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2019年01月29日

第218回 「(下地小)創立百周年碑」



先々週先週と、下地中学校の石碑を取り上げてきましたが、今週はその中学校の道向かいの宮古島市立下地小学校にある記念碑を取り上げ見たいと思います。学校系は校内にさまざまな系統の碑がたくさんあるので、石碑ハンターとして嬉しい半面、学内関係者だけで完結して碑も多く、味付けが微妙なのでなかなかに難しい面があったりします。

下地小学校に関しては、かつて第20回「下地小学校発祥之地」で取り上げていますので、校歴はそちらをご参照いただきたいのですが、抜粋しますと1886(明治19)年に与那覇午方里の地で開校し、1905(明治38)年に現在の洲鎌タケアラへと移転します。戦中は歩兵第三聯隊(第104回「歩兵第三聯隊戦没者慰霊碑」 本部は野原)が駐屯していました。計算上、今年で開校133年目となります。

【左 1945頃の空中写真(米軍撮影) 校舎の位置や向きが今とは異なっている】 【右 現在の“下小”校門前】

今回ご紹介する碑は、そんな下地小学校の創立百年の記念碑です。開校は1886年ですから、当然、建碑は1986(昭和61年11月13日建立)年となっています。
前述した「下地小学校発祥之地」の回に出て来る、今は台座しか残されていない「失われた二宮尊徳像」は、1936(昭和11)年の創立50周年式典で建立されたものです(顛末についてはコチラ)。

【かつて二宮尊徳像が乗っていた台座だけが、校庭の隅にぽつんと今は残っています】

現行の校門のすぐ目の前に、尖った白い謎っぽいオブジォェがあります。こちらは創立85周年を記念して建てられた「教育の塔」と云うもののようです。ただ、建立は1973年(昭和48年3月21日)年なので少しずれた87周年目になっています。
碑の背面に建立の情報が記されているのですが、どう云う訳か本体と同様に白く塗りつぶされています。文調が「下地町の将来の発展は~」とあるからでしょうか。この改変は少し謎ですが、碑についての重要な情報もいくつか記されてしました。
寄付者のトップに「東急開発グループ」とありました。与那覇前浜に建つ、東急リゾート宮古島ホテル(現・宮古島東急ホテル&リゾーツ)の開業は1984(昭和59)年ですから、すでにこの時点で東急がやってくることは決定事項的だったようです。
また、この塔のデザインですが、「設計者 琉大教授 宮城健盛」とありました。この方を検索してみると、琉球大学美術工芸科教授でありながら画家でもあったようです。
 沖縄県立博物館美術館 作家紹介 宮城健盛
 琉球文化アーカイブ 宮城健盛 ●みやぎ けんせい


【左 85周年の教育の塔】 【中 95周年の発祥の地(与那覇)】 【右 120周年の健児の意気】

これに続くのが、ここまで繰り返し何度も出てきている「下地小学校発祥之地」です。こちらの建立場所は校内ではありませんが、創立95年を記念して建立されています。
最新の周年記念碑は「教育の塔」の裏手にある「下地健児の意気」の碑。こちらは2006年に建立された創立120周年の碑です(2007年3月22日建立)。これまでの単なる記念碑ではなく、学内の各クラブが大きな大会などで出場したことを記念して、プレートを設置するスタイルの石碑です。これはアイデアにあふれた石碑になっています。現在は10枚のプレートがはめ込まれており、あと2枚でいっぱいになりそうに見えますが、実は裏側にも同様のスペースが残っているので当面は問題なさそうです。

オマケとして他の周年碑を紹介しましたが、ちょっとオマケの分量ではなかったですね。まあ、周年モノなのでいくつもあるのは仕方ないことです。とりわけ大きな区切りである100周年の碑へ戻りましょう。なにせ、いろいろな意味も含めてなかなか注目の碑なので。

【左 「たくましい子ども」?「たくましく明るい子ども」?】 【右 普陀山の観音菩薩は女神なのだろうか?】

それではまず、碑の全景を改めてよく見てください。特に「創立百周年」と書かれた上の碑文に注目です。
「平和の女神に 抱かれて やさしく たくましい 子ども」
とありますが、最後の2行。なんか変です。
「たくましい 子ども」ではなく、「たくましく 明るい子ども」となっていたものを書き直し、いえ、彫り直しています。どうやらやっちまったようです。
そして碑のセンタートップに君臨する謎の「普陀山」の文字と仏像(しかも、碑文では女神と詠っている。そして仏様なら性差もないはず)。調べてみると、普陀山は上海沖の舟山諸島に実在する山で、中国四大仏教名山として観音菩薩が祀られている霊場だそうな。なので、この仏像は観音菩薩らしい。ざっくりとした大和的な解釈だと、観音菩薩の浄土は補陀落(ふだらく)だから、熊野信仰とかでしょうか。建立者の趣味嗜好なのでしょうか、関連については謎です。

また、裏面には校歌の一番が記されています。
仰げば高し 野原岳 清き眺めの 与那覇湾
  つきせぬ流れの 崎田川 その名は高し 下地校
まるで「校歌ジェネレーター」で作ったかとみまがうほどに盛り込まれていて、ついつい唸ってしまいました(野原岳が歌詞にあるあたり、上野村分村以前に作られていることが良く判ります)。

まあ、それはもうそれとして。
ここからいよいよネタを入れてゆきます。

【「みやこ時評」1986年12月号 clickで拡大します】

かつて宮古島にあった伝説の古本屋「麻姑山書房」で入手した、月刊「みやこ時評」の1986(昭和61)年12号です。
いわゆるミニコミ誌で、政治経済から、島のうわさ話や釣りのネタまで、軟膏とりまぜたなんでもありの同人系といった感じ(煽り文句にも“宮古の総合情報誌”と書かれています)。
 (閉鎖)不思議で奇妙な森の中の本屋さん「麻姑山書房」【宮古島】
 宮古島から麻姑山書房がやってきた

ネタは表紙にも書かれていますが、『阪急 石嶺が故郷に碑を贈る』とある奴です。
この見出し、石碑ハンター(自称)としては黙っておれませんからね。
ちなみに、この阪急とは「阪急プレーブス」のことであり、石嶺とは「石嶺和彦」選手のことです。それだけではちょっと説明不足な気もするで、簡単にまとめておきます。

阪急は関西の私鉄(阪急電車)で、かつて西宮球場をホームグラウンドにして、プロ野球チームを経営していました。後のオリックスブルーウェーブ(現・オリックスバファローズ)となる球団です。当時は、近鉄バファローズ(オリックスと2004年に合併)、南海ホークス(現・福岡ソフトバンクホークス)とともに、関西の私鉄がパリーグに所属するプロ野球チームをそれぞれ所有していました(阪神タイガースも私鉄系ですが、セリーグ所属)。この頃の阪急は西本幸雄が鍛え上げたチームを上田利治監督が率いて、1975年から日本シリーズ3連覇(パリーグは4連覇)して黄金時代を築いた。ちなみにこの時、西本はライバル近鉄の監督に就任して、熱パをもりあげていました。

石嶺和彦選手(当時)は、豊見城高校(監督は栽弘義)で長打力のある捕手として活躍し甲子園にも出場します(1977~78年の春夏の4度出場)。そして1978年にドラフト2位で阪急に指名されて入団します。膝の怪我などもあって捕手としては思うようなプレーは出来ませんでしたが、打撃を買われて外野手へとコンバートされます。しかし、外野の選手層の厚さやチームの選手起用などもあって、指名代打(DH)となることも多かったようですが、最盛期の石嶺は当時の日本記録だった56試合連続出塁や、パリーグ史上5人目の6試合連続本塁打(タイ記録)などの記録を叩きだしています。

チームは1989年に阪急からオリックスへと身売りされることになりますが、ブーマーに藤井康雄、松永浩美に加え、南海から移籍した門田も加わった、破壊力のある打線から“ブルーサンダー打線”の一翼を石嶺も担います。
石嶺はその後、FA制度がスタートした1994年にFAを行使して阪神へ移籍しましたが、1996年に引退。解説者や日本や韓国のプロ野球のコーチをつとめました。2016年からは沖縄の社会人野球チーム「エナジック硬式野球部」の監督に就任しました。
 エナジック硬式野球部


【創立百周年の碑。裏面の校歌と奉建者の一覧】

と、まあ、そんな阪急の石嶺の名が刻まれた、下地小学校創立百周年記念式典で披露されました。
この碑はもともと那覇市でサンゴセンターを営む上地真吉が、寄贈を予定したそうなのですが、石の注文に台湾へ行った上地が、現地で王貞治の記録を破る活躍を知り、石嶺に打診して石碑を共同で贈ったということです。ここでもさりげなく台湾が登場しました。
よく見ると、「文字 黄明義 彫 連政輝」と台湾系の名前が刻まれています(もうひとり、寄贈者として列挙されている髙進益の名前もある)。もしかしてもしかして、表の記述を間違えた犯人は、この人たちでしょうか?。

