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2016年03月29日

第76回 「新宮古建設の歌」



友利實功氏生誕地の碑を受けて、インギャーマリンガーデンの「なりやまあやぐ発祥の地」の碑から始まった歌碑シリーズ。「とうがにあやぐ」でカママ嶺へ場所を移して、篠原鳳作平良雅景平良好児と俳句や短歌を綴り、海を渡って佐良浜港の垣花良香を経て、池間島の池間行進曲へと続きました。ふた月も続いたぺらっべらな薄識が贈る歌碑シリーズも、今回でひとまずの最終回。最後を飾るのは、ドイツ村の片隅にある「新宮古建設の歌」です。


「新宮古建設の歌」は終戦直後の1947(昭和23)年8月に宮古民政府が、産業復興、秩序回復の標榜とすべく公募したもので、戦争で荒廃した島の人々の中に、忘れかけていた郷土愛が目覚め、希望と使命に躍動し、士気の高い理想郷の建設に熱く燃える歌が生まれました。
作詞:仲元銀太郎 作曲:豊見山恵永


はるかな海の彼方から ひたひた寄せる潮の音は
夜明けの港・漲水に 愛と信義を誓う歌


若い血潮は紅の でいごの花が咲くように
胸にあふれて新生の 高い理想に躍るのだ


迷いの雲がかかったら 友よいっしょに払いよけ
真澄の月の清らかな 太平山を築くのだ


苦難の道は続いても スクラム組んで僕たちは
意気高らかに建設の 希望に燃えて進むのだ


嵐に耐えた白百合の 香りも高い新宮古
築く使命を負う友よ 愛と信義に強く立て
作詞をした仲元銀太郎についてはあまり詳しいこを掴むことはできませんでしたが、銀太郎は上野村の出身で、「えんどうの花」を作詞した金城栄治の教え子であるということが判りました。金城の影響があったとはさすがに考えにくいですが、銀太郎は後に国語科教師となり、戦後の混乱期中、新しい世に向けた教育プログラムをいち早く立ち上げようと、宮古島独自の教科書を作る作業に尽力した人たちの中に、その名を連ねていたようです。
また、1948(昭和23)年開校の砂川中学校(当時の名称は城南中学校。1949年に西城中と砂川中に独立)で初代の教頭(社会と音楽を担当)を勤め、銀太郎は砂川中学校の校歌を作詞してます。

一方、作曲を担当した豊見山恵永についは、平良市史(八巻資料編)に記録が残っていました。恵永は1911(明治44)年平良村西里に生まれ、沖縄県師範学校を卒業後、福嶺小を皮切りに島内の小学校で音楽の教師として勤めていましたが、1938(昭和13)年に音楽教育研究のために大阪へ渡り、現地の小学校に勤務しながら大阪音楽学校専科(夜間)で声楽と作曲を学びます。1943(昭和18)年に帰沖した恵永は那覇国民小学校を経て宮古へ戻ると、小中学校のみならず高校の音楽教師をも勤めます。
圧巻なのは、伊良部小、西城小、上野小、宮原小、平良中、鏡原中、城辺中、上野中、伊良部中の各学校の校歌を作曲しています。また、平良市歌や城辺町歌などの作曲も手がけています。極めつけは平良小年少女合唱団を結成・指導をしていおり、新宮古建設の歌も含めて、もしかすると恵永が生み出した「恵永メロディー」を、全島民が一度は歌っているのではないかと妄想してしまいたくなるくらいの活躍をされています。尚、1981(昭和56)年、70歳で亡くなっています。

歌碑は「新宮古建設の歌」碑建立期成会によって、1994(平成6)年3月に、うえのドイツ文化村のドイツ商船遭難の地の碑の裏手、旧・博愛パレスへ続く博愛橋のたもとに建立されています。

【参考資料】
沖縄に花 ~在りし日の「えんどう畑の風景」への憶い~
沖縄・宮古島における戦後初期国語教科書の研究(広島大学紀要 吉田裕久) ※pdfです
※終戦直後、教科書を作りに奔走する宮古人の話は、とても興味深いです(長め)。
「みやこ少年少女合唱団」歌い継いで35年/宮古毎日新聞2010年1月24日  続きを読む



2016年03月25日

その11 マリコさんの宮古大学 [後篇]


※前篇はコチラ

沖大存続を支援する会が「宮古大学」へと名前を変え、マリコさんら若者たちと東松照明の活動がはじまった。

手元に一冊の手作り誌がある。
創刊号『すまりゃ<染人>』宮古大学 (昭和48年5月1日発行)と題されたそれは、18ページの構成で、東松照明の随筆『ラブレター』が巻頭を飾り、続いてメンバーたちの文章がつづられている。

すまりゃは、最初はガリ版でつくっていて
ここからここまで何行で、何文字で、どこからページが変わってと
東松さんに教わりながら原紙に鉄筆で書いていった
その途中で、新しく入った高校生がタイプ打ちをしてくれることになったんだと思う
すまりゃというのは、想い人って意味
『沖大存続を支援する会会報』の名前も変えようとなって、これしかないよねと


【山中部落へ調査に向かう若者たち。向かって左がマリコさん】
編集部によるドキュメントには、次のような経過が報告されている。

(3.17)
宮古島の視点から、すべての問題をとらえ直すことが確認された。我々自身の手で宮古島を掘り起し、その過程で具体的問題を喚起していく。その方法が見つかるまで、毎日とう論を重ねる。

(3.26)
宮古島の中の特定地域を選んで、まず全員で調査することから始めようということになった。地域にはすべての問題が含まれている。特定地域は山中部落に決定。
(以上、抜粋) 

