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2018年11月20日

第209回 「積間井鑿工紀念碑」

第209回 「積間井鑿工紀念碑」

先に断っておきます。今回のタイトルはちょっと怪しいです。基本的に石碑の表面に記載されている文字をタイトルにあてているのですが、ぶっちゃけ、今回の石碑は劣化が激しくてそれがハッキリと判らないのです。そこで石碑の建立されている井戸の呼称と、最終的な類推からの判読を元に今回のタイトルを命名してみました。石碑の文字が綺麗に読むことの出来る時代の写真とか、出来たらいいのですけれど、ちょっとローカルすぎて見つけきれませんでした。もしも、そんな写真。スナップでもなんでもいいので、持っている方がいたら、ぜひとも見せてほしいものです。
あ、そうそう云い忘れていましたが、今回も毎度おなじみ、地味で地道な井戸の石碑シリーズとなっています。ついてこれる方だけついて来てくださいね。
第209回 「積間井鑿工紀念碑」
さてさて。まずは石碑の場所ですが、地名地番的な表記をすると、大字上野字野原小字積間原となります。自治会(行政集落)としては千代田となり、その千代田部落集会場の一角にあります(野原から千代田が分字したのは明治の頃、1893年でした)。
集会場のそばで豪快に茂っている木々やクワズイモの中に井戸があり、石碑はその脇に建てられていますが、集会場の広場部分を嵩上げしたのか、土地改良されたからなのか、井戸は一段低い枠の中にあり、石碑もその枠と同居するような形で佇んでいます。

井戸の名は史料によると積間井(ツンマーガー)と呼ばれているようですが、この井戸のある場所は上野は野原(千代田)の積間原なのです。これが実は少しばかりややここしいことになっています。というのも、千代田の西は下地。ついでに書いておくと北は平良と旧市町村境に面しているのです。
この積間原の西には県道190号が走っており、西ツンマー、東ツンマーというバス停すらあるのですが、こちらの積間(ツンマー)は県道の西側に広がる、旧下地町の川満に属している積間(東積間、西積間がある)のこと。もちろん、地域にはちゃんと立派な積間御獄もあるのですが、なんと上野の積間原にもツンマー御獄があったりします。上野は下地から分村(1948年)したからじゃないの?とおっしゃる方もいると思われるので、言及しておくと、東積間、西積間は大字川満であり、積間原は大字野原なので、そもそもの所属する大字からして異なるので、分村では片づけられないのです。ただ、まあ、推測でいえば野原の方は、積間の“原”なので、積間集落の耕作地だったかもしれないという可能性はあります(真偽は不明)。
第209回 「積間井鑿工紀念碑」第209回 「積間井鑿工紀念碑」
【左 千代田部落集会場 狭いながらも機能的な作りになっています。井戸は建物左手にあります】 【旧千代田カントリー。現在は自衛隊施設の工事中です。正面のあたりが、ちょうど船底アブがあったあたりと見られます】

ややこしさついで付け加えておくと、川満の積間には高千穂公民館(西積間)というのがあります。この高千穂は野原の千代田同様に、地域呼称(行政集落)として名づけられた比較的新い地名です。川満の東側の地域に位置する、マクソコ(幕底)、カツラ嶺(風嶺≒カザンミ)、西積間、東積間、ツンフグ界隈を呼びます。この地域は下地地内でありながらも、与那覇湾沿いを通る下地線(国道390号)に面していないため、公共交通としては下地のバスではなく、上野バス(県道190号は宮国線や新里線のルートにあたる)の恩恵を受けているのだそうです(現在はどちらも宮古協栄バスに合併してしまている)。

千代田は東京都千代田区に匹敵するくらいの集落になりたいから、高千穂は天孫降臨の神々しいイメージを拝借してと、なかなかに話の大きいネーミングをするあたりは、宮古の人っぽい感じがしてとても面白いです。こうしたことを踏まえると、この地域は比較的新しく集落なのだろうというところに帰結しますが、それでも明治時代なので100年以上は経過していることになります。

