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2021年11月22日

第27回「下川凹天の最初の妻 磯部たま子の巻その4」




 今日は宮国さんの一周忌です。トップバッターは、法政大学沖縄文化研究所元所長の屋嘉宗彦(やか むねひこ)さんです。


宮国優子さんを偲ぶ


屋嘉宗彦


宮国さんとは法政大学沖縄文化研究所で知り合った。宮国さんが総合講座に来たときか、あるいは何か調べ物で来所したときかだったと思う。森本さんに紹介してもらった。宮古の人らしい、どこも縮こまることのない明るさと大きさがあった。


宮古在住のある先生に総合講座の講師をお願いするため、宮古へ飛んだことがある。別用で宮古に滞在していた宮国さんは、私と先生が会うための手筈をととのえた上、一緒に先生を説得に来てくれた。一通りの話が済んだあとというかそれと一緒にというか、宮国さんと先生とが延々と語り合う宮古の話の断片は今でも記憶に残っている。


先生は、高齢を理由に東京での講義を承知してくださらなかった。他にも理由があったのかもしれないが、宮国さん同様、剛直な宮古の人だった。次の日、ひとりで旧平良市内の御嶽めぐりをして、その次の日は宮国さんグループの狩俣、池間ツアーに参加し、夜は宮国さんのグループの飲み会に参加させてもらった。参加の宮古の人たちも色々な個性があるのだろうが、まずは宮国さんと同様な気質を強く印象づけられた。


その後、総合講座のあとの懇親会では何度も宮国さんと一緒に飲んだが、深く話し込むことなく、「自由が丘で今度!」というのが解散して別れるときの合言葉であった。そのうちにと思っているうちに宮国さんがいなくなってしまった。


 こんにちは。お久しぶりの片岡慎泰です。


 たま子の精神的変調は、好転の兆しもなく、悪くなるばかりでした。われらが凹天は、金銭的に困っていたにもかかわらず、妻を病院に入れたり、いろいろ手を尽くしました。


 もっとも、凹天自身が、妻の快癒を願っていたとしても、その時代の言動はひどいものでした。それは「変人」という一言で片付けられません。慧星会(すいせいかい)や、東京毎夕新聞時代における乱痴気ぶりは、それはそれはすごいとしか言いようがありません。時代は、世界恐慌、昭和恐慌へと向かっていきます。


 後年、凹天の弟子である石川進介(いしかわ ちかすけ)は、山口豊専(やまぐち ほうせん)の追悼文で、次のように記しています。


 「私が昭和の初めの頃に、東京毎夕新聞の漫画ペーヂ担当の下川先生の門下生同人にあった時、同人大先輩としての山口さんに初めてお目にかかりました。
 当時の同人軍といいますと、山口さんの匹敵に黒沢、益子、内田、八木沢、富山、武井、鈴木(利三)、石川、というメンバー。慧星会という名の会でした。
 会の毎回の例会(銀座五丁目出雲亭)をはじめ・・・クロッキー会、観桜、ピクニック、祭礼行事、ダンスと大騒ぎの催事がつゞき、漫画の世界いうのはこんなにすさまじいものかと・・・・・・と目を見張らせられたものでした」。


 石川信介は、この時代から、凹天の最晩年までずっと一緒に活動し、凹天の遺品を受け継いだところから、まさに「高弟」と呼ばれるのにふさわしい人物です。


 佐宗美宗(さそう よしむね)は次のような追悼文を書いています。


 「森熊猛氏を『クマさん』と呼ぶ様に、信介さんの『チカちゃん』はわれわれ仲間でも、一番の長老で、たしか八十八、九才になると噂をしていた。黒ベレー帽子を前深く冠り(これは禿げかくし?)いつもキレイにヒゲを剃り身だしなみのダンディーさは年より若く見えたのかも知れない。私が昭和七年六月(六十三年前)銀座数寄屋橋のランチカウンター(アラカルト食堂)の二階で新漫画派集団旗揚げ創立時代、黒沢はじめ、益子善六(しでお)氏らの慧星会(下川凹天先生)から、少し遅れて参加されたチカちゃんだったが、最初から親しく声をかけてくれた人だった。当時、すでに彼は26才、近藤日出造、横山隆一氏より3才上か、私より7才上だったが、中折帽子にダブル背広のモダンボーイで集団ではお兄イさんだったわけ。下川凹天先生と信介さんの師弟関係は久しい」。


