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2019年06月18日

第237回 「棚原井戸」

第237回 「棚原井戸」

地味に地道に、オトナの自由研究としてお送りしている、“井戸にまつわる石碑”シリーズです。以前、第212回「阿旦岳」の回で添道(西仲宗根)の井戸を取り上げた後、自由研究として周辺の井戸調査を敢行し、なにげにコンプリートしておきながら、報告するのをばっしていたので、思い出したようにまとめて報告して見たいと思います。メインタイトルには添道地区の南東端に位置する、棚原集落の井戸の碑から。ではでは、ずらりと並ぶ添道の井戸ネタをどーぞー!。
第237回 「棚原井戸」
数軒の住宅が建ち並ぶ一角にある掘り抜きの棚原井戸。コンクリートで低い囲いと、入口には門まで設置されており、井戸をいかに大切にしていたかがよく判る構造です。その井戸の脇、一段高くなった位置に石碑が建立されています。やや苔むしていて読みづらい点もありますが、「昭和五年旧正月六日 棚原井戸」と書かれてあるようです。また、裏面にも似たような文言が刻まれていました。こちらは「昭和五年二月建設 飲料水井戸」とあります。
昭和五年は西暦では1930年。この年の旧暦の正月(元日)は、1月の30日になりますが、石碑にしるされている1月(正月)6日は、新暦に換算すると2月の4日なので、裏面の記述にも合致していることになります。しかも、この碑は二十四節気のひとつである立春にあたりますので、日数(ぴかず)としては悪くないのではないでしょうか。
第237回 「棚原井戸」第237回 「棚原井戸」第237回 「棚原井戸」
【左 棚原井戸全景】 【中 石碑の裏から】 【右 井戸口の蓋】

続きまして、前福井のご紹介です。
前福の名は以前、オリオンビアフェストの会場として利用されていた「前福運動場」で知られていますが、この井戸を確定するまで、集落の位置ついて気にすることがなく知りませんでした。位置としては運動場の東方、添道を南北に貫く街道の西側です。
この井戸は特に石碑などもなく、前福の集落南側にあるキビ畑の中にひっそりと隠れています。普段から割と草生している井戸なので道から近い割に見えづらいですが、畑の際を突撃すれば簡単にたどりつけます。北側の住宅側からもアプローチすることはできますが、家の前を通り過ぎ畑を中を抜けてゆくので、なんとなくちょっと行きづらいです。井戸そのものは掘り抜きで、周囲は低いコンクリートで囲まれていますが、草に埋もれた拝所もちゃんとあります。
第237回 「棚原井戸」第237回 「棚原井戸」
【左 前福井戸全景 奥は井戸裏の家】 【右 草にまみれた前福井戸】

三か所目は東添道井です。東添道の集落の中ほど、庭とみまがう雰囲気の中に井戸はあります。井戸本体は掘り抜きですが、立派なコンクリート製の釣瓶が設えられてあり、南側柱の外側に「東添道井戸」と刻まれています。また、北側の柱には「昭和五年七月竣工」と「□□二十七周年旧五月補修」と記されてます。二行目の上ふた文字が彫が浅くて読めないのですが、村建てとかではない気がします。一応、添道地域はだいたい150年くらい前から人が住み始めたらしいので。肝心の文字が読めないのが残念ですが、井戸の蓋に宮古島市水道局の水位観測の札がかかり、記録装置が置かれていました。
第237回 「棚原井戸」第237回 「棚原井戸」
【左 東添道井戸全景】 【右 釣瓶に刻まれた井戸名】

