てぃーだブログ › ATALAS Blog › 2015年10月

【PR】

  

Posted by TI-DA at

2015年10月30日

島の植物と暮らし~ススキ 



毎週金曜日にお届けしている「月イチ金曜コラム」は、週替わりで4名のライターさんにコラムを執筆していただいておりますが、暦のいたずらで時に金曜日が5週あることがあります。そんな月は玉石混淆なゲストライターさんのスペシャルなコラムをお楽しみいただいております。
今月の第5金曜日に登場するゲストライターさんは、みゃーくふつメールマガジン「くまからかまから」を主催されている松谷初美さんです。島のなにげない暮らしの風景と植物についてのお話です。

朝晩涼しくなり、サシバも見られ、宮古にも秋が感じられるようになりました。
昨年3月に30年ぶりに宮古にUターン。四季折々(宮古にも穏やかに四季があることを実感)の宮古の自然に触れながら生活しています。
島の植物と暮らしについて、書き みーでぃびゃーてぃ うむいうーば(書いてみようかねーと思っていますので)よろしくおつきあいくださいね。
今回は、ススキについて。

【縄】
昔は(昭和30年代くらいまでかな)縄は、買うものではなく、それぞれの家で綯(な)うものでした。ススキを刈り取ってきて、乾燥させ、道路に敷いて、車にわざと引かせ柔らかくする(この道路にススキを敷いていた光景はあちこちで見られました)。そのススキを足の指で挟み、両手で綯う。途中でススキを足しながら、上にして綯っていきます。
時々、うちのおじいは、ちゅうかの水を口に含み、プーーッとかけながらやっていた。
今でも、綯う手の感触は覚えているので、すぐ綯えるかも。
綯った綱は、刈り取ったキビを縛るのに、使っていた。

【ほうき】
12月頃になると、ススキの穂が出てきます。穂が陽の光を浴びる姿は、なんともきれいです。
このススキの穂を使って、昔は柄の短い「ほうき」を作っていました。
冬休みの宿題で、なんとか作った記憶がありますが、今ではすっかり、ばっしにゃーん(忘れてしまった)。
ススキの穂を見ると、あ、ほうきと思ってしまいます。

【まーた】
サトウキビを植えた後の畑や作物を植えた後の畑の端のところなどに何か植物を結わいて立ててあるのを見たことがありませんか。
これが「まーた」です。豊作であることを願ってススキを結わい立ててあります。これには謂れがあって、下地町誌(町制二十周年記念誌)によると

「昔天女が天降って農夫と夫婦になり、その作物は特別によく実り、その家は富み栄えた。彼女は天に還る時、うちの畑にはまーたのしるしをたてるように遺言した。その畑の作物が特別によく出来たので、皆これに習ってまーたをたてるようになった」「すすきを30センチくらい切り、3本の先を結わえて地にさす風習」(抜粋)とのこと。

豊作を願ってのこととは思っていましたが、そういう謂(いわ)れがあるとは、すさったん(知らなかった)!。時代がいくら便利になり、農業が機械化されても、豊作を願う気持ちは、ゆぬぐー(同じ)ですね。畑で「まーた」を見かけると、畑の主の気持ちが伝わってきて、気持ちがシャンとなります。
今でも天女は、見守っているはずね。
  続きを読む


Posted by atalas at 12:00Comments(0)金曜特集 特別編

2015年10月27日

第54回 「伊良部町民憲章」



宮古島市市制10周年記念シリーズ第4弾は、宮古の西北、伊良部の島に~2005年まで存在した伊良部町役場です。最近、伊良部大橋橋詰近くに、「紺碧」なる名前の高級リゾートホテルもオープンしたので、ちょっとばかりネタから始めてみました(くだらないけど判った方だけお楽しみくださいW)。

これまでならドーンっと伊良部町役場の銘板石をトップに掲げるところなのですが、なんと旧・伊良部町役場の銘板石がどこにもありません。役場敷地内にも、周辺のそれらしきところにも。どうも保存されることなく撤去されてしまったようです。なので、庁舎前の県道端にある「伊良部町民憲章」をかわりに掲げてみました。すでに合併によって伊良部町は消滅してしまいましたが、この憲章のような町(地域)であり続けることを願います。

【伊良部町略史】
1908年(明治41)4月1日 島嶼町村制により、宮古郡伊良部村が成立。
宮古島から西北に5キロにある伊良部島と隣接する下地島が町域となったが、伊良部島東部の佐良浜地区は平良間切であった池間添と前里添、西部の伊良部地区は下地間切であった佐和田、長浜、国仲、仲地、伊良部から構成されている。異なる間切に所属していたからだけでなく、まったく異なる集落の村建の歴史があることから、宮古島市となった今でも、旧伊良部町の人たちは、伊良部と佐良浜をきっちりと区別して使い分けています。
1982(昭和57)年4月1日 町制を施行し伊良部町に昇格。
2005(平成17)年10月1日 5市町村が合併して、宮古島市となる。
2015(平成27)年1月31日 宮古島と伊良部島を結ぶ、伊良部大橋が開通(3540メートル、日本最長の無料橋)。