山中へ行って話を聴いたらいいんじゃないかと提案してくれたのは東松さん
比較的市街地に近い農村がどうなってるか調べたらと
彼は、島中を歩き回っていて、いろんな場所や人を知っていた


とはいうものの、東松氏は、活動そのものにはなるべく影響を及ぼさないようにしていたと思うとマリコさんはいう。情報の提供や方法論を投げかけ、若者たちが、どう舵をきっていくのか、『見て』いたんじゃないかと。
「今だから思うけど、写真家は見る人だから」

最初の活動の方針が決まり、宮古大学のメンバーは、山中集落へ出かけ、地図を作成し、老人だけが残される家々を訪ね、聞き取り調査をおこなった。
すまりゃ創刊号は、その訪問記に多くのページをさいていて、マリコさんも執筆者のひとりだ。

【すまりゃ創刊号 もくじ】 
(抜粋)
自分たちは部落を出ていった人の家々や畑の番人だ。「パリバン」という言葉の中に、山中に残っている人の、どうしようもない怒りとさびしさを感じました。貧しいから山中を出ていくのかと考えていたら、お金のある人から那覇に土地を買い、家を建てて出ていくというのです。
(抜粋)
過疎、離農を考えるとき、もっと展望と計画性をもって“こう変えるべきだ”と農業の方向性を指し示すところまで、私たちは目標にしなければいけないじゃないかと思います。

と、マリコさんはつづる。

山中にいって、離農して那覇にいく人が多いと知って
それは日本の農業政策が変わらない限り、どうしようもないということに気づかされ
そのことは、私の中で強烈だった
ほかのことは、あんまり覚えてないけれど、それは、今でも心の中にある


マリコさん含め、宮古大学のメンバーは、後にそれぞれのフィールドで、時代を拓く先駆者として活躍していく。政治家の道を選んだ人もいる。
宮古大学での経験が背中を押した、ということはあると思う?っと聞けば、マリコさんは少し考えて答えた。
「もともとそういう人たちが集まったんじゃないかな」
才気と活気あふれる若者たちが、まさに時代が音を立てて変わる渦の中で、島のありかたや未来に立ち向かい、熱く語り合う場に居合わせることは、東松照明でなくとも興奮をおぼえたことだろう。

次にやったのは人頭税廃止運動を自分たちで調べてみること
当時はまだ、その中心人物を直接知ってるという人がいて、久松や保良にでかけていった
それをすまりゃの2号でまとめる予定だった


【東松邸-初めての夜-/三人の織姫-職場訪問-】
マリコさんは名前を覚えていないというが、保良というのは、たぶん、農民代表として人頭税廃止を要求する直談判に、中村十作とともに上京した平良真牛の関係者のことだろう。あまりの展開に、思わず身を乗り出してしまうが、残念なことに、その聞き書きはどこにも残されていない。すまりゃ2号は発行されなかったのだ。

2号を出そうというときに、Mが出す意味があるか?と
意味はあると思ったけれど、そう聞かれると、きちんと言葉で説明できなくて黙ってた
ほかのみんなも黙ってた。それで、もう終わるかと
何年も後の話だけれど、あのとき、誰かが意味があると言ってたら
おれはやるつもりだったよとMがいうから、ばかやろと思った(笑)


東松照明が島を去り、宮古大学も解散した。
「東松さんが、どんな風にいなくなったのか、おれ、いくねーみたいな感じだったのか、ぜんぜん思い出せないんだよね」
それから43年の月日が過ぎた。マリコさんは今、ブーンミ保存会の会長として、宮古上布界を支えている。  



2016年03月22日

第75回 「池間行進曲」



まだまだ続いている薄学による歌碑シリーズは、前回の佐良浜から海を渡って池間島へ。今回は池間出身の人なら、誰でも知っているとも云われている、謎の島の愛唱歌?「池間行進曲」の歌碑です。

池間漁港にあるカツオのオブジェが屋根に乗った東屋が目印の公園にこの歌碑はあります。
碑の裏書によると、池間行進曲は1925(大正14)年に池間昌増によって作られた歌で、1996(平成8)年10月に昌増の孫一同らが、「いつまでも歌って下さる池間の人達に感謝」の意を込めて建立されました。

池間という苗字で池間行進曲を作った人だから、きっと池間島の人かと思いきや、調べてみるとまったく違うことが判りました。勝手に豪放磊落な地元の物識り爺さん的な人じゃないかと妄想していたのですが、そんイメージを吹き飛ばす人物でした。

池間昌増(いけましょうぞう)。1895(明治28)年2月8日、砂川間切下里村に生まれる。県立中学(現・首里高)へ進むも、家庭の事情で中退しますが、検定試験に合格して小学校准訓導の免許を取得します(訓導は小学校の教員のことで、准訓導はそれを補佐する教職。尚、代用教員は資格のない准訓導心得となる)。
1912(明治45)年の伊良部小を皮切りに、久松小(在校中に正教員の資格を取得)、平女(平良女子尋常小学校。後の北小)、池間小を経て、1927(昭和2)年に来間小の校長を務めます。
池間小に赴任していた時期は、1925(大正14)年3月31日~1927(昭和2)年3月31日となっているので、池間行進曲が作られた時期と符合しています。それではここで、その歌詞を見てみましょう。

