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2016年08月30日

第98回 「闘魂-1976‐ 開拓誠心-2008- 団結-2011-」



先週の「大野越開拓記念塔」から続くストーリーとして、今回は高野集落の石碑をご紹介します。タイトルの「開拓誠心」は高野集落の公民館(高野集落農事集会所)の広場に並んだ石碑のひとつです。

この「開拓誠心」は 2008(平成20)年に建立された記念碑で、入植50周年を前に集落の歴史(後半は土地改良事業について)を書き記した石碑となっています。まずは碑文のご紹介から。
本集落は、農業及び漁業を中心とした地域であり、旧平良市の中心部より東北六キロメートル離れた地点。元大野山林の一角に一九六一年(昭和三十六年)、琉球政府の移住計画により食料事情に悩む、大神島(十七戸)と多良間水納島(十八戸)、宮古本島(五戸)から計四十戸二七五名(昭和三十六年四月、男子百三十七、女子百三十八)の家族が入植し、当時は大野越と呼ばれていたが、同名の集落が存在していることから、集落名を改める必要に迫られ、役員(会長・知念邦夫、総務。狩俣徳蔵、顧問・狩俣喜一郎)によって発案され、昭和三十八年四月二十五日も自治総会の承諾を得て、当自治会名を「野原の如く広々と高くそびえ立つ集落」、高野集落と命名し、旧大仲集落(六戸)を含め現在の自治区が形成されている。
本地区は、一九七二年の本土復帰に伴い、高野地区干拓整備事業促進により基盤整備を始め、農道、畑地かんがい施設等の整備が行われたが、畑かんがい施設等においては、施設の老朽化が進み、施設の利用が困難であり干ばつ時期においては、水不足等により、作物などに多大な影響を及ぼしている状況である。近来技術の発展により、国営地下ダムが建設され高野地区においても平成十五年度に、新たに県営かんがい排水事業が実施され、計画的農業の確立が可能となり今後の農業における後継者育成及び集落の活性化の要因となることを期待する。
土地改良事業に推進尽力された関係機関のご配慮に感謝し農業の発展と集落の未来永遠の繁栄発展を願いここに記念碑を建立する。
平成二十年十一月二十五日

碑文は校正せずに発注したような、怪しい読みにくさがありますが、句読点の加筆を覗き、原文のまま記載しました。前回も参考にした仲宗根將二先生の「近代宮古の人と石碑」(1994・私家本)によると、高野への入植(当時は大野越開拓計画)は平良市の事業とされ、琉球政府は1947(昭和22)年に、集団農場を開設して食糧危機に対処したとされています。
尚、水納島の住人の大半が離島したため、学校の維持が困難になり、休廃校を余儀なくされ、それにともなって更なる離島が進むことになります。
また、気になる記述としては1972年の復帰時の高野地区干拓整備事業というもの。干拓とは海や湖沼などの水面を埋め立てて陸地化することなので、単純に開拓整備事業の記述間違いと考えられまずが、先週の大野越でも低地のために水の出やすい地域で、排水隧道を整備するなど開拓に際して土地改良をしていますので、ただの開拓というよりは、排水事業に重きが置かれていたのではないかと考えられます。
ちなみに大正時代の地図には大野山林の山裾は湿地マークがしっかり記されていますし、終戦直後の米軍作成の地図にも、大野山林には排水路らしきものが書き込まれています(隣接する農地には水色の用水路があり、1947年頃の集団農場と考えられる)。もっと古くにはマラリアの危険が潜む低湿地を、宮原(宮積)の名子が開拓させられていたという史料も散見できます。

【左】大正時代の地形図。現在の高野集落は地図上の大野山林と東仲宗根添と書かれている間の平地あたり。地図内の上の方にある山川と書かれた集落(斜線の四角)は、福山より南で、後の大野越よりは北に位置するが、そのような集落は現在、見当たらない(真の消滅集落はコチラなのではないかと思われるが、現状では資料がない)。
【右】戦後すぐの米軍制作の地形図。網の目のような水路は集団農場と思われ、高野集落はその北側の緑で書かれた大野山林を開拓して作られます。地図の上の方の水色の四角(人工の池のようだが、現在はこの付近には畑しかない)の下側、大野山林を削るように破線が書かれているところが大野越集落。そしてその上方に数軒だけ家が書き込まれているのが、前出の山川集落になる。


集落の東端にある高野集落農事集会所(公民館)の広場に、「開拓誠心」を含むいくつかの石碑が並んでいます。、今回のタイトルでもふれていますので紹介しておきましょう。

一番左の「団結」は、2011(平成23)年に迎えた高野集落への入植50周年を記念した石碑。
「団結」の歴史、記念碑に/高野入植50周年を祝う (宮古毎日 20111024)
そのお隣は「闘魂」。1976(昭和51)年の入植15周年を記念した石碑。50年目の碑とは刻まれた文字の内容に大きな差を感じました。
勝手な妄想ですが、入植して15年。開拓した村を維持するために闘って来て、ようやくひと息つけた頃だっのではないでしょうか。そして50年目は島の都市化の波と、集落の高齢化から、散りかけている求心力を取り戻したいという願いが込められているように感じました。
そして三つめ、今回のメインでご紹介した「開拓誠心」です。
全体図では少し見づらいですが、そのさらに隣にもうひとつ石碑、というか石板があります。
こちらは「開拓誠心」の中でもふれている2008(平成20)年に完成した、県営かんがい排水事業によって建立された、高野集落のあゆみを紹介するもので、写真をふんだんに使って集落の歴史を振り返っており、一見の価値が高いものとなっています(集落の由来を紹介する文中の入植年月日が、高野へと名称変更した年と混同され、昭和38年と書かれている誤植がありますが、年表には正しく昭和36年と記載されている)。

最後は島の集落にはかかせない、御嶽についてふれておこうと思います。
開拓集落である高野の村としての歴史はまだ50年少しと浅いですが、開拓後に開かれた御嶽がちゃんとあります。つまり、古くからあるものと考えられがちの御嶽も、新たに生まれることがあるというケースがここでは見ることができます。
高野の里には、水納御嶽、高野御嶽、ナカドゥイ御嶽の三つの主要な御嶽があります。いずれの御嶽も公民館から一周道路を挟んだ海側の、漁港に降りる道の東側の森に安置されています。
水納御嶽は水納島出身者が、高野御嶽とナカドゥイ御嶽は大神島と平良市内出身の人々が、それぞれ参拝する御嶽となっています(ナカドゥイ御嶽は大神島のウプ御嶽の石をイビとした遥拝の御嶽)。
高野集落。決して大きな集落ではありませんが、水納島と大神島の民俗や歴史とともに移り住んでするので、多良間の伝統行事であるスツウプナカも行われていたりします(近年、休止となっているとニュースで耳にしたので気になります)。  続きを読む



2016年08月26日

其の4 島を第2のフルサトに!カズコさんの民泊事業事始め



年々、旅行先として人気が高まる宮古島。とある旅行会社の調査では、この夏、もっとも行きたい旅先として、宮古島の名が京都に次いで第2位に番付けされたという。修学旅行の受け入れも増え続け、ホテル宿泊3泊4日というかつての定番スタイルが、今では、農家漁家の一般家庭に滞在する民泊が主流になっている。小学生の教育旅行を含め、その数、年間約50校、のべ1万人というから、今や民泊は、島の重要な産業のひとつといってもいいくらいなのだ。

