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2017年02月28日

第124回 「(新城道路改修)記念碑」



先週の友利の「道路開鑿紀念碑」に引き続き、道路モノです。道路系もマニアの多い業界ですが、ぶっちゃけ宮古的にはあまり萌え切れる点がありません。山深い訳ではないので旧道はあっても廃道になることもなく、指定を外れて格下げになっているくらいで、割と普通に残っていたりします。今回はそんな話もちょっと織り交ぜて…。

今回紹介するのは新城集落の入口にひっそりと建っている石碑です。
以前からこの石碑の存在については知っていたのですが、石碑前面には微かに「記念碑」と読める文字しか記されておらず、裏面の碑文に至っては摩耗がひどくて、ほとんど読み取ることが出来ませんでした。いったいこの石碑は何を記念したものなのか、まったく判らずにいましたが、「近代宮古の人と石碑」(仲宗根將二 1994年)の中に、わずかですが記述されていることが判り、ようやくその秘密に迫ることが出来ました。さすが仲宗根先生です。本当に痛み入ります。

それによると碑分は
新城道路改修 大正四年十一月
発起人 高里景親 下地金
与那覇武平 佐平坊
外八名
工事監督員 屋良実
大正四年十一月設立 波平恵相書
と書いてあるそうです。
大正4(1915)年11月の竣工となると、先週の友利よりは少し早く(大正4年11月起工、5年7月竣工)、伊良部の五ヶ里道(起工は大正3年、4年11月竣工)とほぼ同じ頃に完成していることになります。ただ、三村組合で施工したのは、平良の西里から城辺の福里(県道73号)までのようなので、福里から新城までは別途施工と考えられます(五ヶ里道も伊良部村の直営公共工事)。
これといって詳細な情報は得られていませんが、五ヶ里道は村民総出で施工にあたっていますし、砂川線(友利の道路開鑿紀念碑)も、字の青年会が協力しているので、新城へ向かう道もそうした労力をもって改修したのかもしれません。

大正末期に測量された地形図では、ほぼ現在の形に近い道路が出来ています。福里から現在の国道390号となるルートは、皆粉地(みなこぢ≒現在の字では新城)から七又(現在の字では保良)を経て保良へ。また、途中で分岐して、新城を経て割目(後の吉野集落。現在の字では保良)を結ぶルート(現在の県道199号)が確認できます。
はい、ここで気づいた人~!。きっとアナタは地図マニア、道路マニアな方ですね。

もう一度よく地図を見てください。福里の集落から新城への分岐までの道路線形が、現在の国道390号とは異なっていることが見てとれます。今ならば福中を過ぎて左にカーブしながら急勾配を下り、やがて右カーブに変化して坂を下ります。これが西皆粉地のナンコージ坂と呼ばれる区間で、新しい地図を見ると、現道の北側に大きく湾曲した旧道が通っています。カーブはとしても大きいですが勾配は緩やかなので、登りやすさを優先したのでしょう。
ナンコージ坂が完成したのは1970年代と思われる(1963年の航空写真にはなく1977年のものにはあることから、復帰のタイミングではないかと)。
尚、ナンコージ坂の語源ですが音感から、「難工事」と思われているようなのですが、この場所の字は西皆粉地(にす-んなくず)といい、「西」は本来、宮古口で「北」を意味する「ニス」を西と書き換えてしまったものと考えられます(南側に皆粉地集落があり、方角としては北に位置している。この手の例は西更竹など多くの事例があるが、宮古の北西問題はとても根が深いのでひと言では言い表せない)。そして皆粉地は「んなくず」と読むので、「んなくーず」→「なんくーず」→「なんこーず」→「なんこーじ」と聞こえて来たことからの当て字変化なのではないかと推察してみました。

旧道を改めて走ってみるとカーブは大きいものの確かに勾配は緩やかで登りやすくありました。この旧道の途中に「不法投棄」を諫める立札があります。なんでもここにはかつて穴があいていたらしく、ゴミを投棄して穴を埋めてしまったのだといわれています。

しかも、この穴はかつて嶺の上までつながっていたといわれており、穴の上部はツガマキィ御嶽のリュウグウの遥拝所に位置しているそうです。確かにイビの向こうに窪地があり、そこには深そうな暗闇が口を開けています。
地図で位置を確認してみると、確かに旧道の崖下の上にあたりますが、短く見積もっても40メートルくらいの距離があり、洞穴だとしたらさぞ楽しそうな穴だったのではないかと妄想しました(下の埋めた穴の位置が未確定)。今となってはその真実を知るすべはありません。流石に神域の穴に潜る勇気もありませんし(しかもかなり滑りやすそうな雰囲気の縦穴)。

尚、この嶺のある丘脈は福里の背後地としてナンコージ坂から城辺図書館付近まで、とても細長い公園として整備されており、森の中を通る遊歩道はあるのですが、これまで人の姿を見たことがありません(城辺小裏手のあたりは、巨大生物モニュメントのタコの滑り台があります)。

おわりに。
この新城への道路改修の発起人に名前が挙がっている高里景親(1887-1961)は、新城の出身で城辺村議や宮古郡会議員を務めた政治家。久々の次週予告。来週はこの人物を追いかけてみたいと思います。

【関連石碑】
第85回 「五ヶ里道開鑿記念碑」
第123回 「道路開鑿紀念碑」
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2017年02月24日