その名も高き大主の社を 拝みて登り行く
辿りつきたる遠見台 池間の島を見渡さん


南の岡におびそかに いらかも長くそびゆるは
ここぞ池間の学校で わがなつかしき母校なり


明治三十六年に 生まれいでたるわが校は
二十三才の星霜を 経たる床しき校舎で


大正十年四月には 高等小学併置され
学びの道は開けたり いざや学ばんわが友よ


北の浜辺を見下ろせば ここぞ名に負う仲間越
納屋の煙突空を突き 工場の機械は威勢よし


組合かずは六つあり 宝山 重宝 大宝丸
池島丸と宝泉 漁福丸は二号まで


海に生まれて海に住む わが同胞は祖先より
伝えし魚業を受けついで 鰹製造を始めたり


明治三十有九年 始めてこの業ひらけたり
産額年々増しゆけて 今は三十五万円


島の夜明けを告げる頃 東天白む暁に
島の若人各々の 船にのり込む雄々しさよ


鴎がさわぐ真昼時 緑の潮わきたたせ
鰹群がり餌につけば 釣りする人も湧み立つ

十一
陽は西海に傾いて 鴉もねぐらへ急ぐ時
五色の旗をなびかせて 誇り顔にぞかえり来ぬ

十二
祖先ニうけたるこの地あり 天に賜いし漁業あり
共同一致を身に挺し 技にいそしむたのもしさ

十三
池間前里二区字の戸数は二百五十八
人口一千六百で 一家の如きまといなり

十四
青年会や処女会は せの文明に置くれじと
日々の修業を怠らぬ その心根の香ばしさ

十五
産業立国叫ばれつ 文化の高潮かける時
いざや富まさん池間島 いざや学ばん島人よ

一番一番は短いですが、実に十五番まであります。内容も学校の話が三番も続いており、昌増自身が教職にあったからだと納得がいきました。また、島の歴史や産業、島のあらましまで様々に盛り込まれており、まるで歌う島の要覧のようです。この歌がある限り、大正末期の池間島の隆盛が数値を伴って後世に伝えられていて、なにげに素晴らしい遺産を昌増は残していたことに気づかされます。

苦労して校長まで上り詰めた昌増のその後ですが、1932(昭和7)年に平良町長であった石原雅太郎に請われ、収入役、助役を勤めます。
終戦直後は与儀達敏町長(前町長の石原雅太郎が台湾疎開者の引揚事業に取組むため辞職した)のもとで町参与を勤め、宮古支庁などを経て戦後最大の動乱期ともいえる第二代市長の下地敏之政権で収入役に就任(後に助役)。市長選挙から続く軍政権下という特殊な状況下での新旧勢力の政争は激しさを増し、やがて下地敏之市長の罷免という事態となります。助役だった昌増は新市長が決まるまでのおよそひと月の間、市長代行として市政を切り盛りすることになります(新市長となるのは返り咲いた石原雅太郎だからドラマテッィク)。
1949(昭和24)年、雅太郎と入れ替わる形(厳密には助役の任期は少しだけ重なる)で平良市政を下支えし続けてきた昌増は政界とは距離を置きます(選挙管理委員長などは歴任している)。
料亭組合長という新たな顔で、加盟業者の経営基盤の確立、防犯灯の設置や道路の舗装など、料亭街の繁栄と健全化に尽力した昌増は、1984(昭和59)年に89歳で亡くなります。
教育者、政治家、実業家と異なるスキルを存分に発揮した男・昌増。池間行進曲から勝手に妄想したイメージとはまったく異なる、昌増の人生を知ってとても好感を持ちました。

これだから宮古の近代史を掘ってゆくのは面白いのです。この流れで歌碑のことなど吹き飛んでしまいそうな展開ですが忘れていません。実はもう一ヶ所、歌碑ではありませんが島に池間行進曲の歌詞が記されている場所があります。島で古くから民宿を営んでいる勝連荘の壁です。味わいのある手書きは、いかに島の人々にこの歌が愛されているかを物語っているようです。

動画【池間行進曲】

下地敏之 ・ 宮古民主党平良市政 と宮古自由党(右端のサムネイルをクリックするとpdfが開きます)
~黒柳保則(愛知大学沖縄法政研究所)氏の論説。池間昌増が支えた下地敏之(第二代平良市長)を始め、盛島明長(宮古王・衆議院議員)、立津春方(教育者・元平良村長)、石原雅太郎(20年以上平良の首長を勤めた政治家)、具志堅宗精(宮古民政府知事、オリオンビール・赤マルソウの創業者)、西原雅一(元伊良部村長、宮古群島知事)、盛島明秀(明長の甥、第12代平良市長)など、オールスターキャストで繰り広げられる政争が濃厚な政治ドラマのように展開されます(とても長く堅いのでお時間のある時にじっくり読みたい資料です)。

【関連石碑】
第5回 「盛島明長像」
第21回 「盛島明長生誕之地」
第29回 「石原雅太郎氏像」
第30回 「眞栄城徳松氏の像」
第38回 「池間小学校発祥之地」
第39回 「青雲の志」
第67回 「プロヴィデンス号来航200年記念碑」  続きを読む



2016年03月18日

『続・ロベルトソン号の秘密』 第十一話



前回の第十話では、普仏戦争とか、ドイツ帝国とか、アルザス地方の割譲とか、ヨーロッパの歴史に詳しくない方にはわかりにくい用語をたくさん使ってしまい、すみません。ロベルトソン号遭難当時のヨーロッパの事情の複雑さに「もやもや」されている方も多いと思いますので、今回はこの時代のドイツの状況を概観してみたいと思います。