他に伊良部町時代を語る石碑はないものかと、役場(現・宮古島市伊良部庁舎)界隈を探ってみると、役場の駐車場入口の植え込みに「町制記念」の碑がありました。
町への昇格は1982(昭和57)年のことですが、前年の1981(昭和56)年2月8日までは国仲交差点の南側(現役場から南に800メートル)に伊良部村役場があったことを、第18回「下地島~那覇間 定期航空便就航記念碑」で紹介しており、わずかな期間ですがこの庁舎は伊良部村役場でもあり、伊良部村→伊良部町→宮古島市と三世代に渡って役所を担った、宮古で唯一の建物であることが判明しました(他市町は途中で建替えや移転をしている)。
確かに、眺めてみると伊良部庁舎はかなりの年季が入った建物ですが、庁舎2階の廻りベランダや、隣接する別棟とを結ぶ渡り廊下など、意匠が凝らされており、完成当初は洗練された建物だったのではないかと思われます(2階建て。建物裏の駐車場側に開いた半地下階があるので、実質は3階建て)。

銘板石ではありませんが県道204号長山港佐良浜港線(バイパス区間)には、風雨にさらされてペイントが少し薄れていますが、未だに「伊良部町役場」のトラフッィクボードが町章とともに設置されています。

オマケの見どころ(マニアック編)
役場前の県道沿いの雑草の中に、かなり格好いい解説石板も据えられた「二等水準点 第20710号」が隠されています(もったいない)。
役場入口のロビーにはケースに入れられた伊良部大橋の主航路部を架設するクレーン船のジオラマがあります。主航路部の工事は見学会も行われ、間近で見るクレーン船の大きさと、海上での精密な施工には目を瞠りました。

【伊良部関連  んなま to んきゃーん】
第9回 「独逸商船遭難救助 佐良浜漁師顕彰碑」
第16回 「伊良部大橋開通記念碑」
第17回 「伊良部丸遭難の地 慰霊碑」
第18回 「下地島~那覇間 定期航空便就航記念碑」
第19回 「公教育発祥之地」  続きを読む



2015年10月23日

その6 大野山林いきもの先生



大野山林は、宮古島最大かつ唯一の森だ。面積は119ヘクタールほどだが、森林率16パーセントの宮古島にあっては、とても貴重な森なのだ。
アカギやタブノキの梢にサンコウチョウやアカショウビンが羽を休め、クワズイモの大きな葉を揺らしてオオクイナが顔を出す。シダの陰にじっとたたずむ影はキシノウエノトカゲかミヤコヒキガエルか。ガジュマルの長く伸びた気根の間を、オオゴマダラがふわりと漂う。日暮れともなると、不意を打つようにオオコウモリが頭上を横切り、コノハズクとアオバズクも盛大に合唱を始める。運が良ければ、一年中ホタルにも出会える。
文字通り、「いきものたちがひしめく」この亜熱帯の小さな森で、一番大きな哺乳類は、多分まちがいなく、オカ先生だ。

やんばるや西表の自然と比べたら、一見ちっぽけかもしれない
でも、ここには手の届く範囲に何でもある
深い森じゃないからこそ面白い。ハブもいないしね


長年、宮古島の高校で化学を(生物ではない)教えてきたオカ先生だが、その経歴はちょっと変わっている。教師になる前は、那覇でタクシーの運転手をしていたこともあるという。
「先生になる気はなかったけれど、長い夏休みがとれることが魅力で」大学へ戻り、教職を取った。いきものを見に行く旅ができると思ったそうだ。実際、やんばるや八重山の島々はもちろん、本州の方々にも出かけて行った。いきもの旅の三昧を続け、落ち着いた場所が大野山林だったという。
西表のジャングルで命を懸けた大冒険をしなくとも、大野山林ののんきな自然の中で、会いたいいきものたちのほとんどを至近距離で見ることができるのだ。こんな場所は滅多にないとオカ先生はいう。

一日のほとんどを大野山林で過ごしているであろうオカ先生は、どこでどんないきものが今、何をしているかをも知り尽くす。
「ほら、今、セミが鳴いてるでしょ?あれはオスが気に入ったメスに近づいて一生懸命気をひこうとしているんです。あ、メスが逃げた」

森にはオトコとオンナのドラマがあって
オトナとコドモのものがたりがあるんです
ぼくは、いきものたちに恋愛の仕方を教わった(笑)


オカ先生は、化学式を読み上げるような口調で、森のオトコとオンナの生き様を語る。
対象は、植物であったり昆虫であったり鳥であったりカエルであったりするのだが、ときに壮絶でときに愛すべきその生態は、ヒトのサガの本質に通じる。そうだ、恋も子育ても、知りたいことはみんなここにある。と、オカ先生と森を歩けば、なんだかそんな気がしてくるのだ。