最初は民泊の意味もわからなかったさ
座布団も湯のみも食器も上等なのを用意して
はい、いらっしゃいませと
旅館みたいにやらなければならないのかと


伊良部島で民泊事業を切り盛りするのは伊良部漁協の普天間一子さん(以下、カズコさん)だ。観光協会から、民泊をやってみないかと声をかけられたのは4年前。その頃、漁師たちは不漁に苦しんでいた。水揚げが少ないから、燃料代やら氷代やら、漁協への未収がたまる。漁師も漁協も苦しい中で、なにか収入の途を開く必要に迫られていた。民泊の話は渡りに船だったという。

受け入れの民家を確保するだけじゃだめ
漁師と船で漁以外の収益を上げさせたいわけさ
船の体験という魅力で修学旅行生を呼ぶこともできる
でも、漁師たちはまったく乗り気じゃない
そんなこと誰もやらんよと


総会を開いて説明を繰り返しても、何か月も反応がない。お願いして回っても、聞く人はいない。そこで、カズコさんは考えた。それぞれのグループの中の長をまず「倒す」と。そのひとりが普天間のおじいだ。アギヤー漁師の大親分で、カズコさんの舅でもある。最初は聞く耳もなかったおじいだが、修学旅行生を民家で受け入れていくらになり、さらに船の体験で、これだけの収入が島に落ちると具体的に数字を上げ、さらに体験は、漁から帰ってからでいいと、カズコさんは辛抱強く訴え続け、普天間のおじいはついに折れた。

普天間のおじいを倒し、次に国吉丸に行ったね
普天間丸はやるよと言ったら、なら自分もやると
そして福里丸へ、普天間丸も国吉丸もやるけど
あんたんとこはどうするかって


カズコさんの作戦は功をなし、8艘の漁船が協力してくれることになった。受け入れ民家も確保し、いよいよ佐良浜での民泊事業と漁船体験が始まった。その第一弾が、日本各地の民泊受け入れ事業者の度肝を抜く、200名のサバニクルーズだ。

こどもたちをサバニに乗せて、建設中の伊良部大橋を見て
箱眼鏡で海の中のぞかせて一回り40分というプログラム
それがみんないつまでたっても帰ってこない
カツオのエサが入ってる生け簀でこどもたちを泳がしてるわけさ


こどもたちはもちろん大喜び。グルクンの稚魚がうじゃうじゃといる中での水遊びだ。楽しくないわけはない。こどもが喜び、それを見て漁師たちが喜び、カズコさんもじょーとー、じょーとーと思っていた。しかし、それが後に観光協会やファシリテーターらから大目玉をくらうという事態になる。

プログラムに入っていない内容はさせちゃいけなかった
事故があったらどうするか、誰が責任持てるのかと
おじいたちが、いつものように、船で煙草ふかしてるのも問題だった
それだけじゃない。民家のおばあなんかも、まるで自分の孫と思うから
お土産持たせたり、こづかいあげたりもするさ(笑)


あれはダメ、これもダメと、ダメ出しの嵐のスタートだったが、そのたびに学び、修正し、勉強会を繰り返してきた。そして4年、受け入れ民家も増え、漁師のおじいたちも、余裕をもって受け入れられるようになってきた。修学旅行生たちが、島でひとときを「暮らす」姿は、すっかり見慣れたものだ。
そして回を重ねるほど、さまざまな背景を抱えたこどもたちとの出会いも増える。強度のアレルギーや重篤な病気を持った生徒も珍しくはないという。

最近まで抗がん剤治療をしていたという子がいた
これが最後の想い出になるかもしれないと言って
でも、受け入れ民家は、大丈夫、まかせておけと
この島に来たら元気になるさと胸を張るよ


子どもの状況に合わせ、栄養士や看護師の経験のある家、底抜けに明るく元気な家、口の堅い家とマッチングするのもカズコさんの仕事だ。中には、布団を膨らませ寝ているように見せかけて、夜中に抜け出す高校生もいる。行先はコンビニだったり、友人の宿泊先だったりと他愛もないが、カズコさんと民家さん、島の人たちとの連携プレーで、たいていの若気の浅知恵は玉砕される。

民泊した生徒が、家族を連れて来てくれたり、大学生になって友人と再訪してくれたりすることもある。「伊良部が第2のフルサトだと言ってもらえる。こんなにうれしいことはないさね」カズコさんは、今、受け入れ民家だけでなく、島全体が関わる伊良部ならではの民泊を目論んでいる。きっと、また、思い切りのいい大胆な企画で楽しませてくれるに違いない。

※     ※     ※     ※     ※

【あとがき】
最初は怖いもの知らずだったけど、あがい、やればやるほど怖くなってくるよ。毎回どうか事故がありませんようにと、塩と酒で神様にニガイるよ(お願いするよ)。そうカズコさんは言います。そういいながらも、他ではできないことをしたいと、大胆な次の手を考えられるのは、民家さんはじめ、島の人々と確固たる信頼関係を築いているから。
その信頼関係をベースに、カズコさんは、民泊だけでなく、漁協主体の観光事業にも乗り出します。佐良浜の迷路のような路地裏を歩き、民家を訪ねておしゃべりとお茶を楽しむ「やーがまくーがま」(あっちへ寄ったりこっちへ寄ったり)は、多くのメディアにも取り上げられ、ガイドでもあるカズコさんは、今やすっかり全国区。テレビで見ました!と大勢のお客様が会いに来る人気者なのです。
(きくちえつこ)
  



2016年08月23日

第97回 「大野越開拓記念塔」



今回紹介する石碑は、一周道路(県道83号線)の山川(平良)あたり。白川水源、新斎場、セメント工場、山川揚陸室の近くといえばもう少し判りやすいでしょうか(一部にマニア向け物件が混入していますが気にしないでください)。そんな県道脇にひっそりと建っています。碑文には「大野越開拓記念塔」と刻まれていますが石碑です。

宮古島南岸の宮国、新里、砂川、友利の4集落(後に高台移転)や、下地島の木泊村など自然災害(津波)によって廃村、もしくは移転となった例はとてもよく知られていますが、ジャングルの多い八重山の開拓村のように、果敢に自然に挑んだものの結果として衰退によって廃村(石垣島の安良や、西表島の崎山、網取、鹿川など)となったケースは、宮古では耳にすることはまずありません(人間の移動にともなう伝説レベルの村としての伊良部島の比屋地や、古文書に滅ぼされた村の記録として残っている松原のミヌズマやなど、詳細がはっきりしないものなどはあります)。

今回紹介する大野越は昭和の初めに開拓された入植集落ですが、現在このエリアには指折り数えても片手に余るほどしか人家がありません。地名も今は東仲宗根添の小字である山川と呼ばれているようです(北側に隣接する福山集落は字西原)。
そんな大野越は完全な廃村とは云い切れませんが、村建て当時のように集落を維持できているレベルはとうに失われていることは想像に難くありません。では、大野越集落はどのような集落だったのでしょうか。石碑から読み取れること書き出してみたいと思います。
起工 昭和五年十二月
竣工 昭和十年三月
工事従事延人数 拾三萬人
工事費 七萬七千圓也
受益面積 六町歩
施工者 宮里三郎、兼島方茂、宮里良栄、沖縄製糖会社
現場責任 古川仲*1
昭和十三年五月建立

