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2020年03月24日

第22回「下川凹天の撮影技師 柴田勝の巻 その10」

第22回「下川凹天の撮影技師 柴田勝の巻 その10」

こんにちは。裏座から宮国です。
さて、今回の新型コロナで世界が震撼してますが、いかがお過ごしでしょうか?
一刻も早く、特効薬が発明され、みんなが安寧のなかで過ごせますように。
私は、良くも悪くも複雑な心境で書いています。
第22回「下川凹天の撮影技師 柴田勝の巻 その10」

先月の20日から一週間ほど、私は仕事でイタリアに行って来ました。今の報道を見ると、書いている時点(3月21日現在)で、イタリアは死亡者は4000人を越えており、数日違えば、私も日本に戻れなかったと思います。それは、それでしょうがないのかもしれないのですが、何よりもアジア人として、あの場にいることはきっと精神的負担でしょう。

昨今のイタリアをはじめとしたEU各国は、中国頼みの経済であり、昨年「イタリア一帯一路、中国と締結、G7切り崩し」が個人的には大ニュースでした。ギリシャやポルトガルなどが既に参加していたこともあってか、イタリア政府はノリノリで締結。

この締結にイタリア以外のG7の他の国々は、欧州の威厳がゆらいだのではないでしょうか。そういう意味では、ユルユルな(とはいえ、背に腹は変えられなかったのかも)イタリアで、中国が提唱する経済圏構想「一帯一路」におもねったのは衝撃が走ったのだと思います。

この締結は、ある意味、経済のパワーが肌の色の壁を乗り越えたとも言えます。

その経済のパワーを詳しく見ると「締結にあわせて両国政府間や企業間で技術やエネルギー、観光分野など29件、50億ユーロ(約6250億円)以上の貿易協定と契約が結ばれた」とメディアは伝えています。

第22回「下川凹天の撮影技師 柴田勝の巻 その10」

私は、当時、このニュースを見て、先に書いたように人種をこえる時代になるのかも、と淡い期待を抱いていました。ですが、今回イタリアで道端でティーンエイジャーに「コロナ!コロナ!」と叫ばれたときは、やっぱりまだまだなのかなーと思わずに入られませんでした。若年層の人権のリテラシーは低いのが現状なのでしょう。

ですので、ラディカルな差別主義者がいたら、殺されかねないとも思えたわけです。イタリア滞在中に、急に人は出歩かなくなり、時代は次のフェーズにいきなり突入したと感じました。

時代における次のフェーズでは、誰もがネットリテラシーを試されるのでのでしょう。

原点に戻れば、普段の生活で言えないことは、ネットでも言わない、という当たり前のこと。裏表、二枚舌、嘘が通用しない世の中が進んでいくのだと思います。簡単に追跡されるわけですから。

同時に同調圧力的な今までの価値観も打ち砕かれつつあります。LGBTも含め、ダイバーシティ、ジェンダーレス、SDGsとは「Sustainable Development Goals(持続可能な開発目標)」などなど、こういうことが言語化されて会議されている時点で、世界の共有認識は確実に広がっているということでしょう。

そして、その土壌で、デジタルネイティブたちが新しい世界を作っていくー それこそ、ビジネスの力で世界を変えようといった経団連のいう「Society5.0」なのかとは思います。

狩猟社会(Society1.0)
農耕社会(Society 2.0)
工業社会(Society 3.0)
情報社会(Society 4.0)
超スマート社会(Society 5.0)

各国とも、まだまだ庶民や仕事の現場には落ちてきていない考えかもしれませんが、30年後には当たり前になっているのかもしれません。そして、超スマート社会とは、アニメに関して言えば、ネットを通した「表現」が庶民を触発し、時代の流れを作っていく、と言ったら良いでしょうか。

若い世代が、経団連や国の見落とした部分も鋭く、さまざまなメディアを通してどんどん表現をしていく「社会の主役」になっていけば良いのに、と個人的には思います。

ですが、ニュースでは【<2021年卒 就職活動生アンケート> 就活生、志望企業の働き方制度に「副業」「テレワーク」より「育児や介護との両立」を重視】だそうです。日本の若者たちは、個人ではなく集団として安定志向のなかで自由さを享受していくのかもしれません。

https://www.jiji.com/jc/article?k=000000144.000027235&g=prt

それは、まるでアニメを始めた凹天を含めた3人の漫画家たちが無意識に夢想した未来だったのかなと思います。自分を含め、誰もが自由に表現できるような世界を作り出したリーダーたちでもあり、実際に八面六臂の活躍でした。漫画家専業のイメージではなく、政治記者であり、芸術家で、イノベーターだったからです。

彼らは、時代に選ばれた「運命の人びと」だったような気がします。
第22回「下川凹天の撮影技師 柴田勝の巻 その10」

同時代の人たちを調べていくと、時代に踊らされたり、踊ったりという様子が見えててきます。国家に弾圧され、社会世相が変わっていくなかでも「個の表現をし続ける」というチャレンジしてきました。

凹天は、戦前はアナーキストであったような痕跡が見えますが、時代の風にどんどん取り込まれて、戦争加担者になっていきます。当時の仲間たちは、逮捕されたり、その末に亡くなったりとひどい時代でした。そのなかでも凹天が生きながらえることができたのは、凹天が戦争加担者になったからでしょう。

老後は仏画を描きながら、彼は何を考えていたのかと思うと、少しさびしいような気持ちにもなります。ですが、実はそれはただの大きなお世話で、最後まで後進のために勉強会をやっていたことを考えると、凹天は過去より未来を見つめ続けたのかもしれません。

今回、イタリアで20歳前後の世界各国のモデルと話しましたが、彼らはとても日本好きでアニメや文化にとても興味をもっていました。私が人気の作品を教えてもらうほどでした。100年くらい前、凹天たちが始めたアニメは、今では日本の最大と言っても過言ではない世界的コンテンツとなったのだなと驚きがありました。

世界がスクリーンやテレビ画面を通して提供した子どもたちへのコンテンツがアニメなのです。そして、日本のさまざまな大人たちの尽力で独特に発達したアニメーションは今や世界では不動の地位なのでしょう。日本らしいユニークさは世界中の人々を夢中にさせ続けています。

凹天もそうですが、今のアニメ関係者も自分たちが思う以上に、日本アニメは世界に広がっていると考えたほうが良いかもしれません。YouTubeのような時間を遡れるメディアでは、どの時代のコンテンツでも即座に見ることができるので。

第22回「下川凹天の撮影技師 柴田勝の巻 その10」

Amazon Primeなどのサブスクリプションも発達したこの数年で、コンテンツの質と量を一気に今の子どもたちは受容できる時代になりました。質と量を越えた先には、リテラシーや美意識など一層高くなっていくのではないでしょうか。ITで言葉の壁も、国家も越えつつあります。今や世界のデジタルネイティブたちが、手をつなぎ合うようになる土壌が出来たのだと思います。