尚、石嶺のプロフィールは那覇市出身と書かれていることがほとんどですが、当時の下地町川満は高千穂の生まれなのだそうです(本人も語っている)。ただ、就学前に那覇へ転居しているため、下地小には通っておらず、勿論、卒業もしていません。その上、記事によると、建碑された当時も下地小へは訪問すらしていません。
時は流れ、阪急がオリックスになり、1993年から宮古島での春季キャンプがスタート(高知と併用)しますが、石嶺は1994年に阪神にFAで移籍してしまうので、初年度しか宮古島へは来島していません。
 オリックスキャンプ便り⑧ 石嶺 和彦打撃コーチ(52) 宮古毎日2013年2月12日
また、2013年に森脇浩司がオリックス(バファローズ)の監督に就任した際に、一軍打撃コーチを担当しますが、チーム打率がリーグワーストを記録して一年で解任されてしまいます。そしてこの翌年、2014年を最後にオリックスの宮古島でのキャンプから撤退します(2軍は2015年までおこなったが、現在は宮崎に移転した)。
 オリ、宮古島キャンプから完全撤退 仰木監督、イチローら数々の思い出
なんかどうも、つくづく縁のないパターンなのですが、調べた限り、石嶺が下地小を訪れたという記録を探すことができませんでした。果たして石嶺はこの碑のことを覚えているのでしょうか。見たことがあるのでしょうか。訪れたことがあるのでしょうか。もし、詳しくいことを知っている方がいたら、ぜひとも教えてください。

今週末は2月1日。いよいよプロ野球のキャンプインです。島からオリックスが撤退して久しく、県内の球春到来を羨ましげに眺めることしかできない一抹の淋しさがあります。
 沖縄プロ野球キャンプ2019 沖縄県スポーツツーリズム  続きを読む



2019年01月25日

Vol.32 「葉タバコの苗植え始まる」



年末からすっきりしない天気が続いていたが、ここ数日太陽が顔を出すようになった。
日差しが降り注ぐことのうれしさと言ったら。サトウキビの穂も輝き美しい。

この時季、畑では、葉タバコの苗植えをしているのが見える。実家は葉タバコ農家で、これから忙しいシーズンを迎える。
葉タバコは1月から2月にかけて苗を植え、4月には収穫が始まり6月頃まで続く。
今でこそ、機械で、植えることから収穫までするが、以前は、すべて手作業だった。その苦労たるや・・・。

農作物は、その年の天候によって随分と収入が違ってくる。サトウキビは、台風には意外と強いが、干ばつには弱い。でも今は、スプリンクラーが設置されている畑が多く、干ばつによる被害は昔ほどではなくなった。
葉タバコは台風に弱い。
数年前には、5月に台風が上陸。半分以上の収穫を残し、全滅となった。
これまでの苦労が水の泡だ。

【畝を跨ぐように作られた、変わった形の専用の農機具で、苗植えや、花摘み、葉の収穫などをします】

農家は、その年の出来不出来によって大きく収入が変わる。
父は、「100万あれば100万の生活。10万円なら10万の生活をするさ」と言った。
「ういど 農業(それが農業)」だと。

農業の厳しさを幼い頃から見ていた兄弟は、誰も農業を継ごうとは言わなかった。
それがどういうわけか、一番継ぎそうになかった三番目の兄が父の後を継ぎ、葉タバコを続けている(人生、分からないものだ)。

【大きく育った煙草の葉】

今植えている苗は、3月には人の肩くらいまで伸び、ピンク色の花を咲かせ、4月には収穫が始まる。その間には、又芽摘みもあり、休む間もない。収穫した葉は乾燥させ、袋詰めにして保管。8月から9月頃に売買となる。
その一連の作業が今年も始まった。すべてが順調で、うまくいきますようにと願う。

宮古民謡に「豊年の唄」というのがあるが、作物が育ち、それらが揃い、豊作になりますように、実り豊かな世の中になりますようにと願う歌だ。年を取れば取るほど、この唄の意味が、思いが心に響くようになった。

【小さく可憐で美しい煙草の花】

今年も、いろいろな作物が豊作でありますように。

 くとぅすから ぱずみゃーしーよー サァサァ
 みるくゆーぬ なうらば ゆーや なうれ~
 ヨーイティーバ ヨーイダーキーヨー サァサァ
 するいど かぎさぬ ゆーや なうれ
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Posted by atalas at 12:00Comments(0)宮古島四季折々

2019年01月22日

第217回 「台灣之森」



えー、先週の「愛と和平」で大見得切って。「来週に続く!」っと書いてしまった手前、今週は“それ”をやる訳なのですが、まあ、すでにタイトルに掲げてしまっているあたりで語るに落ちてますから、括目もあったものではないと云えます。まあ、ご託を並べたとこで栓のないことなのでさっさと始めるとしましょうか。

ということで、「台灣之森」です。
先週も語っている通り、下地中学校の校門近くにある「台灣之森」と名付けられた園庭の銘を刻んだ石碑です。下地中学校は1999年から台湾の漢口國民中学と国際交流を続けており、2004年には姉妹校を締結、今年で交流20周年を迎えています。
そんな交流を記念して、このまだ若い植林の森とともに石碑は建立されています。
中琉文化経済協會 理事長 蔡雪泥 敬贈 二〇〇五年吉日
中琉文化経済協會とは、台湾と沖縄の文化経済交流を促進する民間団体です。
沖縄と台湾結び60年 台北市で盛大に祝賀会(琉球朝日放送 2018年3月7日)

これとは別に日本と国交がない台湾の対日窓口として、「台湾日本関係協会」と呼ばれている機関があります(大使館に相当するもの)。少し複雑な部分もあるので、あわせて紹介して見たいと思います(勉強しながら執筆してます)。
1972年12月に日本が中華人民共和国(大陸)が国交を結んだため、中華民国(台湾)と日本の国交が断絶したことを受け、民間交流を維持するたため、東京、大阪などに実務機関・亜東関係協会が設立されます。
一方、それよりも少し早く、米軍政権下の1958年に中華民国(台湾)と琉球(沖縄)との交流促進を目的に、「中琉文化経済協会」が発足します。その後、1972年5月に沖縄が返還されますが、前述の通り、日本には亜東関係協会が設置されますが、沖縄だけは「中琉文化経済協会駐琉球弁事処」を維持することになったそうです。
この時の理由がなかなか興味深いものでした。

「琉球」の名称を用いてきたのは、中華民国政府が、琉球王国が中国の明朝及び清朝に朝貢していたことなどを根拠に、沖縄が中国(中華民国)の主権に属する、もしくは日本の主権に属しない独立国、との立場をとってきたことが背景にある。

そのため、対日の拠点である亜東関係協会の出先機関(弁事処や分処)と異なり、駐琉球弁事処だけは亜東関係協会から独立した、外交部直轄組織として位置づけられていたそうです(そのため沖縄での領事業務は、亜東関係協会の分処ではなく、中琉文化経済協會駐琉球弁事処が担っていた)。
その後、2006年に亜東関係協会の外交部が、中琉文化経済協會駐琉球弁事処を、台北駐日経済文化代表処駐琉球弁事処に名称変更すると発表し、当時の駐琉球弁事処の陳桎宏代表は、外交部出先機関の存在をもって琉球(沖縄)の日本帰属を否定していないことを示していると説明。改称後は「琉球」の名称を使用しないことが決定され、2007年に現在の「台北駐日経済文化代表処那覇分処」へと正式に名称が変更され、中琉文化経済協會駐琉球弁事処が行っていた領事業務はます。この時、亜東関係協会へと移管されます。(弁事処は総領事館、分処は領事館のこと)。
そして亜東関係協会そのものも、2017年5月には名称を「台湾日本関係協会」へと改め、現在に至っています。
台北駐日経済文化代表処 駐日代表機関の紹介

こうした事象を考えると、やはり沖縄と台湾の関係性は距離的なものもあるのだろうけれど、昔からとても密接であったことは否めませんね。戦前は(1895年~1945年は日本の統治下にあった)、一番身近な大都会といったら、やはり台北だった訳だし、台北帝大(現在の国立台湾大学)などを卒業した沖縄の偉人なんかもゴロゴロいますからね。
あ、そうそう。先日、台湾の大学が宮古島に分校を設置と、ニュースになっていました。高校までしかない島としては、こうした取り組みは非常にチャンスなのではないかと思います。
【長栄大学分校準備室の銘板(城辺庁舎)】
宮古島分校開校へ覚書/台湾・長栄大学(宮古毎日新聞2018年9月15日)

長栄(エバーグリーン)大学関連で、オマケをひとつ。

長榮大學日本教育中心宮古島揭牌:人孔蓋意象紀念品設計理念報導

記事の全編が中国語なので、詳しいことは理解していませんが、長栄大学による宮古島分校の設置を記念して、デザインマンホールを作ったという話のようです。
ちなみに、図案にあるサシバですが、宮古島市の市鳥に指定されています。驚くなかれ、なんと台湾ではサシバは国鳥なのだそうです。これは一本取られました。ぜひ、記念にこの格好いいマンホールを、宮古島市のどっかに敷設してくれないでしょうか(出来たらマンホールカードにして欲しい)。