さわったら毛がある。ない。うろこがある。暖かい。冷たい
こどもたちには、いきものや自然を身体で感じてほしい
そんな体験は、後になって必ず生きてくるから


オカ先生は、宮古のこどもたちには、自然を体験する環境がほとんどないと嘆く。つまり、いきもの好きになるきっかけもない。だからこそ、そのための場づくりが自分の使命だと感じている。自然クラブを作ったのもそのためだ。こどもたちとオカ先生は、あくまで対等な仲間だ。オカ先生は、けして押し付けることはしない。コドモという『いきもの』を、大野山林に解放し、身体の底からわきあがる興味や喜びをじっと待つ。自分の存在は、求められたときに、必要な手助けをする頼りになるオトナであれば十分だと考えるのだ。

唯一の場所が、行政によってどんどん作り変えられる
内部に自然を知る人もいない
やるせないけれど、その立場を否定もできない


オカ先生が、時折見せる静かな怒りがある。行政の『善かれ』が唯一無二の場所の姿を変えてしまう。本来あるべきではない樹木の植林。一部の団体のための排他的スペースの設定。そんな話題に触れるとき、オカ先生は、何かを待つように少し間を置き、とつ、とつと言葉を紡ぐ。「行政の内部に、自然やいきものについて詳しい人がいればいいんですが」
行政には提言もするが、反映されることは少ないと、抑えきれない悔しさがこぼれる。

最近、オカ先生は大野山林に隣接した農園を手に入れた。そこはオカ・ファミリーである山羊、カメ、ヘビ、烏骨鶏、カエルたちの棲家になり、こどもたちがいきものに直接さわれる場にもなる。大野山林への玄関口として、どんな可能性があるか、目下構想中である。  続きを読む



2015年10月20日

第53回 「下地町役場」



宮古島市市制10周年記念シリーズも折返しの3回目。
今回は三角島の左下あたり、旧・下地町の町役場の銘板石です。与那覇湾を埋め立てて造成した埋立地に建つ、現在の宮古島市下地庁舎の片隅にあります。

下地庁舎は1999(平成11)年の下地町町制50周年の翌年(2000年)年に完成しました。三階建ての庁舎の中央に、さらに二階分(館内施設とアンテナ類があるので見た目はもっと高い)ほど塔のように空に向かって伸びており、なかなかに立派な建物となっています。
宮古島市に合併して分庁舎方式となってからは、一階にトライアスロン記念館が設けられました(毎年4月に開催されている全日本トライアスロン宮古島大会のさまざまな資料が保管され、無料で見学ができます)。
また、あまり知られていませんが、“塔”の最上階となる5階(3階までエレベーター、残り2階は階段)は、西向きに開けた無料の展望室となっていて、下地の町並みを見渡すことが出来ます。
尚、この庁舎が完成する以前は、国道390号線上地交差点の角にありました(現・宮古島市下地保健センター)。ここはその昔、上地の村番所があったところになります(現在の字上地)。面白いのは南に200メートルほど下った、洲鎌交差点角にある沖縄電力の施設がある場所は洲鎌村番所であり、近年完成した与那覇の与那覇地区防災センター(津波避難施設)は、元の与那覇村番所で1キロほどしか離れていません。下地町域の中央部にある3つ集落の番所がこれほどまでに近くにあるのは、繁栄の証なのかもしれません。

【下地町略史】
1908(明治41)年4月1日 島嶼町村制により宮古郡下地村となる。
下地間切を軸に構成されますが、伊良部島の五字(佐和田、長浜、国仲、仲地、伊良部)は平良間切の佐良浜地区(池間添、前里添)とともに、伊良部村として新設。また、久貝は平良村へ移譲され、砂川間切の新里、野原、宮国が下地に編入されます。
1948(昭和23)年8月1日 旧・砂川間切の新里、野原、宮国と、嘉手苅の東部が上野村して独立(上野村発祥の地)。
1949(昭和24)年1月1日 上野を分村した翌年にもかかわらず、単独で町制を施行して下地町となる。
2005(平成17)年10月1日 五市町村が合併して、宮古島市となる。

【姉妹都市】
岐阜県白川町 (姉妹都市締結 2004年)
2001年に宮古広域事務組合と白川町町長との間で交流が始まり、下地町と白川町によって海と山の交流について話し合いが行われ、交流事業に発展。相互訪問などを経て姉妹都市締結がなされた。
下地庁舎の前庭にも先月の水シリーズで少しふれた、2004年の御行幸の記録があります(沖縄御行幸1/23~1/26)。
この時の御行幸は、前日の午後に那覇から宮古入りし、翌日は島内を一巡。夕刻には石垣へ飛ぶという忙しいスケジュールだったようです。
そんな中、下地役場が御一行の昼食会場となり、下地町長はこれを歴史的な出来事だったとして、陛下が宮古島の情景を詠まれた句碑を記念に建立します(2005年建立)。

