2019年05月07日
第231回 「Pledge」

新元号「令和」になってから最初の「んなま to んきゃーん」です。なに変わったのかと聞かれても、特になにも変わることのない、いつもの“オトナの自由研究”を地味に地道に突き進むだけでございます。今回紹介する石碑は、平良保険センターと働く女性の家ゆいみなぁの間の道を突当りまで進んだ、その奥にあるテニスコートの入口の影にある石碑です。えっ、そんなところに石碑があるの?ってくらい、自分にとっても意外な場所にあった石碑を見つけたので、紹介してみることにしました(たぶん、テニスをしに来ている人たちも石碑があることすら気にも留めていないと思うくらい地味)。

鏡面のように反射する黒御影に、「Pledge」と筆記体で書かれた文字と、なにやら「JAPAN」の文字が入ったエンブレムが刻まれた、こちらの石碑が今回の主役です。
まずはGoogle先生に「Pledge」ってなに?って聞いてみると、「誓約する」と答えてくれました。ふむ、なるほど。エンブレムの下に書かれた解説を読み進めると、その理由も判って来ました。
こちらのエンブレムは国際青年会議(JCI)のトレードマークの上部に、日本青年会議所(Junior Chamber International Japan)を意味したJAPANのリボンを勝手に足してあるもののようです(日本青年会議所でも使ってないエンブレムだけどいいのかしら?)。
石碑建立の趣旨は、宮古と津山の青年会議所が姉妹縁組を締結して、30周年を迎えたことを記念して作られたものでした。姉妹遠組は1965年の締結で、1994年で30周年を迎えているので、2019年では54年目になります(もしかして、50周年の記念碑もどこかにあるのでしょうか?)。
ここまで「津山」を軽くスルーしてきましたが、津山とは岡山県津山市のこと。かつては美作国の国府が置かれていた、中国山地に囲まれた津山盆地に広がる県下第三の都市。多少詳しい人なら、宮古島市の姉妹都市が結ばれている市でもあります。津山市との姉妹都市の縁組は、旧平良市時代の1965(昭和40)年に締結されていますので、宮古島市となっても続いていることになります。
津山市のHPには2015(平成27)年に、宮古島市との交流50周年を記念した交流事業が紹介されています。
「宮古島市との交流50周年 ~きっと、つながっている」
宮古島市のHPではこうした取り組みの紹介はなく、検索してやっと過去の広報(2014年7月号)に掲載された見開きの特集で、簡潔に50周年が紹介されているにすぎません(私見も含んでいますが、人頭税廃止の立役者・中村十作についても似たようなことがいえるのですが、どうも宮古島は相手側に立ってリスペクトする戦術がことごとく苦手のようで、関連リンク的な紹介がほとんどなされていません)。記憶をたどってみると、確かに50周年を記念した津山の物産イベントのようなものも行われていましたが、いまひとつ盛り上がることなく過ぎ去った気がていします。
この両市の縁組はそもそも1963(昭和38)年に、平良第一小学校の砂川恵保校長が津山市に研修で派遣され、津山南小学校と姉妹校縁組が結ばれたことに起因しています。校長同士が意気投合し、姉妹校になり、交流が発展して姉妹都市という出来好きのような美しい流れの中に、今回紹介しているJCの縁組も姉妹都市縁組にあわせて締結されたと紹介されてます。
【津山市と宮古島市との友好交流都市縁組50周年記念「交流の振り返り」】
ちなみに、津山市のHPにある『津山市と宮古島市との友好交流都市縁組50周年記念「交流の振り返り」』と題されたYouTube動画にも紹介されているのですが、平一小の砂川校長が津山を訪れる以前か、宮古と津山の関わりがあったエピソードがちらりと紹介されています。
1956年に津山市にある、美作大学(短期)に平良の女子学生が入学していたそうで、とうも草の根レベルの交流があったようなのです。
しかもこの先には、小耳にはさんだ史実に載らない話で、ご本人からの裏取りもちゃんと出来てないので、書くことが出来ないのですが、妄想を最大にブーストさせると、このきっかけのきっかけを生んだ宮古からの女学生が、もしかして繋がるんじゃないかと。いつかもう一度、美作・津山の話をきちんと聞いてみたいものです(自分の妄想が作った幻影だったら恥ずかしすぎるけど、この薄っすらちりばめたキーワードだけで、ピンっときた人かいたらこそっと聞いてみて欲しい)。
ここまでの流れ。
実は、過去の石碑紹介で使ったネタの焼き直し感が否めなかったりもします。
第30回「眞栄城徳松氏の像」
第51回「平良市役所」
気になった方、未読の方は、こちらもぜひ、お読みいただけたら幸いです。
えー、この場所には実はもう一枚、石碑があるのでそちらもさらっと紹介しておきましょう。
なにも姉妹縁組は津山だけではないのです。それがこちら。