けれど、手放しで浮かれてもいられないようではあります。
こんな事例などもあるようですから。。。

沖縄から台湾へ、大学進学者が急増 なぜ?(沖縄タイムス 2018年5月29日)

話がそれてしまいましたが、話のスジを戻しつつ、もうひとネタだけ。
石碑を建立した、当時の中琉文化経済協會理事長の蔡雪泥(女性です)は、1950年代から70年代にかけて、日本に留学していた経歴があるようです。そして台湾の出身者では3名しかいない「ウチナー民間大使」にも就任しています
 
ウチナー民間大使(沖縄県) 大使一覧

お待たせしました。やっと石碑の話です。
碑の裏面に交流の話が書かれています。
本校は1999(平成11)年から台湾台中市立漢口國民中學と交流し2004年に同校と姉妹締結した。これを記念に中琉文化経済協会理事長(沖縄県第1号終身民間大使)の蔡雪泥が恒久的な友好親善を願い建立した。
下地町立下地中学校 校長 川上哲也 
平成17年4月吉日 

現物の画像がこちら(clickで拡大します)。
誰だよ、こんな石を選んだやつ!。石に縞々が入りすぎちゃって、めちゃくちゃ読み辛いんですけど!。

という。
こんなオチ。ちょっと強引だったかしら。。。

【20190122 改訂】  続きを読む



2019年01月18日

第9回 「下川凹天の盟友 山口豊専の巻 その1」



こんにちは。裏座から宮国です。

凹天の漫画人生が、病に苦しみ、最終的に長生きしたとはいえ、「晩年」に仏画に向かった理由があるとすれば、やはり人との出会いではないでしょうか?。鈴木大拙(すずき たいせつ)や岡本一平(おかもと いっぺい)とかの子(かのこ)夫妻との出会いなど、いくつか理由が考えられますが、私は山口豊専(やまぐち ほうせん)という人との出会いが大きかったように考えます。

調べていると、凹天と山口豊専はただの知り合い同士ではなかったように思います。切磋琢磨(せっさたくま)しつつも、互いに尊敬は忘れなかった間柄。凹天が、戦時期に“豊玉”、“豊明”と、豊専にちなんだペンネームをもらうくらいですから、心酔していたのは、凹天の方だったかもしれません。豊専のような漫文漫画を描きたい、そして豊専のような生き方をしたい、という気持ちがあったのではないでしょうか?。

題名の“盟友”とは「固く誓い合った友人。同志」という意味です。素人目から見ると、ふたりはまったく違う画風。
凹天はどちらかといえば技巧派で、角があると同時にパンチがあり、豊専は印象派。曲線が美しく、アシメントリーな自然さがあります。 

凹天の極彩色で人工的、前衛的、サイケデリックであろうとする前のめりの姿勢が作家の個性としてあったと思います。その個性が死ぬまで書き続けられた秘訣かもしれません。ですが、実は豊専も長生きでした。ふたりはどちらも頑固ジジイそうです。長命なのは、我がままに生きることなのかもしれませんね。

【山口豊専『終生一日 うき世の絵ばなし』(デモス出版、1979)】
かたや豊専のパステルタッチ、自分の内にある熱いコアの部分を静かに抱いて、貫こうとする強さが感じられます。凹天とは真反対と言ってもいいでしょう。世の中への、庶民の暮らしへの眼差しも画風ににじみ出ています。心に秘めていた激しさが、徐々に淡くなっていくような。また、豊専は白紙にいきなりなぐり描きしても筆に迷いがない自然な絵を描いたとも言われています。天才肌だったのかもしれません。

豊専は「漫画漫文」を最晩年まで描き続けました。晩年の画風はひと言でいうと「たおやか」。
凹天が、エッジの効いた都会的な風刺画から、地方に移り仏画へと至っても、どうしても描けなかったであろう「おだやかさ」にあふれています。

流れるような文章と人を見つめる眼差しの優しさ。豊専が88歳で出版した『終生一日 うき世の絵ばなし』(デモス出版、1979年)は、枕元に置いておきたい、ほっとする一冊。私の世代は昔話に似たノスタルジーを感じますが、昭和時代を成人として生きた人たちは実感が残っているんじゃないでしょうか。

凹天と豊専は「正反対だからこそ惹かれる」という好例でしょう。今回の一番座の話は、ふたりが尊敬し合っていた様子を垣間見ることができます。
 こんにちは。一番座より片岡慎泰です。

 今回から凹天門下の番頭格、山口豊専(やまぐち ほうせん)を取り上げたいと思います。
 山口豊専の本名は、専之介(せんのすけ)。1891年6月8日に、7人兄弟の惣領(そうりょう≒跡取り)として、千葉県研印旛郡白井(しろい)村白井(現・千葉県白井市白井で生まれました。生誕地は現在、和洋菓子店「さつまや」になっています。

有限会社さつまや公式HP Blog

 父親の名は山口房吉、母親はとし。生家は蝋燭屋。屋号は森(盛)右衛門。祖父の時代までは提灯屋でした。その頃の印旛郡白井村の様子は、豊専の絵と文章で生き生きと表現され、地方紙『千葉新報』や『かまがや民報』で、当時、人気のシリーズに。ちょうど、千葉ニュータウン計画(1966年~2014年)が始まった頃で、失われていくものに対する哀愁の念に満ち溢れ、ノスタルジックに描かれています。

 夕方の一番星探し、田螺採り、摘み草などの子ども遊び、里山、川、氏神様の杜(もり)、夜泣きのまじない、飴細工、飴細工、お囃子、長寿の松、馬、市など。子どもの頃から書画や文章を得意としていた豊専ですが、老いてなお、その目と腕は確かな記憶に支えられ、健筆を揮(ふる)っています。

 中には、今では死語になってしまった言葉も多く記されています。ここでは、その例をいくつか。

「しんこ細工は、ぬれ雑巾で、しっとりと白い餅をまるく包んであり、それを指先で摑み取り、たくみに馴れた手つきで色いろな子供の好きそうな物の形ができ上がる。それに色付きの餅を添えて目や耳ができたり、黒ぶちの犬猫ができたりする。一銭か二銭を握って子供はそのでき上がりを心楽しく見守って待っている。ヘンテツもない顔をしたこの細工爺さんは、お世辞も笑いも無いが、こうした風景は子供と細工物と爺さんとの三つのものが、いい雰囲気の中で何か通い合って一体の風物詩を醸し出している。こうして庶民の世界というものは、そのままの素朴さと自然という姿で明け暮れ、村や町に平穏さを漂わせていた」
【木村伊兵衛他『昭和 写真家が捉えた時代の一瞬』(クレヴィス、2013年)で、表紙になっている“しんこ細工”の様子】
 
「『五十集屋』と書いて、『いさばや』と読んだり言ったりしていたのを今の人は知るまい。また、そういう商売をしたところで、今の人は買いに行かないであろう。その〝いさば〟というのは乾燥した海産物がおもで、乾鱈、目ざし、数の子、鮭鱒干し鰊、昆布、ひじき、貝類、かつぶし、ゴマメ等々といった、すべて乾物もので、いつになっても腐る心配のない物を並べて、不自由な町や村にあったものだ。人寄せ事や、家になにかあった時など、このいさばやへ肴気の物を買いに行ったものである。大豆、そら豆、いんげん、小豆、そば粉などを置く店もあり、町に住み、村に住む者にとってはなくてはならぬ店であった。昔は数の子などは貧乏人の食うものであって、買い行くと桶の中から藁くずなど交じったり、ホコリが出そうにカラカラに乾いていて、一升マスで計ってくれた」

「村人とも余り話もせず、無口で、だんまり屋で、ただ黙々と生きているような変わり型の男、これをボクリョウ突きといっていた。天気さえよければ一年一日同じように弁当とイモ堀りとテラテラに光った細い鉄棒を入れた竹籠を背負って、きょうもまた、どこへ行くのか?。当人だけが知る目的の松山へとめざすのである。そうした山はかなり古い年月を経た地域のことで、この男の歩き回る山は一日に五里十里は珍しくない。まず、とがった鉄棒ををグスリグスリと地中に差し込んでコツン…と当たる物を探すのである。これをボクリョウという。これを掘り出して見ると、でこぼこでイモのような固い物である。ひと皮むけば色も香りもないただの白い固形物である。これをときほぐせば、かなりの量に殖(ふ)える白い粉末になる。山が当たれば籠も重くなるが、外(は)ずれれば一日から歩きとなる。こうなると、稼ぎの問題でゼニ子の問題である。だから当たった山はほかの人に感づかれたくない。うかうか同業者の耳に入ような口はすべりたくないという大事な秘密場所である。だから無口者、変人者、だんまりやで通す人がこんな仕事をしていた。バカでも無能者でもこれでいい金になっていた。この無色無臭、毒にも薬にもならないという白い粉は、いろいろな粉薬にまぜられていた。医者や薬屋から買って私たちのありがたい命の親となっていたのであった」
【東京両国 回向院
 山口専之介は数え14歳の時、小学校を卒業。最初は独学で絵を勉強していましたが、絵を学ぶために、父親の友人で、浅草の亀山豊橘(かめやま ほうきつ)という絵師のところで奉公。そこで、豊の字と本名の専之介の専とで、豊専の雅号をいただき、爾来(じらい≒それ以来)、最期までそれを名乗ってきました。肝心の絵の方は習わなかったという記録が残されています。亀山豊橘の墓碑は現在も両国の回向院(えこういん)に残されています。

