2017年08月29日
第150回 スペシャル企画「霊石」

先週の予告した通り、今回は連載150回記念スペシャルです。
島の石碑を巡る旅と題して、あーでもないこーでもないと、地味地道にお届けして150回。島に石碑がある限り、続きそうな「んなま to んきゃーん」ですが、今回のスペシャルは石碑ではなく“石”そのもの。それもちょっと特別な「霊石」を連載150回のスペシャル企画として取り上げてみました。
まず最初は宮古の霊石としては一番有名な、「野原岳の霊石」から。
こちらの霊石は有名なので、見たことがなくても霊石の存在は、きっと誰もが知っているのではないでしょうか。だって、入口の看板もとても大きいですからね。
ちなみに、こちらの霊石は県の指定文化財となっており、「のはらだけのたまいし」と読みます。霊石(れいせき)とは読まないことを失念していました。
あらたかな霊石だけあって信仰の対象となっており、御嶽としても拝礼されていてタマザラ御嶽と呼ばれている(確かに霊石の正面?に、香を焚いた痕跡がみられる)。
霊石の案内板や紹介サイトには、いずれもあらましなどはおしなべて同じことが書かれていますが、霊石の効能効果については特に触れられていません。そこでいつもの「平良市史」第9巻資料編7(御嶽編)を開いてみると、タマザラ御獄の項目に霊石の伝承が記されていました。
昔、野原村の子守(父母や大人たちは仕事が忙しいので、たいていは年長の子供が下の子の子守役として従事する家族内ルール)が、道で遊びながら子守をしていると、老人の姿に変化した赤子の守護神がやって来て、その赤子の命は7歳までしかないといった。子守は驚き急いで母に告げると、母は老人を追いかけてその理由を尋ね、赤子を助けてくれるように懇願した。という伝承があります。また、聞くところによると、この霊石は子宝祈願のいわれがあるとも云われていることから、この石には子供に関する霊力があるようです。
すると老人は年に一度、野原岳の霊石の上に宮古の十二方位の神々が集まって人々の運命を決めるので、その日にあわせて酒やご馳走を霊石に供え、集まった神々が酒を飲みご馳走を食べ終えた頃、神々の前に出て行き、子供の寿命を延ばして欲しいと頼みなさいと教えた。
母は守護神の教えに従い、子供の寿命を77歳まで伸ばしてもらった。
この野原岳の霊石の案内板に『今帰仁城跡、勝連城跡、伊良部町の伊良部東元島遺跡にも霊石として信仰されている石がある』と、さらりと大事なことが事が書かれています。
そう。伊良部の霊石です。
みなさんは、伊良部島に霊石があることをご存知でしたか?。
それでは、次はその伊良部島の霊石を訪ねてみましょう。

はい。こちらが件(くだん)の伊良部の霊石です。
南区の字伊良部のキビ畑の真ん中にあるため、時期によっては人の背よりも高い茂ったキビに阻まれて、まったく見ることが出来ません。
霊石について語る前に少々おさらいを兼ねて、以前紹介したフナハガーにある謎の「清美」の石碑の回のネタに触れておきます(記事そのものは妄想を暴走させていますが、ある種の面白さは醸し出しているかと)。
フナハガーは1430年頃に発見されたと云われており、この一帯にフナパ村、北方にウポザト村、東方にウポドウ村と三つの村があり、村建てには欠かせない水源となったといわれています(おそらくこの村々は伊良部元島のことであろうと推測します)。「雍正旧記」にも登場する井戸で、古集落が発展する礎としても重要な役割を果たしてきました。霊石はその東部にあり、集落位置の基準が井戸を中心とするなら、東方にあったとされるウポドウ村にあった石なのかもしれないという邪推を抱きましたが、その辺の真偽はともかくまごうことなく、霊石は伊良部元島遺跡に指定されている地域のど真ん中にあります。