金曜特集 「島の本棚-2017-」特番



ATALAS Blog「島の本棚」担当である江戸之切子を中心に、これまで17回(冊数では20冊以上)に渡って新旧の島の本を紹介してきました。そのジャンルは本当にさまざま。SF小説から伝記伝説、ガイドブックに写真集、エッセイまで。島を舞台、モチーフにした本というくくりで集めてみると、バラエティに富んでいてとても楽しいラインナップとなっています。

実はこの「島の本棚」、直接の関係はないものの、2009年~2011年まで「5分で判る宮古島のイマ!」「来てみたくなる宮古島」を、あれやこれやと宮古島からお届けする、宮古島発信!WEBマガジン『あんちー かんちー』(2008-2012)で、4度に亘り不定期な短期シリーズとして連載されていた「島の本棚」をリスペクトしたものなのです。

ちなみに、当時の島の本棚はこんなラインナップでした。
第1シリーズ 島の本棚~宮古島を読む~
myklibvo1さんによる選書(2009年3月・5月・7月 全3回)
瀬名秀明「エヴリブレス」、かたりべ出版「みやこのみんわ」、東京農業大学出版会「沖縄の宮古島100の素顔 もうひとつのガイドブック」砂川智子「楽園の花嫁 宮古・来間島に渡った日々」、津嘉山千代「あーはっはっはっ!津嘉山荘の千代ちゃん 宮古島・農家民宿の名物かあちゃん物語」、川上哲也「たまうつ先生 「楽校」づくりへの道」和田文夫「孤島の発見 -沖縄・宮古島 原初の力を浴びにゆく」、仲地邦博+花城千枝子「森のみどりご」、比嘉豊光「光るナナムイの神々 -沖縄・宮古島~西原 1997~2001-」

第2シリーズ 島の本棚~Read Or Dreams
沖縄教販宮古店とのタイアップ(2009年9月・11月・2010年1月 全3回)
画/森千紗+文・監修/友清哲「おススメ女子旅 島シリーズ 『キレイ探求!宮古島』、和久峻三『OKINAWA宮古島の悪魔祓い(シーサー)~ひまわり公設弁護士シリーズ』、上西重行『美ら島 宮古 2010年カレンダー』あんどうあいこ「オバァの妖怪・パーントゥ デビュー」、まなか一生「破顔百笑 艶笑こばなし沖縄編」文/平田大一+写真/桑村ヒロシ「シマとの対話 琉球メッセージ」文/新城らいあ+絵/水田明彦「むい-森のふるさとで-」、中山和義「悔いのない生き方に気づく24の物語」、作曲 / 末吉保雄「宮古島の三つのうた 無伴奏混声合唱のための」

第3シリーズ 島の本棚 -NIGHT OF GOLD-
匿名ユニット・密牙古文化部による選書(2010年4月・7月・9月・10月 全4回)
監修/宮城能彦(沖縄大学地域研究所)「沖縄で100年続くコミュニティビジネス 共同店ものがたり」、財団法人日本離島センター「日本の島ガイド SHIMADAS(シマダス)」、編者/ラブ・オーシュリ+上原正稔+監修/照屋善彦「青い目が見た大琉球」森田たもつ「蓬莱の彼方」、小原千嘉子+AYA「宮古島のがちまやー」、ダニエル・ロペス「沖縄正面」OMANGA YOK LEE「宮古スピリッツ」、ウルカ・友「Mr.ガラサ」、アニメーションシリーズ「ストラトスフォー」慶世村恒任「新版 宮古史伝」、上里隆史「琉日戦争一六〇九 島津氏の琉球侵攻」、新里堅進「劇画 かがり火-ロベルトソン号救助物語」

第4シリーズ 島の本棚~ほんのむしぼし~
jurimさんによる選書(2010年12月・2011年2月・3月 全4回)
もりおみずき「あかねちゃんのふしぎ」、上地慶彦「ニャーツ方言(フツ)」、平良市総務部企画室・男女共同参画室「てぃだぬ花(ぱな)~宮古・伝承の女性たち~」桐野夏生「メタボラ」、永坂壽「異物」、今日マチ子「cocoon」月刊沖縄社「カラー 沖縄の怪談」、佐渡山安公「ぴるます話」「続・ぴるます話」、小原猛「現代実話集 琉球怪談 闇と癒しの百物語」山田實「こどもたちのオキナワ 1955-1965」、監修/仲村颯悟+編著/バラエティ・アートワークス絵本制作班「やぎの冒険 リュウヤのしごと」、砂川恵理歌+中島正人+高橋尚子+下地勇「一粒の種 命のうた、見送りのうた」


そしてそして、2015年10月から月イチでスタートしたATALAS版「島の本棚」のラインナップがこちら。

1冊目 「沖縄のマラソンガイド2015-2016」
2冊目 「鬼虎伝説 与那国を守った男」/「シギラの月」
3冊目 「聞き書 沖縄の食事」/「おばあさんが伝える味」
4冊目 「南島針突(ハジチ)紀行」/DVD「南島残照 女たちの針突」
5冊目 「宮古史伝」 共著:N先生

6冊目 「サザンスコール」
7冊目 「珊瑚礁の思考 〔琉球弧から太平洋へ〕」 宮国優子
8冊目 「写真集 神々の古層シリーズ」
9冊目 「ガイドブック宮古南静園」
10冊目 「琉球妖怪大図鑑(上・下)」

11冊目 「ピンザの島」
12冊目 「マクラム通りから下地線へ、ぐるりと」 宮国優子
13冊目 「ニルヤの島」
14冊目 「佐良浜漁師達の南方鰹漁の軌跡」
15冊目 「てぃんぬに 天の根 島に生きて」 阿部ナナメ

16冊目 「琉球諸語の保持を目指して/琉球のことばの書き方」
17冊目 「岡本太郎の沖縄」

今回の特集、単に「島の本棚」のネタをまとめたのではありません。
一番重要なのはここからです!