そろそろ井戸廻りに話を戻しましょう。
まずは井戸ですが、千代田集落にある「積間井」であることは、史料からもはっきりしているのですが、古びたボロボロの碑面は、書いてある文字を判読することが不能です。ただ、文字のある部分は上を屋根型に切り込み、一段凹んだ飾りで囲んだ中に書かれておりも意匠をこらしていることが判ります。そこに残った文字(のようなもの)に、「積間」などの字へ繋がるような雰囲気がまるでなく、ちょっと途方に暮れそうになっていたら、石碑の側面にひらがなで「つんま~」っと薄っすらと刻まれていることに気づきました。ただ、残念ながら嵩上げの枠に隠れてしまい、すべての文字を確認することは出来ませんでしたが、ひとつ謎を解くことが出来ました。
また、「つみま~」と書かれていた逆の側面には、「大正十二年六月●鑿」(●は文字がないかもしれないが読めない)と、どうやら井戸を掘った時の情報が書かれていました。
第209回 「積間井鑿工紀念碑」第209回 「積間井鑿工紀念碑」
【野原集落内にある、「鑿工紀念碑」と書かれた、「申の井」と思われる、第46回で紹介した井戸】

ここでハタと閃きました。ひらがなの井戸名、開鑿年(しかも大正年間)、そして正面の屋根型の切り込み。この組み合わせをどこかで見た気がすると。答えはすぐ近くの野原にありました。それは何度か紆余曲折を経て正解に近づいた、第46回の「鑿工紀念碑(野原)」の井戸の碑です。
こちらは大正14年の開鑿で、多少の差異はありますが、雰囲気がよく似ています。積間井のボロボロの碑面に残る、「井」の字に引っ張られていましたが、「工」の字の剥がれたものと見ると、野原の石碑と同じようにと「鑿工紀念碑」と読めてくる気がしました。もしかすると積間井の碑を参考にして、野原の井戸の碑は建てられたのかもしれません。
第209回 「積間井鑿工紀念碑」
在沖千代田郷友会「記念誌」(1988年)に書かれている昭和11年頃の積間井は、松林の端にあったようで、道を挟んだ旧・千代田カントリーのあたりは船底アブという自然洞穴があり、大雨の時などは雨水が流れ込んでいたようです(ゴルフ場になったあともアブの跡のような窪地が地形図から見て取れます)。

積間原のもう少し南方のナベアマ原(ナベ山)には、第162回で紹介した「鍋阿間井戸」がありますが、さらにその先となる、千代田ハイツ(新興住宅地)の一角に、階段を20段も降りるような降り井が、かつてはあったと郷友会の「記念誌」に紹介されていました。現在、その場所は道路拡張や耕地整理などで降り井は埋め立てられ、痕跡のみが残されているようなのです。しかも、その痕跡というのが、繁茂した草木によってその深さも定かでない窪地であり、柵もなにもないまま道路の角に開いた、怪しい謎の空間を作っているのです。今のところこの井戸の現在の姿を確認することは出来ていませんが、いつの日か明らかにしてみたいと思います(実は記念誌にも井戸の名前がなく判っていません)。
第209回 「積間井鑿工紀念碑」第209回 「積間井鑿工紀念碑」
【左 千代田ハイツの一角にあった降り井の痕跡。今もそれなりの深さがあります】 【千代田部落集会場の前にある、ガジュマルに咥えこまれてしまった石碑】

最後にもうひとつ、オマケ。千代田部落集会場の入口にガジュマルが一本あります。
その木の根元近くに「建設記念碑」「昭和六十年十月」と掘り込まれた石碑があるのですが、ガジュマルが石碑をしっかりと咥えこんでしまい、定期的に幹を削って碑が見えるよう、“開鑿”しているらしいのですが、この碑はいったいなにが建設されたことを記念しているのでしょうか。おそらくは集会場だと思われますが、残念ながら記念誌にも特筆はされておらず定かではありません。




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