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2021年01月02日

第25回「下川凹天の最初の妻 磯部たま子の巻その2」



第25回「下川凹天の最初の妻 磯部たま子の巻その2」


 裏座の宮国さんが、急逝されました。その後の検死結果、くも膜下出血が死因でした。自称「宮古帝国の女帝」宮国さん、もしくは、宮国さんをご存じの多くが知っての「さいが族の女酋長」宮国さんの遺志を継いで、ごのブログを書き続けます。

 最初は、宮国さんが姉のように慕っていた松谷初美(まつたに はつみ)さんです。

優子さん、ありがとう。


松谷初美



優子さんに初めて会ったのは、2001年の4月。私は東京に住んで17年、宮古方言のメールマガジン「くまから・かまから」を始めようとしていた2日前だった。

その前に宮古にいる佐渡山政子(さどやま せいこ)さんの紹介で優子さんから初めて電話をもらい、会ったことも話したこともないのに気がつけば3時間あまりおしゃべり。平良のイントネーションそのままで楽しくて面白くて心が晴れ晴れした。その1週間後くらいに吉祥寺で会うことになった。

優子さんは宮古の同級生かおりさんと一緒だった。(かおりさんはいつでも優子さんを応援している素敵な女性だ)3人で吉祥寺のカフェでたくさん話をした。

優子さんは「ボーダーインクの新城和博(しんじょう かずひろ)さんと宮古本を出そうと原稿を集めているところ。松谷さんも是非」と。「新城さん!?」と私。「そうよ、あの新城さんよ」と優子さん。私も新城さん達が出した『おきなわキーワードコラムブック』に衝撃を受けた世代。『ワンダー』も読んでいた。「ほんとーにな?」「だからよ」。ここでも話は止まることはなかった。そして、宮古毎日新聞東京支社の記者をしていた優子さんは「くまから・かまから」のことを記事にしてくれ、ライターにもなってくれた。この記事でメルマガの登録者がぐんと増えた。

そして、翌年(2002年)、優子さんが話していた宮古本は『読めば宮古!』として世に出た。その後、『書けば宮古!』と続いたのは、皆さんご存知のとおり。『読めば宮古!』は、第7回平良好児賞を受賞している。

優子さんは以前、くま・かまで「私は、考えること、書くことが生きるエネルギー」と書いている。「くま・かま」では、3ヶ月に1度くらいのペースで原稿依頼をするのだか、18年間ずっと引き受けて書いてくれた。子育てをしながら、仕事もし、お店「Tandy ga tandhi」も。超多忙だったはずなのに、いつでも快諾してくれた。有難かった。

「くま・かま」の記事で印象深いのは「今年は宮古がクル!のだ流行るのだ」(vol.20 2002年1月7日発行、「らい予防法」違憲国家賠償請求の宮古南静園原告でのデモで出会った方のお話「いでゃあい(出会い)2」(vol.52 2003年5月15日発行)。娘たちに歌ってあげていた宮古の子守歌について書かれた「ばんがむりとお下がり」(vol.95 2005年3月3日発行)、「統計から見た宮古」(vol.219 2010年5月6日)。「『みやこの歴史』フィーバー」(vol.304 2013年11月21日発行)。宮古について、大学の先生方も一緒に、より広くより深く掘り下げていく様子が書かれた「かんちゅーきゃーぬみゃーく(超訳・今を生きることが人生の楽しみだ)」(vol.379 2017年1月5日発行)などなど。いつでも宮古のことを熱く語っていた。

優子さんは、2010年、友人達と「一般社団法人 ATALASネットワーク」を立ち上げた。宮古諸島の歴史や文化を多角的な視点で考える講座「みゃーく市民文化センター」や卒業してふるさとを離れる高校3年生に贈る本「島を旅立つ君たちへ」を作成するなど心はいつでも宮古に向いていた。そして、最近は片岡慎泰氏とともに下川凹天について広く深く書いていた。

また、宮古毎日新聞の記者をしていた優子さんは、東京での郷友会の活動の様子や郷友会連合会の「関東宮古ふるさとまつり」の取材(第42回、43回のふるさとまつりでは二人で司会をした)、関東に住む宮古出身の人たちの紹介。また、宮古の子どもたちの関東におけるスポーツ大会への出場や意見発表、舞台発表などでの取材を精力的に行い東京から発信していた。

こうやって書いていると(まだまだ書き足りないのだが)、本当に優子さんは人の何倍も熱く生きていたのだなーとつくづく思う。唯一無二の存在だった。優子さんは私のことを有難くも心の姉と書いてくれたりしたが、私の方が優子さんに習うことが多かった。

最初は、優子さんが亡くなったことが信じられず、こういうことがあっていいのかと残念で残念で仕方なかった。この先も同時代を生き、東京と宮古で宮古のことについてあれこれ語り、何か一緒にやるはずだった。それがいきなり絶たれることになるとは。言葉がないとはこういうことだろうか。