野田市郷土市博物館・市民会館所蔵

野田市郷土市博物館・市民会館所蔵


 野田市文化功労者表彰式にて。杖をついているのが凹天。最後列が石川信介。左隣が山口豊専(写真提供:山口君子様)

野田市文化功労者表彰式にて。杖をついているのが凹天。最後列が石川信介。左隣が山口豊専
(写真提供:山口君子様)


 凹天の遺品については、このブログで書きましたが、2019年の台風19号の影響で、資料がどうなっているのか分かりません。また、移転問題もあるため、すでに始まった修復資料のアーカイブ化が進むことを祈るばかりです。

 2019年にあった台風19号の影響で水没した凹天資料の一覧です。どこまで修復が進んでいるのか、調べることができませんが、川崎市市民ミュージアムの協力者の尽力に期待しています。


下川凹天関連収蔵品リスト
(別ウィンドウが開きます)


 凹天門下のもうひとりの高弟と呼ばれる森比呂志(もり ひろし)は、1931年、初めて凹天と出会ったのですが、その時のことを記録に残しています。


 「昭和六年私は毎夕新聞の投稿家として選者であった凹天先生にはじめてお目にかかった。その頃先生は、世田ケ谷の豪徳寺駅のそばに住んでおられた。自らを遺伝梅毒と称し道を歩くにも頭の上に氷のうをのせている、と何かに書いていたが、お目にかかってみるとそのような気配はなかった。これも詩人らしい自虐の歌か。きれいな奥さんがいた。先生が中央新聞に籍をおいているときに向かいあわせの机にきれいな奥さんがいてチラチラと先生に秋波を送ったという。そんな縁で一緒になったというお話をうかがったが、このロマンスも詩人らしい歌がきこえる」。


 すでに書きましたが、磯部たま子との出会いは、『ポンチ肖像』が機縁です。ということは、中央新聞時代に出会ったというこの女性は誰なのでしょうか。現段階では、たま子が、中央新聞に在籍した記録はありません。また、二番目の妻、菅原なみをと結婚したのは、1940年です。


 いくつか仮説を述べておきます。


  1. ①この記録の「きれいな奥さん」は、たま子で、凹天が、弟子をけむに巻いた。
  2. ②実は、まだ現段階では知られていない愛人がいた。
  3. ③二番目の妻となるなみをとすでに一緒に暮らしていた。

 森比呂志は、当時、駆け出しの漫画家でした。豪徳寺で初めてあったふたりが、どういう経緯で一緒になったか、知る由もなく、その時点では、知ろうとも思わなかったでしょう。


 ただ、当時のたま子の病状からすると、一緒に暮らせたとは考えられません。


 また、時代背景として、愛人がいても不思議ではありません。しかし、弟子などの記録から判断すると目に余るものがあります。もちろんこれは、現代の基準からですが。ただし、凹天の行状は、今ならネットで大炎上でしょう。例えば、1937年7月17日付『讀賣新聞』夕刊では、こんな特集が組まれています。それは、当時における芸能界の大物が、東京各地のデパートをめぐり、デパートガールを品定めしながら、「嫁探し」をするという企画でした。曽我廻家五九郎(そがのや ごくろう)、初代柳家三語樓(やなぎや さんごろう)、東喜代駒(あずま きよこま)、ラッキーとセブン、渡邊篤(わたなべ あつし)とともに、冒頭に登場するのが凹天です。


デパート(ジャパンアーカイブスより転載)

ジャパンアーカイブスより転載


 「“デパートでお嫁さんを探したい”とはだれも願ふところ女軍氾濫の大河だ、その魚たちは薄い鱗の下に、ピチピチと肉の躍動を見せてゐる、いまこのときだ!藝能人氣者は花嫁探しの釣竿をもつて、敢然糸を垂れた、釣りあがったか?美しい魚が手に入れば、誰か秋のシーズンに結婚するかもしれぬ」。