「One for all, All for one」という言葉がありますが、意味は「ひとりはみんなのために、みんなはひとつの目的のために」です。私はそれがアニメなどで描かれる理想社会のような気がしています。ヒーロー、ヒロインは、運命に翻弄されたり、悩んだりしながら、意志の力で結末にたどり着きます。そこには正誤や勧善懲悪だけではなく、グレーの部分にも対話し続け、答えを探していく姿が見えます。だからこそドラマティックでハートフルなストーリーになり、世界の人びとを魅了するのでしょう。

そして、そのヒーロー、ヒロインは、いきなり生まれてきた偶像ではなく、今までの未来に希望を託した人びとの「根源的な人間らしさや理想」を考え続けた結晶なのではないかと思うのです。

 こんにちは、一番座から片岡慎泰です。

 先月、私はドイツのミュンヘンに出かける用事がありました。ご存じのとおり、全世界は新型コロナウィルスの問題でもちきりです。私もよく帰国できたものだと、柄にもなく神様に感謝しています。

 さて、今回はいい機会だと、ミュンヘンのカールスプラッツ近くのバイエルン州立図書館を訪れました。もちろん、日本初期アニメーション映画研究で知られるフリデリック・S・リッテンにお会いするためです。


第22回「下川凹天の撮影技師 柴田勝の巻 その10」


 準備が遅れた当方のせいもあり、残念ながら、お会いすることはできませんでした。前もって2度のメールを送り、当日インフォーメーションから電話をしていただいたのですが、かえすがえすも惜しいことをしました。月水金とお勤めで、ちょうど月曜日だったのですが。ここで、リッテンさんのメールを紹介します。

Lieber Herr Kataoka,

es tut mir leid, dass wir uns verpasst haben. Ihre Mails sind in einem Spamfilter gelandet, der eigentlich gar nicht hätte aktiviert sein dürfen. Offenbar hat mein Provider ein Update aufgespielt und dadurch die Einstellungen verändert.

Ich hoffe, Sie hatten dennoch einen schönen Aufenthalt in Deutschland und München und kommen gut nach Japan zurück.

Übrigens: Am 5.3. erscheint にっぽんアニメ創生期 bei Shueisha. Der Band enthält neben einer japanischen Übersetzung meines "Animated Film in Japan until 1919" Beiträge von Watanabe Yasushi und Matsumoto Natsuki über die frühen Anime.

Beste Grüße

F. Litten

片岡様

 残念ですが、私たちは行き違いになりました。あなたのメールは、スパムメールに振り分けられていました。スパムの分け方が機能不全を起こしていたようです。どうやら、私のプロバイダーがアップロードを自動でしてしまい、そのため設定が変更されていました。
 ともあれ、あなたがドイツとミュンヘンでいい日を過ごして、元気に日本に帰国することを望んでおります。

 ところで、3月5日に集英社から『にっぽんアニメ創成期(記のこと)』が出版されます。この本には、私の『Animated Film in Japan until 1919』の日本語訳とならび、日本の初期アニメに関する渡辺泰(わたなべ やすし)と松本夏樹(まつもと なつき)の論文も載っております。

敬具

F・リッテン

 そこで今回は、柴田勝(しばた まさる)から離れますが、前々回にお約束したリッテンとのコメントのやりとりをできるかぎり修復し、この本について少しですが管見(かんけん)を述べたいと考えます。


第22回「下川凹天の撮影技師 柴田勝の巻 その10」


 
 この本は、これまでの研究成果を上手にまとめています。今後、日本の初期アニメ映画やそこに携わったマンガ家や研究者、資料のよい指針になるでしょう。

 しかし、細かくなりますが、問題点も散見されます。ここでは3点のみ。というのも、図書館やフィルムセンター、文学館が、新型コロナウィルスのため閉鎖、そして凹天の原史料が集積された川崎市市民ミュージアムが水没してしまい、いまだ凹天資料の状況が、詳(つまび)らかにできないからです。

 今年の秋頃、宮古で、時も場所も未定ですが、シンポジウムをする予定です。しかし、そこで私が議題に出そうと予定していた凹天の父、貞文(さだふみ)の追悼式典の資料である「下川貞文石碑建設」、「下川貞文碑建設寄付金額人名簿」も行方知れず。下川貞文は、沖縄島から、宮古島に渡り、平良小学校で(現・平良第一小学校)訓導になりました。ついで、西辺尋常小学校(現・西辺小学校)も兼任し、新里尋常小学校(現・上野小学校)で、校長にもなりました。凹天は、父が亡くなった後、母の実家の鹿児島、そして上京してしまいます。せっかく宮古でシンポジウムなら、宮古でお世話になった方のお礼に貞文にも言及しようと思ったのですが。なお、『にっぽんアニメ創成記』(2020年、集英社)については、機会があれば、詳述する予定でいます。


第22回「下川凹天の撮影技師 柴田勝の巻 その10」
第22回「下川凹天の撮影技師 柴田勝の巻 その10」

 その1。写真の著作権について。用いられている日本アニメーションの三大始祖である、凹天、幸内純一(こううち じゅんいち)、北山清太郎(きたやま せいたろう)の写真をご覧ください。この本の第一部の扉です。

第22回「下川凹天の撮影技師 柴田勝の巻 その10」

 ここには撮影者のクレジットがありません。しかし、80ページには、北山清太郎の撮影者が載っています。では、他のふたりは一体だれが撮影したのでしょうか。

第22回「下川凹天の撮影技師 柴田勝の巻 その10」

 
 実は、凹天を調べ始めた当初、子どもをもたなかった凹天、幸内純一やその後継者の背景を追うのに難儀をしました。写真、作品、資料などの消息を訪ねることも難しかったからです。

  誰がどの目的で撮影したのか不思議だったのですが、ひょんなことから知るところに。山口且訓こと山口旦訓(やまぐち かつのり)に、今年1月お目にかかり、話をうかがうことができました。とりわけ、世の中に出ていない凹天の写真までいただけたのは望外の喜びでした。
 
 初期アニメーション映画を撮影した神々の写真のうちには、山口さんが撮影された写真もあるそうで。しかし、さまざまな資料で山口さんのクレジットがなく用いられています。ネットで拡散される時代といえばそれまでですが。

第22回「下川凹天の撮影技師 柴田勝の巻 その10」


 そして、資料をじっくり読み込んでみると、なるほど、と思うことばかりでした。

 例えば、日本アニメーション映画史の金字塔である『日本アニメーション映画史』(有文社、1977年)です。

 この本を最初に精読した時に感じたことですが、本文の文体や内容、写真、資料編の統一感がおかしいのでは。つまり、第一部は共著でなく、山口旦訓単独で書かれていました。晩年の幸内純一は山口さんが撮影者だということが分かります。

 また、この本に掲載されている凹天の写真が山口さん撮影の写真かどうか明らかではありませんが、山口さんが晩年の幸内純一や凹天を直に訪ね、記事にしたことはこのブログの第12回で紹介しました。

 そして、これまで世に発表されていなかった凹天全身像があります。

第22回「下川凹天の撮影技師 柴田勝の巻 その10」

 ちなみに、20代の記録では、凹天の足の大きさは10文ジャスト。体重が11貫8百。身長が5尺2寸ほど。足の大きさをご覧ください。また身なりが、南九州をよく知っている人によると、南九州人らしいと。父方が熊本人、母方が鹿児島人である凹天ならありうるとのこと。所作はいくら隠そうと思っても、ついにじみ出るのではないでしょうか。