人と深く関わり仕事にライフワークに真っ直ぐ向きあった優子さん。子ども達を愛し、お母さんを愛し、愛されてきたことを思う時、幸せだったね、優子さんと思う。

優子さんは、お母さんが以前入院したとき、毎日手紙を送ったとのこと。お母さんは、看護婦さんから「お母さんは幸せだね。こんなふうに毎日手紙をくれるなんてないことだよ」と言われたとうれしそうに話していた。

お母さんは、優子さんの娘さんたちが生まれるたび上京。長い間滞在し、お世話をしていた。優子さんはそのことについて、とても幸せなことだと感謝していた。

優子さんに最後に会ったのは、一昨年(2019年)の10月。宮古島市民総合文化祭の会場(JTAドーム)だった。来ていることを知らなかった私は、優子さんに声をかけられびっくり!大声を出し抱き合って再会を喜んだ。話したいことがいっぱいあったが、お互い時間がなく少ししか話が出来なかった。6年前に宮古にUターンした私は、優子さんに会う回数も減っていた。でもいつでも繋がっている感があった。まさかこの日が最後の日になるなんて。

早すぎたけど、私より11歳も若くて納得もいかないけど、みんな行く道だ。また会えるさね。それまでみんなを見守ってね。そして、ゆっくり休んでね。優子さんがたくさんの場所で撒いた種は、きっと素敵な花を咲かせることだと思う。優子さん、ありがとう。あつかー、またいら(じゃ、またね)。


 こんにちは。一番座から片岡槙泰です。松谷さんが、トップバッターなので、「一番座」でいいですね。
 
 前回触れましたが、凹天の映画アニメーション制作と、たま子との新婚生活と同じ時期であることを裏付ける資料はあるのでしょうか。これは、実は、大きな問題を孕(はら)んでいます。なぜなら、凹天の映画アニメーション制作が始まった時期は、1917年か、それとも前年の1916年に遡れるかということで、1917年1月のどの時期にまで、凹天のアニメーション映画公開を考察に入れてもいいのかについて、ひとつの手がかりになるからです。フレデリック・S・リッテンとのコメントのやり取りでも、残念ながら中途半端で終わってしまいましたが、ここが中心になったところです。

 この新婚時代について検討することは、もうひとつ大きな意味があります。それは、アニメーション制作当時の凹天が、オウテンかヘコテンか、周りからどう呼ばれていたかについて、現在の段階で、ひとつの結論を導きだすことができるからです。これまでは、一般に、漫画研究者はヘコテンで、映画アニメーション研究者はオウテンとしているのですが、その根拠については、さほど説得力がなく、「なんとなく」決まっていたのを追認しているようです。オウテンが、アニメーション研究者に広まった経緯について、アニメーション研究者自身が言及がしていないのは、きわめて遺憾(いかん)です。

 山口旦訓(やまぐち かつのり)に、このあたりを確認したところ、次のようなお返事をいただきましたので、ここで披露します。

片岡 さま

メール拝見。
『オウテン』に関して、私は、どこかで活字にした記憶があります。
でも、それが、ドコだかいまや失念。もしかしたら「みずえ」から
出た「月刊 アニメーション」だったかも。この雑誌は、とうの昔に
廃刊です。

「なぜ、オウテン」かですが。この件に関しては、野田市の家で
下川さん本人から直接、聞いたかと思います。
「下川凹天」と書いて、当初は「オウテン」と読んでいた。これは、
師匠である「北沢楽天」からの流れから,名付けたものです。
「凹天」と書いて、なぜ「オウテン」かといえば「凹凸=オウトツ」
の「凹=オウ」だからです。

いくら、自分の師匠が「北沢楽天」だから「凹天(おうてん)」と付
けたとはいえ「オウテン」は「まずいな」と思ったそうな。
つまり「凹天(オウテン)」は「王天」に通じ、「師匠に対して失礼
では・・・」と思ったそうです。

このため「凹天(ヘコテン)という呼称に変えた」と聞いています。

 『にっぽんアニメ創世記』(集英社、2020年)の「あとがき」では、「下川凹天の呼称について、従来は『しもかわおうてん』と多く読まれていましたが、最近の研究によって、『しもかわへこてん』のほうが主として使用されていた事実が判明しました」とあります。しかし、この文脈において、呼称の問題は、われらが凹天の長い生涯から判断することではありません。また、「最近の研究」という言い方だけでは、それ以前の調査や研究について、あまりに不誠実です。「オウテン」という呼称が広まった経緯について、触れていないからです。はっきり言えば、「研究」だとか「著作」という名に値しません。ここで、肝要なことは、凹天の映画アニメーション制作が始まった時期、そして公開された時期の呼称が問題なのです。山口さんは、卒論を書く時点で、その重要性に気づいていました。  

