2018年11月16日
第7回 「下川凹天の弟子 森比呂志の巻 その5」

平成も終わりだというのに、明治、大正、昭和にハマっています。宮国です。
今回は、昭和初期の漫画物語に移ります。
凹天や、新しい世代にとって、1926年8月月の「日本漫畫家聯盟」や1932年5月の「新漫畫派集団」が発足したことは、自分たちの漫画を世の中に広めるうえで、大きな前進だったのだと思います。宮古では、1927年2月に慶世村恒任(きよむら・こうにん)が宮古初の歴史書といわれる『宮古史傳(宮古史伝)』を世に出した時期でした。
凹天の高弟のひとり、森比呂志(もり ひろし)の記述を中心に追いながら、漫画家たちの人間関係やグループでの活動を見ていきます。自由闊達な「日本漫畫家聯盟」(1926年)から、戦争加担への「日本漫畫報公會」(1943年)までのほぼ15年間。この時期は、「MANGA」と呼ばれ、今や世界共通語になっている「漫画」が、日本で独自の変化を遂げていく萌芽を感じさせます。
さて、まずは宮古出身の私としては、慶世村恒任の出た『宮古史傳(宮古史伝)』1927年に焦点を当ててみたいと思います。その年は、昭和金融恐慌に翻弄されていました。第一次世界大戦中の好景気から、一転して1920年の戦後不況、1923年の関東大震災のダメージが抜けきれないままでした。震災手形が膨大な不良債権化していたためともいわれています。
それでも、世の中は、モガ・モボやマルクスボーイが闊歩し、わりと自由でした。勿論、その後に比べればの話ですが・・・。「円本」と呼ばれる一冊1円の全巻予約制、月一冊配本の『現代日本文学全集』が始まった頃でもありました。これが空前の大ブーム。また、奇しくも芥川龍之介(あくたがわ りゅうのすけ)が何度も自殺未遂を繰り返した末、最期に睡眠薬自殺をした年でもありました。
ところで、この年に生まれた人たちは、どうだったのでしょう。実は、戦後日本のオピニオンリーダーのような人たちでした。例えば、『苦海浄土(くがいじょうど)』の石牟礼道子(いしむれ みちこ)、「ねむの木」で有名な宮城まり子(みやぎ まりこ)、セゾングループの堤清二(つつみ せいじ)、国連難民高等弁務官を務めた緒方貞子(おがた さだこ)、時代小説の藤沢周平(ふじさわ しゅうへい)という面々です。少し古いけど、1971年の昭和生まれの私には馴染み深い名前ばかりです。
そして、上海では蒋介石(しょう かいせき)が反共クーデター(四・一二事件)を起こした年。他方で、初の女性博士として保井コノに(やすい この)理学博士号が与えられるという記念すべき年でもありました。
他にも、日本ビクターが設立され、寛永寺の除夜の鐘が、初めてラジオ中継放送されました。混乱といえども、新しい幕開けのような年でもあったのです。
こんにちは、一番座より片岡慎泰です。漫画家たちがこうして巻き込まれていくなかで、我らが凹天は「ただひたすらに生きのびた」ともいえるでしょう。時代の寵児だった凹天が、国家にすり寄っていった様子がうかがえます。漫画を描きながら飯を食うためには、ほかに方法がなかったようです。
森比呂志が、北澤楽天(きたざわ らくてん)のクロッキー教室や、凹天の「彗星会(すいせいかい)」で腕を磨き始めたのには、徴兵検査で丙種不合格になったことも影響したとも考えられます。それは子どもの頃に中耳炎になり、軽い難聴になったためでした。
この頃、岡本一平(おかもと いっぺい)が音頭をとり、凹天や麻生豊(あそう ゆたか)、宍戸左行(ししど さこう)、在田稠(ありた しげし)、柳瀬正夢(やなせ まさむ)を発起人として、「日本漫畫家聯盟」が発足(1926年)。すぐに、森比呂志はここに所属。師匠の凹天は、組織部委員長を務めました。組織部委員には、小野佐世男(おの させお)、教育部委員長には、柳瀬正夢(やなせ まさむ)。教育部委員には、須山計一(すやま けいいち)。また、村山和義(むらやま ともよし 1901年~1977年)、まつやまふみおこと松山文雄(まつやま ふみお)など多士済々のメンバーが集まりました。凹天は、1927年1月号『ユウモア』で「夢の宮古島よ! 可愛い/\日本漫畫家聯盟よ!」と記しています。
【銀座松屋】
翌年、日本漫畫家聯盟にとって最初の催しが、開かれました。催しはふたつ。ひとつは、銀座の松屋で漫画の展覧会。もうひとつは、讀賣講堂での演劇。長谷川如是閑(はせがわ にょぜかん)の劇作『馬鹿殿評定』(1925年)。ここで、我らが凹天も登場。紙をもってセリフを読み上げるだけでしたが・・・。
日本漫畫家聯盟は、いくつか催しをしますが、プロレタリア漫画に流れる漫画家が増え、すぐに、ほとんど組織としての活動停止。最終的には「日本漫畫奉公會」(1942年) の成立とともに自然消滅。
もうひとつ、忘れてならないのは「一平塾」の存在です。これは、宮尾しげを(みやお しげお)が一平の弟子第1号となり、『東京毎夕新聞』に『団子串助漫遊記』などを連載し、人気が出た頃から始まります。宮尾しげをが脚光を浴びてくると、自然と一平の周りに人が集まり始め、一時は60名を超えた親睦団体でした。一平塾は成立期も消滅期もはっきりしないのですが、清水勲、湯本豪著『漫画と小説のはざまで 現代漫画の父・岡本一平』(文藝春秋、1994年)によると、1928年成立。
親睦団体とはいえ、ここには、後に漫画界の重鎮となる近藤日出造(こんどう ひでぞう)、横山隆一(よこやま りゅういち)、杉浦幸雄(すぎうら ゆきお)、清水昆(しみず こん)などがいました。
近藤日出造は、教育県といわれる長野県出身ならではの非常に実直な性格で、岡本一平の信頼を得て、『一平全集』(先進社、1929年~1930年)全15巻の刊行を任されるほどでした。そこで、一平の手法を学び、漫画の腕を磨きます。似顔絵の名手といわれ、戦後は、政治風刺漫画の第一人者に。戦後の1964年に「日本漫画家協会」が発足すると、初代理事長を務めます。横山隆一は、ナンセンス漫画の名手といわれ、早くから頭角を現し、「フクちゃん」というキャラクターを生み出します。杉浦幸雄は、東京美術学校の出身。いわゆる「江戸っ子」の典型のような人物でした。周りから鼻持ちならない奴と思われ、数々の衝突を起こしますが、後に反省。幸雄は、ユーモアかつエロマンガの申し子でした。森比呂志によれば、女を描かせたら、小野佐世男(おの させお)と双璧だとのこと。
【「近藤日出造の世界」(峯島正行 1984年)と、「杉浦幸雄のまんが本交遊録」(1978年)】
さて、話は前後しますが、時代は新しい波を迎えることになります。
1932年、当時ほぼ無名とはいえ、新進気鋭の新しい漫画家集団が誕生しました。名前は「新漫畫派集団」。
結成時は、杉浦幸雄著『杉浦幸雄のまんが交遊録』(社団法人家の光、1977年)によれば、1932年5月末、峯島正行著『近藤日出造の世界』(青蛙房、1984年)によれば6月下旬とのこと。杉浦幸雄の家があった本郷菊坂で、近藤日出造や横山隆一などが集合。団体を芸術団体、商業団体、親睦団体にするか、そして団体名を何にするかで大激論。そして、この時、凹天の弟子だった黒沢はじめ(くろさわ はじめ)が、表の顔は商業団体、裏の顔は芸術団体ということで、場を収めます。後に、森比呂志と並び凹天の高弟だった石川進介(いしかわ しんすけ)も加わりました。
【「モガ・オン・パレード 小野佐世男とその時代」(2012年)】小野佐世男を入れる動きもありましたが、最年少とはいえ、「日本漫畫家聯盟」の会員だったので「小野を新漫画派集団に誘いたがったが、敷居が高かった。小野も、ぼくら新しいマンガ家たちの動きに惹(ひ)かれていたようだったが」と後に横山隆一が回顧(かいこ)しています。小野佐世男は、東京美術学校在学中から『東京パック』(第四次)に風刺漫画が載り、マンガ会に麒麟児(きりんじ)現る、と騒がれたほどの逸材でした。その後も、宇野千代(うの ちよ)が創刊した『スタイル』(1936年)の常連寄稿家となり、女性風俗を描き、東郷青児(とうごう せいじ)や北原武夫(きたはら たけお)などと親交。この関係は、その後、陸軍に徴用されてからも、続きます。
