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2022年11月22日

第30回「下川凹天の最初の妻 磯部たま子の巻その7」

第30回「下川凹天の最初の妻 磯部たま子の巻その7」



 今日は、宮国さんの三回忌です。宮国さんは「私は百歳まで生きる」と生前語っていたことがあります。目標は、豆を商(あきな)っていた伊志嶺商店の伝説のオバーだったのでしょうか。


第30回「下川凹天の最初の妻 磯部たま子の巻その7」


 前半は、ミュージシャンの藤巻章記(ふじまき あきのり)さんです。


タンディに通い始めた頃


藤巻 章記


何から言ったらいいのかな。短いけど、たくさんあったなぁ。


タンディに来たきっかけは、片岡先生が、ギャレットワークスで、お定の話を詳しく話していて面白くて笑っていたわけ。それから誘われて、タンディに行くようになったんだよ。
店に入ると、大岡山にこんなところがあるとは思わなかった。元ジャンヌ・ジャンヌという店だったことは知っていたけど。ジャンヌ・ダルクから来ているからジャンヌというわけだ。ジャング・ジャングなんて読んでいた人もいたが。


ママにギター弾いていいかと尋ねたら、いいというので、ナイロンギターを抱えて、そこに置かせてもらった。そういや、大岡山でギターを持ち込めるのは、今、「やかん」の場所にあった店だけだったな。


タンディでまず驚いたのが、音響の良さだったな。


それにしても人生これからなのに本当に惜しいなぁ。 こっちは老い先短いのに、まさか宮国さんがねぇ。そういやチャイナドレスを着た宮国さんは、エロかったなぁ。スリットからちらちらモモが見えたのも、もう思い出の中でしかない。


 お久しぶりの片岡慎泰です。ヤマトの夏は今年も暑かったのですが、宮古も台風11号がしばらく停滞して爪痕を残していったようです。皆さまのことを心配していました。


 さて、現在判明する限り、凹天によって残されたたま子の言葉は、もうひとつあります。それは、似顔絵の名手でもあった凹天に向けた言葉でした。


 「政治家だの文士だのを斯んなに惡口描いて善いのですか擲られてでもすると詰まりませんよ、貴郎は人の恨みでロクな死に方はしやしない」。


第30回「下川凹天の最初の妻 磯部たま子の巻その7」


 この本が出た当時、凹天はすでに「大御所」と呼ばれてもおかしくなかったのですが、肉親は身もふたもないのは今と同じです。と同時に、ふたりの関係がうかがえるような言葉ではないでしょうか。


  「私の仕事を一番理解して居る筈の私の妻は私に斯う云つたのである、私も一寸考へた、考えるのが當たり前ではないか夢にも思つた事の無い事なのだから」。


 凹天も自分を「一番理解」しているのはたま子だと記しています。 そして、われらが凹天は、次のような弁解めいた言葉を残しています。


 「私は、改めて自分の職業を説明する、私が人の顔の特徴を擧げて鼻が大きいとか齒が出っ齒だとか文章に書くのは其人の特徴を擧げて居るのであつて決して惡口ではない、事實を事實として擧げる迄である、それと同じ様に似顔の漫畫でも特徴の在るが儘に描くのは決して其人が憎らしくて描くのではない、反つてそこに眞實の美を見出して憧れの氣持ちで描くのだから敬愛の心こそあれ憎んだり馬鹿にしたりする心は少しも無いのである」。


 そしてロダンの名言を引用した後、次のように文を結びます。


 「スケッチする度に一々擲られて耐るもんぢやない、これだけ讀者に知つて置いて載けば武装もせずに夜も安心して寝られると云ふものだ」。


 ところで、凹天は自分の描く似顔絵をどう考えていたのでしょう。


 「いつだつたか憲政會の政務參與官鈴木富士彌氏が議會スケツチ漫畫家十名を帝國ホテルに紹介したことがあつた、若槻内相も片岡次官も出席された、其席上岡本君が『此處に居られる漫画家のうち英國のカーツン式に當て嵌まる方は北澤樂天氏で米國のカリカチユア式が麻生豊君純獨逸式が下川凹天君、その他は皆混血兒の漫畫家でして』と斯んな事を云つたつた」。


 「岡本君」とは、岡本一平のことです。凹天のこの記録は、『ユウモア』第二号所収の凹天「自叙傳」にある言葉を裏付けます。


 「『ポンチ肖像』の著者は此下宿屋の半死半生の時に描かれたものであります。すでに此時は樂天先生の漫畫から轉じて獨乙の『ジンプリシスムス』の漫畫家ハイネを崇拝するようになつて居た時でもありました」。