 『月刊絵本別冊アニメーション』創刊号(すばる書房、1978年)には、このような記述が残されています。

 「下川凹天(おうてん=本名・貞矩)は、千葉県野田市にあるキッコーマン醤油の社長宅で”客人”として晩年を過ごしていた。その邸の名前は”安楽亭”(あらくてい)という。卒論をまとめる段階で私はそれを知らなかった。知ったのは五年のちほどで、私は改めて”安楽亭の住人”をたずねた。
 このとき、下川は元気で、頼まれては仏教画をかくほどだった。幸内と同様に下川もまた『自分こそ日本における漫画映画づくりの創始者である』と主張するが、肝心の漫画映画についてはほとんど記憶していなかった。だが、元気な下川に会えたことで私は満足だった」。

 「余談だが、下川は通称『へこてん』で生涯を通した。それというのも楽天の弟子のくせに『王天』とはなにごとぞ・・・と冷やかされたがためだそうだ」。

月刊絵本

 「オウテン」、もしくは「ヘコテン」という呼称自体については、柳瀬正夢(やなせ まさむ)など穴明共三、夏川八朗のペンネームを用いていたように、同時代の漫画家がいくつもペンネームを使い分けていた事実から、それ自体は問題にならないかもしれません。しかし、これは、凹天が日本初のアニメーターであるという、日本アニメ史上、最重要な考察において、先述した点を看過しています。「アニメーション研究者」という肩書きがあるなら、ここを無視しているのは、やはり問題です。凹天自身も、さまざまなペンネームを使っていました。下川凹天、下川矩、下川平馬、下川豊明、下川豊玉などなど。

 山口さんは、学生時代から培っていたジャーナリスト精神を発揮し、凹天本人と直接会って、凹天が北澤樂天(きたざわ らくてん)から最初にもらった呼称を採用しました。その成果が、日本アニメーション映画研究の金字塔『日本アニメーション映画史』(有文社、1977年)。しかし、その後、山口先生の調査がそのまま踏襲されて、2020年に刊行された『にっぽんアニメ創世記』にいたるまで、きちんと精査されていないのが実情なのは、きわめて残念です。いくら軽いノリの業界であっても、そのあたりは、慎重に扱うのが学問です。

 山口さんと、当時の大宮市でお会いし、その後浦和市の銀座アスターで、ラーメンをご一緒した津堅信之(つがた のぶゆき)は、いくつか資料を突き合わせていますが、結局、肝心な点はそのままです。秋田孝宏(あきた たかひろ)も、津堅信之の説を確かめるため、風刺画研究者の清水勲(しみず いさお)や、アニメーション研究家のおかだえみこに尋ねています。前者は、同時代の漫画家が「へこてん」と読んでいたということ、後者は「積極的な根拠がなかった」という理由で「おうてん」と呼んだという回答をそのまま文献批判もなく記しています。われらが凹天の読み方については、山口さんが『月刊絵本別冊アニメーション』に書いたことを考慮するだけでなく、一例を挙げれば、宮尾しげを(みやお しげを)の『日本の戯画』(第一法規、1967年)の記述も、考察に入れる必要があります。

日本の戯画

 その気になれば調べられる第一次資料に当たっていないことが明らかな『にっぽんアニメ創世記』が、このまま書いたもの勝ちのように後世に伝えられることは、いくら後世のアニメーション研究者に役立つ資料が豊富とはいえ、看過(かんか)できません。

 さてさて、気を取り直して、今回紹介したいのが、磯部甲陽堂から出版された、岡本一平(おかもと いっぺい)の『夜泣寺の夜話』(磯部甲陽堂、1922年)です。

夜泣寺の夜話

 磯部甲陽堂を始めた磯部辰次郎(いそべ たつじろう)が漫画家に特別な思いをもっていたことは、前回述べました。これは、岡本一平の『泣虫寺の夜話』の序文からも、うかがえます。この本は、元々、雑誌『日本一』を出した南北社から出る予定でした。ところが、延ばし延ばしになって、「書肆N社」、その後改名した「D社」を経て、最終的に、一平にとって「予が馴染」の磯部辰次郎が引き受けたのです。名もなき人物を世に出そうという気概だけなく、義侠心にも満ちた人物でもあったかと。

 しかし、磯部辰次郎は、『泣虫寺の夜話』の出版には、ぜひ自分のところからという熱意があったのではないでしょうか。それは、この本が、内容から判断して、妹のたま子と凹天の「自由恋愛」時代から、結婚にいたる経緯の描写があるからです。

 この本の「漫畫の世の中」には、四人の漫画家が登場します。飛鳥井兩圓、川田みつる、毬田宙、そして、山上てこ變です。後者のふたりは、文明批評家の「醉亭」の離座敷で、借家住まいをしています。

