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2019年04月26日

金曜特集 「サトジュンの灯台お遍路旅3」



昨年、11月ぶりに帰ってきました、灯台マニア・サトジュンさん@お遍路派。満を持しての3回目の登板です。今回、サトジュンが語る灯台ネタは、本州の西のはずれ、山口県にある角島灯台です。海士ヶ瀬戸で隔てられた角島は、2000年に架橋され、CMなどにもとりあげられたことから、今では大人気のドライブコース。そんな角島にある素敵な灯台が今回の主役です。それではどーぞー!。

※     ※     ※     ※     ※

『サトジュンの灯台お遍路旅』 (角島灯台@山口県下関市)

こんにちは。
三度の飯より灯台大好きの“サトジュン”です。

灯台ファンで、自称・お遍路派(数多ある灯台をひたすらに巡礼し続ける趣味)として、西へ東へ南へ北へと、国内の灯台を訪ね歩いているだけの私が、灯台好きの勝手な観点から、今回は山口県の灯台・角島灯台をご紹介したいと思います。

本州の西端にあり、山口県のガイドブックでは必ずといっていいほど目にする、青い海に伸びる角島大橋でとっても有名な角島。
そしてそこにある第一等灯台が角島灯台です。

3度目になる今回の訪問は、大阪港からフェリーで瀬戸内を通り、福岡県北九州市の新門司港に午前6時頃に到着しました。
新門司港に上陸後、すぐにお隣の山口県へは向かわず、肩慣らしとばかりに、まずは150キロ南東にある大分県の関埼灯台へ立ち寄ってきました。
そこから230キロ、一気に北上して、山口県の角島へ向かうという超~強引な旅程だったりします(いつものこと)。

2018年7月に中国・四国地方を襲った集中豪雨は、九州北部にも影響を及ぼし、九州自動車道の一部区間が不通となっていたりと、少々時間がかかりながらも、15時頃には関門海峡を渡って山口県へ入ることが出来ました。 

【左 毘沙の鼻にいる、妖しい犬のオブシェ】 【右 たどり着けなかった特牛灯台の入口】

さらに角島へ向かって北上中。前々から行きたかった、本州最西端の「毘沙の鼻(びしゃのはな)」と、明治45年初点灯の「特牛(こっとい)灯台」の2か所にも寄り道します。

本州最西端は、人間のような歯をむき出しにした犬のオブジェに若干恐怖を感じたけれど、この場所を独り占め出来たことに大満足。
次に、特牛(こっとい)灯台。
予想通り、入り口がジャングルと化し、全力で私を拒否しているようだったので、ここはアッサリ諦めました。
今度来る時は冬にしよう。ヤブと化してる可能性のある灯台を訪れるには冬が一番良い。虫もいないし(笑)。

【角島大橋 2000年11月3日開通、全長 1,780メートル 山口県道276号角島神田線】

17時過ぎ、角島灯台へと到着。
既に参観は終了していたので、夕陽に照らされる灯台を眺めながら点灯を待つことにする。

角島灯台は、日本では珍しい男木島灯台(香川県)とここだけの、白く塗られていない無塗装の灯台なのです。
また、第一等レンズと呼ばれる大きなレンズを有した、日本に5基しかない第一等灯台の1基なのです。
灯台の外壁は、山口市秋穂産(と言われる)花崗岩(御影石)、内壁はレンガ造りの二重構造で、このレンガは三重県の菅島灯台のレンガと同じ瓦職人(竹内仙太郎)によって焼き上げられている。
嗚呼、なんて贅沢なんだろう。。。

【左 角島灯台 第一等レンズ】 【右 角島灯台と照射灯】

1876年3月1日初点灯。
R.H.ブラントン設計の日本での最後の仕事となった灯台。

R.H.ブラントンはスコットランド人で、1868年に来日。日本の「灯台の父」と呼ばれ、国内の26基の灯台の建設に関わりました。
建て替えられてしまったものもありますが、前述の菅島灯台も然り、当時のままの姿で19基程が現在も稼働中です(数、合ってるかな・・・)。
その中でも角島灯台はロケーションはもちろん、玻璃板(はりはん)というガラスサッシ部分と中のレンズとのバランス、立ち姿も上品で華やか、
全てが美しいのです。

【角島灯台の光芒 下の光は照射灯】

そして見どころはやはり陽が落ちてからの夜間の点灯。
今回初めて、この灯台の点灯を見ることが叶ったのだけれど、8面の第一等レンズから発する灯光は、想像していた以上に凄かった。 
頭上を次から次へと通り過ぎていく強い光芒に、ひたすら心奪われ圧倒される。
周りにいる鬱陶しいカップルどもなど気にならないくらい、ブラントンの末娘の美しい夜の立ち姿、彼女の放つ光芒にウットリなのです。

灯台の足元にある小屋は、クヅ瀬照射灯といい、沖の岩場を力強く真っ直ぐに照らしている。
この照射灯が照らしている岩場は、開国前、北前船が活躍していたころに海難事故が相次いだ場所だ、と近所のお年寄りが言っていた。 
岩場に近い浜には、ハマユウに囲まれた鳥居が岩場の方に向いて建てられていた。

【左 照射灯が照らす、沖合いにある岩礁、国石(くんぜ)】 【右 龍神社の鳥居。沖の岩礁を向かって建つ】

翌朝、参観開始の時刻に再び来灯。
灯台内部、螺旋階段の壁は板張りになってはいるが、窓部分を見ると壁がとても厚く、二重構造を納得させる。
螺旋の石階段のステップは、年月を感じさせるくらいの擦り減りが見えて、その天井は滑らかな石地の具合が美しい。
石の階段を昇り切ると、レンズのある灯室へ続く鉄製の階段が出てくる。
残念ながらレンズはさらに上にあり、アクリル板で遮られてハッキリと見ることは出来ない。(どこもそうだけど、このアクリル板どうにかならないかなぁ)
身長165cmの私で、灯室外のバルコニーからカメラの手を伸ばせばギリギリ何とか写真には納まる感じ。
灯台ファン視点なので、灯台からの眺めについては割愛。 参観灯台はどこも絶景が拝めること間違いないのだから(笑)。

【左 灯台の階段。すり減り具合が歴史を感じさせる】 【右 階段の天井。螺旋の造形美がたまりません】

そうそう、灯台下の資料館も忘れないで欲しいです。
灯台の退息所(官舎)を資料館として内部を展示。この灯台の出来るまでや、当時の外国人灯台長の生活の様子を紹介しています。
航海の安全だけを願い、トラックやクレーンなどの重機の無い時代に、この場所まで石を運び、灯台を建てた先人達の知恵と情熱と苦労。
灯台にはこうした人々の心と温もりを感じるから夢中になれるのだと思う。

次回は灯台近くのキャンプ場で、焚火をしながらビールを片手に、星空と灯台のコラボレーションを楽しんでみたいなぁ。

【左 灯室へと上がる階段】 【右 バルコニーから撮影した第一等レンズ】

ここから少々、脱線。角島から日本海側に沿って北東へ行くと、青い海をバックに赤い鳥居が並んだ、近年人気のスポット、「元乃隅稲成神社」もあり、北長門はドライブコースとしてはなかなに最高です。ちなみにこの神社がある半島の名前は、「向津具(むかつく)半島」といったりします。。。
ともあれ、灯台も、神社も、心を落ち着かせて訪れましょう。

【元乃隅稲成神社(もとのすみじんじゃ)】

それではまた、何処かの灯台でお逢いしましょう!

『参観灯台への心がまえ』
一、灯台内にトイレやエレベーターはなし。
  事前にきっちり用は済ませ、階段を登る体力を温存しておきましょう。
一、小銭で200円を用意しておくべし。
  参観灯台は200円の寄付で成り立っています。釣銭のいらぬよう努めましょう。
一、記念スタンプも楽しむべし。
  スタンプ蒐集家でなくとも、訪問の記念になるのでスタンプは押しましょう。
  最近は参観灯台用のスタンプ帳(150円)も置いてあります。


【サトジュンの灯台お遍路旅】
観音埼灯台@神奈川県横須賀市 
平安名埼灯台@沖縄県宮古島市  続きを読む


Posted by atalas at 12:00Comments(0)金曜特集 特別編

2019年04月23日

第230回 「腰原青年館」



先週の「新豊の井戸」の石碑を語りながら、なんとも妙な着地点になったことから、今回はその関連として「腰原青年館」の碑を取りあげたいと思います。とはいえ、今回の紹介するブツは本来、石碑ではありません。現状の形態は記念の碑のようにしつらえられていますので、石碑として扱ってみることにしました。

こちらの碑は平良下里の腰原コミュニティセンターの入口脇にあります。実のところ何度かここのコミセンは訪れているのですが、最近までまったくこれの存在に気づいていませんでした。腰原コミュニティーセンターは2011年6月の完成ですから、誠にお恥ずかし話です。

新聞の記事によると、
腰原コミュニティセンターは、国の戦後処理の一環として位置付けられた「旧日本軍飛行場用地補償事業」で建設。戦時中、腰原集落の土地一部が日本軍に強制接収されたことから、その補償として総事業費1億6000万円でコミュニティセンター、御嶽、井戸が整備された。
と、あります。
この時、整備された井戸は、コミセンからもう少し南に下った、降り井戸(ウリガー)の腰原井戸や、豊井戸を整備しています。
偶然ですが、当時、腰原の井戸を見に行っており、その時に撮影した様子がこちら。

【左 2011年5月撮影の腰原の井戸】 【右 2011年4月撮影の冨名腰の井戸(シーサー給油所裏)】

【右 中ヌ御獄。共和マンション裏の細道にあります】
この時、コミセンのことにも気づいていれば良かったのですがね・・・。
代わりといってはなんですが、同時期に隣の字の冨名腰も同様の降り井戸を整備していまして、当時の井戸を撮影していたので、こちらもしれっと紹介しておきます。
今はどちらも一定の時期を除き、ほぼ常にもしゃもしゃと茂っていますので、ここまでまるっとマルガリータなのはなかなかないかと思われます。