第30回「下川凹天の最初の妻 磯部たま子の巻その7」第30回「下川凹天の最初の妻 磯部たま子の巻その7」


 残念ながら、凹天自身がハイネの画風について深く検討し、それについて言及したものは見つかっていません。ただし、風刺精神は大いに学んだようです。また、ハイネと同じく、警察に捕まると、雑誌が売れることまで学んだのかもしれません。


  松下井知夫(まつした いちお)は、このように回想しています。


 「毎夕に就職といっても、正社員ではなく、月給を貰うわけではなくて一応漫画主任という肩書で社員名簿に載ってはいたが、その日曜漫画欄は外注の委嘱で、月末に漫画部費を受取り、それで総てを賄う責任者だった。

掲載の漫画に当局の忌避に触れる作品があっても、直接本社の責任にはならず、私の責任で所轄署に呼出された。当時警視庁には思想犯取締り専門の特別高等警察部が設けられ、俗に特高といわれ、彼らは治安維持法を勝手に拡大解釈して、漫画家も随分睨まれた。

プロレタリア美術協会の柳瀬正夢、須山計一氏が検挙されたのもその頃で、昭和八年の前半。私が毎夕漫画の責任者になったのは、その後半の十月だった。目星しい大物は殆ど検挙済みで、あとは雑魚ばかりとみたせいかさすがの特高台風も静かになったかに見えた。私は毎夕漫画のために、日曜ごとに後輩や常連投稿家に集って貰い研究会を開いていた。そんなときいつも家内が呼びにきた。二階から降りてみると、牛込署の刑事が玄関に腰かけていて『今日は何の集まりですか』と探りを入れる。どうやら私もその雑魚組のブラックリストの一人だったらしい」。


  「毎夕日曜漫画の創設者で、楽天門下の大先輩である下川凹天先生に、あとでその話をしたら『いいンだいいンだ、それでイイんじゃよ、漫画で発禁になると、次の週は売上げが倍増すると、社長は喜ぶんだよ』と反って激励された。下川先生にも経験があったのだ」。


 このブログでは、凹天最大のヒット作『男やもめの巖さん』の主人公である髭野巖(ひげの がん)の顔が、ヒンデンブルクがヒントになったことを記しておきます。


第30回「下川凹天の最初の妻 磯部たま子の巻その7」


 「歐州大戰當時獨墺の總司令官だつたヒンデンブルク將軍ははからずも今度新獨逸共和國の元首に擧げられた、餘程人望のある有る男とみえる獨逸國民の偶像は斯んな型の人間らしひ國は新しく成つても偶像の型は變らない」。


 「ヒンデンブルクの特徴は太い首と偉大な口髭と目の下の皺それから眉毛と眼と口と耳、殆ど顔全體が特徴だらけである」。


  「ヒンデンブルクの顔は岩の様な顔に無數の皺が縦横無盡に有るそこが彼の特徴だだから所謂復雑の誇張と云ふ事になつて居る、前にも云つた通り單純化はマイナス誇張だ、此場合はプラス誇張であるだがあの顔の内頭と口髭と服装はマイナス誇張乃ち單純化になつて居る、頭には毛があるか無きか位になつて居るが事實は五分刈頭の相當に毛のある人で有る、口髭もあんなに四五本太く長いのが生えて居るのぢやなくてもつと澤山モヂャ/\細い髭が生へて居るのだが感ぢは矢張りあの通りである」。


第30回「下川凹天の最初の妻 磯部たま子の巻その7」


 この分析が、後に凹天最大のヒット作の主人公につながったのです。凹天自身、ヒンデンブルクの四角顔を三角にしたのが、髭野巖だと種明かししています。


第30回「下川凹天の最初の妻 磯部たま子の巻その7」


  この時代は、『時事新報』や雑誌『ユウモア』、『漫画』、あるいは他にも書物も著(あらわ)しています。生きるため、そして病めるたま子の治療費や入院費のために必死に働いていたことがうかがえます。


 もっとも、この時期はすでに、二番目の妻なみをと暮らしていたということは、このブログで述べました。


 しかし、たま子と出会うきっかけになり、そこから処女出版された『ポンチ肖像』は、凹天の実人生にとって思い出深いばかりか、晩年になっても自信作だったのでしょう。自筆年譜は、そのことを裏付けています。


