2017年05月09日
第134回 「(長間神社)改築記念碑」

先週の予告の通り、長間自治会公民館の道向かいお話です。出落ち感で云ってしまうと、公民館前にあるのは長間神社です。しかも、そこの改築記念碑です。


今でこそ鳥居が設えられ長間神社と呼称していますが、本来は長間御嶽と呼ばれる場所です。御嶽と鳥居は本来、なにも関係がないのですが、明治維新から琉球処分以降の「皇民化政策」による神道施設化の結果、世情が変化した現在でも設置されたままになっています(詳しくはwikibediaを参照下さい。御嶽の中には神社風の本殿を作り~神社の異称が標準化している御嶽もありますが、知る限り宮古神社を除いて鳥居があっても神社ではなく御嶽なのです)。
まずは改築の碑から探って行きたいと思います。
道路に面した鳥居に脇に立派な台座とともに建立された改築念碑の裏目には、
西暦一八一四年と、諸年号が記録されています。
村建 皇紀二四七四年甲戌年八月
一九五二年壬辰旧三月十五日建之
年号がいくつか出て来ますが、石碑が建立された年は西暦1952年。元号に直すと昭和27年になります。時代背景的には戦後復興が進んで来た頃ではないかと思われます。全島的に振り返ってみても、このあたりの時代に建替えたり改築したりしている場所や物が数多く見受けられます。勝手な推測にすぎませんが、パラダイムシフトが起きたことよって、自我の確立というかアイデンティティの再建が興った時期と、様々な要因が重なった結果なのではないかと愚考しました。
この改築ではどこを修繕したのかまではっきりしませんが、質素な作りながら威風堂々とした雰囲気の鳥居も、そこから奥へと真っ直ぐに延びる参道も、本殿の手前に左右で対になって鎮座しているひと組の灯篭も、大きくはないけれど御嶽林とそれに連なる松林に囲まれた神明造り風の本殿も、すべてがコンクリートによって作られています。
コンクリート≒アメリカ文化的なイメージも勝手に加味しているかもしれませんが、背景には複雑なものが色々と絡み合っているチャンプルー感(ある意味ではカオス感)が、逆説的にいかにも島らしさの魅力になっている気がします。

余談ですがこの鳥居。磁方位では北西を向いています。日本の神社の多くが南を向いていることを考えると、御嶽であって神社ではないことが見えて来る気がします。尚、鳥居(というより御嶽の入口という意味に変化している気がします)は民俗方位では申の方角(西)を向いていました(民俗方位での東西南北は寅申午子になり、東西が本来の卯酉とはひとつ南向きにずれています)。御嶽の基本的な作りを考えると、午の方(南)から入り、拝所(イビ≒御神体ではないが、いわゆる拝む対象物のあるところ)は寅(東)を向く(入口から参道にあたる部分が右へカーブしている)作りになっているので、もしかしたら公民館との間の道は(およそ45度東に傾く民俗方位では)南北になるので、道路拡幅前はここに参道があったかもしれない。などと誇大妄想を勝手に膨らませておきます。
尚、南から東に抜けるという思想は神社のエネルギーの通り道(南から北)と同じ考え方のようですが、沖縄の緯度が南にあるから傾きが変化しいるのかもしれません。
話が大きく膨らんでしまいましたが、もうとひつ書かれている年号にも触れておきたいと思います。碑面通りを読むと西暦1814年皇紀2474年(神武天皇の即位を紀元とした日本独自の元号で、戦前戦中まで西暦に変えてよく使われていた。ちなみに2017年は皇紀2677年にあたります)に村建されたと記されています。大和の元号では文化11年。江戸時代でした。
ところが「雍正旧記」や「球陽」によると、かつてこの地域を支配していたの飛鳥(とびとり)は、支配域の拡大に狙っていた伊佐良村から逆襲にあい、弓の名手・宇慶目曽礼の矢を受けて落命します。長間の地にあった城は滅び、城下の人々も離散してしまいますが、西暦1725年に旧城の隣りに大神島から72名を移住させて、新たに長間村を村建したとされてます。しかしこれでは石碑の年号とは合致しません。
もう少し時代を追って紐解いてみると、なんでもこの長間の地は水利と土壌があまり良くなかったようで、村人から喜屋慶地方(語感からキャーギ≒西城中そばの長間郵便局界隈と思われる)への移転が申し出がなされ、1813~4年頃、村の移転が了承されたといいます。ところが、この間にも長間には各地域から多数の移住が行われており、どうやら旧村が立ち退き、新村が作られたのがこの時期なのではないかと考えられます。
長間そのそもののエリアが広いこともありますが、開拓余地が多かったのか、かなりの流入移動が複雑に行われていたようで、1723年頃には池間民族も長間に流入しているようです(平良市史第九巻資料編7御嶽編)。
かなり荒っぽく、そしてざっくりまとめるとこんな感じになりました。けれど、うっすらと長間集落の雰囲気が見えて来た気もしました(先週の公民館で団結を歌い続けるのは、複雑な複数の根をもつゆえ、結束を重視する流れがあるのかもとかいってみる。だからこその“長間一番”なのかも)。
そうそう。忘れていた訳ではないのですが、最後にこの長間御嶽(神社)に祀られている神様についてを書いておきます。ここの祭神は集落の創建にも関わったいわれている、友利の主(トゥムズノシュウ)が祀られているそうです。
友利の主とは、友利首里大屋子・忠導氏おやけ屋の大主という方。博学で和漢の学に精通していた人物で、「宮古島記事仕次」の原作者なのだそうです(宮古島記事仕次そのものは在番筆者・明有文長良によって、1748年に謹撰された)。

この界隈はおそらくこの友利氏の支配とはいわずとも、影響力があったのではないかと勝手に妄想します(かつては南隣の比嘉までは平良間切だった)。というのも、2000年代に城辺町教育委員会が発行した「城辺町の文化財マップ」とうプレミアな(文字通りのお宝)地図に、「友利一族発祥之地」(1964)という石碑が、福北(福里の最北端の北海岸に近く、長間・比嘉から見たら地続き感のある土地)にあると記されており、もしやこの友利の流れは砂川(うるか)間切ではない友利姓の始祖は友利の主なのではないかという特大誇大妄想(キガロマニアックス)を得て、長間自治会公民館建設記念碑→長間神社改築年碑(友利の主)→友利一族発祥之地の石碑という華麗な連係プレーで、ハットトリックを目指して調査を行って来ましたが、現況も変化しており石碑も50年以上前のもののようで、残念ながら今日までに友利一族発祥之地の石碑を発見することがかなわず、このプランはひとまずはお蔵入りとなってしまいした。
全国の友利一族のみなさん。ぜひ、この碑についてご存知の方がいらっしゃいましたら、些細なことでもかまいませんので情報をお寄せください(史料もとても少ないのです)。
と、いうことで、次週の予告はありません。。。。ごめんさない。
【参考資料】
十二支と方位
Posted by atalas at 12:00│Comments(0)
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