2014年11月18日
第5回 「盛島明長像」
シリーズ初の胸像です。宮古には記念碑や顕彰碑だけでなく、こうした胸像や銅像、モニュメントやオブジェなども数多くありますので、石碑とあわせて「宮古の碑-いしぶみ-」として紹介してゆきたいと思います。
さて、今回ご紹介するのは2014年11月現在、宮古島で最も新しい胸像です。とはいっても、移転リニューアルとなるモノなので、完全な新作とはいい難いのですが、医師から政治家へと転身し、宮古に多大な業績を遺した宮古王・盛島明長(もりしまめいちょう 1880-1941)の胸像です。
この胸像は1965年に琉球政府宮古地方庁前に建立されましたが、後に旧・宮古神社境内へと移転されます。2010年には旧・宮古神社が旧市民会館跡地に造営され新社殿へ移転し、石碑だけが空き地に取り残されて忘れ去られようとしていました。2014年に南秀同窓会・盛島明長氏銅像移転建立実行委員会が設立され、ゆかりの地である沖縄県立宮古高等学校の正門前へと再度移転され、このほど除幕式が行われました(2014年11月14日)。

盛島明長氏の胸像移転/宮高校庭に(宮古毎日新聞 2014年11月15日)
さて、今回ご紹介するのは2014年11月現在、宮古島で最も新しい胸像です。とはいっても、移転リニューアルとなるモノなので、完全な新作とはいい難いのですが、医師から政治家へと転身し、宮古に多大な業績を遺した宮古王・盛島明長(もりしまめいちょう 1880-1941)の胸像です。
この胸像は1965年に琉球政府宮古地方庁前に建立されましたが、後に旧・宮古神社境内へと移転されます。2010年には旧・宮古神社が旧市民会館跡地に造営され新社殿へ移転し、石碑だけが空き地に取り残されて忘れ去られようとしていました。2014年に南秀同窓会・盛島明長氏銅像移転建立実行委員会が設立され、ゆかりの地である沖縄県立宮古高等学校の正門前へと再度移転され、このほど除幕式が行われました(2014年11月14日)。

盛島明長氏の胸像移転/宮高校庭に(宮古毎日新聞 2014年11月15日)
頌
盛島氏は一八八〇年下地町字洲鎌に生まれた。長崎医療専門学校を卒業、後に政界に進出、県議会議員四期、うち議長を三期、さらに国会議員二期当選。その間に宮古中学校の創設、宮古高等女学校の建立への移管。宮古島測候所や池間島灯台の設立など幾多の政治的業績を遺した。
中でも宮古中学校の創設に当って、氏が期成会長として東奔西走献身的努力を拂(はら)い、幾多の障害と困難を克服して、一九二八年一月遂に同校創設という郡民宿願を達成した業績は、永久に群民に銘記されるべきところであろう。
又、氏は宮古農会長及び織物組合長として斯業(しぎょう)の発展にも大きな貢献をなした。その上、氏は円満高潔にして人情味豊かな人格と、烈々たる愛郷心のゆえに「宮古王」として、全郡民の敬慕礼讃を一身に集めていたが一九四一年、六十二歳で病没。郡民葬をもって弔われた。
氏の業績を遺徳を顕彰するために期成会が結成され、広く郡の内外から浄財が寄せられここに氏の胸像が建てらるに至った。
一九六五年九月十一日
盛島明長顕彰会
※碑文は一部、読みやすくするために改行及び句読点の追加、ふりがなを加筆した。
盛島明長氏胸像を巡るニュース
盛島明長氏の銅像移転へ/実行委を設置(宮古毎日新聞 2014年3月19日)
胸像移転に役立てて/故盛島明長氏(宮古毎日新聞 2014年8月28日)
※リクエストもお待ちしています!
盛島明長氏の銅像移転へ/実行委を設置(宮古毎日新聞 2014年3月19日)
胸像移転に役立てて/故盛島明長氏(宮古毎日新聞 2014年8月28日)
連載企画 「んなま to んきゃーん」
なにかを記念したり、祈念したり、顕彰したり、感謝したりしている記念碑(石碑)。宮古島の各地にはそうした碑が無数に建立されています。
それはかつて、その地でなにかがあったことを記憶し、未来へ語り継ぐために、先人の叡智とともに記録されたモノリス。
そんな物言わぬ碑を通して今と昔を結び、島の歴史を紐解くきっかけになればとの思いから生まれた、島の碑-いしぶみ-を巡る連載企画です。
※毎週火曜更新予定 [モリヤダイスケ]
※リクエストもお待ちしています!
Posted by atalas at 12:00│Comments(0)
│んなま to んきゃーん