あなたが読んだ、島の本(沖縄の、宮古の)。
人に薦めたくなる珠玉の一冊を紹介してくれませんか?。

「島の本棚 -primary bookmarker-」では、オトナの読書感想文を求めています。
まずがーと、一冊。
オススメしてみませんか?
よろしくお願いいたします♪
詳しくはメールにて! atalasnet(a)gmail.com ※(a)を@に置き換えてください。
  


Posted by atalas at 12:00Comments(0)金曜特集 特別編

2017年02月21日

第123回 「道路開鑿紀念碑」



今回ご紹介する石碑は単純に道路の開通を記念した石碑です。以前、伊良部島の南区(伊良部地区)五字を縦貫する「五ヶ里道」の開鑿紀念碑を紹介しましたが、時代的には宮古の文明開化とか産業革命とでも云えそうな頃のお話です。

こちらの石碑は友利の集落センターの敷地内に、道路の方を向いて建立されています(なので、画像では下の方が壁で隠れて閉まっています)。
石碑によると、
大正四年十一月廿二日起工
仝 五年七月五日竣工
仝  年八月九日建設
と側面に刻まれています。
「仝」としてあるのに、二行目は元号のみ、三行目は元号+年数を省略しており、ちょっと微妙な表記になっていますが、五ヶ里道もまた1915(大正4)年の11月に石碑が建立されていますので、ほぼ同時期と云えます。
調べてみると、五ヶ里道は国仲寛徒の発案によって伊良部島内の道路整備(大正天皇の御大典≒即位でもあった)ですが、この着想は宮古島内で平良、城辺下地の三村組合(1913年)が作られ、郡道改修整備工事が事業化されたことに触発されていたりします。
島の玄関である漲水港、行政の中心となる蔵元と、各地を結ぶ主要道路といえど、その昔はヤマグ(盗賊)が跳梁し、マズムヌ(魔物)が跋扈すると云われるほど往来には危険を伴うものだったそうですが、時代とともに馬車や自動車など乗り物が近代化し、物流には道の重要性が増してきたこともあったようです。
こうして三村組合によって改修された道は、西里から福里の城辺線(現在の県道78号)、西里~新里の上野線(現在の県道190号)、下里~与那覇の下地線(現在の県道243号と国道390号)、西里から狩俣の狩俣線(現在の83号と県道230号)、野原越~砂川の砂川(うるか)線(現在の201号)、新里~宮国(現在の国道390号)の総延長およそ52キロ余り(この頃、漲水港からの市街への坂道も改修され、通称“大正道”と呼ばれていたらしい)。
こうして島内の基幹道路が整備されたことから、島の産業も飛躍的に伸びてゆきます。この時期以降、次第に乗合馬車の運行が始まります(後に乗り合い自動車≒バスへと発展する)。友利集落では隣り合う砂川の交差点(現・国道390号)付近から、平良までの乗合馬車の運行が始まっています(片道約一時間で、一日一往復)。

この石碑の裏面(集落センター側)には、発起人6名と寄付者24名の個人名と、道路監督・友利春光、、石工・久保田辰二、園田末吉(こちらは土台部分)の名が記されています。また、外字友利青年会員労力寄付とも刻まれており、道路の改修工事には字の青年会が全面的に協力したことがよく判ります。

この友利の集落センターは、元の番所跡に建てられており、現在の建物は1980(昭和55)年に作れたことが、敷地内にそびえる「友利集落センター建築記念碑」から知ることが出来ます。また、正面入口には重厚な門があり、よく見てみるとこれもまた記念物で、「友利土地改良記念之門」というシロモノでした。これは「県営友利地区畑地帯総合土地改良事業」という長い名前の事業が、1978(昭和53)年から1984(昭和59)年にかけて行われ、その完成を祝して1989(平成元)年に門が建立されたようです。色々と祝っちゃったり記念しちゃう、らしさが良く出ている集落のような気がしました。

余談ですが、今回紹介した「道路開鑿紀念碑」の隣には、道路マニアの好物のひとつ水準点があります。すぐそばの国道沿いでなく、この道を記念する碑の隣にあるあたり、ちょっと素敵です。
友利と云えば「なりやまあやぐ」の発祥の地として知られていますが、宮古を代表するこの唄を世に広めるきっかけを作った友利實功の生誕地は、この先、インギャーの海へと続く道すがらにあります。
また、友利のあま井へは、集落センター前の脇道を道なりに真っ直ぐ進み、切通しを抜けたその先にあります。
今は県道沿いの何の変哲もない集落の一角に過ぎず、ともすれば通過してしまいそうな友利の集落ですが、旧番所を中心に見どころの多い地域であることに、改めて気付かされました。
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2017年02月17日

『続・ロベルトソン号の秘密』 第二十二話「トラウツ博士、宮古へ」 その二



今回も引き続き、1936(昭和11)年11月に宮古島で開催された「獨逸皇帝感謝記念碑建立六拾周年記念式典」に参列したF.M.トラウツ博士(京都ドイツ研究所の所長)の足取りを辿っていきます。前回は、トラウツが京都を経って(11月9日)那覇に到着(10日)し、那覇と首里を精力的に回る様子を追っていきましたが、今回の舞台はいよいよ宮古島です。

