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2019年05月28日

第234回 「伊良部マングローブ協会記念碑」

第234回 「伊良部マングローブ協会記念碑」

今回ご紹介する石碑は自然系。伊良部の入江を彩るマングローブにまつわる石碑です。ほぼ出落ちで終わりそうな今回のネタなので、オチがないままどこまで引っ張れるかにかかっています。ともあれ、とにかく、とりあえず、見切り発車のスタートです。
第234回 「伊良部マングローブ協会記念碑」
どうですか?。なんかもう見た目の感じからしてやる気がない雰囲気です。メインであるはずの縦書きで書かれた「記念碑」の大きさと、石碑全体とのバランスとか。その下に横書きで書かれた「伊良部マングローブ協会」のプレートのやっつけ感とか。なんかもうイロイロと怪しいです。
その上、石碑にまとわりついているのは樹は、マングローブではなく、ガジュマルという展開だったります。尚、この石碑を撮影するために、鎌でもしゃっと繁茂していた前面の雑草を伐採しましたので、撮影前はもっと残念な感じでした。というよりも、そこに石碑があることすら判らない状態でした。

プレートには2000年11月建立とあり、どうやらこの時、マングローブの植樹を行ったようです(正確な情報がはっきりしませんでした)。そしてこの石碑があるのは伊良部島と下地島の間にある入江の海沿いに南北をつなぐ道路と、長浜の字道(基幹集落道。後述します)が交差する、(入江の)海の上なのです。正確には道路を通すため、もとももとある小さな陸地をいくつも繋ぎ合わせ、埋め立てたりして作られているので、ちゃんとそこに地面はあるので海の上は誇張ですが、道路以外の周辺はほぼほぼ入江の海に囲まれているです。
そんな海には大きな干満があり、伊良部島から湧く湧水(と小さな川)が流れ込む汽水域が形作られています。そうした環境にマッチした場所に、植樹されたものを含み、マングローブが茂っているのですが、この地のマングローブは宮古島の川満や島尻ほど、注目がされていません(他にも嘉手苅の入江湾にもマングローブはあります)。
もっとも宮古島自体にマングローブが生育する環境が少なく、県全体でもマングローブ林の面積の割合は1パーセント(約3ヘクタール)しかありません(最大は西表島で県全体の80パーセントを占めている)。資料(やや古く、2015年にまとめられたものなのに、中の数値は合併前の町村名なので、さらに古そう)を見ると、1パーセントしかない宮古島のマングローブ林の詳細に、前述した川満や島尻はあっても、伊良部(字としては佐和田・長浜、仲地が中心)については数値的にも登ってこないほど割合が少ない(植生のある箇所としてはカウントされている)ようです。
第234回 「伊良部マングローブ協会記念碑」第234回 「伊良部マングローブ協会記念碑」
【左 石碑の北側の海に茂るマングローブ。奥は平成の森公園】 【右 石碑南の入江の海に茂るマングローブ】

【資料】 マングローブ植栽指針(沖縄県)
※pdfの2は地域の割合などが書かれています。
※7・8・9番は参考資料として、マングローブをはじめとした水辺の植物図鑑になっており、個別に写真入りで判り易く書かれています(植物図鑑は、宮古にはない種名もあるので勉強になりました)。


まあそれはともかく。今でこそマングローブが茂る入江になっていますが、昔の様子を見てみると、マングローブなんてモノはほとんどなく、まったく今とは違う顔をした海が広がっていました。
このあたりの入江の海は、南の伊良部・仲地あたりに比べると、伊良部島と下地島の距離がかなり離れています。古くは下地島は牧(牧場)であったとも云われていますが、1637年の人頭税施行の頃には、伊良部島の人たちにとっての貴重な耕作地となっていたようで(少なくとも1771年の明和大津波では橋が壊れた)、伊良部島の集落から下地島の畑へと、耕作のために通う道が、字ごとに入江の海を渡る道が作られていました。
佐和田は村番所(現在の佐和田児童館)から五箇里道(第85回「五ヶ里道開鑿記念碑」)の延長線のように佐和田の浜の近くを通って、砂洲に作られたなかよね橋から漢那橋の「佐和田矼道」を経て下地島に渡っていました。こちらは連載200回突破記念特番「海に消えた道(1)佐和田矼道」)で稚拙ながら現地調査レポートを書いています。
第234回 「伊良部マングローブ協会記念碑」
【元・いんた橋の位置にあるボックスカルバート】

