の会員で、同協会の相談役も務めた。1960年、幽門狭窄の手術を行った後、心臓衰弱により死去。

田中 比佐良(たなか ひさら)1891年~1974年
漫画家、画家。現在の岐阜県御嵩(みたけ)町生まれ。本名は久三。御嵩郵便局や八百津郵便局で勤めながら、独学で絵の勉強を続ける。南画家の松浦天竜に師事し、比佐良の号をもらう。この名前には、日光東照宮の彫刻で有名な左甚五郎に比べても良いという意味が込められている。漫画の投稿を続け、1921年上京して、主婦の友社に。挿絵家として有名になり、特に日本女性の着物美を追求した絵は、多くのファンを作った。1930年、凹天が主催する『讀賣新聞』漫画部に所属。『甘辛新家庭』を連載。美人漫画の名手。戦後は、田中比佐良デザイン研究所を作り、後進の指導にあたった。

小野 佐世男(おの させお)1905年~1954年
漫画家、画家、随筆家、小説家。現在の神奈川県横浜市生まれ。父親の鉄吉が鉄道施設を請け負う建築家で、当時最西端の佐世保駅にちなんで、そう名づけられた。東京美術学校(現・東京藝術学校)卒。『東京パック』(第四次)、『日曜報知』などに寄稿。陸軍報道班員として、台湾、インドネシアに従軍。エロマンガの分野では、杉浦幸雄と双璧とされる。戦後の1951年には、近藤日出造、清水昆とともに二科展漫画部の創設に関わる。マリリン・モンロー、ジョー・ディマジオ夫妻来日を待機している最中、心臓発作のため有楽町日劇ミュージック・ホール内で倒れ、千代田区駿河台日本大学病院(現・日本大学病院)で亡くなる。

まつやま ふみお1902年~1982年
漫画家、洋画家、美術評論家。長野県小県郡生まれ。本名は松山文雄。小県大門や尾山大助などのペンネームも用いた。郷土にいた1926年「日本漫畫家聯盟」(略称:漫聯)に入る。洋画家を目指して、1925年本郷研究所出身。同年、岡本一平の知遇を得て、漫画を描き始める。しかし、漫聯にいた村山知義の「芸術家であるより前に社会主義者でなければならない」という主張。同じく漫聯にいたものの、『無産者新聞』(1925年創刊)に漫画を描いて、政治的立場をはっきりさせた柳瀬正夢の影響を受け、プロレタリア芸術運動の影響を受ける。柳瀬正夢の紹介で、「日本プロレタリア芸術連盟」美術部に。1931年日本共産党に入党。1932年治安維持法違反で投獄される。出獄を迎えたのは、柳瀬正夢と彼のふたりの娘。本の装丁家としても有名で、代表として坪井栄『暦』、宮本百合子『三月の第四日曜日』など。戦後の1945年には、日本共産党に再入党。1947年『クマンバチ』創刊に関わる。1980年『まつやまふみおの世界』で、「日本漫画家協会」の審査員特別賞受賞。新宿区代々木病院で、急性心不全のため死去。

宮本三郎(みやもと さぶろう)1905年~1974年
洋画家。現在の石川県小松市生まれ。1922年上京し、川端画学校に入学。1927年に『白き壺の花』で二科展に初入選。1940年に陸軍省嘱託として、小磯良平と中国に渡る。1947年第二起会の発起人のひとりとなる。油絵の他に切手や挿絵の原画でも知られる。受賞多数。

武田麟太郎(たけだ りんたろう)1904年~1946年
小説家。大阪府大阪市南區日本橋筋東一丁目(現在の浪速区日本橋東一丁目)に、父左二郎・母すみゑの長男として生まる。東京帝国大学文学部仏文科に進学。同人誌『辻馬車』に加わり、労働運動にのめり込んで中退、1929年に『文藝春秋』に「暴力」を発表しプロレタリア作家として不動の地位を築いた。その後、弾圧を経て転向。時代の庶民風俗の中に新しいリアリズムを追求する独自の作風を確立。1933年に林房雄・川端康成・小林秀雄らと『文學界』を創刊。太平洋戦争中は陸軍報道班員としてジャワ島に滞在。1946年、肝硬変により神奈川県藤沢市の義妹宅で死去。

