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2017年11月14日

第160回 「清泉(長南西更竹)」

第160回 「清泉(長南西更竹)」

とうとう石碑のネタだけで前人未到の160回目に到達してしまいました。けど、まだ、道中(んつなか)というのだから恐ろしい子。人は紙を発明してから記録すること始めました。技術の進歩とともに文字や映像を電子媒体にまで記録するようになりましたが、石碑に勝る記録保存の強度を持つ媒体はありません。石碑は荒れ狂う台風の雨風にさらされても、熾烈をきわめる暑さや湿度にも耐えられる媒体です(情報量は決して多くありませんが)。それを島の人はメタに知っていたから「紀念」という行為の名のもとに、次々と石碑を建立して来たのではないでしょうか。
第160回 「清泉(長南西更竹)」
今回紹介する石碑は、長間三区の南端、長南は西更竹(小字)にある井戸の脇に建てられている「清泉の碑」です。こちらはこれまでにも紹介してきた井戸の掘削完成や修復修繕を記念して建立された石碑です。
碑文によると掘削されたのは「大正六年」(1917年)のことで、「昭和拾貮年度修繕」とも刻まれていますから、掘削されてから20年後の1937年に修繕がなされ、おそらく現在の形になったもの思われます。
掘削された井戸としては大正期のものなので、わりと古い部類になると思われますが、雍正旧記(1727年)によると山川(小字)の掘削年不明の洞川(山川の大川湧水ではなく、集落にある掘り抜き型に改修されている井戸)が、。長間(村)で最も古い井戸の記録とされていますので、それに比べたら“新しい”井戸と云えます。
とはいえ、西更竹には長南公民館(公民館隣地にも蓋をされた井戸がある)や県営城辺団地などもあって、長南地域の中心地と考えられますが、県道78号(城辺線)沿いの根間地(南根間・東根間・北根間)に家屋が連なり、商店などもあります。また、根間地の北側(西更竹の東側)に隣接する田又や、平良との境界(西更竹の北側)に位置する山田(歌で名高い山田橋は厳密には平良に位置する)や当根川あたりにも、それぞれ数軒の家々が小さな集落を形成しています。さらにその外縁部(北東側)に位置する東前田や西前田といった小字がありますが、圃場整備された畑が広がっているだけで、現在はそこに集落はありません。また、長南の小字はこの他に、平良の東仲宗根添と長間の西側の境界をなしている真良瀬嶺と山川がありますが、どちらも地理的には西更竹や根間地からは大きく北に寄っており、長間の第四勢力?ともいえる山川地区(俗称)を形成しています。小字の状況を見ても、長南は大きく集落としてまとまることのない散村が広がっています(長南といいながら、実際は長間の西部から南部が区域となっています)。
第160回 「清泉(長南西更竹)」第160回 「清泉(長南西更竹)」
【左 西更竹 清泉の井戸の全景。井戸のすぐそばまで圃場整備が迫っており、里山の風景は一変してしまいした】
【右 地域の中心、長南公民館。公民館前の広場の片隅にも、蓋をされた井戸があります(円形のコンクリート)】


集落のなりたちをざっくり調べてみると、長間三区の北と南にあたる長北と長南は、長中(長間)のように寄り集まって(集められて)作られている集落ではなく、広大な農地を持つ大地主の元、名子や小作によるは畑屋(はるやー)的な散村が原点だったようです。そうした主従の関係から、各戸は収穫物を納める地主を向いて生活していたとみられ、家々がまとまって集落化することなく現在に至ったと考えられています。しかも、その大地主というが、北の山川を中心とした仲宗根家(忠導氏)や、根間地を中心とした与那覇家だというのですから興味深いです。

時代が下って社会の変化とともに土地の所有も少しづつ変化してゆくのですが、そうした変遷の中で明治前期に長間の新興大地主として、折田太郎右衛門(1868-1910)という名前が出てきます。
長間で折田といえば、サンエーの創業者である折田喜作を思い浮かべますが(サンエーオリタ店は創業の地、折田商店~現在のジョイフルの駐車場あたり)、この太郎右衛門は喜作の祖父にあたる人物なのだそうです。