 デパートガールは、当時の女性にとって、花形職業でした。とは言っても、社会的地位は、低かったという証言も残されています。以下の記事も今ならネットで大炎上でしょう。 


 「銀座松屋
 冒頭に凹天登場。一階はむせ返る暑さ、水着賣場がシーズンの寵児ぶりをみせて、學生や娘サンの山、山、山…こゝへ颯爽と登場した若者(ですか)こそわが花婿凹天サン、見つけた!獲もの!!、
 “あのいまゐた518の人は”凹天サンは監督さんを呼んで直會はせ、すぐに鉛筆をナメて素早くスケツチ、サテー
 “あンた何ンていふンです”
 四十五歳の彼氏、ちよいと言葉がぞんざいだ!
 “上野たまのといひますの、山梨の都留女學校を卒業して母とふたり暮らしですワ”
 “えゝ養子にボクを欲しいつてンですつて”
(ヘコ先生、耳が遠いふりでせう)
【下川凹天サンの言葉】あの人は模範店員だとさ、僕はゴツゴツしてゐるンで反對にまる顔の娘が好きさ、あの娘さん貰ひたいな、待てよ家に帰つて女房と一つ相談しよう
【上野たまのさん曰く】こはさうな顔していらつしゃるが、案外親切さうな人ネ、だけど、二廻りも違ふんですもの、それにあたし、獨り娘でせう…ネ【漫畫は凹サン筆の上野たまのさん】」。


 さらに、後年の凹天が、最初の妻たま子の存在を隠そうとしていたことから、このブログでは、すでにこの時期には、菅原なみをと暮らしていたということを記しておきます。 


 後半は、ミュージシャンのアラカキヒロコさんです。


「あたらす」


アラカキヒロコ


優子さんについてブログ記事を書いてもらえないかとお話をいただいたとき、「もちろんです」とお受けしたものの、いざ綴ろうとするとなかなか筆が進まなかった。


相手を選びそうな話題でも話がどしどし弾んでしまう、あるいは、物事に対する感覚の微妙なニュアンスを受け止めて言葉を交わし合えるような関係性になれる人は、私の人生にはやたらめったら登場してこないが、優子さんはそれができる貴重な人だ。話していると心が自由になれて嬉しい。ただ優子さんをめぐる気持ちの大部分は他の誰でもない本人に言いたいことなので、優子さんが目の前にいない今、どうしようもない、仕方ないので一人想いを馳せることにして、ここでは、私から見えていた優子さんとの景色の一部を綴っていこうと思う。


優子さんとはじめて会ったのは、2014年の7月、優子さんが運営していた東京・大岡山にある、“カフェかバーか、はたまた誰かの家のリビングか、といった趣の場所”「Tandy ga tandhi (タンディ ガ タンディ)」だった。


それ以来タンディでは何度かライブもさせてもらった。優子さんは私の音楽をとても気に入ってくれたようで、店内に音源も置いてくれて、かつ流しまくってくれたので(そういえば、CD をまだ置きっぱなしかも)。曲を記憶した常連のお客さんたちがライブで歌を口ずさんでくれた。さらに「あの曲を歌いたいから」とリクエスト、ついには私の CD 音源を流しながらみんなが歌うこととなり会場が歌声喫茶と化した。そうなるともはや本人の生歌がその場に必要なのか謎なのだけど(笑)、自分の曲を覚えてたくさんの人が歌ってくれる嬉しさをあの夜教えてもらった。タンディは今のところ音楽人生においてライブで合唱が起こった唯一の場所だと思う。


優子さんにはいつも自分の意見が明確にある。信義に悖ることや違うと思うことには積極的に物申し、(私ならスルーしてしまいそうなことも)違和感があれば納得いくまで意見を述べて徹底的にやりあう様は、アグレッシヴで律儀に見える。


そしてそれは往々にして宮古島への愛に端を発しているように見える。


以前、研究者の友人が翻訳に窮していた「アタラサヌ」という単語を優子さんに質問した時、「ひろこちゃん!これは私たちの社団法人 ATALAS の理念なのよ!偶然!」と、「あたらす」とは宮古島の方言で「かけがえのない」「大切な」「もったいない」などの人やモノへの愛着を示すものなのだと ATALAS サイトから抜粋して説明してもらったことがある。


私にとって「イベントで数時間滞在した島」だった宮古島が、優子さんがいたことで自分から訪れる島になった。島にいくつもの繋がりができた。すると、私が1歳の時に他界した祖母が宮古で育ったことも急に気になり出した。みゃーくふつを感じて街を歩き人と話すと、ほとんど記憶のない祖母が自分の中で現実感を伴って肉付き始めた。宮古が私にとって「対象」から「自分の一部」に広がり、それが私を豊かにした。