11月12日午後4時、トラウツ一行を乗せた大阪商船の「湖北丸」は那覇を出航、翌13日の朝、平良の沖合に投錨します。当時は港湾整備も行われておらず、水深の関係で大型の客船は港に入れなかったため、客船から平良の桟橋の間は「はしけ」で移動していましたが、トラウツらが着くと既に沖合では、日独の旗や紅白の飾りを付けた漁船が一行を出迎えていました。さらに桟橋に着くと、島じゅうから集まった何千人もの島民が一行を出迎えた、と報告書には記されており、実際にこの時の映像(宮古最古の映像とされるもので、この式典の記録映像として撮られたフィルム。この映像についての詳細はこちら)を見ても、桟橋の周辺に群衆がひしめき合って様子が見て取れます。

この先、トラウツは2日後の11月1315日の夕方に「湖南丸」で帰路につくまで、実に様々なイベントに参加して(させられて?)います。まず宿舎(トラウツ夫妻は、漲水御嶽の向かいに建つ「日の丸旅館」に投宿)で昼食を取ると、午後1時半から平良の町役場に設けられた観覧席へ。ここで舞踊の上演を観覧すると、次に平良第二小学校(現在の北小学校)で展覧会を見学。ここには、生徒の作品の展示のほか、皇帝ヴィルヘルム一世から贈られた金時計をはじめ、ロベルトソン号の救助に関連する品も展示されていたようです。さらに運動場で格闘技を観戦、とありますが、これは宮古角力だったのでは?とも考えられます。その後、小学校(同じく平良第二小のことか)で講演会があり、これは数時間に及んだようですが、トラウツもここで講演をしています。講演に先立ち、下地玄信が、トラウツがドイツ語で講演し、通訳が日本語に訳すとアナウンスしていたのですが、実はトラウツ、日本語の講演原稿を用意してきており、聴衆を大いに喜ばせます。講演の最後は宮古方言の「たんでぃがーたんでぃ」で締めくくるサービスぶりで、聴衆の熱気は最高潮に達したようです。

日が暮れる頃には提灯行列が始まりますが、この時トラウツは町内各地を散策しに出かけます。夜7時半からは旅館「月見亭」でパーティー。70人もの人が参加したそうです。

翌14日には、トラウツの宮古島出張の主目的でもある博愛記念碑60周年記念祭と、宮国での新しい記念碑(「獨逸商船遭難之地」碑)の除幕式が開かれました。まず午前中は、1876年に建立された「博愛記念碑」の前での式典。この式典には、60年前のロベルトソン号の漂着に関わった濱川孫太郎(クリ舟でドイツ船に救助に向かったひとり)と崎原松(陸上で救助に尽力したひとり)の2人も招かれていました。雲ひとつない天気のもと、9時半から12時前まで式典は開かれ、関係者の祝辞が延々と読み上げられたようです(当日はかなり暑かったと記されています)。トラウツもドイツ大使館に代わってスピーチを(今度はドイツ語で)しました。式典の最後には、ロベルトソン号の救助に功績のあった人々とその子孫への表彰が行われ、関係者一人一人に銀の記念硬貨と賞状が贈られました。最後に、祝電を寄せた人々の名前が読み上げられて式典は終了しますが、引き続いて一行は平良第一小学校へ移動、ここで300人規模の昼食会が開かれます。しかしもう1時過ぎには、トラウツらは次なる式典に参列すべく、車で(ドイツ商船の漂着現場近くの)宮国に移動します。ここでは、60周年を記念して新たに制作された「獨逸商船遭難之地」碑(碑文は近衛文麿の揮毫とされる)の除幕式が行われ、この時も様々な関係者が祝辞を述べています。さらに除幕式に続いて、1873年のドイツ商船漂着時に亡くなったドイツ人に対する慰霊祭が、神式で執り行われました。

その後一行は再び車で平良に移動し、前日と同じく、町役場そばの観覧席に向かい、ここで各種の催し(おそらく踊りやスポーツ)を観覧します。これらの催しのクライマックスが、約2時間に及ぶ大綱引きで、綱の長さは100メートルもあり、太鼓と掛け声でものすごい音量だったとトラウツは記しています。さらにその晩は、平良町長の石原雅太郎主催の祝宴があり、約70人の出席者を前に、トラウツはまたスピーチを行っています。

宮古島滞在の最終日となる三日目も慌ただしく過ぎて行きました。まず午前中は、平良の運動場で開催されたスポーツ大会を見学。映像にも映っている、徒競走やモダンダンスなどは、この時のものと推測されます。踊りや歌の披露、10キロ走や短距離走などが行われており、最後に日独友好を祝して万歳の掛け声があがると、トラウツは宮古郡万歳の声で返答しています。またこの催しの最中には、1905年のいわゆる「久松五勇士」のうちの4名と、残る1名の息子も姿を現したそうです。

日の丸旅館で昼食を取り、出発の準備をすると、一行は3艘の「はしけ」に分乗して、桟橋から沖合の船(復路は大阪商船の「湖南丸」)へと渡って行きました。このはしけで船まで見送りに来た人もいて、涙ながらに別れを惜しんだそうです。