林芙美子(はやし ふみこ)1903年~1951年
小説家。下関説と門司市小森江(現、北九州市門司区)との説がある。出生届は叔父の家の現・鹿児島市。父である麻太郎が認知しなかった。のちに義理の父となる番頭の沢井喜三郎と母のキクとともに行商の旅をしていた。1918年、15歳で尾道市立高等女学校(現・広島県立尾道東高等学校)へ進学。1922年、19歳に女学校卒業。直後、遊学中の恋人を頼って上京し、下足番、女工、事務員・女給などで自活する。義父・実母も東京に出てきて、露天商を手伝った。関東大震災頃には、関東を避けて尾道や四国で行商をした。その頃、つけ始めた日記が『放浪記』の原型となる。1924年、親を残して東京に戻り、再び3人の生計を稼ぐ。壺井繁治、岡本潤、高橋新吉、小野十三郎、辻潤、平林たい子らが友人となる。1930年改造社刊行の『放浪記』と『続放浪記』とは、昭和恐慌の世相の中で売れ、芙美子は流行作家となる。1937年の南京攻略戦には、毎日新聞の特派員として現地へ。1938年の武漢作戦には、内閣情報部の『ペン部隊』の紅一点として従軍。1940年には北満州と朝鮮へ。太平洋戦争前期の1942年10月から翌年5月まで、陸軍報道部報道班員としてシンガポール・ジャワ・ボルネオに滞在した。1951年、心臓麻痺で急逝。旧宅が新宿区立林芙美子記念館になっている。

平林たいこ(ひらばやし たいこ)1905年~1972年
小説家。長野県諏訪市(旧諏訪郡中洲村)生まれ。貧しい農家の出。12歳の頃にロシア文学を読んだことがきっかけで作家になることを決心。上諏訪町立諏訪高等女学校(現在の長野県諏訪二葉高等学校)入学。卒業後に上京して交換手見習いとして働き始める。関東大震災直後のどさくさの中で検挙され、東京から離れることを条件に釈放される。満州生活を描いた小説『投げすてよ!』執筆。労農芸術家連盟に属し、その体験に基づく『施療室にて』でプロレタリア作家として名が出る。戦後は、転向文学の代表的作家とも言われ、政治的にも民社党を結党当初から支持するなど反共・右派色を強めていった。1972年、急性肺炎のため死去。諏訪市福島に「平林たい子記念館」がある。

小林多喜二(こばやし たきじ)1903年~1933年
日本のプロレタリア文学の代表的な作家、小説家。秋田県北秋田郡下川沿村(現大館市)生まれ。小樽商業学校から小樽高等商業学校(現・小樽商科大学)へ進学。自家の窮迫した境遇や、当時の深刻な不況から来る社会不安などの影響で労働運動への参加を始めた。1924年に卒業後、北海道拓殖銀行小樽支店に勤務。1928年、三・一五事件を題材に『一九二八年三月十五日』を『戦旗』に発表。作品中の特別高等警察(特高警察)による拷問の描写が、特高警察(現・公安警察)憤激を買い、酷い拷問を受ける。翌1929年に『蟹工船』を『戦旗』に発表し、一躍プロレタリア文学の旗手として注目を集めた。1933年2月20日に拷問死。この時の特攻警察は、戦後全員無罪に。