同年には、北澤楽天門下生が集まり「三光漫畫スタヂオ」も結成されています。メンバーに、松下井知夫(まつした いちお)、西塔子朗(さいとう しろう)、小川哲男(おがわ てつお)、井崎一夫(いざき かずお)、根本進(ねもと すすむ)、志村つね平(しむら つねへい)、大野鯛三(おおの たいぞう)など。
これには、時代背景も合わせて考える必要があります。ひとつは、当時の漫画が、芸術か、生業(なりわい)のためか。東京美術学校出身や東京美術学校を目指した者も多かっただけに、これは表現者にとって大問題。もうひとつは、漫画が個人で描くというより、楽天や岡本一平など、すでに有名になった漫画家の下に集まったグループで、新聞社や雑誌社から仕事を請け負う仕事だったためです。
そこで、漫画で食えるためには、集団を作って、新聞社か雑誌社に所属するしかなかったのです。しかし、そこは、楽天や一平を中心とした「日本漫畫會」、そして凹天や豊を中心とした「日本漫畫家聯盟」など、すでに大御所が押さえていました。そうでなければ、漫画を新聞か雑誌に投稿するか「持ち込み」しかなかったのです。若手の「持ち込み」の辛さは、かの手塚治虫(てづか おさむ)も記録に残しています。このあたりは、良くも悪くも、現在の「日本記者クラブ」を思わせます。
新漫畫派集団が結成された翌年、森比呂志は、麻生豊と近藤日出造に銀座の富士アイスに呼ばれます。そこには新漫畫派集団に入っていない、これまた当時無名だった新進気鋭の漫画家たちが。そこで、ふたりから、新漫畫派集団に負けないよう、プロとしてスタートすることを進められます。凹天や宍戸左行も後押しするからとのお墨付き。
森比呂志たちは「新鋭マンガグループ」という名の団体を作ります。創設期のメンバーは、村山しげる(むらやま しげる)、秋好馨(あきよし かおる)、杉征夫(すぎ まさお)、森熊猛(もりくま たけし)、南義郎(みなみ よしろう)、秋玲二(あき れいじ)、小泉四郎ないし紫郎(こいずみ しろう)など。
すぐに、森比呂志は頭角を現し、また人脈もあって1935年に創刊した文藝春秋社『オール讀物號』漫画賞を受賞。
新鋭マンガグループは、当時の銀座八丁目にあった九州ビルの三階に事務所をもちます。森比呂志は川崎から通勤。しかし、約2年でビルは焼失し、服部時計店の近くにある並木ビルに移動。そこで森比呂志は、喫茶店のマダムと恋に浸ったりします。
その後、森比呂志は、森永キャラメルの内箱に昆虫漫画を描くことに。岡本一平が監修で、昆虫学者の石井悌(いしい てい)と佐々木邦(ささき くに)が顧問でした。メンバーには、近藤日出造、清水昆、横山隆一、杉浦幸雄、秋好馨など。
グループに分かれたとはいえ、若手漫画家の離散集合が繰り返され、また当時、岡本一平の力が絶大だったことがうかがえます。
森比呂志は、昆虫漫画を描いた仲間たちと飲みに行き、最後に清水昆とふたりになったところで、遊郭へ。比呂志の方が美人の芸妓(げいぎ)にあたったと思ったら、淋病をもらうはめに。ちょうどその直前に、ピアニストと一夜の契りを結んだばかりでした。そこのことをピアニストに打ち明けらずにいると、相手から「貞操だけ頂いたら、あとは寄りつかないなんて絶交だわ」。すでに、森比呂志は、親にピアニストとの仲は打ち明けていたらしく、父親は当時の国分寺に新居まで建てていたと記しています。比呂志にとって公私とも暗い時代だったようです。「恋や仕事どころでない。三年苦しんだ」。そして、女性遍歴にもピリオドを打つことに。軍事色はますます色濃くなり、はやっていたのは岡本一平作詩の「とんとんとんからりと隣組」。
【とんとんとんからりんと隣組】
1940年に、秋田本庄の綿屋出身で、身寄りが亡くなり東京に出てきた千恵子と結婚。それは、奇しくも森比呂志の師匠であった凹天が、二度目の妻なみをと一緒に暮らし始めたのと同時期でした。比呂志の妻千恵子は、初夜に森比呂志を「指も細く、女の人のような手」といいます。これには、石工職人だった森比呂志もびっくり。確かに、森比呂志は白魚のような手の持ち主だったようです。と同時に、当時の田舎暮らしの辛さが伝わってきます。実際に、自宅の防空壕掘りとかはすべて、千恵子が行っていました。
翌1941年には、娘のやす子誕生。しかし、同年12月8日に、妻の千恵子が脳溢血で倒れ帰らぬ人に。森比呂志は「朝のラジオは真珠湾攻撃のニュースを流していた。号外が鈴の音もけたたましく日米開戦の報を叫びながら巷を走っていた。人々は、とうとうくるものがきた、と緊張した。そうして私の家にも衝撃的なことが起こったのである。妻が他界したのだ」と記しています。
軍国主義は漫画界にも強い影響を及ぼしました。大衆とともに時流を享受していた時代は、あっという間に過ぎ去ります。画材も自由に手に入らない状況に危機感をもった「三光スタヂオ」代表の松下井知夫と西塔子朗、「新鋭マンガグループ」の南義郎と杉征夫が、1940年に銀座三丁目のオリエントで「新漫畫派集団」に乗り込む算段をします。彼らの不安は、軍部にとって大衆宣伝の道具としての漫画は強力で、そうすると一番目立つ「新漫畫派集団」一本に統制されてしまうのではないか。ひいては自分たちだけでなく新進の「漫畫突撃隊」、「国防漫畫隊」まで、排除されてしまうのではという危惧でした。その後、「新漫畫派集団」の事務所に入ります。すると、「集団側から近藤、杉浦の両君が気軽に話の聞き役になり、あとの連中は皆机に向って熱心に仕事をしている事務所内のムードが、私たちには不安な印象だったことが今でも思い出される」と松井井知夫は述懐しています。
こうして誕生したのが「新漫畫家協會」。これが戦後の1964年に設立された「日本漫画家協会」の母体となるのです。
1943年には「日本漫畫報公曾」が結成。会長は北澤楽天。顧問に岡本一平。副会長は田中比佐良(たなか ひさら)。理事長に麻生豊(あそう ゆたか)。凹天もその一員。プロの漫画家になったのが遅かった森比呂志にとって、それは突如として明治大正期の漫画家が続々とリターンしてきたような気がしたのではないでしょうか。実際、凹天や北山清太郎(きたやま せいたろう)と並び、日本の商業アニメーターの草分けである幸内純一(こううち じゅんいち)とも、初めて出会います。森比呂志は、幸内純一と大阪周辺にあった貝塚市の大日本紡績(現・ユニチカ)工場に慰問。一緒に軍事徴用された人びとの似顔絵を描きながら、森比呂志は幸内純一の作品を横目でみて、「その素描性、芸術性に、息をのんだ」「私の筆を持つ手はわなわなとふるえた」。
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他方で、「日本漫畫報公會」の長老支配に反発したグループは、近藤日出造を中心として、「大東亜漫畫研究所」や「報道漫畫研究會」を作ります。
そのような戦時下の1944年6月、森比呂志は美容誌の仕事で銀座の並木通りに出かけますそこで出会った美容師の美代子と再婚。結婚式当日に、森比呂志は軍事教練があり、身体はキズだらけ。徴兵令で不合格になった民間人にも、軍事訓練をさせる非常事態の時代でした。帰宅した時には、すでに花嫁の輿入れが始まっていました。森比呂志は、すぐに国民服に着替えたものの、身体はへとへとで目はくぼんだまま。仕出し屋の弁当も貧しいもの。それでも、娘のやす子は「お嫁ちゃんがくるのよ」とはしゃいでいました。
以上、一番座より、片岡がお届けしました。
ですが、特別なことではなかったことが、同時代の漫画家たちの動向からわかります。あの大御所の北澤楽天や岡本一平も戦争協力的なことをする立場だったからです。だからこそ、その頃の漫画家たちの石碑はまとめられて建てられているのでしょう。ありがたいことに、その場所を今の私たちは、訪ねることができます。川崎市中原区にある川崎市民ミュージアムそばの常樂寺、別名「まんが寺」です。楽天と一平の絵入りの石碑が一番大きく建てられています。
【 川崎市中原区にある、まんが寺こと常樂寺の境内にある、「楽天と一平」の石碑】