【関連石碑】
第20回 「下地小学校発祥之地」  続きを読む


2015年10月16日

『続・ロベルトソン号の秘密』 第六話



一部読者の方から、エドはいつなったら宮古に来るのか、じれったい、とのお言葉を頂戴しておりましたが、お待たせしました、今日はついに宮古漂着となります。

【下】うえのドイツ文化村のシンボル、マルクスブルク城とドイツ商船遭難の地の碑

中国からオーストラリアへ茶葉を運び、帰りに石炭を積んで中国に戻る、という交易スタイルに魅力を感じ、さらにあわよくば南太平洋での交易にも参入しようとの野心を抱き、エドゥアルト・ヘルンスハイムは再び中国の福州で茶葉を積んで1873年の7月3日に出航、オーストラリアのアデレードを目指します。
資金を援助してくれた彼のおじの名を冠したスクーナー・ロベルトソン号(R.J.Robertson)は、当初予定していた台湾海峡を南下するルートを変更し、台湾の北の沖から宮古諸島付近を通過する東寄りのルートを取ることにします。
7月6日の朝には、当時ヨーロッパ人がPinnacle Islands(ドイツ語ではPinnacle Inseln)と名付けていた尖閣諸島付近を通過します。

少し話が逸れますが、エドゥアルトが東寄りのルートを取ったという点は、異国船の宮古島漂着全般について考える上でも重要になりそうです。
彼は日記中で、ルート変更の理由として、台湾海峡を南下しようとして南風の逆風に見舞われたこと、また台湾海峡を北向きに流れる強い海流の影響を挙げています。となると、中国各地からアメリカ・オセアニア方面を航海する際に、北向きの海流を逆行して台湾海峡を南下するルートはあまり好まれていなかった可能性が高く、そうなると(まさにエドゥアルトが取ったように)宮古諸島と沖縄本島の間を抜けて太平洋に出るルートが、特に中国から出帆する場合にかなり一般的であったのではないか、と考えられます。ですから、近世の宮古に異国船が多数漂着した理由のひとつとして、中国大陸を出航した船の主要な航海ルート上に宮古島が位置していたという事情が浮かび上がります。

さて、エドゥアルトの航海に話を戻しましょう。
尖閣諸島付近を通過した頃から、順調だった航海に陰りが見え始めます。7月7日の夜になると、天候の悪化を告げる様々な兆候が現れてきます。エドゥアルトの日記によると、夜になると水平線上に多くの星が燃えるように光るのが見え、初めはこれを海上に浮かぶ船の明かりかと錯覚したそうです。また金星も太陽のように眩しく輝いていたのですが、これらはまぎれもなく海が荒れる兆候であるとエドゥアルトは予感します。
ともあれ、翌7月8日の朝6時、船は尖閣諸島を通過後に、最初に視界に入った島として宮古島を確認し、同日12時には船の西側に島の南端が位置していたと、エドゥアルトは記録しています。
なおTypinsan=太平山こと宮古島の「南端」が島のどの部分を指すのかはわかりませんが、これを島の東南端である東平安名崎と考えると、船は尖閣諸島から東南東方向へ舵を取り、宮古島の東の海上を通過していったものと考えられます。

ここで船長エドゥアルトは、これまで取っていた東に向かう進路を変える決断をします。
台風がフィリピンから琉球諸島の南東の海上を、琉球諸島と並行して北東に進むと考えた彼は、このまま船を東に進めれば台風に巻き込まれると判断、むしろ台風が先に去る南を目指そうとしたのです(しかも台風の西側にいれば、北からの強い風に乗って早くフィリピン着けると読んだようです)。船が島に接近して岩礁に乗り上げるのを何よりも恐れ、なるべく宮古島から離れようと、エドゥアルトは正午から夜8時まで、時速8海里(約15km)の速さで航海を続け、一度は宮古島の南東65海里(約120km)の海上まで離れます。これで岩礁に乗り上げるリスクはなくなったはずだったのですが、ここで彼にとって想定外の大きな誤算が生じます。南西から北東へと流れる海流、つまり黒潮の存在です。これではまさに台風に向かってしまう、と必死に舵を南に向けるエドゥアルト、しかしここに折からの台風に伴う東風が吹き付け、ロベルトソン号の南下を阻みます。

【下】ドイツ村の案内図には座礁位置の案内も!
7月9日から早朝から翌10日未明にかけて、台風の猛威が、宮古島と、その近海を漂うロベルトソン号を襲います。
エドゥアルトの予想に反して、風向きは依然東のままで、北東には変わらず、南西方向に舵が取れません。彼にできることは、暴風の影響を最小限に食い止めるために船の帆をすべてたたみ、船室に閉じこもることだけ。
しかしこの嵐で、10人の乗組員(中国人2人とドイツ8名)のうち、2人のドイツ人が波にさらわれて死亡し、ドイツ人2人が負傷しました(一人は水の力で押し上げられた円材に挟まれた舵手、もう一人は海に投げ出され救出されたものの足を骨折した船員)。
特に、若くて勤勉な大工のオルヘーフト(Olhöft)が亡くなったことはエドゥアルトにとっては大変な痛手でした。しかも風向きは、エドゥアルトの予想とは逆に、東南東から南東へと変わっていきます。つまりロベルトソン号は彼が最も望まない北西方向、つまり宮古島の南岸へと向かってしまいます。