井上靖(いのうえ やすし)1907年~1991年
小説家。 北海道上川郡旭川町(現・旭川市)に軍医・井上隼雄と八重の長男として生まれる。井上家は静岡県伊豆湯ヶ島(現在の伊豆市)で代々続く医家である。父・隼雄は現在の伊豆市門野原の旧家出身であり井上家の婿である。1908年、父が韓国に従軍したので母の郷里である静岡県伊豆湯ヶ島(現・伊豆市湯ケ島)へ戻る。1912年、両親と離れ湯ヶ島で戸籍上の祖母かのに育てられる。1927年、石川県金沢市の第四高等学校(現・金沢大学)理科に入学。1930年、 第四高等学校理科を卒業。井上泰のペンネームで北陸四県の詩人が拠った誌雑誌『日本海詩人』に投稿、詩作活動に入る。九州帝國大学法文学部英文科へ入学。1932年、九州帝國大学(現・九州大学)中退。京都帝國大学文学部哲学科へ入学。美学を学ぶ。1935年、京都帝大教授・足立文太郎の娘ふみと結婚。1936年、京都帝大卒業。『サンデー毎日』の懸賞小説で入選し、それが縁で毎日新聞大阪本社へ入社。学芸部に配属される。日中戦争のため召集を受け出征するが、翌年には病気のため除隊され、学芸部へ復帰。なお部下に山崎豊子がいた。戦後は学芸部副部長として、囲碁の本因坊戦や将棋の名人戦の運営にも関わる。1950年に『闘牛』で第22回芥川賞を受賞。翌年、毎日新聞社を退社。以後、創作の執筆と取材講演のため、世界各地へ旅行が続く。小説は同時代を舞台とするもの(『猟銃』、『闘牛』、『氷壁』他)、自伝的色彩の強いもの(『あすなろ物語』、『しろばんば』)に加え、歴史に取材したものに大別される。歴史小説は、日本で特に戦国時代(『風林火山』、『真田軍記』、『淀どの日記』他)、中国ではとりわけ西域を題材にした(『敦煌』、『楼蘭』、『天平の甍』他)ものを多く描いた。巧みな構成と詩情豊かな作風は今日でも広く愛され、映画・ドラマ・舞台化の動きも絶えない。歴史作品を中心に各国語に翻訳され、日本ペンクラブ会長時代にはしばしばノーベル文学賞の候補とされた。1976年文化勲章受章。他受賞多数。1982年以降、世界平和アピール七人委員会の委員を務める。急性肺炎のため東京都中央区の国立がんセンターで死去。

松下井知夫(まつした いちお)1910年~1990年
漫画家。東京府に生まれる。本名は市郎。明治大学卒。他のペンネームに、晴山英多、関英太郎。北澤楽天に師事し、子供向け長編物語漫画家の草分けのひとり。戦前は、楽天門下の若手が集まった「三光スタヂオ」のリーダー。『東京毎夕新聞』では、凹天の下で働く。凹天が『國民新聞』に移った後は、『串さしオデン』を連載し、好評を博す。1946年、共同通信漫画部創設者。1948年、海老沢重郎、池田寿天、植田種康とともに、『漫画プレス』を創刊し、漫画を主宰する。『漫画プレス』は戦後初めての漫画専門誌で、松下井知夫の下には、山本富夫、飯田茂がいた。漫画投稿者には、小島功、関根義人、やなせたかし、境田昭造、八島一夫がいた。当時、原稿料は1枚100円で、まっこりが2杯くらい飲めた。若者の面倒を見るのが好きで、手塚治虫、馬場のぼる、森哲郎、イワタタケオ、針すなお、関根義人、八島一夫らと「ストーリー漫画研究会」を主宰する。そこで、凹天を稲毛温泉に招くこともあった。また、近藤日出造、横山隆一、杉浦幸雄らと「漫画集団」を結成し、その中心的メンバーとなる。代表作に『ナマリン王城物語』、『新バクダッドの冒険』など。手塚治虫の媒酌人を務めたことでも知られる。日本語の日常的用法にも関心をもち、日本語の言葉としての魅力を解説した『コトバの原点:アイウエオ』は、NHKなどのマスコミの教材に使われた。『漫画集団』在籍時には、話術の巧みさから、「教祖」と呼ばれる。弟子に、多田ヒロシや山藤章二、水野良太郎などがいる。晩年は目を患う。心不全のため、自宅で死去。

坂本繁二郎(さかもと はんじろう)1882年~1969年
洋画家。福岡県久留米市生まれ。同年に同地で生まれた青木繁とは、親友であると同時にライバル関係になった。子どもの頃から絵が上手く「神童」と言われたが、長兄が第三高等学校(現・京都大学)に進学したため、地元で画作に打ち込む。1900年に母校の久留米尋常小学校の代用教員となる。1902年上京。1912年に文展に描いた『うすれ日』は夏目漱石が評価したことで知られる。1921年に渡仏。1924年に久留米に戻った後は、終生地元で暮した。代表作は、『水より上る馬』、『放牧三馬』。戦後は洋画界の梅原龍三郎、安井會太郎と並ぶ画伯と呼ばれた。1956年文化勲章受章。自宅で老衰のため死去。