石工 玉津卯三江*2
*1 「近代宮古の人と石碑」仲宗根將二・著(1994・私家本)には、古川仲ではなく、古川伸と記載があるが、石碑の刻字は仲と読める。また、「平良市史 第十巻資料編9 戦前新聞新聞集成(下)」にも、1931(昭和6)年の謹賀広告に「大野越耕地整理 古川仲(なかし?)」と記載がある。
*2 同じく「近代宮古の人と石碑」によると、石工は玉津伊三郎と記されているが、石碑刻字を見直す限り「卯三江」と読める。また、この人物は石碑の中でも建立の日付の後に書かれているので、この石碑(記念塔)を作った石工と考えられる。


大野越と云って最初に思いつくのは、聡明な読者貴兄なら、文化遺産となっている「大野越排水溝」ではないでしょうか。この排水溝は1928(昭和3)年から6年もの歳月をかけて完成した排水路と隧道(約600メートル)で、低地のために大雨が続くと水が溜まりやすく、マラリアの温床ともいえるような土地だった大野越を耕作地へと変貌させ、新たな入植集落を作り出しました。ところが作物に害虫が発生するなど、思うように収益があがらず、市内も近いことから生活のために農業をせずに町へ働きに出る人が増え、やがて次々と大野越を去っていったのだそうです。

この石碑の裏手に小さな祠が安置された御嶽があり、歩道の脇には大きく木を茂らせた古井戸もあり、集落であった名残をかすかに留めているといえます(一周道路は主要地方道なので、石碑のところには水準点も同居しています~こちらもマニア向け物件)。


戦後になり、大野越の変遷は新たな局面を迎えます。1947(昭和22)年、戦後の食糧難に宮古民政府が集団農場を開設して食糧危機を乗り越えます。また1959(昭和34)年から平良市が大野越開拓計画をスタートさせ、1961(昭和36)年4月に、大神島から17戸、(多良間)水納島から18戸、市内から5戸の計40戸が入植し、60町歩を新に開拓しました。
こうして文面だけで見ると、どれも同じ大野越に思えてしまいますが、戦後に開拓された大野越は、戦前のものとは場所もまったく異なることことから、後に集落名を高野と改めます(この頃までは、まだ戦前に開拓された大野越は集落として存続していた)。
そうなのです。かつて、高野集落は大野越と呼んでいたのです。
来週は村建て50年を超えた高野集落のお話へと続きます。  続きを読む



2016年08月19日

『続・ロベルトソン号の秘密』 第十六話「ドイツ領南洋-Deutsche Südsee-」



宮古で救助されたロベルトソン号の船長、エドゥアルト・ヘルンスハイムが、その後ドイツによる「南洋」の植民地化に貢献した、という内容の第十五話をお読みになって、ドイツにも植民地があったことを意外に思われた方も多いと思います。実はあまり知られていないことですが、ドイツも短期間ながら、世界各地に植民地を領有していました。今回は、本題からは少しそれますが、ドイツの植民地について紹介していきます。

【マーシャル諸島 ヤルートの港:ジャルート環礁の独語読み。南洋庁時代はマーシャル支庁のある中心地だったが、マーシャル諸島共和国の首都は北東約300キロにあるマジュロとなっている】

第十一話でも紹介したように、そもそもドイツは、統一国家を樹立したのが1871年で、他のヨーロッパ諸国に比べて国家統一が遅かったこともあり、統一以前の、領邦と呼ばれる小国が分立する状況下では、海外に植民地を獲得する動きはあまり見られませんでした(数少ない例として、1683 年から1717年にかけて、ブランデンブルク=プロイセン王国が、現在のガーナに交易拠点を領有していたことがあります)。

19世紀半ばになってようやく、勢力を拡大してきたプロイセン内部で、海外領土を獲得しようとする動きが生じます。その一環として編成されたのが「プロイセン東アジア遠征隊」(Preußische Ostasienexpedition)です。全権使節の名前を取って「オイレンブルク使節団」(Eulenburg-Mission)とも呼ばれるこの遠征隊は、1859年から1862年にかけて、東アジア各国との通商条約の樹立を目指してアジアに派遣され、日本、清国、シャム(タイ)との間でそれぞれ通商条約(不平等条約)を締結することに成功しています。今から5年前の2011年に、プロイセンと日本の間で通商条約が締結(1861年)されて150周年になるのを記念して「日独交流年」が祝われたのは、このことにちなんでいます。しかしこの遠征隊には、もうひとつのミッション、即ち植民地化の可能な土地を探す、という任務も含まれていました。そして実際に各地を調査した結果、特に台湾が有力な植民地として候補に挙がったこともありました。

このように、一時は植民地獲得を模索する動きもあったものの、その後プロイセンが中心となってドイツ統一が成し遂げられ、ドイツ帝国が成立(1871年)した後は、諸外国との融和を目指す帝国宰相ビスマルクにより、当面植民地獲得は行わない、という路線が堅持されることになります(プロイセンはこれまでに、北のデンマーク、東のオーストリア、西のフランスと戦争をしていたため、これ以上の諸外国との摩擦は避けたいとビスマルクは考えていました)。しかし、諸外国に倣ってドイツも植民地を持つべきだ、という世論の高まりを受け、ビスマルクも1880年代に入ると方針を転換、植民地獲得に乗り出すようになりました。

この政索転換の背景については、まだ研究が不十分なのでよくわかっていないのですが、ビスマルク本人はあまり乗り気ではなかったようです。むしろ、植民地獲得を求める(特にハンザ都市ハンブルクやブレーメンの)商人たちの要求に引きずられ、現状を追認する形で植民地領有に踏み切ったものと考えられます。事実ヘルンスハイムの日記にも、イギリスやフランスなど、諸外国の商人たちとの競争が激しくなっていく様子が描かれており、彼もまた太平洋地域をドイツ本国が保護領化(=植民地化)することを望んでいました。ヘルンスハイムが宮古を出航後この地で繰り広げた交易活動は、ドイツによる「南洋」植民地化のひとつの布石となったと言えそうです。

【カヌー マーシャル諸島:乗船人数が多いので、大型のアウトリガー付のセイリングカヌーと思われます。大洋州では逆三角の帆が特徴です】

次に、ドイツのいわゆる「南洋」植民地(Deutsche Südsee)の詳細について見てみましょう。

ドイツ領の「南洋」植民地は、大きく分けて「ドイツ領ニューギニア」(Deutsch-Neuguinea、公式にこの名称が使用されたのは1899年から)と「ドイツ領サモア」(Deutsch-Samoa)の2つに分けられ、このうち「ドイツ領ニューギニア」は、大きく「ドイツ領ミクロネシア」と「ドイツ領メラネシア」に分かれています。