【ストラスブール市内】

まず、ドイツという国はいつからあるのか?というそもそもの疑問から出発したいと思います。これ自体、なかなか難しい質問なのですが、近代の国民国家としてドイツ=ドイツ帝国(≒ドイツ語を話すゲルマン民族主体の国)が成立したのは1871年です。ではその前のドイツはどんな状況だったのかといいますと、300以上の「領邦国家」という小国が乱立している状況でした。

そこで次に、1871年までのドイツの状況を眺めておく必要があるのですが、元々ドイツ(というか現在のドイツに相当する地域)には、962年から1806年までの間、「神聖ローマ帝国」という国が存在していました。この帝国はもともと、古代のローマ帝国の伝統とキリスト教会の権威に支えられてドイツを支配していたのですが、1648年に結ばれた「ウェストファリア条約」(ドイツを主戦場にして行われた30年戦争という、カトリックとプロテスタントの宗教戦争の講和条約)によって、各地方の領邦君主に広範囲の自立性が認められると、帝国の権威は有名無実化し、その後1806年に消滅してしまいます。ですので、1871以前の19世紀のドイツには、統一した国はなく、小さな領邦に分裂していた、ということになります。なおエドゥアルトが晩年を過ごしたハンザ同盟都市ハンブルクも、自治権や裁判権や外交権を持っていたので、町ひとつで国と同等の地位を備えていたことになります。他にも、侯爵領や伯爵領、王国、教会の領地、騎士団の領地など、統一以前のドイツには実に様々な形態のミニ国家が乱立していたのですが、その中でも特に大きな勢力として、現在のドイツ東部からポーランド西部に拠点を持つ、ホーエンツォレルン家のプロイセン王国がありました。結論を先に述べますと、この王国が中心となって1871年にドイツ統一を達成する、という流れになります。ただ、このドイツ統一が下からの民主的な国づくり運動の結果として起きたものではなく、プロイセン中心の上からの、つまり軍事力によって成し遂げられた、という点は、ドイツ人の「お上への服従」や「長いものに巻かれろ」といった迎合の意識を生み、その後のドイツ史に禍根を残すことにもなります。なお、1933年から45年のナチス政権下のドイツは「第三帝国」とも呼ばれますが、これは神聖ローマ帝国、ドイツ帝国(これを第二帝国とも言います)を踏まえてのものです。

【ベルリン市内】
では、ドイツにはフランスのような民主的な国家統一運動がなかったかと言えばそんなこともなくて、神聖ローマ帝国の消滅と時を同じくして19世紀前半に、ドイツ人のための統一国家を作ろう、という運動が盛り上がりを見せます。その背景には、1789年にパリで起こったフランス革命がふたつの意味で影響しています。ひとつは、フランス革命の理念にならって、民主的な国づくりを目指そうといういい意味での影響、そしてもうひとつは、ナポレオン率いるフランスによってドイツが占領(例えばベルリンは、1806年から1808年までフランス軍が占領)されたことへの反発という、ネガティブな影響です。自分たちのことは自分たちで決める、そんな国を作りたいという思いに、フランスへの復讐心(小国に分断されていると占領される、との思い)が加わって、統一したドイツ人の国を樹立する機運が高まります。この国家統一と民主的な政府樹立の運動が最高潮に達したのが、1848年の「フランクフルト国民会議」です。ドイツ中部の都市フランクフルトにあるパウルス教会に、ドイツ各地の代表585名(主に学者や官吏)が集結して開かれたこの会議では、ドイツ統一の方法や統一国家の憲法草案などを協議し、翌1849年3月には、立憲君主制を採用した憲法を成立させ、プロイセン王フィリードリヒ・ヴィルヘルム4世を君主に推戴しました。しかしプロイセン王はこの憲法を受け入れず、即位も拒否したため,統一国家の樹立には至らず、この年に議会は解散してしまいました(簡単に言いますと「もともと王である自分が、なぜ議会から推挙される形で皇位に就かなくてはいけないのか」というのがプロイセン王の言い分だったようです)。

さて、議会による民主的な手続きでの国家統一を拒否したプロイセンはその後、1862年に首相に就任したビスマルク(Otto von Bismarck)のもとで、いわゆる「鉄血政策」にもとづいて産業振興、軍備拡張を続け、国力を増大させていきます。1864年のデンマーク戦争、1866年のオーストリアとの戦争(普墺戦争)に勝利、さらに1870年~71年のフランスとの戦争(普仏戦争)にも勝利して、占領したパリ郊外のヴェルサイユ宮殿にある「鏡の間」でドイツ帝国の成立を宣言、皇帝ヴィルヘルム1世の即位式も行い、ドイツ統一を成し遂げました。それとともにビスマルクも帝国宰相に就任、対外的には諸外国との融和を図りつつ、内政では軍事力の強化と産業の育成に努めたほか、鉄道・郵便・銀行などの経済発展に必要な基盤も整備していきました。なお1873年3月には、国家統一の直後の勢いのあるドイツを、これまた新政府樹立後間もない明治政府の岩倉使節団が訪れています。ドイツ同様に、遅れた国家統一を上から成し遂げた日本が、ドイツを近代化の模範としたのは有名な話です。

【ストラスブール大聖堂】
そんなわけで、エドゥアルト・ヘルンスハイムが宮古島に漂着した時期というのは、ドイツ史の文脈では普仏戦争にプロイセンが勝利し、ドイツ帝国が成立した直後のこと、また岩倉使節団がベルリンを訪問した3か月ほど後のことでした。また彼の漂着記が出版されたストラスブールは、現在はフランスのアルザス地方の中心都市ですが、ここは、1648年のウェストファリア条約でフランス領になったものが、普仏戦争の結果ドイツに割譲されていました。なおアルザス地方は、隣接するロレーヌ地方と共に、その後第一次世界大戦後のヴェルサイユ条約により再びフランス領になりますが、1940年にはナチスドイツによって再びドイツの支配下に置かれ、その後、第二次世界大戦の終結により再びフランス領となって現在に至っています。

