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2016年02月28日

「島を旅立つ君たちへ2016」完成報告&学校納品

報告が少し遅くなりましたが、2月26日(金)に宮国が緊急来島しました。

数日前に刷り上がり、25日にようやく島に届いた「島旅君2016」を持って、宮古島市役所へ下地市長を、県教育庁宮古教育事務所へ田場所長を、それぞれ訪ね、完成報告の表敬訪問を行いました。

また、午後からは宮古高校、宮古工、宮総実、伊良部高と執筆に協力していただいた島内4高校を廻り、卒業生へ配布していただくために「島旅君2016」を、時間のない中を大急ぎで納品して来ました(宮国の宮古島滞在時間は約20時間でした)。


宮古毎日と宮古新報に市長訪問時の記事が掲載されました。

◆宮古毎日 2016/02/27付け

◆宮古新報 2016/02/28付け
  


Posted by atalas at 21:35Comments(0)島を旅立つ君たちへ

2016年02月26日

「島を旅立つ君たちへ 2016」プレスリリース

報道関係者各位
2016年2月吉日
一般社団法人ATALASネットワーク

「島を旅立つ君たちへ 2016」完成報告

 平成27年度沖縄文化活性化・創造発信支援事業(支援:沖縄県、公益財団法人沖縄県文化振興会)』の一環として、昨年の小冊子「島を旅立つ君たちへ 2015」を発展・継承させた形で、、一般社団法人ATLASネットワークが制作したものです。
 宮古島にある4つの高等学校(宮古高等学校、宮古工業高等学校、宮古総合実業高等学校、伊良部高等学校)の生徒有志らが、高校三年生へ卒業式に贈る本になっています。
 この本には、在校生であるメンバーを中心に先輩へ向けてのメッセージを込められています。

『生まり島(うまりずま)の素晴らしさ、誇れる島であり、島を忘れないで欲しい。』

 制作過程では、時に苦しむこともありましたが、若き高校生たちの秘められた瞬発力や、楽しさにあふれた学校生活を軸にして、ワークショップやミーティングを重ねて形にすることができました。この作業を通じて、見慣れた風景の中に歴史と文化が眠っているのを知ることができたのも、子どもたちが得た大きな成果といえます。
 プロの編集とデザイナーのサポートのもとに、宮古のあれやこれやを一冊にギュッと詰め込むことができたかと存じます。皆様の忌憚のないご意見を聞かせていただければ幸甚です。

  本 『島を旅立つ君たちへ』 2016年版
  サイズ A5判(フルカラー・52ページ)
  印刷部数 2000部
  発行 一般社団法人ATALASネットワーク
  ※今年度卒業する高校生全員に無償配布します。

        一般社団法人ATALASネットワーク
         ホームページ http://myahk.org/
         Blog http://atalas.ti-da.net/
         FaceBook https://www.facebook.com/atalas.network/
     ※pdf版はコチラ  


Posted by atalas at 14:01Comments(0)島を旅立つ君たちへ

2016年02月26日

その10 マリコさんの宮古大学 [前篇]



初めて会ったのは、沖大存続を支援する会の宮古集会
彼は沖大の自治会と一緒にやってきたんだと思う
なんだ、この変なおじさんは?って感じだった


学生たちに交ってふらりとあらわれた変なおじさん、その人こそ戦後日本を代表する写真家、東松照明だ。日本のアメリカニゼーションをテーマに、基地周辺で作品を撮りつづけていた東松照明は、19
73年、宮古島に居を移す。島の暮らしは、彼の作品を根底から変えたといわれ、後に『太陽の鉛筆』として結実した。

「太陽の鉛筆」 船出のシーンについて(右上)
これは、K子とKが進学のために島を離れるときだった。真ん中にいるのがMで、胸のところでテープ握りしめてるけど、実は女物の財布を抱えてるからおかしくって。手前の腕は私。思いっきり指さして笑ってる。(マリコ 談)


マリコさんは、宮古上布に魅せられて、19歳で名古屋から単身宮古にやってきた。東松照明との出会いとなった集会は、その2年後のことだった。沖縄返還前に、少女がたったひとり、上布を織るために宮古へ移住ということ自体がドラマで、当時の宮古上布界にとってはセンセーショナルなことなのだが、その話はまたいずれということで、本題に戻る。

