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2018年09月18日

第201回 連載200回突破記念特番「海に消えた道(1) 佐和田矼道」

第201回 連載200回突破記念特番「海に消えた道(1) 佐和田矼道」

「んなま to んきゃーん」連載200回突破記念特別番組。別名、自分で自分の首を絞めてるスベシャルです。
200回もやれば、そろそろ終わりでいいんじゃない?っといわれているとかいないとか。でもね、地味でもいい感じの奴はまだまだあるのです(そこそこ名のある石碑は減りましたが)。とはいえ、石碑を見つけていてもなんの情報が得られない奴とか、石碑の情報はあってもまったく石碑そのものが発見できない奴とか、強敵もいるのです(個人の家にある銅像なんてのもありますしね)。
特別編はそんな石碑が一切出てこない、現場と記録だけのネタ勝負です。まあ、これまでも石碑に絡めて旧道や付け替えられた道などを、しれっと書いてきましたが、今回はズバリそんな道そのものに注目してとりあげてみました。
それも「廃道」です。とはいえ、痕跡が残っているのは本当にわずかで、どこが面白いの?といわれたらハイそれまでよ~ってトコなんですけれどね。
まあ、個人的な興味の行き着いた先、アルティメット「大人の自由研究」です。もっとも、敬愛するオブローダー“よっきれん”こと平沼義之師匠の「山さ行がねが」のように格好良くは行きませんけれどね。
ということで、特番のタイトルは「海に消えた消えた道」です。予定では三部構成となるばずですので、まずは(1)。佐和田矼道編です。
第201回 連載200回突破記念特番「海に消えた道(1) 佐和田矼道」
唐突に佐和田矼道と云われても困惑されると思われます。なぜなら佐和田矼(橋の異字体)という名前の橋などないからです。佐和田矼は、なかよね橋と漢那橋のふたつの橋の総称とされています。
のっけから、なかよね橋とか漢那橋とか、いきなり飛ばして過ぎているようなので、少し話のスタート地点を変えて比較的判りやすい場所から進めてみることにしましょう。ちなみに橋の名前だけで場所が判った方は、相当の伊良部通です。

現在、伊良部島と下地島を隔てる“入江”には6本の橋が架かっています。南から「乗瀬(ぬーし)橋※現在架け替え中」、「伊良部橋」、「仲地橋」、「国仲橋」、「たいこ橋」、そして「なかよね橋」があります。
このうち、下地空港の建設時のアプローチ橋として架けられた「乗瀬橋」は、伊良部大橋の建設計画により県道252号平良下地空港線として県道に指定された、新しい後発の橋ですが(ただし、平良-久松入口、長山港-渡口の浜東口、国仲橋下地口-下地空港は重用区間。これについてもじっくり語りたいトコではあるのですが、明らかに字数がパなくなるので割愛)、それ以外の5つの橋は伊良部南区の字それぞれが入江を渡って下地島の耕作地へ行くために作れた橋なのです(下地島は字域で5分割されていおり、橋はいずれも当時の村番所から下地島へ、ほぼ最短ルートで結ばれている)。
入江の形状が割と単純で、幅もさほど広くない、伊良部、仲地、国仲の3つ字はの橋は、字名と同じ名前が一本づつ架かっているだけですが、長濱と佐和田では橋の名前が異なっています。これはこの附近の入江がとても複雑で、下地島への道にふたつ以上橋を架ける必要があったことに由来しているようです。

