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2016年03月29日

第76回 「新宮古建設の歌」

第76回 「新宮古建設の歌」

友利實功氏生誕地の碑を受けて、インギャーマリンガーデンの「なりやまあやぐ発祥の地」の碑から始まった歌碑シリーズ。「とうがにあやぐ」でカママ嶺へ場所を移して、篠原鳳作平良雅景平良好児と俳句や短歌を綴り、海を渡って佐良浜港の垣花良香を経て、池間島の池間行進曲へと続きました。ふた月も続いたぺらっべらな薄識が贈る歌碑シリーズも、今回でひとまずの最終回。最後を飾るのは、ドイツ村の片隅にある「新宮古建設の歌」です。
第76回 「新宮古建設の歌」

「新宮古建設の歌」は終戦直後の1947(昭和23)年8月に宮古民政府が、産業復興、秩序回復の標榜とすべく公募したもので、戦争で荒廃した島の人々の中に、忘れかけていた郷土愛が目覚め、希望と使命に躍動し、士気の高い理想郷の建設に熱く燃える歌が生まれました。
作詞:仲元銀太郎 作曲:豊見山恵永


はるかな海の彼方から ひたひた寄せる潮の音は
夜明けの港・漲水に 愛と信義を誓う歌


若い血潮は紅の でいごの花が咲くように
胸にあふれて新生の 高い理想に躍るのだ


迷いの雲がかかったら 友よいっしょに払いよけ
真澄の月の清らかな 太平山を築くのだ


苦難の道は続いても スクラム組んで僕たちは
意気高らかに建設の 希望に燃えて進むのだ


嵐に耐えた白百合の 香りも高い新宮古
築く使命を負う友よ 愛と信義に強く立て
作詞をした仲元銀太郎についてはあまり詳しいこを掴むことはできませんでしたが、銀太郎は上野村の出身で、「えんどうの花」を作詞した金城栄治の教え子であるということが判りました。金城の影響があったとはさすがに考えにくいですが、銀太郎は後に国語科教師となり、戦後の混乱期中、新しい世に向けた教育プログラムをいち早く立ち上げようと、宮古島独自の教科書を作る作業に尽力した人たちの中に、その名を連ねていたようです。
また、1948(昭和23)年開校の砂川中学校(当時の名称は城南中学校。1949年に西城中と砂川中に独立)で初代の教頭(社会と音楽を担当)を勤め、銀太郎は砂川中学校の校歌を作詞してます。

一方、作曲を担当した豊見山恵永についは、平良市史(八巻資料編)に記録が残っていました。恵永は1911(明治44)年平良村西里に生まれ、沖縄県師範学校を卒業後、福嶺小を皮切りに島内の小学校で音楽の教師として勤めていましたが、1938(昭和13)年に音楽教育研究のために大阪へ渡り、現地の小学校に勤務しながら大阪音楽学校専科(夜間)で声楽と作曲を学びます。1943(昭和18)年に帰沖した恵永は那覇国民小学校を経て宮古へ戻ると、小中学校のみならず高校の音楽教師をも勤めます。
圧巻なのは、伊良部小、西城小、上野小、宮原小、平良中、鏡原中、城辺中、上野中、伊良部中の各学校の校歌を作曲しています。また、平良市歌や城辺町歌などの作曲も手がけています。極めつけは平良小年少女合唱団を結成・指導をしていおり、新宮古建設の歌も含めて、もしかすると恵永が生み出した「恵永メロディー」を、全島民が一度は歌っているのではないかと妄想してしまいたくなるくらいの活躍をされています。尚、1981(昭和56)年、70歳で亡くなっています。

歌碑は「新宮古建設の歌」碑建立期成会によって、1994(平成6)年3月に、うえのドイツ文化村のドイツ商船遭難の地の碑の裏手、旧・博愛パレスへ続く博愛橋のたもとに建立されています。

【参考資料】
沖縄に花 ~在りし日の「えんどう畑の風景」への憶い~
沖縄・宮古島における戦後初期国語教科書の研究(広島大学紀要 吉田裕久) ※pdfです
※終戦直後、教科書を作りに奔走する宮古人の話は、とても興味深いです(長め)。
「みやこ少年少女合唱団」歌い継いで35年/宮古毎日新聞2010年1月24日




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