沖大の先生たちが何度か宮古に来て
入試を受けてくれないかと。受けるだけでいいからって
沖大の学生だったOにも声かけられて、受験のまねごとしたんだよね

復帰にあたり、沖縄県の複数の私立大学は、日本の大学設置基準に達しないとされ、当時の文科省は大学の統合をすすめた。それに反発した沖縄大学は、存続のための闘争を開始。その動きは、県民全体に広がっていく。署名運動やデモも大々的におこなわれたが、同時に教授らは各地を回って、実績作りのための入試などを実施していたらしい。
マリコさんが織り手として通っていた上布工房『きゃーぎやー』は、Oさんの実家のそばにあり、一緒に働いていた同僚の中にも沖大出身者がいたことから、ご近所に沖大支援の輪が広がったとマリコさんはいう。

宮古島の沖大存続を支援する会が、いつ誰が立ち上げたのか、マリコさんははっきり覚えてはいない。ただ、その後の活動は、入試に参加したマリコさんら20歳前後の若者たちが中核を担うことになっていったという。

沖大のための集会とはいっても、沖大の下部組織ではないよと
だから集会は自由に誰もが言いたいことを話すことになったの
ほんとのところ、誰も沖大がなくなるとは思ってなかったしね


マリコさんたちは、現市役所の道向えにあった婦連会館で宮古集会を開催する。
「最初は多分大学の自治会が何かしゃべったんじゃないかな?そして、たまたま、私が、支援する会を代表して挨拶することになり、あとはみんな自由にしゃべりたいことしゃべってって、そんな感じだった。いろんな人が来て、好きなこと話したよ。気に入らない人の番が来ると、みんなサーッと部屋から出てね(笑)」
プログラムも司会もない、自由な集会だったとマリコさんはいう。そして、そこに居合わせたのが、冒頭の東松照明だったというわけだ。

お金を出し合って事務所を借りた
毎日集まって、ガーガー議論して。みんながーずーだったからね(笑)
東松さんは、私たちを見守るようにいつもいた


それは「うえすや」の向え側あたりにあった。東松照明は、パイナガマ近くの、もと家畜保健所として使われていたスラブヤーを借りて住んでいて、若者たちが集まる事務所に熱心に顔を出した。でも議論に口をはさむことはあまりなく、言い出したことはけして引かない意地っ張りな連中の熱いやりとりを、静かに見守っている風だったとマリコさんはいう。

それから間もなく、沖大存続の見通しもたち、支援する会は『宮古大学』と名前を変える。
「この名前が決まるまでが生みの苦しみ。みんなでうんうん考えて、やっと」
宮古大学は宮古を大きく学ぶという意味だという。その名のとおり、若者たちは、『自己の足もとを凝視し、宮古島の視点からすべての問題をとらえなおす』というテーマのもとに、過疎や離農の問題に向き合い、人頭税廃止運動について聞き取り、手づくり誌『すまりゃ(染人)』を発行する。

「東松さんは、私たちの議論を楽しんでいるみたいだった。お前ら、ほんとに面白いなと。私たちは誰も彼が写真家だということも知らなかったし、東松さんから写真の話が出ることもなかったと思う。ただ、課題や方法などは、いつも東松さんがアイディアやアドバイスをくれた。私たちの誰よりも、宮古島のことを知っていたから」

 ◆次回、[後篇]に続く-To Be Continued-



  



2016年02月25日

「島を旅立つ君たちへ 2016」完成!

お待たせ致しました!
宮古島の高校生たちと一緒にATLASネットワークが作った、この春、島を旅立つ高校三年生に贈る本、「島を旅立つ君たちへ」が遂に完成しました。

といっても、まだこの記事でお見せしているのは、表紙のデータ画像です。ごめんなさい。
現在、那覇経由で宮古に向かっている東京サイドのスタッフだけ、印刷屋さんから直接入手した「島旅君」のホンモノを手にしています(別途、FB記事参照)。宮古サイドのスタッフの手に届くは、諸般の事情から今夕の予定なので、もうしばらくお待ちください。
まずは、島内4高校へのお届けからです!  