 凹天20代の体格の記録は、『日本一』という雑誌に掲載されています。この資料は現在調査中ですが、早稲田大学中央図書館では、1915年1巻1號の資料とあります。しかし、内容から判断すると、凹天と最初の妻たま子との夭折した子どもが生まれた1919年頃に出されたのではないかと。出版社の南北社が、1915年の第1号が売れたので、二匹目の泥鰌を狙ったと推測します。目黒区駒場にある日本近代文学館が再開したら、また足を運ぶ予定です。実は、ここで『少年倶樂部』に載った下川清という名の投稿者が、凹天ではないかとずっと調査中。下川家の幼名は、調べる限り、清でした。凹天は三男ですが、兄ふたりは早逝しています。そこから清と名乗った可能性は高いと考えます。

 『にっぽんアニメ創成記』に掲載された凹天の写真については、川崎市市民ミュージアム蔵ということですが、これから詳細を調べる予定です。しかし、幸内純一の写真については、明らかに故意を感じます。『映画評論』28号には、山口旦訓による幸内純一の追悼記が載っています。長文失礼。

 「秋もたけなわの十月六日、幸内純一さんが老衰のため亡くなった。八十四歳であったと聞く。(略)私が初めて幸内さんとお会いしたのも秋だった。十年前、早稲田の学生だった私は卒論に日本漫画映画史を選んだ。資料とてなにもないので、多くの人々をたずね歩いては少しずっ資料をまとめていた。幸内さんの資料をまとめていた。幸内さんの住所を誰におそわったかはおぼえていない。が、吉祥寺の駅をおりて十分、静かな住宅街に幸内さんは住んでいた。
 他の多くの人と同じように、幸内さんもまた戦災で資料をすべて失っていた。しかしとても記憶力のよい方で、四十余年も前のことを正確におぼえておられた。うかがいみるにそのころ、体の調子が悪いらしく、元気がなかった。私は、たまたま買い持っていたアンプル入り疲労回復剤を、『これでもお飲みになって元気を出して・・・』と置いてきたことをいまでもおぼえている。
 その後、ごぶさたを続けたが、本誌に漫画映画史を寄稿するにあたり、再取材のため吉祥寺をたずねた。すでに調布の仙川へ移転ののちだった。仙川での幸内さんは以前よりずうっと元気であった。
 下川凹天さんや山本早苗さんなど、私がお会いした人々の近況を伝えると、なっかしげに目をしばたいていた幸内さん。そして自分は久しく昔の仲間と連絡をたっているが、これからはおつきあいをしたいものだともいっていた」。

 この文章から分かるように、われらが凹天や幸内純一だけではありません。2005年、日本のアニメを制作し、特別功労章をもらった20人の中で、創成期のパイオニア10名の半数以上の人物、そしてその他の漫画家やその研究者にも、山口旦訓は、実際に会っているのです。村田安司(むらた やすじ)、山本善次郎(やまもと ぜんじろう)ないし山本早苗(やまもと さなえ)、正岡憲三(まさおか けんぞう)、大藤信郎(おおふじ のぶろう)、須山計一(すやま けいいち)、津堅信之(つがた のぶゆき)などなど。

  『にっぽんアニメ創成記』(集英社、2020年)に掲載された写真ひとつにとっても、これだけ功績があった山口さんの名前がクレジットされていない、参加されていないのは、とても残念と思わずにいられません。

 その2。日本における初期アニメーション映画リストについて。

 少なくとも第二次世界大戦前や戦後直後の映画リストについて、だれが作成したのでしょうか。『日本アニメーション映画史』の記述や『映画評論』のリストを読むと、当時、これを作れたのは、山口旦訓以外にいないのでは。

第22回「下川凹天の撮影技師 柴田勝の巻 その10」

第22回「下川凹天の撮影技師 柴田勝の巻 その10」

 その3。資料の扱い方について。

 最初に述べたとおり、『にっぽんアニメ創成記』は今後の若い研究者にとって、よい資料になることは請け合いです。しかし、私自身がこのブログで紹介した資料や、その気になれば現在手に入る資料について、言葉は悪くなりますが、杜撰(ずさん)な扱いが目立ちます。先ほどの『日本一』や凹天第2作『凸凹人間』(1925年、新作社)、凹天の『自筆年譜』(1970年頃、石川進介の加筆あり)、佐宗美邦(さそう よしくに)主宰の東京漫画スケッチ会『漫画百年』シリーズ、大城冝武(おおしろ よしたけ)の論文、清水勲(しみず いさお)の『風刺画研究』、新漫画派集團、漫画集団、漫画家協会の一連の書物、各新聞などをもう少しきちんと突き合わせて、どこまで判明して、どこまで不明でないのかという点が、正直、物足りません。

 付言すると、アニメ研究業界の狭さ、換言すれば、団結の固さにも、かなり困りました。業界全体を盛り上げようという気がまるでないのです。すべてではないと思いたいのですが。『日本アニメーション映画史』という名著が、なぜ再販されないのか、そして、『にっぽんアニメ創成記』が出版されたのでしょうか。個人名は控えておきます。

 さてさて、気を取り直して、リッテンとのコメントのやり取りを最後にできるかぎり再現しておきます。いくつかミスタッチや思い違いもありましたので、手直しした部分もありますがご容赦を。l


 
リッテン:

Hello,
I'd like to comment that a) Mr Kataoka should have read my research note from 2013 more carefully - or, even better, should have read my book from 2017 on early Japanese animation (see http://litten.de/abstrtoc/abstr6.htm). I certainly did not confuse 「一巻」with「最初」. b) 『活動之世界』 nowhere gives any information that might help in deducing when 『芋川椋三玄關番の卷』 was released. That is one of the reasons why the report by Mr Watanabe Yasushi and others confirms my statements regarding this film (see http://anime100.jp/series.html). c) The quotations from Asahi Shimbun and Yomiuri Shimbun that are claimed to date from 13th and 14th July 1909 actually are from 1916. These texts have been used in my above-mentioned book, which also gives the most accurate information on Shimokawa's role in Japanese animation history.

Mit freundlichen Gruessen

F.S. Litten

Posted by F.S. Litten at 2019年09月26日 02:17

こんにちは、以下のようにコメントいたします。

a)片岡氏は2013年の私の研究ノートをもっと注意深く読むべきです。日本の初期アニメーションに関する2017年に出版された本を読むとさらに良いでしょう(http://litten.de/abstrtoc/を参照) abstr6.htm)。 私は「一巻」と「最初」をもちろん混同していません。

b) 『活動之世界』には 『芋川椋三玄關番の卷』がいつリリースされたかを推測するのに役立つ情報はどこにもありません。
それが渡辺泰氏らの報告がこの映画に関する私の声明を裏付けている理由の一つです(http://anime100.jp/series.htmlを参照)。

c)朝日新聞と読売新聞からの引用で、1909年7月13日と14日と主張されていますが、実際には1916年のものです。これらのテキストは、上記の本で使用され、日本のアニメーション歴史における下川凹天の役割について、最も正確な情報を提供しています。

敬具

F.S.リッテン


 宮国:

コメントありがとうございます。
先程気づきました、ごめんなさい。

最初に、aについて答えます。
私たちはすでに、日本の商業アニメ映画の最初の公開リリース日を特定しました。東京朝日新聞の1916年の12月30日と1917年の1月3日を
チェックしました。
そちらでもチェックして頂けますか?

https://atalas.ti-da.net/e11104588.html

二番目の質問ですが、片岡氏があなたに写真をお送りすると思うので、しばしお待ちを。

三番目の質問ですが、あなたのおっしゃるとおり、間違っていると思います。こちらでチェックしますね。

今回は宮国が答えました。
コミュニケートは、英語、日本語、ドイツ語のどちらのほうが良いでしょうか?