【前回掲載の概念図~クリックで拡大します】 
ドイツ領ニューギニア
【ドイツ領メラネシア】
●ビスマルク諸島(とドイツが1885年に命名した地域)
ニューギニア島東部の沖にある島々(ニューブリテン諸島、ニューアイルランド諸島など7つの諸島からなる、いずれも現在のパプアニューギニアの島嶼部の州群の一部。第十五話参照)。
●カイザー・ヴィルヘルムス・ラント
ニューギニア島の北東部地域(現在のパプアニューギニア。おおむねモマセ地方の州群)。
●(地理的な呼称としての)ソロモン諸島の北部
ブカ島とブーゲンビル島(現在のパプアニューギニアのブーゲンビル自治州)。
ソロモン諸島の領有をめぐり、イギリスとドイツが対立したが、1899年に「サモア条約」が結ばれ、(現在の国名としての)ソロモン諸島(ガダルカナル島を中心とする島々)はイギリス領に、(地理的呼称としての)ソロモン諸島北部のブカ島とブーゲンビル島がドイツ領になった。
wikpedia ドイツ領ニューギニアの領有域の地図 1906】
【ドイツ領ミクロネシア】
●カロリン諸島(現在のミクロネシア連邦とパラオ共和国)
1899年にスペインから購入。東カロリン、西カロリン(パラオを含む)の2つの行政地域に分けられた。
●北マリアナ諸島(=マリアナ諸島のうちグアムを除く地域。グアムはアメリカ領)
1899年にスペインから購入し、1900年からドイツ領になる。
●マーシャル諸島(現在のマーシャル諸島共和国)
1885年にドイツが領有を宣言。
●ナウル(現在のナウル共和国)
1888年にドイツが領有。

ドイツ領サモア
現在のサモア独立国(旧西サモア)。
1899年に結ばれたサモア条約により、サモア諸島の西部がドイツ領に、東部がアメリカ領となる(東サモアは現在でもアメリカ合衆国の一部になっています)。

この他にも、一時的にソロモン諸島南部やガダルカナル島を領有した時期もあります。なおこれらの地域をめぐっては、ドイツの他に、イギリス、アメリカ、スペイン、フランスなど
様々な国の利害が錯綜しており、個々の地域の領有の経緯は複雑なのですが、以上がドイツの「南洋」植民地の概略になります。このうち、特にマーシャル諸島の領有とビスマルク諸島の領有には、ヘルンスハイム兄弟も大きく関与しています。

【ニューアイルランド島のヌサ:ニューアイルランド島の北端にある都市、カビエンの沖合1キロに、ヌサ・リク島とヌサ・ラワ島はある】

この他にもドイツは、主に以下の植民地を領有していました。

ドイツ領南西アフリカ(Deutsch-Südwestafrika)
現在のナミビア共和国に当たる地域。

ドイツ領東アフリカ(Deutsch-Ostafrika)
現在のタンザニア連合共和国の大陸部分(=タンガニーカ)及び現在のブルンジ共和国、ルアンダ共和国、モザンビーク共和国の一部。

ドイツ領西アフリカ(Deutsch-Westafrika)※リンク先は独語版
【カメルーン】
(ほぼ)現在のカメルーン共和国に相当。一時的に、現在のナイジェリア、中央アフリカ、コンゴ共和国、チャドの一部も含まれていた。
【トーゴラント】
現在のトーゴ共和国と、ガーナ共和国の東部。

膠州湾租借地(Pachtgebiet Kiautschou)
中国の山東半島の南部、黄海に面した地域。中心都市は青島。
1898年にドイツが清国から99ヶ年の期限で租借。ドイツ海軍の直轄地となり、東洋艦隊の中心地となる。
第一次世界大戦中は日本軍の攻撃を受け陥落、この地のドイツ人は日本各地に設けられた俘虜収容所に収容されたが、各地で現地の日本人との交流の機会も持たれた(徳島の板東収容所ではベートーベンの「第九」の初演が行われ、広島の似島収容所ではサッカーの親善試合が開かれた)。

またこの他に、ケニアの一部やソマリアの一部を領有した時期もありました。

しかしドイツは、第一次世界大戦(1914-1918年)に敗れたため、ヴェルサイユ条約(第一次世界大戦の講和条約。1919年)により海外の植民地を全て放棄することになります。カメルーンとトーゴラント東部はフランスの委任統治領に、トーゴラント西部とドイツ領東アフリカ(タンザニア)はイギリスの委任統治領に、ドイツ領南西アフリカ(ナミビア)は南アフリカの委任統治領となります。さらに「ドイツ領ニューギニア」のうち、赤道以北は日本の、赤道以南はオーストラリアとニュージーランドの、それぞれ信託統治領になりました。国際連盟の信託統治を任された日本は、赤道以北の地域を「南洋群島」と名付け、パラオ諸島のコロールに「南洋庁」を設置して統治を開始しました。

第十五話でも述べたことですが、宮古の人々によって救助されたヘルンスハイムが、ドイツによる「南洋」の植民地化に貢献し、その後このドイツ領が日本の信託統治領となったことで、宮古をはじめ沖縄各地からも多くの人々が移住した(「南洋群島」の各地が佐良浜の人々による南方鰹漁の拠点ともなった)というのは興味深い歴史の巡り合わせとも言えます。しかし同時に、これらの地が、アジア太平洋戦争の激戦地ともなり、多くの悲劇が生まれたという事実もまた、忘れてはならないでしょう。沖縄戦の悲劇さながらに、太平洋の島々もまた激戦地となり、民間人を含む多数の死者が出ました。また「南方」での日本軍の死者の多くが風土病や栄養失調、餓死によるものであった点も、最近の研究で指摘されています。

【北マリアナ諸島、カロリン諸島、マーシャル諸島、ソロモン諸島の位置関係図 ※クリックで拡大】

「南洋群島」における戦争の惨禍については以下の本で詳しく紹介されています。
井上亮:『忘れられた島々――「南洋群島」の現代史』(平凡社新書、2015年)。
これまで見過ごされてきた「南洋」における戦争の真相に迫った良書です。

8月15日の終戦記念日、さらに沖縄では旧盆も迎えた今週、先の戦争について、皆さんも改めて思いを馳せていただきたいですし、様々な視点から戦争について考えていただけたらと思います。今回のお話がその一助になれば幸いです。

毎回の寄り道ですみません。それと、これまで16回にわたり、かなりマニアックな内容を「狭く・深く」紹介してきたので、ここまでの話に付いて行けなくなっている方も多くいると伺っていて、恐縮しています。そこで次回は、ここまでの内容を再度整理して、ザックリとわかりやすく紹介するとともに、登場人物の関係図なども作って、一旦まとめをしてみたいと思います。  


2016年08月16日

第96回 「下崎砂山逸話の碑(仮)」



石碑-いしぶみ-とは記録です。さまざまな事柄について、いろいろ々な切り口で記録した静かなる媒体です。紙や映像、電子媒体に比べたら、圧倒的に堅牢で永続的に事象を後世に伝えることが出来ます。しかし、そんな石碑であっても物理的な災害や開発工事などで失われてしまうことが稀にあります。今回はそんな事象と偶然に発掘(再会)した電子媒体とを重ねた、やや個人的な事情も含んだ石碑のお話です。

こちらが本日の主役の石碑(主にコンクリート製)。荷川取の奥、最近なにかと開発の勢いが激しい、砂山へと続く下崎の集落の隅、伊良部島の佐良浜を望む小さなビーチにひっそりとたたずんでいます。

「下崎砂山逸話の碑(仮)」。表題にしたタイトルは仮称です。
なぜなら、長々と記された碑文の表題が失われているからです。
この石碑の存在に気付いたのは、今から10数年前。この地に公園が造成された頃でした。石碑の建立は平成11年8月とありますので、計算上では碑が完成して少したった頃に見つけた計算となります。