東郷青児(とうごう せいじ)1897年~1978年
洋画家。鹿児島市生まれ。本名は鉄春。生後すぐに東京に転居。青山学院中等部出身。竹下夢二が開いた「港屋絵草紙店」に出入りする。1915年、日比谷美術館で初個展。1916年第3回二科展に出した『パラソルさせる女』で二科賞入賞。1921年から1928年まで、フランスのリヨン美術学校で学ぶ。宇野千代との関係は有名だが、他にも多くの女性と浮名を流す。1930年、凹天が主催する『讀賣新聞』漫画部の当初の媒体だった『讀賣サンデー漫画』に数多くの漫画を寄稿。戦後は夢みるような女性像で知られ、一世を風靡(ふうび)した。1957年芸術院受賞。1961年、二科会会長。1969年フランスより、芸術文化賞受賞。1976年、勲二等旭日重光賞授与される。熊本市で心不全のため亡くなる。死後に、文化功労者。

江戸川亂歩(えどがわ らんぽ)1894年~1965年
小説家、推理作家。本名は平井太郎。ペンネームは、小説家エドガー・アラン・ポーに由来。日本探偵小説の父と称される。現在の三重県名張市で平井繁男・きくの長男として生まれる(本籍地は津市)。2歳の頃父の転勤に伴い鈴鹿郡亀山町(現・亀山市)、翌年名古屋市に移る。以降、大人になっても点々と引越しを繰り返し、生涯引っ越した数は46件である。自身で書いた「貼雑年譜」により、引っ越したすべての場所が、今でも特定できる。いじめられっ子となり、深夜散歩して、空想しながらひとりブツブツ呟くのが癖であった。小学生の頃に母に読み聞かされた菊池幽芳訳『秘中の秘』が、探偵小説に接した最初とされる。中学では、押川春浪や黒岩涙香の小説を耽読した。旧制愛知県立第五中学校(現・愛知県立瑞陵高等学校)卒業後早稲田大学政治経済学部に入学した。卒業後、貿易会社社員や古本屋、支那ソバ屋など多くの仕事を経る。森下雨村、小酒井不木に激賞され、『新青年』に掲載された『二銭銅貨』でデビュー。初期は欧米の探偵小説に強い影響を受けた本格探偵小説を送り出し、黎明期の日本探偵小説界に大きな足跡を残した。衆道の少年愛・少女愛、男装・女装、人形愛、草双紙、サディズムやグロテスク、残虐趣味などの嗜好の強さがある。これらは岩田準一とともに研究していたという。これらを活かしたエロ・グロ小説は、椅子が日本で使われ始めると『人間椅子』を執筆するなど当時の風俗をうまく取り入れ、一般大衆に歓迎された。亂歩は海外作品に通じ、翻案性の高い作品として『緑衣の鬼』、『三角館の恐怖』などを残す。代表作は『陰獣』。また、1935年から始まった、明智小五郎と小林少年が活躍する少年向けの『怪人二十面相』シリーズがある。戦後も亂歩は主に評論家、プロデューサーとして活動するかたわら、探偵小説誌『宝石』の編集・経営に携わった。また、日本探偵作家クラブの創立と財団法人化に尽力した。1977年から始まった「土曜ワイドシリーズ」の第一作は、亂歩作品を映像化した天知茂主演の美女シリーズである。晩年の亂歩はパーキンソン病を患ったが、それでも家族に口述筆記させて、『明智少年団』シリーズを書き続けた。敵役の怪人二十面相が、その熱意の源泉となったとされる。くも膜下出血により死去。1961年、紫綬褒章受賞。

波田うた(なみた うた)1897年~1979年
市会議員。平鹿(ひらか)郡山内(さんない)村(現・秋田県横手市山内)生まれ。戸籍上の名はウタ。1916年頃に、兄の下田憲一郎に呼ばれて上京。1917年、波田高一と結婚。1934年から東村山市の化成学校の小学校の教員になる。神学校で牧師をしていた波田高一と結婚。その後、夫の都合で、山口県阿武郡弥冨村(現・萩市須佐町)に引っ越す。しかし初産の男子は早くして亡くなるも、1928年に娘の百合子をもうける。しかし、高一は箸の上げ下げにも文句を言うタイプで、うたが生けた花を投げ捨てるのも、それが気に食わないと投げ捨ててしまう。他人とも争いごとが多かった。牧師の勤め先を変えるたびに「オレには家や財産がある。仕事なんかしなくとも生きられる」と開き直った。しかも女癖も悪かった。うたは、人に魂の救いを説く人かと、こういう夫に絶望。1934年に家を出る。しかし、高一はプライドがあるせいか、ふたりは一生、籍を抜くことはなかった。一旦、兄の下田憲一郎を頼るが、北多摩郡東村山(現・東村山市)の教員住宅に住むことになる。ところで、波田うたは、柳瀬正夢の妻の松岡朝子と友人同士であった。1945年に亡くなった柳瀬正夢の遺品のほとんどが須山計一に渡ったのは、そのような理由があったため。1950年レッドパージを受けて、教員を辞める。その後、1951年から1967年まで東村山市の市会議員となる。娘の百合子は1952年に胸部疾患で死去。戸籍上は離婚を認めなかった夫の高一も1968年に死去。