また、整備した御嶽については、特に言及されていませんが、恐らく集落の中央にありも祭祀でも一番重要な役割を担っていた、中ヌ御獄とみられます。現地は今、こんな感じです。
この立派なガジュマル(根しか写ってないけど)がもし折れていなかったら、どれだけ素敵なことだったことでしょう。残念でなりません。

と、ひとりごちていたら、なんと落成祝いの記事が出て来てしまった。
そちらによると、整備したのは中ヌ御嶽ではなく、下里家具(元・宮古製糖平良事務所)の裏にあるトゥーミ御嶽への道路を整備したとありました(確かに今はアスファルトの道路が作られている)。
 腰原公民館落成祝う─旧軍飛行場用地補償が完了(宮古新報 2011年6月11日)

現在、コミセンが建っている場所には、1950年12月26日に竣工した「腰原公民館」がありました。それが今回の碑の元です。コミセンの建設が決定したことから、2008年には休眠状態だった自治会組織が20年ぶりに活動が再開。また、旧・腰原公民館の取り壊しを前に、お別れ会を開いたという逸話も泣かせます。
宮古島にある公民館の中でも古い建物の一つ。 鉄筋はレールなどを使用し、 材料のバラスは住民が負担したという。 役員らは古くなった公民館を見ながら利用した当時を懐かしそうに振り返った
戦後、モノのない時代なので、鉄筋の代替えというイメージは判る話なのですが、レールというところがどうしても引っかかります。
大正期に導入され戦前、戦中あたりまで沖縄製糖下地工場に向かって、島内各地からキビを運搬するトロッコ用のレールが50キロ近く張り巡らされていました。戦争中にこのレールは資材や壕掘りの工具として使われました。また、戦後はトラックの普及が始まることから、島の鉄路は人知れず消えてしまったので、その廃材ではないかと思われるのですが、このタイミングでどの程度まで線路が残っていたのかという点も気になります。尚、レールと云っても今どきの電車が走るようなゴツイいものではなく、無動力(人力または馬曳き)でナローサイズのトロッコ用なので、細く短い簡易的なレールでした。

【沖縄製糖工場のそばに辛うじて残されていたレールと、レールを使ったフェンスの支柱】

記事中でも、しれっと「腰原公民館」と云い切ってしまっていますが、碑をよーくみると、「腰原青年館」と書かれています。かすれ過ぎているのではっきりと見えませんが、ローマ字の読みは「KOSIHARA SEINENKAN」と書いてあるようです。
よく耳にする“こしばる”ではなく、“こしはら”と呼んでいたのでしようか?。島ことば読みなら“くすばる”ではないかとも思うのですが、こちらもまた謎として気になります。どなたか詳しい方ご教示下さい。

上手くまとまらないので、最後は強引に数撃って当たれ方式で〆てみたいと思います。
こうした旧公民館、青年館は今やほどんど残っていません。軒並み建て替えられているか、取り壊されてしまっています。そんな希少な建物をいくつかご紹介しておきます。まずは、下里添の花切にある下南公民館の道向かいに、ほぼ廃墟ですが当時の面影が残る「青年会場」がひっそりと残っています(軍の駐屯歴があることから、おそらく島で唯一の戦前に建てられた公民館系の施設と考えられます。貴重な文化遺産として保存保護して欲しい)。
決して大きくな建物でありませんが、スラブヤーで飾り屋根がついたちょっと洒落た雰囲気が漂う、地盛の旧公民館。民間に払い下げられたのか、公民館の面影を残したまま扉や窓などがリニューアルされ、今も使われていたりします(屋根にしっかりとと痕跡が残っている)。

【左 戦前の公民館施設とみられる、下南の青年館】 【右 地盛の旧公民館の建物に残る痕跡】

また、戦後作りの“腰原公民館”のようなローマ字表記が残ったスタイルは、伊良部仲地の旧仲地公民館が現役としては唯一ではないでしょうか。もっとも、現在は公民館としての役目は終え、拝所として利用されています。

【もう、フォントが格好良すぎる仲地公民館】

あと、古そうなのは、払い下げ済みになっている上野野原にある、元ナベヤマ公民館や、宮国の旧大嶺公民館などが思い起こされました。新里の長立や東青原、上野の側嶺などは、公民館そのものが取り壊され、自治会活動が低下しているので、新たな公民館が作られないというスタイルも出てきており、古い公民館(旧施設)情報などもあればぜひぜひ教えてください。

【参考資料】
集落(スマ)を歩く】 腰原    (宮古新報 2012年)

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2019年04月20日

第12回「下川凹天の最後の取材者 山口旦訓の巻」



毎度おなじみ、宮国でございます。

凹天研究を始めて、はや何年でしょう。もう3年くらいでしょうか。最初に、小中学生でも分かる本を作ろう!と意気込んだのですが、研究を重ねるうちに、どんどん新情報が出てきて、今も追加しているような状況です。ですが、もうそろそろ紙モノか電子版か、どちらかを数ヶ月以内に売り出す予定です。なぜなら、NHKの朝ドラが始まったからです。きっと凹天が出てくるに違いありませんから。

さて、そんなこんなの手探りの中で、私たちはいろんな旅を重ねていますが、凹天に会ったことのある人物である山口旦訓さんにお会いできたのは、本当にうれしいひとときでした。2017年10月22日の「国産アニメーション100周年記念イベント 初期アニメーション作品上映&記念講演」に登壇された山口さんは、公演後、私達の質問に快く答えてくださいました。ほがらかで、素敵な紳士という印象でした。


*講演会当日は雨の日にもかかわらず、会場は熱気に包まれていました。

「最初の頃は、何もわからなくて。僕は若かったからねぇ」と謙遜されていて、自然な雰囲気と人柄の良さを感じました。詳しくは一番座で書かれていますが、山口氏はアニメーション史の金字塔として知られる『日本アニメーション映画史』(有文社、1977年)の共著者であり、当時の漫画家たちを訪ね歩いた人物です。
 こんにちは。一番座より片岡慎泰です。

 今回は、凹天が最後の日々を送った野田市の安楽邸(あらくてい)を取材した山口旦訓(やまぐち かつのり)を取り上げます。安楽邸とは、2番目の妻なみをの洋裁仲間だった桑田ことが、キッコーマンの第5代目社長(在任期間1958年~1962年)茂木房五郎五代目(もぎ ふさごろう)の妹だった縁で、凹天のために建てたアトリエ兼住居と、一般には紹介されています。

 山口旦訓は、日本のアニメーション映画の歴史を研究するために不可欠とされる『日本アニメーション映画史』(有文社、1977年)を渡辺泰(わたなべ やすし)とともに著しました。一昨年開催された川崎市市民ミュージアム常設展『国産アニメーション誕生100周年記念展示 にっぽんアニメーションことはじめ ~「動く漫画」のパイオニアたち~』(2017年9月2日~12月3日)に、何度か私は足を運びました。
 パイオニアとして名を連ねたのは、われらが凹天、幸内純一(こういち じゅんいち)、前川千帆(まえかわ せんぱん)、北山清太郎(きたやま せいたろう)です。日本アニメ映画のパイオニアに前川千帆が入っているのは、不思議に思う向きもいるかと。しかし、現在では、幸内純一が前川千帆と『なまくら刀』を制作したという記録に基づき、彼もパイオニアのひとりとして、名前を連ねるのが通説となってきました。

 川崎市市民ミュージアム常設展『国産アニメーション誕生100周年記念展示「にっぽんアニメーションことはじめ ~「動く漫画」のパイオニアたち~』で、記念講演「アニメーションを史を訪ねた男、100年を語る」をしたのが、山口旦訓です。裏座の宮国優子(みやぐに ゆうこ)、プロダクツの名手野口晶子(のぐち あきこ)と一緒に、私は勇んで出かけました。『日本アニメーション映画史』の刊行当時の話は非常に面白く、時にご自身の裏話をするなどユーモアたっぷりで、会場からは笑いも漏れることも。私が感謝のメールを送りますと、元気なお嬢さんがふたりいましたねとすぐに返信をいただきました。

 アニメーション専門家にとって周知の事実だったのでしょうが、『日本アニメーション映画史』には、山口且訓と記されています。ご本人の話によれば、当時は旦訓を「カツノリ」と読めないので、且訓と表記したとのこと。私事で恐縮ですが、私の名前も慎泰と書いてノリヤスですが、DMにはシンタイ、シンヤスなどと、未だにやってきます。私の亡父が何を思ってそう名付けたのか、今となっては聞いておけばよかったと悔やまれます。私の人生で、シンタイ、いいぇ、シンヤス、いいぇ、じゃぁノリヤスかな、と呼べたのは、ただひとりだけです。それが、なんと、私の修論の主指導。ところで、山口旦訓の記念講演以来、賀状をお送りすると、お返しの賀状をいただいていますので、ここで披露します。
 さて、『日本アニメーション映画史』の執筆動機は、この本の後書きにあります。「昭和三十六年夏。東京の近代美術館で日本のアニメーション映画特集をみた。これが縁で、私は、卒業論文のテーマを『日本アニメーション映画史』と決めた。決めたのはよいが、これという参考書はみつからなかった。このため、自分の足で調べあげることにした。早大の演劇博物館をはじめ、あちこちの図書館を回り、プロダクションを回り、老いたアニメーターたちをたずね歩いた。そして、なんとか全容をつかむことができたところで、翌春、卒論は書きあげた」。
 山口旦訓は、宝くじコレクターとして知られる山口繁樹(やまぐち しげき)の子として、1940年、この世に生を受けます。早稲田大学第一文学部を卒業し、『東京タイムズ』に勤務。その後、ジャーナリスト畑を渡ります。その一方で、父譲りの宝くじ研究者という側面も。『東京タイムズ』の学芸部記者として、宝くじの記事も書きます。その後、フリーになっても、宝くじの本を著したり、現在でもいくつかの週刊誌に、記事を書いています。そこでの名は「山ちゃん」。宝くじの記事を書くと、父が喜んでいたことを今でも鮮明に覚えているとのこと。
 