3日間の強行日程を終え、一行は宮古を出航する頃には疲労困憊でクタクタだったとトラウツは記しています。ここで挙げたように各種の行事に参加して(時には日本語で)スピーチをし、随所に招かれて歓待を受け、また「名士」とされる島の様々な人にも面会していますから、超過密スケジュールだったことは容易に察せられます。
平良港見聞録/平良港湾事務所より】

以上が、トラウツ博士の宮古滞在の概要ですが、このテーマについては今後もさらに、彼の残した記録や映像、それに宮古側の資料なども突き合わせて、報告書や映像に出て来る場所が具体的にどこだったのか、研究する余地がありそうです。

次回は、二度目の那覇滞在を終えて帰京するまでの経緯を記したうえで、この60周年行事について検証してみたいと思います。

【編集補足】
米軍潜水艦の攻撃を受け沈没した湖北丸/八重山コラムちゃんぷる~
※湖北丸の船首写真があります。

◆注記のない写真はトラウツコレクションより抜粋

[訂正記録:20170316]  


2017年02月14日

第122回 「海と空にひらかれた伊良部町」



今回紹介する石碑は、例によって石碑ではありません。ちょっと気になったコンクリート製のモニュメントです。設置されているのは伊良部島の佐良浜、前里添の県道の大カーブのところ。位置的におそらくたくさんの人が目にしてはいるとモニュメントです。

沖縄県道90号下地島空港佐良浜線(沖縄県道204号長山港佐良浜港線との重複区間)が、佐良浜断層涯を一気に登るために、S字を切ってコンパクトに高度を稼ぐ道路形状になっており、カーブ半径も勾配もかなりきつく、難所のひとつとなっています。
港側(低位置)のカーブの内側は、半円形の残地が花壇になっており、モニュメントはその花壇の中に建てられています。
モニュメントの形状は三角柱で、頂頭部に球が乗せられた構造です。三つの側面のうち、港側からと崖上からの路上から見える面には、今回のタイトルにした「海と空にひらかれた伊良部町」と書かれています。
残る一面はカーブの外に向かって書かれているので、車で走行中に確認することはかなり困難な上、書かれている文字が古くなっており瞬時に読むことは出来なくなっています。

現場で確認しみたところ、どうやら「伊良部架橋早期実現」と書かれているようです(じっくり見ても判読はかなり困難)。2015年に伊良部大橋は開通しましたので、書かれている言葉は実現したことになります。
二側面に伊良部町の名前があるので、このモニュメントは町で施工したものだと思われますが、道路そのものは戦後、1953(昭和28)年に琉球政府道国仲佐良浜港線として指定されています。
尚、当時から後の県道204号となる琉球政府道伊良部港佐良浜港線は重複区間となっています。現行の県道204号は長山港を起点としていますが、住所的にここは池間添となるので、伊良部港と呼ぶにはちょっと違和感があります。ただ、当時すでに長山港としての整備は始まっており、県の港湾課の記録では1972年5月15日が設立日となっています。しかし、この日は復帰の日ですから、それ以前から整備されていたと考えられます。
では、字・伊良部に港はないのかいうと、渡口地区(下地島との間の入江を浚渫した伊良部橋のたもと)は漁港として整備されているだけです。また、渡口の浜(乗瀬御嶽側)の防波堤の先端は、かつての船着場(伊良部丸遭難の碑)なので、伊良部港と呼んでもさしつかえなさそうですが、そうした呼称はこれまで聞いたことがないので、ここで云いきることは出来ません(平良の蔵元へ納入する貢税は、長山に集積されとも云われている)。また謎を作ってしまったかもしれません・・・。

話が大きく脱線しましたが、モニュメントは「架橋実現」を謳っていますので、作られたのは架橋前なのは確実です。伊良部大橋開通記念碑に記載されている、「1974年10月 川満昭吉伊良部村長が沖縄開発庁長官へ口頭で要請」という動きがありますが、この時はまだ伊良部村なので、1982年に町制施行以降に作られたものであると云えます。
もう少し突っ込んで調べてみると、1991年に伊良部架橋促進協議会発足し、3月に伊良部架橋促進宮古圏民総決起大会が行われています。さらに翌1992年には伊良部架橋促進青年会議が発足(この年は町制10周年にあたる)しており、1993年には那覇で在沖宮古郷友会が伊良部架橋早期実現総決起大会を開催していることが判りました。この頃が一番架橋熱が高かったのではないかと思われ、モニュメントが建立されたのはこの頃なのではないとかという結論に達しました。まったくモニュメントの設置情報が見つけられなかったので、これが今回の精一杯となってしまいました。

なので、ちょっと周辺のオマケ・・・。
このTOP画像の海。道の向こう側の敷地の先は断崖絶壁です。海を隔てた先に佐良浜の元島である、池間島が見えています。
そして敷地の片隅には池間島の方を向いた小さな拝所があります。なんでも佐良浜のユークイ(佐良浜といえぱミャークヅツのイメージですが、ユークイも行うそうです)の時に拝むのだそうです。佐良浜の集落を作った池間民族の距離感をどことなく感じさせる場所のひとつです。

モニュメントのある場所は前里添の集落端でもあり、道を挟んだ反対側はお墓がいくつも並んでいます。崖沿いの険しい場所にあるので、もしかすると昔は岩影墓だったかもしれません。
そして集落側には車も走ることが困難な狭い路地(階段道も多い)がいく筋もあります。そのひとつ、モニュメントの下側の奥に少し進んだところに、奇妙な塔のようなものがちらりと見えています。太くて背の高いサボテンのタワーがあります。このサボテンは路地奥のお家の庭にあるものなのですが、あまりの大きさに二度見してしまうほどです。