7月10日、まだ波は高いものの、夜までに風はだいぶ収まり、エドゥアルトは48時間ぶりに夕食を取ることができたようです。
翌11日、どうにか台風を切り抜けた彼は、まずは台湾の基隆を目指そうと決意、船内の海水をくみ出し、帆を張って舵を直す作業に入ります。その直後、彼は水平線の先に黒い線、つまり島影を捉えます。しかも船は風に乗ってどんどん陸地へと近づいて行きます。このままでは船が座礁してしまう、ということで救命ボートを下ろしますが、この作業中にドイツ人船員1人が足を負傷、しかも運悪く救命ボートが壊れてしまいます。すぐに船から脱出できないことになったロベルトソン号の船員たちは、まずは船の転覆に備え、アンカー(碇)を下ろして船体を固定します。
その直後、大きな波が船を襲います(碇を下ろしていなければ、この時点で船が転覆していた可能性が大きかったでしょう)。この時、若い中国人が食料品の樽に叩きつけられて負傷する不運に見舞われ、これで負傷者は計4名にのぼり、動けるのは白人3人、中国人1人になってしまいます。

【左】矢印のあたりが、ロベルトソン号が座礁した宮国沖、ンナト浜のリーフエッジ 【右】国土地理航空写真(1995年)

不運に次ぐ不運が重なって、宮国沖に碇を下ろしたロベルトソン号。この絶体絶命のピンチを、船長エドゥアルトはいかにして切り抜けることができたのか、次回はロベルトソン号の乗組員救助の詳しい経緯やその際のエドの心境、さらに彼の宮古島滞在の様子なども追っていきたいと思います。とは言え、これら一連の経緯については、以下の書籍でも詳しく述べられていますので、詳しく知りたい方はこちらもご覧いただきたいと思います(どちらも宮古島市立図書館にも所蔵されています)。

『ドイツ商船R.J.ロベルトソン号宮古島漂着記』
エドワルド・ヘルンツハイム著、上野村編纂・翻訳、上野村発行、1995年
※エドゥアルトの日記の日本語訳です。

『かがり火:ロベルトソン号救助物語』
新里堅進翻案・作画、上野村役場企画調整課発行、1996年
※ロベルトソン号救助を題材にした劇画です(やや脚色あり)。

今回のブログの参考文献
Jacob Anderhandt: Eduard Hernsheim, die Südsee und viel Geld, Monsenstein Und Vannerdat, Münster, 2011.  


2015年10月13日

第52回 「城辺町役場」



ハイ、10月からスタートした宮古島市市制10周年記念シリーズの二回目です。
今回は三角島の右下のあたりに位置している「城辺町役場」です。銘板石は合併直前の2003年に移転新設された元城辺町役場(現・宮古島市城辺支所)の片隅にあります。

かつては町の顔として庁舎の入口に鎮座していた場所には、当然ながら宮古島市城辺庁舎の銘板石が設置されおり、今回の主役である城辺町役場の銘板石は、そこから少し奥まったところに“安置”され、特に訪れる人もない記念碑としての余生を送っています。
冒頭、合併直前に行われた庁舎の新築移転については、当時、色々と物議をかもしたりもしましたが、総二階建ての近代的な庁舎が完成しました。
合併後、宮古島市は分庁舎方式を採用して、部署の統合が行われます。それにより庁舎に空きが生まれたことから、二階部分にコールセンターを誘致を決定(2007年)。施設内には専用の保育所を設けるなど、地域の活性化をもくろみます。コールセンターこそ誘致されましたが、現在使われているのは半分ほどで、保育所も今は閉鎖されてしまいました。
また、一階の役所エリアも70パーセント程度しか使われておらず、全体として活気に乏しくさみしい建物となってしまっています。

新庁舎の落成 盛大に祝う/城辺町
(2004年2月14日 宮古毎日新聞)

ちなみにこちらの庁舎になる前は、もう少し東寄りの福里交差点近くにあり、庁舎移転後も建物は残されていましたが、2013年に老朽化(竣工はは1961年)のため取り壊され、すでに更地となっていますが、まだ跡地利用は決まっていないようです。
尚、この庁舎の入口脇には、とある顕彰碑が建てられていますが、次のシリーズでこの碑を取り上げる予定なので、今はそっとしておきます。お楽しみに。