第30回「下川凹天の最初の妻 磯部たま子の巻その7」川崎市市民ミュージアム所蔵


  そして『ポンチ肖像』は、凹天にとって忘れがたいたま子との愛の結晶だったのかもしれません。この本の大きさは、国会図書館所蔵のものが、アーカイブ化されてしまったので意外と知られていないのですが、現在の文庫本サイズです。


『ポンチ肖像』



 後半は、山口旦訓(やまぐち かつのり)さんから、この凹天研究についての問い合わせがあった時の返信を紹介します。この凹天ブログの方法論や、今日に至る現状についてのドキュメントになっているからです。


宮国さんと片岡との凹天研究体制について


片岡 慎泰


早速のお返事ありがとうございます。長文失礼します。


宮古島出身で大岡山にいる宮国さんと岐阜県大垣市出身で町田市に住む片岡が、タッグを組んで Ecce HECO. のブログは、昨年4月より連載が始まりました。私が、ちょっと難しくても、凹天や、彼に関わる人やことについて一本の幹を書いています。


宮国さんは、最初の裏座で沖縄ないし宮古関係、もしくは現代の目から、私の書いた内容を引き出していきます。そして再び裏座で沖縄ないし宮古関係、もしくは現代の目でまとめるという構成になっております。その前史として沖縄県文化振興会の助成を一般社団法人 ATALAS ネットワークとしていただき「島を旅立つ君たちへ」と市民講座を開催いたしました。


山口さんの「び、びっくり」は年賀状だけでしょうか。


一言お断りのメールを入れてオッケーを頂いたと理解し、掲載させていただきました。


年賀状ではなくて、ブログ全体がこれまでと違っていることでしたら、少々込み入った事情がございます。


実は、裏座の宮国さんとこのブログ全体の編集をする東京都立川市出身で宮古島在住のモリヤダイスケとの間で、宮古に対する考え方の相違が激しくなり、今回はいつもコンテンツをブログに挙げる役割だったモリヤに代わり、宮国さんが挙げた経緯がございます。そこで、レイアウトや語句、てにをはの誤りは少しずつでも、元の形にしたいと存じます。電子媒体のありがたいところです。


自分から申し上げるのも恐縮なのですが、ブログを書くたびに国会図書館に通ったり、そこになければ、他の図書館、資料館から本を取り寄せたりコピー、もしくはアマゾンや日本の古本屋というサイトから本を買って、原典に当たりながらブログを書いております。


そこで分かったこと、新事実については、今のところ論文ネタではあっても、皆さまに凹天を知っていただくために必要と判断したら、すべてブログに公開しております。山口さんのおっしゃるとおり、現在、私は跡見学園女子大学と拓殖大学で、非常勤講師としてドイツ語を教えております。専門はドイツ文学で、特にゲーテを研究してまいりました。おかげさまで、大学の図書館を利用して、公共機関の著作や論文のコピーも手にいれることができます。


町おこしとお書きになってますが、大きな意味ではそうかもしれません。しかしこのブログに関していえば、宮古(宮古島には8島ありまして、それぞれまったく違うメンタリティをもっているため宮古と総称しております)が、伊良部大橋の完成、自衛隊派遣、LCC の導入などで、大きな歴史的転換を迎える時期に、いまなおハコモノに予算を付けて、おそらく実体として失われていってしまう宮古ならではの歴史、文化、風物をきちんと残していこうというところから始まりました。


「宮古の将来は宮古の人びとが決める」というスタンスからはブレずに、一貫してやっているつもりです。というのも、本土から来た研究者を始め、島外の資本などが、島の気持ちを踏みにじるような形で、自分のおいしいとこどりをしてきたからです。島の人は優しいので、何も言いません。


でも、そのようなやり方に大きな声は挙げませんが、きちんと見ています。


私が宮国さんと知り合ったのは、10年ほど前でしょうか。当時、私が昭和女子大に勤めていた時に、「元気でママチャレ」という、今で言えば、文科省の肝いりでマタハラ対策をサポートできるように、出産で退職を余儀なくされた女性のサポートプロジェクトの一貫として、NGO 概論を担当したのですが、その時の受講生のひとりが宮国さんでした。


彼女は、宮古の若者のためにきちんとサポートできる組織を作りたいと相談してきました。私は、NPO 法人境川緑のルネッサンスの創設メンバーで、その当時は理事長を務めていました。そこで、そこで何かイベントを打ちたいなら、実行委員会方式。もう少し宮古の若者を持続的に関わるようにするなら一般社団法人を作るのがいいとアドバイスしました。ちょうど法人改革の最中の時期です。


