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2015年01月27日

第15回 「上野村教育発祥之地」

今回ご紹介する碑-いしぶみ-は、第13回の「博愛の心-創立百周年記念碑」でも少し触れましたが、上野村の教育発祥の地である「新里尋常小学校」の跡地に立つ碑です。
碑が立っている場所は現在、市営新里団地がありますが、思ったより広くはありません(ここから上野小学校に移転して、時間も相当経っているので耕地整理などされているのかもしれません)。しかし、学校の位置は新里の集落の北はずれにあり、相当にのどかな場所はなかったのではないかと思われます。
第15回 「上野村教育発祥之地」
碑の表には
       上野村教育発祥之地
            明治二十三年九月四日創立
            新里尋常小学校 跡地
裏には
        創立九十周年記念建立
            昭和五十五年九月
            上野村立上野小学校PTA
と、記されています。

[上野小学校沿革(抜粋)]
1890(明治23)年 新里、宮国、野原、友利、砂川、下里添、嘉手苅の7地区の共同立で
             「新里小学校」が創立。
             ※当時は間切の時代で、嘉手苅のみ下地間切。その他6地区は砂川間切。
1908(明治41)年 創設の地より、北東におよそ1キロに移転する(現在の上野小学校の場所)。
1909(明治42)年 義務教育6年制となり、「新里尋常小学校」に改称。
1908(明治41)年 島嶼町村制により、宮古郡下地村となる。
1918(大正 7)年 「新里尋常高等小学校」を設置。
             ※学校令基準ではこの頃は現在の中学にあたる。
1921(大正10)年 下地村立新里実業補習校を併設。
1941(昭和16)年 時局を反映して、皇民化教育を理由に「新里国民学校」に改称。
1944(昭和19)年 陸軍が駐屯し、児童は各集落集会所で学習。
1945(昭和20)年 校内に爆弾が投下される。終戦。
1948(昭和23)年 「新里小学校」と改称。下地村より上野村が分村。
1949(昭和24)年 新年度から「上野村立上野小学校」となる。
1990(平成 5)年 学校創設百周年を迎える。
2005(平成17)年 5市町村合併となり、宮古島市立上野小学校と改称。

ということは「尋常小学校」跡と書くには、いささか問題があるのではないかと。しかし、当時の教育事情については不勉強なので、共同立から公立への過渡事情なども判らないのでなんともいえませんが、ともあれ上野村における教育発祥の地であることは間違いないようです。

資料によると新里尋常小学校の初代校長は下川貞文。琉球処分、沖縄の廃藩置県という日本化・近代化の時代に宮古島へ内地から赴任した方で、後に平良第一小学校の校長も務めます。その頃に生まれた子供が下川凹天(本名は貞矩/1892年5月2日生まれ)で、大正から昭和にかけて活動した漫画家であり、日本初のアニメーション映画の製作をします。余談ですが、凹天は眼病を患いアニメーターの職業病第一号にもなっています。

また、1921(大正10)年には「えんどうの花」を作詞(1924年発表)した、宮古島市西里(現在の市場通り)に生まれの金城栄治が、教師として赴任して来ます(本籍は那覇市垣花町)。諸説はありますが、初任地である新里の風景が「えんどうの花」のモチーフとも云われています(作詞をしたのは大宜味村塩屋小学校在籍時)。


連載企画 「んなま to んきゃーん」
なにかを記念したり、祈念したり、顕彰したり、感謝したりしている記念碑(石碑)。宮古島の各地にはそうした碑が無数に建立されています。
それはかつて、その地でなにかがあったことを記憶し、未来へ語り継ぐために、先人の叡智とともに記録されたモノリス。
そんな物言わぬ碑を通して今と昔を結び、島の歴史を紐解くきっかけになればとの思いから生まれた、島の碑-いしぶみ-を巡る連載企画です。
※毎週火曜更新予定  [モリヤダイスケ]



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