常樂寺は、もともと戦争のための塹壕掘りなど、兵隊や民間徴用の人々がいました。その人々の似顔絵を描くために「日本漫畫報公曾」の面々が集まったのでした。そのためまんが寺と呼ばれるようになったのです。
(編集注:常樂寺の資料によると、戦後の1967年におこなわれた本堂の解体修復工事の際、当時、漫画好きだった土岐秀宥住職と交流の深かった漫画家たちが自分の描いた作品を持参したそうです。400人を超える漫画家から2000点以上の作品が集り、これに喜んだ住職が「まんが寺」という愛称を付けたとも解説されています)
さて、この頃の宮古はどうだったのでしょう。冒頭でふれた慶世村恒任(きよむら・こうにん)が、「宮古の人は、人のやる事は皆嫌いなんだ!」と『宮古史傳(宮古史伝)』に書き著した時代でした(1927年)。そして1931年に、沖縄県立宮古中学校に公民と英語の教師として赴任するも、宮中に絵画ブーム(任期中に美術教科も兼任する)を巻き起こした篠原鳳作が東京帝國大學法学部卒を卒業した頃(1929年)でもあります。
(編集注:1928年に沖縄県立第二中学校分校として設置。翌年、沖縄県立第二中学校宮古分校となる。いずれも当時は男子校であった。第94回「沖縄県立宮古高等女学校・宮古女子高等学校跡地之碑」、 第105回「鍛錬‐慶徳健 揮毫碑‐」)
1929年は、あのウリミバエが宮古に上陸し猛威をふるいました。島民は戦後も苦しめられ、やっと根絶できたのは1987年のことでした。宮古はまだ昭和のうちでしたが、八重山では、平成が5年も過ぎた1993年まで根絶できないほどの厄介さでした。
(編集注:ウリミバエは瓜類につく実蝿のこと。ミカンコミバエとともに、世界的な悪名の高い害虫。農産物に被害が及ぶだけでなく、島外への出荷が出来な無くなることから、ミバエの発生は死活問題となり、根絶駆除へ尽力します)
東京のモボ・モガから、島は遠く離れていましたが、数年のうちに宮古にも文化の風が吹いたのです。篠原鳳作のような秀才らが教職として宮古を訪れ、さまざまな化学変化を島に起しました。
篠原鳳作が島で過ごした日々はわずか3年半でしたが、島を去ったその3年後(1934年)、「しんしんと肺碧きまで海のたび」と、島につながる広大な海原を行く船旅の様子を無季俳句に詠み、今もカママ嶺公園に石碑が建てられています(1972年建立)。
それも郷里、鹿児島の長崎鼻に向いているのです。

【カママ嶺公園(平良)にある篠原鳳作の句碑。すぐそばには鳳作の句碑建立に尽力した平良雅景の句碑も】
さて、当時は本土の人が宮古にどれくらいいたのでしょうか?。はっきりとした数字は残っていませんが、教員、警官のような公務員が主だったようです。もちろん観光客ではなく「寄留商人」と呼ばれる島で新たに商売する人たちがいました。彼らも島外から文化を伝えた立役者かもしれません。
しかし、島に新たな文化が花開いたのもつかの間、どんどんと日本の世相を反映したように、島も戦争に向かっていきます。中村十作らが尽力し、1903年に廃止された人頭税から30年後、教員として島を訪れた篠原鳳作は、1936年に30歳で夭折するため、こんな島の姿を見ることはありませんでした。
1941年に太平洋戦争が始まると、本土から3万人の兵隊が駐留します。当時の島の人口の半分にあたる数でした。そして1943年には、旧七原集落が海軍飛行場(現在の宮古空港)の建設のために、軍に強制接収されます(七原の霊石)。
島の人はどのような心持ちで、本土の人を眺めていたのでしょうか?私事になりますが、1887年生まれのピーツキ(ハジチ:トライバルタトゥ)を入れた曾祖母は本土の人のことを「やまとぅ(大和)」と呼んでいました。昨今の多少、侮蔑的な「ないちゃー」ではありませんでした。
(編集注:「南島針突(ハジチ)紀行」には、宮国の祖母のハジチ(宮古ではピーツキ)が取材され収録されています)
【動画 南島残照 女たちの針突(ハジチ)~沖縄・宮古諸島のイレズミ~】
この時代、曾祖母はいわゆる中年の域です。今の私といくつも変わりません。曾祖母から4代目の私は、ピーツキもないのですが、未だ目に焼き付いています。
私が島に住んでいる時は、本土の人はいっしょくたに見えていました。ですが、島を出てからはひとりひとりを見るようになりました。実は、本土の人にもローカリズムが非常に強くあります。東京といえども、世田谷には世田谷のローカルルールがあり、銀座には銀座、八王子には八王子、と意外と細かく別れています。しばらく話すと、どれも標準語ではないことがわかるようになりました。
当時の宮古の人は、日本人を十把一絡げに考えてたのでしょうか?。私は、そうは思えません。宮古島には戦後一年たってから、ようやく復員船が入港します。兵隊たちはやっと本土へ帰ることができたのです。それまで戦後の焼け野原のなかで、兵隊も一般市民もなくともに島で生きていたようです。島の人は、彼らひとりひとりの「ひととなり」を見極めていたにちがいありません。
上州人だとか、奥州人だとか、日本全国から集められ南の島にやって来た兵隊たち。当たり前ですが、誰もがそれぞれの故郷を持ち、家族がいたはずです。兵隊という肩書を外したやまとぅーの兵隊たちと宮古の人は、改めて人間らしいやり取りがはじまったのかもしれません。などなど、その頃に思いをはせて、ひとり夢想しています。そして、なぜか脳内には佐渡おけさが鳴り響いています。三味線と囃子がちょっと寂しげな。
なんと高千穂(下地字川満)名物の踊りは「佐渡おけさ」。佐渡の人が伝えた正真正銘の佐渡おけさのようです。こうして物事の伝播に必ず人が介し、なぜか宮古という辺縁に残り続けているのは感慨深いという言葉しかありません。
-つづく-
<主な登場人物の簡単な経歴>
森 比呂志(もり ひろし) 1910年~1999年
漫画家。1919年4月25日神奈川県橘樹(たちばな)郡田島村小田(現・川崎市川崎区小田)に生まれ。詳しくは、第3回「下川凹天の弟子 森比呂志の巻 その1」。
慶世村 恒任(きよむら こうにん) 1891年~1929年
大正-昭和時代前期の宮古の郷土史家。代用教員をつとめるかたわら研究し、1927年、宮古初めての通史といわれる「宮古史伝」を刊行した。詳しくは、第1回「宮古研究乃父 慶世村恒任之碑」
芥川 龍之介(あくたがわ りゅうのすけ) 1892年~1927年
小説家。「鼻」「羅生門」「蜘蛛の糸」「芋粥」「藪の中」「地獄変」など。
石牟礼 道子(いしむれ みちこ) 1927年~2018年
小説家、詩人。熊本県天草生まれ。代表作『苦海浄土 わが水俣病』(1969年)。1980年代に、渋谷をパーケジングしたキーパソンのほとり。ナチス協力とされ、第二次世界大戦後に、映画を撮ることを禁止されたレニ・リーフェンシュタール(1902年~2003年)を日本に知らしめた功績者。
宮城 まり子(みやぎ まりこ) 1927年~
歌手・女優・映画監督・福祉事業家。肢体不自由児のための養護施設「ねむの木学園」を設立し、今年で50年を迎える。
堤 清二(つつみ せいじ) 1927年~2013年
実業家、小説家、詩人。筆名は辻井 喬(つじい たかし)。西武の創業者一族。
緒方 貞子(おがた さだこ) 1927年~
国際政治学者。上智大学名誉教授。元国連難民高等弁務官。
藤沢 周平(ふじさわ しゅうへい) 1927年~1997年
時代小説家。1989年に 作家生活全体の功績に対して、第37回菊池寛賞受賞するなど多くの江戸時代の庶民や武士の小説を残した。1995(平成7)年、紫綬褒章受章。
蒋 介石(しょう かいせき) 1887~1975年
1887年、中国・浙江省生まれ。日本留学後、孫文の革命運動に加わり、中国国民党の軍事指導者となるが、共産党との内戦に敗れて49年に台湾に逃れた。
保井 コノ(やすい この) 1880年~1971年
植物学者。日本女性初の理学博士。女性第1号の紫綬褒章。お茶の水女子大学教授。外国の専門誌に載った日本女性初の論文を書いた。
北澤 楽天(きたざわ らくてん) 1876~1955年
漫画家、日本画家。東京市神田区駿河台(現・千代田区駿河台)に生まれ。