伝聞によると鹿児島生まれの太郎右衛門は、西南の役で西郷軍に参戦したものの、戦況が不利になると19歳以下は除隊させられ、5人ひと組になって沖縄へと逃れることになります(計算上、明治元年/1868年に生まれた太郎右衛門は、明治10年/1877年に勃発した西南の役では9歳でしかないので、ここはやや疑問が残るが)。そして宮古島へやって来た太郎右衛門ら5人組は、ある者は伊良部へ、ある者は城辺へと散り、長間には太郎右衛門と鮫島幸平のふたりがやって来たのだそうです。
ここでまさかの衝撃が走りました。もちろんもサンエー創始者の祖父、太郎右衛門のヒストリーを知ったこともそのひとつには違いないのですが、太郎右衛門と一緒に長間へ寄留した鮫島幸平に驚かされたのです。彼は後に幸兵衛と改名するのですが、その名前こそ1907(明治40)年に池間島でカツオ漁を始めた人物なのです(鹿児島県川辺郡東加世田村、現在の南さつま市の出身)。
県内大手のスーパーのサンエーと、池間民族の誇りともいえるカツオ漁の物語が、こんなところで交錯しているなんて、なんとも興味深いつながりです。
ちょっと難しい件もありますが、詳しくは「近代初期宮古島の大地主」池平勇夫(沖縄国際大学社会文化研究Vol.2,№1 1998年3月)をご参考ください。

第160回 「清泉(長南西更竹)」あまりにも面白い話が飛び出してきてしまったので、今回はこのまま収束させようかとも思いましたが、当初、展開しようとしていたネタも「土地」に関係することなので、少し触れておきたいと思います(地理に弱い人も頑張ってついて来てね)。
この長南地区は旧平良市(東仲宗根添)との市町境にあり、旧城辺町内でも、字・長間と字・下里添の字境にあたります。さらに余談としてつけくわえると、字・西里添も平良市境から南に500メートルほどの距離にあり、不思議なくらい境界が寄り集まったエリアなのです。
歴史的に見ると長間は比嘉と共に平良間切に属していましたが、1908(明治41)年に町村制が施行され、砂川間切をベースとした城辺村に再編されました。その結果として、長間は西隣の東仲宗根添(東仲宗根村の添村)とは割と近しい位置にあります。また、長間の南方にある城辺の下里添や西里添は、それぞれ下里村、西里村の添村でしたから、長間と似たような畑屋を原型とした散村集落によって形作られていることが字名の命名から判ります。
このあたりから類推すると、次々に名もなき原野が畑へと開墾され、ざっくりとした地名が付けられて云ったのではないかと思います。と、云うのも今回紹介している井戸のある長南の小字・西更竹は、隣りの下里添にも同名の小字が存在しています。それも県道を隔てた反対側という超隣接地としてあります。
しかも、下里添には“北”のついていない更竹という小字があります(宮古で更竹と呼ぶと、おおむねこちらを示します)。お気づきの方もいると思いますが、西更竹は磁北で云うところの更竹の北東側にあります(下里添も長南も)。これは民俗方位のずれ(おおよそ東に約45°傾く)と、島の言葉で北を「ニス」呼ぶ音を西の字に当て字替えした結果、妙な関係位置となったもので、宮古ではこの手の命名が多くみられます。

ややこしいのは更竹は城辺だけでなく、平良の東仲宗根添(宮原学区)の南端部にあって、これらすべてが隣接しています。
旧町村名で整理してみると、
 城辺町大字長間字西更竹
 城辺町大字下里添字更竹、字西更竹
 平良市大字東仲宗根添字更竹
となります。
長間と東仲宗根添の更竹は、無印と北(ニス)という位置関係のセットから、旧平良間切時代の名残りであることも見えてきます。

郵便番号などにも使われている大字(長間、下里添など)だけでなく、正式な地名ではなく地域の小字を括る地域内(長南、宮原、根間地など。行政集落と呼ばれる単位もある)、さらには一番小さな単位である小字(西更竹、真良瀬嶺、佐事川など)と、地名が囲うレベルはさまざまですが、より小さな単位を眺めてみると、周囲との関係性や成り立ちなどがおぼろげに見えてくるので、興味深い妄想が楽しめます。

【追記 20171115】
旧城辺町大字・西里添にも小字・更竹(城辺線沿い)があることを追記しておきます。しかも、位置的には下里添の西更竹の東側(山地の東隣)になります。


【関連石碑】
第48回 「土底村里井戸改修工事」
~東仲宗根更竹の隣り、土底(んたすく)のお話
第114回 「佐良浜かつお漁100年記念碑」
~池間民族つながり、伊良部の佐良浜のカツオのお話。
第130回 「健康モデル指定地区」
~長南公民館前に建つ、謎のカラフルな石碑に迫ります。
第133回 「長間自治会公民館建設記念碑」
~長間地区の真中、お隣、長中にまつわるお話。
第134回 「(長間神社)改築記念碑」
~長間集落の発祥にも関わる、由緒ある御嶽のお話。




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