【石碑前の小さなビーチ】
石碑をしげしげとながめ、記録用にとデジカメで碑文を撮影をしました(割となんでも気になったらとりあえず撮影しておくタチなので)。
そこから月日は流れた数年後。台風一過の後だったと思います。たまたまその石碑のビーチへ出かけたら、コンクリート製の碑本体に張られていた文書の前半部分が失われてることに気づきます。
帰宅後、残念な気持ちとともに、かつてデジカメで撮影していたことを思い出して、パソコンのフォルダを漁って碑の文章を撮影した画像を探しだし、それを元にテキスト化をしました。恐らくその時は個人のBlogネタにするつもりだったと考えられますが、結果としてお蔵入りとなってしまったようです。

そして再び時は流れ、碑のことも、テキストのことも、画像のことも、すっかり忘れてしまった頃。
この「んなま to んきゃーん」の連載100回を前に、色々とネタの総ざらえ(過去のネタ漁りともいう)をして、たまたま古いUSBの中身を覗いたところ、碑文のテキストデータを発掘したのでした(松岡益男のよう、とったら大げさか?)。

【夏草に埋もれそうな砂山ビーチの銘板】
これは天啓とばかりに、今回の掲載を決意しました。そこで記事にするにあたり、在りし日の石碑の画像(テキスト化した時のもの)を捜索しましたが、残念ながらすでに画像は消失していました。実は石碑の発見(認知)から今日までの間に、二度のHDDクラッシュを体験しており、おおむね9年半分くらいのデータを喪失してるので、テキストが残っていたことも、ある意味では奇跡(偶然)だっと思うのでした。
ともあれ、テキストが残っていたことで、形は異なれど碑の全文を紹介することが可能であり、記事として成立させることができそうだと感じて書き始めました。それと同時に、改めて記録というものは本当に大事なのだと気付かれたのでした。

さてさて、つい個人的な与太話を引っ張ってしまいましたが、それでは碑文の全貌をご紹介します。
下地恵春氏の功労を称える

1972年、沖縄の本土復帰を前後して沖縄全域にわたり、本土の不動産業者等が暗躍し土地買い占めがおこなわれたが、その頃、砂山一帯の部落有地六九三-五(注:地番) 八千坪も県内業者に売却されたのである。
ところがその後、当該業者から、先に部落から買い取った土地は構[ママ]入以前の一九七〇年に実施された土地の一筆調査のとき、すでにA氏という個人名義に移転登記されているので、先に支払った土地大金の二倍、千八百万円を返納するよう部落に通知してきたのである。
部落民は、寝耳に水と騒然となり、何百年にもわたり培ってきた八千坪という広大な部落有地が、何故にA氏の個人名義になっているのか、幾度となく部落総会や役員会等を開いたが、その経緯は正に暗中模索の繰り返しで、その真相究明に至らないまま時は過ぎていった。
そのうち、法廷闘争に持ち込まれたが、七年間に渡る裁判の結果、一審は敗訴となってしまい、部落民は正に暗闇の中に突き落とされて為す術もなく、唯悶々として月日は経っていったのである。
そこで、下地恵春氏は部落のために一身を投ずることを決し、自分の仕事の多忙をも顧みず、事件の真相究明にあたったのである。私財を擲(なげう)って砂山一帯の登記簿謄本の新旧の比較、そして昼夜を問わずして先輩やお年寄りから証言を得るなど、東奔西走を重ね、苦心惨憺の結果、二審へ向けての真相究明の、六九三、二 六十四坪を口頭弁論の資料を作成して弁護士に呈しゆつするに至ったのである。
その苦労の甲斐あって、二審で勝訴するという快挙を成し遂げ、いよいよ下崎部落は下地恵春氏の努力により八千坪の代金、千八百万円も返納しなくてすむようになりました。
それから砂山一帯がダイエーに売却された時は、会社側は砂山一帯を開発し、リゾートホテルを建設し、地元の人を雇用する、地元の活性化にのためになるようにとの話がありました。しかし、八年たった時点では何の音沙汰もなく、畑は荒野となり、砂山に出入りすることすら出来なくなりました。
そこで下地恵春氏は遊休地の活用を思い立ち、農業法人組織を作り農業振興地域に指定するように市役所の農林課に働きかけました。二~三ヶ月経ってようやく農業振興ちいきにしていされました。しかし、会社側から意義の申し出がありました。
そこで下地恵春氏は会社側と話し合いを持ち、農業振興地域の除外の条件として、砂山への出入を自由にし、駐車場、トイレ、シャワー施設を設置する場所を公に提供すること、又、二千万円を下崎部落に支払うこと等のは話し合いが成立しました。
砂山一帯が当初の計画通り開発し、地元の活性化になるように祈念して止みません。
以上、申し上げたように八千坪の問題も解決し、砂山への出入も自由になり、駐車場、トイレ、シャワー施設も出来たしし、又二千万円という大金も下地恵春氏が砂山一帯の畑を農業振興地域に指定したので、その地域を除外条件として支払われたのである。総て下地恵春氏の努力であります。
この恵春氏の功績は、下崎部落の英雄として永く語り継いでいかなければならないと思い、ここに下地恵春氏の功績を称えこの碑を建立する。

平成十一年八月 日
代表者 下地政秀
期成会
こうした変遷を知ると、砂山ビーチの取付道路が上下線を分離したリゾートチックな作りとなっているのも納得です。逆にいえばこの恵春氏がいなければ、日本のビーチ2016のトップ10に選ばれることもなかったことでしょう(ただし、トリップアドバイザーの発表するランキングは、同サイトでの口コミ数の集計なので、純粋な統計とはやや異なります)
ちなみにダイエーのリゾート計画は、ダイエー本体の経営悪化によって計画自体が頓挫しました。その後、宮古島砂山リゾートへと計画は継承されましたが、こちらも債務超過から経営が悪化、2006年に会社更生手続きとなりました(現在は不動産会社ゼファーの子会社となっていますが、こちらも経営破綻から民事再生しています)。
今のところ、砂山ビーチ界隈でのリゾート開発の再会についての話は聞こえて来ませんが、今でも砂山ビーチへ向かう道路と駐車場を除く周辺の土地は私有地となっています。
そして面白いことに、島でも1、2を争う観光地である砂山ビーチの周辺地域は、ミニ開発が乱発して多くの自然が失われてしましたが、開発予定地として長年時間が止まったままだったリゾート開発エリアは、昔のままの自然を今に残し続けているという皮肉な結果となっています。

【左】今も掲げられている「私有地につき関係者以外立入禁止」の看板。
【中】開発の著しい下崎地区で唯一のまっちゃ(商店)だった下崎商店も閉店していた。
【右】石碑の前に広がる綺麗な芝敷きの整備された農村公園。
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2016年08月12日

11冊目 「ピンザの島」



8月、真夏の暑い日々が続きますね。子供たちの夏休みが羨ましい!。休暇がある人は、アウトドアも素敵ですが、図書館で読書しながら涼むのもよいのではないでしょうか。

今月の1冊は、ドリアン助川著『ピンザの島』という小説です。
ピンザとは宮古の言葉で、山羊のことをいいます。先月の妖怪の本、「琉球妖怪大図鑑(上・下)」にも出てきたカタアシピンザのピンザです。ただし、この本の舞台である“安布里島”のモデルは宮古島そのものではなく、色々な島の要素と想像とを組み合わせた架空の島だそうです。たしかに、宮古よりもずっと小さい孤島のような設定ですが、所々に宮古っぽいところや南の島らしい雰囲気もあります。