近代日本漫画の初期における最重要な漫画家のひとり。下川貞矩(さだのり)は、楽天の最初の弟子で、「凹天」の名付け親。1895年、横浜の週刊英字新聞「ボックス・オブ・キュリオス」社に入社し、欧米漫画の技術を学ぶ。1899年、福沢諭吉が創刊した新聞「時事新報」で漫画記者となる。1905年に、楽天はB4版サイズフルカラーの風刺漫画雑誌『東京パック』(第一次)を創刊。キャプションに、日本語の他に英語および中国語が併記。朝鮮半島や中国大陸、台湾などのアジア各地でも販売された。後進を育て、後年住んでいた大宮市の「楽天居」を大宮市に寄付し、大宮市の名誉市民第1号となる。1966年、大宮市立漫画会館(現・さいたま市立漫画会館)がその場所に設立された。
岡本 一平(おかもと いっぺい) 1886年~1948年
漫画家、作詞家。妻は小説家の岡本かの子。芸術家・岡本太郎の父親。東京美術学校西洋画科に進学。北海道函館区汐見町生まれ。卒業後、帝国劇場で舞台芸術の仕事に携わった後、夏目漱石の強い推薦で、1912年に朝日新聞社に入社。漫画記者となり、「漫画漫文」という独自のスタイルでヒット・メーカーになる。その後、『一平全集』(全15巻・先進社)など大ベストセラーを世に送り出す。漫画家養成の私塾を主宰し、後進を育てた。
麻生 豊(あそう ゆたか) 1898年~1961年
漫画家。現在の大分県宇佐市生まれ。築地工手学校(現・工学院大学)の出身。北澤楽天が主催する「漫画好楽会」を経て、報知新聞社に入社。1922年から『報知新聞』夕刊で四コマ漫画『ノンキナトウサン』を連載する。この作品は、直後に起きた関東大震災や昭和金融恐慌で苦しみにあえいだ庶民のなぐさめとなった。1930年から凹天の主宰する『讀賣新聞』漫画部に所属。『赤ちゃん閣下』を描く。戦後は、銀座にアトリエを構える。晩年は、住まいを浦和市(現・さいたま市)に移し、そこで心不全のため亡くなる。
宍戸 左行(ししど さこう) 1888年~1969年
漫画家。本名は嘉兵衛。現在の福島県伊達郡生まれ。20歳の頃、渡米し洋画を学ぶ。9年ほどいた後、帰国。東京漫畫会に所属。凹天のいた『東京毎夕新聞』や『やまと新聞』、『東京日日新聞』で、政治漫画を描く。1930年から凹天の主宰する『讀賣新聞』漫画部に所属。そこで描いた『スピード・太郎』は、映画的手法を用い、ストーリー漫画の先駆けとなる。その後、凹天の疎開に助力する。現在の東京都世田谷区で、悪性腫瘍のため亡くなる。
柳瀬 正夢(やなせ まさむ) 1900年~1945年
漫画家、画家、デザイナー。本名は正六。現在の愛媛県松山市で生まれる。早熟の天才で、15歳の時、「河と降る光と」が院展に入選。村山知義らとMAVOを結成し、伝法院で展覧会を開く。前衛芸術と同時に、プロレタリア芸術にも目覚め、雑誌『種まく人』に参加。『無産者新聞』に多くの挿絵をペンネームの夏川八朗の名で描く。1930年に、凹天の主宰する『讀賣新聞』漫画部に所属。『金持教育』を連載。1931年日本共産党入党。『赤旗』に挿絵を描く。長谷川如是閑を「中野のおじさん」と呼んで、如是閑からも目をかけられる。1932年に治安維持法違反のため入獄し、拷問を受ける。1945年に新宿駅西口で空襲のため戦災死。
小野 佐世男(おのさせお) 1905年~1954年
漫画家、画家、随筆家、小説家。現在の神奈川県横浜市生まれ。父親の鉄吉が鉄道施設を請け負う建築家で、当時最西端の佐世保駅にちなんで、そう名づけられた。東京美術学校出身。『東京パック』(第四次)、『日曜報知』などに寄稿。陸軍報道班員として、台湾、インドネシアに従軍。エロマンガの分野では、杉浦幸雄と双璧とされる。戦後の1951年には、近藤日出造、清水昆とともに二科展漫画部の創設に関わる。マリリン・モンロー、ジョー・ディマジオ夫妻来日を待機している最中、心臓発作のため有楽町日劇ミュージック・ホール内で倒れ、千代田区駿河台日本大学病院(現・日本大学病院)で亡くなる。
須山 計一(すやま けいいち) 1905年~1975年
漫画家、漫画史家。現在の長野県伊那市に生まれ。東京美術学校出身。『無産者新聞』に漫画を連載。1933年、治安維持法違反で検挙される。戦後は、漫画史研究の第一人者とされ、『漫画100年』(1956年、鱒書房)、『日本漫画100年 西洋ポンチからSFまで』(1968年、芳賀書店)など一連の漫画史研究は、同時代人の知己も多いだけに、漫画研究者の貴重な資料となっている。現在の世田谷区奥沢で脳溢血のため亡くなる。
村山 和義(むらやま ともよし) 1901年~1977年
画家、小説家、デザイナー、ダンサー、建築家。神田区(現・千代田区)生まれ。東京帝国大学を中退後、ベルリン大学(現・フンボルト大学)に学ぶ。柳瀬正夢、尾形亀之助らとMAVO結成。前衛派の旗手となる。また、知義がドイツから持ち込んだジョージ・グロスの手法は、凹天を始め、多くの漫画家、芸術家に影響を与えた。関東大震災(1923年)に遭い、バラック建築の設計にも携わる。代表的なものとして、吉行あぐり(作家の吉行淳之介や女優の吉行和子の母)の美容室。プロレタリア芸術運動に身を投じ、1930年治安維持法違反で検挙される。戦後の1959年には東京芸術家を結成。その後、1960年、1966年と2度にわたり、訪日新劇団団長として訪日。1970年テアトロ演劇賞受賞。横行結腸癌となり、東京代々木病院で亡くなる。
まつやま ふみお 1902年~1982年
漫画家、洋画家、美術評論家。長野県小県郡生まれ。本名は松山文雄。小県大門や尾山大助などのペンネームも用いた。郷土にいた1926年「日本漫畫家聯盟」(略称:漫聯)に入る。洋画家を目指して、1925年本郷研究所出身。同年、岡本一平の知遇を得て、漫画を描き始める。しかし、漫聯にいた村山知義の「芸術家であるより前に社会主義者でなければならない」という主張。同じく漫聯にいたものの、『無産者新聞』(1925年創刊)に漫画を描いて、政治的立場をはっきりさせた柳瀬正夢の影響を受け、プロレタリア芸術運動の影響を受ける。柳瀬正夢の紹介で、「日本プロレタリア芸術連盟」美術部に。1931年日本共産党に入党。1932年治安維持法違反で投獄される。出獄を迎えたのは、柳瀬正夢と彼のふたりの娘。本の装丁家としても有名で、代表として坪井栄『暦』、宮本百合子『三月の第四日曜日』など。戦後の1945年には、日本共産党に再入党。1947年『クマンバチ』創刊に関わる。1980年『まつやまふみおの世界』で、「日本漫画家協会」の審査員特別賞受賞。新宿区代々木病院で亡くなる。
長谷川 如是閑(はせがわ にょぜかん) 1875年~1969年
ジャーナリスト。作家、評論家としても、雑誌『我等』を創刊。大正デモクラシー期の代表的論客。文化勲章受章、文化功労者表彰。明治・大正・昭和期に、新聞記事・評論からエッセイ・戯曲・小説・紀行など幅広いジャンルで約3000本もの作品を世に送り出した。個々人の「生活事実」を思考の立脚点とし、職人の世界を「日本および日本人」(日本の文化的伝統と国民性)の探究をライフワークとした。
清水 勲(しみず いさお) 1939年~
風刺漫画研究家。現在の東京都大田区生まれ。立教大学理学部卒。1963年三省堂に入社して編集者となる。1968年~1983年リーダースダイジェス社勤務。勤務の傍ら、風刺漫画研究に打ち込む。『明治の風刺画家ビゴー』(1982年、新潮社)で第1回高橋邦太郎賞(現・日仏賞)受賞。その他、受賞多数。その後、日本漫画資料館館長、川崎市市民ミュージアム専門研究員、平成帝京大学教授、京都国際マンガミュージアム顧問などを歴任。1992年「日本風刺画史学会」を設立。季刊誌『風刺画研究』は、さまざまな漫画研究の必読書となっている。凹天や同時代に関しても、貴重な資料多数。江戸時代の風刺画に打ち込んでいる。
宮尾 しげを(みやお しげを) 1902年~1982年
漫画家、江戸風俗研究家。東京出身。本名は重男。生家は鼈甲細工(べっこうざいく)を生業(なりわい)とする。岡本一平の最初の弟子。『朝日新聞』に連載した『団子串助漫遊記』がヒットし、それをきっかけに「一平塾」ができる。凹天の死の際には、長老代表として、葬式に出席。心不全のため自宅で亡くなる。