 この山上てこ變こそが、下川凹天なのでは。

 まず姓の「山上」とは、「下川」の上下を逆にして、意味を反対にしたもの。「てこ變」とは、「へこてん」のアナグラムです。後半を漢字にしたのは、変人で知られた凹天ならありえます。そして、「漫画漫文」の創始者で、大正期最高の漫画家とされた岡本一平ならではの洒脱な命名かと。
 
 「毬田が西瓜の種子の袋を抱へて歸つた晩は無事に塀が越せた。離れに入つて距ての壁の穴から覗いて見ると、てこ變は眼を赤くして活動寫眞のフイルムの新凸坊畫帳映畫の下繪を描いている。これが彼の近頃の仕事だ」。

 当時、岡本一平の周囲で、アニメーション制作を始めた人物は、凹天か幸内純一(こううち じゅんいち)しかいません。しかし、この名前から推察するに、われらが凹天を意味していることはきわめて可能性が高いのです。
 
 しかも決定的なことに、「てこ變」は、アニメーション制作で目を痛めているという記述もあります。

  「『てこちやん、勉強だね。明日松花庵に行くからそしたら西施君に、貴女の為めに勉強してるつて云つてやらう』
 すると、てこが嬉しさうに溶けさうな鼻聲を出して言つた。
 『よせよ、よせよ、眼がなほ悪くなるつて彼女が心配すらい。よせよ』」。

 日本初の映画アニメーション制作の職業病第一号が凹天であることは、業界では知られています。新聞などでは「失明」と書かれている場合もあります。傍らにいた岡本一平にとっても、それは印象的な出来事だったのでしょう。山口豊専(やまぐち ほうせん)の孫にあたる方に、直接うかがった話では、右目が見にくそうで、斜めに顔を上げて物を見る癖があったそうです。

山口豊専邸

 もっとも、山口旦訓さんに直接尋ねたところ、そうではなかったとのこと。

janにて

 翌日、飛鳥井兩圓、川田みつる、毬田宙の三人は、そろって、常連の小料理屋「松花庵」に出かけます。相手の「お揚(よう)ちやん」と毬田は、こんな会話をします。

 「『そりやそうと此頃てこさんはちつとも家へいらっしゃらないのね。眼はどうなすって。』
 『追々惡くなる許りです。それで居てお西施ちやんに、指輪を買つてやるんだつて夢中になつて凸坊畫帳を描いて居ます。時々便所へ行くのに白い紙を見詰めた眼を急に闇い廊下へ轉へるのですから。先が見えない。壁虎のやうに壁を傳つて行き升』」。

 てこ變は、アニメーション映画制作、そして恋人の「お西施(せい)ちゃん」に夢中です。「自由恋愛」という記事は、岡本一平のこの著作を読むと、本当であったように思われます。そして、たま子と思われるお西施ちゃんの方も。

 「『お西施ちやんこの頃、眞實に、てこさんの事を想ひ出してよ。今日も寝てるのよ。あの何處にも取得の無い人前にも出せもし無いやうな男がどうしてこう心にこびり付いて離れ無いのだらう。あんな天邪鬼をこうもいぢらしく思ふなんて自分で自分の身が口惜しいつて、さつきも中二階で泣いてゝよ』」。

 「あなた方は始めいゝ冗談のつもりでお西施さんと、てこさんを結びつけたのでせう。第一はとても本物にならないから、嫉妬が焼けなくて安心だとそれからあなた方ご連中のいつもの癖の何か美しいものがあれば屹度反對な醜いものを見付け出して配合しなければ氣が済まぬ癖と、それからお西施ちやんを嫌がらせる惡坐山戯も入つて居ないとは申されますまい。處が人間同士が生ものと生ものとですよ。それに、てこさんは女から見て實に不思議に牽きつけられる魅力を有つている處があるのですよ。成程てこさんは丈も短く、人間が馬鹿で、評判の通り天邪鬼の顔です」。 

 岡本一平は、お揚ちゃんの口から、凹天らしき人物の魅力、そして凹天的存在に対する女性の気持ちを語らせます。この『夜泣寺の夜話』は、伊藤逸平(いとう いっぺい)によれば、妻や子に比べてきわめて少ない岡本一平自身についての文献としては、瀬戸内晴美(せとうち はるみ)の『かの子繚乱』と双璧だとのこと。確かに冒頭の岡本家の祖先や、父親の話は、これが唯一の第一次資料。

 ということは、他の話についても、フィクションとノンフィクションが入り混じっていたとしても、同時代人には、そこが、どのような事実関係から生まれていたのか、明白だったと考えられます。