長濱には「たいこ橋(太鼓橋)」のほかにもうひとつ、「いんた橋」という橋がありました(たいこ橋と集落の間、マングローブ林が茂るあたり)。現在は道路改修によってボックスカルバートに置き換えられているため、橋の形はしておらず、見た目は通常の道路と同じですが(当然、現在は橋の名前は付けられていません)、かつてのいんた橋の痕跡は注意深くこの道路を走れば見つけること出来ます(こちらの橋も、ふたつあわせて長濱橋と呼ぶのかどうかは記述がないので定かではありません)。
余談になりますが、たいこ橋の下地側にある小さな湾に、最近、魚垣(ながき/カツ)の痕跡を見つけました。国仲橋の伊良部島側にも現存しており、有名な“カツ”は佐和田(下地島空港のナガピダ)だけではなかったようです(もっとも、ちょっと古い空中写真を見ると、佐和田の浜には空港から黒浜御獄までの間にたくさんの魚垣の痕跡かあります)。

沖縄県水中文化遺産一覧 海上保安庁 海洋情報部(pdf) ※こちらに長濱の魚垣の記述はなし

さて、いよいよ佐和田の「なかよね橋」ですが、こちらも長浜の「いんた橋」同様に道路化された橋があります。それが下地島側にある大きな湾(前述の長浜の魚垣がある)の入口に架かる、「漢那橋」という橋です(てぃだの郷の西に位置する)。ここてようやっと、ふたつ橋の名前がそろいましたので、ここからが本題です。しっかりついて来て下さいね。
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【左:国土地理院 地形地図】 【右:1994年 (国土地理院空中写真より)】 (clickで拡大)

この漢那橋であった場所では、入江の特徴でもある干満差の大きさを感じられる場所でもあります。ほぼ道路化(海中道路)され、複雑で奥の深い湾口を狭められていることもありますが、干潮時は佐和田礁湖へ、満潮時は入江の湾へと音を立てて海水が流れる様子を見ることが出来ます。

現在、この道は市道伊良部111号線に指定され、佐和田集落から下地島空港方面へと続いている道路になっていますが、あまりきちんとした記録が探せなかったこともあり、ちょっとあいまいですか、現在のなかよね橋は3代目と考えられます(近代的な橋として。橋の耐用年数を考えるともう一度くらい架け替えていそうな気もする)。
現行の橋は道路線形の改良も合わせて1994年に竣工しています。また、橋名の由来は、伊良部側の橋のたもとの「なかよね御獄」から名付けられていると見られます。このあたりは砂州が広がっており、礁湖での漁に使う舟を舫っておく船着場でもあったそうです(平良市史御獄編 1994)。
先代の「なかよね橋」は現行の橋より海側に突き出した形状で、現在も下地側の橋詰部分が残され、廃道として見ることが出来ます(展望施設とされ、駐車スペースをもうけているが、特に整備はされておらず、廃道の先端部分はやや崩壊気味だが、現行のなかよね橋が眺められるスポットになっています)。
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【左:1962年 米軍撮影(国土地理院空中写真)】 【右:1945年 米軍撮影(沖縄県公文書館)】 (clickで拡大)

可能な限り、古い航空写真をあさってみると、1945年撮影の空中写真に、先代以前の橋(のルート)が浮かび上がってきました。勿論、下地島空港など存在しない時代なので、現在の防波堤を兼ねた海中道路も当然なく、砂洲を直線的に通って、下地島の内陸部へ続く道につながっています。これは恐らく耕作地に行くための農道と見てよいでしょう。
そして決して映りが良い訳ではありませんが、道路と垂直に交差する二条の影は礁湖と湾をつなぐ水路であるなら、「漢那橋」と思しき部分も見えました。これはきっと干満の大きい干潟の砂地に繰り返し道を通し続けてきた痕跡に違いありません。

やや話題がそれますが、橋名の根拠としてあげた「平良市史御獄編(1994)」のなかよね御獄の項目に、興味深い記載がありましたので取り上げておきましょう。
それによると1915(大正4)年頃まで、このあたりに橋はなく、干潮時に砂州を歩いて渡っていたと記されているのです。つまり、大正期にようやく橋と呼べるものが作られたということになるのです。「伊良部村史」の挿絵にもこの頃のなかよね橋の様子として、「大橋」と呼ばれていた石積みのいわゆる“めがね橋”の写真が掲載されていました。
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【伊良部村誌(1978年)に見る、なかよね橋。当時は大橋と呼ばれていた】(clickで拡大)