Posted by atalas at 08:37Comments(0)島を旅立つ君たちへ

2016年02月23日

第71回 「しんしんと肺碧きまで海の旅」



前々々回の友利實功生誕の地から、前々回の「なりやまあやぐ」の歌碑を受けて。前回の「とうがにあぐ」の歌碑で、カママ嶺公園まで連想ゲームのようにやって来ました。この市街地を見下ろす丘には市民の憩いの場として親しまれています。丘の上の西側、ピラミッドのようなデザインの防災備蓄倉庫兼展望台の脇に、一枚岩の大きな石碑があります。
これは昭和の初めに宮古島にやって来た俳人・篠原鳳作の軌跡を記した石碑で、鳳作が詠んだ俳句が刻まれています。ですが、この広場に開けた向きに肝心の俳句はありません。俳句は公園の茂み側に記されています。なぜならそれには理由があるからなのです。

※画像にマウスを乗せると碑の裏面を見ることが出来ます(クリックで固定画像表示)。

「しんしんと肺碧きまで海の旅」
この無季俳句を詠んだ篠原鳳作(しのはらほうさく)は、1906(明治39)年1月7日、鹿児島県鹿児島市の生まれで、本名を国堅(くにかた)といいます。鳳作は1931(昭和6)年から3年半の年月を宮古島で過ごします。わずかな期間であったにもかかわらず、鳳作が島もたらしたものはとても大きなものでした。

鳳作は東京帝大法学部を卒業しますが、時代は昭和恐慌の頃。東京で職には就かずそのまま鹿児島へと帰郷します(病弱だったこともあるようです)、在学中に始めた俳句に没頭しますが、宮古中学の山城盛良校長の勧めに推され、鹿児島で内定していた仕事を蹴って宮古島へと渡ります。
沖縄県立宮古中学校(現在の宮古高校)に教師として赴任した鳳作は、公民と英語の教師を勤めていましたが、図画(美術)教師の欠員に伴いって、専科外にもかかわらず7ヶ月ほど美術の教師も兼任します。
その指導はとても熱心で学生たちから尊敬され、学校で絵画ブームが起こるほどでした。この時の熱量は、現在も脈々と活動を続けている宮古最古の絵画サークル「二季会」へとつながっています(一時、休眠期間あり)。
また、俳人であった鳳作は、四季の移ろいがない宮古島の地で、季語に悩みやがて無季俳句を意識するようになります。そして島の文学界に鳳作の俳句は影響を及ぼし、今も彼を、彼の句を慕う人たちが活動を続けています。
他にも鳳作は、宮古中学の応援歌を作ったりしており、溢れる才能を様々に魅せており、とても病弱だったとはにわかに信じがたい熱いエピソードばかりです。
しかし、鳳作は結婚を期に郷里の鹿児島へと戻ります(1935年結婚。妻の名は秀子)。そして翌1936(昭和11)年9月17日に亡くなってしまうのです。まるで最後の灯を宮古島で燃やし尽くしたかの如く。享年は30歳でした。

この句碑は鳳作が夭逝して36年後、沖縄復帰の年である1972年に建立されました。冒頭で句碑が公園の園地に背を向けているには理由かあると書きましたが、この碑は鳳作の故郷である、遥か鹿児島に向いて据えられており、この句碑と対をなす形で鹿児島の長崎鼻に、もうひとつの鳳作の歌碑が建てられています。
カママ嶺に建つ句碑の揮毫は、鳳作と親交があった三谷昭(みたにあきら)が書いています。三谷昭(1911/明治44年~1978/昭和53年)は東京出身の昭和期の俳人で、現代俳句協会会長を務めた人物なのですが、なんと面白いことに1941(昭和16)年に、実業之日本社に入社して、「ホープ」の編集次長、「新女苑」や「オール生活」の編集長などを歴任しているのです。
実業之日本社といえば、人頭税廃止に尽力した中村十作と同郷(新潟県上越市板倉区)で、遥々、宮古島から東京へ人頭税廃止の請願にやって来た十作ら一行に力を貸した、増田義一が創設した会社ですから、まさかのつながりに驚くばかりでした(「人頭税にまつわるエトセトラ」ベスト盤~んなま to んきゃーんSP)。