 「女がふつふつ嫌氣がさすのは表面だけなの、動が無いお人形様みたいな、薄つぺらな顔や性質の男です。(略)顔でも味のある顔、てこさんの顔は理由なく苛められ、酸苦を嘗めさせられ、厭制されてそれを天性の生一本がぢつと堪へている顔です。女が見ると男の苦しみが醜ひまで露骨に出て居て惚々します。
 浄瑠璃の中の道徳を聽くやうにてこさんの顔の肉に喰ひ入る繫縛の絆の美はしさが嘸痛痒ゆい氣持ちであらうかとお察しすると女の身が慄へだします。そしててこさんをどうかしてやり度く成り升。斯うして女は愛を引出され升。その上てこさんはあの様に見榮も外聞も無く、惚れた弱身をすつかりお友達にも相手の女にも曝け出して迄一生懸命になつて居升」。

 ここで、お揚ちゃんの本音は、毬田の気持ちを引き出すことにあるのですが、それはさておき。この話の結末は、毬田とお揚ちやん、そして、てこ變とお西施ちゃんが、結婚することになります。両カップルの結婚式の光景が続き、最後は、両カップルとも3年前からの付き合いだったことが明らかに。

 「『成程三年この方牡丹畑の芽の出が惡るいと思つたら、成程。君等が毎晩踏むせいだな』」。

 この「三年この方」とは、1914年に出版された、岡本一平の処女作『畫趣探訪』が、磯部甲陽堂から出版準備が始まった前あたりから、われらが凹天の『ポンチ肖像』が出版された1916年までの間を指しているかと。

 なお、この話の舞台が、小料理屋になっているのは、毬田宙こと在田稠(ありた しげし)の結婚相手であるキクが、銀座の飲み屋で働いていたと解釈するのが妥当かと。「宙」のルビは「ちう」とありますが、稠の音読みは、現代では「チュウ」。

 凹天は、イケメンをやたらもち上げる現代の風潮からすると、とんでもない醜男かも。そして、たま子が、私が2012年、内モンゴル大学大学院生から直接聞いた話ですが、「中国三大美人」のひとりである西施のごとく、並々ならぬ美女であったことは、残された写真からもうかがえます。

凹天とたま子

 ここでは、当時の漫画界には、このような関係があったことを伝える描写を引用しておきます。

 「東京の漫畫家の團體に嗜眠倶樂部といふのがあつて、會員の結婚病氣に聊の金を贈つて慰問し表敬する慣しになつている。別段に世話といふ決まつたものはない。世話の必要があつて世話しなけりやならない羽目に立つた人がその場限りの世話人になる」。

 この話は、次のようなエピソードを裏付けます。川端竜子は、貧困、そして病氣に苦しむ凹天とたま子夫妻を「世話」します。

 「田中の家に居る時川端竜子氏から仕事を貰つた。それは多分駄目になつてしまつたに違いない。しかし川端氏は五拾圓送つて來た。私の妻はこれだけは死ぬ迄忘れられないとそう云つて居る。眼が失明して赤十字病院の施療へ三ヶ月それから震災の年帝大病院へ二ヶ月入院し、胃腸の大手術をやつた爲、漸く遺傳病の根元を去る事が出來た」。

 なお、赤十字病院(現・日本赤十字社医療センター)は、宮国さんにとって、長女を出産した思い出深い病院です。

 一番座からは、以上です。



 後半は、山口旦訓(やまぐち かつのり)さんです。先生は、日本アニメーション映画研究の基礎を学生時代から作られました。宮国さんと私は、「続・山口旦訓の巻」の準備をしていました。

日本アニメーション研究家

「写っているのに、もういない宮国優子さん!!」


(日本アニメーション映画史研究家)
山口 旦訓



宮国優子さんと私とが会ったのは2回きりで、それも、まだホンの最近のことだ。と思って、手帳を調べたら、ちょうど3年前だった。

2017年秋。日本のアニメーション誕生100年を記念して、神奈川県川崎市の川崎市市民ミュージアムでは記念イベントを開催。その一環として、私に講演依頼が届き、タイトルは「アニメーション史を訪ねた男・100年を語る」だった。

私は1961年度・早稲田大学卒業だが、卒業論文で「日本動画映画史」を書いた。その卒論が映画研究家・森卓也氏の紹介により、5年後に映画雑誌「映画評論」に連載された。さらに8年後に「日本アニメーション映画史」(渡辺泰氏と共著)として刊行された。卒論から単行本刊行までの15年間は補足的に日本のアニメ史に関する取材を続け、資料集めをしていた。

アニメ100年記念の講演日は10月22日だった。当日は若かりし頃の思い出話をしたが、講演終了後に壇上から降りて、参加者たちと歓談。その中に「宮古島から来た」という男女3人連れがいた。そして、その人たちへ下川凹天に関する資料のコピーをあげたが、そのおりに男性から名刺をいただいた。

講演会は無事終了。その後、講演会に来てくれた知人から気持ちの良い話を聞いた。彼は会場から帰路、バス中で3人連れが私のことを大きな声で話しているのを聞いたそうな。『気さくな人だったね』『感じよかったね』などと。あとで知ったことだが、この3人組が宮国さんたちだったのだ。