 当時、日露戦争で日本中が沸き立っていた頃でした。この時期、宮古でも、中村十作(なかむら じゅうさく)や城間正安(ぐすくま せいあん)、の尽力で、ちょうど、266年間も続いた人頭税(にんとうぜい)が廃止されたばかりで、同じく沸き立っていました。

人頭税廃止100周年記念碑 宮古島市鏡原】

 話を元に戻しますが、山口豊専は3年間、亀山豊橘に奉公した後、埼玉県北葛飾郡栗橋町(現・久喜市)の中山愛山(なかやま あいざん)に住み込みで弟子入りし、ここで、本格的な南画、墨画を学び、中山愛山の息子がやっていた経師屋(きょうじゃ)も見よう見まねで覚えたとのこと。経師屋とは、掛軸の表装や和本の装丁、ふすま・障子の張替などを行う職のことです。

 1911年、徴兵検査年齢に達した山口豊専は、一旦、郷里に戻ります。結果は不合格。当時、満20歳になると、男子は抽選で3年間兵役に就くことになっていました。この検査時の悲喜こもごもの出来事は、多くの話となって、今でも伝えられています。

 有名どころでは、三島由紀夫(みしま ゆきお)の話があります。三島は、親のアドバイスに従って、本籍のある加古川で受けました。当時の田舎で育った者に比べれば、都会で軟弱な体格だったら不合格になるかもと算段があったとのこと。それどころか、私の学生時代の講義によれば、醤油を大量に飲んで、不合格を真剣に目指したと直接聞きました。結果は合格。しかし、人生や人の気持ちを推し量ることはできません。戦死した友人・知人に対しての気持ちが、最終的にトワウマとなって、マッチョな身体を作りあげ、市ヶ谷の事件につながったとおっしゃってました。他方、些細すぎる私事になりますが、私の父方の祖父は、耳が聴こえないふりをして、兵役から逃れたとのこと。しかし、それが当然ではないどころか、そのような類いの行為がわざということがばれると「国賊」扱いをされかねないことになる時代でもありました。

 翌1912年、『国民新聞』の文芸欄に山口豊専の文章が活字になります。それがきっかけで、白井のひと山越した「無造作に引っつめ髪を結った赤い唇のT子」という文学少女と恋が生まれます。「隣り村であるので、時々会うこともあり、野道の道祖神の石の雑木の森で何回も回を重ねた。人の通ることの少ない寂しい草道である。或る時はその石台に連絡の紙を折り畳んで時をしめし合わすこともあった」。しかし、役場勤めで厳格な父親の知るところとなり、「T子は敷居から一歩も出られない仕打ちを受けた」。

 慎重に言葉を選びながらこう記します。父親の怒りは「あんな貧乏な倅と」。その時、豊専は強がりで「俺は男だと言った」。「T子の友達から内証の便りを受けた。生なましい生き別れをして私は東京へ出た」。何度読んでも、言葉だけでは実情が分からないようになっています。豊専の身のうちには、他の誰かが読んでも理解できなくてもいい、それでも記しておきたいという気持ちが消え去ることがなかったのでしょう。米寿になった豊専は「六十余年も経った昔の道祖神の石に私は立って瞑想した」。

 山口豊専の人柄を伝える「ゼニ勘定と肩書きが大嫌い」という言葉の裏には、このような悲恋が大きく影響したのではないでしょうか。しかも、その姿勢を一生続けたところに、明治生まれの男の骨っぽさを感じます。豊専と出会った人びとが、彼の人柄を伝えるのに、まず第一に「ゼニ勘定と肩書きが大嫌い」という言葉を繰り返すのを読むと、そう感じざるを得ません。

【白井町の広報誌「広報 しろい」より」】

 悲恋をした後の行き先は、浅草区橋場町。そこで、筆一本で生きる決心をした豊専は、描いた絵が浅草花屋敷前の絵草紙屋などで取引されます。半折一枚が1円から5円で飛ぶように売買され、たちまち裕福な暮らしができるように。1913年には、『国民新聞』、『東京毎夕新聞』、『都新聞』、『讀賣新聞』などの各新聞社の文芸部に属し、風刺漫畫や随筆が連載されるようになります。
 
 裕福になった山口豊専は、当時高かった自転車を購入。当時の自転車の値段を挙げておきます。自転車文化センターに照会したところ、1910年には、50円~150円。国家公務員の月収は、55円。大卒の初任給は55円。高卒の初任給が12円ですから、いかに自転車の価値が高かったか分かります。豊専は、それで、白井から日光へ写生旅行に出かけたりします。その途中で、当時の国本村尋常小学校(現・宇都宮市立国本中央小学校)の宿直教師から「いい絵描きになれ」と励まされたというエピソードも。

【凹天のセンスの良さが炸裂する『凸凹人間』(新作社、1925)】
 1916年、山口豊専は千葉郡豊富(とよとみ)村(現・船橋市豊富町)で、石井弁蔵・かよの実子“よし”と結ばれます。“よし”は「当時義父母、弟たちの世話で誠に苦しいものでした」と、回顧しています。

 この年は、国産初めての商業アニメを制作した男として、下川凹天の名が後世に残った記念すべき年でもあります。と言っても現代からの視点であって、凹天も順風満帆だったわけでもなく、四苦八苦していたようです。「何しろ日本で始めての事であり、活動界の事情は少しも知らず、勿論方法も知らねば、機械も無い。全く自分の幼稚な馬鹿正直な、智慧一つでやってた」と『凸凹人間』(新作社、1925年)に記しているのですから。

  翌1917年、記録で遡(さかのぼ)れる限り、初めて(暮雪庵)豊専の雅号を用いた句が残されています。

  椎の実や神に揚げたる小豆飯 
  
  遠慮して門から外す頭巾かな

 これは、生まれ故郷の白井にある産土神社(うぶすなじんじゃ)である鳥見神社にある神木にまつわる句です。産土神社とは、熊野神社とか浅間神社、氷川神社のような大きな神社でなく、自分の生まれた土地に宿る神様を祀った神社のこと。生まれてから一生守護してくれる神様のことです。宮古で言えば、御嶽のような存在かもしれません。老いてから妻とともにずっと、生まれた土地で漫画漫文を描き続けた、山口豊専にふさわしいエピソードではないでしょうか。

 1918年3月30日、石井よしと入籍。同日、長男喜久治が生まれます。届出4月13日で入籍受付。現代の考えでは、順番がおかしいように思えますが、当時の男女の結婚は、子が産まれた時点で一緒に入籍というのは、よくありました。それどころか、かの「原始女性は太陽であった」というフレーズで有名な平塚らいてう(ひらつか らいちょう)が、親友の尾竹一枝(おたけ かずえ)が結核になり、南湖院に見舞いに行った際に知り合った奥村博史(おくむら ひろし)との間に生まれた子どもは、1912年に生まれたのですが、実際にその子を自分の籍に入れたのは、なんと30年近く経った1941年のことでした。そうです、南湖園とは、茅ヶ崎にあった「東洋一」の結核サナトリウムのことです。
※南湖園は、第8回「下川凹天の弟子 森比呂志の巻 その6」にも登場した、茅ケ崎市にある、国指定登録有形文化財「旧南湖院第一病舎」のこと。

 実際に、西田茂樹、木村正文著「わが国の1920年以前の婚姻・離婚・身分別出生・ 身分別死産の動向に関する一考察」(『民族衛生』、1992年58号)という論文では、人口動態のデータを分析して、上記のようなことがあったことを指摘してます。ここでは論者に失礼ですが、簡略化して紹介します。1910年代、20年代頃、事実婚の状態にありながら未入籍であった妻が、相当数存在したと推定される。この原因として、実際に結婚しても婚姻届を提出しないでおき、子ども、特に男児が生まれれば、子どもとともに妻を入籍し、子どもが生まれなければ、事実上の離婚といった結婚の方法が広まっていた。