家族の話をしていた時だっただろうか、優子さんの「どんなに喧嘩していても、出かける時はちゃんと挨拶するよう(子どもたちに)言ってる」という発言を思い出す。それは海人的文化からきていた。海での落命は珍しいことではない。家族が漁に出る。最後に目も合わさず無視したまま海に出て、その家族が二度と帰ってこなかったとき、それはもう取り返しがつかない、ということだ。たしかにそのとおり、と思った。それ以来自分でも気をつけるようになった。


優子さんは必要以上にベタベタしないし、意見が違っても個人を尊重してくれる。だから、たとえば、沖縄島あるいは首里と宮古との琉球王朝時代からの関係性やその延長線上の文化について、首里出身の私と宮古出身の優子さんとで身構えずに話ができること、そのまったく異なる目線での想いや考えを交換できる時間の有り難さを想う。正直でフランクな優子さんを信頼している。


優子さんがよく使う「琉球弧」という視点も好きだ。


今、私は沖縄島に住んでいる。このあたりには島が無数にある。それぞれの島の数だけ、もとい、島の中にだって無数の個性的な文化がある。これは私のイメージだが、「沖縄県」「沖縄」「宮古」「八重山」・・・と区切って比較するとわりとミクロな話になり文化や想いの差異から生じる葛藤に焦点が合っていくことが多い気がしてならない。しかし、そこでふと「琉球弧」という視点にシフトすると、急に地球を宇宙から眺めはじめたような感動がある。ジオラマのような灯りのすべてに、ふたつとない個性が、人々の生活が、営まれ、魅力的な輝きを放ってひしめき合っているような。


優子さんが、私について書いてくれた記事がある。


note | 琉球弧は、宝石。アラカキヒロコさん。(2017年4月18日)


ライブ中に携帯をしきりに打っている様子だったので、急な用事でも入ったのだろうと思っていたら、私のことを書き留めていてくれたのだった。


どっちにしても、彼女の歌は、珠玉だ。今の沖縄島そのものだと思う。

琉球弧は、宝石。だれかが言っていた、ネックレスアイランド。
輝く島々で出来ている。似ているようで、どれもちがう。色も形も。
キラキラと、輝きだけが似ている。
自然にあれば、ただの石なんだけど、人が価値をつける。
それは美しいけど切なくもある。
アラカキヒロコさんの歌に似ている。


引用した理由は、正直言って半分は、私にはこんなふうに言ってくれる素敵な友がいるんだぜ、えっへん。という自慢だ(すみません)。


普段、自分の音楽をやるにあたって誰かが必要としているから/認めてくれるから、というのは気にしすぎないようにしている。他人の評価を基準にすると良くも悪くも心がグラグラとせわしないから。でもやっぱり、優子さんにこんなふうに言ってもらえたことは自分にとって励みだった。湿っぽい思考回路は昔さんざっぱら謳歌したので、今、もうあまり思い出を掘り起こして切ない気持ちになったりしたくないのだけど、読むと"miss"の気持ちがひたひたと押し寄せてくる。寂しい。(この優子さんへの気持ちも「あたらす」なのだろうか。)


輝く島々で出来ている。似ているようで、どれもちがう。色も形も。
キラキラと、輝きだけが似ている。
自然にあれば、ただの石なんだけど、人が価値をつける。
それは美しいけど切なくもある。


もう半分の理由は、そこにある文章にあらためて共感したからだ。そうなの。私も優子さんも、輝きの似た、色も形も違う、「同じ」になることはない宝石のような島々に生まれた。この島々は、輝いているから人に求められ、価値づけられ、そして次第に姿を変えていきもする。しかし名付けられ、ある文脈で価値あるものとして人々に捉えられ始めれば、評価はされるが、もう以前とは違うものになってしまう。


そのとき切なさを感じるのは、この場所を愛しているから。でも、変わっていくのを止めるのも違う。私は、変わりゆく抗いがたい流れの中で、どうせならこんなふうになってほしい、と言える人でありたい。ねえ、どう思いますか。いつだって好奇心に満ち、私だけでなくたくさんの存在に「輝き」を見出せる、未来の話ができる優子さんと、今、そんな話がしたい。