主人公の椋介は、28歳の元料理人です。しかし、「生きづらさ」を胸に抱えながら、わけあって安布里島へ短期労働にやってきます。島には野生の山羊がたくさん生息していて、島の人にとっては山羊肉は食糧であり、伝統文化なのです。
椋介が山羊を食べるために殺さなければいけないことを知って驚いた時、ハシさんはこう言います。

「島で暮らすって……都会では知らなくていいことを、つまりだれかが代わりにやってくれていることを全部自分でやらなければいけないってことですから、きついですよ。人間が生きていくことの原点ってかなり残酷です。」

その後椋介は、山羊のミルクでチーズを作ることを決心します。それは、かわいい仔山羊をみて可哀想になったから、、、という気持ちも少しはあったかもしれませんが、そうではなく、自分の心から飛び出た衝動のようなものでした。椋介は、自殺してしまった父の敗北感、母の秘密の想い、父の親友で島の移住者のハシさんの「失敗だらけでここまで来てしまった」という後悔、そして愛されていないと感じる自分の存在、負の感情をすべて背負い込んで押しつぶされそうになったとき、彼の中の生命力が叫んだのだと思います。行き詰まりの中でのチーズ作りという新しい挑戦、それが自分の人生をどう変えるのか。その結末とは・・・!?。

著者のドリアン助川氏は、90年代に「叫ぶ詩人の会」を結成して多方面で活躍されていました。テレビやラジオで、いじめに悩む小中学生や非行少年少女の悩みに真摯に向き合っている姿を記憶しています。ご本人は、「ピンザの島」発刊の挨拶でこう仰っています。

  私はまんなかではなく、端っこを歩いてきた人間です。
  大きなお屋敷や、ひまわりのような立派な花が苦手です。
  生きることを雄々しく語る人より、酒場で一人苦笑している人が好きです。
  そのような人間が、それでも生を肯定しようと現存在をとらえ直した時、
  支えとなった感覚は、「むきだしの命が持つ力」というものでした。
  国家の後ろ盾も、肩書きも、いっさいの属性も失った時、
  つまり本来のひとつの命として海や空と対峙した時、
  私たちが唯一頼ることができるのは、自分自身の野性の力、
  むきだしの命なのだと私は思っています。


都会のルーティンの中にいると、あまり「野生」とか「むきだし」とは感じないものです。しかし、それはいつでも自分の中にあって、島の自然や生活は、そういった根源的な力を呼び覚ますのかもしれません。

ところで、みなさんは山羊のチーズを食べたことがありますか?。
この本を読めば、山羊チーズを食べたくなること必至です。実は沖縄産の山羊のチーズは実際に作られています。
沖縄本島・恩納村にあるはごろも牧場の<Pinza Blanc ピンザブラン>です。
牧場を経営している新城さんは、宮古島ご出身だそうです。チーズのほかに、山羊ミルク、ヨーグルト、せっけんまで。空港などで売っているほか、通信販売もしています。

また、関連本として原田マハ著『風のマジム』(講談社)もおすすめです。
こちらは沖縄でラム酒を造る物語です。ずばり、大東島のグレイスラム社長の金城祐子さんがモデルだそうです。このラム酒も飲んでみたいですね。

新しいものを作るには、周囲の反対や悩みや失敗をいくつも乗り越えなければなりません。それでも、自分の中の「むきだしの命」で、日々新しい自分で挑戦的に生きていきたい!アララガマ!!。


〔書籍データ〕
ピンザの島
著者 /ドリアン助川
発行者/ポプラ社
発売日 / 2016/6/5
ISBN /978-4-591-15039-9  


Posted by atalas at 12:00Comments(0)島の本棚

2016年08月09日

第95回 「エコデンレース全国大会優勝」



先週は宮古高校の源流のひとつ、宮高女の跡地の碑を訪ねましたが、今回は沖縄県立宮古工業高校にある石碑を取り上げてみたいと思います。小中学校を含め、学校にはかなりの数の記念碑があります。そのほとんどが「大志」(@北小)とか、「知徳体」(@宮高)といった教訓熟語の漢字を配した卒業記念や周年記念の石碑か、市・県・地区から全国の大会、中には世界大会で優秀な記録を残した、記録記念系がほとんどです。そんなわけでかなり出落ち感はありますが、ちょっとばかり突出した工業高校ならではの記念記録系の石碑を紹介してみたいと思います。。

ご覧の通り、全国エコデンレースで優勝を続けた記録の記念碑です。
『全国大会優勝』
指導者 玉城厚司 洲鎌正一

2004エコデンレース大会 パッシライン2004号
平良翔太 下地清隆 安元祐介 友利康浩 平成16年11月23日

2005エコデンレース大会 バッシライン2005号
友利康浩 平良元 松本元気 上里誠 平成17年11月23日

2006エコデンレース大会 バッシライン2006号
根間達也 新里大地 佐久田和也 平成18年11月23日

2007エコデンレース大会 指導者 玉城厚司 永井賢
バッシライン2007号 上里和也 下地拓実 川満清正 砂川駿光
エコデンレースとは原付用バッテリーを使って、規定時間内に走行した距離を競う理系バトルです。県大会を経て全国大会(大阪)に出場することになりますが、宮古工業高校はワイパーモーター部門のカテゴリーで全国5連覇(石碑には4年間だけしか刻まれていませんが…)を成し遂げました。
一般部門クは改造モーターを使う(セミ)ワークス的なカテゴリーとなりますが、このクラスはワイパー用のモーターを改造せずに使用するプライベーターのようなカテゴリーとなるようです。尚、宮工は年によっては一般部門などにも出場しています(尚、構成の都合上、ワイパーモーター部門に絞って紹介しています)。

「平成2年度学校要覧」(pdf)によると、宮古工業高校エコデン部は2002(平成14)の全国大会に初出場し、ワイパーモーター部門で4位(25台中)の好成績をあげます(当時の県勢過去最高位)。
続く2003(平成15)も全国大会に進み、7位(25台)に終わりましたが、前年よりも走行距離の記録を伸ばし、特別奨励賞を受賞しています。
全国大会出場三年目となった2004(平成16)年では、ついにワイパーモーター部門で初優勝(8台中)をおさめます。そしてここから宮工エコデン部の大進撃が始まります(大会公式記録2004)。

2005(平成17)年 ワイパーモーター部門 優勝(2連覇)
一般モーター部門でも、初出場9位入賞し、全国自動車教育研究会長賞を受賞。
大会公式記録2005(W3位?、一般9位)※記述が怪しい?
宮古工が2連覇 全国エコデンレース(琉球新報 2005年11月24日)

2006(平成18)年 ワイパーモーター部門 優勝(3連覇)
大会公式記録2006

2007(平成19)年 ワイパーモーター部門 優勝(4連覇)
一般モーター部門 5位入賞
大会公式記録2007
学校要覧に記載なし(一部の年次の表記がおかしい)