高見之通(たかみ ゆきみち)1880年~1962年
衆議院、弁護士。富山市千石町生まれ。東京帝國大学卒。弁護士になった後、東岩瀬町長、富山県売薬同業組合長を務め、1917年の第13回衆議院議員総選挙で初当選。以後、通算7回。高見之通と言えば、1926年に明るみに出た戦前日本の汚職事件の松島遊廓疑獄事件。この疑獄は、当時大阪市西区にあった大阪最大の遊廓、松島遊廓の移転計画を巡り、複数の不動産会社から、与野党政治家3名が、移転を巡る運動費(当時の金額でそれぞれ3 ~40万円)を受取ったとされたが、後の裁判では、全員無罪となった。また戦時下で「男性美」に一家言をもっていた。また、現職総理大臣が予審尋問を受けるという、前代未聞の事態は第一次若槻禮次郎内閣総辞職の遠因にもなった。立憲政友会総務、政友本党党務委員長を歴任し、戦後は自由民主党富山県連最高顧問。

澁澤榮一(しぶさわ えいいち)1840年~1931年
官僚、実業家。武蔵国榛沢郡血洗島村(現・埼玉県深谷市血洗島)に父親の渋沢澤市郎右衛門元助、母親のエイの長男として生まれた。幼名は栄二郎慶喜より「これからはお前の道を行きなさい」との言葉を拝受した。同年には、大蔵省に入省。しかし、予算編成で大久保利通達と対立。退官後間もなく、官僚時代に設立を指導していた第一国立銀行(現・みずほ銀行)の頭取に就任し、以後は実業界に身を置く。多種多様の企業の設立に関わり、その数は500以上と言われている。彼が三井高福、岩崎弥太郎などといった明治の財閥創始者と大きく異なる点は、「渋沢財閥」を作らなかったことにある。当時は実学教育に関する意識が薄く、実業教育が行われていなかったが、渋沢は教育にも力を入れ森有礼と共に商法講習所(現・一橋大学)、大倉喜八郎と大倉商業学校(現・東京経済大学)の設立に協力したほか、二松學舍(現・二松學舍大学)の第3代舎長に就任した。国士舘の設立・経営に携わり、井上馨に乞われ同志社大学への寄付金の取り纏めに関わった。また、男尊女卑の影響が残っていた女子の教育の必要性を考え、伊藤博文、勝海舟らと共に女子教育奨励会を設立、日本女子大学校・東京女学館の設立に携わった。社会活動にも邁進。社会福祉事業の原点ともいえる養育院の院長を50年以上も務め、東京慈恵会、日本赤十字社、聖路加病院などの創立にも関わりました。1890年貴族院議員。1927年、1928年にノーベル平和賞の候補にも。著作は国会図書館デジタルコレクションで読めます。