旧城辺町庁舎 13年度解体へ(2012年6月26日 宮古毎日新聞)
旧庁舎解体で「お別れ会」/城辺職員会(2013年10月21日 宮古毎日新聞)

【城辺町略史】
1908年4月1日 島嶼町村制により宮古郡城辺村となる。
町域は砂川間切をベースにしつつも、砂川間切の西里、下里、松原と、平良間切の長間、比嘉を交換。また、野原、新里、宮国が下地(後に上野村となる)に移管されたため、町村制によって間切域と町域の変動が最も大きく、中心地も砂川(変更で町端となる)から福里に変わった。
1947年2月1日 町に昇格し、城辺町となる。
2005年10月1日 平良市・下地町・上野村と合併、宮古島市となり城辺町は消滅。

【交流都市】
新潟県上越市 (交流都市締結 1976年4月)
云わずと知れた人頭税廃止に尽力を尽くした中村十作の生まれ故郷で、正確には旧頸城郡板倉町(上越市に2005年に編入されるも、上越市は全国で初となる地域自治区を導入したため。板倉区と形を変えて存続している)
※旧板倉町側の資料では、交流都市の締結は1985(昭和60)年となっている。

同名異音の愛媛県南宇和郡城辺(じょうへん)町ともつながりがあったと記憶していたが、どうやら勘違いだったようです(2004年に周辺町村と合併し愛媛県最南端の町、愛南町となったため城辺の名は消滅してしまった)。
完全な余談ですが、ここには「高知県宿毛市愛媛県南宇和郡愛南町篠山小中学校組合立篠山小学校・中学校」という日本一長い名前の学校があります。

周囲をウロウロしていたら、城辺町役場の銘板石も、宮古島市城辺庁舎の銘板石も、揮毫は池田海真(敏男/蒼海書道会)と同じ方が書かれていることに気づきました。もしかして宮古島市関連はすべて書いているのでしょうか(未確認)。
また、碑のそばには1997(平成9)年に建立された、町制施行50周年の記念碑も置かれていました。城辺で石モノといったらやはり入口のシーサーでしょう。すでにお気づきの方も多いと思いますが、このシーサーにはいろいろ面白い秘密がありますので、ぜひ現地でじっくり観察してみてください。
  続きを読む


2015年10月09日

1冊目 「沖縄のマラソンガイド2015-2016」



今月から新連載の「島の本棚」。
古今東西、この世に存在するありとあらゆる書物の中から、オキナワ宮古が登場する本をただひたすらに紹介するブックレビューです。
言の葉を紙に印刷した本という偉大な発明品のおかげで、いつでもどこでも島にふれたり、島にひたったり、島に思いを馳せる出来るだけでなく、時間すらも超越して楽しませてくれます。そんな人類の叡智が生んだ書籍から、島を知り、島に学び、島と親しむ、楽しみな連載です。

『沖縄のマラソンガイド2015-2016』

最近、沖縄のマラソンってよく聞くなあ・・・と思っていたら、こんな本を発見しました。
沖縄全島のマラソン38大会の情報が載っています。
そんなにあるとは!

実は私もかつてNAHAマラソンに2回出場したことがあります。
沖縄の冬は気候もよく、何と言っても景色は最高。また。沿道の応援がとても賑やかで、エイサーあり、唄あり踊りありの仮装もあって、本当に楽しかったです。
そんなNAHAマラソンゆえに、現在は3万人の定員を上回るエントリーがあり抽選の倍率も高いそうです。

さて、この本の中でも紹介されている、2015年度の宮古のマラソン大会は次のとおりです。
ちょうどこれからの時期、開催が目白押しなのです!

●エコアイランド宮古島マラソン(2015年10月18日)
このマラソン大会は、宮古島市制5周年を記念して始まり、エコとスポーツの融合をテーマにしています。
宮古島市は、20008年に環境モデル都市として「エコアイランド宣言」をしました。
走行コースは、市街地から南下して来間大橋を折り返し、今年開通したばかりの伊良部大橋で伊良部島を渡ります。
宮古の絶景二橋を満喫できます。

●たらま島一周マラソン大会(2015年11月14日)
宮古からさらに南の離島、多良間島のマラソンです。
24.3km、10km、5km、3kmの4コースがあり、かつ平坦な走路なので大人から子どもまで楽しめます。
また、名所や御嶽などをウォーキングで周り、歴史や文化に触れるコースもあります。

●宮古島100kmワイドーマラソン大会(2016年1月17日)
県内最長の走行距離を誇る過酷なレースです。
毎年全国の猛者が集結します。
来間大橋、池間大橋、伊良部大橋と3つの橋と4つの島を渡り、宮古の美しい海を堪能できます。
もちろん、より短い距離のコースやウォーキングの部もあるので、親子やファミリーでも参加できます。

●ロマン海道・伊良部島マラソン(2016年2月28日)
「海風をうけて、ロマン再発見」がテーマ。
自然の宝庫・伊良部島が舞台のマラソン大会です。
伊良部の海岸線や、天然記念物の通り池が見所です。
参加賞に、伊良部名物のなまり節とうずまきパンがもらえます!