近藤 日出造(こんどう ひでぞう) 1908年~1979年
漫画家。現在の千曲市稲荷山に生まれる。本名は秀蔵。生家は、衣料品・雑貨商を営み、6人兄弟の次男。洋服の空き箱に熱した火鉢をあてて焦がし、絵を描いていたところ、父親から絵を投稿するよう勧められる。『朝日新聞』に入賞し3円をもらう。そこで、上京し、東京美術学校を目指すも、中学校を出ていないため受験資格がないことが判明。後年の負けず嫌いの性格はこの頃から養われた。叔父の親戚に宮尾しげをがおり、「一平塾」に入る。ここで、後の同志となる、横山隆一や杉浦幸雄と出会う。『東京パック』(第四次)でプロデビュー。1932年「新漫畫派集団」の決起人メンバーのひとり。その後、さまざまな団体の創設に関わる。政治風刺漫画の名手。戦後の二科展漫画部創設時には、横山隆一、清水昆とともに選出される。戦後は、対談のホストとして名が知られる。1964年には、「日本漫画家協会」初代理事長に。1974年には、漫画家として初めて、横山隆一とともに紫綬褒章を受章。1979年、肺炎のため、江古田病院で亡くなる。
横山 隆一(よこやま りゅういち) 1909年~2001年
漫画家。高知県高知市に生まれ。東京美術学校を目指したが失敗し、川端龍子学校で学ぶ。当時に、同郷の彫刻家である本山白雲に入門。本山から漫画家になるよう勧められ、漫画家の道に。1932年、近藤日出造や杉浦幸雄などとともに「新漫畫派集団」の決起人メンバーのひとりとなる。ナンセンス漫画の名手。1936年から『東京朝日新聞』で連載し始めた『江戸っ子鍵ちゃん』の脇役だった「フクちゃん」が人気が出るにつれ、主役にする。最初の題は『養子のフクチャン』。近藤日出造、杉浦幸雄とともに、さまざまな団体や雑誌の創刊に関わる。戦後の二科展漫画部創設時には、近藤日出造、清水昆とともに選出される。さまざまな受賞多数。1974年には、漫画家として初めて、近藤日出造とともに紫綬褒章を受章。脳梗塞のため鎌倉市で亡くなる。
杉浦 幸雄(すぎうら ゆきお) 1911年~2004年
漫画家。現在の東京都文京区に生まれる。旧制郁文館中学校出身。すぐに父親のつてで、「一平塾」に入る。ユーモアと独特の色気をたたえたエロマンガで知られる。1932年、近藤日出造や横山隆一などとともに「新漫畫派集団」の決起人メンバーのひとりとなる。漫画では横山隆一、近藤日出造の後塵を拝していたが、ようやく1938年『主婦の友』から出した『銃後のハナ子さん』の大ヒットで、有名になる。戦後もエロマンガを描き続け、1976年「日本漫画家協会」第二代理事長に。1980年、紫綬褒章受章。肺炎のため亡くなる。
黒沢 はじめ(くろさわ はじめ) 1911年~1932年
漫画家。現在の東京都江東区深川に生まれる。本名は、黒澤肇。実家は判子屋。早くから遊廓遊びを覚えた早熟な男。近藤日出造に「近藤、もちろんお前は遊廓に行ったことあねえだろう。女郎買いも出来ねえで、漫画描けるかよ。それで人間てえもんが描けると思ってんのか。おれは吉原に行くと、女郎屋の帳面に、必ずお前の名前をかくことにしてんだ。お前のかわりに、女の勉強に行ってやってるという心意気さ」などと江戸っ子の悪い面が丸出しの性格。森比呂志と並ぶ凹天の高弟である石川進介が「進漫畫派集団」に入った日の宴会で、集団最大の事件を起こす。酔っ払って、まず数寄屋橋交番の上で安木節を踊り、その後、建築中の日劇に登ろうとして、墜落。うめき声を聞いた横山隆一が、当時近くにあった朝日新聞本社に助けを求めて、すぐに朝日新聞の車を使って病院へ。しかし、築地の林病院で息を引きとる。駆けつけた母親は茫然と息子の枕元に座り、近藤日出造に「一人っ子でした」ポツリと一言。
東郷 青児(とうごう せいじ) 1897年~1978年
洋画家。鹿児島市生まれ。本名は鉄春。生後すぐに東京に転居。青山学院中等部出身。竹下夢二が開いた「港屋絵草紙店」に出入りする。1915年、日比谷美術館で初個展。1916年第3回二科展に出した『パラソルさせる女』で二科賞入賞。1921年から1928年まで、フランスのリヨン美術学校で学ぶ。宇野千代との関係は有名だが、他にも多くの女性と浮名を流す。1930年、凹天が主催する『讀賣新聞』漫画部の当初の媒体だった『讀賣サンデー漫画』に数多くの漫画を寄稿。戦後は夢みるような女性像で知られ、一世を風靡(ふうび)した。1957年芸術院受賞。1961年、二科会会長。1969年フランスより、芸術文化賞受賞。1976年、勲二等旭日重光賞授与される。熊本市で心不全のため亡くなる。死後に、文化功労者。
松下 井知夫(まつした いちお) 1910年~1990年
漫画家。東京都に生まれる。本名は市郎。明治大学卒。北澤楽天に師事し、子供向け長編物語漫画家の草分けのひとり。戦後は、近藤日出造、横山隆一、杉浦幸雄らと「漫画集団」を結成し、その中心的メンバーとなる。代表作に『ナマリン王城物語』、『新バクダッドの冒険』など。手塚治虫の媒酌人を務めたことでも知られる。日本語の日常的用法にも関心をもち、日本語の言葉としての魅力を解説した『コトバの原点:アイウエオ』は、NHKなどのマスコミの教材に使われた。
秋好 馨(あきよし かおる) 1912年~1989年
漫画家、画家。東京府(現・東京都)出身。高千穂中学を肺結核で中退。1936年、『東京朝日新聞』朝刊に『フレッシュマン新童君』でデビュー。翌1937年、「新漫畫派集団」に入る。代表作は1941年に『漫画』で連載された『轟先生』。何度も病身のため中断するが、1973年まで、媒体を変えつつ連載を続けた。肺ガンによる呼吸器不全のため、鎌倉の自宅で亡くなる。
手塚 治虫(てづか おさむ) 1928年~1989年
漫画家、アニメーター、アニメーション監督。現在の大阪府豊中市生まれ。本名は治。大阪帝国大学医学部卒。5歳の時に、現在の兵庫県宝塚市に移住。小林十三(こばやし いちぞう)が作った行楽施設の中心に宝塚少年歌劇団(現・宝塚歌劇団)があった。この歌劇団と周りの人工的な風景は、治虫の作品に大きな影響を与えたといわれる。1946年『小国民新聞』に『マアチャンの日記帳』でプロデビュー。1947年に『新寶島』が、当時異例の大ヒット。赤本ブームを起こす。映画的構成とスピーディーな物語展開をもつ『新寶島』は、戦後ストーリー漫画の原点として考えられている。代表作に『鉄腕アトム』、『火の鳥』など。仕事への異常なまでの取り組み、そして後進の育成にも努め、それは今なおトキワ荘伝説として語られる。1963年、日本で初めてテレビで放映された漫画『鉄腕アトム』の翌年には、当時凹天の住む野田市の住処に訪ねたことが記録に残っている。元々、手塚治虫は、凹天の似顔絵のうまさを認めていた。漫画界、アニメ界に大きな足跡を残す。1989年胃がんのため亡くなる。受賞多数。
石井 悌(いしい てい) 1894年~1959年
昆虫学者。東京帝國大学理学部卒。1935年東京高等農林学校教授。病害虫駆除、農業虫、寄生虫の研究を行った。
佐々木邦(ささき くに) 1883年~1964年
作家、英文学者。現在の静岡県駿東郡清水町生まれ。慶応義塾大学予科より明治学院大学卒。釜山の商業学校教諭、第六高等学校(岡山大学)教授、慶応義塾大学教授、明治学院大学教授。1937年『ユーモアクラブ』を作り、ユーモア文学の発展に尽くす。国際マーク・トゥエイン学会名誉会員。1962年紫綬褒章受章。心筋梗塞のため亡くなる。
清水 昆(しみず こん) 1912年~1974年
漫画家。長崎市出身。旧制長崎市立商業高校(現・長崎市立長崎商業高校)卒。結成の翌年から「新漫畫派集団」に入る。1935年『新青年』に『東京千一夜物語』を連載。1953年から、『週刊朝日』で『かっぱ天国』を連載して、人気を博す。このキャラクターは、黄桜酒造(現・黄桜)のテレビCMに採用され、人気がいっそう高まった。このかっぱというキャラクターは後に小島功に受け継がれる。また菓子広告の分野も手がけ、「かっぱえびせん」という名前はその名残である。映画監督の市川崑監督が、清水昆のファンで、「昆」の字はそこから受け継いだとされている。肋膜炎のため亡くなる。