ここからは余談になってゆくのですが、この三谷昭の孫にあたる小説家・三谷晶子は、奄美は加計呂麻島に移り住んで執筆活動をされています。残念ながら未だご本人にはお逢いしたことはないのですが、離島発信で面白い書き手がいるよと、何も知らないまま教えられて、いくつか記事を拾い読みをしてみると、宮古島に来ていたことを知って、いちファンとしてブックマークをしていました。
しばらくして知人の引っ越し祝いの席で出逢った方が、晶子の友人であると判明します(後で気づくのだが、なんと記事にも登場している人だった)。すると、今度はその晶子の友人を頼って宮古島に、三谷昭の息子(つまり晶子の父)がやって来ます。そんな邂逅が繰り返されると、呼び水になるのか、金曜コラムで「 宮古かいまいくいまい」を書いている、きくちえつこと昭の息子はつながりがあったことが発覚します。こうして恐ろしいまでの宮古マジックのカオスが錬成されてゆくのです。(敬称略)

【参考資料】
篠原鳳作と二季会/瑞慶山 昇 (宮古毎日新聞 2014.02.13)
薩摩長崎鼻灯台(鹿児島県指宿市)
篠原鳳作句碑(鹿児島県指宿市長崎鼻)
三谷昭 コトバンク
実業之日本社 小史
第12回:島々で、私たちは生きている|女子的リアル離島暮らし 三谷晶子
鳳の作りしもの~鳳作忌に知る肺碧き俳人の物語(あんちーかんちー 2009.09.15)

【トナリの石碑】
第2回 「ドイツ皇帝博愛記念碑 レプリカ」
第70回 「とうがにあやぐ 歌碑」  続きを読む


2016年02月19日

『続・ロベルトソン号の秘密』 第十話



これまで私たちは、1873(明治6、同治12)年7月に起きたロベルトソン号の宮古漂着と島民による救助、そして乗組員の島での滞在について、船長エドゥアルト・ヘルンスハイムの生い立ちも含めて、詳しく見てきました。では、その後どのようにして「博愛記念碑」が建てられるに至ったのか、これが次の「秘密」になって来ますが、その詳細については今まさに新たな史実が掘り起こされつつあります。以前もご紹介したオーストラリア在住のドイツ人研究者アンダーハント先生が、公文書館などでヘルンスハイム船長に関する資料を多数発掘されていますし、エドゥアルトの兄フランツ・ヘルンスハイムの後裔に当たる方とも接触することに成功していて、未発見の資料が今後さらに出て来ることが期待されているのです。こうした最新の動きについても、このブログで随時お知らせしたいと思いますが、まず今回の「続・ロベルトソン号の秘密」からは、これまでの研究成果に基づいて、1876(明治9、光緒2)年に「博愛記念碑」が設置される経緯を追っていきます。

【ストラスブールの市内 ドイツ名シュトラースブルク】

ドイツ船救助の事実がドイツ本国で知られるようになったきっかけとして、ヘルンスハイム船長の日記をもとにした著書Der Untergang des deutschen Schoners "R. J. Robertson" und die Aufnahme der Schiffbrüchigen auf der Insel Typinsan(直訳すると『ドイツのスクーナー「R.J.ロベルトソン」号の沈没と「太平山」島民による乗組員の保護』)が出版された点が挙げられます。ドイツに帰っていないエドゥアルトの日記や原稿が、どういういきさつでヨーロッパに渡ったのかは不明なのですが、何とこの著書、初版は彼が宮古に漂着したのと同じ1873年のうち(おそらく暮れ)に出版されています。
発行された場所は、普仏戦争でフランスが敗れたことで1871年にドイツ帝国に割譲されたばかりの(現在はフランス東部に位置する)アルザス地方の中心都市、ストラスブール(Strasbourg, ドイツ名はシュトラースブルクStraßburg)です。発行元はフリードリヒ・ヴォルフ(Fr. Wolff)となっています(この出版社についても、今後調査の余地がありそうです)。なおこのヘルンスハイムの著書の初版本は、私の調査した限りでは、現在はストラスブール大学図書館にのみ所蔵されています(下の写真が、同大学図書館で撮影した初版本のタイトルページです)。
また初版出版から8年後の1881年に、ドイツ東部の街ライプツィヒにおいて、ヘルンスハイムのおじのティール(Thiel)のもとで第2版も出版されています。この第2版では(初版に掲載の)ヘルンスハイムの日記の抜粋に加えて、博愛記念碑の設置を報じた複数の新聞記事なども紹介されています(上野村発行の翻訳書『ドイツ商船R.J.ロベルトソン号宮古島漂着記』はこの第2版に拠っています)。