 今回はご存命の方なので、凹天晩年の貴重な記録として、山口旦訓が、凹天をインタビューした1973年1月5日付『デイリースポーツ』の記事を紹介します。凹天は、『デイリースポーツ』企画の「日本列島奇人・変人めぐり」のトップバッターとして登場。山口旦訓が用いたペンネームは井伊多朗でした。この当時、『デイリースポーツ』の知り合いの記者が、「日本列島奇人・変人めぐり」の企画をもって、該当する人物がいたら、紹介してほしいとのこと。すぐに山口旦訓は、かねてから知っていた凹天を思い出します。当時、『東京タイムズ』に勤めていたため、名前は出せません。そこで、ペンネームに井伊多朗、つまりイイダロウと。隣人に飯田という方がいたことがヒントになりました。ちなみに、この『デイリースポーツ』は、いつも大阪阪神タイガースを一面にもってくる例のスポーツ新聞ではなく、当時東京上野の池之端にあった『東京デイリースポーツ』。取材は1972年12月中旬。これが現段階で判明している限り、生前の凹天を取り上げた最後のメディア関係者の取材です。

ジャーナリスト山口旦訓が撮った「凹天最後の勇姿」
 野田市にある小高い丘の上に、住民から「安楽邸」と呼ばれる広大な邸宅がありました。これが野田醤油の5代目社長だった茂木房五郎の邸宅です。「樹木がしげる路地に沿い屋敷のヘイが百㍍にも及ぶ。角を曲がるとがっしりとした門。ここが奇人変人列伝のトップバッターとして登場する漫画家・下川凹天(ヘコテン)大先生の住み家だ」。書物などでは、凹天自身の離れ家だけを「安楽邸」と呼ぶことも多いのですが、実際には、野田醤油創業8族の内、茂木房五郎家の大邸宅そのものを「安楽(あらく)」と呼んでいたのです。

 「ところで間違えてくれては困るのだが、凹天先生がこの屋敷内に住んでいることは確かである。しかし凹天先生が家主ではない。家主だったら六畳と四畳半の離れに住んでいるはずがない。ここの主人は野田しょうゆの前社長・茂木房五郎氏だ」。

 ここで、野田の醤油の歴史をかいつまんで紹介します。野田に醤油業が発達したのには、まずもって立地条件が良かったことが、挙げられます。現在の千葉県野田市には、西側に利根川と東側に江戸川と大きな川があります。醤油を作るのには、大豆、小麦、食塩が必要です。大豆は現在の茨城県、小麦は、現在の群馬県や埼玉県、食塩は、江戸川の河口に近い現在の千葉県行徳市から。それを醤油にして、江戸川から江戸に運んでいました。前史は措くとして、1661年に、上花輪(かみはなわ)村(現・千葉県野田市上花輪)名主であった高梨兵左衛門(たかなし ひょうざえもん)が醤油醸造を開始し、翌年には、茂木佐平治(もぎ さへいじ)が味噌製造を開始。

上花輪歴史館HPより
http://kamihanawa.jp/


googlemapより
 その後、続々と醤油作りが始まりました、江戸の人口の増加と利根川水運の発達とともに野田の醤油醸造は拡大します。1871年には、高梨兵左衛門家と茂木佐平治家の醤油が「幕府御用醬油」の指定を受けて「野田醤油仲間」を結成しました。1800年代中頃には、高梨兵左衛門家と茂木佐平治家の醤油が「幕府御用醬油」の指定を受けます。

 1873年ウィーン万国博覧会が開催されると、茂木佐平治家が亀甲万印の醤油を出品し、名誉賞を受賞します。以降、博覧会や品評会などへの出品と受賞歴が重なっていきます。1887年には、「野田醤油醸造組合」が結成。この背後には、澁澤榮一(しぶさわ えいいち)がいました。そうです、凹天と山口豊専を語る上で欠かせない下田憲一郎(しもだ けんいちろう)を支えた、かの大実業家です。

 野田醤油と渋澤家は、その後も関係が続きます。1917年には、茂木一族と髙梨一族の8家合同による「野田醤油株式会社」が設立。「亀甲萬(キッコーマン)」のロゴは、茂木佐平治家が使用していたものに決まりました。このロゴは、香取神社の亀甲と「亀は萬年」をかけたとも。
キッコーマンHP「キッコーマン六角形マークについて」より
https://www.kikkoman.com/jp/quality/ip/topics3.html
 1922~28年には、「野田醤油事件」と呼ばれる大ストライキが起きます。最初は、小さな火種が大きくなっていきます。紆余曲折を経て、この時、このストライキを収めたのが、またもや澁澤榮一でした。
 その大ストライキの間にも、1927年、東京市場で商標をキッコーマンに統一。そして、1940年、全国で商標をキッコーマンに。
 
 その後、ここで作られていた「亀甲萬御用蔵醤油」は、1939年から宮内庁へ納め続けられている御用達品に。 御用蔵では、国産の丸大豆と小麦だけを使って、木桶で1年間じっくりと熟成させた天然醸造の醤油が造り続けられているものです。手作りに近い少量生産のこの醤油は、「御用蔵醤油」という名前で一部が限定で販売されてきた、いわば「醤油の大吟醸」。今ある「キッコーマン特選丸大豆しょうゆ」の原点とも言える醤油です。

 その後も、キッコーマンは商標を KIKKOMAN、kikkomanと変えながら、世界に広がるグローバル企業に成長。その裏には、澁澤家の後ろ盾のあったことが、記録に残されています。

渋沢社史データベース
https://shashi.shibusawa.or.jp/details_nenpyo.php?sid=1030&query=&class=&d=all&page=5
 さて、1936年、後に第6代目社長となる若き日の茂木啓三郎二代目(もぎ けいざぶろう)が教養部長の頃に、高尾山の夏期研修を開催しました。この背後には、キッコーマンの5代目社長の茂木房五郎の意向があったからもしれません。なぜなら、キッコーマンの5代目社長の茂木房五郎が、凹天ファンでした。この夏期研修には凹天も加わっていたことが記録に残っています。あるいは、妹の友人として出会った2番目の妻なみをとの関係から、すでに知り合っていたかもしれません。その微妙な人間模様は、このブログの第2回で述べました。

 話を晩年の凹天に戻します。凹天のアトリエ兼住居は、茂木房五郎の大邸宅の離れにある、6畳と4畳半でした。「早い話が凹天先生はこの居候である。が、そんじょそこいらの居候とは、ちとわけが違う。なにしろ先生の場合は、部屋代は無論タダ、そしておまけにお手伝いさんまで付いているのだから豪勢だ。部屋のすみにあるボタンを押すと『ハイ、先生、なにかご用でしょうか』と、お手伝いさんすぐに姿を見せる」。悠々自適な凹天の姿が浮かびます。

 「下川凹天といえば、知る人ぞ知る漫画界の大御所だ。明治二十五年生まれだというから、すでに八十余歳。とはいえ、もうろくどころか、少し耳が遠いのと足腰が弱くなった程度で元気なものだ」。

 戦前は、あらゆる漫画を中央紙上で発表して大活躍。時代の寵児であったが「終戦。世の中は混乱し体の調子を崩した凹天先生は、急に都会の生活がイヤになってしまい、野田市内へと引っ込んでしまった。それからは中央とのつながりをキッパリ切って、ひたすら仏教漫画にこりだした」。

 1954年1月28日付『讀賣新聞』夕刊に、「仏画をひっさげて十年ぶりに登場 あす個展、奮起の下川凹天氏」のリードとともに、このあたりの事情をこう記しています。「”男やもめの凹天”にはじつは恋愛結婚した恋女房があった。そんなたま子夫人がある日突然家出した。厳さんの人気が最高潮に達したころから夫人の行動がおかしくなり、医者に見せたところ精神分裂病だという。病院に入れたり、精神医にみせたり手当をつくしたがさっぱり快方に向かわず、戦争がひろがって防空演習がはじまりかけたある日、突然姿を消したまゝ今もってゆくえ不明という。この夫人の家出が気になって凹天氏はあれほど人気のあった漫画の筆を一切折った。それからもんもんと心の遍歴をつゞけること十数年、ようやくたどりついたのが仏画の世界だというのである。終戦後は千葉県野田市清水公園のわびずまいにこもり貧苦とたたかいながら仏画をかきつゞけようやくこんどの個展を開くまでにこぎつけた」とあります。しかし実際には、このブログの第2回で述べたとおり、一番目の妻たま子が亡くなると、すぐに二番目の妻なみをと結婚しています。なにより、凹天は「漫画の筆を一切折った」どころか、「日本漫畫報公曾」に属して国策に協力。宮城県の疎開先から戻っても、1946年に『日曜漫画新聞』を創刊したり、1947年には、三越のポスターを描いているのですから。この時期の凹天に関しては、改めて深掘りする必要があると感じます。

 「三十八年に奥さんが病没。子供のいない凹天先生はひとりぼっちになってしまった。そのときである。茂木氏から、『なにも心配しなくていいから、うちでのんびり暮らせ』といわれた。以来、今日まで”のんびり”が続いている」。

 「凹天先生いわく。『わしは食客じゃ。しかも高等食客だな。ワッハハ』先生は、居候とはいわなかった。居候と食客とでは言葉のニュアンスが違う。芸術家である凹天先生は茂木氏を評して『文化人』を大切にしてくれるありがたい人だ』という。そして自らはその庇護のもとにある食客だと思う。だから凹天先生は威風堂々としているのだ」。

 日課の記録も残されています。机の上に一片の紙切れを貼り、食べ物の目標は「朝=コーヒー、ポテト、ホウレン草、酵素十粒。昼=玄米、野菜食、運動一時間。夜=玄米、海草食」。もっとも、山口旦訓が、実行しているかと尋ねると、「目標だからな。なるべく実行しとるよ」とのこと。また、毎日欠かさないものは、「タバコとコーヒー。それに新聞とテレビのニュース」。山口旦訓が凹天と話し込むと「アメリカの大統領選からベトナム戦争まで、現代サラリーマン気質からヒッピーまでと、キリがない」。

 漫画界のことも忘れずにいます。「安楽亭食客はえらくごきげんである。去年は曲がり角にきた日本の漫画界の方向を探るため、門下生と新しい運動を起こすという。『なぜ、漫画はいつまでたっても娯楽の域から出られないのか。漫画を芸術の一つにするにはどうしたらいいのかを考え、実践に移すんだよ』」。ここからは、山口豊専(やまぐち ほうせん)とやっていた「慧星会」や「野田漫画クラブ」を思い起こさせます。