翌2018年正月。届いた年賀状の中に「片岡慎泰さん」という方からの賀状があった。川崎市の会場で「宮古島から来た」といった人の知人で、名刺をくれた人だ。「記憶があるか」と聞かれて「元気のいいお嬢さん2人と3人連れでしたよね」と返信。そして、そのときに、片岡慎泰さんと宮国優子さんのことをはっきり、認識した。

それからのちは、片岡さんがブログでつづる研究成果の原稿を拝見。私に関する項目もあり、楽しく読んだ。さらに。宮国さんの文章もネット上で拝見。こうして2019年が暮れて、明けて2020年。お正月気分がまだ抜けきらぬころ、片岡さんから「お会いしましょう」というお誘いをいただいた。     
 
2020年1月19日。JR大宮駅の改札口前で宮国さんと片岡さんと待ち合わせ。初めて「知人」として3人が会った日だ。

宮国さんと片岡さんの2人に東京都内ではなく、私の家の近くの埼玉県の大宮駅まできてもらったのには、わけがあった。

下川凹天の師匠である北沢楽天の住居が、大宮公園にあるからだ。大宮駅から東武野田線に乗って2つ目の大宮公園駅で下車。徒歩5分の距離に住居があり、いまは「漫画会館」として一般公開されている。

楽天の多くの弟子たちがここへ集まり、師を偲ぶ会を何度も開催。その記念写真の中に下川凹天の姿も写っている。凹天研究家の2人には、漫画会館をぜひ知っておいてほしい。そう思い、大宮へ呼んだのである。

2人とも、漫画会館へ行ったことがなく、喜んでくれた。宮国さんの喜びはひときわで、私としては、なによりだった。

見学後は大宮駅前に戻り、私の「お決まり接待コース」へ2人を案内した。アニメに関して、時折、人が私を訪ねてくる。そういう人を連れて行く店で、それは「銀座アスター」だ。ごちそうするのは同店の「アスター麺」。つまり、ラーメン。理由は「安くて、おいしい」から。それと、同店は「広くて、きれいで、ゆっくりと話ができるから」だ。宮国さんと片岡さんにも「ラーメン」を食べてもらい、ゆっくりとお話をした。食後はビヤホールへ移動。飲みながらの話も楽しかった。

銀座アスター

この日、宮国さんは何枚も私たちの写真を撮ってくれた。そして、夏ごろになって、宮国さんから特製の卓上カレンダーが我が家に届いた。それは「2021年ミニ・カレンダー」で、1月から12月までの「月めくりカレンダー」だった。そこには、漫画会館ほか大宮市内で撮ったスナップ写真で12カットが納められていた。なかなかの出来ばえで「おシャレだな」「手の込んだことをやるな」と感心した。

いま迎えた「2021年」。

宮国さんと片岡さんと私と、3人にとってのこれからの1年間、月ごとに1枚、1枚かわる思い出のカレンダーだ。でも、宮国さんは、もう、いない。
 「宮国さん‼
 「ダメだよオ‼
 「楽しみは、これからだよ‼

【主な登場人物の簡単な略歴】

磯部たま子(いそべ たまこ)1893年~1940年失踪
凹天の最初の妻。詳しくは、第24回「下川凹天の最初の妻 磯部たま子の巻 その1」

宮国優子(みやぐに ゆうこ)1971年~2020年
ライター、映像制作者、勝手に松田聖子研究者、オープンスペース「Tandy ga tandhi」の主宰者、下川凹天研究者。沖縄県平良市(現・宮古島市)生まれ。童名(わらびなー)は、カニメガ。最初になりたかった職業は、吟遊詩人。宮古高校卒業後、アメリカに渡り、ワシントン州エドモンズカレッジに入学。「ムダ」という理由で、中退。ジャパンアクションクラブ(現・JAPAN ACTION ENTERPRISE)映像制作部、『宮古毎日新聞』嘱託記者、トレンディ・ドラマ全盛時の北川悦吏子脚本家事務所、(株)オフィスバンズに勤務。難病で退職。その療養中に編著したのが『読めば宮古』(ボーダーインク、2002年)。「宮古では、『ハリー・ポッター』より売れた」と笑っていた。その後、『思えば宮古』(ボーダーインク、2004年)と続く。『読めば宮古』で、第7回平良好児賞受賞。その時のエピソードとして、「宮国優子たるもの、甘んじてそんな賞を受けるとはなにごとか」と仲宗根將二氏に叱られた。生涯のヒーローは、笹森儀助。GoGetters、最後はイースマイルに勤務。その他、フリーランスとして、映像制作やライターなど、さまざまな分野に携わる。ディレクターとして『大使の国から』など紀行番組、開隆堂のビデオ教材など教育関係の電子書籍、映像など制作物多数あり。2010年、友人と一緒に、一般社団法人 ATALAS ネットワーク設立。『島を旅立つ君たちへ』を編著。本人によれば、「これで宮古がやっと世界とつながった」とのこと。女性の意識行動研究所研究員、法政大学沖縄文化研究所国内研究員、沖縄大学地域研究所研究員などを歴任。2014年、法政大学沖縄文化研究所宮古研究会発足時の責任者だった。好きな顔のタイプは、藤井聡太。口ぐせは、「私の人生にイチミリの後悔もない」。プロレスファンならご存じの、ミスター高橋のハードボイルド小説出版に向けて動くなど、多方面に活動していた。くも膜下出血のため、東京都内で死去。


