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2016年10月18日

第105回 「鍛錬‐慶徳健 揮毫碑‐」

第105回 「鍛錬‐慶徳健 揮毫碑‐」

県立宮古高校の体育館の裏手、武道場の脇に岩にプレートをはめ込んだ石碑が建立されています。タイトルは「鍛錬」。揮毫をしたのは福島県会津(喜多方?)出身の慶徳健という、宮古中学(後の宮古高校)に在籍していた先生です。
なぜこのような碑がこの場所にあるのか、そのヒントは岩にはめ込まれたもう一枚のプレートに刻まれていました。
第105回 「鍛錬‐慶徳健 揮毫碑‐」

慶徳健先生 福島県出身
赴任 昭和7年9月 離任 昭和14年3月

剣道部のあゆみ

昭和12年1月 全沖縄大会 優勝
昭和12年8月 全国大会 出場
昭和13年8月 全国体か 出場
昭和50年8月 九州 全国大会 女子個人 出場

昭和50年10月25日建立
随分と荒削りな情報ですが、碑のあらましが見えてきましたので、少し探ってみると、2011年に発行された宮古高校同窓会組織「南秀同窓会」のリーフレット「橄欖」(がんらん:オリーブの意味で、校章のにちなんでいる)に、建立時の話を見つけました。
碑が建立された1975(昭和50)年にインターハイ県予選で、剣道女子団体優勝、個人二選手が全国大会出場を果たしました。この快挙を契機に宮古中学時代にも剣道部が県大会に優勝し、全国大会へと出場した記録も呼び起こされ、新装された武道場の完成記念碑として、世代を超えた剣道部の栄誉を記したようです。
この時、かつての宮古中学剣道部を指導し、全国大会へと導いた慶徳が「鍛錬」の文字を揮毫し、記念碑建立の除幕式当日にも福島から出席しています。

簡単に云い換えてしまえば、沖縄の離島の学校の剣道部が、全国大会に出場した快挙を讃えた記念碑と云えます。恐らくこの剣道部の躍進は宮高で初めての全国大会出場だったのではないでしょうか。
余談になりますが、宮古高校が全国シーンに登場した例とえば、やはりJリーガーも排出しているサッカー部ではないでしょうか。2001(平成13)年の第79回全国高等学校サッカー選手権大会に初出場し、2012(平成24)年の第91回にも出場しています(野球とラグビーは県大会の決勝までは進んだことがあります)。

以上っと、〆てしまうしまいそうになりましたが、ここで終わらないのが「ん to ん」。いいえ、終われないのが「ん to ん」です。
その理由は、慶徳の任期です。
石碑には1932(昭和7)年9月から1939(昭和14)年3月まで在籍していたとあります。
これは篠原鳳作(本名は国堅)が在籍していた期間、1931(昭和6)年4月から1934(昭和9)年9月と大きくかぶるということなのです。
篠原鳳作は云わずと知れた無季俳句の雄で、宮古島に俳句の種を蒔き、今も多くのファンがいる夭折の俳人。奇しくも今年2016年は生誕110年目でもあります。

第105回 「鍛錬‐慶徳健 揮毫碑‐」「篠原鳳作の周辺」(1981年)という鳳作を偲んで関係者の随筆を集めた稀覯本に、慶徳は篠原鳳作の思い出を綴っています。
慶徳と鳳作が宮古中学の同僚、教師として肩を並べていたのは、およそ2年ほどですが、先輩の鳳作が後から赴任してきた後輩の慶徳を、なにかと気に留めていたようなのです。
慶徳は最初は学校が紹介した、一心館(窓辺の下まで波が寄せていたらしい)という旅館の一室を下宿としていたようです。鳳作はその一心館の隣にある、同郷の鹿児島県人が経営する旅館「日の丸旅館」を下宿にしていて、鳳作の口利きで慶徳は下宿を一心館から移ったようで、ふたりは宿も一緒、職場の学校も一緒と、四六時中一緒にいたようです(下校時は慶徳は剣道部の指導があったようですが…)。
尚、日の丸旅館は現在のホテル共和の本館で、この後、博愛記念碑60周年式典でトラウツ博士が宿泊します(1935年)。また、隣のホテル共和新館は、ネフスキーが宿泊した嘉手納旅館とのこと(1922年、26年、28年と3度、来宮している)。一心館が日の丸旅館の隣りならば、嘉手納旅館なのではないかという想像も膨らみますが、現状では資料が少な過ぎてなんとも云えません(もっと古い宮古の地図が欲しいところです)。