宮国

第22回「下川凹天の撮影技師 柴田勝の巻 その10」

 リッテン:

ご返答ありがとうございます。
しかしながら、私はすでに1916年の12月30日の朝日新聞の予告については論じてあります。私の本の80ページです。
ここでは「凸坊が日本のアニメーションを指す」とは示していません。実際、フィルムも特定していません。
下川のアニメーションであるという可能性もあまり高くありません。
最終的に、天活の凸坊大会は1917年の1月10日の朝日新聞によると輸入された凸坊(注・アニメ)が上映されました。国産のものだという言及はありません。
もし、あなたのほうがドイツ語がよければ、Eメールも含めて、ドイツ語にしましょう。
私の日本語はかなり貧弱なので。

F.S.リッテン

第22回「下川凹天の撮影技師 柴田勝の巻 その10」

 片岡:

Hallo aus Tokyo/Japan,Litten-san,vielen Dank dafür,dass Sie auf unserem Blog kommentierten.

Ich antworte auf zwei Punkte. Erstens:hier muss man nicht nur 凸坊 in der Asahi Shimbun vom 30.12.1916,sondern auch 凸坊 in der Asahi Shimbun vom 3.1.1917 und 6.1.1917 bestätigen. Dann lässt sich das sehr wichtige Problem leicht verstehen, dass 凸坊 in der Asahi Shimbun vom 30.12.1916 gerade der erste Animationsfilm von 下川凹天 bedeutet.

Zweitens:in 活動之世界 kann man natürlich nicht wissen,wann das erste,zweite,diritte Werk von 下川凹天,wie Sie schrieben.Das weiß ich doch. Warum? Weil dort die Liste der japanischen Filme noch nicht steht.Solange ich die Ursache untersucht,konnte ich sie zuerst in 活動之世界,September bestätigen.Ich schrieb darüber.

Übrigens behaupteten Sie, dass 芋川椋三 玄關番之巻 im April,1917 erst aufgeführt würdet.Woraus konnten Sie die ausreichende Beweise herausfinden?

Mit freundlichen Grüßen

Noriyasu Kataoka

 日本の東京から、こんにちは、リッテンさん。私たちのブログにコメントをいただきありがとうございます。

 ふたつの点についてお答えします。まず、ここで確認する必要があるのは、12月30日付だけでなく、1月3日と6日付朝日新聞です。すると、きわめて重要な問題が氷解します。12月30日付朝日新聞が、まさに下川凹天の最初の映画を指しているということを。

 次に、あなたがお書きになったように、『活動之世界』では、下川凹天の第1作、第2作、第3作が判明しません。そのことは私も存じております。なぜでしょうか。邦画のリストが、その時には存していないからです。その原因を調べてみますと、『活動之世界』では7月号になって、ようやく掲載されているからです。これについて、私は述べております。

 ところで、あなたは1917年4月に『芋川椋三 玄關番の巻』が上映されたと主張しています。その主張に適う証拠をどこで見つけられたのでしょうか。

敬具

片岡慎泰


 リッテン:

Hallo Kataoka-san,

es tut mir leid, aber es blieibt reine Spekulation, dass 凸坊 in der Asahi Shimbun vom 30.12.1916 sich auf einen Film von Shimokawa bezieht. Der erste Film Shimokawas - und damit der erste ja panischen Animationsfilm fuer eine normale Kinovorfuehrung - war nach unserem derzeitigen Kenntnisstand
凸坊新画帖 芋助猪狩の巻 vom Januar 1917. Ich vermute(!), dass dieser Film auich unter dem Titel 凸坊新画帖 明暗の失敗 gezeigt wurde, aber das ist nur moeglich, nicht sicher.
Sie fragen, woher ich wissen will, dass 芋川椋三 玄關番の巻 im April 1917 gezeigt wurde. Ganz einfach: der einzige zeitgenoessische Beleg fuer diesen Film, den ich 2013 entdeckte und den Sie auch nennen, ist der Beitrag in “The Kinema Record” mit dem Titel フィルム見物 四月の巻. Und der Titel bezieht sich nun einmal auf den April, nicht den Maerz.
Natuerlich ist es moeglich, dass dieser Film bereits Ende Maerz 1917 im Kino gezeigt wurde, aber das waere wiederum reine Spekulation. Im April 1917 war er auf jeden Fall zu sehen.
All das steht aber in meinem “Animated Film in Japan until 1919”, das es uebrigens zur Zeit bei Amazon Japan recht guenstig gibt.
Beste Gruesse
F.Litten

 こんにちは、片岡さん。

 残念ですが、1916年12月30日付朝日新聞の凸坊が、下川の作品と関連しているというのはまったくの憶測にすぎません。下川の最初の映画ーこう言ってよければ、通常の映画上映からすれば、あわてふためいたような下川によるアニメーション初映画は、目下の知見では、1917年1月の『凸坊線画帖 芋助猪狩』でした。私は推測(!)しているのですが、この映画が『凸坊線画帖 明暗の失敗』というタイトルでも、上映されたと。もちろん、これは可能性であって、確証されたわけではありません。
 あなたは、『芋川椋三 玄關番の巻』が1917年4月に上映されたことを私がどこで知ったか、お尋ねしております。まったく簡単。この作品唯一の同時代の証拠を私が2013年に発見したのです。あなたも挙げていましたね。この証拠は、田村が寄稿した『キネマ・レコード』の「ファイルム見物 四月の巻」というタイトルのところです。このタイトルは、どう見ても、4月であって3月ではありませんよね。
 もちろん、この映画が、すでに2017年3月末に上映されたとも言えますよ。でも、それはまた、まったくの憶測でしかないでしょう。1917年4月にこの作品が演目にあったのは確実なのです。ともかく、このことすべては、私の『『アニメ』が始まった時ー1919年までの日本・欧米のアニメーションを通してー』に述べています。それはそうと、この本は、アマゾン・ジャパンで、現在入手できます。

敬具

F・リッテン

 
 片岡:

Lieber Litten-san,

wie Sie wissen, ist es ja ein der größten Probleme für Anime- und Mangaforscher, das Datum des ersten Animationsfilms von Shimokawa genau zu definieren, da die Animationswerke Shimokawas bis jetzt noch nicht gefunden wurden. Es gibt daher viele „Spekulationen“ und deswegen das große Interesse seitens der Fachleute.