フレデリック・S・リッテン1964年~
図書館司書、中国学研究者、日本創生期アニメーション映画研究者。カナダ・ケベック州モントリオールに生まれ、ドイツで育つ。ミュンヘン大学卒。1988年中国学で修士号、1991年に科学史で、博士号取得。ミュンヘン大学やアウクスブルク大学で、研究員や非常勤講師。2006年からバイエルン州立図書館に勤務。新聞や雑誌に、近・現代史について寄稿をする。日本のアニメやマンガなどについての論文や著作もある。代表作は『Animated Film in Japan until 1919. Western Animation and the Beginnings of Anime』。

山口旦訓(やまぐち かつのり)1940年~
ジャーナリスト、日本初期アニメーション映画研究者。宝くじ研究者。東京府麻布區霞町22番(現・東京都港区)生まれ。福井県へ疎開の後、1950年に東京に戻る。詳しくは、第10回「凹天の最後の取材者 山口旦訓の巻」

北澤樂天(きたざわ らくてん) 1876年~1955年
漫画家、日本画家。東京市神田區駿河台(現・千代田区駿河台)に生まれ。
近代日本漫画の初期における最重要な漫画家のひとり。下川貞矩(さだのり)は、楽天の最初の弟子で、「凹天」の名付け親。1895年、横浜の週刊英字新聞「ボックス・オブ・キュリオス」社に入社し、欧米漫画の技術を学ぶ。1899年、福沢諭吉が創刊した新聞「時事新報」で漫画記者となる。1905年に、楽天はB4版サイズフルカラーの風刺漫画雑誌『東京パック』(第一次)を創刊。キャプションに、日本語の他に英語および中国語が併記。朝鮮半島や中国大陸、台湾などのアジア各地でも販売された。凹天の素行があまりにもひどいので、3回も破門にする。しかし、『樂天パック』を始めた時、凹天のお詫びの手紙を読み、再び弟子にする。多くの漫画家の後進を育てる。脳溢血のため、自宅で死去。後年住んでいた大宮市の「楽天居」は、死後、妻が大宮市(現・さいたま市)に寄付し、大宮市の名誉市民第1号となる。1966年、大宮市立漫画会館(現・さいたま市立漫画会館)がその場所に設立された。

清水勲(しみず いさお)1939年~2021年
風刺漫画研究家。現在の東京都大田区生まれ。立教大学理学部卒。1963年三省堂に入社して編集者となる。1968年~1983年リーダースダイジェスト社勤務。勤務の傍ら、風刺漫画研究に打ち込む。『明治の風刺画家ビゴー』(1982年、新潮社)で第1回高橋邦太郎賞(現・日仏賞)受賞。その他、受賞多数。その後、日本漫画資料館館長、川崎市市民ミュージアム専門研究員、平成帝京大学教授、京都国際マンガミュージアム顧問などを歴任。1992年「日本風刺画史学会」を設立。季刊誌『風刺画研究』は、さまざまな漫画研究の必読書となっている。凹天や同時代に関しても、貴重な資料多数。人生の集大成として、江戸時代の風刺画に打ち込んでいた。前立腺がんのため自宅で死去。

宮尾しげを(みやお しげお)1902年~1982年
漫画家、江戸風俗研究家。東京出身。本名は重男。生家は鼈甲細工(べっこうざいく)を生業(なりわい)とする。岡本一平の最初の弟子。1922年、『漫畫太郎』でデビュー。『朝日新聞』に連載した『団子串助漫遊記』がヒットし、それをきっかけに「一平塾」ができる。岡本一平の葬儀に、一番弟子として参列。後年は、江戸風俗研究をしながら、漫画の歴史を研究する。その代表作に『日本の戯画』がある。戦前の「こども漫画」というジャンルの代表的漫画家。凹天の葬式に参列。その時に居合わせたのは、森比呂志、もうひとりの高弟である石川信介。それに横木健二、御法川富夫の凹天一門。そして、長老格として宮尾しげを。森比呂志の記録によれば、宮尾しげをは、雨の中、傘をさしながら「凹に墓などあるのかねェ」と述べた。心不全のため、自宅で死去。