●全日本トライアスロン宮古島大会(2016年4月17日)
もはや宮古島の風物詩ともいえる、トライアスロン大会です。
水泳、バイク、ランニングを連続して行います。
この日は島の人達も気合いを入れて応援します。

いかがでしょうか。各大会の後には、ふれあいパーティーが催されることもあります。
これもまた島らしいホスピタリティあふれるイベントでおすすめです。
出場する人も応援する人も、力を合わせてワイドー!ワイドー!


[書籍データ]
沖縄のマラソンガイド2015-2016
発行元 : 丸正印刷 株式会社
発売元 : 株式会社 沖縄教販
発売日 : 2015年9月
ISBN 978-4-86365-065-7

参考 沖縄のマラソンガイド  続きを読む


Posted by atalas at 12:00Comments(0)島の本棚

2015年10月08日

連載一覧(2015/10)

ATALASネットワーク公式Blogに掲載されいる、企画・コラム一覧です(随時更新)。

【月イチ金曜コラム 連載一覧】
 ~2015年5月より週替わり担当で金曜日に掲載しています。

《第一金曜担当》 「みやこのこよみ」 本村佳世(宮古人from東京)
宮古島の平良を中心とした旧暦行事や風習を考察しながら学んでゆきます。


《第二金曜担当》 「島の本棚」 江戸之切子(from東京)
この世に存在するあらゆる書物の中から、オキナワ宮古が登場する本をレビューします。


《第三金曜担当》 「続・ロベルトソン号の秘密」 ツジトモキ(from東京)
今、明かされる?ドイツ商船遭難事件の知られざる、さらなる秘密。


《第四金曜担当》 「宮古かいまいくいまい」 きくちえつこ(内地人from池間島)
島で出逢った人たちからこぼれてきた、ぴるますぬ話。


《第五金曜》 「金曜特集」 ※不定期
第五週のある月にお届けするスペシャル企画として、ゲストコラムを掲載します。


《不定期掲載》 「東京 DE 宮古」 江戸之切子 feat ATALAS(from東京)
花のミヤコ・大東京にあるオキナワ宮古モノを巡る知的探求の旅?

[2015/10改訂]


毎週火曜連載 島の石碑を巡る旅
「んなま to んきゃーん」
《文責》 モリヤダイスケ(東京人from宮古島)
  

Posted by atalas at 08:00Comments(0)連載企画

2015年10月06日

第51回 「平良市役所」



10月からの新リーズは2015年10月1日で市制10周年を迎えた宮古島市に関係する石碑を追いかけてみたいと思います。けれど、ほぼ全編を通して出落ちになりそうなので先に謝っておきます。それではスタートです!

シリーズの1回目は宮古島市平良庁舎となった旧・平良市役所の碑(銘板石)です。
この碑はいくら平良庁舎の敷地を探しても見つかりません。なぜならこの旧市役所の碑は、宮古島市総合博物館の駐車場脇に移設されているからです。
合併したことによって平良市は消滅し、銘板石としての役割りは失いましたが、博物館に置かれたことで、名を表す碑から、歴史を刻む史跡へと変化したのではないかと感じました。

隣りには「平良市の歌」の歌碑があります。この歌はまったく聞いたことがないのですが、どなたかこの歌をご存知の方はいらっしゃいませんか。尚、この歌は1960年に制定され、歌碑は2002年の平良市制55周年記念に建立されています。
また、「国際ロータリー設立75周年記念 平良市民憲章」と題したローターリークラブの碑も並んでいます。

【平良市略史】
1908(明治41)年4月1日 島嶼町村制により平良村となる。
この時、平良間切(ただし、伊良部島の池間添、前里添は伊良部村に割譲。多良間島・水納島は平良村域に残留)を中心に、砂川間切に含まれていた西里、下里、松原。また、下地間切の久貝が平良村に編入された。
1913(大正2)年2月14日 多良間島と水納島が分村し、多良間村となる。
1924(大正13)年2月1日 平良町として町制施行。
1947(昭和22)年3月7日 平良市として市制施行。
2005(平成17)年10月1日 五市町村が合併して宮古島市となる。

【平良市との姉妹都市・提携都市】
◆岡山県津山市 (姉妹都市締結 1965年3月15日)
1963(昭和38)年に平良第一小学校の砂川恵保校長が津山市に研修で派遣され、津山南小学校と姉妹校縁組を結び、これをきっかけに両市は友好を深め1965(昭和40)年に姉妹都市を締結します(実は遡ること1956年に津山市にある、美作大学に平良の女子学生が入学していたそうで、この話の先がのちょっと気になっています~もし妄想が史実に繋がったら、どこかに書きます)。
尚、第七・八代の平良市長である真栄城徳松は、名誉津山市民なのである詳しくはコチラ