 1920年頃から、漫画家として、東京でも山口豊専の名が知られるようになりました。凹天も、その頃名を知ったようです。1923年の関東大震災の際には、親子3人は神田区佐久間町(現・千代田区神田佐久間町)に転居していました。家族で、上野広小路から小石川(現・東京大学理学部付属植物園)方面に逃げて、間一髪難を逃れました。「八方から逃げまどう群衆と荷物と車、自転車など一寸のすき間もないくらいに、かたまり合い押し合いのまま坂をを上り切ると、向こうの本郷方面はすでに火の海で、電信柱が電信にぶら下がるようにして、根元から燃え上がっている。焼け落ちた町並の家がまだ燃え残りながら、赤い火がトロトロと道路の地面をこがしている。私たちは逃げるつもりでここまで来たが、見れば左方にも右方にも赤々と物を焼きつくして広がる火勢があり、熱い夜の空気を廃塵とくすぶる煙が渦巻いて、向こうの視界は地獄の果てのような火の明かりであった」。豊専の家は全焼し、妻よしの実家である八木ヵ谷にしばらく住むことになります。 

 さて、下川凹天と山口豊専とのつながりで、一番知られているのが「慧星(すいせい)会」です。この会は、下川凹天が始めたと巷間考えられています。しかし、事実は、山口豊専が1925年、南葛飾郡小松町下平井(現在の江戸川区平井)に住居を構えて、日本画を研究するために創設し、主宰したのです。

【大正時代末期に、近くの中川の奥戸橋で行われていた漁の様子。かなり自然環境が良さそうです。(「写真で見る葛飾」より)】

 そして、われらが凹天と同じ釜の飯を食ったのが、1926年『東京毎夕新聞』でした。「豊専老とのつながりはずいぶん古いもので、大正十五年、毎夕新聞(戦時中に廃刊)で日曜漫画ページをやるというので、私がその編集を頼まれた。私自身三十五・六歳だったので、執筆陣は二十代の若僧ばかりだった。その中に私と同年配で日本画家であり、俳人である男がいた。毎夕新聞には社長賞というものがあったが、この男が現れてからは社長賞はいつもこの男にとられてしまった。この男が豊専老の前身である」。

 ひとまず、一番座からは以上です。


再び、裏座から宮国です。

いかがでしたでしょうか。たかが百年前、されど百年前ですね。
今回は、豊専が生まれてから、凹天との出会いに至る時期でした。

ちなみに、宮古生まれの私にとって「日露戦争と宮古」と言えば、久松五勇士!。この話は昭和時代になってから、掘り起こされたいわゆる大日本帝國的な美談です。

当時、無敵と呼ばれたロシアのバルチック艦隊を宮古の一青年奥浜牛が発見し、駐在所に駆け込み、宮古は大騒ぎになりました。当時、通信施設が石垣島にしかなかったため、5人の青年がサバニで15時間170キロを漕ぎ、30キロの山道を歩いて石垣島の八重山郵便局へ。八重山から那覇を経由して、ロシアのバルチック艦隊のことは東京の大本営に伝えられました。実際には、その前に信濃丸が発見して、バルチック艦隊の情報はすでに大本営は知っていたのですが・・・。「遅かりし1時間」という言葉は、時間の真偽はともかく、今なお宮古で「久松五勇士」の話になると出てきます。宮古関係者なら一度はその「いそげいそげ やえやまへ ひさまつごゆぅううし おとこだぜ」というフレーズは聴いたことがあるのではないでしょうか?

しかし、五勇士ではなく、実は四人だったとか、昭和時代に入ってからの報奨式を嫌がっていたとかとあります。また、宮古の一青年奥浜牛ではなく、バルチック艦隊を見つけたのは、粟国島の一青年奥浜牛ということも判明しています(んなま to んきゃーん 第116回「久松五勇顕彰碑」)。 名物に美味いものなし、美談に裏話ありなのかもしれません。

宮古で久松五勇士が奔走していた頃、宮古生まれの凹天は身体を壊しながら、漫画を生業とした不安定な職種ながらも、中央でバリバリと仕事をしていました。そのなかで出会ったのが盟友・豊専。腕も人柄も凹天には、負けず劣らずといった個性だったように思います。

すこぶる健康で、千葉県から栃木の日光まで自転車で行くような元気な豊専。入退院を繰り返しながら、チャンスがあればどこまでもかじりついていく貪欲な凹天。アウトドア系豊専とインドア派凹天というイメージが勝手に浮かびます。出発点も画風も違うのですが「絵を描くこと」への情熱はひけをとらなかったと思われます。

仕事仲間と一言で言いますが、通信手段が限られていたこのような時代とSNSが発達した現代とは雲泥の差で、ふたりは極めて近しい存在だったのかもしれません。「慧星(すいせい)会」では、もちろんふたりが中心人物となりました。ふたりが日本画研究という新しい道を模索し始めたのは盟友の証拠だと思わずにはいられません。


【主な登場人物の簡単な経歴】

鈴木大拙(すずき たいせつ)1870年~1966年
仏教学者。金沢市生まれ。本名は鈴木貞太郎(すずき ていたろう)。第四高等学校(現・金沢大学)退学後、東京専門学校(現・早稲田大学)を経て、東京帝國大学選科で学ぶ。在学中に鎌倉円覚寺の今北洪庵、釈宗演の元でしばしば参禅した。1897年に釈宗演の紹介で、アメリカに留学。多くの著作を英語で書き、日本の禅文化、仏教文化を世界に知らしめた。1909年帰国。円覚寺で知り合った神智学徒のベアトリス・レインと1911年結婚。学習院大学に赴任し、柳宗悦や松方三郎に英語を教え、その後も交流する。1921年大谷大学教授として、京都に赴任。凹天とは、記録で遡れるだけでも、1934年に高尾山薬王院で禅問答をしている。晩年は、コロンビア大学に客員教授に赴任し、多くの大学で講義を行った。カール・グスタフ・ユングとも交流があった。1966年に、絞扼性腸閉塞のため東京築地聖路加病院で死去。

岡本一平(おかもと いっぺい)1886年~1948年
漫画家、作詞家。妻は小説家の岡本かの子。芸術家・岡本太郎の父親。東京美術学校西洋画科に進学。北海道函館区汐見町生まれ。卒業後、帝国劇場で舞台芸術の仕事に携わった後、夏目漱石の強い推薦で、1912年に朝日新聞社に入社。漫画記者となり、「漫画漫文」という独自のスタイルでヒット・メーカーになる。凹天の処女作『ポンチ肖像』(磯部甲陽堂、1916年)の序言を書く。その後、『一平全集』(全15巻・先進社)など大ベストセラーを世に送り出す。漫画家養成の私塾を主宰し、後進を育てた。疎開先の岐阜県美濃加茂市で脳内出血のため死去。

岡本かの子(おかもと かのこ)1889年~1939年
小説家、歌人、仏教研究者。現在の東京都港区生まれ。本名はカノ。実家の大貫家は、代々幕府や諸藩の御用達を務める大地主で、現在の川崎市高津区二子に本家があった。その別邸で生まれる。跡見女学校卒。避暑で出かけた追分の旅館油屋で岡本一平と知り合う。大恋愛の末、一平が東京美術学校(現・東京藝術大学)時代に卒業した1910年に結婚。1930年に芸術家太郎を生んだ。一平との奇妙な夫婦生活は、世間の知るところとなる。このあたりは瀬戸内晴美『かの子繚乱』に詳しい。かの子は、苦しみを親鸞の『嘆異抄』に求めた。代表作に『母子叙情』、『老婆抄』、『生々流転』がある。1939年脳溢血で倒れ、東京帝國大学附属病院小石川分院で死去。

亀山豊橘(かめやま ほうきつ)
浅草絵師。詳細不明。鋭意調査中。

中村十作(なかむら じゅうさく)1867年~1943年
実業家、社会運動家。越後国頸城郡成増村(現・上越市板倉区成増)生まれ。実家は代々庄屋を務めていた。東京法律専門学校中退後、真珠事業を始めるため、1982年宮古島に渡った。しかし、そこで、人頭税(にんとうぜい)に苦しむ農民を見かねて、これを見かねた中村は精糖業技師として同じく宮古島を訪れていた城間正安とともに、当時の沖縄県知事であった奈良原繁に人頭税の廃止を上訴。しかし士族らの激しい反発からなかなか要求が呑まれることはなかった。同年、中村と城間、農民代表の西里蒲、平良真牛とともに当時の内務大臣井上馨へと請願書を提出した。人頭税廃止の確約を得て一行が帰ると、農民は総出で漲水港に迎え鏡原馬場において盛大な祝宴と競馬(ヌーマピラス)やクイチャーなどを催し宿願達成の喜びを分ち合った。帰宮した中村十作達を称えるアヤーグまで作られた。その後、紆余曲折はあったが、議案は承認され、1903年ようやく人頭税制度は廃止となった。中村十作は、そのことを死ぬまで語らず、宮古島で真珠事業を営んでいた。胃がんのため、京都の自宅で死去。

