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2015年06月02日

第33回 「灯台の碑」

第33回 「灯台の碑」

6月期からはいよいよ城辺編です。城辺を代表する景勝地といえば、宮古島最東南端の東平安名崎(岬と書き“さき”読む場合もある)があります。今回ご紹介する石碑-いしぶみ-は、その岬の先端にある「平安名埼灯台」(灯台の名称は復帰の際に、“東”が付かなくなりました。また、正しくは碕の字を使います)に由来する「灯台の碑」です。
第33回 「灯台の碑」
※床面の矢印の方向に座礁現場の“あらば”があります。
地元保良集落の人たちが“あらば”と呼ぶ、美しくも危険が潜むこの周辺海域では以前、度重なる海難事故があった。
1950年3月6日、山東丸(4000トン)日本船籍は、ビルマ(ミャンマー)方面より食糧米を満載し豪雨の中を日本に向け夜間航行中、この“あらば”で座礁する。この山東丸を救助に来た、しんとん丸(2000トン)、山陽丸(1600トン)は、同年6月23日昼(4時~5時)頃、救助活動中に風速70m以上の小型台風エルシーが突如襲来し3隻とも転覆・沈没し、死亡者と行方不明者が出た。保良集落の住民も献身的な救助に当たるなど、宮古島有史以来の大惨事となった。それ迄にも1948年7月に日本船籍の貨物船、1949年5月には沖縄船籍の徳進丸(60トン)等がこの海域で遭難している。
この様な度重なる惨状に、当時保良漁業組合長の砂川寛栄氏(後に旧城辺町議会議長)は、この岬での灯台の必要性を痛感し、米軍統治下の複雑な背景の中、各機関に陳情、要請と尽力する。1967年4月、日本政府の援助により、ついにこの灯台は完成する。
その後、船舶の海難事故はなくなり、景勝地の象徴ともなっている。
設立以来、周辺海域の安全を護り、国の名勝と調和するこの灯台を大切にし、灯台建設に尽力された砂川寛栄氏の功績を讃えると共に、この海域で事故に遭われたお送り犠牲者の御霊を慰め、さらにこの“あらば”海域を航行する全ての船舶の安全を祈願し、ここに[灯台の碑]を建立する。

囲みの文章は碑の文言を写し取ったのですが、どうもコレ、色々と誤記があるようなのです(石碑なので修正は容易ではないかと・・・)。
というのも冒頭で「1950年3月6日」に座礁していながら、救助は「同年6月23日」と3ヶ月以上も経ってやって来て、その上、3隻まとめて転覆・沈没の大惨事というのは、どうもなにかがおかしい。
気になって少し調べてみたところ、朧げながら判ってきましたので、背景情報を大量に織り交ぜつつレポートしてみました。

まず、最初の原因となった「山東丸」ですが、1931(昭和6)年に三井造船玉野事業所(岡山)で作られた、総トン数3234トンの貨客船で、事故当時は東邦海運が運航していました。1950(昭和25)年6月5日、タイ米4200トンを積載して名古屋に向けて航行中、雷雨と視界不良から東平安名崎の西側、通称“あらば”に座礁します。

山東丸が所属する東邦海運は僚船「新屯丸(しんとんまる)」(総トン数1576トン 1927年(昭和2)年進水 建造所/滿洲船渠)と、「山陽丸」を救援に差し向けます(ただ山陽丸については同名の船舶が多く、詳細にはたどり着けませんでしたが、東邦海運十五年史(1962)には船名が記載されていなかったことから、山東丸の救助に向かった新屯丸にも新たな危機が迫り、近海を航行していた他社船舶が二重救援に来て、三重座礁沈没の事故になったのではないかと誇大妄想)。
この東邦海運は事故直前の1947年に設立されており、元々は南満州鉄道系の大連汽船(1907年創業)を祖とする海運会社で、後の1964年には日本製鐡系の日鐡汽船と合併して新和海運となり、さらに日本郵船の系列会社に変わったあとも数次にわたり企業再編を繰り返し、現在はNSユナイテッド海運として鉄鉱石などの鉄鋼原料や原油・LPGなどの海上輸送を担う外航海運会社となっています。

普段でも少しうねりが出ると荒波が打ち寄せる“あらば”で座礁した山東丸の救助にやって来た新屯丸と山陽丸(座礁と沈没の時間差から、恐らく積荷を積み出して船体を軽くして離礁させようと、早い時期から現場にいたのではないだろうかと予測)でしたが、折りしも宮古島に襲来した台風「エルシー」が猛威を振るい、6月23日の昼頃(4時~5時)に3隻とも転覆、沈没させてしまいます。
この小型で強い、豆台風エルシー(1950年台風5号)は、瞬間最大風速70メートルとなかなか強力な台風だったようで、死者25人、行方不明10人、負傷者39人、住宅1315戸が倒壊するという被害を宮古島にもたらしました。

不思議なことに、エルシーの名をもつ台風(3号)は1954(昭和29)年5月にも猛威を振るい、ビルマ(ミャンマー)から神戸に向け航行中の辰和丸を南シナ海のマックレスフィールド礁南方で遭難、行方不明となります(6ヶ月間の捜索の末、沈没と認定)。
また、1969(昭和44)年に襲来したエルシー(11号)は、サラ、コラ、デラ、マエミーに次ぐ威力を持った台風として宮古島を襲いました(宮古島気象台資料/ただし、1959~2006年のランキングで資料が限定的なのため、1950年のエルシーが含まれていない)。
このように何度も名前が出てくるのは、現在の台風のアジア名が制定される以前は、アメリカ式の命名(abc順のリスト)がされていたからです。また、観測技術の関係なのか記録に関することなのか、詳しいことは判りませんが、残念ながら1950年のエルシーの記録はほとんど出てきません(気象庁の資料も1951年以降しか開示されていない)。
第33回 「灯台の碑」第33回 「灯台の碑」
どんどんと興味のままに大きく脱線をしているので、このあたりで今回は打ち止めにしておきますが、この大惨事を契機にして、東平安名崎に灯台が建設され、航海の安全が保たれるようになるのでした。
尚、灯台から岬の根元の方に少し戻った座礁現場の“あらば”を見下ろせる崖の上に、もうひとつの記念碑(案内碑)が設置されています。いずれも建立は2008年7月で、灯台設立40周年を記念して立てられています。


連載企画 「んなま to んきゃーん」
なにかを記念したり、祈念したり、顕彰したり、感謝したりしている記念碑(石碑)。宮古島の各地にはそうした碑が無数に建立されています。
それはかつて、その地でなにかがあったことを記憶し、未来へ語り継ぐために、先人の叡智とともに記録されたモノリス。
そんな物言わぬ碑を通して今と昔を結び、島の歴史を紐解くきっかけになればとの思いから生まれた、島の碑-いしぶみ-を巡る連載企画です。
※毎週火曜更新予定  [モリヤダイスケ]



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