当時私は忙しく宮古の問題に関わるような余裕がありませんでした。宮国さんは、「元気でママチャレ」のカリキュラムを無事修了しました。ここで一旦関係は切れました。


ところが、ある日グーグルが「あなたの友達でありませんか」というサービスを始め、そこで宮国さんが私に友達申請してきたのです。そして再会したわけですが、すると一般社団法人 ATALAS ネットワークという組織を作っていました。そこで私もお手伝いすることになりました。手始めにトヨタ財団に応募したのですが、もう少しのところで落ちました。


下川凹天の研究はまだまだ続けるつもりです。そこで次回は凹天がアニメーション映画を製作した時の撮影技師である柴田勝に焦点を当ててブログに挙げる予定です。


先日も凹天の盟友である山口豊専のご遺族に会ってきました。そこでいくつかの新資料を発見いたしました。メールに添付する方法が分かりませんので、後でお送りします。


返事になりましたでしょうか。


片岡慎泰 拝




【主な登場人物の簡単な略歴】


磯部たま子(いそべ たまこ)1893年~1935年失踪
凹天の最初の妻。詳しくは、第24回「下川凹天の最初の妻 磯部たま子の巻 その1」


宮国優子(みやぐに ゆうこ)1971年~2020年
ライター、映像制作者、勝手に松田聖子研究者、オープンスペース「Tandy ga tandhi」の主宰者、下川凹天研究者。沖縄県平良市(現・宮古島市)生まれ。童名(わらびなー)は、カニメガ。最初になりたかった職業は、吟遊詩人。宮古高校卒業後、アメリカに渡り、ワシントン州エドモンズカレッジに入学。「ムダ」という理由で、中退。ジャパンアクションクラブ(現・JAPAN ACTION ENTERPRISE)映像制作部、『宮古毎日新聞』嘱託記者、トレンディ・ドラマ全盛時の北川悦吏子脚本家事務所、(株)オフィスバンズに勤務。難病で退職。その療養中に編著したのが『読めば宮古』(ボーダーインク、2002年)。「宮古では、『ハリー・ポッター』より売れた」と笑っていた。その後、『思えば宮古』(ボーダーインク、2004年)と続く。『読めば宮古』で、第7回平良好児賞受賞。その時のエピソードとして、「宮国優子たるもの、甘んじてそんな賞を受けるとはなにごとか」と仲宗根將二氏に叱られた。生涯のヒーローは、笹森儀助。GoGetters、最後はイースマイルに勤務。その他、フリーランスとして、映像制作やライターなど、さまざまな分野に携わる。ディレクターとして『大使の国から』など紀行番組、開隆堂のビデオ教材など教育関係の電子書籍、映像など制作物多数あり。2010年、友人と一緒に、一般社団法人 ATALAS ネットワーク設立。『島を旅立つ君たちへ』を編著。本人によれば、「これで宮古がやっと世界とつながった」とのこと。女性の意識行動研究所研究員、法政大学沖縄文化研究所国内研究員、沖縄大学地域研究所研究員などを歴任。2014年、法政大学沖縄文化研究所宮古研究会発足時の責任者だった。好きな顔のタイプは、藤井聡太。口ぐせは、「私の人生にイチミリの後悔もない」。プロレスファンならご存じの、ミスター高橋のハードボイルド小説出版に向けて動くなど、多方面に活動していた。くも膜下出血のため、東京都内で死去。


藤巻章記(ふじまき あきのり)1947年~
ミュージシャン。都立青山高校を経て上智大学卒業。文部省の給食業務に勤務。55歳の時に早期退職。その年に結婚。趣味はバイクと音楽。


