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2016年03月01日

第72回 「風に乗る ほかなし島の はぐれ鷹」

第72回 「風に乗る ほかなし島の はぐれ鷹」

前回までの「んなま to んきゃーん」のあらすじ。友利集落から連想ゲーム風に、次々と石碑をたどって、カママ嶺の丘の上にある篠原鳳作の句碑までやって来ました。さすがに連想を重ねるにはちょっとネタが厳しくなってきましたが、鳳作の句碑を探訪した際に新たなつながりを発見しましたので、今回は“それ”を紹介してみたいと思います。
第72回 「風に乗る ほかなし島の はぐれ鷹」
例によって、またもや句碑です。
鳳作の石碑のそばに、小ぶりの碑が建立されています。
碑に記されている俳句は、

「風に乗る ほかなし島の はぐれ鷹」

詠んだ方は平良雅景(たいらがけい)といいます。
碑の裏側に掲げられている説明板がこちら。
平良雅景(本名 平良賀計 俳人・医師)
平良西里出身 那覇天久在
医療法人天仁会天久台病院会長

一九二二(大正十一)年十二月十日生
一九七二(昭和四七)年「篠原鳳作句碑」建立
二〇〇三(平成十五)年 沖縄現代俳句協会長
               「沖縄忌」全国俳句大会実行委員長(二〇〇八年まで)
二〇〇五(平成十七)年 句集「はぐれ鷹」上梓
二〇〇六(平成十八)年 第十回平良好児賞

凧一点島一村の空拡げ
炎天の貨車に四肢張る売られ牛
春の旅妻と角砂糖沈め合う

二〇〇九年十一月二十日
平良雅景句碑建立実行委員会
もう、説明板の時点で出落ち気味ですが、続けます。
そうなのです。平良雅景は1972年に鳳作の句碑の建立に尽力した方だったのです。つまるところ、句碑建立を記した句碑という入れ子状態になっているのがちょっと面白くて取り上げたのでした。

雅景の句に対する評価や解説では、時に鳳作の教え子と書かれていることが多いのですが、鳳作が来島したのは1931(昭和6)年からの3年半であり、雅景は1922(大正11)年の生まれなので、鳳作の来島時は9歳ですから、まだ高校(旧制中学)には通うことはできません。
けれど、雅景のことを調べていたら、いままで知らなかった鳳作のことも一緒に見えて来ました(といっても大げさなものではなく、鳳作の研究者であれば知りえる程度のことですが、興味を持った素人にとっては驚嘆な情報でした)。

「篠原鳳作の周辺」(1981/昭和56年刊行)に、連作「ルンペン晩餐圖」について雅景が語る、鳳作の見た風景のエピソードがあります。
漲水御獄に住み着いているふたりのルンペンは、昼間から酒を呑み口論したり、酔いが醒めるとふらふらとどこかに消えてしまうといった、鳳作が知る世界では見たことのなかった人たちで、鳳作はビスケットやトマトなどをよく恵んでいたという。この人たちについて「犬捕り(野犬狩人)」と説明していますが、間違いなく宮古口で云うところの「インクルシャー」だと思われます。
文中とはいえ犬食文化が禁忌に含まれるようになった時代に、「インクルシャー」のことがリアルに表現されていて、とても興味をそそられました。

また、鳳作の下宿はこの漲水御獄の近所であったといいます(雅景少年は西里出身とのことなので、この地域に住んでいたのだろうか?)。この界隈といえば、トラウツ博士の日の丸旅館(現・ホテル共和本館)、ネフスキーの嘉手納旅館(現・ホテル共和新館)など、漲水港のそばという立地から宿屋が多い地域(今でもその名残をとどめたホテルや旅館が点在してる)で、下宿などもあったようです(手前味噌の話ですが、自分が宮古に住まう直前、ひと月ほど博愛記念碑の坂の下にある美島旅館の一室に住んでました)。