城間正安(ぐすくま せいあん)1860年~1944年
製糖技師者、社会運動家、ゆた。琉球王国那覇久茂地(現・沖縄県那覇市久茂地)生まれ。1884年宮古島の製糖指導員に任命され同地に赴任したが、現地農民が過酷な人頭税に苦しむのを座視できず、中村十作と協力して、その撤廃に取り組んだ。城間と中村は農民代表の平良真牛(砂川間切保良村)、西里蒲(砂川間切福間村)とともに上京し、政府や帝国議会に直訴することにした。上京にかかる交通費は、中村が真珠採取の事業資金をはたいたり、城間・平良・西里が田畑を売って調達したりして捻出した。一行が出発する際の宮古島の漲水港には、彼らを送り出そうとする農民らと反対して阻止しようとする士族らが集まり、一触即発の状態に。4人は1893年、東京に着き、新聞社・知識人・帝国議会議員などを訪ね、予想以上の成果を挙げた。1893年の議会では取り上げられなかったが、2年後の1895年、第8回帝国議会にて彼らの請願が取り上げられて可決に至った。1899年には土地整理が着手され、1903年、ついに人頭税は廃止されることとなった。晩年はゆた(沖縄、奄美地方で占いを職業とする人)として暮らす。

中山愛山(なかやま あいざん)
南画家。詳細不明。鋭意調査中。

三島由紀夫(みしま ゆきお)1925年~1970年
小説家・劇作家・随筆家・評論家・政治活動家・皇国主義者。東京市四谷區永住町2番地(現・東京都新宿区四谷4丁目22番)において、父・平岡梓と母・倭文重の間の長男として誕生。本名は平岡公威。東京帝國大卒。1945年から、東京よりも危険な神奈川県高座郡大和(現・大和市)の海軍高座工廠に勤労動員された。公威は『和泉式部日記』、『上田秋成全集』、『古事記』などの古典、泉鏡花、イェーツなどを濫読した。卒業前から受けていた様々な種類の試験をクリアし、高等文官試験に合格した公威は、大蔵省に初登庁し、大蔵事務官に任官されて銀行局国民貯蓄課に勤務することになった。1949年、作家となってから初上演作の戯曲『火宅』が俳優座により初演され、従来のリアリズム演劇とは違う新しい劇として、神西清や岸田国士などの評論家から高い評価を受けた。三島にとっての「裏返しの自殺」であり、渾身の書き下ろし長編『仮面の告白』は同年に出版され、発売当初は反響が薄かったものの、神西清が高評した後、花田清輝に激賞されるなど文壇で大きな話題となった。年末にも読売新聞の1929年ベストスリーに選ばれ、作家としての三島の地位は不動のものに。その後、『金閣寺』、『鏡子の鏡』、『憂国』、『十日の菊』、『黒蜥蜴』、『午後の曳航』、『雨のなかの噴水』、『天人五衰』、『豊饒の海』などのヒット作を次々ととばす。海外での評価も高く、ノーベル文学賞候補にも数度なる。しかし、1970年、陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地内にある東部方面総監部総監室を森田必勝ら、楯の会会員4名とともに訪れ、面談中に突如、益田兼利総監を人質にして籠城。バルコニーから檄文を撒き、自衛隊の決起を促す演説をした直後に割腹自決した。

平塚らいてう(ひらつか らいちょう)1886年~1971年
思想家、評論家、作家、女性解放運動。東京市麹町区土手三番町(現・東京都千代田区五番町)に3人姉妹の末娘、平塚明(ひらつか はる)として生まれる。1905年(1906年に日本女子大学校を卒業。両忘庵で禅の修行をしながら、二松学舎(現・二松學舍大学)、女子英学塾(現・津田塾大学)で漢文や英語を学び、1907年にはさらに成美女子英語学校に通うようになった。成美女子英語学校でテキストとして使われたゲーテの『若きウェルテルの悩み』で初めて文学に触れ、文学に目覚める。東京帝大出の新任教師生田長江に師事し、生田と森田草平が主催する課外文学講座「閨秀文学会」に参加するようになった。生田の勧めで処女小説『愛の末日』を書き上げ、それを読んだ森田が才能を高く評価する手紙を明に送ったことがきっかけで、ふたりは恋仲になった。1908年に初めてのデートをするが、同年に塩原から日光に抜ける尾頭峠付近の山中で救助されるという塩原事件あるいは煤煙事件と呼ばれる事件を起こす。塩原事件を機に、性差別や男尊女卑の社会で抑圧された女性の自我の解放に興味が目覚めた。この頃、生田長江の強い誘いで、日本で最初の女性による女性のための文芸誌『青鞜』の製作に入った。『青鞜社』を立ち上げ、企画は明の同窓生や同年代の女性に拠り、明は主にプロデュースに回った。明は「元始女性は太陽であつた - 青鞜発刊に際して」という創刊の辞を書くことになり、その原稿を書き上げた際に、初めて「らいてう」という筆名を用いた。『青鞜』創刊号は、1911年に創刊され、男女で両極端な反響を巻き起こした。女性の読者からは手紙が殺到。時には平塚家に訪ねてくる読者もいたほどだったが、その一方、男性の読者あるいは新聞は冷たい視線で、青鞜社を揶揄する記事を書き、時には平塚家に石が投げ込まれるほどだった。1912年夏に茅ヶ崎で5歳年下の画家志望の青年奥村博史と出会い、青鞜社自体を巻き込んだ騒動ののちに事実婚(夫婦別姓)を始めている。1919年には、市川房江らとともに、「新日本人協会」を創設。戦後も、女性の地位の向上に努め、野上弥栄子らと「新日本婦人の会」などいくつか団体を立ち上げる。1970年に胆嚢・胆道癌を患い、東京都千駄ヶ谷の代々木病院に入院。らいてうは入院後も口述筆記で執筆を続けていたが、そこで逝去。

尾竹一枝(おたけ かずえ)1886年~1996年
画家、随筆家、女性運動家。富山市越前町出身。日本画家尾竹越堂の長女として生まれる。夕陽丘高等女学校卒業、1910年に女子美術学校日本画選科に入学するが中退。平塚らいてうに心酔し、『青鞜』創刊翌年の1912年に『青鞜社』に入社、ペンネームとして尾竹紅吉を名乗り、随筆や詩の執筆、また1周年記念号の表紙を担当するなど、積極的に活動する。しかし、らいてうとの同性愛関係や、バーでの飲酒(通称「五色の酒事件」)吉原遊廓の見学(通称「吉原登楼事件」)などがスキャンダルを呼び、「新しい女」の一人として批判され、すぐに『青鞜社』を退社する。同年4月、第12回巽画会展に初出品した『陶器』が三等賞を受賞、1913年第13回巽画会展に出品した『枇杷の実』が一等褒状を受ける。1914年富本憲吉と結婚。ふたりは1男2女を儲けるが、1945年には別居。戦後は書店を経営し、『暮しの手帖』に多くの童話を載せるなど、晩年まで執筆活動を続けた。肝臓がんのため死去。通夜や告別式には、平塚らいてう、中村汀女、神近市子などの花輪が寄せらた。追悼文も、中野重治、市川房枝など多くの人が書いている。童話は没後に『お母さんが読んで聞かせるお話』として『暮しの手帖社』から出版された。

奥村博史(おくむら ひろし)1889年~1964年
洋画家、金工家。藤沢市出身。日本水彩画研究所(現・日本水彩画会研究所)修了。主宰者大下没後、油絵に転じた。1914年婦人運動家の平塚明子(らいてう)と恋愛結婚し、話題となった。同年第1回二科展で「灰色の海」が入選。二科展に出品を続けた。そのころ成城に住んで成城学園で教える。武者小路実篤と知り会い「新しき村」の美術部に属したりもした。1933年富本憲吉の勧めで自作の指環を国画会展工芸部門に出品、受賞して国画会会員となった。世田谷区関東中央病院で急性骨髄白血病のため死去。

【2020/04/19 現在】  


Posted by atalas at 12:00Comments(0)Ecce HECO.(エッケヘコ)

2019年01月15日

第216回 「愛と和平」



新暦では松も取れてすっかり正月ムードは払拭されていますが、旧暦への依存が高い島は旧正月(2月5日)が終わるまでが正月です。いや、死者(グソー)の正月「十六日」(2月20日)が終わるまでが正月でした。それはともかく2019年の「んなま to んきゃーん」も今週から通常運行開始です(先週は予定になかった石SPをやったのでw)。
ということで、今回ご紹介する石碑は「愛と和平」です。ちょっとらしくないタイトルですが、正真正銘、これが石碑のタイトルなのです。

こちらの石像の載った石碑は、下地中学校にある「台灣之森」と名付けられた校門近くある園庭の中にあります。下地中学校といえば1999年から台湾の漢口國民中学と国際交流を続けており、今年で20周年を迎えています(2004年に姉妹校となる)。勘のいい方は台湾に関係した石碑だとお気づきでしょうが、石碑的な話としてもう少しだけ語らせて下さい。
 国際交流20年、節目祝う/下地中と漢口國民中 (宮古毎日2018年7月7日)
 風は南から~宮古島市立下地中学校日記~(カテゴリー:台湾国際交流)