竹下夢二(たけした ゆめじ)1884年~1934年
画家、詩人。岡山県邑久郡本庄村(現・岡山県瀬戸内市邑久町本庄)に代々酒造業を営む家に次男として生まれる。兄が前年に亡くなっていたため、事実上の長男として育てられる。本名は、茂次郎(もじろう)。大正ロマンを代表する画家で、「大正の浮世絵師」などと呼ばれたこともある。また、挿絵も描いた。文筆の分野でも、詩、歌謡、童話など創作しており、なかでも、詩『宵待草』には曲が付けられて大衆歌として受け、全国的な愛唱曲となった。また、書籍の装幀、広告宣伝物、日用雑貨のほか、浴衣などのデザインも手がけており、日本の近代グラフィック・デザインの草分けのひとりともいえる。彼自身の独特な美意識による「夢二式美人画」と呼ばれる作品の多くは、日本画の技法で描かれる。また、洋画の技法による女性像や風景画もある。さまざまな表現形式を試みたが、むしろ、それらは後世になってから評価されたもので、当時の時点においては、印刷された書籍の表紙や広告美術などが多くの目に触れ、大衆人気というかたちで脚光を浴びたのであった。凹天は、豪徳寺に住んでいた頃、竹下夢二と、電車の中よく向かい合わせで座っていた。「名前は知っていたが口はきかなかった。これが竹下夢二であった。後に、これほど有名人になろうとは、人間は判らないものだとツクヅク感じた」。竹下夢二は、中央画壇への憧れもあったようだが受け入れられず、終生、野にあって新しい美術のあり方を模索した。結核のため、信州富士見高原療養所で死去。

小川芋銭(おがわ いもせん)1868年~1938年
日本画家。常陸国牛久藩(現・茨城県牛久市)生まれ。幼名は不動太郎。本名は茂吉。別号に牛里・草汁庵・芋銭子・芋滄子等。廃藩置県により新治県城中村(現・茨城県牛久市城中町)に移り農家となる。最初は洋画を学び、尾崎行雄の推挙を受け朝野新聞社に入社、挿絵や漫画を描いていたが、後に本格的な日本画を目指し、川端龍子らと珊瑚会を結成。横山大観に認められる。生涯のほとんどを現在の茨城県龍ケ崎市にある牛久沼の畔(現在の牛久市城中町)で農業を営みながら暮らした。画業を続けられたのは、妻こうの理解と助力によるといわれている。画号の「芋銭」は、「自分の絵が芋を買うくらいの銭になれば」という思いによる。身近な働く農民の姿等を描き、新聞等に発表したが、これには社会主義者の幸徳秋水の影響もあったと言われている。『平民新聞』に協力。代表作に『森羅万象』、『夕凪』。また、水辺の生き物や魑魅魍魎への関心も高く、特に河童の絵を多く残したことから「河童の芋銭」として知られている。脳溢血のため自宅で死去。

幸徳秋水(こうとく しゅうすい)1871年~1911年
ジャーナリスト、思想家、社会主義者、アナーキスト。高知県幡多郡中村町(現在の高知県四万十市)生まれ。9歳の時、儒学者・木戸明の修明舎に入り、四書五経等を学ぶ。11歳で旧制中村中学校(現・高知県立中村中学校・高等学校)に進学するも、台風で校舎が全壊しなかなか再建されず退学。1887年に上京し、同郷の中江兆民の門弟となる。1898年より黒岩涙香の創刊した『萬朝報』記者となる。『萬朝報』は日本に於けるゴシップ報道の先駆者として知られ、権力者のスキャンダルを追求、「蓄妾実例」といったプライバシーを暴露する醜聞記事で売り出した新聞である。1899年には東京の新聞中発行部数一位に達し、最大発行部数は30万部となった。又一時淡紅色の紙を用いたため「赤新聞」とも呼ばれた。『萬朝報』記者時代に社会主義研究会に入会、日本で最初の社会主義政党である社会民主党を結成する。日露戦争反対を説いて退社、堺利彦と平民社を興し『平民新聞』を刊行する。漫画の良き理解者でもあった。次第に無政府主義に傾き、弾圧の厳しさが増すにつれ文筆活動に専念したが、1910年大逆事件で連座。翌年、死刑判決を受けて獄死。

平福百穂(ひらふく ひゃくすい)1877年~1933年。
日本画家、歌人、漫画家。平福穂庵(順蔵)の四男として、秋田県角館(現・仙北市)生まれ。本名は貞蔵。幼い時から秋田市の豪商である那波家のコレクションなどで、秋田蘭画を見て育ったが、1890年から父から絵を学び始める。同年末に父が急死すると、翌年から父の後援者の援助を受け、本格的に絵の道へ。同年の秋に開かれた亡父の追悼画会で画才を認められ、「百年」の百と「穂庵」の穂を取って「百穂」と号す。1894年に上京し、四条派の第一人者川端玉章の内弟子となる。東京美術学校(現・東京藝術学校)卒。『萬朝報』が、日露戦争に対して非戦論に転じた時に退社した幸徳秋水、堺利彦が創刊した『平民新聞』に協力。日本漫画の始祖のひとり。またアララギ派の歌人としても知られる。

