てぃーだブログ › ATALAS Blog › んなま to んきゃーん › 第210回 「長立井戸開掘紀念碑」

2018年11月27日

第210回 「長立井戸開掘紀念碑」

第210回 「長立井戸開掘紀念碑」

地味だ地道だ人気がないと、絶賛、低空飛行が売りの井戸にまつわる碑シリーズがまたしても続いておりますが、動じずに続けてまいりますので、なにとぞご愛顧のほどをなんとかお願いいたします。さてさて、今回ご紹介する石碑は、上野は新里の長立(たがたて)にある井戸の石碑です。
先週に引き続き地名の話から広がります。というのも、長立もまた地域名だからなのです。
第210回 「長立井戸開掘紀念碑」
上野地区の南東側を占める大字「新里」。今でこそ“しんざと”と呼んでいますが、少し前までは“あらさと”の読みが一般的だったようです。歴史の中で新しく村建てされた、「新しい里」として誕生したのが、“あらさと”です。かつては新里小学校(現在は市営新里団地)が最初に作られた集落でもあります(第15回「上野村教育発祥之地」)。
その新里小学校は1908(明治41)年に、新里の北方、現在の場所へ移転します(現在の上野小学校の校地となる住所は、新里ではなく野原)。

学校の話からスタートたので、新里の話なのですが、野原の南端域にあたる豊原にも触れておきます。上野小はこの豊原にあり、先週の千代田と同じように、野原から分字した行政集落となっています。道を挟んである上野中学校は新里に位置しており、この他にもJAおきなわ上野支所など施設が集まっており、新里北部・野馳南部の中心地を形成しています。

このうち、新里の北部域は「高田」と呼ばれる行政集落となり、高田駐在所、高田公民館、高田団地などがあります。極めつけは歌まである「高田青年団」でしょうか(第26回「高田青年団歌」)。

そんな高田の字域を南北に横断している、県道190線(新里線)の東半分(中学校側)を「長立」と呼んでいます。ようやく本日の主役である「長立」が登場しました。実は高田公民館前にある新里線のバス停は、「長立」を名乗っており、なんとなく微妙な問題を含んでいるようにも見えますが、とりあえず気付かなかったことにしておきます。
第210回 「長立井戸開掘紀念碑」
さて、この長立ですが、住所表示的な本名ではありません。
住居表示的な呼び方をすると、ちょとややこしくなるのですが、長立の小字は前花切とか、安谷原と云います。ちなみに隣の野原は豊原も、本名(小字)は花切原と云います。

賢明な読者はもうお判りと思いますが、「花切」というと新里から丘脈を隔てた東側、城辺は下里添(下区とか下南と呼ばれていたあたり)の友利線(県道201号)沿いの集落をイメージするのではないでしょうか。確かにこちらも花切で、小字では東花切、西花切という小字になります(東花切には、福里小学校の下里添分教場から、単独化した花桐尋常小学校が作られ、後の砂川小となりました)。

丘脈の上と下や、大字の境界で、同じ系統の字名を名乗っていることは、ある意味では「宮古あるある」であり、その小字を名乗れた勝者(戦ったわけではないでしょうが、花切では下里添が勝者)を除き、その他の地域は行政集落を作り、地域名や通称で呼ばれるようになり、長立や豊原と呼ばれることになります(顕著な例としては更竹。下里添の上区、長間の長南、西里添の吉田は、すべて更竹系の小字で、更竹を名乗れたのは平良の東仲宗根添が勝ち取りました 第160回「清泉(長南西更竹)」)。これはこれでうまく区別されて運用され来ているようです。

第210回 「長立井戸開掘紀念碑」さて、ひと通り地名関連をやりきったので、次に参りましょう。
長立の集落です。戸数もさほど多くなく、集落の公民館も取り壊されて長立農村公園となっています(高田側の東青原や西青原も、すでに公民館は取り壊され、公園化されている。第176回「大昭井戸開掘紀念碑」)。こうなると当然、集落の祭祀なども神役が不足し、長立では集落の役員が代行して執り行う簡易的なものに変化しています。この界隈は小さな里がいくつも寄り集まった地域なのと、地域中心施設として上野の農協が位置していることもあり、集落に商店すらない限界集落でありながらも共同体が成立しています。

井戸は公民館跡である公園から東に少し行った木立の中にあります。水道設備が整った現在は井戸は使われておらず、掘り抜きの井戸はコンクリートの分厚い蓋が閉められています。その井戸の後方に「開掘紀念碑」があります。

石碑の正面は「長立井戸 開掘紀念碑」と碑文が記され、残る3面に井戸にまつわる情報が刻まれていました。
右側面には起工と竣工の年月日があります。「起工 昭和四年旧八月二日 竣工 昭和七年旧三月廿日 丙辰ノ日」とありました。この井戸、掘削してから実に2年半以上もかかって完成しています。大正から昭和にかけて掘られた東青原の「大昭井戸」の掘削期間は400日(1年ちょっと)ですから、ずいぶんと時間がかかっています。
左側面には発掘人として3名の名前が、裏面には発起人として20名の名前が刻まれており、長立の井戸はこの3名によって掘られたようです。2年半もお疲れ様でした。
ここに刻まれた名前の一覧を眺めて、ちょっと気になったのは、狩俣姓、宮良姓、小録姓が多いこと。狩俣はまだ、宮古島北部域のイメージですが、宮良は石垣、小録は本島(那覇)にそれぞれ多い姓なので、かつて移住してきた系統が根付いている地域なのかもしれません(村建てまでは調べ切れませんでした)。
第210回 「長立井戸開掘紀念碑」第210回 「長立井戸開掘紀念碑」
実はもうひとつこの長立には気になる井戸があります。場所は中学校の裏手で、長立の里御獄との間。
畑の中にコンクリートで仕切られた、怪しい岩がぽつんとあります。近づいてよくよく眺めてみると、岩で蓋をした掘り抜きの井戸でした。しかも、ほぼ畑の土に埋まった井戸のフチに、何かが書かれていることに気付いて、素手で可能な限り土を取り除いてみたら、辛うじて「水」と「昭」の文字が読み取れました。この井戸の開鑿日でしょうか、これは移植コテを持って、再訪せねばならない気がしていますが、未だ実現していません(宿題)。




同じカテゴリー(んなま to んきゃーん)の記事

上の画像に書かれている文字を入力して下さい
 
<ご注意>
書き込まれた内容は公開され、ブログの持ち主だけが削除できます。