 「安楽亭食客はいまや野田市の名士である。この名士をたずねて、ときおり東京から若い漫画家志望者が訪れるそうだ。『どういう風の吹き回しかねぇ』ツエをついて散歩する凹天先生の足元はおぼつかないが、意気は盛ん」。


野田市郷土博物館館蔵資料データベースより 
https://jmapps.ne.jp/ndskdhk/sakka_det.html?list_count=10&person_id=10
 身体は弱って調子を整えようとするものの、気分だけは、まるで「慧星会」での荒行の総指揮者だった頃を思い出させるような姿が目に浮かびます。

 最後に、凹天自ら記した言葉を引用しておきます。「一人物で病弱なので野田キッコーマン前社長の邸内に引取られ高等食客をやっているので喰べるには困らくなった。過日は教え子の石川進介君、山口豊専君が得意の似顔と女の帯絵で同邸を訪問、家族親類を喜ばせたので、この高等食客も鼻高々であった。次はこの春の富士山療養センターに私が滞在中、両君が見舞いに来て、看者達に奉仕したので私は特別扱い、先方で出資して私にサービス五湖めぐりやらカニ料理など御馳走するありさま、次は群馬県の女流書家から、この人は、八十才であるが読売時代の『男やもめの巌さん』のファンで、四五日泊りで招待を受けている。また両君は遊びがてら奉仕してくれることになっている」。

 「若い時分、日本画の全盛で、漫画を何度やめようかと思ったかしれなかった。亡妻が『私はマンガ家の処へ嫁に来たのです。日本画になるなら別れます。』と、言われたことさえあった。これは先妻のことだが、二度目の妻は漫画家の家へ嫁入りすることを秘密にしてきたのだ。それはみんなにけいべつされるからであった。
 それがどうです。名誉会員で世間的の地位ができ、なんにもならないと思った教え子からは肉親の親子以上の世話になり、一生貧乏とあきらめていたのに、縁もゆかりもない人から生活を保証され、漫画の暴騰で自分がビックリする程の市価が自分の作品に付いてしまった。
 長生きしたというお蔭もあるが、根本的には自分な好きな仕事を摑んだら金儲けや環境に左右されないでやり通すことだと思う。そうすると、教え子も、金持ちも、幸運も、先方からやってくる。私はこの年になってやっとそれが判ってきたのです。私はその喜びでまごまごしています」。

 山口旦訓は、凹天晩年に関するエビデンスを取りに、安楽邸に自分の足を運んで調べました。このジャーナリスティックな姿勢は、見事だと感じます。

 一番座からは、以上です。
再び、裏座から宮国です。先にも書きましたが、凹天研究を進めていくうちに、東京と宮古島の近代史をひもといてみると、面白いことに気づくことが多くなりました。まるで無関係だと思われた事柄がひとつひとつつながっていくのです。

私が住んでいるのは、大岡山というところで、田園調布は電車で3分。凹天のお墓のある不動前は7分、東急電鉄のお膝元のようなところです。その前身となる「田園都市株式会社」の創設者のひとりは、渋澤栄一なのです。

そして、東急といえば、宮古では東急リゾート。1984年の4月20日にオープンした宮古島東急リゾートは、当初151室だったようです。島外の大規模ホテルとして先陣を切ったとも言えます。そして、この年は、観光客数が10万人超えした年でもあります。去年には100万人を超えた宮古島。観光客数が10分の1だったのです。雰囲気は、私が編著した『読めば宮古!?』(ボーダーインク、2002年)に描かれています。意外と閑散とした孤島の雰囲気を漂わせていました。現在、宮古のレンタカー事業所は、66業者、2305台です。1988年は7業者82台だったのですから、推して知るべしです。

東急リゾートがある前浜から臨む夕景、海、来間島。

島民の私は、東急リゾートに宿泊する機会はついぞやありませんでした。ですが、変わった思い出があります。1988年の夏、ファッションショーのお手伝いをしたのです。モデルさんの洋服を着替えさせるサポートで、友人の母からの紹介で、友人4人と夜の東急ホテルにすがりて(おしゃれして)働いたのです。私たちははじめてモデルさんを見て、感動に打ち震えていました。それは、当時の宮古の高級ブティックの主催でした。

今は、なんとなくありそうな感じがしますが、その頃はなにせ観光客が今の10%ですから、高校生だった私には目もくらむような東京の香りがしました。ちなみに、1987年の7月4日にNHK-BS1が24時間放送開始しました。そこには、表参道の風景と音楽がただただダラダラ流れるという番組があって、高校生だった私たちは受験勉強もせず、TVの向こうの幻想かもしれない東京に憧れたものでした。


旧所名跡であるドゥオーモのそばにある路地。歩く人はみな美しかったです。

ちなみに、先日、仕事でミラノコレクションに行ってきました。30年たつと、宮古島の東急リゾートファッションショーからミラコレにいけるんだ・・・と感慨深いのです。ちなみに、そのお仕事をくれた会社はがある奥沢は2分です。現在の自宅から歩くと30分くらいでしょうか。あの東急リゾートと同じくらいの距離なのが何か不思議な感じがします。

人はどこに行っても、同じようなことしかしないのかもしれません。われらが凹天の老後は、かつて宮古島に住んでいた按司(あじ)、そして、凹天自ら書いていた「令息」という言葉をどこか思い起こさせます。

【主な登場人物の簡単な略歴】

茂木房五郎五代目(もぎ ふさごろう)1894年~1973年
実業家。千葉県東葛飾郡野田町(現・千葉県野田市)出身。茂木房五郎四代目の長男。本名は三千蔵。慶應義塾大学卒。1926年、家督を相続し、三千蔵を改め房五郎を襲名。銀行会社の重役であった。1958年、キッコーマン社長となる。晩年の凹天を「食客」として邸宅の離れに住まわせる。老衰のため、キッコーマン附属病院(現・キッコーマン総合病院)で死去。

渡辺泰(わたなべ やすし)1934年~
1934年、大阪市生まれ。高校1年生の時、学校の団体鑑賞でロードショーのディズニー長編アニメーション『白雪姫』を見て感動。以来、世界のアニメーションの研究を開始。高校卒業後、毎日新聞大阪本社で36年間、写植に従事。山口旦訓、プラネット映画資料図書館、フィルムコレクターの杉本五郎の協力を得て、『日本アニメーション映画史』(有文社、1977年)を上梓。この初版の貴重なアニメーション年表資料では、山口旦訓を名をはずすなど権威主義的な側面もある。ついで89年『劇場アニメ70年史』(共著、アニメージュ編集部編、徳間書店)を出版。以降、非常勤で大学アニメーション学部の「アニメーション概論」で世界のアニメーションの歴史を教える。98年3月から竹内オサム氏編集の『ビランジ』で「戦後劇場アニメ公開史」連載。また2010年3月より文生書院刊の「『キネマ旬報』昭和前期 復刻版」の総目次集に「日本で上映された外国アニメの歴史」連載。2014年、第18回文化庁メディア芸術祭功労章受章。特にディズニーを中心としたアニメーションの歴史を研究課題とする。

幸内純一(こううち じゅんいち)1886年~1970年
漫画家。アニメーション演出家。岡山県生まれ。凹天、北山清太郎とならぶ「日本初のアニメーション作家」のひとり。最初は画家を目指しており、太平洋画会の研究所で学ぶ。そこで、水彩画家の三宅克己から学び、紹介で漫画雑誌『東京パック』(第一次)の同人となり、北澤楽天の門下生として政治漫画を描くようになる。アニメーション『塙凹内名刀之巻(なまくら刀)』を製作。二足のわらじの時代をへて、最終的には政治漫画家として多数の作品を残した。凹天の処女作『ポンチ肖像』に岡本一平とともに前書きを書く。老衰のため、自宅で死去。

前川千汎(まえかわ せんばん)1889年~1960年
版画家、漫画家。京都市で生まれ。本名は重三郎。父親の石田清七が4歳の時に、亡くなると、母方の前川姓を名乗る。関西美術院『讀賣新聞』で浅井忠、鹿子木孟郎に洋画を学ぶ。その後、上京して東京パック社に勤め、1918年には新聞社に入り、漫画を専門に描き、次第に漫画家として認められる。その傍ら、木版画を製作、1919年には第1回日本創作版画協会展に「病める猫」を出品している。その画風は飄逸な持ち味を持ち、生活的な風景画など個性的なものであった。川崎市市民ミュージアムでは、1917年の常設展で、凹天、幸内純一とともにポスターに、似顔絵が載った。日展や帝展にも作品を出品しており、「日本版画協会」創立時の会員で、同協会の相談役も務めた。1960年、幽門狭窄の手術を行った後、心臓衰弱により死去。

北山清太郎(きたやま せいたろう)1888年~1945年
和歌山県生まれ。下川凹天、幸内純一とならぶ「日本初のアニメーション作家」のひとり。水彩画家、雑誌編集者、美術雑誌を発刊し、若い画家たちを育てた。アニメの世界に転向後は、北山映画製作所を設立した。

宮国優子(みやぐに ゆうこ)1971年〜
宮古島生まれ。事務所兼コミュニティスペースTandy ga tandhi(たんでぃがーたんでぃ)主宰。フィールドワーカー、コンテンツディレクター。法政大学沖縄文化研究所国内研究員。テーマは、宮古島、教育、女性。執筆、ライティング、映像制作、webなどのコンテンツ制作やマーケティングが生業。県立宮古高校を卒業後、アメリカ、カナダを放浪。上京後、時代劇制作会社から脚本家事務所後、宮古毎日新聞社記者(1992〜2014)宮古島関係者を100人集めた超ローカルコラム本「読めば宮古!」「書けば宮古!」編著書。一般社団法人ATALASネットワークとして2015,16年に沖縄文化振興会の助成で「島を旅立つ君たちへ」という冊子を作るプロジェクトなどを行い、ワークショップを通じて、高校生とクリエイター、研究者などとの交流をしながら、宮古島の文化の掘り起こしをした。

野口晶子(のぐち あきこ)
埼玉県生まれ。グラフィックデザイナー。宮国優子とともに一般社団法人ATALASネットワークとして2015年度から2016年度に沖縄文化振興会の助成で『島を旅立つ君たちへ』という冊子を作るプロジェクの中心となった。ワークショップを通じて、高校生とクリエイターとして関わった。