2008(平成20)年 ついにワイパーモーター部門で1位・2位を独占しての5連覇を達成します。
大会公式記録2008

ところが宮工エコデン部は、この年を最後に優勝から遠ざかるどころか、全国大会出場すらも危ぶまれるようになってゆきます。
(ワイパーモーター部門のみ抜粋。公式記録の総合順位のワイパーモーター部門はW印)
2009(平成21)年 県大会 準優勝、全国大会 準優勝(公式記録2009)
2010(平成22)年 県大会 優勝、全国大会 準優勝(公式記録2010)
2011(平成23)年 県大会 優勝(2連覇)、全国大会 準優勝(公式記録 宮工2011)
2012(平成24)年 県大会 3位、全国大会 準優勝(公式記録2012)
この年はNHKのテレビ番組、『嵐の明日に架ける旅 ~希望の種を探しに行こう~「エコアイランド宮古島の旅」』で取り上げられ、嵐の相葉雅紀が宮工を訪れている(一般部門9位入賞)。
2013(平成25)年 県大会 4位 全国大会 3位 (学校要覧 ※公式記録は公開データなし)
2014(平成26)年 県大会 4位 全国大会出場なし (学校要覧 公式記録2014)
2015(平成27)年 県大会 5位 全国大会出場なし (学校要覧 公式記録2015)
※一部公式記録が参考できないものがあります。

この裏で起こっている出来事を見ると驚かされます。
それがこちら。

全国エコデンレース、那覇工が7連覇 2位に美来工科(琉球新報 2015年11月25日)
そうなのです。
那覇工が2009年から宮工の5連覇を超える7連覇を果たし、現在も連覇記録を継続中なのです。

どうして那覇工が強くなったのかという理由は、おそらく宮工が5連覇を成し遂げた時と同じだと思われます。なぜなら2009年に那覇工が優勝した時の記事をに、「指導した玉城厚司教諭は…」という一文を見つけてしまったからでした。ここまで書けばもう理由はお判りですね。

しかししかし、エコデン部だけが突出して凄い訳ではありません。
宮古工業高校は離島のハンデをものともせずに、他にも色々と活躍しているのです。

IT津梁まつり2015
「宮古島方言アプリ」プレゼン部門で最優秀賞
WROジャパン2015
ロボコンの全国大会に初出場で準優勝


【IT津梁まつり2015】 http://www.it-matsuri.net/2015/mention.html
ソフトウェア部門
 最優秀賞 沖縄県立宮古工業高校 電気情報科
プレゼンテーション部門
 優良賞 沖縄県立宮古工業高校 電気情報科

【IT津梁まつり 2016】 http://www.it-matsuri.net/2016/mention.html
プレゼンテーション部門
 最優秀賞 沖縄県立宮古工業高等学校
WRO パイロット競技(WRO非公式沖縄ロボコン)
 三位 沖縄県立宮古工業高等学校

【WRO Japan 2015 全国大会】 http://www.wroj.org/2015/2015info/result.html
パイロット部門
 二位 宮古工業B 沖縄県立宮古工業高校

同じ島に住まうものとして、誇らしいと思うと同時にエールを送りたいと感じました。はばたけ宮古の若人よ!

【20160816改訂】 読者の方から、内容と結果の不備についてご指摘をいただきましたので改めてまとめ直してみました。  続きを読む


2016年08月05日

Vol.6 「夏だ。海だ。」



夏休み真っ只中。宮古は夏らしい天気が続いている。どこまでも続く青い空、海はキラキラと光って美しい。下地の前浜ビーチには真っ白な砂浜の上にパラソルが並び観光客で賑わっている。

その前浜を通り過ぎて、来間大橋を渡りこの夏、初のシュノーケリングに出かけた。
目指すは、来間島のタコ公園のふもとにあるというシュノーケリングスポットへ。

橋を渡りきるとすぐ左側にタコ公園の入り口があり、車を止めて歩いて向かった。
木々のトンネルを歩いていく。この木々を見ているだけでも楽しい。ガジュマル、タブの木、オオタニワタリ、マーニ(クロツゲ)・・・。あ、オオゴマダラもいる。こんなところがあるとは知らなかった。歩いていしばらく行くと潮の香りがして視界が広がった。岩に囲まれた天然のプール出現!想像以上の自然の造形にしばし見とれた。干潮時間をねらって行ったので、潮はだいぶ引いている。先に来ていたご夫婦がニモもたくさんいるよと教えてくれた。準備をしていざ海へ。

透明できれーい。まず青い魚が肉眼でたくさん見えた。先に進むと大きな潮だまり。
ニモ(クマノミの一種)がたくさんいてイソギンチャクの中から見え隠れする。クマノミ以外にも黒や黄色や白の魚がいっぱい泳いでいる。人が入ると最初は警戒をするが、すぐ慣れるようだ。しばし潜って楽しんだ。
シュノーケリングをするようになったのは、10数年前から。宮古の人は泳げない人が多いが、私もそうだった。学校にプールはなかったし、泳ぎたいと思ったこともなかった。夏休みの海といえば、海岸で貝殻を拾い、それを箱に並べて標本まがいのものを作るくらいだった。また近くの川満の海は魚やカニ、んきゃふ(海ぶどう)が捕れる場所であり、前浜は歩いたり、眺めるところで、レジャーという感覚はなかった。

泳げるようになったのは、東京に住んでいたころ、スイミングスールに通ってからのことだ(おいおい東京でかい)。
泳げるようになり、遅ればせながら40代で宮古の海で初シュノーケリングをやり、海の中の世界に圧倒された。
色とりどりのサンゴ礁。その中で生きるこれまた色とりどりの魚。海の水は角(かど)がなく、柔らかくまろやかで体を包みこむ。
宮古の海はこんなにも豊かで美しいということを初めて実感した。

それから、イムギャー、保良、吉野、新城、八重干瀬、伊良部の中ノ島等々回り、夏の楽しみとなっている。しかし、最近は観光客の水の事故が多く心が痛む。海はとても危険なところだ。
それは子どもの頃から親や周りの大人に口を酸っぱくして言われてきた。だから、海は怖いというイメージがついている。どこでも慎重でありたいと思う。

宮古の海には、監視員はほとんどいない。
先の来間の海も、ひとりでは絶対行ってはいけない。
また、シャワールームもないし(ここは公園入口に水道があるだけ)、自販機もあるわけでもないので、飲み物などの確保も必要だ。
入っては危険と書いてあるところには絶対行ってはいけないし、泳いでもだめだ。
書いていないところでも慎重に判断しよう。
携帯の繋がらない場所も多いので、必ず、事前に情報を集め、無理をしないようにしたい。

宮古の海は本当に素晴らしい。気を付けながら楽しもう。




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Posted by atalas at 12:00Comments(2)宮古島四季折々

2016年08月02日

第94回 「沖縄県立宮古高等女学校・宮古女子高等学校跡地之碑」



島の石碑を巡る旅「んなま to んきゃーん」も間もなく連載100回。よくぞここまで続いているモノだと自分でもちょっと驚いています。けれど、さすがに最近は有名な石碑が少なくなりつつあり、バックボーンにある蘊蓄や物語を調べるのにとても時間がかかるようになっており、毎週掲載という限られた時間の中でなんとか格好がつくように仕立てています。そんな自転車操業ですので落ち度があったらすみません。叱咤激励訂正指摘などなど、忌憚なくお聞かせくださいませ。
さてさて、今回ご紹介する石碑ですが、県立宮古高校の前身のひとつである「宮高女」こと、宮古高等女学校(宮古女子高等学校)の跡地の碑です。

こちらの石碑は平良第一小学校の道向かい、宮古高校野球場のバックネット裏にあります。この場所にはかつて、宮古高等女学校がありました。石碑は宮高女の歴史を受け継ぐ、宮古高等学校創立70周年を記念して、1998(平成10)年11月16日に建立されました(周年記念のカウントは最も創立の古い県立第二中学校宮古分校が基準)。