Ich würde trotz allem sagen, dass es ganz und gar keine Spekulation ist, dass sich 凸坊 in der Asahi Shimbun vom 30.12.1916 gerade auf einen Film von Simokawa bezieht: Diese Werbung ist nämlich als Neujahrsanzeige gedacht, wobei angekündigt wurde, dass ein gewisser 凸坊 im シ子マ倶樂部(シネマ倶楽部), dem berühmten Spielhaus in 有楽町 (Yuraku-Cho)–シ子マ倶樂部(シネマ倶楽部) ist kein einfaches Kino, sondern ein Spielhaus auch für andere Genres –, vorgeführt wird. Und die Neujahrsaufführungen begannen damals in Japan immer am 3.Januar. Das Spielhaus シネマ倶楽部 gehörte seinerzeit zur 天活(1914-1919), der damals berühmtesten Filmfirma, wo Shimokawa als der einzige Animator arbeitete. Daraus ist es wohl leicht zu folgern, dass als Autorschaft des Artikels in der Asahi Shimbun vom 30.12.1916 nur Shimokawa in Frage käme.
Dazu würde ich auf zwei sehr bedeutende Dokumente hinweisen: 1) In der Asahi Shimbun vom 2.1.1917 steht der Artikel „演芸風月録„. 2) In der Asahi Shimbun vom 6.1.1917 ist der Artikel „演芸風月録 “ zu finden. Dieser Artikel ist eine Art Filmkritik und bezieht sich auf die zweite Neujahrsaufführung im 天活. Aus diesen Gründen bin ich zwar davon überzeugt, dass der erste Animationsfilm von Shimokawa wohl zunächst am 3. Januar aufgeführt wurde. Da wir als Forscher jedoch vorsichtig mit solchen Daten und Fakten umgehen sollten, würde ich sagen, dass der 3. bis 5. Januar 1917 der Jubiläumstag des japanischen Animationsfilms sein sollte.

Was 芋川椋三 玄關番之巻 betriff, arbeite ich schon lange daran und würde gerne mit Ihnen später diskutieren.

Herzliche Grüße aus Japan

Noriyasu Kataoka

 こんにちは、リッテンさん。

 ご存じの通り、アニメ研究者やマンガ研究者にとって、下川のアニメーション映画の初日を正確に定義することは、大きな問題のひとつです。下川の作品は、今までひとつも見つかっていないのですから。そこで多くの「憶測」が生まれ、結果として、専門家サイドから大きな関心を惹起しているのです。

 私はそれでも申し上げたいのですが、憶測ではけっしてありません。1916年12月30日付朝日新聞の凸坊は、まさに下川のアニメーション初映画を指しているのです。つまり、この広告は、新春興業の告知と考えられ、とすれば凸坊というものが、シ子マ倶楽部(シネマ倶楽部)ーシ子マ倶楽部(シネマ倶楽部)は有楽町の有名な劇場で、単なる映画館ではなく、さまざまなジャンルのための劇場ーにおける上演の予告だったのです。そして、当時、日本では新春興業は1月3日に始まるのが常でした。その頃、シネマ倶楽部は、当時高名な映画会社である天活(1914-1919)直轄館でした。そこで、下川は唯一のアニメーターとして働いていたのです。ここから容易に結論付けられるのですが、1916年12月30日付朝日新聞の記事にある原作者は下川が問題になるのではないでしょうか。

 加えて、私はふたつのきわめて重要な記録を挙げておきたく存じます。1)1917年1月2日付朝日新聞の「演芸風聞録」の掲載記事。2)1月6日付朝日新聞の「演芸風聞録」の掲載は見逃せません。後者は、ある種の映画批評で、天活の新春興業第二弾についての試写会です。このふたつの理由から、私は、下川のアニメーション初上映は、まずもって1月3日だと、確信しております。研究者としてはしかし、日付や出来事に関して慎重に取り扱う必要がございますので、1917年1月3日から5日の間が、日本のアニメーション映画の記念日ということだと述べる次第です。

敬具

片岡慎泰


 リッテン:

Hallo Kataoka-san,
vielleicht ist Ihnen aufgefallen, dass es sich bei den im Kinema Club aufgefuehrten Filmen um auslaendische Filme handelte. Waere "Dekobô" tatsaechlich als Titel eines japanischen Films gedacht, dann wuerde man erwarten, dass erstens ein Titel angegeben waere ("Dekobô" allein ist nicht aussagekraeftig) und zweitens ein Hinweis darauf, dass es sich eben um ein japanisches Produkt handelte. So, wie es in der Anzeige steht, ist die Wahrscheinlichkeit sehr viel hoeher, dass damit gemeint ist: Gezeigt werden "...", "..." und (auslaendische) Trickfilme.
Man muss hier eben mit Wahrscheinlichkeiten operieren, aber die Wahrscheinlichkeit fuer Ihre Annahme ist leider relativ gering, wenn auch sicherlich nicht 0.
Beste Gruesse
F. Litten

 こんにちは、片岡さん。
 あなたは、シネマ倶楽部で上演された映画が、外国映画だったと気づいているかもしれません。凸坊が実際、日本映画のタイトルだと考えられるとしても、まずタイトルが示していること(凸坊だけでは説得力がありません)、次に、まさに日本製の作品だという証拠が望まれるのです。だから、広告に載っていますように、「・・・」、「・・・」、そして、次も(外国の)アニメーション映画が上演される公算がきわめて高いのです。
ここではまさに公算について考えるべきなのです。しかし、あなたの仮定の公算は、残念ですがかなり低いですね。まったくの0とまではありませんが。

敬具

F・リッテン


 片岡:

Lieber Litten-san,

wie Sie auch wissen, werden in Japan sowohl der ausländische als auch der japanische Zeichentrickfilm in der Entstehungsphase des japanischen Animationsfilms als „凸坊(Dekobô)“ , „線画(Senga)“ , „トリック(Trick)“, „カートゥーンコメディ(Cartooncomedy)“ oder „凸坊新画帖(帳)(Dekobô-Shingachô)“ usw. bezeichnet. Laut dem klassischen Meisterwerk von 田中純一郎(Tanaka Junichro), „日本映画発達史Ⅱ“ (中公文庫,1976), sollten diese Termini keinen Unterschied zwischen dem ausländischen und dem japanischen Zeichentrickfilm gemacht haben.

Aufgrund dessen sollten alle Möglichkeiten in Betracht gezogen werden, und in diesem Kontext müsste die Bedeutung von zwei Artikeln in der Asahi Shimbun – vom 2.1.1917 sowie vom 6.1.1917 – nochmals betont werden. Es geht nämlich hier um das Datum und das Faktum des ersten Animationswerks von Shimokawa, und zumal Sie in ihrem Buch „Anmationsfilm in Japan bis 1917“ folgendermaßen schreiben: „Außerdem fehlt in Anzeigen des Kinema Kurabu Anfang 1917 in der Asahi shinbun jeglicher Hinweis darauf„ (S.56).

