2014年10月21日
第1回 「宮古研究乃父 慶世村恒任之碑」
宮古島市熱帯植物園入口そばの林の中にひっそりとたたずむ石碑は、宮古の研究に打ち込み、初めて宮古の歴史を体系的にとらえた「宮古史伝」を著した慶世村恒任を讃える、恒任の没後50年の節目に設立された「慶世村恒任を顕彰する会」によって1980(昭和55)年に建立された。

碑の裏には
※ 「かこち」 託ち。他にかこつけて恨み嘆くこと。
慶世村恒任(きよむらこうにん)
宮古研究者。1891(明治24)年4月21日~1929(昭和4)年1月19日。宮古島砂川間切下里村(現・宮古島市平良字下里)の生まれ。
1897(明治30)年、恒任は幼くして父を亡くし6歳で家督を継ぐこととなる。1906(明治39)年に那覇の沖縄県師範学校へ入学するも、4年時に病気より中退を余儀なくされる。その後、熊本の連隊へ入営し1912(明治45)年から1914(大正3)年まで兵役につき、県外での生活を送る。
宮古島へと帰郷した恒任は、新聞記者(宮古朝日新聞を創刊する)や、代用教員(七原・伊良部・新里の尋常小学校へ勤務)を勤めるかたわら、宮古研究に打ち込み、「島物語」(1922年刊行)、「宮古五偉人伝」(1925年刊行)などを記す。また、1925(大正14)年には、ニコライ・ネフスキーの二度目の宮古調査へも同行する。そして1927(昭和2)年、「宮古史伝」を刊行。だが1925(昭和4)年、下里の自宅にて病死。享年は39歳という若さであった。

碑の裏には
「慶世村恒任は一八九一(明治二十四)年四月二十一日砂川間切下里村大原(いまの平良市字下里七六三)にうまれ一九二九(昭和四)年一月十九日三十七才で病死したと書かれている。
病弱と経済的不如意資料不足をかこちながら郷にあって宮古研究にうちこみ「島物語」「宮古五偉人伝」「宮古史伝」「宮古民謡集」の名著を世におくり宮古研究の基礎をきずいた
一九七九年二月十五日
慶世村恒任を顕彰する会」
※ 「かこち」 託ち。他にかこつけて恨み嘆くこと。
慶世村恒任(きよむらこうにん)
宮古研究者。1891(明治24)年4月21日~1929(昭和4)年1月19日。宮古島砂川間切下里村(現・宮古島市平良字下里)の生まれ。
1897(明治30)年、恒任は幼くして父を亡くし6歳で家督を継ぐこととなる。1906(明治39)年に那覇の沖縄県師範学校へ入学するも、4年時に病気より中退を余儀なくされる。その後、熊本の連隊へ入営し1912(明治45)年から1914(大正3)年まで兵役につき、県外での生活を送る。
宮古島へと帰郷した恒任は、新聞記者(宮古朝日新聞を創刊する)や、代用教員(七原・伊良部・新里の尋常小学校へ勤務)を勤めるかたわら、宮古研究に打ち込み、「島物語」(1922年刊行)、「宮古五偉人伝」(1925年刊行)などを記す。また、1925(大正14)年には、ニコライ・ネフスキーの二度目の宮古調査へも同行する。そして1927(昭和2)年、「宮古史伝」を刊行。だが1925(昭和4)年、下里の自宅にて病死。享年は39歳という若さであった。
連載企画 「んなま to んきゃーん」
なにかを記念したり、祈念したり、顕彰したり、感謝したりしている記念碑(石碑)。宮古島の各地にはそうした碑が無数に建立されています。
それはかつて、その地でなにかがあったことを記憶し、未来へ語り継ぐために、先人の叡智とともに記録されたモノリス。
そんな物言わぬ碑を通して今と昔を結び、島の歴史を紐解くきっかけになればとの思いから生まれた、島の碑-いしぶみ-を巡る連載企画です。
※毎週火曜更新予定 [モリヤダイスケ]
Posted by atalas at 12:00│Comments(0)
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