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2017年01月31日

第120回 「大正十五年改修の碑」

第120回 「大正十五年改修の碑」

えー、「んなまtoんきゃーん」キリ番の120回目です。今回は静かに闇の中で眠る石碑を取り上げてみたいと思います。このオープニングを書いている時点で、まだ着地点がありません(いつもだいたい、読み手の想像にまかせてうやむやに終わるパティーンですけれど)。
闇の中に眠るという修飾したのは、この石碑の立地状況が大いに関係しています。画像を見ていただければ気づかれると思いますが、石碑の撮影にはフラッシュをガンガンに焚いて撮影しました。
第120回 「大正十五年改修の碑」
こちらの「大正十五年改修の碑」とある石碑は、城辺は友利のあま川(あまがー)の中にあります。そうです。急峻な隘路を20メートルも降りた洞泉(うりがー)の底、自然光の届かない地底世界に建立されているのです。

「あま川」「天川」「あま井」など、紹介される名称には色々な字があてられていますが、雍正旧記(1727年。集落の主な御獄や井戸について書かれた古文書で、当時の様子が判る古い史料)にある井戸の区分(と考えられる表記方法)では、天然洞泉や湧水を表す「川」を使って、「あま川」と書かれていることから、これをここでの表記としたいと思います。尚、~井と書かれているものは、掘り抜きの井戸(もしくは掘り抜きに改修した井戸)と考えられています。
第120回 「大正十五年改修の碑」第120回 「大正十五年改修の碑」
あま川の石碑といったら、洞泉の入口に立ち並ぶ、石碑群を思い浮かべますが、大半は史跡を示す案内用ばかりで、洞口に一番近い所に建っている改修記念碑がひとつあるだけです。この改修記念碑はる1949(昭和24)年の建立で、戦後すぐの時代に行われたもののようですが、具体的にどこを改修したのかは判っていません。

洞底に建立された大正期の改修記念碑に刻まれた碑文を読み取ってみると、
友利
砂川 三字 寄付
新里

大正十五年改修 七月二十日?

    宮国真幸
 □□  饒平名長昆
    真喜屋金
と、書かれていることが判りました(□は記述不明)。
なんとなく友利や砂川は集落位置から、すぐにイメージ出来ますが、新里の字も書かれていたことは、改めての「気付き」を教えてくれました。新里は旧上野村にあり、旧城辺町の友利、砂川とは行政区域が異なりますが、古くはいずれも砂川(うるか)間切に属していました(下地村から上野村が分村したのも間切が異なっていたからとも云われて云われています)。
新里の位置を改めて確認してみると、あま川からまでの直線距離は1キロほどでした(旧番所基準の直線距離は、友利が500メートル、砂川が750メートル)。ただ、新里からは上比屋の山を越えなくてはならないので、もう少し距離が必要だったかもしれませんが、思っていた以上にお隣さんな集落であることが確認できました。
同じ間切で、同じ井戸を使っていたことを考えると、これらの集落の結びつきというのは強かったのではないでしょうか。
第120回 「大正十五年改修の碑」第120回 「大正十五年改修の碑」第120回 「大正十五年改修の碑」
洞口の1949(昭和24)年改修記念碑と同様、こちらの1926(大正15)年の改修もされた場所は判っていません。ただ、このあま川は1955(昭和30)年に完成した、砂川友利地区の簡易水道の水源として利用されました。
島の水道事業は1943昭和18)年に、大日本帝国海軍が白明井(すさかがー。平良に東仲宗根。八千代バスの北西、白川苑の裏手)を水源とした上水道を敷設し、戦後も米軍によって改修され利用していた。1951(昭和26)から平良市三大事業(電気・水道・港湾の近代化整備)によって、本格的な上水道整備が行われました。

第120回 「大正十五年改修の碑」一方、城辺でも1954(昭和29)年に初の民営簡易水道が保良地区に敷設され、砂川友利地区はそれに続く簡易水道の水源として利用されました。現在もその名残として、洞底にはコンクリート製の増水槽が残されています。その脇にはボルトの跡があり、組み上げるポンプが設置されていた場所も確認できます。
ポンプ跡のすぐそばにある改修記念碑の上端部をよく見てみると、半円状に欠けていて碑文の「大」の字も一部が欠損しています。欠けた円のサイズから想像するに、恐らくは簡易水道の水を汲み上げるパイプの台座として利用されていたのではないでしょうか。

その後、1963(昭和338)年に城辺町は町営水道事業を計画し、加治道で水源開発を開始(現在、加治道水源地と浄水場がある)。各市町村独自の取水と上水道計画に対し、米軍政府は統合的な上水道管理が必要として、1964(昭和39)年に宮古島用水管理局を設立しますが、住民からの反対によって廃止され、翌1965(昭和40)年に宮古島上水道組合が設立されました。1972(昭和47)年の復帰により、宮古島上水道企業団と改称され、公営水道として運用され、1977頃には島内のほぼ全域で水道が利用できるようになります。
平成の大合併によって2005(平成17)年に宮古島市が誕生して単一行政となったため、広域事業から宮古島市水道局となります。また、2010(平成22)年の行政改革によって水道局と下水道課が統合され、現在は宮古島市上下水道部と呼称されるようになりました。

上水道ひとつとっても、宮古島の時代や世相が色々と見えて来て、とても面白く興味が尽きません。それにしてもわずか60年前まで、この洞泉に降りて水を汲んでいたことを考えると、島の人の水に対する想いがひとしおなのもうなづけます。

【参考資料】
宮古島市上下水道部
※左側サイドバーのPDF資料の「パンフレット」または、「宮古島上水道ビジョン」がおすすめです。
※オマケとして右サイドバー最下段の「下水道WEBマップ」は島内の下水道の敷設状況が一目瞭然でオススメです。
宮古島市の上水道(wikipedia)
※よくまとめられていて、判り易い上水道の概要です。

【関連石碑】
第29回 「石原雅太郎氏像」
※平良市三大事業の提唱者
第43回 「海底水道竣工記念」
※狩俣から池間島への水道送水管の竣工記念碑
第45回 「白川田上水道顕彰碑(仮)」
※白川田にある石原雅太郎の顕彰碑。この時の宮古島上水道組合の管理者は真栄城徳松
第81回 「保良泉改修記念碑」
※同じ城辺にある保良の湧水で、簡易水道時代は水源となった場所。




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