Dazu sollen noch drei Dokumente als Beweis für unsere These erwähnt werden: 1) Im Artikel „演芸風聞録„ vom 10.1.1917 in der Asahi Shimbun, den Sie auch zitierten, ist der folgende Satz zu lesen. „天活会社は十日より七日間有楽座に新輸入の凸坊喜劇大会を毎夕五時半より開催“. Was die ab 10. Januar in Yurakuza aufgeführten Animationsfilme betrifft, handelt es sich also eindeutig um „新輸入の凸坊“ (neu importierte Dekobô“), d.h. ohne Zweifel um ausländische Zeichentrickfilme. 2) In seinem zweiten Werk „凸凹人間„(新作社, 1925) schreibt Shimokawa: „大正六年一月、私は天活會社と契約して、活動漫画フイルム制作に従事した、月一本づゝ作つて淺草キネマ倶樂部で封切上映して居た“ (S.94) Wie hier abzulesen ist, behauptet Shimokawa selbst, dass er seit Januar 1917 sehr aktiv war, einen Film pro Monat drehte und diesen gerade im Asakusa Kinema Club zeigte. 3) In einem Memoire von Shimokawa in der Zeitschrift „映画評論“ (September,1934), „日本最初の漫畫映画の思ひ出“, schreibt er auch: „第一回作品『芋川椋三玄關番』他二作品はキネマ倶樂部で封切りされました“. Das muss ein genügender Hinweis darauf sein, dass die (ersten) Animationsfilme von Shimokawa tatsächlich im Kinema Club aufgeführt wurden.

Herzliche Grüße

Noriyasu Kataoka

 リッテンさん。

 あなたもご存じのとおり、日本ではそのアニメーション映画の成立期において、外国産も日本産も「凸坊(Dekobô)」「線画(Senga)」「トリック(Trick)」、「カートゥーンコメディ(Cartooncomedy)」、あるいは「凸坊新画帖(帳)(Dekobô-Shingachô)」 と表現されていました。田中純一郎の古典的名著『日本映画発達史Ⅱ』(中公文庫、1976年) によると、これらの用語に外国と日本との区別はなかったとあります。

 これに基づけば、あらゆる可能性を考慮に入れる必要があるでしょう。すなわち、このコンテクストにおいては、朝日新聞の記事の重要性ー1月2日ならびに1月6日ーをもう一度強調せざるを得ないかと存じます。すなわち、ここで問題になっているのは、下川のアニメーション初作品の日付と出来事なのです。さらに、あなたの著作『Anmationsfilm in Japan bis 1917』において、「加えて、1917年初頭の朝日新聞では、キネマ倶楽部の広告においてあらゆる証拠が欠けている」とお書きになっています。

 その上、さらに3つの例証を私たちのテーゼのために言及しておきましょう。1)あなたが引用されている1917年1月10日付朝日新聞で、次の文を読むことができます。「天活会社は十日より七日間有楽座に新輸入の凸坊喜劇大会を毎夕五時半より開催」。有楽座で1月10日から上映されたアニメーション映画に関しては、「新輸入の凸坊」(新しく輸入された凸坊)という意味以外に取りようがありません。つまり、外国のアニメーション映画です。2)下川の第2作『凸凹人間』(1925年、新作社)において、 こう書かれています。「大正六年一月、私は天活會社と契約して、活動漫画フイルム制作に従事した、月一本づゝ作つて淺草キネマ倶樂部で封切上映して居た」(94ページ)。ここから読み取れるのは、 下川が1917年1月からとても意欲的に、ひと月に一作づつ映画を制作し、まさに浅草シネマ倶楽部で上映していたと主張していることです。3)『映画評論』(1934年9月号) 「日本最初の漫畫映画の思ひ出」で、下川は次のように書いています。 「第一回作品『芋川椋三玄關番』他二作品はキネマ倶樂部で封切りされました」。これは、下川のアニメーション映画が、実際にシネマ倶楽部で初上映されたことの十分な証拠に違いありません。


 リッテン:ここが再掲載できません。記してお詫びします。『凸凹人間』の記述は興味深いが、仮にそうだとしても、凹天の作品が1917年の1月初頭に上映できるのは、技術的に不可能で、1月末でないと無理という論旨でした。

 片岡:

Lieber Litten-san,
vielen Dank für Ihre Anmerkungen. Wie Sie wissen, trägt ein gut begründeter Meinungsaustausch zur Vertiefung und Weiterentwicklung der Forschung bei. Wir mussten allerdings leider feststellen, dass dies mit Ihnen nicht immer der Fall ist. Wir würden sagen, eine Besserwisserei bringt nichts, hindert nur eine fruchttragende wissenschaftliche Diskussion. Bleiben wir aber hier nüchtern und sachlich:

Im letzten Antwortschreiben haben wir drei Dokumente genannt.

Was den ersten Punkt 1) betrifft, ist Ihr Argument keinerlei zu finden. Wollen Sie darauf keine Antwort geben (oder haben)?

Zum Punkt 2). Sie haben folgendermaßen formuliert: „Da Shimokawa sich erst einmal eine Technik aneignen musste, (…)“. Um dies zu behaupten, braucht man bekanntlich einen Beweis. Da Sie dabei ohne jeglichen Beweis einfach so behaupten, ist Ihre „These“, wenn man dies so nennen könnte, unplausibel und bleibt NUR eine bloße Spekulation. Dazu gibt es von uns aus einen Gegenbeweis dafür: In einem selbst publizierten Broschüre von 柴田勝 (Shibata Masaru) „天活、国活の記録 大正時代の映画会社“ (1973) ist die Notiz von 岡部繁之 (Okabe Shigeyuki) „マンガ凸坊新画帖、作画下川凹天 岡部繁之撮影“ (1916) zu finden. Auch Okabe war schon damals als „撮影技師“ von Shimokawa tätig. („撮影技師“ war seinerzeit in Japan kein einfacher „cameraman“, sondern arbeitete für die ganze Dreharbeit.) Das zeigt sich deutlich, dass sich Shimokawa NICHT „erst einmal eine Technik aneignen musste“. Da Ihre Annahme, dass der erste Film von Shimokawa gerade im „(späten) Januar“ aufgeführt worden sei, von dieser falschen Spekulation begründet wurde, ist sie wiederum nicht überzeugend. Oder haben Sie einen noch nicht uns gezeigten Beweis?

Wir nehmen an, dass Sie „凸凹人間“ nicht so im Ernst genommen hätten, um nicht zu sagen, einfach nicht gewusst. Sie haben immer wieder auf Ihr eigenes Buch hingewiesen, ohne jedoch dabei andere Quelle zu nennen. Um Ihre Argumente plausibel machen zu lassen, bräuchten Sie unseres Erachtens zumindest andere Quelle als Beweis zu nennen.