田中 比佐良(たなか ひさら) 1891年~1974年
漫画家、画家。現在の岐阜県御嵩(みたけ)町生まれ。本名は久三。御嵩郵便局や八百津郵便局で勤めながら、独学で絵の勉強を続ける。南画家の松浦天竜に師事し、比佐良の号をもらう。この名前には、日光東照宮の彫刻で有名な左甚五郎に比べても良いという意味が込められている。漫画の投稿を続け、1921年上京して、主婦の友社に。挿絵家として有名になり、特に日本女性の着物美を追求した絵は、多くのファンを作った。1930年、凹天が主催する『讀賣新聞』漫画部に所属。『甘辛新家庭』を連載。美人漫画の名手。戦後は、田中比佐良デザイン研究所を作り、後進の指導にあたった。
北山 清太郎(きたやま せいたろう) 1888年~1945年
和歌山県生まれ。下川凹天、幸内純一とならぶ「日本初のアニメーション作家」のひとり。水彩画家、雑誌編集者、美術雑誌を発刊し、若い画家たちを育てた。アニメの世界に転向後は、北山映画製作所を設立した。
幸内純一(こううち じゅんいち) 1886年~1970年
岡山県生まれ。凹天、北山清太郎とならぶ「日本初のアニメーション作家」のひとり。最初は画家を目指しており、太平洋画会の研究所で学ぶ。そこで、水彩画家の三宅克己から学び、紹介で漫画雑誌『東京パック』(第一次)の同人となり、北澤楽天の門下生として政治漫画を描くようになる。アニメーション『塙凹内名刀之巻(なまくら刀)』を製作。二足のわらじの時代をへて、最終的には政治漫画家として多数の作品を残した。なまくら刀
篠原 鳳作(しのはら ほうさく) 1906年~1936年
本名は篠原国堅。1928年「ホトトギス」に初入選。1929年、東京帝國大學法学部を卒業後、郷里へ。鹿児島県出身の俳人であり、沖縄県立宮古中学校(のちの県立宮古高校)で教鞭をとり、絵画ブームの火付け役となった。鳳作は学生展を開き、発表の場を作った。これらの教え子たちは戦後に宮古島に「二季会」を結成。現在活動を行っている県内で最も歴史のある美術グループとなっている。「俳句に何より必要な物は詩魂のはばたきである」として無季俳句を推進。水原秋桜子をして鳳作を無季陣最高の俳人と言わしめた。句碑が沖縄県宮古島市カママ嶺公園および薩摩半島最南端長崎鼻に建て られている。「蟻よバラを登りつめても陽が遠い」「しんしんと肺碧きまで海の旅」「満天の星に旅ゆくマストあり」
篠原鳳作と二季会/瑞慶山 昇(宮古毎日新聞 ペン遊ペン楽/2014年2月13日より)
【2019/10/09 現在】
森 比呂志(もり ひろし) 1910年~1999年
漫画家。1919年4月25日神奈川県橘樹(たちばな)郡田島村小田(現・川崎市川崎区小田)に生まれ。詳しくは、第3回「下川凹天の弟子 森比呂志の巻 その1」。
慶世村 恒任(きよむら こうにん) 1891年~1929年
大正-昭和時代前期の宮古の郷土史家。代用教員をつとめるかたわら研究し、1927年、宮古初めての通史といわれる「宮古史伝」を刊行した。詳しくは、第1回「宮古研究乃父 慶世村恒任之碑」
芥川 龍之介(あくたがわ りゅうのすけ) 1892年~1927年
小説家。「鼻」「羅生門」「蜘蛛の糸」「芋粥」「藪の中」「地獄変」など。
石牟礼 道子(いしむれ みちこ) 1927年~2018年
小説家、詩人。熊本県天草生まれ。代表作『苦海浄土 わが水俣病』(1969年)。1980年代に、渋谷をパーケジングしたキーパソンのほとり。ナチス協力とされ、第二次世界大戦後に、映画を撮ることを禁止されたレニ・リーフェンシュタール(1902年~2003年)を日本に知らしめた功績者。
宮城 まり子(みやぎ まりこ) 1927年~
歌手・女優・映画監督・福祉事業家。肢体不自由児のための養護施設「ねむの木学園」を設立し、今年で50年を迎える。
堤 清二(つつみ せいじ) 1927年~2013年
実業家、小説家、詩人。筆名は辻井 喬(つじい たかし)。西武の創業者一族。
緒方 貞子(おがた さだこ) 1927年~
国際政治学者。上智大学名誉教授。元国連難民高等弁務官。
藤沢 周平(ふじさわ しゅうへい) 1927年~1997年
時代小説家。1989年に 作家生活全体の功績に対して、第37回菊池寛賞受賞するなど多くの江戸時代の庶民や武士の小説を残した。1995(平成7)年、紫綬褒章受章。
蒋 介石(しょう かいせき) 1887~1975年
1887年、中国・浙江省生まれ。日本留学後、孫文の革命運動に加わり、中国国民党の軍事指導者となるが、共産党との内戦に敗れて49年に台湾に逃れた。
保井 コノ(やすい この) 1880年~1971年
植物学者。日本女性初の理学博士。女性第1号の紫綬褒章。お茶の水女子大学教授。外国の専門誌に載った日本女性初の論文を書いた。
北澤 楽天(きたざわ らくてん) 1876~1955年
漫画家、日本画家。東京市神田区駿河台(現・千代田区駿河台)に生まれ。
近代日本漫画の初期における最重要な漫画家のひとり。下川貞矩(さだのり)は、楽天の最初の弟子で、「凹天」の名付け親。1895年、横浜の週刊英字新聞「ボックス・オブ・キュリオス」社に入社し、欧米漫画の技術を学ぶ。1899年、福沢諭吉が創刊した新聞「時事新報」で漫画記者となる。1905年に、楽天はB4版サイズフルカラーの風刺漫画雑誌『東京パック』(第一次)を創刊。キャプションに、日本語の他に英語および中国語が併記。朝鮮半島や中国大陸、台湾などのアジア各地でも販売された。後進を育て、後年住んでいた大宮市の「楽天居」を大宮市に寄付し、大宮市の名誉市民第1号となる。1966年、大宮市立漫画会館(現・さいたま市立漫画会館)がその場所に設立された。
岡本 一平(おかもと いっぺい) 1886年~1948年
漫画家、作詞家。妻は小説家の岡本かの子。芸術家・岡本太郎の父親。東京美術学校西洋画科に進学。北海道函館区汐見町生まれ。卒業後、帝国劇場で舞台芸術の仕事に携わった後、夏目漱石の強い推薦で、1912年に朝日新聞社に入社。漫画記者となり、「漫画漫文」という独自のスタイルでヒット・メーカーになる。その後、『一平全集』(全15巻・先進社)など大ベストセラーを世に送り出す。漫画家養成の私塾を主宰し、後進を育てた。
麻生 豊(あそう ゆたか) 1898年~1961年
漫画家。現在の大分県宇佐市生まれ。築地工手学校(現・工学院大学)の出身。北澤楽天が主催する「漫画好楽会」を経て、報知新聞社に入社。1922年から『報知新聞』夕刊で四コマ漫画『ノンキナトウサン』を連載する。この作品は、直後に起きた関東大震災や昭和金融恐慌で苦しみにあえいだ庶民のなぐさめとなった。1930年から凹天の主宰する『讀賣新聞』漫画部に所属。『赤ちゃん閣下』を描く。戦後は、銀座にアトリエを構える。晩年は、住まいを浦和市(現・さいたま市)に移し、そこで心不全のため亡くなる。
宍戸 左行(ししど さこう) 1888年~1969年
漫画家。本名は嘉兵衛。現在の福島県伊達郡生まれ。20歳の頃、渡米し洋画を学ぶ。9年ほどいた後、帰国。東京漫畫会に所属。凹天のいた『東京毎夕新聞』や『やまと新聞』、『東京日日新聞』で、政治漫画を描く。1930年から凹天の主宰する『讀賣新聞』漫画部に所属。そこで描いた『スピード・太郎』は、映画的手法を用い、ストーリー漫画の先駆けとなる。その後、凹天の疎開に助力する。現在の東京都世田谷区で、悪性腫瘍のため亡くなる。
柳瀬 正夢(やなせ まさむ) 1900年~1945年
漫画家、画家、デザイナー。本名は正六。現在の愛媛県松山市で生まれる。早熟の天才で、15歳の時、「河と降る光と」が院展に入選。村山知義らとMAVOを結成し、伝法院で展覧会を開く。前衛芸術と同時に、プロレタリア芸術にも目覚め、雑誌『種まく人』に参加。『無産者新聞』に多くの挿絵をペンネームの夏川八朗の名で描く。1930年に、凹天の主宰する『讀賣新聞』漫画部に所属。『金持教育』を連載。1931年日本共産党入党。『赤旗』に挿絵を描く。長谷川如是閑を「中野のおじさん」と呼んで、如是閑からも目をかけられる。1932年に治安維持法違反のため入獄し、拷問を受ける。1945年に新宿駅西口で空襲のため戦災死。