日記を要約したこの本が、宮古でのドイツ船救助の事実をドイツ国内に広めるのに貢献したことは間違いないようです。しかし、ヘルンスハイムの回顧録によれば、この他にも彼はStraßburger Zeitung(『シュトラースブルク新聞』)にも自らの体験を掲載したとされており、この記事がドイツ帝国の皇太子フリードリヒの目に留まり、このこともまた、ロベルトソン号遭難救助に対する国内の関心を高め、「博愛記念碑」を宮古島に贈るきっかけとなったようです。

ちなみに、この年に42歳になった皇太子フリードリヒは、10年後の1883年3月9日にようやく皇帝に即位し、フリードリヒ3世となりますが、わずか3か月後の6月15日に在位99日で亡くなりました(この時代のドイツやフランスを巡る状況はちょっと複雑ですので、次回少し解説をしたいと思います)。

このように、ヘルンスハイムが著書や新聞記事を通して、宮古での出来事を世に広めたことで、何かお礼をしなくては、という気運が高まったようなのですが、そう言いつつも彼は他方でハンブルク市の市当局に対して、宮古島の島民に対ししかるべく謝意を示すよう政府に働きかけてほしい、との申し入れもしており、その謝意の表し方について、自分から次のように提案しています。
以下、長くなりますが日本語訳して引用します(記述の一部に、当時の宮古の人々を蔑視した表現もありますが、原文に忠実な表現を心がけましたので、この点ご了承ください)。

【ヘルンスハイム船長の日記をもとにした著書の初版本】

もし当地の役人に何らかの謝意を示そうとお考えでしたら、それ――つまりおそらくは贈り物を手渡すことになるでしょうが――はドイツの船艦をもって行なわれるのがよいでしょう。というのも、大砲を数発発射するなどすればもう、当地の人々は大喜びするだろうからです。そうすれば役人たちは臣民からの名声を得ることが出来ますし、臣民自身も外国人に敬意を払うようになるでしょう。ただし贈り物に関してですが、銃器や時計の類はどちらも不適当かと思われます。と申しますのも、かの島には銃器が存在しない上、これを持ち込むことや使用することは禁じられているようなのです。また時計を贈ったとしても、島民らはこれを玩具だとしか思わないでしょう。よって、島の大きな仏教寺院に大理石かそれに類する素材で記念碑を建てれば、彼らはこれを誇りに思うことでしょうし、金銭(もちろんメキシコ銀のことですが)を贈るにしてもこの記念碑の装飾とする程度で十分でしょう。さらに、たくさんの公民が押された書類と、もし可能なら港に面した役場に望遠鏡を設置できればなおさらよいでしょう。

この要望と、実際に島に贈られたものとを比べてみると、ヘルンスハイムの希望通りに島民に届けられたものと、彼が贈らなくてもいいと言ったのに実際は島民にプレゼントされたものがあることがわかります。前者は記念碑と望遠鏡、後者は時計がそれに当たります。また記念碑が実際には寺院の中にではなく島の高台に建てられたこと、望遠鏡も役場に設置するのではなく、個人に贈られたなどの相違点もあります。とは言え、大筋ではヘルンスハイムの要望が通っていることも確かです。では、どのようにして記念碑その他の品物が島に届けられたのか、またなぜ贈るなと言ったはずの時計が贈られたのか、次回以降の「続・ロベルトソン号の秘密」では、こうした疑問にも答えていこうと思います。それではまた来月!