宮古は昔からかなり教育熱が高く、1928(昭和3)年に離島初の中等教育機関として、沖縄県立第二中学校宮古分校が開校(翌年に旧制沖縄県立宮古中学校として独立。男子校)します。女子の教育施設についても切望され、機運の高まりとともに1936(昭和11)年に、やはり離島地区で初めての女学校が宮古群町村組合立として、宮古高等女学校が設立されます。さらに1938(昭和13)年から、学校運営の県立への移管を求めて陳情を繰り返し、1940(昭和15)年、ようやく沖縄県立宮古高等女学校となります。

しかし、翌1941(昭和16)年に太平洋戦争が始まり、昭和19年7月17日には、第28師団の司令部(豊5611)として校舎が接収され、生徒の疎開方針も決定します(集団疎開ではないため、家庭の事情などで島に残った生徒も多かった)。また、校舎が使えないため、家族ぐるみで疎開した人の家を借用してた仮設の教室で分散授業を余儀なくされていました。
やがで戦況が悪化して来ると、より暗い影を落として行きます。宮高女学徒隊として見習い看護婦として動員されます(鏡原小は陸軍病院。長南、上野小は野戦病院となっていた。他にも海軍管理下の気象台の補助業務などにも駆り出された)。
また、女学生あこがれのセーラーの制服も物資不足から簡易化(7~9期生の頃はセーラーの大襟がヘチマ襟に)されたり、卒業式の式典が中止されたり(1945年3月の空襲で接収された校舎が破壊された。個別に生徒の元を廻って証書を渡した)、困難に満ちた青春の1ページを綴っていたようです。

【動画】宮古高女学徒隊 状況1 第二十八師団第二・第四野戦病院への動員

戦後、1948(昭和23)年の学制改革(633制の導入)により校名を「宮古女子高等学校」と改称し、翌年には新しい校歌と行進曲が作られました。この行進曲の作詞は宮国泰誠、作曲(校歌も)豊見山恵栄でした(後にこのコンビで城辺中の校歌を作ります)。

ところが、宮女は学校の整理によって宮高(男子校)に統廃合されることが決定します。1953(昭和28年には宮女で最後の卒業式(宮高女9期、女子高5期。宮高女は4年履修)が、翌1954年には宮女の最後の入学式が行われます。
そして6月30日をもって、宮古女子高等学校は廃止。7月1日からは宮古高等学校(男子校→共学)に統合され南校舎となります。こうして宮女(宮高女)は18年間の歴史に閉じました。

宮高女が合流して、男女共学という新たなスタートを切った宮古高校ですが、面白いことに宮古に存在したすべての高校に、なんらかの関与しているのです。
1946年に宮高に新設された農林科と水産科は、翌年、宮古農林高校と宮古水産高校として同時にそれぞれ独立します(双子高校)。
伊良部島に1984年に宮古高校伊良部分校が誕生します。その2年後、伊良部高校として独立しますが、宮古高校自体も、現在の那覇高校である県立二中の分校だったので、歴史的にみると伊良部高校は分校の分校と云えます。
また、宮古の高校で唯一、宮高を祖とせず、琉球政府立宮古産業技術学校として開学した宮古工業も、1987年に宮高から家政科の移管を受けています。
さらに、1992年に商業科を水産高校へ移管し、校名を翔南高校と改めますが、2008年には双子の片割れである宮古農林と合併して、宮古総合実業高校となります。
他にも、現在は廃止されてしまった島唯一の定時制高校も宮高に併設されていました。現在、宮高は普通科と理数科(特進クラスとしては県立ではベスト10に入るレベル)だけとなっていますが、島の最高学府であることに変わりはなく、卒業と共に島を旅立ねばなりません。

学校の跡地という石碑だけに、宮高女の沿革にふれてみましたが、本当に気になるエピソード多く、すべてを紹介しきれません。
最後に当時の“JK”の「制服」について考察してみたいと思います。

開校当時の制服についての記録(新聞記事)によると、宮古高等女学校の制服と装具品は下記のように定められていたようです。

制服及装具品に関する記述によると、
服=セーラー服 上衣は夏は白地(ポプリン)、冬は紺地(サーヂ)襟は夏は水色、冬は白地の二条線とす(内側の線を廃部両隅で円形に巻いている)
靴=黒の踵廣靴(ハイヒールを禁ず)
靴下=夏は白、冬は黒(木綿)
ネクタイ=儀式用は白、平常は黒
パラソル=黒色、綿朱子(刺繍ナシ)
セーラーの制服は紺に黒と、特に冬服はかなり地味めだったようです。時代的なことを考えればそれほど不思議ではありませんが、装具品に「パラソル」と書かれているところはとても驚かされます。陽射しの強い南の島、日焼けの気になるお年頃ということなのでしょう。
他にも制服のラインについての記述に、二条線の内側の線が背部の両隅で円形に巻くというものがあり、どんな風になっているのか気になるので、ついでに色々と探してみました。

【1期生アルバムより:郡競技場でダンスをする風景。一期生は56名しかいないので、環を囲む生徒の数が多すぎるので60周年祭ではないと思われる】
まず、映像として1936(昭和11)年11月に群競技場(下里の馬場を整備)で開催された「博愛記念碑建立60周年祭」(トラウツコレクション/宮古島最古の映像に関する一考察)から。宮高女はこの年の春に開校したばかりでしたが(校舎はまだなく、宮古支庁の一室を間借り。郡競技場を学校用地に取得しようとしていたが、最終的に下里大原の地となった)、一期生56名が式典の一環として催された「群連合青年競技会」に参加しており、軽やかにダンスを披露しています。このダンスの指導は大日本体育会体操学校を卒業した宮古出身者の砂川玄隆で、後に彼は稲村賢敷が宮高女の校長を務めた際に、教頭へ任ぜられています(昭和20年頃)。

「宮古高等女学校創設50周年記念誌」を開いてみると、セーラー服の制服姿は見えてきましたが、パラソルの存在と背面のラインについては残念ながら確認することは出来ませんでした。
しかし、何気にいい感じに面白かったので、勢いだけで制服姿と生徒の活動風景を、どどーんと紹介してみたいと思います。 ※クリックで拡大します。

【左】1期生:紺地のセーラー服に黒いネクタイ(スカーフ)といういでたちです。アルバムのキャプションは「苗木取り」とありました。
【右】2期生:卒アルから。校舎前の築山にて。着物(袴?)姿は女性教諭と思われます。この頃、砂川フユが教師として在籍していたようです。


【左】5期生:夏バージョンの白いセーラー服。髪型が全員同じです。
【右】女子高2期生:バックに写っていた松林が軍に物資として徴用され、すべて切り取られています。また、セーラー服のモデルが若干変化しており、二本線から三本線になっています(現行の宮古高校のセーラーは三本線)。


【左】二期生:「明星」「平凡」的なアイドルスナップ。足元が裸足なので、どこかのビーチに遊びに行った時のものと思われます。
【中】二期生:半袖にパンツタイプのスクール水着(?)。みんなタオル・・・手ぬぐいなのも面白いです。
【右】一期生:上から、開校式(学舎がようやく出来た)。今や埋め立てられてしまったトゥリバーの浜に接岸している山原船(?)をバックに。ミニ通り池のピキャ(ウ)ズ(通尻~長崎の南)で水遊び?


【参考資料】
関東南秀同窓会/宮古高等女学校沿革大要
沖縄県立宮古高等学校/沿革
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