以上、ドイツ帝国の成立に至るまでの歴史を簡単に追ってきました。次回は、明治政府や琉球王国のこの時代の動きにも注意しながら、ロベルトソン号の漂着事件や博愛記念碑の設立過程を見ていきたいと思います。

【参考資料】
ヨーロッパ1000年の領土変遷(ニコニコ動画/3分23秒)
※ドイツの小国乱立ぶりがとてもよく判ります。  続きを読む


2016年03月15日

第74回 「黄金の 夕日を浴びて 父と子が 小鰹一尾 棒につりゆく」



先週までの連想ゲームにくぎりをつけ、カママ嶺からようやく移動しましたが、門外漢がそれっぽくお届けする歌碑シリーズは、まだまだ続きます。ということで、今回は垣花良香の短歌です。
建立されている場所は短歌の雰囲気にマッチした佐良浜の港。給油所から大主神社に向かう途中にある小さな橋(現在は埋め立てにより橋の名残のみ)の脇の植え込みにあります。

歌碑の説明によると
「この短歌は昭和五十一(1976)年五月九日に執りおこなわれた明治神宮春の大祭において入選献詠(けんえい)された曽(かつ)ての佐良浜漁師の生活を象徴的に歌い上げた名作たある」
(西暦とよみがなを加筆)
とありました。

確かに今一度、短歌をじっくりと読み直してみると、夕陽を浴びた父子がカツオをかついで家路につくなにげない日常を歌っており、港町・佐良浜の情景が浮かぶ趣きのある短歌だと感じました。
ところで、この初句の“黄金の読み”ですが、“こがね”や“おうごん”ではなく、おそらく字数的な意味や歌の雰囲気を考えると、“たそがれ”と詠むのではないかと浅慮しましたが、それならば“黄昏”と書くのではなかろうかと至り、にかわ仕込み感を露呈して霧中に消えます。好事家の皆さんの解釈やいかに。
そんなこんなで歌は門外ですが、もうひとつ気になった点を折角なので重ねておきます。
歌碑のある佐良浜漁港は東を向いた崖地の下に位置する港で、西側は高い崖に遮られており、港が夕陽を浴びるイメージがほとんどありません。ただ、良香の勤めていた佐良浜小学校は崖の上にありますので、夕陽が差し込むの情景は、あながち間違ではないといえますが、無粋な突っ込みはこのへんで止めておきます。

さて、この三十一文字(みそひともじ)の短歌を詠んだ垣花良香(かきはなりょうか・かきのはなりょうか)ですが、1906(明治39)年生まれ(1993年没)の多良間島出身の教育者でした。
あまり細かいことまでは調べ尽くせませんでしたが、手がかりとして浮かび上がった、「多良間島の両生爬虫類について」という県博の紀要(千木良芳範)に、「昭和二七年八月、夏休みを利用し西辺小中学校の中学生が多良間旅行に来島した」という記述があり、多良間出身の校長の意向が反映している様子が判るエピソードが読み取れました(本題とはことなるが、蛙がいない多良間に土産としてヌマガエルを持ち込んだという話がまた興味深い)。

そこで西辺中学の校史を紐解いてみると1952年4月に校長(第4代。代々の校長と同様に小学校兼任となっているものの、なぜか良香だけは小学校の校長としてはカウントされていない)に着任するも、わずか4か月(7月20日)で西辺を去っていました。歴代校長の任期についてのみの資料なので移動の理由ついてなどは一切不明ですが、生徒が多良間旅行に向かったタイミングでは、もう学校にはいなかったことになります。
では、どこに移動したのだろうかと島内の学校を探してみると、上野小学校の第20代校長を1952年7月から勤めていました(2年9ヶ月)。その後も、第19代砂川小学校校長(1955年4月~1960年3月)、第19代佐良浜小学校校長(1960年4月~1968年3月)と歴任し、故郷の多良間小学校で第26代校長(1968年4月~1971年3月)を最後に退職します。
その後、良香が那覇へ転居する際に有志と一族が資金を出して、1980年に歌碑を建立しました。

もうひとつ面白いのは、1944(昭和19)年に台湾で発行された幻の本、「南島」第三輯(だいさんしゅう)に、良香は「多良間島雑記」と題したものを寄稿しているのです。この「南島」は金曜コラムの「続・ロベルトソン号の秘密」(第三話/江崎論文)にも登場していますが、時代ゆえに日本に沖縄に届かなかったという曰くがあります。また、この「南島」を作っていた須藤利一は、同じく金曜コラムの「島の本棚」(5冊目)でも紹介した、「宮古史伝」を私家版として復刻しています(新版の解説に1934年に少部数のみ作った非売品と記述がある)。
「多良間島雑記」の中身もとても気になりますが、インターネットもない時代から宮古ネットワークというか、宮古のつながりの広さと深さと凄さに改めて驚嘆し感銘すら覚えるのでした。  続きを読む