【編集追記】 主な人名・地名にリンクを付記しました(GoogleMapとWikipediaより)
  


2016年02月16日

第70回 「とうがにあやぐ 歌碑」



前回、友利の「なりやまあやぐ」の歌碑を取り上げたので、やはりこちらもやらねばなるまいと、頭の中の羅針盤が訴えるので、苦手分野なのですが、おっとり刀でどうにかやってみようと、碑が建立されている平良市内のカママ嶺まで行って来ました。
誤字脱字はもとより、誤認や誤用など不勉強からくる不備については、なにとぞご容赦願います。是非、皆様の確かな知識をご教示下さい。

まずは、「とうがにあやぐ」の歌詞から。
御主が世

  大世照らし居す゜ まてぃだたき
  国ぬ国々 島ぬ島々 輝り上がり覆いよ
  我がやぐみ御主が世や 根岩どぅだらよ

宮古ぬあやぐ

  春ぬ梯梧ぬ花ぬ如ん 宮古ぬあやぐや
  すぅに島 糸音ぬあてい かぎかりゃよ
  親国がみまい 下島がみまい とぅゆましみゅうでぃよ

家運繁昌

  十四日ぬ お月だき
  十五日ぬゆ お月ぬ如んよ
  上かす゜かぎ ぬぅゆす゜かぎ 此ぬ根ぬ家んなよ
実のところ、碑に刻まれている歌詞を見ても、1番2番3番なのか、それとも同じ節による異なる歌詞(沖縄民謡方面ではよくあることらしい)なのか、そのあたりの基本から判っていません。なにしろ「とうがにあやぐ」の歌詞を検索しても、「正解」に類するものが見つからないのです。ちなみに、検索で引っかかって来るのは、隣の島の「伊良部トーガニ」や「トーガニー」(本島の唄?)など、タイトルも歌詞も異なる別の唄ばかりなのです。
この「とうがにあやぐ」を漢字では「唐金綾語」と書くことが出来ます(沖縄口は漢字にすると判りやすくなる)。宮古口で「綾語」は歌を意味しますから、「唐金さんの綾語」と解釈するこもできます。どうやらこの唐金さんは伊良部に住んでいる人であるとか(城辺説もあるらしい)。あれ、じゃあ「伊良部トーガニ」と同じじゃないの?。もう素人にはこれをきちんと解説するには荷が重すぎますので、歌碑に記されている建立の趣旨に解説を譲っておくことにします。
『とうがにあやぐ歌碑建立の趣旨』
宮古の人々から愛される「とうがにあやぐ」は、先人から今日に至るまで脈々と人々の魂とともに継承され、宮古の代表的な「あーぐ」として唄われ親しまりてきました。まさに宮古人魂(気質)を如実にあらわす唄であり、古くから祝宴の席等では必ず唄われ、生気溢れる座開き唄としても定着している。
また、この唄の歌詞の中にあるように「世の中を照らす太陽のごとく、国々、島々の津々浦々まで照らし覆っておられる我が尊い御主の世は、根の生えた岩のようだ」と故郷の統治者の安泰を讃えた、宮古の人々の宇宙観、世界観を壮大なスケールで表現した唄であり、宮古人として誇りとすべき文化遺産である。
このような素晴らしい「とうがにあやぐ」を歌碑に刻み建立することによって、先人達が残した貴重な古謡を未来永劫に継承し、島内だけに止まらず、国内外・全世界に響し(とゅまし)、宮古の伝統芸能の継承発展並びに生まり宮古島の尚一層の繁栄・安泰を期したい。
よって、ここに沖縄宮古民謡協会創立40周年記念事業として、歌碑を建立する。
そうそう、歌詞の説明板もありましたので、紹介しておきたいと思いますが、この歌意も難しいです。若干、宮古的な日本語の言い回しも入っていたりします。もしかすると建立するにあたり、歌意にはさまざまな意見(唄者によって解釈が異なる場合もままある)があって、それをすり合わせた結果かもしれません。
『歌意』

  大世を照らしている真太陽(まてぃだ)のように
  国の国々 島の島々まで 照り上がりして覆っている
  我が尊い(畏れ多い)御主が世は 根の生えた岩のようだ


  春の梯梧の花のように 宮のあやぐ(歌)は
  宗根島(宮古)糸音のように あまりにも美しいことよ
  親国(沖縄)までも下島(八重山)までも 鳴り響ましてみようよ