続いては坂を登った一段上の場所には、ローカル色の強いスーパー「Aコープさらはま」があります。その交差点から町並みを覗き込むと、レンガタイルを外壁に使った三階建てのビルが通り沿いに見えます(この狭い通りはバス通りでもある)。そのお隣の一軒家にもレンガが・・・よく見ると、こちらのは壁になんと手描きで描かれたレンガの絵なのです。同じような外壁が二軒並んでいるので、フェイクがホンモノのように見えて来るという面白いことになっています。

最後はこの交差点からさらに上へと続いている県道90号です。この県道はそもそも崖下の空間に盛土をして道を作っているのです。いうなれば空中に道を作った形になるので、元々この場所に通っていた道と県道が立体交差になっています。
山のない宮古ではトンネル(状の道)は少なく、伊良部島で唯一の構造物ともいえます。下からトンネルをくぐって道を登ってゆくと、最後は崖上に近い丁字(現行の県道以前の旧道)にぶつかります。けれど、無情にも道路礁式は下る道にしか曲がることが出来ません。あとちょっとで崖の上に出れるとこまで登らせておきながら、下れというなんとも辛いオチが待っています(とても狭い集落の中の道なので走行には十分に気を付けてください)。  続きを読む


2017年02月10日

17冊目 「岡本太郎の沖縄」



まだまだ寒い日が続く2月です。今月は、2016年に小学館クリエイティブより復刊された『岡本太郎の沖縄』を紹介します。

岡本太郎は、1929年に18歳で渡仏し、パリ大学で哲学、民族学、社会学などを学びながら、前衛芸術運動に参画しました。1940年に帰国後、縄文土器と出会い、日本文化の再発見の旅に出ます。


岡本太郎は、1959年11月16日から12月2日まで、沖縄を訪問し、各地に残る沖縄独自の文化に触れ、その印象を、1961年には著書『忘れられた日本〈沖縄文化論〉』として発表しました。同書の「神と木と石」の一節において、岡本は「沖縄」のシャーマニズム的な面について深い感動を開陳しています。 また、1966年12月24日から30日まで岡本は沖縄を再訪し、久高島において12年に一度、午年に行われる女性だけによる神事「イザイホ―」を取材し「神々の島・久高島(沖縄)」を発表しました。 そして、岡本は、久高島での感動がさめやらぬ翌1967年7月、1970年に大阪で開催された万国博覧会におけるテーマ展示プロデューサーに就任し、西洋近代合理主義には反する「べらぼうなもの」を造ることを宣言し、後の《太陽の塔》となる仮称《生命の樹》を制作することを発表しています。ここにも、岡本が「沖縄」での見聞を通して得た何かが確信としてあったものと考えられます。  上述した通り、岡本は二度の沖縄訪問を通して創作活動において大きな影響を受けたものと考えられます (川崎市岡本太郎美術館HPより)

この本は、1959年と1966年の沖縄の旅の写真集です。岡本太郎の鮮烈な写真と、パートナーの岡本敏子とその甥で岡本太郎記念館館長の平野暁臣の解説で構成されています。
また、それぞれの写真には、岡本太郎著『沖縄文化論―忘れられた日本』からの引用文が添えられています。
1959年11月16日に那覇に降り立った岡本太郎は、沖縄本島各地を精力的に取材してまわりました。那覇、糸満、コザ、読谷、辺野古、大宜味、久高島など本土復帰前の貴重な写真が収められています。
そして、石垣島に向かう際には、宮古島にも寄港し、わずか数時間の間にも、いくつかの写真を撮っています。岡本太郎は、初めて訪れた1959年11月25日の宮古島の様子をこう記しています。

この島は数ヵ月前、連続台風で徹底的な被害を受けた。島全体が塩水をかぶって、樹も草も真赤になったという。農作物はほとんど全滅し、住民は有毒植物であるソテツを食って飢えをしのいでいる。俗にソテツ地獄という惨憺たる状態である。港にのぞむ岡の上には、屋根が飛んで、骨ばっかりの荒廃した大きなお寺が建っている。ふと戦国時代を思わせるイメージだ。 (岡本太郎『沖縄文化論』より)
 
岡本太郎は写真の専門家ではありませんが、本書に収められている写真の迫力はさすがです。彼の眼を通して、沖縄がどんな風に見えたのか。人々の表情や市場の活気、南国の植物のうねり。沖縄を「それは私にとって、一つの恋のようなものだった」というように、全身からこみあげる生々しい衝動が感じられます。その一方で、岡本太郎から沖縄への片思いのような距離と憧憬を感じる写真もあります。

ここの人たちはお婆さんでも若い娘たちでも、私がカメラを向けると、すうっと自然に向きを変えてしまう。 まったく自然に、嫌がるとか拒むとかいうはっきりした態度ではない。 そんな悪意や敵意はみじんも感じさせない。 恥ずかしいのだろうか。 台風の近づくのを予感して、葉を閉じてしまう植物がもしあるとすれば、そんな感じなのだ。 ちょうどそのように、こちらから激しい視線を投げかけようとすると、この島の実体はすうっと捉えがたく、こちらの鋭さに応じて逃げてしまう。 (岡本太郎『沖縄文化論』より)
 