小野 佐世男(おのさせお) 1905年~1954年
漫画家、画家、随筆家、小説家。現在の神奈川県横浜市生まれ。父親の鉄吉が鉄道施設を請け負う建築家で、当時最西端の佐世保駅にちなんで、そう名づけられた。東京美術学校出身。『東京パック』(第四次)、『日曜報知』などに寄稿。陸軍報道班員として、台湾、インドネシアに従軍。エロマンガの分野では、杉浦幸雄と双璧とされる。戦後の1951年には、近藤日出造、清水昆とともに二科展漫画部の創設に関わる。マリリン・モンロー、ジョー・ディマジオ夫妻来日を待機している最中、心臓発作のため有楽町日劇ミュージック・ホール内で倒れ、千代田区駿河台日本大学病院(現・日本大学病院)で亡くなる。
須山 計一(すやま けいいち) 1905年~1975年
漫画家、漫画史家。現在の長野県伊那市に生まれ。東京美術学校出身。『無産者新聞』に漫画を連載。1933年、治安維持法違反で検挙される。戦後は、漫画史研究の第一人者とされ、『漫画100年』(1956年、鱒書房)、『日本漫画100年 西洋ポンチからSFまで』(1968年、芳賀書店)など一連の漫画史研究は、同時代人の知己も多いだけに、漫画研究者の貴重な資料となっている。現在の世田谷区奥沢で脳溢血のため亡くなる。
村山 和義(むらやま ともよし) 1901年~1977年
画家、小説家、デザイナー、ダンサー、建築家。神田区(現・千代田区)生まれ。東京帝国大学を中退後、ベルリン大学(現・フンボルト大学)に学ぶ。柳瀬正夢、尾形亀之助らとMAVO結成。前衛派の旗手となる。また、知義がドイツから持ち込んだジョージ・グロスの手法は、凹天を始め、多くの漫画家、芸術家に影響を与えた。関東大震災(1923年)に遭い、バラック建築の設計にも携わる。代表的なものとして、吉行あぐり(作家の吉行淳之介や女優の吉行和子の母)の美容室。プロレタリア芸術運動に身を投じ、1930年治安維持法違反で検挙される。戦後の1959年には東京芸術家を結成。その後、1960年、1966年と2度にわたり、訪日新劇団団長として訪日。1970年テアトロ演劇賞受賞。横行結腸癌となり、東京代々木病院で亡くなる。
まつやま ふみお 1902年~1982年
漫画家、洋画家、美術評論家。長野県小県郡生まれ。本名は松山文雄。小県大門や尾山大助などのペンネームも用いた。郷土にいた1926年「日本漫畫家聯盟」(略称:漫聯)に入る。洋画家を目指して、1925年本郷研究所出身。同年、岡本一平の知遇を得て、漫画を描き始める。しかし、漫聯にいた村山知義の「芸術家であるより前に社会主義者でなければならない」という主張。同じく漫聯にいたものの、『無産者新聞』(1925年創刊)に漫画を描いて、政治的立場をはっきりさせた柳瀬正夢の影響を受け、プロレタリア芸術運動の影響を受ける。柳瀬正夢の紹介で、「日本プロレタリア芸術連盟」美術部に。1931年日本共産党に入党。1932年治安維持法違反で投獄される。出獄を迎えたのは、柳瀬正夢と彼のふたりの娘。本の装丁家としても有名で、代表として坪井栄『暦』、宮本百合子『三月の第四日曜日』など。戦後の1945年には、日本共産党に再入党。1947年『クマンバチ』創刊に関わる。1980年『まつやまふみおの世界』で、「日本漫画家協会」の審査員特別賞受賞。新宿区代々木病院で亡くなる。
長谷川 如是閑(はせがわ にょぜかん) 1875年~1969年
ジャーナリスト。作家、評論家としても、雑誌『我等』を創刊。大正デモクラシー期の代表的論客。文化勲章受章、文化功労者表彰。明治・大正・昭和期に、新聞記事・評論からエッセイ・戯曲・小説・紀行など幅広いジャンルで約3000本もの作品を世に送り出した。個々人の「生活事実」を思考の立脚点とし、職人の世界を「日本および日本人」(日本の文化的伝統と国民性)の探究をライフワークとした。
清水 勲(しみず いさお) 1939年~
風刺漫画研究家。現在の東京都大田区生まれ。立教大学理学部卒。1963年三省堂に入社して編集者となる。1968年~1983年リーダースダイジェス社勤務。勤務の傍ら、風刺漫画研究に打ち込む。『明治の風刺画家ビゴー』(1982年、新潮社)で第1回高橋邦太郎賞(現・日仏賞)受賞。その他、受賞多数。その後、日本漫画資料館館長、川崎市市民ミュージアム専門研究員、平成帝京大学教授、京都国際マンガミュージアム顧問などを歴任。1992年「日本風刺画史学会」を設立。季刊誌『風刺画研究』は、さまざまな漫画研究の必読書となっている。凹天や同時代に関しても、貴重な資料多数。江戸時代の風刺画に打ち込んでいる。
宮尾 しげを(みやお しげを) 1902年~1982年
漫画家、江戸風俗研究家。東京出身。本名は重男。生家は鼈甲細工(べっこうざいく)を生業(なりわい)とする。岡本一平の最初の弟子。『朝日新聞』に連載した『団子串助漫遊記』がヒットし、それをきっかけに「一平塾」ができる。凹天の死の際には、長老代表として、葬式に出席。心不全のため自宅で亡くなる。
近藤 日出造(こんどう ひでぞう) 1908年~1979年
漫画家。現在の千曲市稲荷山に生まれる。本名は秀蔵。生家は、衣料品・雑貨商を営み、6人兄弟の次男。洋服の空き箱に熱した火鉢をあてて焦がし、絵を描いていたところ、父親から絵を投稿するよう勧められる。『朝日新聞』に入賞し3円をもらう。そこで、上京し、東京美術学校を目指すも、中学校を出ていないため受験資格がないことが判明。後年の負けず嫌いの性格はこの頃から養われた。叔父の親戚に宮尾しげをがおり、「一平塾」に入る。ここで、後の同志となる、横山隆一や杉浦幸雄と出会う。『東京パック』(第四次)でプロデビュー。1932年「新漫畫派集団」の決起人メンバーのひとり。その後、さまざまな団体の創設に関わる。政治風刺漫画の名手。戦後の二科展漫画部創設時には、横山隆一、清水昆とともに選出される。戦後は、対談のホストとして名が知られる。1964年には、「日本漫画家協会」初代理事長に。1974年には、漫画家として初めて、横山隆一とともに紫綬褒章を受章。1979年、肺炎のため、江古田病院で亡くなる。
横山 隆一(よこやま りゅういち) 1909年~2001年
漫画家。高知県高知市に生まれ。東京美術学校を目指したが失敗し、川端龍子学校で学ぶ。当時に、同郷の彫刻家である本山白雲に入門。本山から漫画家になるよう勧められ、漫画家の道に。1932年、近藤日出造や杉浦幸雄などとともに「新漫畫派集団」の決起人メンバーのひとりとなる。ナンセンス漫画の名手。1936年から『東京朝日新聞』で連載し始めた『江戸っ子鍵ちゃん』の脇役だった「フクちゃん」が人気が出るにつれ、主役にする。最初の題は『養子のフクチャン』。近藤日出造、杉浦幸雄とともに、さまざまな団体や雑誌の創刊に関わる。戦後の二科展漫画部創設時には、近藤日出造、清水昆とともに選出される。さまざまな受賞多数。1974年には、漫画家として初めて、近藤日出造とともに紫綬褒章を受章。脳梗塞のため鎌倉市で亡くなる。
杉浦 幸雄(すぎうら ゆきお) 1911年~2004年
漫画家。現在の東京都文京区に生まれる。旧制郁文館中学校出身。すぐに父親のつてで、「一平塾」に入る。ユーモアと独特の色気をたたえたエロマンガで知られる。1932年、近藤日出造や横山隆一などとともに「新漫畫派集団」の決起人メンバーのひとりとなる。漫画では横山隆一、近藤日出造の後塵を拝していたが、ようやく1938年『主婦の友』から出した『銃後のハナ子さん』の大ヒットで、有名になる。戦後もエロマンガを描き続け、1976年「日本漫画家協会」第二代理事長に。1980年、紫綬褒章受章。肺炎のため亡くなる。
黒沢 はじめ(くろさわ はじめ) 1911年~1932年