  十四日のお月のように
  十五日のお月のように
  上がる美しさ 昇る美しさのように この根の家にはよ
最後は建立した方々の記録。
2013年(平成25年)3月4日
主催:沖縄宮古民謡協会    会  長 天久  勝義
    歌碑建立実行委員会  委員長 宮國  喜効
協賛:沖縄宮古郷友連合会  会  長 古波蔵和夫
                    前会長 兼島  恵孝
    宮古民謡協会       会  長 川満  健功
                    前会長 本村  博昭
    宮古民謡保存会     会  長 友利  元誠
    宮古島市 宮古島市教育委員会
2015年には宮古島市制施行10周年記念として、「第1回とうがにあやぐ大会」が沖縄宮古民謡協会、宮古民謡協会、宮古民謡保存協会の三団体が主催して開催されました。

とうがにあやぐ29人競演 第1回大会下地美咲さん優勝/宮古新報(2015/04/28)

【参考資料】
美ら島物語 沖縄の島唄巡り「とうがにあやぐ」
美ら島物語 沖縄の島唄巡り「伊良部トーガニ」
トーガニー/たるーの島唄まじめな研究
【伊良部】イラウタオガニ/宮古島市教育委員会

【20160226訂正】  続きを読む


2016年02月12日

5冊目 「宮古史伝」



今月の一冊は、お待たせしました!慶世村恒任の不朽の名著『宮古史伝』です。昭和2年に書かれたこの本は、宮古の歴史という縦糸に、神話から民俗まであらゆる事項が織り込まれ、宮古の豊穣な世界がまるごと書かれたまさにバイブル的傑作です!

“史籍は現在に立つて未來を照らすサーチライト”
(「宮古史伝」序文より)

この著作で彼は「宮古学の父」となりました。1927(昭和2)年に発行されたこの本は、宮古だけでなく、郷土史研究の金字塔と呼ばれています。

慶世村恒任は1891(明治24)年4月1日に平良間切下里村で生まれました。沖縄師範学校に進みましたが、病気のために中退を余儀なくされています。その後、代用教員として新里小学校などに勤めた時に、一児童の質問を受けます。

「宮古にはどうしてお話がないの?」

物知りだった祖母や母の元で育った恒任にとって、そのひと言はまさにショックで魂を揺さぶられるひと言であったに違いありません。この言葉が彼のその後の人生を決定しました。
宮古の物知りとは、ふたつの意味があります。ひとつは、「ムヌスゥー」(いわゆるユタのような、物事を見通す力のある人)として、もうひとつは「知識」がある、賢い人という意味です。どちらもお話しの宝箱のような人です。恒任はそのような「宮古随一の物知り」として歩んでいくことになるのです。そして、宮古島のあらゆる文献、資料を調べ、さらに各地の伝承や歌までも記録して、宮古のすべてが詰まったこの『宮古史伝』を完成させたのです。

『宮古史伝』には、宮古島の創世記神話から始まり、按司の時代、豊見親の時代、大親の時代(島津侵攻後)、明治・大正時代のサンシー事件までの通史という一本の糸が通っています。その中に御嶽にまつわるエピソードが入ったり、宮古のあやご(綾語)も巻末に収録されています。また、バラザン(藁算)やユウサ(ゆりかご)など、宮古の民俗についてもさまざまに述べられています。
それは恒任自身が病弱な身体をおして、宮古をくまなく調査した成果であると同時に、祖母と母、そして妻の力が支えとなっていたことでしょう。

宮古では本が台風やシロアリの害で傷むことも多く、そして私家版が多いために、残存する古い書物がとても少ないところです。『宮古史伝』も戦前から戦後にかけて2度再刊されましたが、一時は宮古馬のように、この世から失われかけました。
それを惜しんだ吉村玄得(『海鳴り―宮古島人頭税物語』の著者)の努力と幸運に恵まれて、1976
(昭和51)年にまたも復刻再販されました。その後、2008(平成20)年に冨山房インターナショナルから、仲宗根將二氏の解説付きで新版として発売され、現在普通に手にとることができるようになりました。
このように、郷土文化を愛する宮古の人々の想いが繋がって今この本があるのだと思うと、あらためて先人の情熱に感謝します。

“誠や史籍は現在に立つて未來を照らすサーチライトというべく敢えて本書をものせし所以もここに存するのである”(「宮古史伝」序文より)

