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2016年02月23日

第71回 「しんしんと肺碧きまで海の旅」

第71回 「しんしんと肺碧きまで海の旅」

前々々回の友利實功生誕の地から、前々回の「なりやまあやぐ」の歌碑を受けて。前回の「とうがにあぐ」の歌碑で、カママ嶺公園まで連想ゲームのようにやって来ました。この市街地を見下ろす丘には市民の憩いの場として親しまれています。丘の上の西側、ピラミッドのようなデザインの防災備蓄倉庫兼展望台の脇に、一枚岩の大きな石碑があります。
これは昭和の初めに宮古島にやって来た俳人・篠原鳳作の軌跡を記した石碑で、鳳作が詠んだ俳句が刻まれています。ですが、この広場に開けた向きに肝心の俳句はありません。俳句は公園の茂み側に記されています。なぜならそれには理由があるからなのです。
第71回 「しんしんと肺碧きまで海の旅」
※画像にマウスを乗せると碑の裏面を見ることが出来ます(クリックで固定画像表示)。

「しんしんと肺碧きまで海の旅」
この無季俳句を詠んだ篠原鳳作(しのはらほうさく)は、1906(明治39)年1月7日、鹿児島県鹿児島市の生まれで、本名を国堅(くにかた)といいます。鳳作は1931(昭和6)年から3年半の年月を宮古島で過ごします。わずかな期間であったにもかかわらず、鳳作が島もたらしたものはとても大きなものでした。

鳳作は東京帝大法学部を卒業しますが、時代は昭和恐慌の頃。東京で職には就かずそのまま鹿児島へと帰郷します(病弱だったこともあるようです)、在学中に始めた俳句に没頭しますが、宮古中学の山城盛良校長の勧めに推され、鹿児島で内定していた仕事を蹴って宮古島へと渡ります。
沖縄県立宮古中学校(現在の宮古高校)に教師として赴任した鳳作は、公民と英語の教師を勤めていましたが、図画(美術)教師の欠員に伴いって、専科外にもかかわらず7ヶ月ほど美術の教師も兼任します。
その指導はとても熱心で学生たちから尊敬され、学校で絵画ブームが起こるほどでした。この時の熱量は、現在も脈々と活動を続けている宮古最古の絵画サークル「二季会」へとつながっています(一時、休眠期間あり)。
また、俳人であった鳳作は、四季の移ろいがない宮古島の地で、季語に悩みやがて無季俳句を意識するようになります。そして島の文学界に鳳作の俳句は影響を及ぼし、今も彼を、彼の句を慕う人たちが活動を続けています。
他にも鳳作は、宮古中学の応援歌を作ったりしており、溢れる才能を様々に魅せており、とても病弱だったとはにわかに信じがたい熱いエピソードばかりです。
しかし、鳳作は結婚を期に郷里の鹿児島へと戻ります(1935年結婚。妻の名は秀子)。そして翌1936(昭和11)年9月17日に亡くなってしまうのです。まるで最後の灯を宮古島で燃やし尽くしたかの如く。享年は30歳でした。

この句碑は鳳作が夭逝して36年後、沖縄復帰の年である1972年に建立されました。冒頭で句碑が公園の園地に背を向けているには理由かあると書きましたが、この碑は鳳作の故郷である、遥か鹿児島に向いて据えられており、この句碑と対をなす形で鹿児島の長崎鼻に、もうひとつの鳳作の歌碑が建てられています。
カママ嶺に建つ句碑の揮毫は、鳳作と親交があった三谷昭(みたにあきら)が書いています。三谷昭(1911/明治44年~1978/昭和53年)は東京出身の昭和期の俳人で、現代俳句協会会長を務めた人物なのですが、なんと面白いことに1941(昭和16)年に、実業之日本社に入社して、「ホープ」の編集次長、「新女苑」や「オール生活」の編集長などを歴任しているのです。
実業之日本社といえば、人頭税廃止に尽力した中村十作と同郷(新潟県上越市板倉区)で、遥々、宮古島から東京へ人頭税廃止の請願にやって来た十作ら一行に力を貸した、増田義一が創設した会社ですから、まさかのつながりに驚くばかりでした(「人頭税にまつわるエトセトラ」ベスト盤~んなま to んきゃーんSP)。

ここからは余談になってゆくのですが、この三谷昭の孫にあたる小説家・三谷晶子は、奄美は加計呂麻島に移り住んで執筆活動をされています。残念ながら未だご本人にはお逢いしたことはないのですが、離島発信で面白い書き手がいるよと、何も知らないまま教えられて、いくつか記事を拾い読みをしてみると、宮古島に来ていたことを知って、いちファンとしてブックマークをしていました。
しばらくして知人の引っ越し祝いの席で出逢った方が、晶子の友人であると判明します(後で気づくのだが、なんと記事にも登場している人だった)。すると、今度はその晶子の友人を頼って宮古島に、三谷昭の息子(つまり晶子の父)がやって来ます。そんな邂逅が繰り返されると、呼び水になるのか、金曜コラムで「 宮古かいまいくいまい」を書いている、きくちえつこと昭の息子はつながりがあったことが発覚します。こうして恐ろしいまでの宮古マジックのカオスが錬成されてゆくのです。(敬称略)

【参考資料】
篠原鳳作と二季会/瑞慶山 昇 (宮古毎日新聞 2014.02.13)
薩摩長崎鼻灯台(鹿児島県指宿市)
篠原鳳作句碑(鹿児島県指宿市長崎鼻)
三谷昭 コトバンク
実業之日本社 小史
第12回:島々で、私たちは生きている|女子的リアル離島暮らし 三谷晶子
鳳の作りしもの~鳳作忌に知る肺碧き俳人の物語(あんちーかんちー 2009.09.15)

【トナリの石碑】
第2回 「ドイツ皇帝博愛記念碑 レプリカ」
第70回 「とうがにあやぐ 歌碑」




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