2016年03月11日

6冊目 「サザンスコール」



今月の一冊は、<宮古上布>をモチーフにした現代小説『サザンスコール』です。

宮古上布とは、古くから宮古島で生産されている、苧麻(チョマ)を原料とした織物(上布)です。16世紀には琉球王府に献上され、また17世紀には人頭税の租税として物納させられました。それを織るのは選ばれた宮古の女性で、麻をクモの糸ほど細く紡ぐ技術もさることながら、一反織り上げるのに数ヶ月かかる忍耐力も大変なものです。藍色に染められた宮古上布の美しさは、上布の中でも最高級品として全国に流通し、大正から昭和初期に最盛期を迎えますが、その後戦争や原料不足などから織り手も減り、一時は消滅の危機に陥りました。現在は国の重要無形文化財となり、島の中で少しずつ若手の後継者も育成されています。

さて、小説『サザンスコール』は、1990年に日本経済新聞で連載されていたものです。
主人公は、東京の大手の繊維会社・事業開発本部長の杉野隆三。ヒロインは、宮古島で上布を織る下地燿子。普段はポリエステルやナイロンなど化学繊維を扱う杉野が、或る上布と出会うところから物語が始まります。それは、燿子が織った宮古上布でした。

「麻を、こんなに細く紡ぐことができるの」
藍色と生成りの白と鴾(とき)色、そして淡々とけむるような緑色の縞柄である。それがぞれが、海と砂浜と浜昼顔の花とモクマオウの林を表しているのだ


また、杉野の昔の同僚で今は沖縄で織物工房をしている沖間学とその妻・八重。京都の老舗染料店の西合宗馬。複雑な人間関係の中でそれぞれの情熱的な恋愛模様が描かれていきます。

「いつも合繊の布地ばかり触ってて、それに指先が慣れているものだから、急にこういうものに触れると、女房以外の女の体みたいにどきっとしてしまう」

「私、愛してるって(中略)自分のことも何もかも、全部相手に渡しちゃって、せいせいすることじゃないかって思うんだけど。そう。多分死ぬときと同じ」

そして、最大の謎である燿子の母の形見、「赤い宮古上布」が登場します。私は最初、赤いのもあるんだ、なんて簡単に思ってしましましたが、これはあり得ないそうです。というのは、繊維を赤色に染めるためのアントシアンは酸性に保たれていないとすぐに変色してしまうそうです。(梅干しの赤は酸のおかげで安定しているのです)そして同じ色素をもつ植物でも様々な条件によって全く違う発色をするなど、このような染物の化学にまつわるうんちくも興味深いです。燿子の母はいかにして、この鮮やかで生きたハイビスカスそのもののような赤を宮古上布に染め上げたのでしょう。

はっきり言ってこの小説は、かなりオトナ向け!この物語を貫くキーワードは、ずばり「性」だと思います。作者の髙樹のぶ子さんの、性とはなんぞやということをとことんまで突き詰める描写は、官能的でありながら論理的でもあり引き込まれます。宮古上布から溢れる島のにおいに狂わされ、都会的でスマートだったはずの登場人物たち中の性が次々と暴れ出します。どういうことかって、それはぜひ読んでみてください。
性という言葉について真剣に考えていると、宮古島の「サニ」という言葉に思い当りました。サニとは、種の意味もあり、血筋というか持って生まれた(受け継がれたというニュアンスでしょうか)何かのことですよね。宮古島のパワーが人間のサニを剥き出しにしてしまうのでしょうか。だから、サザンスコールの中で二人はあんなことになってしまったのかしら!

この小説は1994年にNHK-BSで連続ドラマ化もされており、杉野は根津甚八、燿子は葉月里緒菜、他に山口達也や伊武雅刀、夏八木勲、由紀さおり、そして平良とみなど超豪華キャストで放映されたようです。機会があれば是非見てみたいですね!

宮古上布は今でも上布の中の一級品であり着物などは簡単に手に入れられるものではありません。しかし最近は、宮古上布を使った小物やバックなどもあるそうです。いつか宮古上布を手にしたいと思わずにいられません。その日まで宮古上布が継承され続けることを願っています。

【参考資料】
宮古織物事業協同組合
「サザンスコール」 テレビドラマデータベースサイト

[書籍データ]
サザンスコール(新潮文庫)
著者 :髙樹のぶ子
発売元 :新潮社
発売日 : 1994/11
ISBN :4101024154
※単行本は、日本経済新聞社より上下巻で出ています。  


Posted by atalas at 12:00Comments(0)島の本棚

2016年03月08日

第73回 「まかがよふ 真砂の浜は 寂寞と 時の器を みたしつつあり」



ここのところ勢いで続けている連想ゲーム石碑巡りは、未だカママ嶺から動けずにおります。次第にシリーズは連想ゲームから歌碑に主軸を移しつつあります(言い訳)。ともあれ、ペラっペラの薄学が紹介する歌碑シリーズに今しばらくおつきあいください。
ということで、今回はそんなカママ嶺の丘に建立されている、平良好児の歌碑のご紹介です。



まず、短歌の中身ですが、非常に難しいです。「寂寞」という漢字がすでに読めませんでした。どうやら「せきばく」とか「じゃくまく」という読み方をする熟語のようで(ただし、“じゃくまく”ではIMEの変換はされない)、意味はどちらも「ひっそりしていてさびしいさま」になります。どなたか、この歌碑に記された短歌を、美しく解説をしていただけないものでしょうか(甘え)。