漫画家。現在の東京都江東区深川に生まれる。本名は、黒澤肇。実家は判子屋。早くから遊廓遊びを覚えた早熟な男。近藤日出造に「近藤、もちろんお前は遊廓に行ったことあねえだろう。女郎買いも出来ねえで、漫画描けるかよ。それで人間てえもんが描けると思ってんのか。おれは吉原に行くと、女郎屋の帳面に、必ずお前の名前をかくことにしてんだ。お前のかわりに、女の勉強に行ってやってるという心意気さ」などと江戸っ子の悪い面が丸出しの性格。森比呂志と並ぶ凹天の高弟である石川進介が「進漫畫派集団」に入った日の宴会で、集団最大の事件を起こす。酔っ払って、まず数寄屋橋交番の上で安木節を踊り、その後、建築中の日劇に登ろうとして、墜落。うめき声を聞いた横山隆一が、当時近くにあった朝日新聞本社に助けを求めて、すぐに朝日新聞の車を使って病院へ。しかし、築地の林病院で息を引きとる。駆けつけた母親は茫然と息子の枕元に座り、近藤日出造に「一人っ子でした」ポツリと一言。
東郷 青児(とうごう せいじ) 1897年~1978年
洋画家。鹿児島市生まれ。本名は鉄春。生後すぐに東京に転居。青山学院中等部出身。竹下夢二が開いた「港屋絵草紙店」に出入りする。1915年、日比谷美術館で初個展。1916年第3回二科展に出した『パラソルさせる女』で二科賞入賞。1921年から1928年まで、フランスのリヨン美術学校で学ぶ。宇野千代との関係は有名だが、他にも多くの女性と浮名を流す。1930年、凹天が主催する『讀賣新聞』漫画部の当初の媒体だった『讀賣サンデー漫画』に数多くの漫画を寄稿。戦後は夢みるような女性像で知られ、一世を風靡(ふうび)した。1957年芸術院受賞。1961年、二科会会長。1969年フランスより、芸術文化賞受賞。1976年、勲二等旭日重光賞授与される。熊本市で心不全のため亡くなる。死後に、文化功労者。
松下 井知夫(まつした いちお) 1910年~1990年
漫画家。東京都に生まれる。本名は市郎。明治大学卒。北澤楽天に師事し、子供向け長編物語漫画家の草分けのひとり。戦後は、近藤日出造、横山隆一、杉浦幸雄らと「漫画集団」を結成し、その中心的メンバーとなる。代表作に『ナマリン王城物語』、『新バクダッドの冒険』など。手塚治虫の媒酌人を務めたことでも知られる。日本語の日常的用法にも関心をもち、日本語の言葉としての魅力を解説した『コトバの原点:アイウエオ』は、NHKなどのマスコミの教材に使われた。
秋好 馨(あきよし かおる) 1912年~1989年
漫画家、画家。東京府(現・東京都)出身。高千穂中学を肺結核で中退。1936年、『東京朝日新聞』朝刊に『フレッシュマン新童君』でデビュー。翌1937年、「新漫畫派集団」に入る。代表作は1941年に『漫画』で連載された『轟先生』。何度も病身のため中断するが、1973年まで、媒体を変えつつ連載を続けた。肺ガンによる呼吸器不全のため、鎌倉の自宅で亡くなる。
手塚 治虫(てづか おさむ) 1928年~1989年
漫画家、アニメーター、アニメーション監督。現在の大阪府豊中市生まれ。本名は治。大阪帝国大学医学部卒。5歳の時に、現在の兵庫県宝塚市に移住。小林十三(こばやし いちぞう)が作った行楽施設の中心に宝塚少年歌劇団(現・宝塚歌劇団)があった。この歌劇団と周りの人工的な風景は、治虫の作品に大きな影響を与えたといわれる。1946年『小国民新聞』に『マアチャンの日記帳』でプロデビュー。1947年に『新寶島』が、当時異例の大ヒット。赤本ブームを起こす。映画的構成とスピーディーな物語展開をもつ『新寶島』は、戦後ストーリー漫画の原点として考えられている。代表作に『鉄腕アトム』、『火の鳥』など。仕事への異常なまでの取り組み、そして後進の育成にも努め、それは今なおトキワ荘伝説として語られる。1963年、日本で初めてテレビで放映された漫画『鉄腕アトム』の翌年には、当時凹天の住む野田市の住処に訪ねたことが記録に残っている。元々、手塚治虫は、凹天の似顔絵のうまさを認めていた。漫画界、アニメ界に大きな足跡を残す。1989年胃がんのため亡くなる。受賞多数。
石井 悌(いしい てい) 1894年~1959年
昆虫学者。東京帝國大学理学部卒。1935年東京高等農林学校教授。病害虫駆除、農業虫、寄生虫の研究を行った。
佐々木邦(ささき くに) 1883年~1964年
作家、英文学者。現在の静岡県駿東郡清水町生まれ。慶応義塾大学予科より明治学院大学卒。釜山の商業学校教諭、第六高等学校(岡山大学)教授、慶応義塾大学教授、明治学院大学教授。1937年『ユーモアクラブ』を作り、ユーモア文学の発展に尽くす。国際マーク・トゥエイン学会名誉会員。1962年紫綬褒章受章。心筋梗塞のため亡くなる。
清水 昆(しみず こん) 1912年~1974年
漫画家。長崎市出身。旧制長崎市立商業高校(現・長崎市立長崎商業高校)卒。結成の翌年から「新漫畫派集団」に入る。1935年『新青年』に『東京千一夜物語』を連載。1953年から、『週刊朝日』で『かっぱ天国』を連載して、人気を博す。このキャラクターは、黄桜酒造(現・黄桜)のテレビCMに採用され、人気がいっそう高まった。このかっぱというキャラクターは後に小島功に受け継がれる。また菓子広告の分野も手がけ、「かっぱえびせん」という名前はその名残である。映画監督の市川崑監督が、清水昆のファンで、「昆」の字はそこから受け継いだとされている。肋膜炎のため亡くなる。
田中 比佐良(たなか ひさら) 1891年~1974年
漫画家、画家。現在の岐阜県御嵩(みたけ)町生まれ。本名は久三。御嵩郵便局や八百津郵便局で勤めながら、独学で絵の勉強を続ける。南画家の松浦天竜に師事し、比佐良の号をもらう。この名前には、日光東照宮の彫刻で有名な左甚五郎に比べても良いという意味が込められている。漫画の投稿を続け、1921年上京して、主婦の友社に。挿絵家として有名になり、特に日本女性の着物美を追求した絵は、多くのファンを作った。1930年、凹天が主催する『讀賣新聞』漫画部に所属。『甘辛新家庭』を連載。美人漫画の名手。戦後は、田中比佐良デザイン研究所を作り、後進の指導にあたった。
北山 清太郎(きたやま せいたろう) 1888年~1945年
和歌山県生まれ。下川凹天、幸内純一とならぶ「日本初のアニメーション作家」のひとり。水彩画家、雑誌編集者、美術雑誌を発刊し、若い画家たちを育てた。アニメの世界に転向後は、北山映画製作所を設立した。
幸内純一(こううち じゅんいち) 1886年~1970年
岡山県生まれ。凹天、北山清太郎とならぶ「日本初のアニメーション作家」のひとり。最初は画家を目指しており、太平洋画会の研究所で学ぶ。そこで、水彩画家の三宅克己から学び、紹介で漫画雑誌『東京パック』(第一次)の同人となり、北澤楽天の門下生として政治漫画を描くようになる。アニメーション『塙凹内名刀之巻(なまくら刀)』を製作。二足のわらじの時代をへて、最終的には政治漫画家として多数の作品を残した。なまくら刀
篠原 鳳作(しのはら ほうさく) 1906年~1936年
本名は篠原国堅。1928年「ホトトギス」に初入選。1929年、東京帝國大學法学部を卒業後、郷里へ。鹿児島県出身の俳人であり、沖縄県立宮古中学校(のちの県立宮古高校)で教鞭をとり、絵画ブームの火付け役となった。鳳作は学生展を開き、発表の場を作った。これらの教え子たちは戦後に宮古島に「二季会」を結成。現在活動を行っている県内で最も歴史のある美術グループとなっている。「俳句に何より必要な物は詩魂のはばたきである」として無季俳句を推進。水原秋桜子をして鳳作を無季陣最高の俳人と言わしめた。句碑が沖縄県宮古島市カママ嶺公園および薩摩半島最南端長崎鼻に建て られている。「蟻よバラを登りつめても陽が遠い」「しんしんと肺碧きまで海の旅」「満天の星に旅ゆくマストあり」
篠原鳳作と二季会/瑞慶山 昇(宮古毎日新聞 ペン遊ペン楽/2014年2月13日より)
【2019/10/09 現在】
Posted by atalas at 12:00│Comments(0)
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