◆アメリカ ハワイ州マウイ郡 (姉妹都市締結 1965年6月24日)
元ハワイ沖縄県人会長の知念清吉から、マウイ郡と平良市の姉妹都市縁組の打診があり、1965年(昭和40)年に両議会が締結を議決(このつながりは“お見合い”のようなものだったのが興味深いです)。
そして姉妹都市縁組50周年と宮古島市市制10周年が重なった2015年10月。開通したばかりの伊良部大橋の上で1509人が一斉にフラを踊り、ギネス記録を達成しました。

◆北海道室蘭市 (交流都市締結 1998年8月3日)
英国海軍の探検船プロビデンス号にゆかりのある両市が、来航200年祭を開催したことがきっかけとなって交流都市を締結。
室蘭市は1796年9月。樺太、北海道沿岸、千島列島の探検(測量調査)を終えたプロビデンス号が寄港し、船体の修理を行いました。
平良市は翌1797年、北太平洋の調査に向かう途中、八重干瀬の北端でプロビデンス号が座礁し沈没(5月16日)。池間島の人々は水や物資を分け与えてもてなし、随伴船のスクーナー号で中国へ戻ることが出来た。
尚、座礁沈没した地点のダイビングポイントには、プロビデンスという名前が付けられています(位置)。

◆福島県西会津町 (友好都市締結 2005年7月9日)
1995(平成7年)に東京で開催された地域トータルケアサービス推進協議会にて、当時の平良市長と西会津町長が健康と福祉行政を論じ合い、健康のまちづくりを軸とした交流をスタートさせました。

◆東京都世田谷区 (友好都市締結 2005年8月7日)
交流の始まりは1962(昭和37)年に来島した豆記者団で、1980(昭和55)年頃から両区市のまつりへ相互に参加するなど本格化し、民間も参加して人的経済的な交流が進み友好都市となりました。

これらの姉妹都市・提携都市は、宮古島市に合併した現在も継続されています。

こ例外にも平良市との姉妹都市には台湾の基隆市があったと記憶していたのですが、ちゃんと調べてみると姉妹都市が締結されたのは2007(平成19)年で、宮古島市になってからでしたが、きっかけは基隆港平良港間のクルーズ船就航(当時も、この夏就航しているスーパースターリブラなど来航していた)や、台琉友好親善国際ヨットレースの第5回大会が平良市~基隆市間で開催されたことなど、平良市との交流がきっかけとなって姉妹都市の提携につながりました。  続きを読む


2015年10月04日

「島旅君2016」高校生アンケート

現在、ATALASネットワークが島の高校生たちと一緒に冊子を作るプロジェクト「島を旅立つ君たちへ2016」は、島内の4つ高校の高校生のみなさんと、色々なかたちで様々な協力をいただきながら、ただいま鋭意製作中です(2016年3月配布予定)。

そんな高校生たちとのやり取りや作業をするなかで、ひとりでも多くの島の高校生たちに参加してもらいたいという思いが湧いてきました。
それならみんなにアンケートを書いてもらえば、冊子作りにも参加したことになるし、高校生たちのナマの言葉も聞くことが出来るから、面白いのではないかということになり、高校生に向けたアンケートの設問内容を高校生たちに考えてもらいました(←A&Wで会議中の高校生たち)。

通常版の紙ベースの筆記式のアンケートを作りましたが、今の世の中スマホやPCでも答えられた方が、より手軽でアンケートにも参加しやすいだろうとwebタイプも制作しました(設問の内容は基本的に同じです)。
アンケートはシーン別に三種類あります(各5問づつ)。それぞれに違った内容となっていますので(答える順番は特にありません)、すべて答えていただけると嬉しいです。

「島を旅立つ君たちへ 2016」アンケート001
ミヤコブルー・海の藍と空の蒼 編


「島を旅立つ君たちへ 2016」アンケート002
五穀豊穣・大地の緑 編


「島を旅立つ君たちへ 2016」アンケート003
命の煌き・真太陽(まてぃだ)の真紅(あか) 編

【回答期限 2015年11月30日18時】
尚、アンケートの回答内容につきましては、冊子に使わせていただくとこがあります。

web環境がない場合、紙ベースのアンケートを使用することも可能です。
島を旅立つ君たちへ2016 アンケート(pdf)
※pdfをダウンロードしてご利用下さい(web版3種類をひとまとめに綴ってあります)
※提出先については、コチラまでご相談いただくか、各校担当者にお預け下さい。

冊子「島を旅立つ君たちへ」は、ATALAS ネットワークが「平成 27 年度沖縄文化活性化・創造発信支援事業」( 支援:沖縄県、公益財団法人沖縄県文化振興会) から助成をいただき、宮古島の高校生たちを軸にしてプロの人たちと一緒になって作り上げるプロジェクトです。※2016 年3月無料配布予定  


Posted by atalas at 12:00Comments(0)島を旅立つ君たちへ