【主な登場人物の簡単な略歴】


磯部たま子(いそべ たまこ)1893年~1940年失踪
凹天の最初の妻。
詳しくは、第24回「下川凹天の最初の妻 磯部たま子の巻 その1」


宮国優子(みやぐに ゆうこ)1971年~2020年
ライター、映像制作者、勝手に松田聖子研究者、オープンスペース「Tandy ga tandhi」の主宰者、下川凹天研究者。沖縄県平良市(現・宮古島市)生まれ。童名(わらびなー)は、カニメガ。最初になりたかった職業は、吟遊詩人。宮古高校卒業後、アメリカに渡り、ワシントン州エドモンズカレッジに入学。「ムダ」という理由で、中退。ジャパンアクションクラブ(現・JAPAN ACTION ENTERPRISE)映像制作部、『宮古毎日新聞』嘱託記者、トレンディ・ドラマ全盛時の北川悦吏子脚本家事務所、(株)オフィスバンズに勤務。難病で退職。その療養中に編著したのが『読めば宮古』(ボーダーインク、2002年)。「宮古では、『ハリー・ポッター』より売れた」と笑っていた。その後、『思えば宮古』(ボーダーインク、2004年)と続く。『読めば宮古』で、第7回平良好児賞受賞。その時のエピソードとして、「宮国優子たるもの、甘んじてそんな賞を受けるとはなにごとか」と仲宗根將二氏に叱られた。生涯のヒーローは、笹森儀助。GoGetters、最後はイースマイルに勤務。その他、フリーランスとして、映像制作やライターなど、さまざまな分野に携わる。ディレクターとして『大使の国から』など紀行番組、開隆堂のビデオ教材など教育関係の電子書籍、映像など制作物多数あり。2010年、友人と一緒に、一般社団法人 ATALAS ネットワーク設立。『島を旅立つ君たちへ』を編著。本人によれば、「これで宮古がやっと世界とつながった」とのこと。女性の意識行動研究所研究員、法政大学沖縄文化研究所国内研究員、沖縄大学地域研究所研究員などを歴任。2014年、法政大学沖縄文化研究所宮古研究会発足時の責任者だった。好きな顔のタイプは、藤井聡太。口ぐせは、「私の人生にイチミリの後悔もない」。プロレスファンならご存じの、ミスター高橋のハードボイルド小説出版に向けて動くなど、多方面に活動していた。くも膜下出血のため、東京都内で死去。


石川信介(いしかわ ちかすけ)1906年~1995年
漫画家。東京府南葛飾郡吾嬬村(現・東京都墨田区東墨田)生まれ。明治中学卒。本名は石川忠進。あだ名は、本名の読み方「タダチカ」からチカちゃん。父は駿河台警察署長。最初は警察に勤める。新漫画派集團創立に少し遅れて、参加。大酒飲み集団で知られる慧星会会員だが、酒は飲めなかった。ナンセンス、風俗美人、水墨と画境を広げ、亡くなるまで似顔絵に意欲を燃やした。代表作は『エムさん』。ペットに猫の「チビ」、犬の「ムク」。ただし、猫嫌いだった。娘に千香子がいる。漫画広告賞受賞。漫画集団、日本漫画家協会、野田まんがクラブ、凹天の「百才スタートを励ます会」、千葉県漫画家連盟(メンバーに山口豊専、内田順三、横木健二などがいる)に所属。凹天亡き後の慧星会および下川凹天顕彰会会長。凹天の自筆年譜に二行書き加える。晩年は腎臓がんに苦しみ、肝硬変からで呼吸不全(心不全との記録もあり)死去。


山口豊専(やまぐち ほうせん)1881年~1987年
漫画家、日本画家。千葉県印旛郡白井(しろい)村(現・千葉県白井市)に生まれる。
詳しくは、第9回 「下川凹天の盟友 山口豊専の巻 その1」


森比呂志(もり ひろし)1912年~
漫画家。神奈川県橘郡田島郡小田(現・川崎市川崎区小田)に生まれる。
詳しくは、第3回 「下川凹天の弟子 森比呂志の巻 その1」



【2023/03/21 現在】
  


Posted by atalas at 18:00Comments(0)Ecce HECO.(エッケヘコ)