一方、長浜の字道は佐和田のように砂洲もなく、入江の地形は複雑にいりくんでいたことから、大きく迂回したルートながらも、橋を架けて海を渡っていました。村番所(現在の長浜公民館)からコヤガー(1686年に掘られた古井戸)を結んでいました。ルート上にはふたつの橋が架けられており、伊良部島側が「いんた橋」、下地島側が「たいこ橋」と呼ばれていました。たいこ橋は現在、車も通れる近代化された橋として残されていますが、いんた橋の方は、周辺を海中道路化されたため、ボックスカルバートに置き換えられしまい、道と一体化されてしまったことから橋の名は遂に失われてしまいました。
そして、このふたつの橋が結ぶ真ん中にあったのが、今回紹介しているマングローブ記念碑が建立されている場所であり、当時は入江の海で最大の島でした(島の名前は確認できませんでした)。現在は佐和田側で埋めたてられており伊良部島と陸続きになっています。
第234回 「伊良部マングローブ協会記念碑」第234回 「伊良部マングローブ協会記念碑」
【1997年9月に竣工した、現在のたいこ橋。親柱にはリアルなサシバのモニュメントが設置されています】

埋め立てられている場所は北側の佐和田の浜に近い入江で、現在は平成の森公園となっている場所です。ここはかつて伊良部島の特産であった塩を生産る塩田がありました(1860年代から)。製塩は幾度かの中断をはさみつつも、本土復帰するまで行われ宮古で使われる塩の大半をになっていたそうです(復帰した当時の日本は、塩が専売制だったために廃業せざるを得なかった)。
第234回 「伊良部マングローブ協会記念碑」第234回 「伊良部マングローブ協会記念碑」
【左 遠浅の浜にひろがる塩田】 【右 塩を炊く窯が並んでいた】
第234回 「伊良部マングローブ協会記念碑」第234回 「伊良部マングローブ協会記念碑」
【左 戦時中の製塩風景(天日濃縮した塩水を炊いている)】 【右 戦後の佐和田前浜の地籍図。地目には塩田と書かれている】

日々、潮の満ち引きで姿を変化させる入江は、時代の波によっても様変わりを続ける存在となっています。最後はそんな入江の移り変わりを集めた空中写真で見比べて、小さな発見を楽しんでみて下さい。
第234回 「伊良部マングローブ協会記念碑」
【1962年 ふたつの橋に挟まれた島。いんた橋の部分に、干満で潮が流れる深みがあるのが判る】
第234回 「伊良部マングローブ協会記念碑」
【1970年 8年後。けれどあまり大きな変化は見られない。塩田はこの写真の上の方(写ってはいない)】
第234回 「伊良部マングローブ協会記念碑」
【1978年 下地島空港の開港一年前。入江沿いの道路の建設が始まっています】
第234回 「伊良部マングローブ協会記念碑」
【1986年 伊良部島と下地島のそれぞれに、入江沿いの道路が開通。新・国仲橋も完成。平成の森公園が造成中】
第234回 「伊良部マングローブ協会記念碑」
【1994年 平成の森が完成。17エンドに向けて海中道路の新道が開通している】
第234回 「伊良部マングローブ協会記念碑」
【上記の写真をすべて使って、GIFアニメにしてみました】

【資料】
鹿児島&沖縄マングローブ探検!




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