そして現在の集落位置からすると少し標高の高い場所にあることもあってか、伝聞のひとつに(字)伊良部の主(村の長?)がこの霊石に座って、遠方を眺めていたといかいう話もあります。
確かに海に向かってなだらかに下っている斜面に鎮座する霊石の位置からは、入江の湾口や八重山方面の海況を一望することが出来ます(そういえば国指定の史跡“先島諸島火番盛(さきしましょとうひばんむい)”にはないものの、明治26年の「沖縄旧慣地方制度」には載っている仲地の遠見台もこの丘の並びにあったといわれている)。
霊石と呼ばれている石はまだあります。
続いては、成川の霊石。

こちらの霊石は成川井(なりかわがー)の道向かいにあります。
野原や伊良部の霊石に比べると、そのスケール感はとても小さく、ともすると畑から掘り出された雑石のように思えるのですが、霊石と云われているそうです。けれど、この石についての情報は少なすぎて、詳細がまったく判っていません。

ともあれ、大切にされているということは、確かに霊石なのだと思います。この霊石について詳細をご存知な方は、ぜひともご教示頂きたいと存じます。
もうひとついっておきましょう。
次は七原の霊石です。
こちらの霊石は宮古空港の駐車場を囲むオーバルコースの道路際、タクシープールの東側にあります。もう少し説明すると空港に入ってターミナルに向かう途中、路面をよーく見ていると不自然な場所に横断歩道のトラフィックペイントがあります。
それこそが七原の霊石の目印と云えます。なにしろこの横断歩道は、安全に道路を横断して霊石に行くためだけにあるのですから(宮古空港ターミナル社に拍手)。
すでにお気づきと思いますが、現在、この場所に七原集落はありません。戦時中、海軍飛行場を建設するために強制接収され、七原の人々は生まれ育った土地をおわれたのです(七原集落は主に鏡原へと移転)。
空港の地盤が盛られているようなので、霊石は一段低い場所にあります。階段を降りて行くと不定形で野趣にあふれた岩塊がそこには鎮座していました。解説板によると18世紀初頭、久松などから移住してきた人々が、この石を中心に七原の集落を形成していった「根石」され、集落の人たちは霊石として信仰の対象としたようです。

また、ここには接収される前の七原集落の様子が地図として描き残されており、解説文には「午の端里御嶽(ウマヌパ≒午の方角の御嶽)」、つまり集落の南の方角にある御嶽であると記されています。しかしながら、地図上にその名前の御嶽の記載はなく、唯一、地図に書かれている御嶽は、公民館の南側に「ヤーモリウタキ」と書かれている御嶽がみられるだけなのですが、1945年に米軍が撮影した海軍飛行場の航空写真(「豊井戸」)から、わずかに残る七原の集落の様子を現在の地図と比べて確認すると、どうやら「ヤーモリウタキ」の位置が現在の空港入口にある「山うり御獄」(ヤーウリ≒ヤーモリか?)の位置にあたることが判りました。
そして土地をおわれた七原の人たちの痕跡として残された御嶽は、空の玄関口に鎮座し、空の安全祈願する御嶽となりました。自分の知りうる限り、空を祀る御嶽というのはこれまで聞いたことがなく、この「山うり御獄」は宮古の御嶽の中でも、非常に稀有な存在なのではないかと考えます。
実はもうひとつ。この七原集落には秘密・・・いや、痕跡があります。
ターミナルの北側、空港のフェンスに沿って城辺線へと抜ける側道の途中に、空港の敷地内にこんもりとした怪しい茂みがあるのですが、なんとそこは空港のフェンスの外なのです。伝わりづらいので、もう一度、云います。『茂みは空港の敷地内のフェンスの外にあります』というのは、側道から車一台分の幅だけフェンスが敷地の中へと細長く伸びており、その怪しい茂みへとつながっているのです。

ちなみに、ここ。宮古空港の滑走路に一番近づける場所だってこと、スポッターのみなさんは知ってましたか?。
【参考】
【集落(スマ)を歩く】① 七原(上)
【集落(スマ)を歩く】③ 七原(下)
【野原岳の霊石】
【伊良部島の霊石】
【成川の霊石】
【七原の霊石】
【伊良部島の霊石】
【成川の霊石】
【七原の霊石】
Posted by atalas at 12:00│Comments(0)
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