もうひとつ目を引いたのは鳳作の死因についてです。秀子との結婚を決めた鳳作は、宮古から故郷の鹿児島へと戻るも、わずか一年足らずで亡くなってしまいます。大方は心臓発作と記されていますが、どうも本当の死因は違うらしいというミステリーやサスペンスのような展開に、記事を読む速度が加速します。

亡くなる少し前から鳳作に訪れる死の予兆がありました。そこへいつくかのキーワードが踊るも、否定する妻・秀子。真実の死因は今もって謎ではあるけれど、非常に興味深く読ませていただきました。ここにそれを書いてしまうのは簡単だけど、それではリスペクトに劣るので、ご興味のある方はぜひとも記事をご一読されることを推奨します。

ルンペン晩餐圖 篠原鳳作句集 昭和一〇(一九三五)年四月
鳳作の死因の謎 篠原鳳作句集 昭和一〇(一九三五)年八月

話を雅景へと戻しましょう。1944年に台北帝大医学専門部を卒業し、慶応大学医学部神経科教室を経て、那覇に天久台病院を設立。雅景は医師として大きく飛躍します。
そんな雅景ですが、碑に記された句では、宮古から遠く那覇へと居を移した自分を、島に渡って来るサシバの姿になぞらえて「はぐれ鷹」と呼び、ふる里への愛着と孤独感を詠んでいます。
2009年に建立され句碑の除幕式に出席された雅景は86歳。写真を拝見する限りお元気なご様子でしたが、2013年6月に亡くなられている。と、思われます。歯切れが悪いのは、どんなにネットを駆使して検索をしても、亡くなっているという確定的な情報が出てこないからです。ただひとつ、沖縄県知事の知事交際費に香典代が計上されている例、ただひとつを除いて。
鳳作の死の謎になぞらえたような雰囲気を醸しているところが、どことなく雅景らしさを感じるのでこれ以上の詮索はしないでおこうと思います(それに、存命だったら大変失礼なので…)。

【参考資料】
「風に乗るほかなし島のはぐれ鷹」
カママ嶺公園で俳人平良雅景さんの句碑除幕 2009/11/21 新報
Blog鬼火~日々の迷走 タグ:篠原鳳作(やぶちゃん)
篠原鳳作全句集(pdf)

【トナリの石碑】
第2回 「ドイツ皇帝博愛記念碑 レプリカ」
第70回 「とうがにあやぐ 歌碑」
第71回 「しんしんと肺碧きまで海の旅」




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この記事へのコメント
篠原鳳作についての貴ブログ、興味深く拝読致しました。
当時、旧制中学校の修業年限は5年制と考えられますので、12歳で小学校を卒業後の進学となります。弟子という可能性は あるかと思います。
ちなみに、国仲寛水 氏(国仲寛徒の孫?)も薫陶を受けた一人で、平良雅景 氏の一学年上級でしょうか。
また、当時 篠原鳳作 氏の令兄・国彬 氏が歯科医院を営まれていたそうで、同居されていたと考えられます。
(天久台病院が一つのキーワードでしょうか。)
Posted by さぬき at 2016年07月06日 01:39
追伸。
前文、国仲寛水 氏を国仲穂水 氏に訂正致します。
大変失礼致しました。
Posted by さぬき at 2016年07月06日 01:52
さぬきさま
コメントありがとうございます。
興味深い考察をありがとうござます。

後で気づいたのですが、先日とりあげた宮国泰誠氏が、台北帝大医学専門部を卒業していて、年齢差があるので、同時期ではありませんが平良雅景の先輩筋にあたること知り、改めてさまざまなつながりを、きっちり相関図にしてゆかないと、紐解くのはなかなか難しい(けど、それが面白い)と思いました。
http://atalas.ti-da.net/e8793210.html
今後ともよろしくお願いいたします。
Posted by atalasatalas at 2016年07月12日 12:59
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