時代的には、大正天皇の即位の礼(御大典)の記念事業として、伊良部村の一大公共工事が行われました。1915(大正4)年に、伊良部-佐和田の5字を縦貫する「五ヶ里道」の完成です。この「大橋」もそれに関連して架橋されたものなのではないかと考えられます。
ちょっと大げさにいえば、伊良部におけるモータリゼーションの夜明けを迎えたと云えるかもしれません。もっとも、当時は自動車がほとんどありませんから、劣悪な徒歩道から大八車などが走れる幅の道になったという程度に過ぎないでしょう。近代的な架橋についてはこの3例しか資料を見つけられませんでした。

しかし、しかし、その「伊良部村史」に、大正期よりも遥か昔の1775年に佐和田矼を架けた人物について大きく取り上げているのです。
周辺の時代背景としては、1686年に腕山村(国仲方面から広がってきたの原屋の村)と合併して佐和田村が村建てされます(佐和田の名を冠した村としては最初で、それよりも前から人は住んでいた 第112回「字佐和田村落生誕五百五十年記念之碑」)。1771年に乾隆36年の大波(いわゆる八重山大地震を原因とした明和の大津波)が発生し、巨石がゴロゴロと転がっている佐和田礁湖を見ても判る通り、少なからずこの津波で佐和田も集落も被害を受ける(集落内へ津波があがってきた境目にあった井戸ウクナガーは今も残されています)。
第201回 連載200回突破記念特番「海に消えた道(1) 佐和田矼道」
【測量年からすれば、この大正期の地形図には橋が完成しているはずなので、描かれていてもよさそうなものですが、なぜか書き込まれていません。一方、村の公共事業であった五ケ里道はちゃんと描かれています】

佐和田矼の功労者と称される人物は、国仲与人恵理といいます(伊良部村誌 1978年)。
恵理は村の未納となっていた租税(人頭税)を、アイデアを駆使して村人と協力し、わずか三年で返済します。また、干潟を活用した伊良部島初の製塩を手がけるなど、なかなかのやり手の人物です。
ところが1771(乾隆36)年に大波が発生。国仲与人でありながら、佐和田矼の積立役を仰せつかり、これを再建します。しかし、村史を読み解いて今と、どうも息子・恵福の母、つまり恵理の妻の・種子梵(たにそ)の郷里が佐和田で、その土木工事(矼の竣工)に尽力したとも読むこともできるのです。これってもしかして、嫁にイイ顔したかったということなのでしようか。村史の記述が微妙なので、イマイチすっきりしませんが、ともあれ「伊良部村史」によると、津波によって矼(ここでは橋というより海中道路)が損傷し、耕作地のある下地島への通行がとても不便で、経済活動の損失であると訴えたことから、再建役に選ばれたと云うことになっています。
当初、恵理は矼を作った人物と見ていたのですが(一部には作ったとも紹介されている)、よくよく読んでみると、なりゆきはともかく矼を修復した人物で間違いなさそうです。つまり、佐和田の矼は1771年の乾隆36年の大波(明和の大津波)以前からそこにあったことになります(人は1300年代から住んでおり、1637年から人頭税が課せられている)。結果として橋の起源は未明となってしまいましたが、そんな古い痕跡、どこかに残っていないものだろうか…。

この時の佐和田矼がどこに架かってたのかははっきりしません。矼が架かる前は干潮時の砂洲を渡っていたそうですから、遠浅とはいえそれほど沖ではなく、ある意味では現行道路に近い位置なのかもしれません。しかし、石積みの海中道路を構築するとなれば、距離の短い直線的な旧漢那橋ルートと同じような位置取りになるのではないかと推察されます。
そして旧ルートの“大橋”時代は石積みの海中道路だった事を考えると、もしかすすると新時代の“道”の基礎にかつての道は使われてしまったかもしれません。もうひとつ悪いニュースとしては、戦時中にこの佐和田礁湖沿岸一帯は、敵の上陸を阻止するために、石を積んだ防塁を構築していたそうで、その材料として根こそぎ石か供出された可能性は大いにあります。なにしろ防塁の痕跡も今はなく、一周道路の基礎の資材として取り潰されて、跡形もなくなっているのですから。