宮古島と台湾といえば、一番センセーショナルな“事件”といえば、やはり1871(明治4)年におこった「宮古島島民遭害事件」ではないでしょうか。現在は日台(琉台?)でさまざまな研究が行われ、事件の双方に於いての歴史的経緯や、全貌の解明が進められていますが、そもそもは偶発的な事故が国策に利用され、その後の国際事情などが、複雑にからみあってより混沌とした事象へ登り詰め、呼称ひとつにしてもひと言で語るにはなかなか難しいものとなったことが始まりです。ここでは石碑の解説にたどり着く一歩として、まずがーと簡単なあらましを説明することからスタートしておきます。
1871年、宮古島から琉球王府へ年貢(人頭税)を納めた帰路、遭難して台湾東南海岸に漂着します(実際には宮古八重山船団の一隻)。台湾の山中をさまよった一行が不幸にも、台湾の原住民によって54名が殺害されたことが事件が発端となります。
その後、1874(明治7)年に明治政府は西郷従道(隆盛の弟)を将とした軍を台湾へ送って原住民を掃討します。これが明治政府初の海外派兵となる「征台の役」です。

ところが歴史と云う時間軸で改めて眺めて見ると、いわゆる“琉球処分”は1872(明治5)年の琉球藩の設置に始まって、1879(明治12)年に沖縄県が設置され琉球王府が日本へと併呑される流れのことを呼ぶわけですが、発端となる遭害事件が起こったのは“それ”よりも前であり、形骸化しているとはいえ、当時の宮古島はまだ琉球の版図にありました。台湾出兵の理由は“日本の国民を殺害した”という、明治政府の“方便”がそのまま国策に利用された形となっています。
もっとも、この時期、琉球にとっては王府の存続か揺らいでいる激動の時代であり、宮古島も1973(明治6)年にはあのロベルトソン号が宮国沖で難破した「ドイツ商船遭難事件」が発生するなど、あっちもこっちもそっちもどっだんばったん大騒ぎでの状態でした(参照:続・ロベルトソン号の秘密)。

この事件。日本側では「宮古島島民遭害事件」と「征台の役」(台湾出兵)とふたつの出来事として分けているに対し、台湾側は一連の事象として「牡丹舎事件」(八瑤灣事件)と呼んでおり、事件の複雑さを示しています。
尚、「宮古島島民遭害事件」では12名の生存者が帰還しており、本村朝亮(1876-1937 第6代平良村長。「報本」の本村朝祥の曾孫あたる人物)が、生存者を含めた被害者の職業や住所などを調べています(wikiに掲載あり)。

【左 台灣の屏東県車城郷統埔村にある“大日本琉球藩民五十四名墓”】 【右 那覇の護国寺にある臺灣遭害者之墓】

そんな折、牡丹社事件を研究されている福岡大学の宮岡真央子教授の講演が、宮古郷土史研究会によって催されました(2018年2月28日、博物館研修室)。専門的な難しい話も多かったのですが、「牡丹社事件の日台大和解」(2005年)を契機に、より歴史観の鏡面性に踏み込まれ研究が進むようになったということでした。この流れの一環に、下地中と漢口國民中関係性も一翼を担っていたのかもしれません。
 宮古島民54人犠牲/牡丹社事件 宮岡真央子さん(福岡大教授)が講演(宮古毎日2018年3月1日)

この講演の中で牡丹社事件(宮古島島民遭害事件/征台の役)に関する台湾側の石碑(記念碑)について、「大日本琉球藩民五十四名墓」を初め、「石門古戦場簡介」や「西郷都督遺跡紀念碑」など複数あり、記念公園なども造成されていると紹介さされました。一方、日本側の石碑も紹介されました。那覇市の護国寺に建立されている「臺灣遭害者之墓」(「ん to ん」未紹介)くらいしかなく、宮古島にはないものだと思っていたところ、なんと、宮古島にも関連する石碑が建立さいるという話が飛び出して、しこたま驚かされたのでした。
それが今回紹介する、下地中学校の「愛と和平」の石碑なのです。いやあ、ここまでたどり着くのがホント長かった。実に長かった。

ということで、改めて「愛と和平」です。
見ての通り、この石碑、というよりは台湾と宮古の新しい関係を象徴するモニュメントと云った方がふさわしいかもしれません。台湾と宮古、それぞれの民族衣装をまとった像が、肩を組みあってツヌジャラ(角皿~両端に棒状持ち手がついた杯の祭具。多良間のスツウプナカなどで使われ、ヤッカヤッカの囃子とともに御神酒を廻し呑む。余談だがこの時の呑み方がとこどなくオトーリの原型と個人的は考えている)が変形して連結したような杯で同時に呑んでいる像の台座に、今回のタイトルが刻まれています。
致 宮古島市 紀念

愛と和平

台灣 屏東縣
牡丹郷 郷長林傑西■(既に旦)全體郷民 敬贈
2007 12.06
この石碑を中心に、「台灣之森」と名付けられた園庭には、台灣に関連した石碑がいくつか建立され…されていません。すみません、よくよく見て見るとそばにある石碑は、「アジアkid大賞記念」という学校に対して贈られた賞を記念した石碑でした。
ただ、まったく関連がないわけではなく、一応、九州・山口エリアでのアジア諸国と国際親善交流をしている学校を表彰したものなので、下地中の台湾との交流が評価されたものと云えますが、台灣の「た」の字もそこには書かれていないので、関連性を捉えるのがちょっと難しいです。

【左 アジアkid大賞記念の碑】 【中 森の植樹者名の書かれた壺】 【右 張哲銘選手の足型】

森と呼ぶにはまだちょっと木々が小さいのですが、台湾関連はそんな木々の根元に置かれている甕にあるようでした。どうやらこの甕は植樹者の名前を表示したものらしいのですが、これを紹介しても意味が薄くなるで割愛しますが、そうした中にひとつだけ変わったものがあります。
2017年4月21日 来校12回記念台湾鐵人三項選手 張哲銘
と案内が書き込まれた足型です。
「鐵人三項」とはトライアスリートのことなので、全日本トライアスロン宮古島大会に参加した選手だということは想像できますが、来校12回記念ってどいう云うことなのだろうと思ったら、2017年の新聞記事を見つけました。
 トライアスロン選手と中学生が交流・友好深める(宮古新報 2017年4月22日)
なるほど。本当に12回も出場しているのですね。
と、思ったら、2018年の“13”回目の記事も。。。
 平良中、下地中で外国人選手と交流深める (宮古新報 2018年4月21日)

この他、台湾とは関係ありませんが、校内には創立35周年記念の「校歌の歌碑」、「立志」「心」「未来へ」など、ちょっと啓発系のような単語が刻まれた、卒業生と思われる方々から寄贈された石碑がいくつも建立されています。
そんな華やかな感じの石碑とは一線を画すものを、壁際で見つけてしまいました。


【上左 創立35周年記念「校歌の歌碑」】 【上右 「立志」寄贈:川満隆 字:池村めぐみ 校長:幸地忍】 【下左 「心」校長:幸地忍 職員一同】 【下右 「未来へ」校長:幸地忍 指導員:川満理恵 作詞:上地愛美】

石碑の碑銘はシンプルに「下地中学校」だけです。ひびがはいっていたりして、なんとなくちょっと古そうな感じがします。旧校舎時代とか、そーゆー銘板かと期待してチェックしてみると、下地中学校と書かれた下に、うっすらと「宮古島市立誕生記念」と書いてありました。下地町立から宮古島市立に変わったとこを記念して作られたものとということは、わずか14年前じゃないですか。こんなにも劣化しているなんてどーゆーことなのでょうね。

ああ、もう。完全に台湾からずれてしまいましたね。
どうしましょう。もうひとつ台湾関連の石碑があるのですが、紹介しそこねています。ということで、構成がめちゃくちゃですが、もうひとネタを加えて、来週へと続きます!。括目して待て!  続きを読む


2019年01月11日

[新春特番] ATALASネットワークpresents  新春放談2019


            謹んで新年のごあいさつを申し上げます
            本年もかわらぬご愛顧のほど     
                     お願い申し上げます


ATALASネットワーク
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改めて、新年のごあいさつを済ませたところで、今年もやります。
ATALASネットワーク新春恒例の「新春放談2019」。今年は無謀にも「歴史と文化と民生ITの融合」を目指す初夢チャレンジでのトークライブ(の収録)を実施しました。インフルエンザに罹って参加できなかった江戸之切子(「島の本棚」主幹)も、もしかしたら参加できたかも知れない画期的なシステムを考案したつもりでした。
東京と宮古島をSkypeで結び、Googleドキュメントの音声入力をドッキングさせ、パソコンにすべてを自動筆記させる。という発想までは非常に素晴らしいシステム化だったのですが、年明け前に、若干挫折。いや、完全に挫折・・・・2020年に乞うご期待!
ということで、こんなこともあろうかと準備しておいた、文明の利器たる「ボイスレコーダー」からの音声書き起こしで、今年のテキストライブはお届けします。過年の“万字堅め”には及ばないと思いますが、新年の初笑い(?)としてヲタのしみ下さい。
出演者
 【優】 宮国優子:ATALASネットワーク フロントマン&「Ecce HECO.(エッケヘコ)」裏座担当
 【片】 片岡慎泰:「Ecce HECO.(エッケヘコ)」一番座担当
 【ツ】 ツジトモキ:「続ロベルトソン号の秘密」ライター
 【モ】 モリヤダイスケ:「んなま to んきゃーん」ライター&ATALAS Blog編集室
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Posted by atalas at 12:00Comments(0)金曜特集 特別編