澁澤榮一(しぶさわ えいいち)1840年~1931年
官僚、実業家。次回の一万円札の肖像となり、話題となる。武蔵国榛沢郡血洗島村(現・埼玉県深谷市血洗島)に父親の澁澤市郎右衛門元助、母親のエイの長男として生まれた。幼名は栄二郎慶喜より「これからはお前の道を行きなさい」との言葉を拝受した。同年には、大蔵省に入省。しかし、予算編成で大久保利通達と対立。退官後間もなく、官僚時代に設立を指導していた第一国立銀行(現・みずほ銀行)の頭取に就任し、以後は実業界に身を置く。多種多様の企業の設立に関わり、その数は500以上と言われている。渋澤が三井高福、岩崎弥太郎などといった他の明治の財閥創始者と大きく異なる点は、「渋澤財閥」を作らなかったことにある。当時は実学教育に関する意識が薄く、実業教育が行われていなかったが、澁澤は教育にも力を入れ森有礼と共に商法講習所(現・一橋大学)、大倉喜八郎と大倉商業学校(現・東京経済大学)の設立に協力したほか、二松學舍(現・二松學舍大学)の第3代舎長に就任した。国士舘の設立・経営に携わり、井上馨に乞われ同志社大学への寄付金の取り纏めに関わった。また、男尊女卑の影響が残っていた女子の教育の必要性を考え、伊藤博文、勝海舟らと共に女子教育奨励会を設立、日本女子大学校・東京女学館の設立に携わった。社会活動にも邁進。社会福祉事業の原点ともいえる養育院の院長を50年以上も務め、東京慈恵会、日本赤十字社、聖路加病院などの創立にも関わる。1890年貴族院議員。1927年、1928年にノーベル平和賞の候補にも。著作は国会図書館デジタルコレクションで読める。

下田憲一郎(しもだ けんいちろう)1889年~1943年
編集者。平鹿郡山内村(現・秋田県横手市)に生まれる。詳しくは、第10回「凹天の盟友 山口豊専の巻その2」

茂木啓三郎二代目(もぎ けいざぶろう)1899年~1993年
実業家。千葉県海上郡富浦村(現・旭市)で農業を営む飯田家に生まれた。本名は飯田勝次。成東中学(現・千葉県立成東高等学校)を経て、1926年に東京商科大学(現・一橋大学)を卒業し、野田醤油(現・キッコーマン)に入社。入社後まもなく、渋沢栄一と共に労働争議を解決した。房五郎五代目の次女とき子と結婚。茂木啓三郎家の養子となる。教養部長の頃、凹天と鈴木大拙を高尾山の夏期講習で呼ぶ。先代茂木啓三郎の養子となり、1935年に家督を相続。1962年から1974年まで社長。1972年にはアメリカ合衆国にしょうゆ工場を建設。醤油事業を海外で成功させ、業容を拡大した。キッコーマン中興の祖。社団法人如水会理事長、千葉県経営者協会名誉会長、千葉県教育委員会委員等も歴任。 旭市名誉市民。 1993年、脳出血のため千葉県野田市の病院で死去。

山口豊専(やまぐち  ほうせん)1891年~1987年
漫画家。画家。千葉県印旛郡白井村(現在の千葉市若葉区)に生まれる。詳しくは、第9回「凹天の盟友 山口豊専の巻その1」


【2020/04/19 現在】  


Posted by atalas at 00:26Comments(0)Ecce HECO.(エッケヘコ)

2019年04月16日

第229回 「新豊の井戸」



また、性懲りもなく井戸にまつわる石碑シリーズです。一応、形としては第225回「紀念・七原井」の続き、ではありませんが、枝編になります。流れとしては、第150回スペシャル企画「霊石」の七原の霊石にもつながっていますが、タイトルは仮称になります、というのも今回紹介する石碑のタイトルが読めないからです。まあ、ともあれまずがーと石碑を見てやってください。

上部が完全に引っ剥がれてしまってないのです。
辛うじて読めるのは、下の数文字だけ。それも左側はたぶん、「~十九戸」かな?、上の方の「十」も怪しいので、確実なのは「九戸」まで。これは井戸を開鑿した時の集落の戸数(出資した?)とみられます。次に右側。こちらの一番下の文字が「成」なのは、すぐに判明しました。その上の文字が難解でしたが、ハタとこはふた文字あると気づきました。「成」の上には「完」と「年」なのではないかと。つまり、「~年」で改行して、「完成」と刻まれているのではないでしようか。いかがでしょうか?、皆さんの見解は?。

ともあれ、「~年 完成」「~九戸」としても、肝心の部分が剥がれ落ちていて、まったく読めないのには変わりはなく、非常に口惜しくあります。
実はこの石碑は、非常に珍しい三角柱なのです。デザイン上この形をしていたものは、砂川(うるか)のナナサンマルの石碑(第41回「730記念之塔 砂川学区交通安全協会支部」)くらいしか見たことがないと記憶しています。尚、余談になりますがこの宮古のナナサンマルの石碑には大きな謎があり、「ナナサンマルを追え!」と題して金曜特集にしたこともあります。

他の二面のうち、ひとつはまったくの空白ですが、もう一面には「責任者 松原常保 宮■■祥」と、恐らく当時の新豊(にいとよ)集落のトップとみられる人物の名前が刻まれています。
しかし、この新豊の集落。前述の七原集落が海軍飛行場建設により集落まるごと土地を接収され、現在の鏡原中の南側へと移転して新たな七原集落を建てることになります。一部の人々は親類縁者を頼るなどして近隣各地に移住し、七原の人々はあえなく離散することになります。そんな一部の人たちが新天地として、新豊へ移転したといわれています(飛行場は1943年6月に完成)。
云い忘れていましたがこの新豊の集落は、現在の空港入口の七原集落(字下里)から、南に約800メートルほど離れた、字松原の畑の中にあります。といっても、現在、新豊の集落はライトマザーという宿が一軒だけあるにすぎない、事実上の廃集落となっています。

1945年に米軍の撮影した新豊の集落の様子を見ると、30軒ほど家々が軒をつられねており、決して大きくはありませんが、それなりに集落としてのスタイルを保っていたようです。尚、集落は平良村(当時)の南端に位置し、500メートルも南に行くと、下地村川満の高千穂地区、カツラ嶺(カザンミ)の集落があります(こちらは今も現存しています)。

【左 1945年米軍撮影 逆さへの字の山の部分が新豊集落。集落奥に丸く井戸も見えています】 【右 1963年米軍撮影 逆への字の傾きが縦になってます。中央やや左の森に隣接した十字路。戸数がかなり減っています】

そんな新豊の集落の話をここまで書いてきて、ふと、新たな気づきがありました。しかも、かなり重大な。。。
海軍飛行場(現在の宮古空港)に土地を接収移転された地域は、飛行場の南側(上野側)ばかりでなく、北側(平良川)にもありました。たとえば腰原や冨名腰です。七原ほどではないにしろ、後に補償問題にも出て来るので接収はあったようです。他にも越地(くいず)という集落もこの時、消失しています(ファミマ宮古鏡原店の裏手に「越地市」という一瞬だけ営業していた店舗の看板が、その地名の名残ともいえます)。

確かに第148回「豊井戸」で取り上げた腰原の集落ネタでも、空港に隣接したエリアというのがよく判ります(腰原の南部)。もしも、この豊井戸のある腰原豊地区(?)の一部が接収されいて、空港の南側に新しい集落と作ったと考えると、「新豊」という集落名がなんかすんなり繋がる気がするのです。しかも、豊井戸のある集落から、新豊へは海軍飛行場の滑走路の西端をかすめて、新豊集落を通り抜け、高千穂のカツラ嶺へと一本道が繋がっています(現在は滑走路が延伸されているので、道は一部しか残っていない)。

七原集落の移転についての苦労話や、戦後の補償問題などの資料はあるので、いくつかをそれとなくチェックしたのですが、細かな接収と移転先について記事を取りこぼしているようで、完全には裏が取り切れていませんでした。自分でこね回しているうちに、だんだんとこちらの説が真説かもしれないと、書きながら気づいてしまいました。
字史とかあれば振り返れそうなものなのですが、すべての集落に字史があるわけではないので、こうした細かいネタにはなかなか短時間で当たれず、時にこんなことが起きます。えー、この件に関しては、個人的にもちょっと宿題にして、ひとまず用意しておいたネタを処方して、逃げるようにして〆てゆきたいと思います。

井戸のネタなので、水っぽいネタです。新豊の井戸の少し南に、古いセメント瓦の畜舎があります(元は住居兼。空中写真にもある)。ここに2メーター四方のコンクリート製の天水タンクがありまして、その壁面にこんなことが書いてあります(今は一部の壁面を壊して、小型農機を収納する小屋かわりに改造されている)。

「使って清らか、飲んで健康 一九五四年九月弐七日 建設」

1953年から地域的な簡易上水道が積極的に整備されはじめ、1965年に宮古島上水道組合が誕生して、本格的な上水道の敷設がはじまるまでは、人々の生活には井戸やこうした天水タンクが重要な役割を占めていたことが、なんとなく伝わってきます。特に1960~70年代は大旱魃と島を、直撃する猛烈な台風が発生しています(子年の大旱魃卯年の大旱魃宮古島台風)。

もうひとつ。こちらはもう少し深い趣味系。
この新豊の集落(跡)から西に400メートルほどのところに、雑木林に覆われた浅めの陥没ドリーネがあります。周辺の一部は造林されており、見た目にはよく判りませんがここに、トゥニガーアブという洞窟がひっそりと隠れています。
ドリーネの北向きの壁面に開口した洞口からS字状に続く洞穴で、全長48.5メートルとそこそこの大物洞穴(入口には不法投棄か多い)。洞内への土砂の堆積があることから、雨などの流れ込みも多いとみられます。また、鍾乳石の発達も特にないので、物好きじゃなきゃ行くようなとこでない上に、洞奥には6メートルほとの縦穴もあるので、徒手空拳で最深部まで潜ることはできませんが、なかなか楽しいプチ・ケービングが出来ます。