稀代の芸術家・岡本太郎が触れた沖縄をヴィジュアルに体感できる一冊です。そして、じっくりと写真の世界を堪能したら、ぜひ『沖縄文化論―忘れられた日本』を読むこともおすすめします。写真に負けないまっすぐでセンセーショナルな岡本太郎の言葉で、沖縄を感じることができると思います。欲をいえば、もっと宮古島に滞在して、宮古を爆発的に表現してほしかったですね!(笑)。

〔書籍データ〕
岡本太郎の沖縄
著者 /岡本太郎=撮影 平野暁臣=編
発行/小学館クリエイティブ
発売日 / 2016/5/1
ISBN /978-4-7780-3607-2  


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2017年02月07日

第121回 「比嘉財定先生之像」



なにを成した人なのか。と問われたら、手近な史料で調べてはみたもののいまひとつよく判らないとしかいいようがありませんでした。けれど、彼は村(字)の偉人として奉られています。きっとそこには記録には残らないなにかがあるような気がしました。


【左】比嘉地域総合施設(公民館)前にある胸像「比嘉財定先生之像」
【右】集落の南西、目抜き通り沿いに建つ、「比嘉財定生誕之地」の碑


比嘉財定(ひがざいてい)。
父・財慈、母・メガの七人兄弟(男3女4)の長男として、1881(明治14)年3月10日に城辺村比嘉で生まれた人物です。

1893(明治26)年、西ミスヤーの比嘉財定、ミーガマヤーの比嘉財全、ウヤキヤーの伊良皆方盛の3名が、初めて比嘉から福里尋常小学校(後の城辺小学校)へ通います。名前の前にあるカタカナは屋号なので、財定と財全は名前がとてもよく似ていますが、兄弟とかではなく別の家の者です(なんとなく親戚慣関係にはありそうな感じしますけれど)。尚、現在の比嘉は西城学区に含まれています。

1896(明治29)年に比嘉財定、比嘉財全、伊良皆方盛の三名が福里尋常小学校を卒業します。
ちなみに、1890(明治23)年に福里簡易小学校として開校し、財定が入学する前年の1892(明治25)年に、福里尋常小学校と改称。城辺を冠するようになるのは、1941(昭和16)年に城辺国民学校と改称されてからですが、城辺町史第一巻資料編に掲載されている学校沿革史には、1941(昭和16)年から1943(昭和18)年までの記録が欠損しており、詳細については不明ですが、1941年に国民学校令の勅令が下っているので、そのタイミングなのは間違いないと思われます(学校のHPには記載されている)。そして戦後、1946(昭和21)年に現在の城辺小学校となります(内地であれば1947年の学校教育法の発布のタイミングなのですが、すでに時代的に切り離されているため、やや事情が異なりますが、煩雑になるのでここでは省略します)。
尚、福里、保良、新城、比嘉、長間、西里添を福里学区として開校(城辺ではもうひとつ、南部に砂川学区を設置)しましたが、志学者が増え、保良、新城や長間に文教場が設けられます。その後、保良と新城は福嶺小学校に統合、長間はキャーギに移転して西城小(西城辺)として独立します。

なんとなく城辺小の話に転じてしまいましたが、学校沿革史で見つけた財定のいた頃の気になるエピソードを少し。
1893(明治26)年の在籍生徒数は、1年129人、2年17人、3年30人、4年24人と、これまでに比べて大増員されました。その後の“ふりわけ”のためなのか、このタイミングで「大試験」が実施されます。なんと学業優秀者には、筆と白紙、算盤、石盤などが賞品として出たそうです。財定の成績はどうだったのでしょうね(当時の小学校は4年制。高等科の設置は1902年)。
そして同年9月に新法令の発布により、4学年あるのに3クラスに再編され、3年30人と4年24人のクラス、1年59人と2年17人のクラス、1年70人のクラスという、とても複雑な編成となりました(先生の人員の都合か?)。それにしても70人学級とか、今の倍する人数の教室ってどんなだったったのでしょう(しかも校舎は幾度も台風などで壊れ、掘立小屋の仮校舎になっていまた)。

この時の3年4年のクラスを受け持っていたのが、執行生駒(しぎょういこま:1860-1931)でした。執行は肥前国(佐賀県)の出身の教育者・政治家で、平良小や下地小にて訓導を歴任し、1892(明治25)年から福里小で校長兼教導を勤めます。1901年に急逝した下川貞文(凹天の父)とは友人で、追悼式典にも参加しています。執行はその後、1908年の特別町村制の施行に伴い、初代城辺村長に任命され、政治家へと転身しています。

寄り道が過ぎましたので財定に話を戻します。
財定は宮古島高等小学校(現在の平一小)を経て、首里にある県立沖縄一中(現在の首里高校)へ進み、1903(明治36)年に卒業します。さらに熊本の第五高校(後の熊本大学)へと進学しました。
財定はここで「次郎物語」の作者となる下村湖人(1884-1955)と出逢い、同じ下宿に暮らす親友となります(湖人も東京帝国大学に進み英文科を卒業している)。湖人は「次郎物語」の第5部を完成させたところで亡くなりますが、第6部の構想として、戦地から戻った次郎が沖縄に渡り、沖縄の運命とともに生きるというストーリーを考えていたといわれ、沖縄を舞台にする構想は財定の影響だったとも云われています。