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【左:なかよね橋近くの海中に残された、謎のコンクリート遺構】 【右:旧漢那橋の上流部に位置するS字瀬】

ただの橋の架け替えといえばそれまでなのですが、この場所はかつて足を濡らして、耕作地へ向かうために海を渡り続けた先人の苦難を、時代とともに繰り返し積み替え続けてきた、名もなき小さな歴史のある道なのです。
こんなにも色々あるのなら、たとえ波が洗う海であっても、なにかしら痕跡のようなものはないのかと、あきらめきれずに現場100回!。
第201回 連載200回突破記念特番「海に消えた道(1) 佐和田矼道」
【漢那橋の遺構とみられるコンクリート構造物】

先代のなかよね橋の残地道路が、カーブを描いて伊良部島側に曲るその先の海に、謎めいたコンクリートの平たい板が割れて残されているのを発見しました。
ルート的には1945年の空中写真にある浜を直線に横切る漢那橋へと向かう位置のように見えます。しかし、当時のなかよね橋(大橋)は、海中道路ともども石積み施工ですから、コンクリートの構造物があったとは考えにくい(それ以前にコンクリートそのものが、少し新しいようにも見える)。
しかし、1945年の直線的な漢那橋の構造は、なんとなく水路部分の両側で仕切り、水路部分に架橋しているような構造にも見える。
仮説としてもしそのような橋の構造だとしたら、漢那橋の水路壁(橋脚?)もしく、橋の天盤そのものという暴論を唱えたくもなるが、それは妄想の域は出ることはありません。
第201回 連載200回突破記念特番「海に消えた道(1) 佐和田矼道」
場所をかえます。現行道路を半周して、漢那橋(現行は橋の形状ではなので、便宜的に水路化している個所を呼称した)をのぞき込むと、ちょうど干潮に向かっているため、湾内から勢いよく海水が外へ流れだしていました。
続いて、1962年の米軍が撮影した空中写真に現れる、旧漢那橋のすぐ上流付近にあるS字瀬部分を確かめてみました。ちょうど沖に向かって流れているので、S字の具合がとてもよく判ります。
と、その時。そこになにかあるのを発見しました。明らかに人工物です。
長さは4メートルくらいでしょうか、幅のある長方体が半ば砂に埋もれて鎮座していました。なかよね橋との位置関係を確かめてみると、謎のコンクリート板となんとなく一直線に並ぶような気もします。
そして振り返ってみた現行道路の位置も、下地空港のターミナルへ続く市道と、17END方面への道の分岐点にありそうな雰囲気があります。時代的に関係がないかも知れないが、近くにはアスファルトのような明らかに怪しく硬い路盤(一部、そぼろ状の礫もある)も広がっていました。
これらの人工物が本当に遺構なのかは、確証が一切ないので怪しいですが、空中写真と地図を眺めていると、今回指摘した遺構らしきものがあった場所より、少しだけ沖にある小島(岩)から連なっている、一直線に続く露岩帯がとても怪しく見えます。実際に現地を確認するとこれは自然のものでした。
第201回 連載200回突破記念特番「海に消えた道(1) 佐和田矼道」第201回 連載200回突破記念特番「海に消えた道(1) 佐和田矼道」
【左:最初に怪しんだ帯状の露岩】 【右:現行の漢那橋位置から旧ルートを望む】

予想を超えた長さとなってしまいました。ですので、そろそろ「佐和田矼道」編を〆たいと思います。アルティメット「オトナの自由研究」を、ご精読いたたきありがとうございました。




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