【資料(再掲)】
「集落(スマ)を歩く」 七原(上) 七原(中) 七原(下) (宮古新報2012年)
 とある宮古の巡検雑記 スタパ版08 2014年01月03日

※現在の「新豊の井戸」は畑の中に隠れており、サトウキビが刈り取られた時期にしか見ることは出来ません。  続きを読む


2019年04月12日

40冊目 「綾道 城辺 東・北コース」



平成25年度から宮古島市教育委員会が、毎年地域を絞って発刊している「宮古島市Neo歴史文化ロード 綾道(あやんつ)」。もうご存知の方も多いと思われますが、島の歴史や文化をあれこれ楽しみ、散策しながら知ることが出来る、他に類をみない地域密着型ローカル無料のガイド冊子です。このほどシリーズの8冊目が「綾道」が発刊されたと噂を聞いて、どこよりも早く(?)スクープっぽくご紹介させていただきます(どういうわけか、毎年「綾道」が完成してもなぜかプレスリリースがなされないので、市民に観光客に知るチャンス、知らせるチャンスを逸している気がするので、まわりで勝手に盛り立てています)。

今回(平成30年度)に発刊された「綾道」は、「城辺北東コース」。以前、第1弾として発刊された「砂川・友利コース」以来の城辺地区となります。しかも、城辺9字のうち7字(2字は砂川・友利なので、実質残り全部)を詰め込んだ宝箱のような一冊です(もったいないから、せめて東と北くらいに分けて作ってほしかった)。しかも、フルカラーで約70ページが無料です。この一冊があれば、歴史と文化を学び、景観と自然を慈しみ、ほぼ城辺を隅々まで堪能することが出来ます。

今回のコースはエリアが広大なこともあり、コース延長は約40キロ。所要推定時間も3時間と設定されていますが、楽しすぎて見学に時間がかかることは必須なので、おそらく本気でフルコースを廻ったら、この倍は必須の「満願全席」級になりそうな気がします。それを見越してか、フルコースを分割した「新城・保良」「西里添・下里添・福里」「長間・比嘉」と、トライアスロンのように3つのショートコースも設定されています(ショートと云いながらもそれなりにボリュームはあります)。

●新城・保良コース
旅の起点は宮古島の最南東端の東平安名崎から。すでにスタート地点にして見どころがいっぱいあります。まず、なんといっても国指定・名勝「東平安名崎」。そして「東平安名岬の隆起珊瑚礁海岸風衝植物群」(県指定)。ちなみに灯台は「平安名埼灯台」と表記します)。気づきましたか?。余談ですが、崎と岬と埼と示すものによって字が全部違っているのです。それぞれ公式表記なので気をつけたいところです。さらにここは伝説の美女マムヤに関連する伝承ポイントもあります。もうここだけでお腹いっぱいになりそうですが、他には、もうひとつの国指定天然記念物の「宮古島保良の石灰華段丘」。七又のミーマガー、ぐすくべのアギイス(七又・新城・西中)、おっぱい山、アラフ遺跡、保良元島遺跡などなど。

●西里添・下里添・福里コース
スタート地点は宮古島市城辺庁舎(発行元の宮古島市教育委員会があります)。城辺は人頭税廃止運動が盛んであったことから、区域内に人頭税廃止に活躍した人物の石碑がいくつもあり、綾道では「城辺と人頭税」のかかわりについてまるっとまとめられています。また、城辺は世界で初めて作られた地下ダムのある場所であり、特有の地形から地下ダムの構造や成り立ちについても判り易く解説されています(資料館もあります)。この他、こちらのコースでは「旧西中共同製糖場煙突」(国登録有形文化財)、「上区の獅子舞い」、「前井と御神木その周辺の植物群落」なども取り上げられています。

●長間・比嘉コース。
このコースも城辺庁舎を起点にしています。飛鳥御獄、西銘御獄にまつわる物語は、これまでの「綾道」でも触れて来た、目黒盛豊見親、与那覇勢頭豊見親、そして仲宗根豊見親の活躍へ繋がってゆく島の歴史の源流にあたります。また、山川のウプカー、野加那泉、野城泉など生活にかかせない湧水が紹介されています。中でも山川のウプカーがもたらす豊富な水によって、長間田に大水田があった記録は目を見張ります。。水の恩恵を受ける地域がある一方で、水に悩まされる地域もありました。山に挟まれた加治道は、大雨のたびに田畑が冠水してしまう低地でしたが、昭和の初めに1キロもの瑞福隧道が掘削され集落を救います。当時の高い土木技術が偲ばれます。

「綾道」にはまだまだ色々なポイントや豆知識、物語などが紹介されています。こんな風に1日ひとコースで3日かけて廻れば、確実に濃~い旅が楽しめるばずです(無論、読み物としてじっくりと読むだけでも、それはそれで楽しむことが出来ます)。

昨年、金曜特集で「綾道-平良北/松原・久貝-」を紹介した際、今後の事業計画として「城辺」の後に「上野」「池間・狩俣・大神」が計画されているとありましたが、2019年度はなんと「綾道」事業休止だそうです。予算の都合なのでしょうか、なんだかとってもとっても残念です。ぜぜひひひで、2020年度には大復活してくれることを祈りたいです。たくさんの市民の声が届け~!。
なにしろ広い宮古島。まだまだカバーされていないエリアが、計画されている地区以外にもあると思うのですよ(ぱっと思い浮かべたたけでも・・・西辺・大浦・成川あたりとか、添道・鏡原・宮原あたりとか、腰原・富名越・東川根あたりなんかはどうでしょう)。
また、近年、新たに指定されたり、今までの地区でも部分的に抜けてしまっているとことかもある気もしているので、改訂版とかあってもいいかと思います。
個人的にはさらにさらに展開して、区域だけじゃなくテーマで括って作っても面白いのではと思ったりもします。たとえば「ドイツ商船ロベルトソン号と博愛の話」とか、「人頭税廃止運動」とか、「三人の豊見親の物語」とか、「城跡・墳墓・井戸などの古の構築物」とか、流行の「水中遺跡」とか。あとはエリア区分がしづらい動物や植物など自然系を一冊まとめても楽しいはず。「戦跡編」も調査が進んでいるから、パート2がそろそろ作れるんじゃないだろうか。っと、ちょっとばかり妄想が過ぎましたが、ともあれとっても楽しい「綾道」事業の復活を切に願っています。

【書籍データ】
編集発行 宮古島市教育委員会
発行月 2019年3月
イラスト・デザイン 山田 光
平成30年度宮古島市neo歴史文化ロード整備事業

【トピックス】
宮古かいまいくいまい シーズン2
その10「島の地図、塗り替えてます!? 光さんの綾道(あやんつ)」(2017年05月26日)
現地まで足を運んで、「綾道」のイラストを手掛けている山田光さんのお話。

【宮古島市neo歴史文化ロード宮古島市教育委員会公認アプリ】
 https://miyakojimabunkazai.jp/
 ※「綾道」配布先 市内各庁舎、博物館、図書館、地下ダム資料館など

(モリヤダイスケ)
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Posted by atalas at 12:00Comments(0)島の本棚

2019年04月09日

第228回 「當福里還暦記念碑」



このところの一連の流れから、琉球王府最後の村建てとして、先週は西原集落の碑を取り上げました。その際にも少し触れましたが、西原と同じタイミングで最後の村建てとなった城辺の福里集落の石碑を、今回は紹介してみたいと思います。
それではまず、石碑の紹介からスタートです。

こちらのちょっと小ぶりのモノリスが、今回ご紹介する「當福里還暦記念碑」です。
石碑があるのは国道390号線、福里交差点から東平安名崎方面に、約350メートルほど行った道端です。旧城辺役場(現在は更地で、人頭税顕彰碑のみ建っている)からも、200メートルくらい過ぎたところ。そこに小さくも堅牢な小屋と、過日の大風で根元から倒れるも、未だその樹力は健在している大きな木が一本ある区画。明らかにここだけ周囲と異なる雰囲気を醸し出しています。
それもそのはず。ここはかつての福里村番所跡でした。いわゆるブンミャーとよばれていたいところです。当時の村番所は、人頭税の貢布であった宮古上布を織るための場所であり、材料となる“ぶー”を績むための作業場でもありました。役人の監視下、労働力として集落の女性たちはここに集まり“ぶー”績んでいたといいます。
つまり、“ぶー”を績む家で「ブンミャー」と村番所が呼ばれるゆえんです。時々、村番所を島のことばでブンミャーと呼ぶと思っているようなアナウンスがありますが、同じ敷地を示してはいますが、厳密には村番所とブンミャーは別のものです(他の村番所跡の発掘調査では、敷地内から複数の建物跡が見つかっています)。
現在、この村番所は拝所として集落の重要な位置を占めていす。敷地隅にある小屋は普段は扉が閉められていますが、その中に畏部が据えられており、集落で催される祭祀のほとんどに関わっています。宮古島市第2巻祭祀編(上)重要地域調査「みやこの祭祀」によると、年間18ある祭祀のうち、17がこのブンミャーを祭場としています(他の御獄や祭場を廻る祭祀も多数ありますが、必ずと云ってよいほどプンミャーが始まりの拝所となっています)。

さて、石碑です。
シンプルな碑面の表には「當福里還暦記念碑」と一行だけ刻まれています。集落を擬人化して60周年の祝賀を還暦と称しているところが、とても面白いです。きっとイマドキだったとしたら、萌えキャラのひとつも誕生していたかもしれません。
ところで、一文字目の「當」ですが、“当”の旧字体の読みにちょっと悩みました。単純に「福里還暦記念碑」であっても差し支えないのに、わざわざ「當」と書いてあるということは、なにかこう特別な読み方があるのではないだろうかと。
そこでWeb辞書を引いてみると、一文字では「あだて」と読むようようです。
あだて 【当▽】
①めあて。あてど。
  例「今で請け出す-はなし/浄瑠璃・氷の朔日 上」
②手段。てだて。よすが。
  例 「傍に拡げし書付に、主をはごくむ-とあるが/浄瑠璃・富士見西行」
けど、用例をみてもなんかちょっと違う。。。
やはり、こちらの方でしょうね。
とう(たう)【当】
①道理にかなっていること。
②「当の…」の形で連体詞として用いる。→当の
③仏「当来」の略。未来のこと。
④名詞の上に付いて、「この」「その」「私どもの」、また、「現在の」「今話題にしている」などの意を表す。
③の「仏」という意味があることに驚きを隠せないのですが、まあ、まずこれではないと思います。そうすると順当に、②や④の「当の」であると思うのですが、「當福里還暦記念碑」といような用例がない気がして迷ったのでした。つたない国語力しか持ち合わせていないので、正解をご存知の方がいらっしゃいましたら、ぜひともご教示ください。