今の宮古島も100年後、1000年後には、さらに先の未来を照らして、光り輝くサーチライトとなるのです。

[書籍データ]
新版 宮古史伝
著者 :慶世村恒任
発売元 :冨山房インターナショナル
発売日 : 2008/12
ISBN :490238566X

【謝辞】 今回の執筆にはN先生の全面的なご協力をいただきました。  続きを読む


Posted by atalas at 12:00Comments(0)島の本棚

2016年02月09日

第69回 「なりやまあやぐ発祥の地」



先週の友利實功生誕の地から引き継ぐ形で、今回は「なりやまあやぐ発祥の地」の石碑を紹介したいと思います。
島の石碑を巡るこの企画でも、記念碑・顕彰碑と並んで多く建立されているのが歌碑です。歌碑といっても実はさまざま。この「なりやまあやぐ」のように歌継がれている民謡から、特定の地域・団体の唱歌。俳句に短歌、詩などもあり、その数はとても多く、中には達筆な毛筆体で揮毫された碑もあって、促成にわか勉強で紹介している企画としては取り扱いが難しいのですが、避けては通れぬ石碑の道ゆえ、今後は皆様のお知恵を拝借しながら、取り組んで行きたいと思いますので、なにとぞご協力をよろしくお願いいたします。

まずは歌碑なので、「なりやまあやぐ」の歌詞の紹介。
一、サーなりやまや なりてぃぬなりやま
   すぅみやまや すぅみてぃぬ すぅみやま
   イラユマーン サーヤーヌ
   すぅみてぃぬ すぅみやま

二、サーなりやま参いってぃ なりぶりさます゜なよ
   すぅみやま参いってぃ すぅみぶりさます゜なよ
   イラユマーン サーヤーヌ  
   すぅみぶりさまっす゜なよ

三、サー馬ん乗らば 手綱ゆゆるすなよ
   美童屋行き 心許すなよ
   イラユマーン サーヤーヌ  
   心許すなよ
つづいて、碑に記されている、歌を解説した碑文です。
なりやまあやぐは宮古を代表する民謡として広く愛唱れている。
友利では、明治から大正にかけて、佐久本武佐氏、下地亀氏、川満恵長氏らによって、おのおの叙情的歌詞として即興で歌われたと伝えられている。これが、この地域この地域で歌い継がれていた、
1960(昭和35)念、友利實功氏が宮古で行われた琉球放送ラジオの素人のど自慢大会で「なりやまあやぐ」を初めて電波にのせ、世に広く知られるようなる。
なりやまあやぐ発祥の地が友利であることを、未来永劫、構成に語り継ぐため、ここに歌碑を建立する。
2005年9月            
なりやまあやぐ歌碑建立委員会


碑文にも書かれていますが、「なりやまあやぐ」は即興歌として歌われ、1864年頃にはすでに友利で歌われていたようで、現在の「なりやまあやぐ」として固定された歌詞の作者は判っていません。また、教訓歌であり、恋愛の歌であるともいわれています。

2006年にインギャーマリンガーデンで「第1回なりやまあやぐ大会」が開催されて以降、毎年秋に「なりやまあやぐ」を競う祭典が行われています(現在は“なりやまあやぐまつり”に改称)。
尚、「なりやまあやぐ」の歌碑は、インギャーマリンガーデンの東側駐車場の奥にあります。

【参考資料】
美ら島物語 沖縄の島唄巡り「なりやまあやぐ」
美ら島物語 沖縄の島唄巡り「なりやまあやぐ大会出場レポート」
【関連記事】
第68回 「友利實功氏生誕地」  続きを読む


2016年02月05日

「人頭税にまつわるエトセトラ」ベスト盤~んなま to んきゃーんSP 



毎週火曜日、ちょっとマニアックにお届けしている、島の石碑を巡る旅「んなま to んきゃーん」。昨年末から年頭にかけてお送りしたミニシリーズ「人頭税にまつわるエトセトラ」が、少しばかり好評をいただいておりますので、最近はやりの「まとめ」を作ってみました(自主運用)。
物語を楽しむもよし、薀蓄にニヤリとするもよし、興味を追及するもよし、碑を巡って旅をするもよし、それぞれの楽しみ方に利用していただけたら嬉しいです。

※「んなま to んきゃーん」の感想やリクエストなどもいただけたらさらに嬉しいです。

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Posted by atalas at 12:00Comments(0)金曜特集 特別編