岡本一平(おかもと いっぺい)1886年~1948年
漫画家、作詞家。妻は小説家の岡本かの子。岡本太郎の父親。東京美術学校(現・東京藝術大学)西洋画科に進学。北海道函館市生まれ。卒業後、帝国劇場で舞台芸術の仕事に携わった後、夏目漱石の強い推薦で、1912年に朝日新聞社に入社。漫画記者となり、「漫画漫文」という独自のスタイルを確立し、大正時代にヒットメーカーになる。明治の樂天、大正の一平と称される。東京漫畫會から、漫畫奉公會まで、多くの団体で凹天と関係する。凹天の処女作『ポンチ肖像』の序文を書く。『一平全集』(全15巻・先進社)など大ベストセラーを世に送り出す。口ぐせは、50円もらったら、80円の仕事をしろ。かの子の死後、すぐにお手伝いの八重子と結婚。4子を授かる。漫画家養成の私塾「一平塾」を主宰し、後進を育てた。戦中は、書生のひとり(実は元妻かの子の愛人)の伝手で、岐阜県美濃太田市に疎開。疎開中は、地元民と「漫俳」を作り、慕われる。当時の加茂郡古井町下古井で入浴中、脳溢血で死去。急死のため、葬儀には太郎などの他、漫画家では、宮尾しげお、横山隆一、横井福次郎、和田義三、小野佐世男しか集まれなかった。


トーマス・ハイネ 1867年~1948年
画家、イラストレータ。ライプチヒのユダヤ系実業家に生まれる。本名は、ダーフィット・テオドール・ハイネ。Th.Th.Heine の名前で作品を発表することもあった。風刺漫画週刊誌「ジンプリチシムス」(大馬鹿者の意)の風刺漫画家として活動した。ナチスの迫害から逃れるために最終的にスウェーデンに亡命した。


松下井知夫(まつした いちお)1910年~1990年
漫画家。東京府に生まれる。本名は市郎。明治大学卒。他のペンネームに、晴山英多、関英太郎。北澤楽天に師事し、子供向け長編物語漫画家の草分けのひとり。戦前は、楽天門下の若手が集まった「三光スタヂオ」のリーダー。『東京毎夕新聞』では、凹天の下で働く。凹天が『國民新聞』に移った後は、『串さしオデン』を連載し、好評を博す。1946年、共同通信漫画部創設者。1948年、海老沢重郎、池田寿天、植田種康とともに、『漫画プレス』を創刊し、漫画を主宰する。『漫画プレス』は戦後初めての漫画専門誌で、松下井知夫の下には、山本富夫、飯田茂がいた。漫画投稿者には、小島功、関根義人、やなせたかし、境田昭造、八島一夫がいた。当時、原稿料は1枚100円で、まっこりが2杯くらい飲めた。若者の面倒を見るのが好きで、手塚治虫、馬場のぼる、森哲郎、イワタタケオ、針すなお、関根義人、八島一夫らと「ストーリー漫画研究会」を主宰する。そこで、凹天を稲毛温泉に招くこともあった。また、近藤日出造、横山隆一、杉浦幸雄らと「漫画集団」を結成し、その中心的メンバーとなる。代表作に『ナマリン王城物語』、『新バクダッドの冒険』など。手塚治虫の媒酌人を務めたことでも知られる。日本語の日常的用法にも関心をもち、日本語の言葉としての魅力を解説した『コトバの原点:アイウエオ』は、NHKなどのマスコミの教材に使われた。『漫画集団』在籍時には、話術の巧みさから、「教祖」と呼ばれる。弟子に、多田ヒロシや山藤章二、水野良太郎などがいる。晩年は目を患う。心不全のため、自宅で死去。


パウル・ヒンデンブルク 1847年~1934年
正式には、パウル・ルートヴィヒ・ハンス・アントン・フォン・ベネッケンドルフ・ウント・フォン・ヒンデンブルク。軍人、政治家。ユンカー出身。プロイセン王国ポーゼン生まれ。職業軍人の家に生まれる。プロイセン士官学校祖卒。普仏戦争までは従軍したが、その後平和な時期を軍人として過ごす。退役後、第一次世界大戦の勃発で、第8軍軍司令官に任命される。タンネンベルクの戦いでロシアを破り、国民的英雄になる。実際には、軍人としては無能であったが、ヒンデンブルクと部下のルーデンドルフの軍功として喧伝された結果であった。1925年、ヴァイマル(ワイマール)共和国第二代大統領に就任。1933年アドルフ・ヒトラーを首相に任命する。大爆発事故を起こした飛行船の名前としても有名。日本でも凹天など多くの漫画家の似顔絵の対象になる。


山口旦訓(やまぐち かつのり)1940年~
ジャーナリスト、日本初期アニメーション映画研究者。宝くじ研究者。東京府麻布區霞町22番(現・東京都港区)生まれ。福井県へ疎開の後、1950年に東京に戻る。
詳しくは、第10回 「下川凹天の盟友 山口豊専の巻 その2 」第25回「下川凹天の最初の妻 磯部たま子の巻その2」

【2023/03/21 現在】



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