第237回 「棚原井戸」第237回 「棚原井戸」第237回 「棚原井戸」
【左 隅にある拝所】 【中 水道局の水位観測の札】 【右 庭のような雰囲気の東添道井戸】
次は中添道に移動です。東添道の北側にあり、家並みが途切れないお隣さんの集落となっています。井戸は集落道の脇にあり、やや雑草にまみれていますが、こちらもコンクリートの釣瓶が目立ちます。井戸は他地域と同様に低いコンクリートで囲われており、門柱に「中添道井戸」「一九五〇年旧四月改築」と刻まれています。右側の“改築”の門柱はかなり劣化しており、剥がれかかっていたり、コンクリートの囲いも裏手の畑側は倒れ初めているので、大切な井戸ならばこのまま朽ちて崩壊する前に再改修などして欲しいものです。
第237回 「棚原井戸」
第237回 「棚原井戸」第237回 「棚原井戸」第237回 「棚原井戸」
【上 中添道井戸の銘入りの門柱】 【左 改修を記した門柱】 【中 畏部石と香炉】 【右 仲添道井戸全景。傾いた囲いも見えています】

位置的な順列としては中添道の北西にある阿旦岳井戸となるわけでですが、こちらはすでに紹介していますので、ここでは画像だけ。くわしくはコチラで!。
第237回 「棚原井戸」第237回 「棚原井戸」
第212回「阿旦岳」

で、添道井戸群のラストを飾るのは、添道の北端(民俗方位では西)にある、西添道です。集落からはやや離れた街道筋に面しています。ちょうど阿旦岳・中添道と西添道の間あたりで、農水スタンドが脇にあるで目印となると思われます。一段低くなった井戸廻りは、他の井戸たちと比べるとやや狭く、道路拡張で用地が削られているようにも見えます。こちらの井戸も特に石碑などはありませんが、草生した中に三角の山型のイビ石があり、ひっそりと拝まれているようです。
補足情報としては、井戸の東方の崖下にはサガリバナで知られている成川川(? 久浦湾へ流れ出る水系)の源流域にあたりますので、井戸の水源は同じ地下水脈かもしれません。
第237回 「棚原井戸」
第237回 「棚原井戸」第237回 「棚原井戸」
【上 西添道井戸 井戸口】 【左 道路側からの全景】 【右 畏部石】

以上が添道各集落に残る井戸です。これに集落の東方にある阿谷竹井と白原井を加えた8か所で、添道の井戸がコンプリートになります(たぶん)。年号の判明しているものを並べてみると・・・。 
【添道井戸群位置図】
第237回 「棚原井戸」 
棚原井  1930年旧1月竣工 
阿旦岳井 1930年 5月竣工 
東添道井 1930年 7月竣工 
中添道井 1950年旧4月改築 
 
井戸の完成は軒並み1930年でした(中添道は改築年)。昭和の初めにあたるこの頃は、各地でわりと井戸が掘られている時期なので生活改善的な、なんらかのムーブメントが全島的にあったのでしょう。それともそのあとに続く太平洋戦時に添道は、平良市街地の疎開先だったと云われていますので、集落に人口が増加することを見越していたのでしょうか?。 
これら集落から少し離れた位置にある、白原井や阿谷竹井はこれらの井戸よりも古いスタイルの降り井形式の地形の中に、掘り抜きの井戸があります(改修されたかどうかについては不明)。しかも、年代の判明している阿谷竹井の開鑿は1908年2月なので、もしかすると各集落内に開鑿されるまでは、この少し離れたふたつの井戸が添道の生活用水を得る場所だったのではないかと想像されます。

添道の南方に続く、ちょっとローカルな盛加、那底、細竹、野原越と路村(街道筋に沿って集村する村落)状に続いているこの地域についてはかなり集中的に井戸を紹介しているので、里山ドライブにおすすめです。

【関連する石碑】
第151回 「阿谷竹井の碑」
第208回 「泉水 野原後西支部井戸」
第212回 「阿旦岳」
第214回 「野原越東井戸改修の碑」
※この他、袖山東、盛加、那底、細竹などの井戸があります。

次週、遂に最・終・回・!。

【棚原井戸】


【前福井戸】


【東添道井戸】


【中添道井戸】


【阿旦岳井戸】


【西添道井戸】







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