Mit herzlichen Grüßen

Noriyasu Kataoka

 リッテンさん、コメントありがとうございます。

 あなたもご存じのとおり、きちんと根拠のある意見交換は、研究を深め発展させるのに貢献します。しかしながら、残念なことに確認せざるを得ないのは、あなたにとってこれが必ずしも自明ではないということです。知ったかぶりはなにももたらしませんし、実りある学術的議論の邪魔になるだけです。でも、私たちは、落ち着いたままですし、相変わらず事実に基づいております。
 前回の回答で、三つの記録を挙げました。

 1)に関して、あなたの反証はまったく見当たりません。ご回答するおつもりがない(もしくはなにもおもちではない)のでしょうか。

 2)について。あなたは以下のように論を立てられました。「下川は、どうにか技術を習得せざるを得なかったので」。このことを主張するためには、周知のとおり、論拠が必要です。にもかかわらず、なんの論拠もなくそう言い放つだけならば、あなたの「テーゼ」は、こう言ってよろしければ、理解不能で、単なる憶測以外の何物でもありません。さらに、当方から反証を重ねましょう。柴田勝の自己出版の小冊子『天活、国活の記録 大正時代の映画会社』(1973年)には、岡部繁之についてのメモが載っています。「マンガ凸坊新画帖、作画下川凹天、岡部繁之撮影」(1916年)。岡部も当時、下川の撮影技師として働いていました。(撮影技師はその頃の日本では、単なるカメラマンではなく、撮影全体を取り仕切ってました)。ここから明白なように、「下川は、どうにか技術を習得せざるを得なかった」わけがありません。下川の最初の映画が、本当に1月(後半)に上映されたというあなたの仮定が、このように誤った憶測に基づいている以上、それもまた説得力がありません。それとも、私たちにまだお示しいただけなかった論拠をおもちでしょうか。
 あなたが『凸凹人間』を真面目に受け取らないようなのは、単に知らなかったと言いたくないためとご推察いたします。再三再四、ご自身の著作をお示しておられますが、他になにも根拠がないということですね。論を説得あるものにするためには、論拠を挙げていただく必要がございます。

敬具

片岡慎泰

 リッテン:

Lieber Kataoka-san,
凸凹人間 war und ist mir leider nicht zugaenglich.
Aber unter diesen Umstaenden ist es ohnehin besser, die Diskussion zu beenden.
Beste Gruesse

F. Litten

 片岡さん。

 『凸凹人間』は手に入りませんでしたし、残念ですが、今もです。しかし、現況では、どのみち議論を止めた方がいいでしょう。

敬具

F・リッテン

 一番座からは以上です。




裏座まで、たどりつけましたでしょうか?

今回は、前回のブログで断ったように、コメントが消えてしまったことで、せっかくのやり取りが無駄になってしまうと思い、お約束通り再現しました。

簡単にまとめるとこうです。

リッテンさんは、コメントで、まずふたつの指摘をしてくれました。ご自身の新しい本の紹介もしてくれました。

こちらでは2013年のリッテンさんの論文だけ読んでいたので、その後のドイツ語や英語の著作は知らなかったので、ありがたかったです。

さて、ここでのやり取りで、さまざまな情報が飛び交っています。もう少し議論が成熟するまで進められれば良かったなと個人的には思います。で、まとめてみました。

大事なことは、
①記録上、凹天のアニメーションは国内初であっただろう、ということ。
②上映は、1917年の1月3日から5日であっただろう、ということ。
③作品名は、まだ調査の余地がある。
と、いうことです。

ですので、まだあたれる資料がある限りは、こちらもあたっていきたいということなのです。

今回は、新型コロナで国会図書館や他の図書館も閉鎖されており、しばらくは身動きができませんが、今まで集めた資料とともに他の可能性もないかということも含めて研究していきたいと思います。

私事ですが、後半の方のドイツ語のやり取りは、私にはチンプンカンプンでした・・・。ですが、レクチャーしてもらいつつ、もう一度振り返ることができたので良かったです。

まぁ、なぜこのように情報が交錯するかというと、川崎市市民ミュージアムの所蔵の凹天の自筆年譜を軸にして話をすすめると、辻褄が合わないところが多いからでしょう。

私もそうですが、一般の現代人は、履歴書や職務経歴書くらいしか書くことはないのでは。自筆年譜のようなものは書かないと思います。宮古島に生まれ、鹿児島から東京、大阪、関東近辺で、戦争や関東大震災などを体験した凹天。時代を考えれば、1、2年ずれたとしても大きな問題はなかったでしょう。

ですが、凹天の後ろ姿を追いかける身としては、なかなか厳しいものがあります。さらに、彼はその時、気にしていなかったかもしれませんが、誰が日本アニメの幕開けをしたか、それはいつで、どんな作品なのか、どんな人が周囲にいて、世相はどうだったか、ということは日本アニメの原点を考えるうえでは大きな役割を果たしたのだと思います。

この謎解きを凹天が見守っているような気がしています。今頃、天国で凹天がほくそえんでいるんでしょうか。

今年の5月2日で、凹天が宮古島で生まれてから128年になります。今年は、凹天の父、貞文や母のモトなどのことも含めてさらに調査できればと思います。それは随時、ブログに上げていきたいと思います。

さて、今回のブログは、最初の方で「嘘のつけない社会になる」というようなことを書きましたが、それはこのようなデジタルデバイドのなかで一層可視化されていくような気がします。

少しずつですが、凹天に続く細い糸をたどりながら、存命の方から聞き取りをすすめたいと思うばかりです。そして、資料もできるだけ収集し、その時代背景までも理解できるように進めていきたいです。宮古島には、下川家の跡形もないような状態ですが、何か糸口があるような気がしています。 

【主な登場人物の簡単な略歴】

柴田勝(しばた まさる)1897年~1991年
撮影技師、映画監督。詳しくは、第13回「下川凹天の撮影技師 柴田勝の巻 その1」

フレデリック・S・リッテン1964年~
図書館司書、中国学研究者、日本創生期アニメーション映画研究者。カナダ・ケベック州モントリオールに生まれ、ドイツで育つ。ミュンヘン大学卒。1988年中国学で修士号、1991年に科学史で、博士号取得。ミュンヘン大学やアウクスブルク大学で、研究員や非常勤講師。2006年からバイエルン州立図書館に勤務。新聞や雑誌に、近・現代史について寄稿をする。日本のアニメやマンガなどについての論文や著作もある。代表作は『Animated Film in Japan until 1919. Western Animation and the Beginnings of Anime』。

渡辺泰(わたなべ やすし)1934年~2020年
アニメーション研究者。大阪市生まれ。高校1年生の時、学校の団体鑑賞でロードショーのディズニー長編アニメーション『白雪姫』を見て感動。以来、世界のアニメーションの歴史研究を開始。高校卒業後、毎日新聞大阪本社で36年間、新聞制作に従事。山口旦訓、プラネット映画資料図書館、フィルムコレクターの杉本五郎の協力を得て、『日本アニメーション映画史』(有文社、1977年)を上梓。ついで89年『劇場アニメ70年史』(共著、アニメージュ編集部編、徳間書店)を出版。以降、非常勤で大学アニメーション学部の「アニメーション概論」で世界のアニメーションの歴史を教える。98年3月から竹内オサム氏編集の『ビランジ』で「戦後劇場アニメ公開史」連載。また2010年3月より文生書院刊の「『キネマ旬報』昭和前期 復刻版」の総目次集に「日本で上映された外国アニメの歴史」連載。2014年、第18回文化庁メディア芸術祭功労章受章。特にディズニーを中心としたアニメーションの歴史を研究課題とする。2017年に、山口旦訓に絶縁の手紙を送る。近親者のみで葬儀が執り行われる。喪主は、長男の渡辺聡。