2019年01月08日

第215回 「新春 石物語-2019-」



あけましておめでとうございます。「んなま to んきゃーん」も気付けば5回目のお正月。まさかまさかの長期連載となっておりまして恐縮です。拙筆ながら、これまでに200を超える石碑をご紹介させて参りましたすが、2019年も変わることなく、一意専心にて島の石碑を巡る旅を邁進させてゆきたいと思います。とはいえオトナの自由研究と称して、ここのところ地味で地道な井戸にまつわる石碑ばかりをとりあげており、少しは読者様のことも考えろよっと云われかねい圧を感じ、無能な頭でひねり出したのが、今回のお正月特番「新春 石物語-2019-」です。なんとなくちょっと変わった石を紹介してみるというムボーな企画ではありますが、さてはて、どんなことになりますやら。。。

島にある石碑(石を使っているから石碑なんだけどね)の大半は琉球石灰岩(トラバーチン)です。御影石などが使われることはあまり多くありません。なぜなら宮古島は火山性の島ではないため、火山由来のそうした石材が産出しないからです。なので、稀に存在する黒御影などの石碑はすべて、外から持ち込まれたモノとなります。
尚、それ以外の素材を用いた石碑もありますが、そのほとんどはコンクリート製です。石碑の多くが、なんらかの築造や改築の記念碑であることから、工事で余った材料で手軽に建立することが出来る上、石工でなくとも碑文を刻むことが出来る点から使われているようです(それ故に、字の掘り込みが浅く、劣化して読むことが出来ないという弊害も時にある)。
もっとも、この「ん to ん」では金属のプレートから、青銅の銅像、アルミのオブジェ、果ては拓本(額装された紙)まで取り扱っているので、ここで定義している石碑はかなりいい加減で怪しいものです。
ということで、怪しさ次いでに今回の「石物語」は自然石に手を出してみました。といっても、いわくいわれのあるシロモノです。あ、でも、ここまで書いて気付いたのてすが、150回記念に特集した「霊石」はほぼ自然石を扱っていますね(野原のみ加工しているようですが)。あと、第59回「人頭税石」も自然石に区分されますね。なんだ、いっぱい掲載してるじゃないですか!。なら、なにも問題ありませんね(ニッコリ)。

さて、前置きが長くなりましたが、まず最初はビマル御獄の畏部(イビ)です。漢字では“美真瑠”と書くようですが、これは音をあてた当て字だと思われます。一番最初にこの御獄を知った時は、ビマルをビルマと勘違いして、なんでミャンマーの御獄?!ととっちらかったりもしました。ビマル御獄はその立地が少々変わっており、その造形にも注目してみたいと思います。
御獄の場所は西里添瓦口。平良市史の御獄編での所在は東与那武岳となっていますが、地図上の位置を詳細に検討すると、瓦口に位置するようです。もっとも、この瓦口は西中(東与那武岳)と西東と底原(御獄のある山を隔てて)の中間地点のようなところにあるという絶妙な御獄なのです。

圃場整備された畑の奥に残る山がビマル御獄の聖域です。木々が激しく生い茂った森の中の参道を進むと、左右にはゴツゴツとした岩々が転がっています。やがて岩の塊のような山肌が行く手をふさぎます。山そのものはそれど高いものではありませんが、険しい岩と生い茂った木々で見通しがきかず、その全貌を掴むことは難しそうです。
そんな岩山の麓に洞穴が開いており、参道はその中へと繋がっています(近年、金属製の手すりが整備された)。頭をぶつけないように、少ししゃがみ込むようにして洞穴の奥へと階段を下りると、香炉が置かれた小さな鍾乳洞の広間があります。その中央にビマル御獄の畏部(一枚目の画像)があります。
畏部はズバリ、洞穴の中で育った石筍です。琉球石灰岩が雨水によって石灰分が溶け出して、鐘乳化した天井から垂れる雫の一滴一滴によって生み出された石なので、ある意味では霊石に近い存在かもしれません。

慶世村恒任の「宮古史伝」(初版1927年 新版2008年)で美真瑠御獄は、子方母天太神が生んだ12方の神々のひとりとして、池間島の大主御獄、平良の阿津真間御獄、下地の赤崎御獄や赤名宮と並ぶ存在と書かれています。
また、稲村賢敷の「宮古島庶民史」(P135.1972年)によると、『神名不伝なるも御神体は高さ二尺ばかり、周囲五尺ほどの乳房形の石で民間信仰として御産の神として崇敬している。御神体のある所は広さ五、六坪の鍾乳洞で、御神体の上方には、それと同大の穿穴が峯の頂から御神体の上まで通っている。或いは御神体は大隕石であろうともいわれている』と紹介されています。
子方母天太十二神のひとつであったり、峯の頂まで穴が通っているとか、実は隕石かもしれないとか、なんともやたらとスピリチアル感高めです。そんな霊験もあってなのか、子宝の御獄として知られていますが、それって畏部の石筍がおっぱいみたいだからというだけなのでしょうね。

こうした子宝系の御獄はけっこう島内のあちこちにありますが、あまり知られていないところをもうひとつとりあげてみます。もちろん、そこにも石があります。
場所は宮原学区。東仲宗根添更竹になります。
更竹集落から西に広がる畑の中。未舗装の農道を奥へ奥へと進むと、小さな水路が農道と交差するあたり。この水路は北方にある土底井(第48回「土底村里井戸改修工事」)の脇を流れている小川の上流にあたるもので、水源は裏手の一段高くなっている更竹温泉の方から滲み出しています。
そんな辺鄙なとこにあるのが、アラマラ御嶽です。
御嶽名が示す通りニョッキリと屹立した岩で、まさしくアラなマラです。この御獄は平良市史御獄編にも掲載されていないほどのローカル御獄なので、祀られている神名についも不明で、近年ではめっきり参詣する人もいないようですが、その土地に根付いた信仰というものはとても興味深いものです。

【左 アラマラ御獄の目印となる、農道と水路が交差する処をアラマラの石から見た構図】
【右 土底集落の北端にあるタッチ御獄の祭壇。丸い陽石がすっぽりとはめ込まれた畏部】


蛇足として、北隣の土底にあるタッチ御獄の主神はティンヌマツガニですが、石を神体とした子宝神フッファナス神も祀られています。その石というのがは自然の立石の中央に穴が開いており、陽石が差し込まれています。この陽石についての伝承は伝わっておらず判ってはいません(平良市史御獄編)。

期待していた方、ごめんなさい。最後は残念ながら子宝ではありません。
海の神様であるルーグ(龍宮)御獄の祭祀にに関連した祭場、福里のツカサジーという石です。
場所は浦底(福北)漁港の隅にある、ルーグ御獄から続いている浜辺にあります。
ジーとは宮古口で石や岩のことで、ツカサの石ですから、まさに聖なる石といえます。
浜辺には石がふたつあり、ひとつは浜の汀線近くで祭壇となるような位置にあり、ほぼ常に露岩しています。ツカサジーはそこから少しだけ海の中にあって、干潮時にだけ石が露頭します。おそらくルーグ御獄で行われる「ルーグダスキ」の祭祀の時以外は、まったく気づかれることなく、ビーチにあるなんのへんてつもない石ぐらいにしか思われていないことでしょう。
尚、ルーグ御獄での祭祀のルーグダスキは、旧暦の3月に行われ、竜宮の神に豊饒、豊漁を祈願します。また、同時に(イン)サニツも行われるので、浜辺でにぎやかに酒宴を催すそうです(宮古島市史2巻「みやこの祭祀」祭祀編重点地域調査)。

【浦底漁港の隅にある、ルーグ(竜宮)御獄】

やや思い付き含みの今回のネタでしたが、「新春 石物語-2019-」いかがでしたでしょうか。結果的に畏部など拝む対象としての石ばかりになってしまいましたが、よくよく考えてみると、かなりの高確率で山の中にある御獄は、岩を背にした祭壇であったり、石そのものを拝んでいたりするところが数多くあります。集落に近い御獄でも石を畏部として鎮座させてあるところも多く、石をご神体として拝むことは常なのかもしれません。また、機会がありましたら、ちょっと風変わりな石を取りあげてみたいと思います。  続きを読む


2019年01月01日

謹賀新年‐2019年元日‐



あけましておめでとうございます。
本年もATALS Blogをご愛顧のお願い申し上げます。

新年は2019年1月8日(火)12時からの更新となります。

  


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