岡本一平(おかもと いっぺい)1886年~1948年
漫画家、作詞家。妻は小説家の岡本かの子。岡本太郎の父親。東京美術学校(現・東京藝術大学)西洋画科に進学。北海道函館市生まれ。卒業後、帝国劇場で舞台芸術の仕事に携わった後、夏目漱石の強い推薦で、1912年に朝日新聞社に入社。漫画記者となり、「漫画漫文」という独自のスタイルを確立し、大正時代にヒットメーカーになる。明治の樂天、大正の一平と称される。東京漫畫會から、漫畫奉公會まで、多くの団体で凹天と関係する。凹天の処女作『ポンチ肖像』の序文を書く。『一平全集』(全15巻・先進社)など大ベストセラーを世に送り出す。口ぐせは、50円もらったら、80円の仕事をしろ。かの子の死後、すぐにお手伝いの八重子と結婚。4子を授かる。漫画家養成の私塾「一平塾」を主宰し、後進を育てた。戦中は、書生のひとり(実は元妻かの子の愛人)の伝手で、岐阜県美濃太田市に疎開。疎開中は、地元民と「漫俳」を作り、慕われる。当時の加茂郡古井町下古井で入浴中、脳溢血で死去。急死のため、葬儀には太郎などの他、漫画家では、宮尾しげお、横山隆一、横井福次郎、和田義三、小野佐世男しか集まれなかった。

磯部辰次郎(いそべ たつじろう)1880年~1944年
出版家。詳しくは、第24回「下川凹天の最初の妻 磯部たま子の巻 その1」

池辺鈞(いけべ ひとし)1886年~1969年
風刺漫画家、洋画家。東京市本所区(現・東京都墨田区)生まれ。旧姓は山下。岡本一平の義弟、岡本太郎の叔父にあたり、俳優の池部良は実子。白馬会展に感動し画家を志す。1902年頃、渡辺審也に師事する。東京美術学校(現・東京藝術大学)卒。翌1911年『朝鮮京城日報社入社、1914年、徳富蘇峰の『國民新聞』に入社し、政治や社会分野などの漫画を担当。東京漫畫會、日本漫畫会会員。1916年、漫画誌『トバエ』が創刊され参加。漫画界の第一人者として活躍。漫画分野の活躍と前後して、油絵分野では、1921年の帝展出品作『大道芸人』より帝展出品を開始、1928年、第9回帝展『少女球戯図』が帝展特選。1938年一水会会員。日展評議員。受賞多数。心不全のため、東京都八王子市の永生病院で死去。

山田みのる(やまだ みのる)1889年~1925年
漫画家。茨城県水戸市八幡町生まれ。本名は實。両親を早く失くし、兄で早世した清の影響で絵を描き始める。白馬會原町研究所では、入所時主席であった。東京美術学校中、太田三郎、服部亮英らと『ヘボ画集』を出した。卒業後は、中央新聞政治部に入社。その後、岡本一平の誘いで、新しく創設された東京朝日新聞漫画部に入社。高橋是清内閣に反対する貴族院を風刺する「腐った魚」など、庶民の暮らしに暖かい目を向けた。代表作に、『もぐら漫畫』、『子供忍術漫畫』がある。『面白倶樂部』の「動物の踊り」など、子供向け漫画も得意とした。東京漫畫會に所属。下川凹天とは、凹天がアニメーション創作当時、かなり交流があった。「アブベ」と呼ばれる描線など奇抜な思い付きや、ひょうきんな性格でも知られる。弟子に、帷子進がいる。『関東大震災漫畫』での震災スケッチは、他の会員と比べても際立っている。感冒がもとで肺炎を起こし死去。

川端龍子(かわばた りゅうし) 1885年~1966年
戦前の日本画家、俳人。和歌山県和歌山市生まれ、10歳で家族とともに上京。白馬会、太平洋画会で学ぶ。読売新聞社の『明治三十年画史』の一般募集で入選し、画家のスタート。1913年に渡米し、西洋画を学ぶが、ボストン美術館にて鎌倉期の絵巻の名作「平治物語絵巻」を見て感動したことがきっかけとなり、帰国後、日本画に転向した。大作主義で、大画面の豪放な屏風画を得意とした。数寄屋橋で、投身自殺を図ったところ、北澤樂天に助けられる。凹天とは、『樂天パック』、『東京パック』などで、関わる。お金に困った凹天とたま子に、仕事を紹介した。また、貞明皇后の命で制作を依頼された平福百穂の遺作を完成する仕事も行った。平福百穂とは水魚の交わり。大正から昭和戦前の日本画壇において、所属団体を脱退するなど異色の存在。大田区にある龍子記念館では、アトリエと旧宅庭園も公開されている。1959年文化勲章受章。自宅で、老衰のため、死去。
【2022/01/25 現在】  


Posted by atalas at 14:23Comments(0)Ecce HECO.(エッケヘコ)