蛇足が長くなっていますが、慶徳の思い出話の中に、下宿先に中学生がいたと記述があり、「ルンペン晩餐圖」の平良雅景少年かと期待してしまいましたが、今は(出版された1981年当時)学校の先生をしているとあるので、残念ながら雅景少年ではないようです。
慶徳の思い出話の中に出てくる鳳作は、鹿児島訛りの神経質な熱血教師でもあったようです。学校に絵画ブームを巻き起こしたり、応援歌を作ったりと、人気も高く生徒に慕われる教師だったようです。また、慶徳とともに宮古馬で遠乗りにでいたり、下宿の近くの丘で鷹取り(サシバ)をしている子供たちを眺めに行ったり、ポー崎に咲く龍舌蘭を見ながら散策したり、港の外れにある鰹節工場に見学に訪れたりと、当時の平良の様相がよく判りる記述が興味深いです。中でも酒をあまり嗜まない鳳作は、かなりの甘党らしく、学校の帰りに山小百貨店でよく菓子を買って帰っていたという。しかも、胃腸が弱い鳳作は胃薬片手に菓子を食べていたそうです。

鳳作が島を去った後の1935(昭和11)年には、博愛記念碑60周年祭が大々的に催されます。慶徳は宮古中の教諭として、祝賀広告にも名前を連ねていました。ここでちょっと面白いのは、この60周年祭に創設したばかりの宮高女が参加し、ダンスを披露します(詳しくは、宮古島最古の映像に関する一考察)。この指導にあたったのが、大日本体育会体操学校を卒業した宮古出身者の砂川玄隆で、宮高女創設にあたり福島から呼び寄せられたというのです。このふたりに邂逅があったかのかどうかなどはまったく判りませんが、南国の小さな島のグラウンドで、シンクロする福島というキーワードとかなんとも興味深いです(といっても福島県は版図が大きいので一概にはいえません。福島な余談ついでに語っておくと、初代伊良部村長の国仲寛徒の長男は、昭和8年頃、郡山市内の学校で先生をしていたことが判明しています)。

慶徳のプロフィールについては、詳細に調べあげることはできませんでしたが、福島教育年報によると教育年報1964(昭和39)年に梁川高校で、1970年代に須賀川高校で校長を勤めていたようです。
また、「篠原鳳作の周辺」が書かれた1981年当時には、喜多方市花園に居住されていたようです(市内には慶徳という地名が存在します)。本人による記述には、出身地についての詳細は書かれてないものの、会津の出身であることは語られていました。

遠く福島出身の一教師を追うのに、ネットだけではなかなかに無理があります。けれど、物語に交錯する人たちや学校や市井の様子など、面白いエピソードを垣間見ることができた石碑探訪となりました。

【関連】
第4回 「宮古研究之先駆者 ニコライ・A・ネフスキー之碑」
第71回 「しんしんと肺碧きまで海の旅」
鳳の作りしもの~鳳作忌に知る肺碧き俳人の物語(.あんちーかんちー 2009年09月15日)
第72回 「風に乗る ほかなし島の はぐれ鷹」(平良雅景)
第84回 「国仲寛徒頌徳碑」
第94回 「沖縄県立宮古高等女学校・宮古女子高等学校跡地之碑」




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この記事へのコメント
慶徳 健氏の履歴も興味深いものがありますね。
彼の国仲寛徒の長男と同じ大学の卒業の様です。
ところで、宮古中学校赴任当初は“慶徳”姓、それとも旧姓でしたでしょうか?
宮古の史料で確認出来たら良いのですが。
Posted by さぬき at 2016年11月03日 23:41
さぬきさま

お返事が遅くなってごめんなさい。

慶徳健については調べ切れておらず、見切り発車で書いてしまったので、国仲寛徒の長男と同じ大学であるとか、旧姓の話とか、まったく存じ上げていませんでした。
よろしければ少しご教示いただければ幸いです。
Posted by atalasatalas at 2016年11月18日 09:13
祖父の慶徳健が宮古島で剣道を教えていたという話を母から聞いて色々検索していたらこのブログにたどり着きました。私の母が慶徳健の娘で、私も祖父の影響で子供の頃は剣道をやっていました。
宮古島にこんな立派な石碑があるということを恥ずかしながら知りませんでした。
母は祖父が校長をしていた梁川高校に通っていたのですが、母が国語の教科書に篠原鳳作の俳句が載っていると言ったところ「あの篠原さんの句か!」と驚いていたそうです。

孫の私も知らない祖父の足跡を知れてとても驚いて喜んでいます。ありがとうございます。
Posted by 孫の一人です at 2017年08月14日 20:57
孫の一人ですサン。
コメントありがとうございました。

慶徳健さんが残してくれた篠原鳳作のことは、とても新鮮でした。
しかし、慶徳健さんご自身のことは資料がなく、宮古の関わりも含めよく判りませんでした。よろしければ、どの様な方だったかなど教えていただけたら嬉しいです。
Posted by atalasatalas at 2017年08月18日 09:20
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