2018年03月13日
第176回 「大昭井戸開掘紀念碑」

あまり久しぶり感がありませんが、またまた井戸モノです。井戸シリーズは生活への密着度が高く、わりと地味な展開が多いので、大きく盛り上がることはありませんが、質実剛健的ななイメージがして玄人好みの石碑が多い気がします。そして今回紹介する井戸モノ石碑もそんな雰囲気がプンブン薫ってくるような石碑です。
上野は新里自治会が刊行した新里集落史誌「あらさと誌」(1995年)によると、この石碑のある井戸は新里の東青原(あがすおーばり)集落の外れにある畑の中にあり、井戸が開鑿される以前は、集落に水源はなく2キロ近くも離れた友利のあま井まで水を汲みに行っていたそうです(あま井は友利、砂川、新里の三集落が使っていた古くから知られた井戸だった)。
余りにも不便だったことから、集落内に井戸を掘る機運が高まり、城辺から地下水の有無が視るという透視能力を持つミズミーシュウ(水視衆か?)を招いて、集落内を見てらった結果、集落の東方に水脈があると確認され、大正15年10月から井戸の開鑿が開始されました。
井戸掘りすべて人力が頼りで、新里蒲、川満蒲戸金のふたりが工事を担当し、コツコツと土を掘り石を割って掘り進め、掘った土や石は“もっこ”と滑車を使って地上に運び出すという作業を地道に続けて行きます。
しかし、集落は高台にあるため、掘っても掘ってもなかなか水脈にたどり着きません。そして掘り続けること一年あまり。およそ50メートルを掘ったところで、ようやく水脈にたどり着き、こんこんと水が湧きだしたといいます。その日は昭和2年9月7日と記録されているそうです。
大正から昭和にかけて開鑿され完成したことから「大昭井戸」と命名されました。完成当時の集落の祝賀ムードはかなりのものだったようで、井戸の完成を祝い集落をあげて盛大な落成式が行われた。
ブンミャー通り(新里へ続く、現在の県道190号線と思われる)で踊りを披露してから、旗頭を先頭に鉦や太鼓を打ち鳴らし、法螺貝を吹いて大昭井戸までパレードし、井戸の前で再び踊りを踊って歓喜に沸いたそうです(落成式は昭和三年に開催)。

【井戸の落下防止の蓋が、消火栓の人孔です。確かに中は水なので、いざという時に役だちそうですが、水面まで50メートルあります】
石碑の側面と背面に井戸掘りにかかわった人々の名前が記されているので、石碑を確認してみたところ、「あらさと誌」とは若干の差異がみられました。まず、開鑿を始めた日は大正15年10月頃という記録でしたが、石碑にはしっかりと大正15年8月3日起工と日付まで刻まれていました(完成は同じ)。ちなみに、大正は15年まで、昭和元年は12月25日から始まるため、完成が昭和2年であっても日数的には一年ちょっとになります。計算してみると、工事期間はぴったり400日というミラクルに気づきました。
また、発掘者(掘った人という意味であろう)には、川満惠和、川満蒲戸金、根間良雄の三人の名前があります。「あらさと誌」で語られているのは二人。しかも、新里蒲という人物は出来ません。
外に石碑には発起人が5名、賛助員が10名(字体からして当初の8名に2名を足した感じ)の名前がありますが、そこにも新里蒲という人物は存在しません。新里姓は発起人に1名、賛助員に3名ありますが、このあたりとなにかが混同したのかもしれません。
実は「あらさと誌」の大昭井戸のくだりは、新里芳雄さんの思い出話として寄稿されたものなのです。確からしさは二の次で、集落の水に対する苦労と大きな完成の喜びを感じたくて参考にさせていただきました。正確な記録を綴っただけでは、こうした人々の感情といったものは、なかなか現れて来ないので、市町村史では語られることのない部分を補完する字誌は、とても素晴らしい史料だと思います。ぜひ、各字でもこういう取り組みをしてくれないかと願ってやみません。
新里の字の一部(小字)である東青原は、集落内人口もかなり少なく、すでに字の公民館も失われて限界集落と云えますが、旧公民館であった場所は現在、小さな広場のような公園として整備され、その片隅にふたつの丸い大きな石が転がっていました。これは間違いなく「あぎいす(挙げ石)」です。今ではほとんど顧みられなくなりましたが、娯楽の少なかった戦前あたりまで、農作業を終えた青年たちが村番所に集い、石を持ち上げて力試し力比べをする、パワー系の草競技で、新城、七又、西中では市の文化財にも指定されていますが、時折、こうして公民館の片隅で、あぎいすらしき玉石を見かけるます。未だにこうして残されているのであれば、貴重な文化遺産として記録して、追加で保存をして欲しいなという強い妄想に耽っています。
Posted by atalas at 12:00│Comments(0)
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