在田稠(ありた しげし)1887年~1941年
漫画家。宮城県遠田郡出身、旧制第一中学校(現・仙台第一高等学校)卒業後に上京し、白馬会洋画研究所をへて東京美術学校洋画科に学ぶ。風刺漫画雑誌『東京パック』(第一次)の編集に携わったのをきっかけに、その出版元『有楽社』、その後『時事新報社』に入社する。
その間に各誌へ執筆、漫画を描くようになり、書籍や楽譜の表紙・装幀なども多く手掛け、ポスター類も作成した。東京の漫画記者を中心とする「東京漫畫会」に名を連ね、また凹天がいた「日本漫畫家聯盟」にも、連名で発足させ、戦前の日本近代漫画の一翼を担う。第2次~3次にも関わった「東京パック」が新体制で第四次の創刊をすると、主宰者のひとりとして請われ、「時事新報社」を辞して参加するが、パーキンソン病を発症し、離職。1940年、東北帝國大(現・東北大学)にて治療をするも完治せず、家族の移り住んでいた大阪で死去。

池辺鈞(いけべ ひとし)1886年~1969年
風刺漫画家、洋画家。東京市本所区(現・東京都墨田区)生まれ。旧姓は山下。岡本一平の義弟、岡本太郎の叔父にあたり、俳優の池部良は実子。1899年から1900年にかけての時期に白馬会展の展観作品に感動し画家を志す。1902年頃、渡辺審也に師事する。東京美術学校(東京藝術大学)を卒。翌1911年『朝鮮京城日報社入社、1914年には徳富蘇峰の『国民新聞』に入社し、政治や社会分野などの漫画を担当。1916年、漫画誌『トバエ』が創刊され参加。1917年『漫画』創刊参加。漫画界の第一人者として活躍した。漫画分野の活躍と前後して、油絵分野では、1921年の帝展出品作『大道芸人』より帝展出品を開始、1928年(昭和3年)第9回帝展『少女球戯図』が帝展特選、続く1930年第11回帝展『踊』も帝展特選および無鑑査となった。1938年一水会会員、のちに一水会運営委員。日展評議員。受賞多数。心不全のため、東京都八王子市の永生病院で死去。

古賀春江(こが はるえ)1895年~1933年
洋画家。福岡県久留米市生まれ。本名は亀雄(よしお)。元々、家が寺であった。後に僧籍に入り「古賀良昌(りょうしょう)」と改名。「春江」はあくまでも通称である。1912年、洋画研究のために上京し、太平洋画会研究所に通った。 翌1913年には、日本水彩画会研究所へ入って石井柏亭に師事。 この年、当時雑司が谷に住んでいた坂本繁二郎を訪問した。の1916年(大正5年)に父親を亡くし、 父の後を継ぐために宗教大学(現・大正大学)の聴講生になり、 学業の傍ら絵の制作に励んだ。同年には日本水彩画会員に推された。この年の末には、岡好江と結婚。水彩画展や光風会展に出品し、1919年の秋、二科展に『鳥小屋』が初入選。 翌1920年、古賀は岡好江と久留米で結婚式をあげたが、 体を悪くし、再度帰郷した。 この後、1924年4月に上京するまではほとんど久留米と福岡にいた。 1921年、妻の好江が女の子を産んだが死産。 このことがきっかけとなって、『埋葬』 に着手した。 水彩画の方の『埋葬』は1922年春に完成、同年5月の来目展に『観音』と共に出品。 1922年油彩画の『埋葬』と『二階より』を二科展に出品し、共に入選。『埋葬』は二科賞を受賞。1926年に入ってからは東京に定住するようになり、 二科会会友に推され、 また、クレー風の絵をかきだすようになった。 翌1927年に母を亡くし帰郷。 翌1928年には長崎へ転地し、そこで『生花』などを制作した。 この年、中川紀元の紹介で東郷青児を知る。 この時期を代表する絵として『煙火』。 『素朴な月夜』。 この頃はクレー風の絵を描いていたが、1929年になると画風が変わり、構成的なシュールリアリズムの絵が現れだす。 この代表作は『海』。慢性びまん性脳炎と梅毒のため東京で死去。