また脱線しましたが、石に戻ります。
碑の背面にはやや刻みが薄いのですが、上段に建設発起人として4名と、その下にさらに連名で8名の名前があります。また、碑の制作者と云うことでしょうか、彫刻者・川満方祥とも書きこまれています。
また、碑の細い両サイドには、右に「明治七年創立」、左に「昭和九年十二月」と年号が刻まれています。創立は西原と同じ明治七年。西暦1874年。60周年にして碑の建立が行われたとみられるのが、1934年の和九年。確か、西原では8月吉日が村建ての日となっていましたが、ここ福里では12月となっています。単に石碑を建立した月なのか、それとも厳密に村建てした月にあわせて12月なのかがは不明です。

この福里の村番所跡は、ブンミャーであり集落の中心であることは、祭祀においても中心的な役割りがあることからもよく判ります。そしてこの場所の小字は、福里の中央を意味する福中と呼ばれています。福里はこのほか、福北、福南、福東、福西と東西南北に5つの小字が分散しています。隣接する福西(福里交差点)を除くと、他の小字は福里(福中)の枝村であたったと云われています(確かに、福西以外はどれも少しだけ福中からは離れています)。
また、この明治になって作られた新い村、福里が琉球王府の間切から沖縄県の村へと切り替わった1908(明治41)年4月1日に施行された島嶼町村制(特別町村制)で、砂川間切にかわって、城辺村が設置されました。厳密には区割りがかなり異なるので、まったくの同一ではありませんが、城辺村の村役場が福里に置かれることになりました。
と、ここまで書いてから、非常に面白い記述を見つけてしまいました。宮古島市史「みやこの歴史」に、こんな記述がありました。
当時の戸数は1733戸、人口は9282人である。村の事務所はとりあえず、長間字のキャーギ嶺の砂川玄俊宅に置き、村長1、収入役1、書記4、雇員4、計10名で村政は始められた。役場は翌1909年に字福里877番地-1(合併前の旧城辺庁舎跡地)に新築、以後、城辺村の中心となる。
わずかな期間だったとはいえ、最初の村役場(仮設)が、福里ではなく西城のキャーギ(喜屋慶)で、それも個人の家だったということに驚かされました。

ちなみに初代の城辺村長は福里小(現在の城辺小。城辺の名を冠するようになるのは1941年から)を初めとした、宮古の小学校で訓導や校長を歴任して来た、執行生駒(しぎょういこま)が任命されています(当時はまだ任官制)。

学校沿革史を元に、執行生駒の職歴を年代順にまとめてみると、こんな感じです。
明治16年4月 北小に訓導として着任。
明治18年3月 北小から転出。入れ替わりの4月から、凹天の父・下川貞文が北小へ着任。
 ところが、執行生駒の記録がここで、約1年ほどぷっつりと途切れます。
 しかし、下地小の開校当時(明治19年11月13日開校)の項目には、「当初の運営者 訓導 執行生駒」という文字があるのです。また沿革史には、明治24年3月に至るまで、他校訓導の下川貞文と共に幾度か行事(学力試験など)のたびに、「下地小訓導 執行生駒」名前が登場しています。こうしたことから、執行生駒と下地小はかなり密接な関係があり、実は開校の準備とかに携わっていのではないかと妄想します。

明治19年8月。開校直前の伊良部小の沿革史です。
「下地小訓導執行生駒本校訓導ニ兼任セラル、但シ教授セズ」
という、非常に謎めいた一文とともに、執行生駒の名前が登場します。
伊良部小では執行生駒が初代校長として、校史に記されているのですが、職員名簿の初代校長の名は吉岡元照であり、任期も明治27年4月からとなっています。この兼任は校長を兼任なのではなく、下地小と兼任という意味なのではないでしょうか。

では、もう一方の「兼任」先、下地小ではどうなっているかを見てみると。
明治19年11月から明治25年7月まで、訓導として長期に亘って執行生駒は在籍しています。
このあたりを考えると、やはり執行生駒は下地小で教務就いており、伊良部小には名ばかりの訓導だった気がします。

明治25年7月。遂に執行生駒は第3代校長として、福里小に栄転します。そして実に15年も校長職に留まり続けます。
余談ですが、この間。比嘉財定が福里小に入学をしています。また、明治34年には友人であり同僚だった、下川貞文が急逝。追悼式典に参加しています。
そして明治41年3月。執行生駒は校長職を休職。初代城辺村長へと就くのでした。
【北小の歴代職員。執行と下川が校長以前に並び、友人にして宮古教育界の重鎮、臼井勝之助を初め、立津春方などの名前も見えます】

【関連石碑】
第62回「顕彰碑(城辺)」
第121回「比嘉財定先生之像」
第220回「(伊良部小)百周年記念碑」

【参考資料<オススメ>】
旧城辺町字福里の「八月十五夜の行事」 本村清(pdf)  続きを読む


2019年04月05日

5本目 「ゴジラ対メカゴジラ」



一昨年大ヒットした『シン・ゴジラ』も記憶に新しいが、長~い歴史の中で、沖縄を舞台にしたゴジラ作品がある。今回はその『ゴジラ対メカゴジラ』をご紹介しよう。

その前に、筆者とゴジラの歴史を書かせていただくと、初めて見たゴジラ映画は『三大怪獣 地球最大の決戦(1964)』。当時4歳だった私は、渋谷東宝のスクリーンに巨大なキングギドラが映った瞬間に「怖い! 帰る?!」と言って母の手を引いて劇場を飛び出した、というのは記憶というより母から繰り返し聞かされた逸話。

ゴジラ映画を母親と見に行くと言えば、子どもがねだって親が連れて行く、という構図が普通だろうが、どうやらそういうわけではなかったみたいだ。というのも、翌年(1965)は『フランケンシュタイン対地底怪獣バラゴン』、その翌年(1966)は『フランケンシュタインの怪獣 サンダ対ガイラ』と、怪獣映画とは言っても幼稚園児が見たがるようなもんじゃない、かなり怖い作品に連れて行かれている。『サンダ対ガイラ』なんてマジで怖くて、指の間からそーっと見ていたのを、今度は本当に覚えている。

その後、母との映画観賞は『妖怪百物語(1968)』、『妖怪大戦争(1968)』、ヒッチコックの『鳥』(リバイバル上映)、『犬神家の一族(1976)』へと続く。どうやら母は怖い映画が好きだったみたいだ。そんな母も3年前に他界したが、母に連れられて映画館に通っていた思い出が今の私に続いている。

さて、『ゴジラ対メカゴジラ』に話を戻そう。本作が作られたのは1974年。沖縄本土復帰(1972)から2年後、沖縄海洋博を翌年に控えた1974年は第1作目の『ゴジラ(1954)』から奇しくも20年後。ということで、本作は『ゴジラ誕生20周年記念映画』と銘打って制作された。

タイトルにもなっている『メカゴジラ』は、昨年のヒット作『レディ・プレイヤー1』の中でも大活躍し話題になっていたが、初登場が本作。その後メカゴジラは『メカゴジラの逆襲(1975)』、『ゴジラvsメカゴジラ(1993)』、『ゴジラxメカゴジラ(2002)』、『ゴジラxモスラxメカゴジラ 東京SOS(2003)』など、数多くのゴジラシリーズに登場し、大人気キャラとなった。

で、その『ゴジラ対メカゴジラ』が沖縄を舞台にしていて、沖縄オリジナルの怪獣が登場していたことを覚えている人は意外と少ないんじゃないかな? その名は『キングシーサー』! 沖縄の各家の屋根にいるシーサーがゴジラ並みの巨体を持つ神獣として登場するのだ!。

オープニングから守礼の門、識名園などが写り、修復前の当時の様子を記録している意味でも貴重だ。周りは草ぼーぼーだったりして隔世の感がある。

台詞にうちなーぐちは皆無、イントネーションもしっかり標準語のものになっていて、言葉の上からは全く沖縄は感じられないが、74年当時は方言札が終わって数年後。そういう沖縄色を出すことが躊躇われた時代だったのだろうな。ただ内地の俳優だけ使ってあまり考えずに作った結果かもしれないけど。


20周年ということでおなじみのゴジラ・円谷俳優たちが総出演。おー、岸田森だ! 小泉博だ! 平田昭彦は博士か! おー、佐原健二?!と、一人ひとり登場ごとにうれしくなる。

物語は、洞窟の中で見つかった壁画に書かれた予言から始まる。

「大空に黒い山が現れるとき、大いなる怪獣が現れ、この世を滅ぼさんとす」
「しかし赤い月が沈み、西から日が昇るとき、二頭の怪獣が現れ、人々を救う」

おもしろそうだ! おもしろそうだ! 本編は私の好きな古代遺跡と予言のパターン。
だが、特撮パートがゆるい。

わりとあっさり御殿場に現れたゴジラの前に、これまた待ってたように現れるアンギラス。
ちょっと予定調和過ぎないか?

「おかしいぞ! アンギラスが仲間同士のゴジラを攻撃するなんて!」
え? 、仲間だっけ?。
『ゴジラの逆襲(1955)』の因縁の対決再び、じゃないの? この頃の昭和後期ゴジラは『怪獣総進撃(1968)』以来、仲良しこよしだっけ。この辺のところは子供ながらも当時イライラしてたっけな?。

この頃の特撮がダメなのは、怪獣を真横から撮るから巨大感が出ない。観客の目線がどこにあるのかわからない。良い怪獣映画のカメラは、地上にいる誰かの目線から怪獣を撮る。平成ガメラ三部作が代表的な素晴らしい例だ。中野昭慶、今でこそ巨匠扱いだが、この当時はダメだな?。こだわりが感じられない。

長老の言葉(1)
「ゴジラを倒せるのはキングシーサーだけだ! だがその謎は誰にも解けるものか!」
ふむふむ、キングシーサーは沖縄の守り神。ゴジラも倒せるのか。だったらゴジラは大和の象徴か?