さて、平良好児です。1911(明治44)年、平良に生まれます。本名は定英(ていえい)。17歳で沖縄師範学校に入学(1932年に退学)。戦後直後の1946(昭和21)年3月に「文化創造」を創刊。その後、宮古毎日新聞編集長や、南沖縄新聞(1960年創刊)社主を勤めるなどジャーナリストとして活躍。1973(昭和48)年に季刊「郷土文学」を創刊し、1996(平成8)年に亡くなるまでの23年間、休むことなく刊行し90号を数えた。
平良好児は宮古文学界の「種蒔く人」と呼ばれ、亡くなった翌年に、その名を冠した平良好児賞が制定され、宮古島関係の優れた文学活動をおこなっている人々を表彰している。

平良好児の名はとても有名なのですが、ネット上ではどういうわか「平良好児賞」の受賞者の話ばかりがヒットして、肝心の平良好児本人の話があまり出て来ません。でも、ある意味では平良好児の遺志継いで創設された賞だけに、彼の蒔いた種がたくさんの芽を吹いているということなのでしょう。


【参考資料】
「季刊『新沖縄文学(61号)』」 くまから・かまから vol.305
平良好児(郷土文学) 琉文21
平良好児賞 宮古毎日新聞主催事業

【トナリの石碑】
第2回 「ドイツ皇帝博愛記念碑 レプリカ」
第70回 「とうがにあやぐ 歌碑」
第71回 「しんしんと肺碧きまで海の旅」
第72回 「風に乗る ほかなし島の はぐれ鷹」  続きを読む


2016年03月04日

Vol.1 「しょうたつ(セイロンベンケイソウ)」 



【新連載】 「宮古島四季折々」
昨年10月にゲストライターとして金曜特集に登場し、「島の植物と暮らし~ススキ」を寄せてくれた、みゃーくふつメールマガジン「くまからかまから」を主催されている松谷初美さんが、今月から新連載(第一金曜日)の「宮古島四季折々」を担当していただけることとなりました。
「宮古島四季折々」では、南国宮古島にある《四季》をなにげない暮らしの中の風景を通して、宮古口を織り交ぜて優しく綴る、とっても素敵なものがたりです。


 ナフサ道をてくてくとおじいの実家(屋号を「すまっちゃー」と言う)まで10分ほど歩いて行く。
きょうは、ジュウルクニツ(十六日祭)。あの世のお正月だ。
すまっちゃーの北側にある、ぬー(野)に親戚が集まり、祝うのだ。
ぬーには、緑がいっぱいで、春の匂いがする。
ご馳走を詰めたお重、かびじん(紙のお金)、黒いお香、酒、水、洗い米など・・・・・・。
大人がジュウルクニツの準備をする間、子どもたちはそこら中かけ回っている。
ご馳走が食べられるのだ。うれしくて仕方がない。
「んにゃ てぃーゆ かみる(ほら、手を合わせて)」と、おじさんの声を合図に
皆、かがんでご先祖様に手を合わせる。
そして、みんなで座ってご馳走を食べる。さながら春のピクニック。
そのそばに「しょうたつ」は、茎をスクッと伸ばし、風に揺れていた。

 これは私が4歳か5歳の頃のジュウルクニツの風景。
ジュウルクニツの一番古い記憶として何十年たった今も、この季節になると思い出す。

 しょうたつは、和名をセイロンベンケイソウと言い、葉から芽がでることから、「ハカラメ」とも言われる。
また、マザーリーフ(たくさんの芽(子ども)を出すことから)という名前もあるようだ。
2月から4月頃まで、風船のようなガクをいっぱいつけているしょうたつが道端や畑の隅っこなどに見られる。
なんともかわいらしい。

 風船そのものが花かと思っていたら、その先に花が咲く。
花が咲かない前の、風船のようなガクを指でつまむと、ポンと音がして弾ける。
他のガクも次々とつまみ、ポンポンと鳴らす。子どもの頃は、これが楽しかった。
しょうたつを見つけるとすぐそれをやるので、花が咲くのを見たことがなかったのかもしれない。

 旧暦の一月十六日に祝うあの世のお正月。その年によって2月だったり、3月だったりする。
(2016年のジュウルクニツは2月23日だった)東京に住んでいた頃は、ジュウルクニツに帰省することはあまりなかったので、しょうたつを久しく見ていなかった。
10年くらい前に、久しぶりに見た時は、先のやらびぱだ(子どもの頃)のジュウルクニツの風景が一気に蘇った。
しょうたつとジュウルクニツは私の中でセットになって記憶されていたようだ。

 今年もしょうたつを2月上旬に見つけ、ジュウルクニツが間もなくやってくることを実感。
花瓶などにどーんと活けて家の中でも楽しんでいる。昔はしょうたつを活けるという発想はみじんもなかったけれど、今は、宮古の植物がとても愛(かな)す愛す。
とくにその時季その時季のものは、季節を教えてくれるだけでなく、自分の役割を知り、自分を生きるということも教えてくれているような気がする。

 暖冬と思っていた今年の冬は、突然、ぴしーぴしの(寒い)冬になったが、春はもうすぐそこまで来ている。  続きを読む


Posted by atalas at 12:00Comments(0)宮古島四季折々

2016年03月01日

第72回 「風に乗る ほかなし島の はぐれ鷹」



前回までの「んなま to んきゃーん」のあらすじ。友利集落から連想ゲーム風に、次々と石碑をたどって、カママ嶺の丘の上にある篠原鳳作の句碑までやって来ました。さすがに連想を重ねるにはちょっとネタが厳しくなってきましたが、鳳作の句碑を探訪した際に新たなつながりを発見しましたので、今回は“それ”を紹介してみたいと思います。