北澤楽天(きたざわ らくてん)1876年~1955年
漫画家、日本画家。東京市神田区駿河台(現・千代田区駿河台)に生まれ。近代日本漫画の初期における最重要な漫画家のひとり。本名は保次。下川貞矩(さだのり)は、楽天の最初の弟子で、「凹天」の名付け親。1895年、横浜の週刊英字新聞「ボックス・オブ・キュリオス」社に入社し、欧米漫画の技術を学ぶ。1899年、福沢諭吉が創刊した新聞「時事新報」で漫画記者となる。川端龍子が貧乏で困って、投身自殺を図ろうとしたところ助けるなど、人情味のある人物。1905年に、楽天はB4版サイズフルカラーの風刺漫画雑誌『東京パック』(第1次)を創刊。当時の『東京パック』は、川端龍子、坂本繁二郎など、錚々たるメンバーが漫画を描いていた。『東京パック』で、キャプションに、日本語の他に英語および中国語が併記。朝鮮半島や中国大陸、台湾などのアジア各地でも販売された。出資者の中村弥次郎と喧嘩分かれをし、『楽天パック』と『家庭パック』を始める。多くの後進を育て、後年住んでいた大宮市の「楽天居」を大宮市に寄付し、大宮市の名誉市民第1号となる。脳溢血のため死去。1966年、大宮市立漫画会館(現・さいたま市立漫画会館)がその場所に設立された。

赤松宗旦(あかまつ そうたん)1806年~1862年
医師。下総国相馬郡布川村(現・茨城県北相馬郡利根町布川)生まれ。本名は義知。父は「初代・赤松宗旦(赤松恵)」、産科医で文化人でもあった。母はひさ。宗旦は父と同様、主に産科医として医療活動に従事したが、付近の子弟を集めて、漢学・手習なども教えた。俳諧や書画にも親しみ、江戸や下総国・常陸国の医師や文化人と交友を深めていた。1843年刊行の『下総諸家小伝』には、当時の優れた文化人のひとりとして、宗旦も紹介されている。1840年、老中・水野忠邦による「天保の改革」が始まり、印旛沼の開発が計画される。単なる新田開発ではなく、北浦と鹿島灘間の運河開削、さらに印旛沼と江戸湾岸・検見川浦間の運河開削を伴っていた。それは、東北地方の物資を積んだ船が、太平洋から江戸に直行できる物流幹線を整備する計画だった。したがって、利根川流域の環境に与える影響は大きい。利根川の姿を記録に残したいという宗旦の思いが、『利根川図志』執筆の動機になったと考えられる。

柳田國男(やなぎた くにお)1875年~1862年
民俗学者。飾磨県神東郡田原村辻川(現・兵庫県神崎郡福崎町辻川)生まれ。父は儒者で医者の松岡操、母たけの六男として出生。幼少期より非凡な記憶力を持ち、11歳のときに地元辻川の旧家三木家に預けられ、その膨大な蔵書を読破し、12歳の時、医者を開業していた長男の鼎に引き取られ茨城県と千葉県の境である下総の利根川べりの茨城県北相馬郡利根町に移住。現在の全国各地を調査旅行し、民俗学を築いた人物。東京帝國大を卒業したあと、明治政府の農務省の役人に。そこで、岩手県を始め各地を講演旅行するうちに、民俗的なものに興味をもつように。代表作は『遠野物語』、宮古島が最初に稲作技術がもった人びとがやってきたという仮説も載っている『海上の道』など。1951年文化勲章受章。心臓衰弱のため、世田谷区成城にある自宅で死去。

【2021/11/08 最終更新】
【更新履歴】
2020/04/19 記事公開
2021/11/08 山口豊専の出身地の現在の地名を「千葉市若林区」から「千葉県白井市」に修正



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この記事へのコメント
山口豊専(やまぐち ほうせん)1891年~1987年
漫画家、日本画家。千葉県印旛郡白井村(現在の千葉市若葉区)に生まれる。
 → 出身地は「白井村(しらいむら)}ではなく「白井村(しろいむら)」ですので「千葉県印旛郡白井村(現在の白井市)」が正解です。
Posted by T at 2021年10月20日 02:28
今気づきました。
対応遅れて申し訳ありません。

T さま、重要なご指摘ありがとうございます。

遅れるかもしれませんが、
訂正をブログに反映させます。
Posted by 片岡慎泰 at 2021年10月30日 09:40
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