下川貞文(しもかわ さだふみ)1858年~1898年
肥後國生まれ。幼名は清。1876年、熊本師範学校卒。1881年、巡査として沖縄本島に赴任。1882年、首里西小(現・琉球大学教育学部附属小学校)で勤める。月給10円。1884年、那覇から平良小の訓導として宮古島に渡る。貞文は、1888年、「平良校ト当校詰兼務ヲ嘱託」の命を受け、1892年まで、西辺小の訓導として兼任する。同年、早逝した兄ふたりに続き、凹天が生まれる。妻はモトで鹿児島県人。同年から逝去するまで、上野小訓導も兼任する。その間の1894年には上野小初代校長に兼任として就任もしている。当時の教え子に国仲寛徒、盛島明長、立津春方がいた。なお、教え子が中心となって、死後に石碑が建てられ、祭典が開催された。明治34年9月11日付『琉球新報』によると、「故下川貞文氏の墓碑 故下川貞文氏は熊本県の産にして同県の師範学校を卒業し明治十三年の頃本件に来り初め六ヶ月間は首里に於いて巡査を奉職し次の二ヶ年は同西小学校の教員に奉職し十六年至り宮古の小学校に轉し爾来同島の子弟を薫陶すること十五ヶ年の久しき孜々怠らざること一日の如く子弟は勿論父兄も大に信用されたりしが去る三十一年十二月不幸にして長逝せり嘗ての氏の薫陶を受けたる立津春方、富盛寛卓友人臼井勝之助、執行生駒の諸氏墓碑を建設し氏生前の功績を永く同島に伝へんと欲し廣く全島の有志に謀りたる處賛成者多く四十餘圓の寄附金立どころにあつまりたれは早速牌を鹿児島に注文し、先月廿日に至り建設一切の工事を竣りたるに依り同日盛大なる祭典を執行したる由なるが當日は炎天に拘はらす参列者頗る多く真宗の僧侶白井氏の讀經あり發起者及ひ有志の祭文演説等あり同島に於て未曾有の祭典なりしと云ふ」。

幸内純一(こううち じゅんいち)1886年~1970年
漫画家、アニメーション監督。岡山県生まれ。凹天、北山清太郎とならぶ「日本初のアニメーション作家」のひとり。岡山県での足跡は不明。両親と弟、姪と上京する。父の名は、幸内久太郎。荒畑寒村によれば、父の職業はかざり職人の親方。元々、熱心な仏教徒だったが、片山潜と知り合い、社会主義者となる。日本社会党の評議員にも選ばれている。最初は画家を目指しており、水彩画家の三宅克己(みやけ かつみ)、次いで太平洋画会の研究所で学ぶ。そこで、紹介で漫画雑誌『東京パック』(第一次)の同人北澤楽天の門下生として政治漫画を描くようになる。1912年、大杉栄と荒畑寒村が共同発行した思想文芸誌『近代思想』の巻頭挿絵を描く。凹天の処女作『ポンチ肖像』に岡本一平とともに序言を書いている。1917年、小林商會からアニメーション『塙凹内名刀之巻(なまくら刀)』を前川千帆と製作。これは、現存する最古の作品である。続いて、同年には『茶目坊 空気銃の巻』、『塙凹内 かっぱまつり』の2作品を発表するが、小林商會の経営難でアニメーション製作を断念。しかし、『活動之世界』に載った『塙凹内名刀之巻(なまくら刀)』についての評論は、これも本格的なアニメ評として日本最古とされる。1918年に小林商会が経営難で映画製作を断念。1918年、『東京毎夕新聞』に入社し、漫画家に戻る。その後、1923年に「スミカズ映画創作社」を設立すると、『人気の焦点に立てる後藤新平』(1924年スミカズ映画創作社)を皮切りに『ちょん切れ蛇』など10作品を発表。その時の弟子に、大藤信郎がいる。二足のわらじの時代をへて、最終的には政治漫画家として多数の作品を残した。凹天と最後に会ったのは、記録上では、前川千帆の葬式後、直会の時だった。老衰のため、自宅で死去。

北山清太郎(きたやま せいたろう)1888年~1945年
水彩画家、雑誌編集者、アニメーション監督。1888年、和歌山県和歌山区住吉町2番地(現・和歌山県和歌山市住吉町)に生まれる。父清兵衛、母かつ乃の次男として生まれ、長男はおらず、父の没後、家督を相続。下川凹天、幸内純一とならぶ「日本初のアニメーション作家」のひとり。大下藤次郎が1907年に起こした日本水彩画会に入会し、1911年、同会の大阪支部を自宅である大阪市南区大宝寺町中之丁151番地(現・同市中央区東心斎橋1丁目)に設立したことを発表する。同年、東京に移り、自らの雑誌『現代の洋画』を発刊するべく、「日本洋画協会」を設立。1912年、斎藤与里、岸田劉生、高村光太郎らが結成した美術家集団「フュウザン会」の設立に尽力、展覧会開催を支援した。経済的事情もあって事業化も目的として友人の斎藤五百枝の紹介により日活に接触し、1917年、日活向島撮影所へ入る。北山は日本活動冩写眞株式會社(日活)にて日本初のアニメーション映画に取り組み、当時、東京市麹町区麹町平河町(現・東京都千代田区平河町)の自宅で作画し、日活向島撮影所で撮影する、という体制をとった。第1作は『猿と蟹の合戦(サルとカニの合戦)』で、1917年に劇場公開。以降、短篇のアニメーション映画を量産するが、その体制は、作画に戸田早苗(山本善次郎)、嶺田弘、石川隆弘、橋口壽、山川国三、撮影に高城泰策、金井喜一郎という集団製作体制であった。1921年に日活を退社し、北山映画製作所を設立。同年、同様に日活を退社し牧野教育映画製作所を設立した牧野省三の教育映画にも協力した。1923年に起きた関東大震災で同製作所は壊滅、北山は大阪に移った。1945年大阪府泉北郡高石町北55番地(現・大阪府高石市)で、脳腫瘍により死去。

山口旦訓(やまぐち かつのり)1940年~
ジャーナリスト、日本初期アニメーション映画研究者。宝くじ研究者。東京府麻布區霞町22番(現・東京都港区)生まれ。福井県へ疎開の後、1950年に東京に戻る。詳しくは、第10回「凹天の最後の取材者 山口旦訓の巻」

清水勲(しみず いさお)1939年~2021年
風刺漫画研究家。現在の東京都大田区生まれ。立教大学理学部卒。1963年三省堂に入社して編集者となる。1968年~1983年リーダースダイジェスト社勤務。勤務の傍ら、風刺漫画研究に打ち込む。『明治の風刺画家ビゴー』(1982年、新潮社)で第1回高橋邦太郎賞(現・日仏賞)受賞。その他、受賞多数。その後、日本漫画資料館館長、川崎市市民ミュージアム専門研究員、平成帝京大学教授、京都国際マンガミュージアム顧問などを歴任。1992年「日本風刺画史学会」を設立。季刊誌『風刺画研究』は、さまざまな漫画研究の必読書となっている。凹天や同時代に関しても、貴重な資料多数。人生の集大成として、江戸時代の風刺画に打ち込んでいた。前立腺がんのため自宅で死去。
【2023/04/15 現在】


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