2015年08月25日
第45回 「白川田上水道顕彰碑(仮)」

期せずして続いている水関連のシリーズ(本当はそんな予定ではなかった)。今回は宮古島市上水道の要ともいえる、白川田水源地にある上水道顕彰碑(仮)です。正確には句碑なのですが、未熟ゆえに難しくて読むことが出来ないため、(仮)とさせていただきました。お粗末ですみません。

碑が建立されている場所、大野山林の裏手(海側)。一周道路脇の森の中にあります。厳密にはそこは森ではなく、崖下にある白川田水源地の施設へ続く残置道路(一周道路完成前の道)部分にあたります。碑の隣りには海側を向いた御嶽もあり、周辺の濃い緑の雰囲気とあいまって、なかなか趣のある場所となっています。

どなたか得意な方、ぜひご教示願えませんでしょうか?。なにとぞご協力をよろしくお願いいたします(左の画像をクリックすると拡大します)。
川のない宮古において最大の湧水量を誇るといわれている、白川田湧水の水を貴重な水源として活用する整備事業が、1953(昭和28)年の旧平良市「三大事業」(電気・水道・港湾の近代化)によって行われました。
碑の裏面にはそのことを顕彰する内容が記されているのですが、ここにまたひとつの大きなつながりが記されていました。
とても短い文面ではありますが、この「んなま to んきゃーん」で過去に紹介したふたりの政治家が登場していました。頌宮古島上水道創設者石原雅太郎氏の業績を絵家に顕彰するため賛歌を捧げここに碑を建立する
一九六六年七月一日
宮古島上水道組合 管理者 真栄城徳松
石原雅太郎(くわしくはコチラ「第29回 石原雅太郎氏像」)。
平良町長を4期、平良市長を2期も務め、初の名誉平良市民の称号も贈られている戦前から戦後にかけて活躍した政治家で、平良三大事業を推進した人物でもあります。
真栄松徳松(くわしくはコチラ「第30回 眞栄城徳松氏の像」)。
宮古毎日新聞社を創業した実業家にして、第七代・第八代の平良市長を務めた政治家でもあり、池間大橋を建設し、宮古工業高校を創設し、熱帯植物園を造成した人物でもあります。
このおふたりが生まれたのは明治(年代としては30年くらい違う)。どことなくまだおおらかだったと思われる大正・昭和(戦前)を過ごし、戦中、戦後の荒々しい激動の時代に強い気概を見せて突き進んで魅せる。なんというかその呼吸とか息遣いとかが、“面白い匂い”のする人たちだったのではないだろうかと、表層に漂う歴史(経歴)を散見して、シナプスが誇大妄想させるのでした。

碑の周囲をコンクリート製の低い柱と鎖で四角く囲っているのですが、奥にあるガジュマルの樹が、完全に柱を咥えこんで融合個体となっていました。
碑の建立から50年近く時間が経過しているものと思われますが、見事な造形に仕上がっています。
【資料 pdf】
「宮古島の上下水道」 宮古島市上下水道部
※水道事業の歴史から施設の系統図、地下水についてや料金の変遷まで、島の上下水道について余すことなく紹介されていて、思いのほか面白い読み物にもなっていたので、あわせてご紹介させていただきました。
【追記 2015/09/01】
NJ大のTakahashiさんが、お知り合いの歴史学者・伊藤陽寿さんにお願いして読んでくださいました!。
「讃歌
白川田のつきせぬ水に
咲きほこる
名残し讃ゑむ
諸々ともに」
※「徒き」が崩し字になって、平仮名の「つき」になるとのこと。
と、書かれていいるようです。
Takahashiさん。伊藤陽寿さん。ご協力ありがとうございました。
Posted by atalas at 12:00│Comments(0)
│んなま to んきゃーん