長老の言葉(2)
「ゴジラよ! 安豆味(アズミ)王族を滅ぼそうとしたヤマトンチュをわしに代わってやっつけろ!」
ん? じゃあ、やっぱりゴジラはゴジラ、全てを破壊するもので、沖縄だけはキングシーサーが守る構図か。

でも、結局ゴジラとキングシーサーが協力してメカゴジラと戦っちゃうんだけどね。長老の言ってることはひとつも当たらない(^^)。

メカゴジラを使って地球を侵略しようとする
敵は『ブラックホール第3惑星人』。彼らの
正体が猿人なのも当時『猿の惑星』シリーズが流行ってたからか。

玉泉洞の中に宇宙人の基地があったり、万座毛からキングシーサー出現したり、沖縄の観光地をロケ地として大プッシュ。なんだけど、主題歌『ミヤラビの祈り』を2番までフルコーラス聞くまで目覚めないって、長すぎるでしょ。でも、ゲスト怪獣で歌まであるのってモスラの他にはキングシーサーくらい? できたら琉球音階で作曲してほしかった。


キングシーサーはメカゴジラの光線を吸収して逆に発射するほど強いんだけど、動きが軽い! もっと重量感出してほしいな?。着ぐるみバトルにヤル気が感じられないのだ。吊って放り投げとけばいいんでしょ、みたいな。残念ながらこだわりが薄い。

ゴジラとのタッグでメカゴジラを倒したキングシーサーはまた万座毛の中で眠りにつく。

作品的には、長老の言った「ゴジラよ! 琉球を滅ぼそうとしたヤマトンチュをわしに代わってやっつけろ!」というメッセージは有耶無耶に終わってしまったものの、人気キャラ『メカゴジラ』を生んだこと、本土復帰後、翌年には海洋博が開かれる沖縄を、主要な観光地を含めて広く周知できたことなど、大きな意味はあった。

シリーズ中でも特色ある作品で、今あらためて見てみるのもおもしろいだろう。

【作品データ】
「ゴジラ対メカゴジラ」
公開 1974年
監督 福田純
特技監督 中野昭慶
出演 大門正明、青山一也、田島令子、平田昭彦、松下ひろみ、小泉博、ベルベラ・リーン、岸田森、佐原健二、他  続きを読む


Posted by atalas at 12:00Comments(0)シネマ de ミャーク

2019年04月02日

第227回 「字西原創立紀念碑」



先週の「砂川恵隆頌徳碑」で西原村の村建てに関わった人物を紹介したからには、やはり西原につなげなくてはね。っというとで、旧公民館前に建つ「字西原創立紀念碑」を今回は紹介してみたいと思います。

西原集落の村建ては城辺の福里と並んで、「(琉球王府時代)最後の村建て」と呼ばれる1874年。明治7年8月吉日に行われます。池間島の人口が1800人を越えていたことから、宮古島の横竹に新村を作るようにと指示され、池間島から73戸、佐良浜から15戸、横竹から2戸の計90戸480余名によって、現在の西原の集落が村建てがなされました。
「字西原創立紀念碑」は1934(昭和34)年、村建て60周年あたりに建立されたようです(特に周年の文字は見当たらない)。しかし、経年劣化により碑の文字が半ば剥がれ落ちてしまい、完全には読めなくなっています。ところが、資料として活用した仲宗根將二氏の「近代宮古の人と石碑」(1994年 私家版)で紹介されている写真には、まだ碑の文字がきちんと読める状態にあり、ちょっと感動するのでした。

【「近代宮古の人と石碑」 仲宗根將二 1994年 私家版より】

しかし、ここでもうひとつ気になることを発見してしまった。
現場を知っている方はもうお気づきかと思いますが、西原集落は1974(昭和49)年に村建て100年を迎え、石碑をもうひとつ建立しているのです(旧公民館前正面左側)。けれど、自分が知っている「西原創立百周年記念碑」と、仲宗根氏の「近代宮古の人と石碑」で紹介されている百周年の石碑の印象がまったく違うのです。残念ながら本は印刷がいまひとつで、状態をはっきりと確認することは出来ないのですが、明らかに縦型の碑に縦書きで書かれているのです(本文にも石碑はふたつとも3メートルを超す大きさと書かれている)。
しかし、現実の石碑は横書きなのです。考えてみると100周年からすでに45年が経過していますが、石材のトラバーチンの色がどことなく新しいような気もするのです。なにかヒントになるかもしれないので、碑の裏に書かれている解説を確認して見ましょう(実は本編の「字西原創立紀念碑」の裏にもなにかが書いてあるのですが、なにが書いてあるのかまたっく読み取れないほど劣化している)。
顕  彰
当西原の字の発祥は、明治六年旧十月頃、琉球王庁[ママ]より、富川親方一行が来島し、人口過密な池間島より分村を命令し、当時の在番、板良敷、砂川、下地、平良、各四親雲上の陳情により、明治七年旧八月吉日に当地に池間島より七十三戸、佐良浜より十五戸、横竹より二戸、計九十戸四百八十余名を移住分村せしめたことに始まる。
以来、住民は半農半漁を生業とし過酷な人頭税にあえぎながら、営々としてアララガマ精神を発揮し部落発展の基盤を築き、今日の隆盛をみたのである。
ここに先祖の開拓精神と御苦労に対して深長なる感謝を捧げ併せて創立百周年の大祭にあたり永遠にその偉業を顕彰するものである。
昭和四十九年十月一日 旧八月十六日

以下、西原創立百周年記念事業期成会のみなさんの名前がずらりと並びますが割愛しました。
※文中に[ママ]とあるのは、碑の文章そのままです。尚、読みやすさを考慮して一部に句点を補完しました。

気になる記述としては、在番が4名と書かれている点です(在番は首里から派遣される高級役人の士族)。1629年にスタートした在番制度ですが、最大でも在番は3名しか置かれたことがありません(3人制は1647年以降)。しかも、1678年からは組織改革され、在番ひとり、筆者(在番の補佐役)ふたりと変更になっています。
記録(宮古島市通史「みやこの歴史」)を見てみると、村建ての1874年には板良敷親雲上という名があり、おそらくこの方がトップで、石碑に記されている在番とみられます。また、玉寄筑登之親雲上、松川筑登之親雲上という、若干、位(くらい)の落ちるふたりが筆者として派遣されていたようです。
一方、残った砂川、下地、平良は在番ではなく、おそらく各間切の頭職(在番制施行以降、宮古人が就ける最高職)と思われます(役職としては首里大屋子)ので、石碑の文言を作成した方の誤認誤用があるみられました。

ちなみに、村建ての前年に来島している富川親方は、宮古八重山を事細かく視察して廻り、「富川親方宮古島規摸帳」(八重山規摸帳というのある)という詳細な報告書を書き記し、島民に対して指導を施していたりします。この富川親方は琉球王府最後の三司官となり、琉球処分の際に発生した、先島分割問題にも大きくかかわってくる人物だったりします(県庁顧問を辞して、清国に亡命した)。

西原村の命名についてのエピソードもありました。そもそも西原集落は池間島から枝分かれして分村することから、当初は「池枝村」となる予定だったらしいのですが、富川親方の随員として同行していた西原親雲上が、記念に自分の名前をつけて欲しいと懇望され、村名が西原となったのだそうです。

個人的にこのエピソードは驚きでした。というのも以前、誰かに薀蓄を垂れられて知った西原の命名は、平良のニス(島の言葉で北のこと)の原に作られた集落だから、「ニスハラ」転じて「ニシハラ」になったと。
わずかに知識のついた今、考えてみると宮古では「原」の読みは西日本系の「バル」と読むから、方言説であるなら「ニスバル」と呼ばれていなくてはおかしいので、この説は怪しく西原親雲上説が正しそうです。

自己解決気味ですが、自分が聴いた方言説は、どうも「西原」ではなく、地域名である「西辺(しにべ)」の語源のことのように思えてきました。現在の西辺は西原、大浦、福山(西原の東部。山川集落などいくつかあった散村を後にまとめた)の3集落の地域を呼ぶ時に使われています(西辺小学校・中学校など。宮原のように西辺学区という考えもあるが)。しかし、もっと昔には、島尻や狩俣をも含んだエリアまでを西辺と呼んでいました(狩俣小学校は初代の西辺小学校だった)。
つまり、これは平良の「北の方」という方言が転訛したもので、前述したように北は方言で「ニス」、そして「辺」は「~の方」を意味しますので、これが「西辺」の語源になるようです。
余談ですが、城辺の「辺」も同様に「~方」という意味ではありますが、「城」の意味の解釈が諸説あってはっきりしません。ただ、宮古には存在していない、本島のような「お城」のことでないことは確かだと思われます(城を山と取る向きもありますが、宮古で山は森のことなので少し違う気がする)。方言を紐解くと、「後ろ」を意味する「グス」とか、丘脈を「越す」の「クス」といった言葉から、山を越えた後ろの方というような語源イメージを抱きます。どちらも当時から政治経済の中心であった平良からの見た目線で名づけられているようです。

石碑の謎が解けないかと、公民館まわりをウロウロしてみましたが、建屋の脇に立派な拝所(トゥクル神かな?)があったのにびっくりしました(佐良浜でよく見かける、大きな盛り砂もあった)。
さらに、ウロウロしてみると「字西原創立紀念碑」のすぐ脇。雑草が茂った一角に謎の石がいくつか埋もれていました。どことなく石の表面に文字があるようにも見えますが判断はつきかねます。もしかしたらこれが縦書きの百周年記念碑なのかもしれません。あなたにはどう見えますか?

追伸。
先週の砂川恵隆は、役職として村の管理者(地頭代)クラスなので、今回のストーリーには絡んできませんでしたが、おそらく実務担当としては活躍していたのではないでしょうか。して、今気づいたのですが、先週も触れていますが砂川恵隆は池間、伊良部、松原の主を歴任していますが、面白いことに池間は平良間切、伊良部は下地間切、松原は砂川間切と、すべての間切を移動しています。  続きを読む