例によって、またもや句碑です。
鳳作の石碑のそばに、小ぶりの碑が建立されています。
碑に記されている俳句は、

「風に乗る ほかなし島の はぐれ鷹」

詠んだ方は平良雅景(たいらがけい)といいます。
碑の裏側に掲げられている説明板がこちら。
平良雅景(本名 平良賀計 俳人・医師)
平良西里出身 那覇天久在
医療法人天仁会天久台病院会長

一九二二(大正十一)年十二月十日生
一九七二(昭和四七)年「篠原鳳作句碑」建立
二〇〇三(平成十五)年 沖縄現代俳句協会長
               「沖縄忌」全国俳句大会実行委員長(二〇〇八年まで)
二〇〇五(平成十七)年 句集「はぐれ鷹」上梓
二〇〇六(平成十八)年 第十回平良好児賞

凧一点島一村の空拡げ
炎天の貨車に四肢張る売られ牛
春の旅妻と角砂糖沈め合う

二〇〇九年十一月二十日
平良雅景句碑建立実行委員会
もう、説明板の時点で出落ち気味ですが、続けます。
そうなのです。平良雅景は1972年に鳳作の句碑の建立に尽力した方だったのです。つまるところ、句碑建立を記した句碑という入れ子状態になっているのがちょっと面白くて取り上げたのでした。

雅景の句に対する評価や解説では、時に鳳作の教え子と書かれていることが多いのですが、鳳作が来島したのは1931(昭和6)年からの3年半であり、雅景は1922(大正11)年の生まれなので、鳳作の来島時は9歳ですから、まだ高校(旧制中学)には通うことはできません。
けれど、雅景のことを調べていたら、いままで知らなかった鳳作のことも一緒に見えて来ました(といっても大げさなものではなく、鳳作の研究者であれば知りえる程度のことですが、興味を持った素人にとっては驚嘆な情報でした)。

「篠原鳳作の周辺」(1981/昭和56年刊行)に、連作「ルンペン晩餐圖」について雅景が語る、鳳作の見た風景のエピソードがあります。
漲水御獄に住み着いているふたりのルンペンは、昼間から酒を呑み口論したり、酔いが醒めるとふらふらとどこかに消えてしまうといった、鳳作が知る世界では見たことのなかった人たちで、鳳作はビスケットやトマトなどをよく恵んでいたという。この人たちについて「犬捕り(野犬狩人)」と説明していますが、間違いなく宮古口で云うところの「インクルシャー」だと思われます。
文中とはいえ犬食文化が禁忌に含まれるようになった時代に、「インクルシャー」のことがリアルに表現されていて、とても興味をそそられました。

また、鳳作の下宿はこの漲水御獄の近所であったといいます(雅景少年は西里出身とのことなので、この地域に住んでいたのだろうか?)。この界隈といえば、トラウツ博士の日の丸旅館(現・ホテル共和本館)、ネフスキーの嘉手納旅館(現・ホテル共和新館)など、漲水港のそばという立地から宿屋が多い地域(今でもその名残をとどめたホテルや旅館が点在してる)で、下宿などもあったようです(手前味噌の話ですが、自分が宮古に住まう直前、ひと月ほど博愛記念碑の坂の下にある美島旅館の一室に住んでました)。

もうひとつ目を引いたのは鳳作の死因についてです。秀子との結婚を決めた鳳作は、宮古から故郷の鹿児島へと戻るも、わずか一年足らずで亡くなってしまいます。大方は心臓発作と記されていますが、どうも本当の死因は違うらしいというミステリーやサスペンスのような展開に、記事を読む速度が加速します。

亡くなる少し前から鳳作に訪れる死の予兆がありました。そこへいつくかのキーワードが踊るも、否定する妻・秀子。真実の死因は今もって謎ではあるけれど、非常に興味深く読ませていただきました。ここにそれを書いてしまうのは簡単だけど、それではリスペクトに劣るので、ご興味のある方はぜひとも記事をご一読されることを推奨します。

ルンペン晩餐圖 篠原鳳作句集 昭和一〇(一九三五)年四月
鳳作の死因の謎 篠原鳳作句集 昭和一〇(一九三五)年八月

話を雅景へと戻しましょう。1944年に台北帝大医学専門部を卒業し、慶応大学医学部神経科教室を経て、那覇に天久台病院を設立。雅景は医師として大きく飛躍します。
そんな雅景ですが、碑に記された句では、宮古から遠く那覇へと居を移した自分を、島に渡って来るサシバの姿になぞらえて「はぐれ鷹」と呼び、ふる里への愛着と孤独感を詠んでいます。
2009年に建立され句碑の除幕式に出席された雅景は86歳。写真を拝見する限りお元気なご様子でしたが、2013年6月に亡くなられている。と、思われます。歯切れが悪いのは、どんなにネットを駆使して検索をしても、亡くなっているという確定的な情報が出てこないからです。ただひとつ、沖縄県知事の知事交際費に香典代が計上されている例、ただひとつを除いて。
鳳作の死の謎になぞらえたような雰囲気を醸しているところが、どことなく雅景らしさを感じるのでこれ以上の詮索はしないでおこうと思います(それに、存命だったら大変失礼なので…)。

【参考資料】
「風に乗るほかなし島のはぐれ鷹」
カママ嶺公園で俳人平良雅景さんの句碑除幕 2009/11/21 新報
Blog鬼火~日々の迷走 タグ:篠原鳳作(やぶちゃん)
篠原鳳作全句集(pdf)

【トナリの石碑】
第2回 「ドイツ皇帝博愛記念碑 レプリカ」
第70回 「とうがにあやぐ 歌碑」
第71回 「しんしんと肺碧きまで海の旅」  続きを読む