「友情 奉仕 修練」の3つのスローガンを書き添えた、民雄国際青年商會との姐妹縁組(こちらは姉ではなく姐)の締結30周年を記念して建立されたもののようです。というのも、3つのスローガンの下に、字色が抜けてしまい薄っすらとしか読めませんが、おそらく「創立30周年記念 (社)宮古青年会議所」と刻まれています。
こちらの姉妹縁組の相手は、民雄国際青年商會(民雄JC)。いったいとどこのなにか?。石碑には中華民国とあるので地域が台湾であることはすぐに判りましたが、民雄とは聞いたことがない地名だったので、調べてみるとどうやら嘉義縣にある民雄郷であることが判りました。地理的には嘉義市(台湾西部、台中市と台南市の間)の北8キロほどにある隣り町のようです。【MAP】
宮古と民雄が姉妹締結をしたいきさつについては、調べても特に出てきませんでした。台湾と宮古のつながりとしたら、台北に近い基隆市が、2007(平成19)年に宮古島市と姉妹都市を締結していますが、民雄郷や嘉義縣とのつながりは思いつきませんでした。
さて、ここからは年号の計算と謎解きです。
石碑に記載されている年数は1991年。そして判明している数字は30周年。これが締結された年号だとするなら、2019年の今年でさえ、まだ28年しか経過していません。
そこでJCの記事をあさって見ると、なんとこのゴールデンウイークの直前(4月25~27日)に、宮古JCは台湾へと渡っていたようなのです。
姉妹締結30周年を祝う/宮古、台湾民雄JCが式典(宮古毎日新聞 2019年5月3日)
記事によると、「姉妹締結30周年を祝う」とあり、「宮古JCと民雄國際青年商會は1989年に姉妹青年会議所となった」と書かれていました。
なんかおかしい。石碑は30周年のものではないのたろうか…。
次に、民雄国際青年商會(民雄JC)のFaceBookを眺めてみると、2017年に民雄JC創設35周年の式典を開催しています。そこから逆算すると民雄JCが誕生したのは1982年であることになり、創設まもない頃に宮古JCと姉妹縁組をしたことになります。
民雄國際青年商會35週年慶
※ちゃんと宮古JC側にも記録がありました。
さらに詰めてゆくと、宮古JCとの姉妹締結はJCの本部資料(シスターJC締結一覧 2014年12月4日現在)でも、1989年9月12日と確認できることから、姉妹締結の30周年はやはり2019年で間違いなさそうです。
では、石碑の建立日と目される「1991年」と、薄くてうまく読めない「30周年」とはいったなんなのでしょうか?。
数字と格闘し、あちこち検索して、ようやっとその答えを見つけました。
「創立30周年記念 (社)宮古青年会議所」とは、まさに文字通りにそのままだったのです。勝手に碑面に書かれていた民雄JCとの姉妹縁組に単純に引っ張られていただけだったのでした。
そう、真実は宮古JCの創立が1962年だっという、なんともお粗末なオチだったのです(厳密には1年ずれてるけど)。
おそらく、宮古JCの創立30周年の記念式典に参加した、民雄JCがこの石碑を記念に贈ったのではないかと推測します。
最後に、本来のオチとして用意しておいた、この石碑の設置場所ですが、その場所こそが宮古青年会議所の建物がある場所だったんてすね。この時までちっとも知りませんでした。
ああ、もう。やれやれだぜ~!。
Posted by atalas at 12:00│Comments(0)
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