1906(明治39)年、東京帝国大学法科大学英法科に財定は入学します(東京帝国大学法学部となるのは分科大学制が廃止される1919年)。
ここで財定は日本の民俗学の祖、柳田國男に逢い「比嘉村の話」をしています。どのような経緯で柳田が財定の話を聞くことになったのかは定かではないそうですが、この時の東大には財定の中学時代の先輩である東恩納寛淳らが在籍していました。また、柳田は東京帝国大学法科大学政治学科を卒業し、農商務省に勤め全国各地を巡っていたそうです。しかも、笹森儀助の「南島探検」を読み、南へ関心を募らせていた頃のようで、財定からの話を聞いて沖縄に関する本を読みだしたというから、繋がりの妙とでもいいますが、非常に興味深い展開を魅せてくれます。

1910(明治43)年10月に財定は東大を卒業します。当時の大学の卒業は7月だったそうなので、胸像や集落史などに「首席」の文字が躍っていますが、少し遅れて卒業となった財定が、本当に首席だったのでしょうか。個人的には少し怪しい気がしています(この年の英法科の卒業生は29人、10月卒は2名とのこと)。
ともあれ東大を卒業し、奇しくも柳田と同じ農商務省(1925年に現在の農林水産省となる農林省と、現在の経済産業省となる商工省に分割される)に入省(1911年)し、熊本の営林署、金峯山小林区署長として赴任します。農業は当時の最先端産業だったので、確実に財定はエリート街道だったのではないかと思われます。
赴任先の営林署の名前にあがっている金峯山は、熊本市の西部、有明海に面した660メートル程の二重式火山(火山活動はない)で、夏目漱石の「草枕」のワンシーンにも登場し(夏目漱石は五高で英語教師をしていた。ただし、在籍期間は1896年~1900年なので、財定と接点はない)、現在は市内に送信されるテレビラジオの送信所がある場所としても知られ、熊本市民に親しまれている身近な山のようです。
尚、営林署は隣の菊池市に置かれている模様ですが(熊本小林区署は菊池営林署を経て熊本営林管理署となっているので)、九州地区を主管する九州森林管理局(林野庁下の国の機関)は熊本に置かれています(福岡勃興以前は九州の中心は熊本だった)。

1914(大正3)年5月、病の為依願退職した財定は、1916(大正5)年に留学の為に渡米しますが、翌1917(大正6)年4月30日。カリフォルニア州立スタリント病院で病没します。享年は36歳。

短い財定の生涯には色々なエピソードはあれど、本人がなにかを成したのかと今一度問われたら、やはりなにを成したかは判りませんと答えるでしょう。しかし、財定は間違いなく道半ばだったことは推し量れるような気がしました。  続きを読む


2017年02月03日

Vol.12 「キビ刈り」



製糖工場の辺りには甘い砂糖の匂いが漂い、キビを積んだトラックがせわしなく行き交う。宮古は今サトウキビ収穫の最盛期を迎えている。
畑には、手作業でキビ刈り(「キビ倒し」ともいう)をする姿やハーベスター(キビを倒すマシーン)が、ガガガガと音を立ていっきに刈り取っていく様子が見られる。それにしてもハーベスターの威力たるや。最初見た時の衝撃はいまだに忘れられない。

それはさておき、昭和30年、40年代はほとんどの農家がサトウキビ中心の農業だった。その収入で、子どもたちを高校、大学へと進学させた。

当時のキビ刈りは、隣近所「ゆいまーる」で行われ、たくさんの人が畑で作業をしていた。もちろん、手作業で。鎌でキビのすぅら(空、先端のこと)を切り、斧で根っこを刈りとり、重ね、山にしていく。そしてキビの1本、1本の葉柄を鎌で落とし、直径50センチくらいの束にしていく。昔の宮古の冬は今よりも寒く、また雨が多いので雨具姿で作業している姿もよく見られた。

そんな中、小さい子どもたちは(保育園もなかったので、小さい子も親に連れられ畑に行っていた)、刈り取られた葉の束を集め、立てかけて、それをかたか(風よけ)にして、遊んでいた。歯でキビをむき、割りばしに刺して、アイスケーキ!と言って食べていたっけ。

昼ご飯は畑でみんなで食べた。あわんつ(油みそ)のおにぎり、たまなー(キャベツ)の味噌汁は、ばっしらいん(忘れらない)味だ。

2、3日かけキビ刈り作業をし、製糖工場に出す日には、コンベヤーに乗せ、トラックの荷台に積んでいく。トラックの荷台には、男の人が2~3人いて、上がってくるキビの向きを考えながら並べ、積み上げていた。バランスよく積み上げないと、輸送中に落ちてしまうので大変だ。実際、道に落ちているキビもよく見かけた。また、トラックを追いかけて、キビを引き抜く、剛の者もいた。
んきゃーんの やらびは、まーんてぃ ぼーちらど やたあ(昔のこどもは、本当にやんちゃであった)。

今年のキビは、昨年に続き天候に恵まれ、糖度も高く高品質とのこと。沖縄製糖工場内には、順番を待つトラックがいっぱいだ。

時代が変わり、やり方も変わっていくが、この季節にキビ刈りが行われ、甘い砂糖の匂いがしてくるのは昔と同じ。
そして、その収入は生活の糧になり、子どもの未来にも繋がっていく。
キビの収穫は3月ごろまで。
すべてが無事に終わりますように。  


Posted by atalas at 12:00Comments(1)宮古島四季折々